元寇について。忠烈王は率先して出兵した
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元寇は元と高麗軍の連合軍によって構成されていました。 したがって、韓国(高麗)は秀吉の朝鮮出兵以前の300年も前に、立派に(?)日本を侵略していたことになります。
さて、この元寇について韓国の教科書はどのように書いているか見てみましょう。
「元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵器の供給、兵士の動員を高麗に強要した。 こうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した。 元は日本遠征のため、高麗に征東行省という役所を置いた。 征東行省は日本遠征が失敗した後には高麗との公的連絡機関として運営された。」
僅か、これだけですか?!
元寇については、小学校教科書では完全に無視し、中学校教科書では僅か5行、高校教科書でさえ僅かに6行ほどです! さらに、ベトナム戦争への派兵については、僅か1行のみです。
それに引き替え、朝鮮出兵(壬申倭乱)については、小学校でも丸々4ページ、中学校では本文3ページ半に「学習の手引き」として2ページ、高校教科書でも5ページにわたって延々と、受けた被害を書き連ねる。
そして、韓国の歴史教科書は、自ら手を下した加害事実については教科書では殆ど教えない。
しかも、韓国では、高麗は元に「強要」されて、仕方なく日本に「遠征」した!として学ぶそうです これも大嘘です。
『高麗史』に拠れば、元寇の発端は高麗の忠烈王が元の世祖にしきりに働きかけ、執拗に東征を勧めた事が解ります。 (下條正男『日韓・歴史克服への道』) 1280年 日本遠征方略を定め、征東行省を創設。忠烈王、元に入朝し、参戦を主張し、兵船を作っています。
しかも高麗軍は日本で何をしたか。 最初に侵略を受けた壱岐・対馬の二島では、住民は男はことごとく殺され、女は手に穴をあけられて数珠(じゅず)つなぎの捕虜にされています。 二百人の童男童女は高麗軍に連れ去られ、忠烈王に献上されたのです。 今も泣く子を黙らせるため、母親が子に「モッコ(蒙古の訛り)来るぞ」とあやす言い方が全国各地に残っていますが、元寇から七百年を経過した今なお、日本人の蒙古・高麗に対する潜在的な恐怖心は消えていないのです。 当時の日本人の恐怖は、想像するだに余りあります。
実は後年の倭寇も、秀吉の出兵も、この元寇と無関係ではありません。 李朝後期に安鼎福が書いた『東史綱目』では、倭寇の原因が元寇にあったとし、李翼(リヨク)の書いた「星湖塞説」では、秀吉の朝鮮出兵も究極の原因は元寇にあったとしています。 (下條正男『日韓・歴史克服への道』)
倭寇や「壬辰倭乱」は大々的に書き立てる韓国の教科書が、 元寇については他人事のように頬被りして責任逃れをし、たった数行で片づけています。 (しかも巻末の年表では、元寇を完全に省いている) これは歴史事実の隠蔽というべきでしょう。
「過去が暗いからと隠したり...してはいけない。 歴史の記述は、偏ることなく厳格でなければならない」という自戒の言葉を、韓国の教科書は自ら破る結果になっています。
韓国の教科書に要求する。
元寇は、高麗が自ら蒙古に進言して実現した日本侵略であると明記せよ |
高霊・忠烈王は、日本征伐を元に提案した PART1
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朝鮮の歴史書、高麗史を見てみましょう http://kyujanggak.snu.ac.kr/IMAGE/SNUG0638.PDF 56pageを参照
高麗史の1272年(元宗十三年)三月の条の記を見れば、世子 諶(しん、後の忠烈王)が元の世祖に東征を請うている。
惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師。
惟(おも)んみるに彼の日本、未だ聖化を蒙(こうむ)らず。故に詔(みことのり)を発して軍容を継糴(けいてき)せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須(みち)いる所あらん。もし此事(このこと)を以て臣に委(ゆだ)ねなば、心力を尽し勉め、 王師 を小助せん。
その意味は、以下のようになります。 思いますれば、あの日本は、未だに元皇帝様の徳による導きを受けていません。 それ故に詔を発して、軍容を整えて、戦艦兵糧 を用いましょう。 もしも、この事を臣である私に、お任せくだされば、心力を尽くし励み、そして王師を、微力ではありますが、お助けしたいです。
と書かれています。
これを読めば、高麗は日本侵略を元に強要されていません。 明らかに高麗の忠烈王自身が元の皇帝フビライ に日本への遠征を願いでています。
そして、その際には私(忠烈王) も協力すると明言しています。 高麗が積極的に加担していることが理解できますね
そして2年後、忠烈王の要請通りに、元寇による日本侵略(文永の役)が発生しました。
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高霊・忠烈王は、日本遠征に率先して参加した PART2
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更に、元の歴史書・世祖(フビライ)本紀を見てみましょう 至元十九年(1279年)七月の条に、
高麗国王請 自造船百五十艘 助征日本。
その意味 高麗の国王は、百五十艘の船を自ら作り、日本征伐を助けることを請うた。 と記述してあります。
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1280年、フビライは日本への第二次遠征にむけて、新しい軍事機構を作りました。 日本遠征軍の司令部=征収日本行中書省(略して征東行省)の設置です。
フビライが日本再征に向けて本格的に動き始めた様子は開京にも伝わっていました。
もう一度、高麗史を見てみましょう 以下は、http://kyujanggak.snu.ac.kr/IMAGE/SNUG0640.PDF 32-34pageを参照
6月初め、忠烈王は入朝の許可を求めるため、将軍朴義を元に派遣した。 ”東征のこと、臣入朝して、その旨を受けん”と奏せしめるためであった。 つまり、高麗王自らが、「東征に従軍することを請う」と目的が記されている
忠烈王はフビライに謁して、高麗が日本再征にすすんで加担することを述べ、合わせて忠烈王自身がこのたびの戦後にあたっては、高い地位の軍職を望んでいることを告げるつもりであった。
ということが、この記事から解ります。
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8月26日、忠烈王は行在所に参内した。 そこで、既に、先に日本征東の令を受けた忻都、洪茶丘、范文虎と席を同じくした。
ここで忠烈王が知ったことは、忻都、洪茶丘の二人は蒙・麗・漢4万を率いて合浦から発船することになっており、范文虎は蛮軍10万を率いて江南を発し、両軍は日本の一岐(壱岐)で合流し、直ちに日本本土へ向かうという作戦がたてられてあることだった。
忻都、洪茶丘が高麗へ入ってくることも、また彼らが高麗兵を徴発・徴用することも指揮下にはいることも事実だった。
しかし、忠烈王には、、いかなる軍職の下命がなかった。
そこで忠烈王は自ら率先して、征東の令を受けたいことを請い、7つの希望をした。
1,我が軍は耽羅を鎮戍(鎮守)する兵を以て、東征を補うこと 2,高麗、漢の両軍より、寧ろ蒙軍を以て前線に立てること 3,洪茶丘の職任を加えず、臣も亦、征東行中書省の事を管轄すること 4,小国の軍官、みな牌面(勲章などの類)を賜ること 5,漢の地浜海の者を梢工、水手に充てること 6,按察使(地方行政監察官)を使わして、百姓の疾苦を見させること 7,臣が自ら合浦に到って、軍馬を閲送をすること |
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自国の歴史記録にあることさえも偽って書く韓国の歴史教科書! 韓国が、如何に欺瞞に満ちたものであるかが、 これからも分かります。
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