この萎縮現象は、表現の自由の自殺行為だ
2008年04月02日
なんということだろう。
ドキュメンタリー映画『靖国』の上映を予定していた映画館が、相次いで上映中止を決め、東京都内ではどこも上映する所がなくなってしまったのだそうだ。
映画館の言い分を、毎日新聞は次のように伝えている。
<銀座シネパトスを経営するヒューマックスシネマは「上映中止を求める電話がかかったり、周辺で抗議行動があった。近隣や他の観客に迷惑がかかるため、中止を決めた」としている。一方、Q−AXシネマの営業責任者は「具体的な抗議や嫌がらせはないが、不特定多数の人が集まる施設なので、万が一のことがあってはならない」と、上映見送りの理由を語った。>(毎日新聞より)
唖然とした。
こんな程度で、上映を辞めてしまうとは……
しかも、それを「近隣や他の観客に迷惑がかかる」などと正当化するとは、まさに噴飯モノである。
念のため、私も確認してみた。
たとえば、上映が中止になった映画館の中で、一番「抗議行動」を受けていたヒューマックシシネマ。上映中止を求める電話は10数本。周辺での抗議行動は、全部で3回で、いずれも街宣車1台が長くて30分程度、「上映を中止せよ」とがなり立てたとのこと。その都度警察に連絡をし、対応についての相談にも乗ってもらっていた。警備員を雇うという話も出ていたが、「女性の従業員が怯えているし、対応しきれないんじゃないかということで、会社として中止が決まった」そうだ。
Q−AXシネマの場合は、何の威嚇を受けたわけではないのに、「何かが起こってからでは取り返しがつかない」などと中止を決めてしまった。どういう危険性を想定したのかをいくら尋ねても、「いろいろ」と言うばかりで具体的な話は何もなかった。何を聞いても、質問に答えようとはせず、判で押したように同じ曖昧な言葉が返ってくるだけ。担当者の口ぶりからは、外からの問い合わせや抗議に対する対応マニュアルができているように思われた。
最初に上映中止を決めた新宿バルト9も、報道を見る限り、格別の威嚇や業務妨害を受けていただけではなさそうだ。
これといった威嚇や脅迫もないのに、上映をやめてしまったという今回の映画館の判断は、事なかれ主義もここに極まれりという感じだ。
かつて、戦時中に新聞記者だった人から、当局の規制以上に新聞社や記者たちの自己規制が言論・表現・報道の自由を後退させたという話を聞いたことがある。
現在私たちが直面しているのは、当局の取り締まりを恐れての自粛ではなく、漠然とした不安だけで表現活動を止めてしまう恐るべき「萎縮」現象であり、表現の自由の自殺行為だ。
高輪プリンスホテルが、日教組の大会や宿泊の契約を一方的に反故にし、集会・結社の自由を毀損したのも、右翼の街宣活動を恐れての萎縮だった。
同ホテルの契約解除は、裁判所の判断をも無視して行われた。宿泊キャンセルについては、旅館業法違反と港区が判断し、何らかの処分を行う方針だ。
にもかかわらず、同ホテルは、<ホテルご利用のお客さま、ホテル周辺の住民の方々、病院・学校・受験生などの多くの方々の「安全・安心」を最優先に考えた結果ということであります>と自己正当化をする文書をホームページに掲載し続け、未だに反省の色がない。
右翼の街宣車が「多くの方々の『安全・安心』」を脅かす心配があるというなら、そのために警察がいるはずだ。
ところが、プリンスホテルは以下のような責任逃れの言い訳をしている。
<警察当局から私どもには具体的な警備のご相談が一切ございませんでした。こうした状況では完全に安全な状態での集会の開催は事実上困難と判断いたしました>
警察当局の方から「ご相談」にやってくるのを漫然と待つのではなく、自分たちから「警察当局」に相談に行けばいいではないか!
今回、上映中止を決めた映画館には、裁判所の判断さえ平然と無視して違法行為を続けた高輪プリンスホテルほどの悪質さは感じられない。とはいえ彼らの、自分たちは「表現活動の場」を提供しているという自覚の欠如には、唖然とするばかりだ。
なお、やはり上映中止となったシネマート六本木、シネマート心斎橋を経営するエスピーオーの担当者は「こちらから上映中止を決めたのではなく、配給会社の方から中止の連絡があった」と説明し、配給会社の方が一方的に作品を引き上げてしまったのだと主張する。それに対し、配給会社であるアルゴ・ピクチャーズは「事実に反する」と反論。「エスピーオーから電話で上映は中止すると言われた」という。
言い分は真っ向から対立するが、エスピーオーは、上映中止を新聞各紙に批判された後、<「靖国 YASUKUNI」上映中止に至る経緯に関しまして>と題する、責任は配給会社側にありと主張する文書を発表。その文書の最後には<通常の上映が安全にできる環境が可能であれば「靖国 YASUKUNI」の公開を希望するものであります>とあり、あくまで同社が上映に前向きであることが強調されている。わざわざこんなことを書くくらいなら、仮に配給会社側から辞退の申し入れがあったとしても、なぜ説得し、公開を実現するために努力しようとしなかったのか。それが、この映画の公開を待っている人たちのために、映画館経営者が果たすべき責任だろうに。
一連の問題につき、「上映中止の責任を映画館側に押しつけてはいけない」(映画監督の羽仁進氏・毎日新聞)と、映画館をかばう意見もあるようだ。しかし、私は、そういうかばい合いこそが、映画館経営者の無自覚を蔓延させると思う。
日頃表現の自由の恩恵を受けている映画館は、そうした自由が脅かされないよう努力する義務がある。そうすることで、表現者の権利、自分たちの利益を守ると同時に、国民の知る権利に応えることになる。これは、映画館を営む者や会社の職業倫理と言えるだろう。
経緯はともあれ、上映中止とした映画館は、この最も大事な職業倫理をないがしろにしてしまった。耐震偽装をした建築士、手抜き工事をした建設会社、欠陥商品によって消費者に被害を与えたメーカーにも等しい(あるいはそれ以上の)非行として、映画館の上映中止の判断は大いに非難され、追及されて然るべきだ。
映画業界からは、このように映画界の職業倫理を損なった無自覚な映画館には、当面の間、一切配給をしないなどのペナルティがあってもいいのではないか。
表現の自由を脅かすのは、組織としての国家権力とは限らない。個々の政治家だったり、政治団体だったり、暴力団だったり、宗教団体だったり……いろいろだ。そのような集団に対して、ひとり徒手空拳で立ち向かうのは難しい。だからこそ、そういう時のために、法律があり、警察や弁護士がおり、メディアが存在している。警備員を雇うなどの自助努力はもちろん必要だが、それだけではなく、警察や弁護士に相談したり、メディアを通じて世論に訴えたり、被害を出さずに表現の自由を守るための工夫はいろいろできるはずだ。
そうした出費や手間は、表現の自由を守るための必要経費である。それを惜しみ、具体的な危険もないのに、「何かあったら……(面倒、怖い、困るetc)」という不安だけで表現活動を止めてしまうような者は、表現に関わる仕事を生業にする資格がないと言わざるを得ない。
もちろん、大音響で威嚇的な抗議を行い、嫌がらせを行う個人や団体も問題だ。
こうした嫌がらせから、警察が言論・表現・集会の自由をどれほどしっかり守っているか、ということも問い直されなければならない。
今回の映画に関しては、公開前に国会議員向けの試写会を行うという異常な状況を作った稲田朋美衆院議員らの言動の是非も議論されるべきだろう。稲田議員は、問題にしているのは、助成金の支払いが妥当であったか否かであるとし、試写は事前検閲でないと主張している。たとえそうだとしても、今回のような異常な状況が、民間企業である映画館に対してどれほどの圧力になっているかを認識し、自分たちの権力の大きさを自覚してもらいたい。
そのうえで、もう一度言う。
映画館に限らず、新聞やテレビ、出版社、そして個々のジャーナリストや評論家、作家も含めて、言論・表現・報道の自由を享受している企業や個人は、そうした自由を守り、国民の知る権利に応える責務を負っている。
私も、この原稿を書きながら、自らの責任の重みを改めてかみしめている。
ところで、この映画を上映するまっとうな映画館はどこにもないのだろうか。
名乗りを上げたところがあれば、そこで正常な上映をできるように、そしてちゃんと利益が上げられるようにしたい。
私も見に行く。
威嚇や業務妨害があれば、警察は毅然と対応すべきだし、そのために声も挙げたい。
言論・表現・報道の自由を守る者を、みんなで守る。それでこそ、言論・表現・報道の自由は守られる。