断っておくが、この記事はすべて私の考えであり、反論のある方は、ぜひ反論記事を書いていただきたい。日本の複雑な事情に詳しい方たちのいろんな考えをぜひ読んでみたい。
◇ ◇ ◇ 星野文孝さんが書いた「『日の丸』を掲げなくなった日本の祝祭日」という記事がある。1月7日に掲載されたものだ。内容は至ってシンプルで「祝祭日に日の丸を偶然見つけてなんか嬉しかった…」という内容だ。 コメント欄もちょっとした議論が行われて、私も異邦人の目から「日の丸のデザインは美しい」と書き込んだ。また、「日の丸」のデザインはどても親しみやすいものだと思っている。この考えはたぶん死ぬまで変わらないだろう。 私は、その時行われたコメント欄での議論に少し驚いた。韓国では、国旗を祝祭日に家や役所などに揚げるのは、当たり前のことだからだ。国のシンボルである国旗に対して疑問を感じるなんて考えたことがない私にとって、このコメントの論争は新鮮だった。 4月3日、大谷憲史さんの「国歌を歌うことはいけないことですか?」という記事が載った。記事の元ネタになったのは、ある学校の卒業式だった。 私も元記事の「国歌斉唱起立1人 卒業生170人 教員が指導か 門真の第三中」(産経新聞、3月26日付)を読んでいた。入学・卒業式の際に行われる「国歌斉唱時に起立するかどうか」を「個人の自由」にしてしまうのは簡単だ。しかし、いくらなんでも「約170人の卒業生のうち男子生徒1人を除く全員が国歌斉唱時に起立せず、その多くが斉唱もしなかった」ことは異常である。 産経新聞が教師の指導に疑惑の目を向けたが、教師たちは学生に「個人で判断しろ」と言っただけのようだ。しかし、いくら個人で判断したとしても「数値のバランス」がある。170人のたったの1人って……。 原則的に愛国心というは強制すべきものではない、という主張には同意したい。自然と生まれてくるのが一番いいことだが、なかなか自然と生まれて来ないのが、愛国心だ。 そもそも学校制度を取っているのに「愛国心を強制するな!」と言うのは矛盾している。近代国家の形成以来、国家の構成員を育成させる場所が「学校」と「軍隊」だからだ。言い方を変えれば軍隊で「強制的な愛国心を持っちゃだめだ!」と同じ主張だ。妄想だが、もしこのむちゃな主張が通ってしまう軍隊は、戦争が起きたら負け必至だ。当然、国は亡くなる。 昔は民族が国家より上位概念だった。その民族性から個人のアイデンティティが保たれてきた。しかし、民族の概念が薄れた今は、その代役を国家が務める。「どこの国の出身です」で自分の1次的なアイデンティティは確保してくれる。 この現実を受け入れてくれないと、話は進まない。 日の丸、あなたはどう思う?(撮影:(写真はイメージ)) フランスは、68革命の結果によって学校の記念式で国歌を歌うことはなくなった。しかし、彼らは居酒屋でも公園でも自然に「ラ・マルセイエーズ」を歌う。 「個人の自由」以前に「礼儀」に近く、また堂々とどこでも歌える開放性を持ったものが国歌なのだ。国旗と国歌は、国を代表するシンボルである。礼儀よく楽しまないといけない。 私の周りには、なぜか「強制的な愛国心はどうも受け入れられない」と言っている日本人が多い。「なぜだめですか」と聞く。 そうすると、大谷さんの記事のコメントについたしぶてつさんのように「入学式や卒業式に国旗を掲揚したり、国歌を斉唱したりすることと、その個人が国を愛することは別ものだと思います」のようなごく論理的な答えが返ってくる。 いろんな意見があっていい。しかし、その彼らが、ある意味全体主義的な出来事である「170人の内に1人しか起立しなかった」今回の件をどのように受け止めているのか、ぜひ聞いてみたいものだ。 まあ、その「169人」の学生が、ただ面倒くさくて立たなかっただけじゃないかと思うと、これはこれでスッキリする話だが……。
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