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北海道の文学碑

港のある町・室蘭
ル−ト36号線

室蘭は自然の良港とともに重工業によって栄えた都市だが、すべては石炭ゆえと言って良い。
石炭は日本の近代化にならない熱エネルギ−だったが、
夕張炭山は国内でも有数の供給源であり室蘭は日本海側の小樽とともに重要は積出港であった。
明治25年・今のJR室蘭本線が開通している。

室蘭民芸協会の招きで昭和31年・32年に棟方夫妻は
室蘭を訪れています。
測量山山頂から港を眺めた風景を刻んだ版画が、
日本で最初の棟方志功版画碑です。


棟方志功

ここだけは鉄の唸りも聞こえない 
            電信浜の波のささやき


並木凡平文学碑
室蘭常盤町 常磐公園
本名篠原三郎・明治24年札幌に生まれる。
大正末期から昭和初期にかけて、口語短歌全盛時代を築き、
昭和14年北海日日新聞に招かれ小樽から室蘭へ移住。
並木凡平の文学碑
室蘭港が奥深く廣く入り込んだ、その太平洋への湾口に
 大黒島が栓をしてゐる。
 雪は、北海道の全土を蔽ふて地面から、雲までの
 厚さで横に降りまくった。(海に生くる人々より)

葉山嘉樹文学碑
明治27年に福岡に生まれる。
日本プロレタリア文学運動の初期を代表する作家で
大正5年・22歳の時、横浜〜室蘭間の石炭運搬船に
下級船員として乗り込んだ
葉山は、室蘭港を舞台とした名作「海に生くる人々」
を書く。
堂々たる4トンの有珠安山岩の碑は港を背景にし、
「この文学碑は、港と石炭にたずさわった人々の
記念に建てられたもの」と書かれている。
葉山嘉樹の文学碑
葉山嘉樹文学碑
八木義徳の文学碑

八木義徳文学碑
室蘭測量山に行く途中の道路に建っています

八木義徳は1911(明治44)年10月21日、北海道室蘭市大町
(現・中央町)33番地で室蘭町立病院長である父田中好治、母セイ芸者だった)の次男として生まれました。
この二百メートルほどの高さをもった小さな山の頂上は、中学時代の史郎にとってはもの思う場所≠セった。   「海明け」より
北海道帝大水産専門部を中退後、早稲田仏文科卒。
横光利一に師事し1937年「海豹」で文壇デビュー。
33才でで芥川賞を受賞する。中国で敗戦を迎え、その後、約9ヶ月間の抑留生活を送りました。昭和21年5月、復員した八木義徳は昭和20年3月の東京大空襲により、妻子を亡くしたことを初めて知りました。文字通り、一文無しで、横浜市鶴見区馬場町の兄夫婦の家へ転がり込みました。昭和25年兄義弘自殺。左肺に悪性の腫瘍が見つかり、医師である兄は自己診断し、みずからの命を絶つ。
1999(平成11)年11月9日、八木義徳は遺作となった「われは
蝸牛に似て」の校了をした直後、昏睡状態に陥り、永眠。享年88歳。病院のベッドから、正子夫人に「原稿用紙を持ってきなさい」と、告げたのが最期の言葉

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