監督の言葉

私の映画は、これまで人間が如何に<生>と<死>に直面していくのかを、ずっと見つめてきた。


靖国神社は戦争を祭る<生>と<死>の巨大な舞台であり、 そこで私は戦争に関する様々な<記憶>と<忘却>、戦争の巨大な<仮面>を目の当たりにした。


いまもなお世界において、戦争という亡霊が人類に接近する歩みを止めた事はない。この映画は、私がこの亡霊に対して、 靖国神社という玄関を通して、十年もの歳月をかけた記録である。


監督プロフィール

1963年生まれ。1984年、中国中央テレビ局(CCTV)のディレクターとして、ドキュメンタリー制作に携わる。1989年、来日。1993年、プロデューサー張雲暉とともに、映画テレビ番組製作プロダクション「龍影」を設立。


1999年、映画デビュー作である「2H」では、ベルリン映画祭最優秀アジア賞、香港国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞した。以来、劇映画「飛呀飛(フェイヤ フェイ)」(01年)、記録映画「味」(03年/NHK/龍影)、劇/記録映画「モナリザ」(07年/NHK/中国映画チャンネル/龍影)とコンスタントに作品を発表、その全てがベルリン映画祭に招待される。「味」では、マルセイユ国際映画祭エスペランス賞、「モナリザ」では、フランス・アミアン国際映画祭審査員大賞、スイス・シネマ/テレビフェスティバルでTitra-Film SA Award を受賞した。その他、日本のテレビ番組を数多く製作し、NHKハイビジョンスペシャル『北京映画学院夢物語』では日本放送文化基金賞及びATPドキュメンタリー優秀賞受賞。


監督インタビュー

監督の李纓は、「私の映画は世界が戦争をどのように見ているのか、そして当事国が自分の起こした戦争をどう見ているのかについてのものです。これはイラク戦争に共通するものもあると思うのです」と語った。
観客に自分の靖国について持っている既存の知識を問い直させること。これはこの映画の見事な成功の一つだとも言うべきだ。 ナレーションは全くなく、靖国神社の政治問題化について直接コメントすることもない。李纓の取り上げ方は政治的よりむしろ精神的なのだ。

(2007年10月25日付、ジャパン・タイムス)



李監督の映画の中で、刀は靖国と同様、栄誉・美しさ・死をめぐる儀式のようなものになる。
この物静かな雰囲気の監督は、映画の中で激論することを避け、取材した人々にはっきりと自分の考えを語ってもらうことによって、観客がそれぞれの結論をつけることができる。
「私は反日の姿勢でこの映画を作ったわけでは全然ない。これはむしろ私の日本へのラブレターのようなものです。だってすごい年月をかけてこんなことをする人は他にいなかったし、日本人にだっていなかったのですから」と李監督が締めくくった。

(ロイター通信)



――なぜこの中国、そして日本にとっても生々しいテーマを選んだのですか?
李:私はこの巨大な歴史的な舞台に人々の「記憶」を集中させたかったのです。国によって「記憶」そのものが違うものだといえます。

――これはどんな映画ですか?
李:『靖国』は「記憶」についての映画である一方、「忘却」についての映画でもあります。
多くの戦争は自分が正しいという考えを持つ国々によって始められたもの。そして記憶というものは自分の都合の良いものだけを覚えています。これは人間の持つ根源的な問題です。靖国神社では、戦没者の全員を英雄だと思っています。しかしその「英雄」たちがアジア各国にもたらした苦痛を忘れているのです。

――この映画は「寛容」を促していますか?
李:キリスト教では告白と再生を信じますが、アジアは「面子」の方が優先されます。日本にとって天皇が「面子」そのもの。それが日本の問題でもあるのです。


(2007年釜山国際映画祭 The Daily 10月11日)