第2回和歌山カレー事件を考える人々の集い報告 2008.3.16
3月16日(日)、事件の現地・和歌山では2回目となる支援集会を開きました。
今回の参加者は約60人で、地元の和歌山と大阪をはじめ、東京や愛知、岡山など、遠方からも多くの方が参加してくださいました。
また、報道陣も前回以上に多数集まり、「この裁判はおかしい」と感じるマスコミが確実に増えてきている雰囲気がひしひしと伝わってきました。
唯一残念なのは、現在はサイパンで勾留されている支援会代表の三浦和義さんが参加できなかったことですが、会の節目々々に行われた質疑応答では参加者からも活発な質問や意見が飛び交い、会自体は大盛況となりました。
さて、会の内容ですが、今回も二部構成で行いました。
一部ではまず、「人権と報道・連絡会」事務局長の山際永三さんが挨拶され、3月4日に眞須美さんに面会された下中忠輝さんからの眞須美さんの近況報告を経て、今回のゲストである河野義行さんがお話をしてくださいました。
松本サリン事件の冤罪被害者で、現在は「報道革命」「犯罪被害者支援」などを訴えて全国で講演活動をされている河野さんは、自らの冤罪被害体験を元に「冤罪のつくられ方」をわかりやすく説明してくださった上、最後に眞須美さんへの支援継続を呼びかけてくださいました。
続く二部では、まず、前回の集会に続き、再び遠く名古屋から介護者の大野萌子さんと共に駆けつけてくださった「島田事件」の冤罪被害者である赤堀政夫さんがお話をしてくださいました。
最高裁で死刑判決が確定しながら30年以上に及ぶ闘いを経て、再審無罪を勝ち取られた赤堀さんのお話は今回、自身の経験を元にした「冤罪の構造」がテーマでしたが、その中で挙げられたトピックは眞須美さんのケースと非常に似ており、大変参考になりました。
続いて、眞須美さんの夫の健治さんが挨拶されたのち、弁護団を代表して高見秀一弁護士から、眞須美さんの有罪判決の有力な根拠とされている目撃証言について、その信用性に関する問題点の説明がありました。その最後には、質疑応答の時間も設けましたが、質問が活発に飛び交い、この目撃証言がいかに怪しいか、改めてよくわかりました。
また、高見弁護士は最後に「真犯人への自首のススメ」も行いました。この話はどんどん広めて欲しいというのが弁護団の意向ですので、ご賛同頂ける方は周囲の方々へ、またはネットを使うなどして、どんどん広めて頂きたいと思います。
山際永三さんの話はこちら>>
下中忠輝さんの話はこちら>>
河野義行さんの話&質疑応答はこちら>>
赤堀政夫さんの話はこちら>>
林健治さんの話はこちら>>
高見秀一弁護士の話&質疑応答はこちら>>
林眞須美さんのメッセージはこちら>>
山際永三さんの話
林眞須美さんの支援については、三浦さんが言い出しっぺということで毎回挨拶されてましたが、今回はできないということで、私が代わりにさせて頂きます。
今回は和歌山での二回目の会合ですが、眞須美さん支援の根を生やしていきたいし、今後も支援は粘り強くやっていきたいと思います。
その中で今回は赤堀さん、河野さんがいらしてくださいました。また、多くの方に参加して頂け、このような会ができて、大変感謝しています。
また、私は三浦さんとは、ロス疑惑の頃からのつきあいということで、三浦さんのことも少々述べさせて頂きます。
三浦さんが先月22日に逮捕された時、第一報にはビックリしました。しかも、すでに無罪が確定している殺人事件で逮捕ということで、青天の霹靂でした。しかし、よく考えると、ロス市警は、柳の下のドジョウを狙ったのではないかと思います。
三浦さんがこれまで、林眞須美さんの支援や、恵庭OL殺人事件の冤罪被害者の方の支援などを熱心にやってこられたのは、まぎれもない事実です。現時点では、(解決までに)長引きそうだという予感もあるのですが、我々も覚悟を決め、一日も早く三浦さんを救出したいと思っています。みなさんも力を貸してください。
眞須美さんの会で、三浦さんについてこんな話をするとは思ってなかったのですが、三浦さんのこともどうかよろしくお願い致します。
三浦和義さんの逮捕にあたって山際永三さんのひと言はこちら>>
下中忠輝さんの話
どうもみなさん、はじめまして。下中と申します。
ぼくは昨年末の「和歌山カレー事件を考える会」に参加して以来、眞須美さんと文通を始めさせて頂いてるんですが、先日思い切って、初めて大阪拘置所に眞須美さんの面会に行ってまいりました。
眞須美さんに会う前は、ぼくは非常に緊張していました。しかし、いざ会ってみると、眞須美さんは初めて会ったはずなのに、だいぶ前から知っていたような方に感じられ、非常に嬉しく思いました。
眞須美さんは面会中、家族のことを語っておられる時はとても楽しそうでした。そういう眞須美さんを見ていると、極悪人でも何でもなく、普通の方なんだな、と感じました。
ぼくの結論を言いますと、ぼくの真実は、眞須美さんは無実ということです。でも、今日来て頂いたみなさんに、ぼくの真実を強要する気は毛頭ありません。
今日来て頂いたみなさんには、今日の会の話に出てくる事実を踏まえて頂き、自分で真実を判断して頂ければと思います。
どうもみなさん、ありがとうございました。
河野義行さんの話&質疑応答
・冤罪はなぜ起こるのか?
こんにちは、河野です。
今日は、冤罪がどうして起こってしまうのかという話をさせて頂きます。
14年前に松本サリン事件が起こった時、私は当初、これが事件だという認識が
ありませんでした。何もわからないままに私、妻、子供たちが次々におかしくなり、救急車で病院に運ばれたのです。その後、私が運ばれた病院には救急車がどんどんやってきて、最終的に600名余りが負傷する事件となりました。
では、警察はなぜ、私のことを疑ったのか?
まず、私は第一通報者でした。つまり、事件に近い人間ですから、被害者で
あっても、警察はそこから調べていくんですね。しかも、警察が私を疑ったの
は、非常に些細なことからでした。
たとえば、私は妻の救急処置をしていたのですが、救急隊員を早く妻のところ
へ誘導したくて、苦しんでいる妻の元を離れた時間があった。それが、警察の目
には、不審な行動とうつったようなんです。
そして事件の翌朝、警察が私のもとに事情聴取にやって来ました。しかし、この時は、私は熱が39度以上あり、幻覚幻聴の世界にいて、とても事情聴取を受ける状態ではなかった。まさに生きるか死ぬかの状態だったんです。
そのため、私は警察の事情聴取を断ったのですが、被害者が事情聴取を断るの
は、きわめて不自然だと警察は思ったようです。
続いて、これは重要なんですが、私は事件の翌日に警察から、「河野さん、昨
日は何をやっていたんだ?」と聞かれ、答えられなかった。実はこの時、私はサ
リンで記憶をやられていたんです。しかし、昨日のことが答えられないというの
は、警察じゃなくても、おかしいと思いますよね。
さらに、私は写真の現像から引き延ばしまで自分でやっていて、また、陶芸もやっていていたのですが、それらに使う薬品が自宅に20数点あったんです。その中には、青酸カリなど、一般家庭にない薬品もありました。青酸カリというと、世間的には、とんでもない薬品というイメージですが、事件発生時より20年前、私が京都の薬品会社に勤めていた当時はどこでも使われている薬品でした。これを私は写真の現像に使おうと考えていたんですね。
警察は青酸化合物が、事件の原因物質であれば、証拠として保全したいと考え、私の自宅から押収しました。しかし、私が所有していた青酸カリは封印がされており、一切使われていなかった。ですから、警察官も最初は、問題にしていなかったのです。
しかし、薬品類押収後行われた記者会見では、警察は私の名前を実名で発表しました。すると、記者の経験則では、個人の自宅が警察の捜索をうけ、家主が実名で発表されたというのは、「決まり(犯人)」なんですね。そして翌日からは、いわゆる「犯人視報道」が行われたのです。
・犯人視報道で疑惑が増幅
実際は強制捜索が行われたのは、私の家だけじゃないんですよ。実は警察は、
7人が亡くなったマンションも強制捜索し、押収も行われています。警察が意図的に発表しなかったのか、マスコミの取材力が足りなかったのかはわかりませんが、そのことをキチッとマスコミが書けば、私の印象はあんなに怪しくならなかったはずです。
さらに、「有毒ガスの発生源は第一通報者宅とほぼ断定」という記事も出た。「ほぼ断定」とうことは断定されていないわけですが、「ほぼ断定」と書けば、読む人は断定されたと思いますよね。私が言ってもないことが記事になったりもしました。たとえば、私が救急隊員に「薬品の調合を間違った」と言ったとか、私が犯行をほのめかしていたとか、そういう報道もありました。
あるいは、私が薬品会社に勤めていて、薬品の知識があったとか、いつも薬品を取り扱っていたとか、記者の方たちは、私の「薬品の調合ミス」を補強する情報を探し回った。そんな報道により、私への疑惑は増幅していったのです。そうなると、辻褄のあう報道になっていくんです。
私の家から警察は、野沢菜の漬け物樽を押収しておりますが、報道ではそれが、「調合容器」と書かれていました。
このように私を犯人視する報道が流れる中、長男が「テレビがお父さんのことを殺人者扱いしているよ」と血相を変えて、入院先の病院にやってきました。そこで私は「そんなのは許さんぞ」と事件の2日後にはテレビ局に対し、民事訴訟を提起するために弁護士を依頼した。
しかし、弁護士さんのほうは、刑事弁護と考えており、私に専任届けを書くように言ってきた。私は何も知識がないですから、言われるままに選任届けに署名した。
このことが、新聞に報道され、世間から「あいつは、7人も殺しておきながら、弁護士を依頼し、罪を逃げようとしている」と反感をかってしまった。
その後、弁護士にも「なんで、あんな悪いヤツを弁護するんだ」という弁護士攻撃が行われた。
こういうことは、私の件ばかりではないですけどね。悪いヤツかどうかは裁判で決めるものなのに、私の場合、逮捕もされないうちに、世間から悪いヤツだと決められてしまうんです。
また、入院していた病院にも「あの病院は犯人をかばっている」というような誹謗中傷の噂が流れ、病院は私を守りきれなくなってしまい、私はまだ37度以上の熱があり、頭痛や下痢もある状態だったのに、退院せざるを得なかった。
退院後、記者会見もしたのですが、これは、自分は事件に関与していないこと、さらに、入院中に出ていた誤報の訂正を求める抗議の会見のつもりでした。そのため、私は誤解のないように、言葉を選びながら、冷静に会見するように務めたのですが、その冷静さがマスコミにまた誤解されたのです。ああいう場では、「俺は犯人じゃない!」と泣き叫びながら訴えないといけなかったんですね。マスコミには、マスコミのストーリーがあるんです。
退院後の事情聴取の時から犯人扱い
記者会見後、警察の車で参考人として事情聴取に行ったら、いきなり「これにサインしてください」と、ポリグラフ試験の承諾書を提示されました。これは、嫌なら断ることができますが、私は承諾書にサインした。ポリグラフが自分の無実を証明してくれるだろうと思ったからです。しかし、この考えは間違えでした。
警察が私にポリグラフを受けさせるのは、証拠が無いからであり、ポリグラフ試験によって私の犯行の一端でも引き出したいと思っているからです。たとえ反応が出なくても、警察は反応が出たとさらに追求するのです。
当時、捜査本部は、私がサリンを作る2段階前の薬品にイソプロピルアルコールを混ぜ、サリンを発生させ、容器や残りの薬品は長男に指示し、隠したと考えていた。ポリグラフの質問はそのストーリーに基づき行われた。
「あなたがサリンをつくったのは、威力を試すためですか?」
「あなたは長男に指示し、薬品や容器を隠しましたね」と、まさに警察が考えている疑問をダイレクトにぶつけて来るのです。
そんな質問が1時間程続くのですが、次第に自分は犯人にされてしまうかもしれないという、不安を感じました。実際、ポリグラフを受けた後で警察からは「機械は正直だ、反応が出た」と言われました。警察はそうやって、揺さぶりをかけてくるんですね。私は対抗策として、自分の受けたポリグラフの試験用紙に自分のサインを入れておいたため、揺さぶりを切り返すことができました。
次に警察は、伝聞情報で揺さぶりをかけてきました。
「見舞い客の中で複数の人が、あなたが『薬品の調合を間違った』と言っていた
と証言している」と言うのです。それを私が明確に否定すると、話が続いていかない。今度は、「私が長男に容器や薬品の処分を指示したのを聞いた確かな人がいる」と新たな伝聞情報をぶつけてくるが、私が明快に否定すると、そこで話が終わってしまう。
そうなってくると、警察は今度、利益供与を持ちかけてきました。
「今なら(殺人ではなく)傷害致死にしてやる」と言うんですね。私はたとえ軽犯罪にしてやると言われても、何もやってないのだから、認めるはずがない。そもそも、司法警察員が量刑を決められるはずもないのです。
すると、「このオヤジは煮ても焼いても食えない」と思ったのか、警察は息子をターゲットにしてきました。警察から、私の共犯者だと疑われていた息子は、「オヤジは吐いた、罪を認めているぞ」と切り違え尋問をしてきたのです。成年者の立ち会いもありませんでした。
ここで、もしも息子が「お父さんが言ったのなら、そうかも」と証言していたら、私は逮捕されていたと思います。しかし、息子は「お父さんはやってないし、そんなこと言うはずもない」
と否定しました。だから、この逮捕の危機も乗り越えられたのです。
・任意の事情聴取にもあった自白の強要
事情聴取も二日目になると、いきなり自白の強要をされました。取調室に怖そうな刑事が入ってきて、いきなり「姿勢をただせ!」と言うんです。警察は自白をとるには、その人のプライドをはぎとるんですね。私は「警察に捜査協力しているのに、そんなこと言われる筋合いはない」と反発したのですが、そうすると、「お前は亡くなった人たちに、申し訳ないと思わないのか」と言う。「私も被害者です」と言っても、聞いてもらえません。ついには「お前が犯人だ」とまで言われました。1時間くらい「やった」「やらない」の押し問答を続けたのち、「こんな失礼な事情聴取なら、もう警察には協力できない」と席を立った。
担当刑事に抗議すると、刑事は「これも捜査の手法だ」と言う。そして、「河野さん、あなたが潔白なら、あなたがそのことを自分で証明しないといけないんだ」と説得され、事情聴取はさらに続けられた。
法律では、警察や検察が犯罪事実の立証義務を課されているが、マスコミや世間は「おまえがシロと言うなら、シロであることを証明しろ」と迫ってくる。現実は法律と逆に動いているのですね。
・眞須美さんが自白していないのは「重い事実」
それで、林眞須美さんの話ですが、彼女がカレーの鍋にヒ素を入れたという立証を警察、検察はできていませんね。「怪しい」と言っているだけです。少なくとも、私はそう思います。
また、彼女は犯行を自白していない。これも重い事実です。というのも、私は任意の事情聴取を2日間でそれぞれ7時間半受けただけで、立てないほどのダメージを受けました。ましてや、逮捕された人間が、警察にどんなことをやられるか、想像がつくでしょう。罪を犯してない人でさえも、(虚偽の)自白はしてしまうのです。警察の捜査というのは、私や私の周辺を徹底的に調べます。もし仮に私が本当に松本サリン事件を起こしたのであれば、絶対にごまかせなかったと思います。そう考えると、眞須美さんは自白もしていないし、犯罪の立証でもできていない。それで、なんで有罪なのでしょうか?
私は約1年間疑われましたが、その流れが変わったのは、地下鉄サリン事件が発生したことでした。あの事件を境に私の容疑は薄まり、オウム真理教の事件関与が分かり、犯人ではないということになったのですが、自分では結局、自分が無実であることを証明できなかったのです。
何もしていない人が、「やってない」ということは、証明することはできません。
実は私は高校の同級生も、1970年に発生した豊橋事件で冤罪被害を受けましたが、一審で無罪が確定しました。この無罪確定は、事件当時の捜査員が、退職後に弁護側の証人になり、真実を明らかにした事が、大きく影響しました。その証言の中で、弁護人が「捜査本部で、自分の考えをいったことがあるか」の質問に答えた元捜査員の言葉を最後に紹介したいと思います。
「怪しい、怪しい、と言うだけでは犯人ではない
新しい事実が出なければダメだ
犯人ならば、捜査をすれば新事実が出てくる
出て来んのは犯人にはなり得んのだ、ということを言った」
これは、まさに林眞須美さんに当てはまる言葉ではないかと思います。
今日は多くの支援者が集まっていますが、人は孤独だとつぶれてしまいます。
私も支えてくれる人がいなかったら、どうなっていたかわかりません。
ですから、みなさんには、林眞須美さんへの支援をぜひとも継続して頂きたいと思います。
河野さんの話が終わった後、質疑応答の時間を設けました。参加者と河野さん
の主な一問一答は以下の通りです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
【質疑応答】
──仮に逮捕された場合、有罪判決が出る可能性を考えられたのか?
入院中の早い時期から、息子には「誤認逮捕や裁判所のミスジャッジなど、すべて最悪の事態が重なったならば、お父さんは『7人の人間を殺した殺人犯』ということになるかもしれない」と話していました。
しかし一方で「お父さんは何もしていない。悪いのは、向こうだ。私は死刑執行される時、執行官に『悪いのはあなたたちだ。しかし、許してあげる』と言って、死ぬよ」とも話していた。心の位置を高く保っていないと、耐えられなかったからです。
自宅には、誹謗中傷の電話もかかってきましたが、「何を言われても許してやる」と思わないと耐えられないんですね。
でも、そんな中でも、有罪にならないために一歩でも前に出よう、と色々対策を講じていました。最悪のケースを「7人殺した殺人者として死刑」と設定して、そこから一歩でも前に出ようとしていたのです。
──仮に逮捕された場合、自白せずに耐えられる自信はあったか?
たぶん、虚偽の自白をしてしまうんじゃないか、という怖さがありました。なぜなら、当時の私は、サリンで眠れなくなっていました。注射で睡眠をとっていたんですね。
しかし、逮捕されたら、おそらく睡眠薬は飲ませてもらえなかったでしょう。そうなると、逮捕され、眠れなかったら、おそらく取り調べに耐えられないだろうと思っていたのです。
──林夫婦の逮捕前に眞須美さんと電話で話したそうだが?
そんなに長い電話ではありませんでしたが、真須美さんから電話があったのは、たしか彼女が逮捕される二日前でした。同志社大学の浅野健一さんに紹介されたんです。
その時、眞須美さんが電話で話していたのは、「本当にマスコミがひどい」ということでした。それで、自分の体験から色々アドバイスさせてもらいました。
それから、近所にも、お子さんにに『がんばって』と声かけてくれる人がいるんだと、そういう話をされた時、眞須美さんは涙ぐんでいましたね。
──河野さんは当時、すごく冷静に事態に対応されていた印象だが、その源は?
私は会社で、QCとかTQCということをやっていたんです。これは要するに、会社でトラブルあった時、どういう対策をとっていくか、という作業です。実は当時、私はQCの手法をそのまま使っていたんです。
まず、「逮捕されるとしたら、その要因は何があるか」「警察が私の何を疑っているか」を事情聴取の内容も参考に全部メモに書き出していきました。そして、それらを1つずつつぶしていったんですが、そこにはプライオリティがあります。まず、お金がかからず、すぐにつぶせるものからつぶしていきました。
事件の発生は6月ですが、それらを8月までに全部つぶしていましたね。
たとえば、警察は「(サリンをつくるために)私がダイジストンを買った」と言っていたのですが、ダイジストンでは毒ガスは出来ないと、つぶしこんじゃえば大丈夫です。そこで、弁護士と一緒に科学者のところに実験に行き、ダイジストンでは毒ガスはできないことを裏づけました。
しかし、そうやって疑惑を全部つぶしても、怖いのは、別件逮捕です。
実際、後で聞いた話では、警察は私の会社の取引先をまわり、「1000円でも500円でも、河野に与えたことはないか」と聞いてまわっていたそうなんです。そういう事実があれば、警察は会社に圧力をかけ、被害届を出させ、私を横領の容疑で別件逮捕してしまおうとしていたわけです。なんでもアリなんですね。
そういう意味では、私は警察が別件逮捕もできないほど、マジメに生きてきたということだと思っています(笑)。
───場内(笑)
赤堀政夫さんの話
刑事裁判の汚点は、無実の人々のフレームアップを見抜けず、多くの犠牲者たちを長期拘置した誤判にあると思います。
林眞須美さんの冤罪も、また、その汚点につながるものと深刻に捉えています。上告中の最高裁はこの冤罪を認め、白日の下にさらすべきでしょう。
冤罪死刑囚は、いうまでもなく究極的な人権問題であります。冤罪はあまりにも多くの人権が失われます。ご参集くださいました皆様と、その点を是非確認したいと思っています。
では、「冤罪の構造」について以下にお話します。
・第一の問題:見込みの捜査
私は逮捕中に浮浪であったため、「不在証明」はなく、そのすきを警察・検察に利用されたケースです。特筆すべきは、逮捕状も示されなかったことです。
緊急逮捕でない限り、「令状逮捕」が妥当であり、私の場合も違法と言わざるを得ません。この問題で見えてくるのは、「見込み捜査」だと指摘できます。
・第二の問題:予断と別件逮捕
私の逮捕理由は「賽銭泥棒」でした。「島田事件」と呼ばれた幼女強姦殺人と、私は何の関係もなかったのです。
警察・検察は「やりそうな人間」や、市民感情に照らして「犯人としても違和感のない者」を差別的に狙い撃ちします。
警察・検察は、市民感情に潜む予断を極力利用するのです。
私の場合は「精神病院出」の、偏見・差別が逮捕の背景に横たわっていました。
「島田事件」も、予断で多くの人が逮捕されました。一説によると、その数は二百数十人だったと聞いています。
被差別部落民・前科者・変質者・ヒロポン中毒者・浮浪者・精神障害者などがリストアップされたと聞いています。
それらすべての人にアリバイが証明され、「迷宮入りか」と捜査の行き詰まりが噂されたとのことです。逮捕連行された一人は「自殺」したと聞いています。
「自殺者」は、過酷な取り調べや、逮捕・連行の対象者として、市民の厳しい眼差しに耐えきれなかったのだと想像されます。
・第三の問題:メディアと報道
私は岐阜県鵜沼で不当逮捕後、汽車で浜松駅へ送られましたが、そこには大勢の新聞記者が待ちかまえていました。
私と「島田事件」とは何の関係もないにも関わらず、その翌日、新聞には「犯人逮捕される」と報道されたのです。濡れ衣とは、こうしたことを言うのでしょう。冤罪によくある手だと聞きます。
「メディアの犯罪性」は警察の発表を何ら検証せず、それを鵜呑みにして報道することにあると思います。
・第四の問題:拷問・誘導
私はいわゆる「代用監獄(誰にも見られない島田署の官舎)」に連れ込まれ、連日連夜、「殴る」「蹴る」「腕をねじ曲げる」「便所にも行かせない」と、あらゆる暴行で締め上げられました。それらに耐えられるものではありません。
今も冤罪が多発しているのは、そうした「拷問」に耐えられないからに他なりません。
・第五の問題:強制自白調書
私は警察・検察の「作文(自白調書)」をオウム返しに反復させられました。
決して任意ではありません。無理矢理、身体をつかまれ、「名前」の「サイン」をさせられました。
その後、「証拠となる物を何にするか」と、警察官は私の前で検討しました。そして、「君、頭を使えよ。大井川で手頃な石を拾ってくれば、事足りる」と、いとも簡単に「証拠の石」をねつ造したのです。
こうした問題を回避するには、取り調べの「全面可視化」しかないでしょう。
・第六の問題:証人の変遷
「島田事件」の真犯人を3回も見た人は、私の実家の一件隣の「KY」さんでした。私の家にもたびたび訪ねてきていました。そんな「KY」さんが真犯人と私とを間違えるでしょうか。
警察・検察は「KYさん」に対して、圧力・強制を加えたと思わずにおれません。最初の証言とは違う「証言の変遷」でした。
林真須美さんの「事件概要」を、1から6までの冤罪の構造と比較してみてください。必ず、不自然な事件概要に直面します。冤罪の構造には、以上の問題が内包されているものと確信します。
林眞須美さんは無実です。
以上、2008年3月16日。赤堀政夫。同介護者、大野萌子。
林健治さんの話
こんにちは、林健治です。本日はたくさんの方にお越し頂き、本当にありがとうございます。
事件から今年で10年になりますが、妻は現在、最高裁に上告中です。私もカレー事件以後、冤罪事件について書かれた物など、カレー事件に関連して色々な本を読んだり、色々な話を聞いたのですが、最高裁で逆転無罪をとるのは、ある本によれば、ラクダを針の穴に通すより難しいそうです。
私だけではどうすることもできませんので、今後もみなさんのご支援、ご指導、よろしくお願い致します。
高見秀一弁護士の話&質疑応答
・犯行を目撃した証言はナシ
こんにちは、弁護士の高見です。今は弁護団は5人でやっているのですが、今日はここに4人来ています。
今日は目撃証言の信用性について、少しご説明したいと思います。
その前提として、まずは事件当日の状況を少し説明しますと、事件の発生は平成10年(1998年)7月25日午後6時以降です。そして事件当日、カレー鍋にヒ素が混入された現場とされている民家のガレージには、カレーの鍋が2つありました。この2つの鍋のうち、東側に置かれていた鍋にヒ素が入っていたのです。
そのカレーを食べた4人の方がお亡くなりになり、63人の方がヒ素中毒になられたんですね。
しかし、その「ヒ素が入っていた東側のカレー鍋」のフタを眞須美さんがあけ、ヒ素を入れた場面を目撃したと証言している方は誰もいないわけです。そういう直接の目撃証言はどこにもないわけですね。
そして、この事件において、最も有力な目撃証言は「眞須美さんが、ヒ素が入っていなかった西側のカレー鍋をあけているところを見た」というHさんの証言なんです。これ自体、有罪の直接の証拠ではないのですが、この裁判では重要な状況証拠とされているわけです。
・有力な目撃証言の問題点
それで、この目撃証人Hさんは、ガレージの向かいの家に住んでいた方なのですが、平成10年9月11日付けの検察官調書でHさんは、カレー鍋の見張りをしていた眞須美さんの服装について、こんな供述をしています。
「林のおばちゃんは、白色のシャツに黒っぽいスボン姿で、首の後ろから両肩に垂らして白色のタオルをかけていました」
これは、とても臨場感のある証言なんです。というのも、この調書でHさんは「林のおばちゃんは、首にかけたタオルで顔の汗を拭きながら、Oのおばちゃんにペコペコお辞儀をしていました」と眞須美さんの動きなどをかなり細かく証言しているんです。
そして一審の法廷でも、Hさんは「被告人の服装は、白いTシャツに黒いスボンで、髪の毛は肩まで届かないが、耳は隠れてるくらいの長さだった」と証言されています。
で、ここで何が言いたいかというと、事件当日、眞須美さんが着ていたシャツが何色だったのかが問題なんです。
というのも、眞須美さんが事件当日に着ていたのは、黒いTシャツなんです。そして、首にタオルも巻いていなかったんですね。
事件当日、白いTシャツ姿で、首にタオルを巻いていたのは、眞須美さんと一緒にカレー鍋の見張りをしていた二番目の娘さんです。つまり、Hさんは眞須美さんではなく、次女の方を目撃していた可能性があるんですが、その点については後で説明します。
眞須美さんの事件当日に着ていたTシャツが黒だったというのは、決して我々が勝手に主張しているわけではなく、少なくとも捜査段階では、他の地域住民の方々もそう供述しておられたんです。
たとえば、上のHさんの証言に出てくるOさんという方は、眞須美さんと一緒に午後12時頃からカレー鍋の見張りをしていて、途中で眞須美さんを残して家に帰った人なんですが、10月1日付けの警察官調書で、
「この時の林さんの服装は、黒か紺のダボダボしたTシャツと、ズボンはさらっとした素材がサテン系のイージーパンツで、お化粧はしてなかった感じでした」
と供述しておられました。
この調書をみると、Oさんは、記憶が曖昧なことについては、曖昧だと言っている。たとえば、Tシャツが黒か紺かという部分がそうです。その一方で、眞須美さんのTシャツはダボダボしていたとか、とても具体的に話していたんですね。
また、Oさん以外にも、1時頃からカレー鍋の見張りをしていたMさんという方が、9月17日付け警察官調書と10月1日付けの警察官調書で、
「林の奥さんは、黒っぽい服を着ていたと思います」
と二度に渡って、眞須美さんの服装が黒だったと供述しています。
さらに、もう一人の1時からの見張り当番だったTさんという方も、9月23日付けの警察官調書で、
「林さんが黒のTシャツ姿で、右手で子供を抱えるようにして、ガレージに来たのです」
と言っておられます。
つまり、証拠上、眞須美さんが事件当日に着ていた服装が黒だったことは明らかだと思うんです。眞須美さんが白いTシャツを着ていたと言っているのは、眞須美さんがカレー鍋のフタをあけるところを見たと言っている目撃証人のHさん1人だけなんですね。
・Tシャツの色に関する住民の証言が公判で変遷
ところが、一審の公判では、捜査段階で眞須美さんのTシャツの色を「黒か、紺」と言っていたOさんの証言が変わるんです。
具体的に言うと、「(眞須美さんは)ダブダブの白いTシャツと、黒っぽいズボンでした」となってしまったんですね。
で、このようになぜ、Oさんの証言が変わったのかというと、この点についてOさんは法廷で、
「自分の記憶としては、最初は白いTシャツだと思っていたが、自分の記憶に自信がなかったから、捜査官の情報に左右されてしまったんです」
と証言しています。つまり、捜査官の情報に左右され、捜査段階では、眞須美さんの服装を本当は「白」だと思いながらも、「黒か、紺」と答えてしまったとOさんは言っているわけです。
しかし、その他のMさんやTさんは捜査段階のみならず、一審の法廷でも眞須美さんのTシャツの色は黒だったと証言しているんですね。
具体的に言うと、Mさんは「上だったか下だったか、黒っぽいかと思います」と言い、Tさんも「黒っぽい服着ちゃったかなと思います」などと言っています。
こうなると、Oさん一人が法廷で証言を変えたくらいでは証拠上、眞須美さんのTシャツが黒だったことは動かないと思うんです。しかし、判決は、目撃証人のHさんが「Tシャツは白」と言っていることをもって、眞須美さんのTシャツは白だったと言うんですね。
しかし、白か黒か、というのは大きな違いですよね。もちろん、人の記憶は曖昧だし、「一昨日、あの人が何色の服を着ていたか?」などと聞かれ、正確に答えられる人は少ないでしょう。それでも、服装が白か黒かくらいは間違わずに言えるでしょうし、地域住民の多くは黒だと言っているのなら、眞須美さんが事件当日に着ていた服は黒であるはずです。
では、ここで視点を変えて、Hさんの証言のうち、カレー鍋のフタをあけていた人のTシャツの色が白だという部分が仮にが正しいとするならば、鍋のフタをあけていたのは一体、誰だったのでしょうか。それは、先に述べたように、眞須美さんの次女だったということになるはずです。
実際、次女の方も、自分は白いTシャツを着て、カレー鍋の見張りをしていた母とずっと一緒にいたと証言しています。
しかし、高裁判決は、
「Hは被告人の服装について、注意して意識的に見ていたわけじゃないんだから、服装に関する証言が曖昧になっても不思議ではない」
と言うんですね。
「不思議じゃない」と言っても、合理的疑いが残ったら無罪にしないといけないのが刑事裁判のルールなので、この裁判官の発想はおかしいんです。
・眞須美さんは事件当日、本当にタオルを首にかけていたのか?
Hさんの目撃証言については、Tシャツの色と共に「眞須美さんがタオルを首に巻いていた」と言っている点も、公判では問題になりました。
その点について、一審判決は次のように言っています。
「①Hは一階リビングから被告人の姿を見た時は、『首にタオルはかけていなかったと思う』と証言している。これによれば、午後0時20分頃から、被告人がOと見張りを交代した時間にかけては、被告人はタオルを持っていなかったと認められる」
「②ところが、被告人がその後、1人で鍋の見張りをしていた時の状況に関し、Hは『被告人は首にかけたタオルで顔や首の汗をぬぐったり、口元にあてていた』と証言するが、この証言は具体的かつ自然な内容で信用性が高い。してみると、被告人は、鍋を1人で見ていた時間帯には、タオルを首にかけていたことになる」
「③以上のような事実関係を踏まえると、被告人は午後0時20分頃から、午後1時頃までの間に、少なくとも一度はガレージを留守にしてタオルを持ってきたと認められる」
これを見ると、判決はハッキリそう言っているわけではありませんが、眞須美さんが一度家に帰り、ヒ素を持って再びガレージに来たと暗に匂わしているわけですね。
ところが、「眞須美さんが首にタオルを巻いていた」と証言したのも、実は目撃証人のHさんだけなんです。
その他の住民の証言をみると、たとえば、前出のOさんは10月1日付けの警察官調書で「被告人は顔や、首の汗をTシャツの肩のあたりの布地を引っ張って、ふいていた」と証言しています。
この証言は非常に具体的ですね。眞須美さんがTシャツで汗をふいていたということは、タオルを首にかけていなかったわけです。
また、前出のMさんも「被告人が首にタオルをかけていたということについては、全然気づかなかった」「わからない」などと言っている。
こうなると、眞須美さんが首にタオルを巻いていたという認定はおかしいんじゃないかと思うんです。
では、真相はどういうことかというと、やはり首にタオルを巻いていたのは別の人、つまり、眞須美さんの次女だと思うわけです。
実際、次女の方もちゃんとそう証言したんですが、高裁判決は「母親を守るために虚偽の供述をしたのは明らかだ」と言うんですね。
しかし、さらに調書などをよく見ていくと、「眞須美さんは最初、タオルを首にかけていなかった」と証言しているHさん自身も、実は捜査段階では「林のおばちゃんは、最初から首にタオルを巻いていた」と証言しているんですね。
この点から見ても、Hさんが目撃したのは眞須美さんではなく、やはり次女の方である可能性が高いわけです。
・今回も飛び出した「真犯人への自首のススメ」
ここで、今日の話を今一度復習しておきますと、「西側のカレー鍋のフタをあけるところを見た」と証言しているHさんは、眞須美さんが白のTシャツを着ていたと言っていますが、少なくとも、捜査段階では、眞須美さんが白のTシャツを着ていたと証言した人はHさん以外にいませんでした。
そして、公判でも、1時に見張りを交代した人たちは、眞須美さんのシャツは黒かったんじゃないかと証言しています。ただ一人、Oさんという方だけが公判では、眞須美さんは白いTシャツを着ていたと捜査段階から供述を変えましたが、これはおそらく、Hさんが白いTシャツだと言っていたので、検察官による証人テストでTシャツの色がHさんの証言と合致するようにOさんは、誘導されたんじゃないかと思います。
実際、この事件の裁判では、他の場面でそういうことがありました。証人テストの際、「あなたは、捜査段階でこういう証言をしたんですよ」と調書を見せられたことを証言している住民の方がいるんです。
それで、最後に1つ言わせて頂くと、この事件の真相が、たとえば、「騒ぎを起こしてやろう」とか「カレーを食べた人たちがオナカをくだしたら面白いだろう」ということで、誰かがヒ素をカレー鍋に入れていたということなら、犯人の罪は「殺人」ではなく、「傷害致死」ということになるんです。
そして、「傷害致死」なら、この7月25日で事件発生から10年になるんで、時効が成立します。ですから、時効が成立してからでもいいので、真犯人の方には、名乗り出て欲しいと我々弁護団は思っています。
高見弁護士の話が終わった後で、質疑応答の時間を設けました。質疑応答の主な内容は次の通りです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
【質疑応答】
──ヒ素の入ってなかったほうのカレー鍋のフタをあけたという内容に過ぎない目撃証言なぞ、そもそも仮に信用できるとしても、有罪の証拠になりえないのではないか?
たしかに砒素が入っていたのは東鍋のほうで、ヒ素が入ってなかった西鍋のフタをあけたからといって、「それがどうなん?」という考え方もできると思うんですが、裁判所はこれを不自然な行動と言っているんですね。
ヒ素が入ってなかったほうのカレーの鍋でも、フタをあけたのが変な行為だと言われたら、変な行為なのかもしれませんが、だからといって、ヒ素が入っていた東鍋のフタをあけたことにはつながらないわけだし、そういった意味からも、この事件の証拠が脆弱だということが言えると思います。
──眞須美さんと次女が二人でいたか否かについて、目撃証人のHさんはどう証言していたのか?
Hさんの目撃場所からは、壁などが邪魔になって、次女の方の姿がHさんには見えなかった可能性もあります。それで、次女の方がなぜ、西鍋のフタをあけたかというと、鍋に指を入れてカレーを味見したんですね。
これを高裁判決は「カレーは熱かったはずだし、指を入れるなんてありえない」と言うんですが、次女の方がカレーを味見した時は、カレーの火をとめて40分以上経っているんです。その時、カレーの表面に近い部分の温度が何度だったかという証拠はない。
我々が実際に実験したら、火をとめて40分経てばカレーは熱くないし、少なくとも表面に近い部分には、いくらでも指をつっこめる。それなのに、高裁判決は「指をつっこめるはずがない」と言っているんです。
──カレー鍋にヒ素を入れる機会は、眞須美さんにしかなかったと判決は言っているそうだが?
カレーができて、夏祭り会場に持ち込まれるまで、カレー鍋の周りで一人きりになる時間帯があったのは眞須美さんだけだったと認定されているんです。
眞須美さんはカレー鍋の見張りをしている間、ずっと次女の方と一緒にいたわけですから、この認定自体がおかしいと思います。
そして、仮にこの認定が正しかったとしても、正午頃にカレーができあがった後、1時間交代で二人ずつ主婦が見張りをしていた間には、主婦たちがきちんとカレーを見張ってなかったと伺わせる事実がいろんなところから出てくるんです。
公判では「それだったら、見張りになってないじゃないないですか?」と裁判長が補充尋問した場面もあったんです。カレー鍋を誰かが見張りをしている時間帯でも、これならば犯人がヒ素をカレー鍋に入れることも可能だったと思うんです。
──林家などから見つかったヒ素と、犯行に使われたヒ素が科学鑑定で「同一」と結論されたそうだが?
カレーの中に入っていたヒ素と、林家などから見つかったとされるヒ素は、不純物の割合が同じだという鑑定結果が出たのですが、林家にあったヒ素は、中国で大量につくられていたヒ素のごく一部です。
林家がヒ素を購入したのと同じ時期に、同じヒ素が少なくとも50キログラム入りのドラム缶が輸入されています。そのうち、林家が購入した以外のヒ素の行き先は特定されていない。たとえ、科学鑑定結果を元に「同一」だと言われても、証拠能力は担保できてないと思います。
※なお、薬品会社への勤務歴があるゲストの河野義行さんによれば、「ヒ素は特定毒物じゃないので、誰でも買えたでしょう。今だって、試薬の会社に行き、住所氏名などの身分を明らかにすれば、誰だって買えるはずです」とのことです。
林眞須美さんからのメッセージ
本日は、大変お忙しいなかご遠方よりご参加いただきどうもありがとうございます。
ちょうど2年前の3月20日、東京の集会で、一審からの弁護人の小田幸児先生が、この事件には数多くの疑問や矛盾があるとことを指摘してくださいました。
またその席で、高校を卒業してすぐの長男が家族を代表して参加し、思いを述べ支援を訴えました。
そして支援する会もこの日に発足しました。
それ以来少しづつですが、東京、大阪での集会を重ねるたびに支援の方が増えつつあり、大変心強く思い過ごしています。
さて、私の日々の生活は、24時間監視カメラ下に置かれ、一番劣悪な環境の特殊第二種房での独居生活です。
他の人はイグサの畳ですが、私はふちのないビニールの畳3畳一間です。
このビニールの畳はとにかく冷え込み、それに四方の壁はコンクリートのセメント壁ですから、布団を敷いてもすぐに冷たさがしみこんできます。
そして窓やドア等も、もう古いため、すきま風がピュ-ピュ-と入ってきます。
支援者からのカンパ金でカイロを購入でき、私は暖をとり、この冬を無事過ごすことが出来ました。とはいえ、2月の3日、4日はカイロを10個しても、寒くて冷たくてとても布団から出ることもできずに過ごしていました。
受刑者の人やカイロもない方々は「殺される」「殺される」と叫んでいました。
3月になり、やっと暖かさを感じられるようになり、春を待ち遠しく感じて過ごしています。
今は桜の花を楽しみにして過ごしています。
さて、私は砒素を使った食事を保険金殺人のために食べさせたということで、3件の殺人未遂事件で有罪とされています。
しかしながら、元従業員Aさんへの殺人未遂事件は、この3件と同じ内容なのに、1審で無罪判決がでました。そして検察官が控訴をせずに無罪が確定したのです。
これら4件の砒素を使った保険金殺人事件は、全てカレー事件で私を有罪とするために、私一人の犯行とするストーリーを、捜査官が仕立て上げていったものなのです。
これはもうメチャクチャな話です。
なぜならば、この殺人未遂事件の対象となった全ての人が、保険金を自分で受け取り自分で使っているからです。
入院の必要がないのに、「入院給付金」と「高度障害保険金」を得るために、医師と弁護士に演技をして、入院を引き伸ばして保険金を得ているのです。
カルテよりも入院している本人が、仮病を使い入院を引き伸ばしていることは明白なことです。このことは裁判でもはっきりしていることです。
それなのに裁判所ではこれらのことを、1,2審で私一人の犯行とし、殺人未遂事件3件で有罪とし、それを状況証拠としてカレー事件に使っているのです。
全く信じられないことなのですが、これが真実です。
本日のゲストの河野さんにもお話していただけたかと思いますが、捜査官がストーリーを作り冤罪を作り出す。そして、ひとりの人の人生を平気で奪うという大変恐ろしいことが平気で行われているのです。
私は逮捕の時より、誰に何をどう言われようと、警察での取調べがどんなに苦しくても、「私はカレーに砒素を入れていません」「犯人じゃありません」といい続けてきました。
これ以外に私は何も言いようがありませんでした。
今でも4人の子供たちの笑顔が、逮捕された日から、私の大きな支えとなって過ごしてきました。
4人の子供たちの方が私の何倍も、外の社会に出て、悔しく腹立たしい思いをして、施設で、兄弟4人しかいない、日本中が敵だと思う中でも、彼らは仲良く力を合わせて歯を食いしばりながら成長してきてくれたのです。
自分たちの苦しいことはさておいて、私に激励し続けてくれたのです。
子供たちの笑顔に答えるためにも、日本中の方がたに、裁判のことを知っていただき、私の真実の姿を知っていただき、何としてでも無罪判決を勝ちとりたく、また勝ちとらない限り死んでも死にきれません。
私は犯人ではないのに、国に死刑にされてはたまりません。
死んでも死に切れません。
このままでは国に殺されてしまいます。
日本中の皆様、裁判の現実を知ってください。
そして、どうか助けてください。
本日はほんとうにありがとうございました。
平成20年3月15日
林 眞須美