第2章 戦後ドイツの極右勢力の歴史的変遷



 はじめに

 今日ドイツにおいて活躍している極右政党やネオナチ・グループは、最近になって登場してきたのではなく、それなりのルーツもっている。そのルーツをさかのぼり、かつての極右勢力の登場・伸張・後退の跡をたどっておくことは、今日の極右勢力の特質を理解し、その運命を考えるためにも必要であろう。
 このような意味で、本章ではドイツにおける極右・ネオナチのルーツをたどろうとするのであるが、その今日に至るまでの歴史はおおむね(1)終戦〜1960年代末(2)1970年代〜80年後半(3)1980年代末・東西ドイツ統一以降の3つの時期に区分できる。(1)はナチスの残党が活躍し、ナチスとの連続性が認められる時期である。そして(2)の時期から、戦後生まれの、いわゆる「ヒトラーを知らない世代」が登場してきて、それらの若者の中にネオナチと呼ばれる非合法的暴力に走ったり、反ユダヤやナチス賛美の言動を行うグループ・集団の支持基盤が形成され始める。(3)の時期になると「東西ドイツの統一」や「ヨーロッパのグローバル化」といった、新しい社会状況のもとで生じたさまざまなファクターによって、極右勢力は自らの性格・活動をその時代に適応させていく。



 (1)終戦〜1960年代末

 敗戦から1950年代、60年代までは、まだ元ナチス関係者が社会の各分野で活躍していた。戦後、連合諸国は「非ナチ化」政策を行い、ナチス関係者を審査し公職追放したりしたが、膨大な対象者を処理しきれず、戦後数年のうちに恩赦や無罪とされた元ナチス関係者は数百万人におよんだ。 
 また、旧西ドイツの国家的再建の過程で、元ナチス関係者たちが、官僚機構の中にかなり登用された。例えば、戦時中、ナチス・ドイツ軍参謀本部の諜報機関=「外国軍隊・東方」課の責任者であったラインハルト・ゲーレン将軍は、戦後はアメリカCIA(中央情報局)の設立にあたり、影の主役を務めていたという。彼が旧西ドイツに創った私設「ゲーレン機関」は1945年以降、アメリカの資金援助を受け、主に東側地域の情報収集にあたっていたが、56年にアデナウアー政権の首相官房の監督下におかれた連邦情報局となり、対外的情報宣伝の仕事を扱うようになった。さらに、ユダヤ人差別を合法化するために35年に制定された「ニュルンベルク人種法」のコメンタールを書いたハンス・グロプケも、アデナウアー内閣の官房長官を務め、やがてはローマ教皇ピオ12世の謁見まで受けたのである。
 また、1951年に発足した外務省では、公務員の約66%が旧ナチス党員によって占められていて、同じ年にはナチス期の活動が理由で公務から罷免された約15万人が、恩給を請求できたり、再び公務につく可能性を認められるようにまでなった。
 たしかに、官僚機構の再建のためには専門知識が豊富で、ある程度経験を積んだ職員を必要としたであろう。そうしたこともあって、第1章で述べたように連合諸国主導の「非ナチ化」政策は名ばかりで、旧ナチス関係者を徹底的に排除することにはならなかった。このように元ナチスが人的に厚い層をなして残存したことが、極右勢力の人的ルーツとなっていくのである。
 こうした元ナチス関係者の一部が極右の政党やグループを結成していくうえで、その社会的基盤を提供したのは、敗戦直後に百数十万にものぼった失業者や東欧・旧東ドイツからの1000万人近い難民であった。特に後者は旧ソ連によって追放されたり旧東ドイツの土地改革によって所有地を失った人びとであり、彼らの中には、社会主義に対する深い怨念と強烈な反共主義が鬱積していた。
 こうして、彼らを基盤にして多数の極右政党が元ナチス党員の活動家によって結成された。それらは離合集散し、人脈も重なり合い、その動向は極めて複雑であったが、その諸政党の中の代表的存在は「社会主義帝国党」であった。この党は1949年に結成され、元ナチス党員を結集するために、イデオロギーの点でも組織体制の点でもナチスとの多くの共通性をもっていた。その行動綱領をみてみると、「あらゆるドイツ人を、一つの統一国家に統合することを要求する」といったナショナリズムの強調とともに、ナチズムを連想させる「民族を基盤とした社会主義」が訴えられていることがわかる。51年のニーダーザクセン州議会選挙では得票率11%で158議席中16議席を、ブレーメン市でも得票率7.7%を獲得し、その存在感を大きく示した。ところが、ほどなく連邦憲法裁判所(最高裁判所)がこの党の違憲性を審理することになった。旧西ドイツ基本法(憲法)では、その第21条第2項で「政党で、その目的または党員の行動が自由で民主的な基本秩序を侵害もしくは除去し、または、ドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指すものは、違憲である。違憲の問題については、連邦憲法裁判所が決定する。」と定めていた。52年10月23日、以下のような判決が下された。


「社会主義帝国党がナチ党の後継組織たることを自認していることは、大半が元ナチ党員によって占められている指導部の人的構成の点からも、元ナチ党員を党メンバーに獲得しようと努めている点からも、……ヒトラーを公然と賛美している点からも、明白である。」


 こうして社会主義帝国党は憲法違反とされ、禁止されるに至った。こうした極右政党の禁圧の背景には、言うまでもなくナチス時代の非人道的行為に対する内外の厳しい世論があったが、それに加え、旧西ドイツ国家の発足にあたり、かつてナチスやドイツ共産党という「反体制政党」の自由を認めてきたことが、ヴァイマール共和制期の議会制民主主義を崩壊へと導いた原因と考えられていたことがあった。そのような見地からナチス期を反省した結果として、旧西ドイツと統一ドイツの民主主義は左右両翼に対して毅然とした態度で立ち向かう「戦う民主主義」(streitbare Demokratie)と称せられているのだが、社会主義帝国党の禁止はまさにこの「戦う民主主義」の結果なのである。
 その後も、例えば1961〜62年の1年間には、約400万件の極右政党・グループの活動禁止や出版物の発禁処分が行われている。52〜60年代初頭までは、極右勢力にとっては「冬の時代」であったのだ。
 極右勢力にとって「冬の時代」であった1950年代にも、組織的再結集の試みが繰り返され、64年、分散化し孤立した極右勢力の結集体として「ドイツ国家民主党」が創立された。この党は今日でも健在している、最も古い極右政党である。
 ドイツ国家民主党は活動するにあたり、社会主義帝国党のように禁止・解散の憂き目を見るのを避けるために、ナチス的なものという疑いをもたれないこと、そして広範な有権者層を引きつけることを計算に入れた。しかしその基本的政策としては、米ソによるドイツ分割に反対し、ズデーデン地方やポーランド領となっている旧東部ドイツなど、かつてのナチス時代の「失われた領土」の復帰を表明しており、その極右的志向は明白である。さらに、「外国資本による経済の過度の外国化に反対」「ドイツ農業の保護と時給自足体制の確立」「外国人労働者に対するドイツ人労働者の職場確保」「すべての教育の基礎は民族と祖国、家族と郷土への自然な結びつきにある」などナチス張りの主張がなされ、加えてナチス戦争犯罪に対する大赦も要求されている。
 そればかりでなく、党の人的構成の点でも元ナチス関係者との関係が色濃く現れていた。1967年当時は党員2万5000人と言われたが、このうち旧ナチス党員は、下部党員では35%、地区・郡レベルの党役員では46%、県レベルの党役員では66%、全国幹部会メンバーでは67%(18名中12人)を占めていた。
 さて、このドイツ国家民主党が内外の注目を浴びたのは、1966〜68年の旧西ドイツ各州議会選挙における進出でであった。
 ドイツ国家民主党は1965年9月の連邦議会総選挙では得票率わずか2%で、「5%条項」によって1議席も得られなかったが〔6〕、表2にみられるように、66年11月から68年4月までの7つの州議会選挙においては、得票率5.8〜9.8%で総計61議席を占めるに至った。こうしたドイツ国家民主党の進出は旧西ドイツの内外に再びナチスが台頭したかのような衝撃的な印象を与えた。




表2 旧西ドイツ州議会選挙の党派別得票率 (%)(1966−70)〔7〕


 それではいったい、何がドイツ国家民主党の一時的進出をもたらしたのであろうか。第一に、この時期は「経済の奇跡」と言われた経済成長ののちの最初の不況期(1966〜67年)であり、失業者が67万人に達していたことが挙げられる。この時期とドイツ国家民主党の進出期とはほぼ重なっている。この不況局面から脱出するのは68年中ごろで、それはドイツ国家民主党の後退期にあたっている。
 第二に、1966年10月、それまで続いていたキリスト教民主同盟(245議席)と自由民主党(49議席)との連立政権が、自由民主党の離脱によって崩れ、キリスト教民主同盟と社会民主党(202議席)との大連立が発足したことがあった。この大連立政権の成立は、2つの与党によって連邦議会の全議席数約90%を占めることになり、事実上、野党不在の状況を生み出したのである。この大連立政権の時期、66〜69年こそドイツ国家民主党の進出の時期であった。ところが、69年10月に大連立が崩れ、ドイツ社会民主党と第3党の自由民主党の連立政権が成立し、キリスト教民主同盟という強力な保守派野党が存在するようになった。そして両陣営の激しい争覇戦が展開されるようになると、保守的な有権者たちは現状不満のはけ口を、ドイツ国家民主党のような小党よりも、キリスト教民主同盟の方へ求めていき、もはやドイツ国家民主党の食いこむ余地は大きくせばめられた。
 こうして、ドイツ国家民主党はその影響力を急速に失っていき、党員数も1969年には2万8000人であったのが、72年は1万4500人、78年は8500人と激減し、表2に示したように、70年代6月の3つの州議会選挙において、いずれも得票率4%さえ超えられず敗北した。
 このようにみてくると、ドイツ国家民主党のような極右勢力が進出できる条件としては、失業者が多数いるなど経済が不況状態であり、それに加えて、保守的な有権者の現状不満を吸収できる保守派野党が不在であることが考えられる。



 (2)1970年代〜80年代後半

 ドイツ国家民主党後退の時期に、一方ではそれまで組織の中心をなしていた旧ナチス党員の活動家がその活動の限界を迎えつつあり、他方では戦後の高度経済成長の中で育ち、ナチスの蛮行に対する罪の意識も感じることもない、いわゆる「ヒトラーを知らない世代」が社会的に活躍するようになり、ネオナチなどの極右グループの新しい支持基盤を形成し始める。このように考えると、1970年代初頭が極右勢力の歴史における一つの分水嶺と言えよう。
 (1)の時期では極右政党が目立ったのに比べ、この時期は「ヒトラーを知らない世代」が主たる構成員になっているネオナチ・グループの伸張が顕著になってくるのだが、ここであらためて極右政党とネオナチの一般的な性格を定義してみようと思う。前者は連邦憲法裁判所の違憲判決を受けないようにし、合法的な選挙という舞台で得票と議席の獲得をめざず限り、ナチス的な言動を控えたり、隠したりするなどその活動にある程度の抑制が伴う。その一方で、ネオナチは議会に足場を築くことを考えず、非合法的暴力に走ったり、ナチス賛美や反ユダヤ主義的な言動を先鋭的に行うのである。
 さて、1970年代に入ると、ドイツ国家民主党の敗北や東側との和解を進展させたヴィリー・ブラント首相(ドイツ社会民主党)の「東方外交」に対する怒り、次章で詳述する「ヒトラー・ブーム」などが大きく影響し、厳格に組織化されたネオナチが現れてくる。そしてたびたび爆薬を用いた暴力事件を起こしたり、ユダヤ人の墓にハーケンクロイツ(鉤十字)の落書きするなどの不法行為を敢行している。
 その代表的なグループの一つが「ホフマン国防スポーツ団」である。この組織は準軍事的組織として1974年に結成された。創設者は広告デザイナーのカール・ハインツ・ホフマンで、彼のもとに14〜25歳の青少年約600人が集結していた。彼らはナチス風の服装をし、スポーツの名のもとに軍事訓練に励み、全体主義的国家を暴力的方法で実現しようとしたが、80年に連邦内務省によって法的に禁止された。




凌辱されたユダヤ人墓地〔8〕


 ホフマンは1937年生まれで、組織の中心人物がナチスの政治的影響を直接には受けていない点、また準軍事行動をとっていた点で、元ナチス党員が主導権をもっていた極右勢力とは異なる、新しいタイプの組織の登場をここにみることができる。
 このホフマンとならんで注目を集めていたのは元旧西ドイツ国防軍少尉のミヒャエル・キューネンであった。彼は1955年生まれなので、まさに「ヒトラーを知らない世代」であった。77年、彼は「国民的社会主義者行動戦線」を結成する。79年、キューネンはナチ・パルチザン部隊(ナチスの精鋭を選び、鍛え抜いた特殊ゲリラ部隊)の生き残り地下組織とともに政府に対する反乱を企てたかどで裁判にかけられ、人種憎悪・ナチズムの宣伝や扇動を理由に、禁固4年の刑を言い渡された。
 キューネンはネオナチ陣営における宣伝家として際立った存在であった。彼は自己の組織を誇示するために、テレビ、雑誌、新聞などのインタビューを大いに利用した。さらに彼はナチスの正式名称と同じ「国家社会主義ドイツ労働者党/外国・上構組織」(NSDAP/AO)と連帯し、自分の思想の頒布を企図した。この組織は、ドイツ系アメリカ人ゲイリー・レックス・ロウク(1953年生まれ)が、アメリカのネブラスカ州を本拠地として結成したもので、73年以来、旧西ドイツ各地にこの組織の機関紙『ナチス−戦いの声』という新聞が出まわるようになった。ロウクはナチス的なスローガンをポスターにして、ヨーロッパ、特にドイツに送り込んだりもした。また74年10月、ロウクはハンブルクでのネオナチ集会で、ネオナチの戦闘集団を組織して旧西ドイツ政府を打倒する闘争を呼びかけたこともあった。キューネンの論文はこのNSDAP/AOの『ナチス−戦いの声』にいくども掲載されたし、逆にキューネンが自分の思想の特質を綴った『第二革命』はロウクによって印刷され、書物にされたのである。このようにキューネンは世代的にも活動の内容・スタイルにおいても新しいタイプの極右の人物であった。
 これ以外にも「ヒトラーを知らない世代」を中心に構成された群小のネオナチ組織が存在していたが、その活動で注目すべきは、特に80年代において全体としては一連のテロ・暴力行為が伴っていたということである。
 中でも衝撃的なのは、1980年9月26日に起こった「オクトーバー・フェスト事件」である。その日の夜、ミュンヘンの有名なビール祭「オクトーバー・フェスト」の会場が爆破され、死亡13名、重軽傷219名の犠牲者が出た。死者の中には犯人と断定された21歳のネオナチ学生グンドルフ・ケーラーもいた。
 そのほかにもいくつか事件が起こっている。例えば、「オクトーバー・フェスト事件」と同じ1980年の12月24日、ネオナチ組織「ドイツ民族主義運動/労働の党」(71年創立)のメンバーで23歳のフランツ・シューベルトが仲間とともに、スイスから旧西ドイツに武器を密輸入しようとしたとき、スイス国境官と撃ち合いになった。結果、スイス側に死者2名、負傷者2名が出て、シューベルト自身は事件後、自殺した。翌81年には、ユダヤ人出版業者シロモ・レーヴィン夫妻が殺害されるという事件が起こった。この殺害容疑で、先に述べたホフマンとその愛人フランチスカ・ビルマンが逮捕された。




表3 極右・ネオナチの有罪判決者の年齢構成 〔9〕


 表3は極右・ネオナチの活動の中で1977〜86年に有罪判決を受けた者の年齢構成を示したものであるが、77〜85年には71%が、86年の場合には74%が10代、20代である。つまり、ネオナチによる暴力の主要な担い手は青少年であったことが推測される。では、なぜ80年代に青少年による暴力事件がたびたび起こったのであろうか。それは失業と外国人労働者の問題に起因する将来への不安である。60年代には旧西ドイツの労働市場は、失業率1%程度の完全雇用を実現していたが、70年代から悪化し、80年代初頭から失業率9%台で200万人の失業者をかかえるようになった。若年者の場合には80年代に入って、出生率の低下や修学年齢の延長などによって、若年者の労働市場への参入は減少しつつあった。それでも20歳未満の若年失業者は86年には14万5000人にのぼった。
 旧西ドイツでは1955年以来、ドイツ人労働者の減少を補うため、イタリア、トルコ、ユーゴスラヴィアなど8ヶ国と相次いで協定を結んで、安価な外国人労働者を受け入れてきた。70年代に入ると石油危機などによる経済不況に伴い、EC域外における募集を停止したが、外国人労働者の家族の呼び寄せなどによって外国人人口は増大していった。70年は260万人であったが、80年には450万人、88年には480万人(人口比7.5%)と急増したのである。
 このような状況が、若い世代を中心に「外国人に就労機会を奪われている」という観念を抱かせ、暗い前途を思い描かせていたのである。
 その将来に対する不安を裏付けるものとして、次のようなアンケート調査の結果がある〔10〕。 アンケートの対象は16〜23歳の青少年で、その54%が「議会制民主主義では懸案の問題を解決できない」と答えていることから政治に対する不信感ないし無力感が、78%が「すべてが不確実である」、63%が「大部分の人びとが確固たる拠りどころを欠いている」と答えていることから不安感がそれぞれ読み取れる。そして「人間の中でも弱肉強食はある」が25%、「毎日が闘争であり、強者が勝利する」が52%であった。これは無力感や不安感の裏返しの心理として、暴力を肯定する傾向があることを示している。
 このような不透明な未来図と外国人に対する漠然たる反感は「ヒトラー・ブーム」も手伝って、「ヒトラーを知らない世代」にナチス的国粋主義的な思想を植え付け、そしてネオナチ・グループのもとに彼らを結集させ、暴力行為・不法行為へと走らせたのである。



 (3)1980年代後半・東西ドイツ統一以降

 ネオナチのこうした際立った活動は、当局の取り締まりの強化もあって、しばし鳴りをひそめるが、他方、合法舞台では、極右政党の活動は1980年代はネオナチ組織の暴走の陰に隠れた感があったが、絶えることなく続行され、ドイツ国家民主党が各州議会選挙に進出した60年代後半以来のピークを89年に迎える。極右政党の新顔「共和党」が1月の旧西ベルリン市議会選挙で、得票率7.5%で11議席を獲得し、ドイツ全土に衝撃を与えたのであった。
 共和党はキリスト教社会同盟右派の離党者2名と元ナチス武装親衛隊のフランツ・シェーンフーバーが創設メンバーとなって1983年に結成された。初代党首はシェーンフーバーで、その一般路線は、反外国主義(特に反共、反米、反ユダヤ主義)、強い指導者志向の権威主義と権威国家への憧憬、反ヨーロッパ統合、旧ドイツ帝国領土の再現、純潔の維持などであった。
 しかし、共和党は1986年にバイエルン州議会選挙に打って出たが、得票率3.0%を獲得したにすぎず、結成からしばらくはみるべき成果をあげられないままで、無名の存在であった。
 転機は突然やってきた。1989年1月に予定されていた旧西ベルリン市議会選挙の選挙戦で放送された共和党の選挙放送は反外国的な色彩の強いものであったために、緑の党系の組織から保守政党に至るまで広範な勢力と市民の間にこの放送に対する抗議が沸き起こり、さらにその選挙集会に向けて抗議デモが組織され、機動隊との間に激しい衝突劇を演じた。このことが共和党の存在を市民に広く知らしめる契機となり、その2回目の選挙放送は高い視聴率をあげ、この選挙で共和党は4%の予想をはるかに上回る7.5%の得票率をあげたのである。
 旧西ベルリンでは、家屋の老朽化や家賃の値上がりなどの住宅難、失業問題、教育有資格者の就職難などの不満が、外国人労働者への反感となって現れていた。そうした中で、この一連の騒動により、共和党の存在とその「ドイツ人のためのドイツ」「1年以上失業中の外国人は強制的に帰国」などの選挙スローガンが知られるところとなり、この党に票が集まったのである。
 このことは極右勢力にはずみをつけた。1989年3月のヘッセン州の地方選挙では共和党は2つの郡議会で15議席を獲得し、ドイツ国家民主党もフランクフルト市での7議席を含めて12議席を獲得したのであった。さらに、同年6月の欧州議会選挙では共和党が7.1%、ほかの極右政党票を加算すれば極右政党は9%近い得票率をあげ、極右勢力としては6議席を獲得し、旧西ドイツ史上最大の選挙成功を収めたのである。
 また、ドイツ国家民主党、共和党とならんで三大極右グループとされている「ドイツ民族同盟」も議会進出を果たした。この組織は急進右翼の出版者、ゲアハルト・ミヒャエル・フライが中心となって1971年から名目上「超党派的な運動体」として存在していたが、その後87年に政党として結成された。当初は出版・プロパガンダが活動の中心で、「第二次大戦はヒトラーではなくて連合国が始めた」「ガス室はユダヤの世界的組織による途方もない冗談である」「ドイツはドイツ人のものであり、外国人は追放すべきである」といった論調の『ドイツ国民新聞』などフライ系新聞の発行し、その発行部数は89年の時点で11万部に達している。このような活動を通じて、この党は極右的なサブカルチャーを保持していたが、一方で80年代中葉になってからは政治にも積極的に関与するようになっていった。合法舞台においてこの党の存在が目立ってきたのは90年代に入ってからで、91年9月のブレーメン市議会選挙では得票率6.6%で6議席も占めた。さらに90年4月のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州議会選挙でも得票率6.6%で6議席を獲得し、第3党の座を獲得したのである。
 このように、1980年代末から90年代初頭にかけて合法舞台での極右勢力の躍進がみられるが、それはこの時期の既成政党指導部による基本法の外国人亡命者・難民の「庇護権」をめぐる問題提起とそれをめぐる論争が引き金となったからであった。
 冷戦が終結し、「鉄のカーテン」が引きずり下ろされたことによって、難民庇護権請求者の波が東欧からドイツに押し寄せ、地域住民との間に軋轢を生むなど、外国人問題はますます深刻を極めた。1991年9月には旧東ドイツ地域のホイヤースヴェルダで難民収容施設が襲撃されたのだが、注目すべきは近隣の住民が総出してその襲撃に拍手を送ったということである。さらに92年8月にはロストックで約1000人が難民収容施設襲撃に加わり、その際、数千人がその行動をまわりで煽りたて、250人が逮捕されるという事態にまで発展したのである。このような事態をめぐって、連邦議会で難民庇護権を規定している基本法第16条の改正問題が盛んに論じられるようになった一方で、極右政党が地方議会選挙で議席獲得という成果をあげていたのである。
 第1章ですでに述べたように、基本法第16条は1992年末に与党と野党の合意がなされ、翌年5月に連邦議会で可決、7月に発効された。それによって難民の流入は大きく制限されることとなった。本来、この改正自体は極右政党の勝利を意味したが、同時にその存在意義も失われることにもなったのである。以後、極右勢力は孤立を深め、選挙でも敗北を重ね、94年の連邦議会選挙でも低迷した。この状況は現在も続いており、極右政党自体の政党政治への影響力は小さく、目立った伸張はこれ以後みられない〔11〕。
 しかし、基本法第16条が改正されたことによって難民申請者数は下降し始めたが、外国人排斥の風潮は一向に収まる気配をみせない。実際、基本法第16条改正が連邦議会で可決された2日後に、ドイツ西部のゾーリンゲンで5人のトルコ人が放火によって殺害されるという事件が起こった。容疑者は現場の近くに住む16歳の少年で、その後、ほかにも若者たちが事件に関わっていることが明らかになった。このうちのひとりはドイツ民族同盟のメンバーであったという。このように1990年代に入ってもネオナチ組織による外国人・難民襲撃事件は発生しており、急増してさえいる。そういう状況を考慮すると、この時期の極右勢力伸張の土壌を、単に外国人労働者・難民に生活を脅かされていることに対する不満だけと考えることはできない。つまり、何か新たな心理的ストレスが表面化し、それが極右勢力によって外国人排斥の方向に放射されているのである。
 1990年10月3日、東西ドイツは統一し、中部ヨーロッパに再び超大国が出現した。この統一は旧東ドイツの民主化運動の帰結として達成されたものであるが、当初からその目標として位置付けられていたわけではなかった。そのため、特に旧東ドイツ市民は統一の過程で、今まで信じてきた体制、自らを規定していたフレームワークが崩壊してしまったことにショックを受け、彼らの中にアイデンティティの危機、精神的空白が生じた。さらに、彼らは旧西ドイツに併合というかたちで統一がなされることに心理的コンプレックスを感じてもいたのである。もちろん、その裏には社会主義社会から脱却し、生活水準の向上や失業問題の解消などを大いに期待する心理もあった。しかし、統一を果たした彼らの前に横たわっていたのは、産業の破壊と大量失業、そして西の同胞の冷たさであった。つまり「西のマルクさえ手にすれば、統一さえ果たせば、ヘルムート・コール首相(キリスト教民主同盟)が約束した通り、旧東ドイツ地域の経済は上昇し、戦後の旧西ドイツのような驚異の経済復興のリバイバルがやってくる」という期待は裏切られ、西と東の精神的乖離は残ったままであった。東西ドイツの統一は、結果として旧東ドイツ地域を中心に新たな不満と不安を蓄積させたのである。
 さらに、1990年代に入ってヨーロッパのグローバル化やヨーロッパの統合が本格的に進展すると、国籍を越えて「ヨーロッパ人」としてのアイデンティティを確立しようとする人びとと、国民国家の文化や伝統を保守しようとする人びとの新たな対立を生んだ。また、既成政党はヨーロッパのグローバル化に懸命になっているために、移民の増大や失業、治安の悪化に対応しきれず、ヨーロッパ拡大に不安を感じる市民や弱者が増えてきている。
 このように「東西ドイツの統一」や「ヨーロッパのグローバル化」などによってドイツの社会構造は大きく変化したが、こうした新しい時代の政治的社会的な動向を背景にして生じた不安は外国人労働者・難民問題と連動しながら、極右勢力伸張の「隙」を形成し、極右的な思想の温床となっているのである。



 現在の極右現象

 戦後ドイツ史の中で、極右勢力は隆盛と衰微を繰り返しながら、ナチス的な理想の浸透を試みたり、不況と失業という経済状況を背景に外国人労働者・難民の排斥を訴えてきた。その形態は議会に足場を作ることを目指し、合法の枠内で活動する極右政党と、「ヒトラーを知らない世代」を中心に構成され、先鋭的な行動に出るネオナチ・グループの2種類に大別できるが、特に東西ドイツ統一後は極右勢力の動向はドラスティックであり、複雑を極める。
 現在の極右現象で特筆すべきは、1990年代初頭のホイヤースヴェルダやロストックで起こった難民収容施設襲撃事件の顛末からわかるように、極右勢力の活動が広く国民に好意的に受け入れられているということ、そして、序論でも述べたように国際的にもその影響を広げているということである。
 ドイツの失業問題には依然として改善の兆候がみられず、外国人に対する反感の念は根強い。加えて、世界的にさまざまな社会不安が蔓延していることから、現在のような極右現象は今後も続いていくと考えられる。



〔6〕小党乱立がナチス政権につながった反省から、全得票率が5%を超えるか最低3選挙区で当選しない政党には比例代表の議席が与えられないようになっている。
〔7〕望月幸男『ネオナチのドイツを読む』(新日本出版社、1994P23. ただし、同箇所は U.backes/E.jesse,Politischer Extremismus in der Bundesrepublik Deutsch-land Bde.3,Koeln,1989. を参照している。
〔8〕望月幸男『ネオナチのドイツを読む』(新日本出版社、1994P31.
〔9〕望月幸男『ナチス追及 ドイツの戦後』(講談社、1990P170.
〔10〕
望月幸男『ネオナチのドイツを読む』(新日本出版社、1994P107. ただし、同箇所は旧西ドイツの青年問題研究者W・ハイトマイヤーの論文「青少年と極右主義」(1990)を参照している。
〔11〕ただし、19984月のザクセン・アンハルト州の州議会選挙で極右政党「ドイツ国民連合」が得票率約13%で議席を得ている。しかし、この極右政党急進は極右現象の表出ではなく、既成政党に対する「こらしめ票」によるものであるという見方が有力である。



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