狂乱の「阿波戦争」 女性候補自民3選阻む 徳島の参院選(地方区、選挙区)を語る時、まず浮かぶのが一九七四(昭和四十九)年の第十回選挙。田中角栄首相(当時)派で自民党新人の後藤田正晴氏と、公認漏れした現職で三木武夫副総理(当時)派の久次米健太郎氏が事実上の一騎打ちを繰り広げたこの選挙は、白昼にも買収現金が飛び交う狂乱ぶりで「三角代理戦争」「阿波戦争」とやゆされた。結果は久次米氏十九万六千二百十票、後藤田氏十五万三千三百八十八票で久次米氏が当選したが、数百人にも上る大量の選挙違反摘発者を出したことで、金権選挙の汚名を残し、その後の三木・後藤田保守両派の対立をもたらす。 戦後、地方の保守政治家の多くは地主層を中心とした素封家だった。徳島で藍の豪商から政界に出て、活躍したのが三木与吉郎氏。戦前の一九四二年、三十七歳で衆院初当選。戦後、公職を追われたが、五三年の参院選で復帰し、三期連続当選した。五七年から七五年まで自民党県連会長を十一期務めたほか、「三木文庫」創設など、文化、経済面でも功績を残した。 三木与吉郎氏の引退を受けた七一年の選挙では、前衆院議員の小笠公韶氏が、自民党公認で県議の伊東董氏を破る。参院徳島地方区で自民党公認候補が敗れたのはこの時が初めてで、県保守政界に与えた衝撃は大きかった。 八〇年、史上初の衆参同日選挙。現職の久次米氏を公認争いで退けた県議の内藤健氏と、県労評議長で社公民協力を得た無所属の前田定一氏が大接戦を演じた。内藤氏二十万三千六百八十六票、前田氏十九万二千九百六十三票。保守一本化の候補が革新候補にこれだけ苦戦したのは初めてだった。その内藤氏は再選をうかがったものの、出馬表明した県議の松浦孝治氏に公認を譲り、突然引退してしまう。自民の公認問題は、選挙ごとに持ち上がった。 小笠氏の後を受けて登場したのは、池田町出身で元食糧庁長官、元農林事務次官の亀長友義氏。八九年、三期目を目指したが、反自民の流れに乗った連合候補の乾晴美氏に敗れる。乾氏は本県初の革新系参議院議員で、女性の国会進出は紅露みつ氏以来二十七年ぶりだった。九八年には三木武夫元首相の長女、高橋紀世子氏が三期目を狙った松浦氏を破る。自民候補の三選を阻んだのが、いずれも女性だったというのは、何か因縁めいたものを感じさせる。 一九四七年の第一回参院選で当選したのは、赤沢与仁、岸野牧夫両氏(ともに無所属)。赤沢氏は鳴門市大津町出身で、大津農協組合長、県農協連会長などを歴任した人。岸野氏は三野町生まれ。一九二三(大正十二)年に県議会議員になり、三七年議長。県政界からの転身だったが、当選三カ月で公職追放に遭う。この岸野氏の辞任に伴う補欠選挙で当選したのが紅露みつ氏。紅露氏については「阿波の先人たち<9>」(昨年十二月十八日付)で紹介している。 今夏にある参院選。改選されるのは九五年に乾氏らを破った北岡秀二氏。ほかに三新人が名乗りをあげており、前哨戦が繰り広げられている。 |
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(2001年3月19日掲載) |