■北アメリカの場合
「米の侵略史の第一ページは先住民の殺戮・征服である。アメリカ・インディアンはアメリカ大陸に一万年以上の歴史を持つ東洋出身モンゴロイド系の先住民族で、当時約200万人から500万人と推定されたが、新来のアングロサクソン移民によって森の木を伐るごとく、殺戮されてしまった。白人は彼らを人間と見ず、バッファローと同じ自然の一部として、奸計を以って悪逆無道の殺戮を繰り返し、1890年(明治二十三年)には、先住民の人口は20万人にまで減少した。この残虐な行為をアメリカ史では、アメリカ人の勇敢な開拓者精神、パイオニア精神の発揮と誇っている。」
「大東亜戦争の正体」清水馨八郎
■中南米の場合
「スペインの征服者達はその地域に住むインディオの領主や貴族に出頭を命じた。そして彼等が出頭すると捕らえて、彼等に荷担ぎ人足として五千〜六千
のインディオを集めることを要求した。やがて命令どおりインディオ達がやってくると、スペイン人達は全員を庭に閉じ込めた。インディオ達は革で恥部を覆い
隠しているだけの裸同然の姿で、おとなしい子羊のようにじっと屈んでいた。監視役のスペイン人が武装して入り口に立つと、突然スペイン人達は各自手に剣を
構えて子羊たちに襲いかかり剣や槍で彼等を突き殺したが、この虐殺から逃げのびた者はひとりもいなかった。(中略)
コロンブスがエスパニョール島(スペインの島、現在の ハイチと、ドミニカ 共和国) と名付けた島について、この島には三百万人のインディオが住んでいたが、コロンブスが来てから五十年後の1542年には、生き残ったインディオは僅か二百人にすぎなかった。」
「インディアスの破壊についての簡潔な報告」ラス・カサス(Short Account of the Destruction of the Indies, Bartolome de Las Casas)
■オーストラリアの場合
「大陸の東南部とタスマニア島(Tasmania)は、比較的雨が多くて、白人には住みやすく、農耕牧畜にも適しているため、白人はこの地域から植民を始めた。白人到来時に、原住民の人口は30万強であったと言われる( Mulvaney 1975:53 )。しかし、大陸の各地で、原住民は土地を奪われ、更に、殺戮や白人がもたらした病気、あるいは強制移住などで、人口が激減した。タスマニア島と大陸東南部の広い地域で、原住民はほぼ完全に死滅した。私はメルボルン(Melbourne)に6年間住んだが、メルボルンに住んでいる原住民に会ったのは一度しかなかった。(中略)
原住民は白人に支配のもとに、長い間抑圧されてきた。オーストラ
リア国民として認められたのは1960年代後半のことである。それまでは、人口調査にも考慮されていなかった。ある原住民の言葉によれは、『私たちは人間
として数えられたいなかった。家畜として扱われていた。』」
オーストラリア原住民の歴史より
■アフリカの奴隷貿易
奴隷貿易による黒人奴隷移送数(生存者数)
16世紀:およそ 900,000人
17世紀:およそ 2,750,000人
18世紀:およそ 700,000人
※ただし、一人の黒人奴隷を新大陸に生きたまま運ぶ間に五人が途中で死んだとされる。
「アフリカ百科事典」デュ・ボイス(The Encyclopedia of the Negro, William Edward Burghardt DuBois)
■朝鮮の場合
-朝鮮総督府政策一覧
併合時(1910) 終戦時(1945)
・耕地面積 246万町歩 →449万町歩
・水田面積 84万町歩 →162万町歩(1928)
・石高(米の生産量) 約1千万石 →2千万石(1930)
・鉄道 3,827kmの鉄道を敷設
・人口 1,313万人(1910) → 2,512万人(1944)
・植林 禿山 → 緑溢れる山
・反当たり収量 0.49石 → 1.49(3倍)
・平均寿命 24歳→56歳
・教育の普及 無いに等しい → 小学校5,213校、生徒数2,389,135人、就学率61%(1944)、京城帝国大学創設(1924)
・朝鮮半島の強盗件数
昭和2年 1771件
昭和7年 1261件
昭和12年 727件
昭和17年 394件
朝鮮総督府『統計年報』より
日韓併合(1910)~終戦(1945)までの間に、教育など無きに等しかったのに、小学校を5,213校作り、就
学率を61%(1944)までにし、お人よしにもハングルまで広めてやり、鉄道を3,847kmも敷き、人
口が1,313万人→2,512万人へと2倍近く増え、一人当たりの国内総支出が1910年の58円から1938年には119円と倍増した。