桜の季節である。岡山では今週、一気に開花が加速しそうだ。花見日和に人々の心も浮き立つだろう。
古来、桜は日本人の生活と深く結びついてきた。「桜の美しさが諸悪を払う。それゆえ、人は桜の下に集うのであった。…その花に寄せる思いが花見となった」(小川和佑著「日本の桜、歴史の桜」)。
平安時代から花といえば桜を指した。その命は、はかなく短い。だからこそ、人々は花を惜しみ、その無常観に心ひかれるのである。桜は日本人の美意識に最も共鳴する花といえるだろう。
「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。…咲きぬべきほどのこずゑ、散りしをれたる庭などこそ、みどころおほけれ」。有名な徒然草の一節には兼好法師の花見論がうかがえる。桜は咲く前や散った後にこそ詩的な深い情趣があるというわけだ。
著書「ヘタな人生論より徒然草」の中で、荻野文子さんはこれを人生哲学に拡大してみる。つまり、長い人生を点でなく線でとらえてみると、不完全な状態も「価値ある過程のひとつ」と考えることもできる、と。
新社会人として一歩を踏み出した若者たちには、若さゆえの苦労も多かろう。しかし、プロセスを経て成果が花開く日がきっとくるはずだ。新しい世界で挑戦する意気込みを持ち続けてほしいものだ。