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酉の市
東京では、毎年11月の酉の日に、縁起物の熊手を売る「酉の市」があちらこちらの神社仏閣で立ちます。
熊手の形にちなんで運を「かっこむ(掻き込む)」といって縁起をかつぎ、開運や商売繁盛を願うのです。
もちろんこの熊手は実際に使うものではなく、熊手に七福神や鶴亀、米俵、お多福など、縁起の良い飾りがたくさんつけられたもので、これを家の玄関などに立てておくのです。
熊手の大きさは、手のひらサイズの小さなものから背丈より大きなものまで様々です。
ご商売や事業をやっている方のなかには、景気づけに大きな熊手を買って担いで歩いている方も多くいます。すれちがった人は、「景気がいいね」などと言いながら、楽しそうに振り返ります。こういった光景を見るのもまた、酉の市の楽しいところです。
↑大きな熊手を買って行く人
酉の市が立つ11月酉の日は、順に「一の酉」「二の酉」と呼ばれ、それぞれ0時から24時まで24時間にわたって開催されます。
年によっては「三の酉」まであります。昔から、「三の酉まである年は火事が多い」と言われているそうです。今年は二の酉までなので、ちょっと安心です。
酉の市といえば、やはり真っ先に思い浮かぶのは浅草・鷲(おおとり)神社。
台東区千束にある神社で、長國寺(通称・酉の寺)と隣接しています。
11月9日、鷲神社と酉の寺の「一の酉」へ行ってきました。
鷲神社への道中、熊手をもった人と何度もすれちがいました。
鷲神社の手前まで来ると、入場の列ができていました。
神社の門をくぐる時、門の両脇で神官がおはらいをしてくださいました。
↑鷲神社門前
境内には多くの熊手屋さんが並んでいます。
↑鷲神社境内の熊手店
何と、サンリオ特注の大きな熊手を売っているお店もありました。
↑サンリオのキャラクターをあしらった大熊手
鷲神社の本殿におまいりし、お守り売り場へ行きました。
今年は12年に一度の「酉年の酉の市」なので、例年にはない特別なお守りが授与されるのです。
しかし、数量限定だったため、すでに売り切れていました。0時の酉の市開始から2時間も経たないうちに売り切れてしまったのだそうです。
次に、いよいよメインイベントの熊手探しです。
といっても、行くお店は最初から決めていたのでした。向かった先は「よし田」さんの出店。
「よし田」は、浅草に古くからある鳶頭の家です。ここの大女将である吉田啓子さんは、酉の市の熊手職人として有名なのです。
今は、娘さんの京子さんも技を受け継ぎ、共に熊手づくりに励んでおられます。
ここまでですでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが、吉田啓子さんは、着物の情報誌や雑誌でもよく紹介されています。
「江戸好み」といった感じの粋な縞やしゃれた模様の着物をさらりと着て、「かみいさん(髪結いさん)」できりっとひっつめに結い上げた白髪に小ぶりの珊瑚のかんざしを差し、しゃきっと立っている姿は、まさに「江戸の粋」といった風情です。
↑浅草「よし田」の熊手店。中央が吉田啓子さん。
吉田さんが作る熊手は、飾りにプラスチックなどの化学素材を一切使っていません。紙と木だけで作った、手描きの七福神や宝船、大福帳、鯛などが飾られています。紙と木だけしか使っていないのに、とても立体的なのです。
すっきりとしているのだけどよく見るととても凝っていて、まさに「江戸前」といった感じです。
落語家さんや役者さんのなかにも、「よし田」の熊手をひいきにしている方が多いようです。
↑「よし田」の熊手
「よし田」さんの出店は、鷲神社境内に2か所出ているのですが、啓子さんがいらっしゃるメインのほうはかなり混み合っていたので、もう1か所で買いました。
商売繁昌といっても、勤め人の身ではタカが知れているので、担いで歩くような大きなものは買いません。片手で軽々と持って歩けるサイズのものと、手の平サイズのかわいいものを買いました。それでも、縁起物だからというので、手締め(三本締め)をしてくださいました。もちろん、買うほうも一緒に手を締めます。縁起物の市ならではのことで、やはり気分がよいものです。
「よし田」で熊手を買った後、鷲神社の隣にある「酉の寺」へ行きました。
本堂では、酉の市の法要が行われていました。
↑酉の寺
酉の寺では、「酉年の酉の市」限定の「金鷲熊手」が売られているというので、さっそく見てみました。こちらはまだ数が残っていました。それほど高い値段ではなかったので小さなものかと思っていたら、結構大きなサイズでびっくりしました。
せっかくなのでこれを買って、掲げながら帰りました。
↑金鷲熊手。「酉の寺」で12年に一度、酉年の酉の市で売られる。
酉の市で熊手を買ったら、小さなものでなければ、通常は手に持って歩きます。その際には、ちゃんと腕を上げ、飾りが付いているほうを前方に向けて熊手を掲げます。そうすると、熊手が向こうを向くので運を「かっこむ」ことができるのです。自分のほうに熊手を向けてしまうと、「かき出す」形になってしまいます。
「酉の寺」の金鷲熊手を持って電車に乗ったら、「あら、お酉さま(酉の市)ね」という感じでにこやかに見てくれる人が結構いたので、うれしくなりました。
酉の寺ではほかにも「酉年の酉の市」の特別頒布として、お札やお守りを買った人には縁起物の稲穂をつけてくださいました。
縁起物をたくさん手にして、気持ちも軽やかになった感じがしました。それこそが「開運」のための第一歩なのかもしれません。
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東京下町
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2005年11月09日
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東京時代まつり(3)
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東京時代まつり(2)
から続く>
次は「きれいどころ」の登場です。
↑江戸芸者
浅草花柳界の芸者さんたち。もちろん本物です。そろいの黒紋付を着てずらりと並んだ芸者さん、実に華やかでした。
↑おいらん道中
待ってました! 東京時代まつりの目玉とも言える「おいらん道中」。昨年は残念ながらこれがなかったのですが、今年こそはと楽しみに待っていました。
「おいらん」は「花魁」と書きます。花に魁ける、つまりどんな花よりも美しく華やかな存在だというのです。吉原遊郭のなかには3000人とも言われる数の遊女がいたそうですが、その遊女すべてが「花魁」と呼ばれていたわけではありません。一口に遊女と言っても様々な位があり、位が変われば呼称も異なります。吉原の遊女たちのなかで「花魁」は最高位にあり、容姿・教養・芸事すべてに秀でた女性しかなれなかったのです。当然、お客も大名や豪商などが中心で、普通の人はなかなか会うことができなかった存在です。京都の島原では「太夫」と言いますが、吉原の花魁と島原の太夫では、髪型や着付けなど様々な点でちがいがあります。
花魁の髪型は「横兵庫」というもので、大きな髪にべっ甲のかんざしが何本も飾られています。体の前で結んだ大きな帯には豪華な刺繍が施されています。着物は裾に綿がたっぷり入ったものを何枚も重ね、やはり豪華な刺繍が入った打掛を着ます。足は冬でも常に素足で、花魁道中の時には高い下駄を履き「外八文字」という独特の歩き方をします。島原ではこれが「内八文字」になるそうで、面白いです。
花魁道中の先頭は、店の名前の入った提灯です。提灯には「仲之町 松葉屋」と書かれています。
松葉屋は、吉原遊郭の「大見世」です。遊郭が廃止された後は料亭として営業を続け、近年では「はとバス」のコースにもなり、江戸名所のひとつとなっていました。しかし時代の流れか、今は営業をやめてしまったそうです。松葉屋が閉じてしまった今の吉原に、江戸時代の面影を残すものはありません。
花魁の名前が入った大きな提灯、遊女見習いの少女・禿(かむろ)に続いて、いよいよ花魁の登場です。店の名前の入った大きな傘を差しかけられ、男衆さんの肩に手をのせた花魁が、「外八文字」でゆっくりと歩いてきます。男衆さんは「吉原つなぎ」の柄の浴衣に、手ぬぐいを「吉原かむり」にしている、粋な格好です。花魁の後には新造が続きます。
美しい絵巻物を見ているかのように華やかで、そこだけ時間の流れが止まっているように感じられました。
この後、新撰組や徳川慶喜も通ったのですが、花魁道中に見とれているうちに脇を通り過ぎて行ってしまいました……。
そして時代は明治へ。「江戸」は「東京」となり、大きく変わっていきます。
↑黒船来航
↑明治維新
↑樋口一葉
行列の締めくくりは「奥山風景」。浅草寺の裏手はかつて「奥山」と呼ばれ、多くの見世物小屋や大道芸人が出てにぎわっていました。その様子を表し、面売り、三河万歳、獅子舞などが続々と通りました。
↑面売り
↑三河万歳
↑獅子舞
そしてこの後も浅草は、六区興行街に芝居小屋や寄席、活動写真小屋などが多く立ち並び、東京の娯楽の中心地として栄えました。
この少し前に、京都の時代祭を見物してきた私。
歴史上の出来事というのは、立場や見方が変われば解釈もまた違ってきます。一口に「時代行列」といっても、京都・東京でそれぞれの特色が出ていて面白いです。
江戸は京都に比べるとたしかに歴史は短いですが、短い間にこれだけの発展を遂げただけあって、様々な面で凝縮されているというか、一種のパワーを感じます。
京都の時代祭ももちろん楽しいのですが、東京の時代まつり行列は、歴史上の人物から芝居の登場人物、本物の芸者さんまでバラエティーに富んだ遊び心のある構成で、京都の時代祭とはまた違った楽しみ方ができました。
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東京下町
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2005年11月03日
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東京時代まつり(2)
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東京時代まつり(1)
から続く>
次は、いよいよ江戸の礎が築かれていきます。
↑太田道灌
太田道灌公は「江戸の開祖」と言っても過言ではない人物です。彼が、豪族・江戸重嗣の屋敷跡に江戸城を築城しました。
ところで、道灌公の後ろにいる女性は誰だかわかりますか? 道灌公の愛人では決してありません。ある逸話に基づいた人物です。その逸話とは……。
太田道灌公は、和歌の素養も高い人物でした。ある時、道灌公が鷹狩りに出かけると、にわか雨が降ってきました。茶店の娘に雨具を貸してもらえないかと頼んだところ、娘はお盆の上に山吹の花を乗せて持ってきました。その山吹の花には、次のような歌が添えられていました。
「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞ悲しき」
「みの」は「実の」と「蓑」とをかけたものです。つまり「美しい花を咲かせても実のならない山吹のように、貧しい私にはあなたにお貸しできる蓑すらもないのです」という意味です。
道灌公は最初、この歌の意味を理解できませんでした。しかしその意味を知って歌のすばらしさに心を打たれ、「まだまだ自分は和歌の修行が足りない」と思い、以後いっそう歌道に精進しました。
道灌公の後ろにいる女性は、この時の茶店の娘を表しているのです。ちゃんと手に山吹の花を持っています。
沿道で見ていた人たちは、江戸のお客さんだけあってさすがにこの逸話のことに気づき、「あ、ちゃんと山吹の花まで持ってる」という声があちらこちらで上がっていました。
ちなみに上であげた逸話は、落語の「道灌」にも使われています。
↑江戸城築城 お石曳き
徳川家康が江戸城の大拡張工事を行った際、相模国(今の神奈川県)や東伊豆海岸から、城に適した石が運ばれました。その様子を表したものです。現在、静岡県の東伊豆町で「石曳きのお祭り」として伝えられているそうで、東伊豆町のみなさんが東京時代まつりのために来てくださっていました。沿道からはあたたかい拍手が起こっていました。
↑徳川家康の江戸入府
ご存じ徳川家康公です。隣には徳川秀忠もいます。
↑徳川家光
江戸幕府3代将軍です。家康によって築かれ、秀忠によって受け継がれていった江戸幕府は、家光の時に完成しました。後に幕府の基礎となる様々な仕組みが、家光の時代につくられたのです。いよいよ華やかな江戸文化の幕開けです。
↑大奥御殿女中
きらびやかな大奥の女性たち。このなかに春日局もいるのでしょうか。
↑参勤交代の大名行列
参勤交代の制度も、家光によって確立されました。各地の大名が幕府への反逆を企てることを防ぐため、一年おきに大移動を命じたのです。この行列では、顔を赤く塗った奴(やっこ)が、掛け声をかけながら練り歩き、房のついた長い棒を投げ合って交換する技を披露していました。
↑江戸歌舞伎
江戸には中村座(当初猿若座)・市村座・守田座(当初森田座)という3つの芝居小屋があり(当初はもうひとつ「山村座」があったのですが「絵島生島事件」によって取りつぶしになりました)、「江戸三座」と呼ばれていました。三座はもともと別のところで興行をしていたのですが(現在の歌舞伎座があるあたり「木挽町」では市村座が興行していました)、江戸時代後期に浅草・猿若町に三座すべてが集められ、浅草は一大興行街となっていたのです。
この行列では、子どもたちが「白浪五人男」「三人吉三」といった江戸歌舞伎の登場人物にかわいらしく扮していました。
↑助六と意休
江戸歌舞伎を代表する狂言といえる「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の登場人物、花川戸助六と意休です。
↑七福神舞
江戸三座のひとつ市村座では、興行が始まる前のご祝儀として「七福神踊り」を上演していたそうです。
↑元禄花見踊
元禄時代には、太平の世で江戸の町人文化が花開きました。ちなみに、この踊り手さんたちの着物のように、たもとを丸くして仕立てている袖を「元禄袖」といいます。
↑赤穂義士の討ち入り
おなじみ「忠臣蔵」のモチーフとなった、赤穂浪士の吉良邸討ち入りです。四十七士による仇討ちは江戸の庶民の間で大きな話題となり、すぐに芝居になりました。しかし、フィクションの世界で実名をそのまま使うことははばかられるので、芝居では微妙に人物名を変えているのです。
↑江戸町火消
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火事の多かった江戸。そのため、名奉行・大岡越前守忠相は、合計48組の町火消を組織して江戸の町に配置しました。今でいうと地元の消防団という感じです。町火消の組の名前は、「め組」「は組」など、いろは48文字を当ててつけられました。
↑江戸の人気者
大久保彦左衛門、水戸黄門、松尾芭蕉、一心太助の登場です。自分の出世を顧みず、多くの浪人たちを養ってその就職活動に奔走していたと言われ、講談や浪曲、歌舞伎でも有名な大久保彦左衛門(大久保忠教)。同じく講談・浪曲・歌舞伎で有名な一心太助は、江戸っ子気質の侠気(おとこぎ)に富んだ魚屋で、大久保彦左衛門から愛顧されていたと言われています。
大久保彦左衛門の役は何と、直系の方がつとめているそうです。魚を入れる桶で作ったかごに乗った彦左衛門さん、沿道の人々ににこやかに手を振っていました。魚桶をかついで走っている一心太助さんは、私がデジカメで撮影しているのを見ると、足をゆるめてカメラ目線になってくれました。一心太助役をつとめているだけあって、粋でいなせなおにいさんです。
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東京時代まつり(3)
に続く>
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東京下町
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2005年11月03日
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東京時代まつり(1)
「文化の日」の11月3日、東京・浅草で「東京時代まつり」が行われました。「ときめきたいとうフェスタ」という、東京都台東区主催の様々なイベントの一貫として毎年一度開催され、今年で17回目を数えます。
昨年も見たのですが、結構おもしろかったので今年も行ってみました。
仕事で徹夜明けだったのでどうしようかと思ったのですが、妹夫婦とも約束していたし、結構見たかったので、1時間ほど仮眠をとってから気合いで出かけました。遊びの時には気合いの入り方がちがいます(笑)。
東京時代まつりの開催に先立ち、浅草寺では「白鷺の舞」の奉納が行われます。
それも見ようと思っていたのですが、ギリギリに着いたら人だかりができていて近くでは見られなかったので、浅草寺の本堂前の石段を上がって遠巻きに見ていました。先に着いて前のほうにいた妹が撮影してくれたビデオを見られたので、よかったです。
白鷺の舞を見た後、昼食をとるために浅草寺の裏へ向かいました。浅草寺北側の一画は浅草の花柳界になっており、今でも芸者さんがたくさんいて、「草津亭」「婦志多」「瓢庵」「一直」などの老舗料亭が軒を連ねています。料亭にはもちろん予約がないと入れませんが、周囲には、予約なしで入れる小さなお店が点在しています。
途中、東京浅草組合(浅草見番)の前を通ったら、芸者さんが何人もいました。東京時代まつりに浅草芸者のみなさんも参加されるので、その仕度だったようです。
芸者さんを間近で見ていきなり目の保養ができた後、行きつけの釜めし屋さんでお昼を食べました。
妹夫婦と久々に会って話に花を咲かせているうちに、東京時代まつりが始まるころになったので、行列が通る「馬道通り」へ向かいました。
馬道通りは、浅草寺の東側を南北に走る通りです。時代まつりの行列は、浅草寺の東側にある「二天門」を出て馬道通りを南に進み、雷門通りを西に進んでゴールとなります。
距離は長くありませんが、馬道通りの両脇には長いシートがひかれ、座って観覧できるようになっています。浅草寺の本堂裏側には、有料観覧席も設けられていました。
沿道にはたくさんの人が出ていました。
馬道通りの観覧シートに座って待機していると、行列の先ぶれである屋台囃子がやってきました。
その後少し経ってから、いよいよ行列がやってきました。
最初は「東京時代祭」の旗です。旗の周りには「手古舞」姿の女性もいます。
京都の時代祭は、明治維新から順に時代をさかのぼっていきますが、東京時代まつりはその逆で、古い時代から順に下がっていきます。題材も、江戸に関連する人物や風俗を集めています。
↑浅草観音示現
その昔、隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成の兄弟が、黄金の観音像を見つけます。土地の豪族・土師真仲知は、この観音像を安置するために寺を建てました。これが浅草寺の起源と言われています。
↑金龍の舞
観音像がまつられて3日後に天から金の竜が舞い降りた、という伝説をもとにうまれた古くからの舞です。沿道の人々の頭の上に竜が降りてきて、厄をはらってくれます。ちなみに、浅草寺の正式な名称は「金龍山浅草寺(きんりゅうざん せんそうじ)」と言います。
↑金龍の舞のお囃子
浅草の芸者さんたちがつとめています。
↑在原業平の東下り
在原業平が京の都を離れ東国に下った際、川辺の水鳥を見て「名にしをはば いざこと問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」という歌を詠みました。その様子を表しています。
↑源頼朝の隅田川陣営
源頼朝は挙兵にあたり、豪族たちと共に浅草寺に参詣して戦勝を祈願したと伝えられているそうです。江戸重嗣は、12世紀にこの土地にいた豪族です。
↑北条政子の浅草寺参詣
源頼朝の妻・北条政子は、承久3(1221)年にお供を連れて浅草寺に参詣したと言われているそうです。北条政子は「尼将軍」と言われ、「強い女性」のイメージが強いですが、この行列の政子さんはとてもにこやかで、親しみをもてる感じでした。北条政子のイメージチェンジに一役買っているかも!?
↑三社祭 船渡御
浅草といえば三社祭。江戸時代末期までは、三社祭の時、お神輿を船に乗せる「船祭」が行われていたそうです。その様子を模しています。ここで乗せられているお神輿は、浅草神社の宮神輿ではなく、浅草神社氏子町内のお神輿です。
↑白鷺の舞、びんざさら舞
今でも三社祭の時に必ず奉納される「白鷺の舞」と「びんざさら舞」です。
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東京時代まつり(2)
に続く>
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東京下町
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2005年11月03日
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深川祭
※遅くなりましたが、深川祭の記事をアップしました。
8月12日〜14日、深川・富岡八幡宮の例大祭(深川祭)が行われました。
深川祭は、「江戸の三大祭」の一つで、江戸時代から続く由緒あるお祭りです。
ちなみに「江戸の三大祭」は、神田明神の神田祭、赤坂・日枝神社の山王祭、そしてこの深川祭です。
現在は浅草の三社祭が有名になってしまっているかもしれませんが、本来は上の3つが「江戸を代表するお祭り」だったのです。
「江戸の三大祭」には、どのお祭りにも本祭り(ほんまつり)と陰祭り(かげまつり)があります。
陰祭りの年は、神事のみを行う、あるいは神事と宮神輿の渡御のみを行うなど、簡略化された形となります。それに対して本祭りの年は、行事も多く大々的に行われます。
今年は、神田祭と深川祭が本祭りの年でした。
深川祭の本祭りは、3年に一度です。
本祭りでは、神幸祭のほかに、町内神輿の渡御が行われます。この神輿の渡御が、深川祭の目玉と言えます。
神輿の数は全部で何と56基、それが列をなして氏子各町内を練り歩くのです。
深川祭の神輿渡御には、いくつかの特徴があります。
一つは、神輿を「わっしょい」のかけ声で担ぐのが基本となっていること。
「そんなの当たり前じゃない?」と思われるかもしれませんが、この「わっしょい」のかけ声は、江戸の神輿の伝統的なかけ声なのです。浅草の三社祭などでは、いろいろなかけ声が混じっていますが、深川祭では、今もなおこのかけ声を守っています。
ただし、材木町だった木場や漁師町だった深濱では、別のかけ声が用いられます。その昔、町を構成していた職業の特色があらわれているようです。
次に、神輿や担ぎ手に沿道から水がかけられること。
このことから、深川祭は別名「水かけ祭り」と呼ばれています。
沿道の家々の人が桶に水を用意してかけるのですが、大きな通りでは消防の人たちがホースで水をかけていました。
↑至る所で神輿と担ぎ手に水がかけられる
そしてもう一つの大きな特徴は、永代橋を渡るとき神輿を差し上げて(=腕を伸ばして神輿を持ち上げて)通ることです(冒頭写真)。
永代橋(えいたいばし)は、隅田川(江戸時代には大川と言われていました)にかかる大きな橋で、橋を隔てて東側が深川、西側が日本橋です。
日本橋の新川や箱崎も富岡八幡宮の氏子になっているので、神輿は隅田川を渡って日本橋側まで来るのです。
富岡八幡宮を出発し氏子各町内を回った神輿は、清洲橋(きよすばし)を渡って箱崎・新川界隈を通った後、富岡八幡宮へ戻るときに、神輿は永代橋を渡ります。
木遣りや手古舞(てこまい)を先頭に、56基の神輿が次々と永代橋を渡るのですが、このときに神輿を高く差し上げます。
最初から最後まで差し上げて渡りきる町内、橋の真ん中まで「わっしょいわっしょい」と担いできて橋の真ん中で差し上げそのまま渡りきる町内など、渡り方は様々です。
神輿を差し上げたら、「差せ、差せ」のかけ声に変わります。
永代橋を渡るところは、深川祭のなかでも特に大きな見どころと言えます。
私は、永代橋の上で神輿の渡御を見物しました。少し早めに着いたらまだ人が少なかったので、日陰になっているところに場所をとって待ちました。
神輿の渡御が始まる頃には、橋の両側の歩道に人がたくさん集まりました。しかし、思ったより混雑はせず、わりと楽に見ることができました。
56基の神輿は続々と永代橋を渡るのですが、数が多いだけあって、すべての神輿が通るまでに3時間以上かかりました。
永代橋を渡った後、永代通りのまっすぐな道を神輿が並んで進む様子は、圧巻でした。
↑永代通りを並んで進む神輿
直木賞作家・山本一力さんの書く時代小説には深川を舞台にしたものが多いのですが、そのなかにも出てくる冬木町、佐賀町、平野町などといった古い地名の町内が、現在も残っています。それもまた、江戸情緒を感じさせてくれます。
↑冬木町の神輿
しんがり(最後)は深濱の神輿です。もともと漁師町だった深濱では、神輿の前に大漁旗が掲げられます。かけ声も「わっしょい」ではなく「オイサ」となります。
↑深濱の神輿と大漁旗
日差しのなか、長時間神輿見物をしていましたが、橋の上を通る川風と神輿にかけられる水が、涼を与えてくれました(日焼けしてしまいましたが……笑)。
ちなみに、この前日には「神幸祭」が行われ、富岡八幡宮の御神体を乗せた「鳳輦」が渡御しました。
残念ながら現在、鳳輦の渡御はトラックで行われています。しかし、絢爛な鳳輦が粛々と運ばれていく様子を見ていると、やはり厳かな気分になりました。
この鳳輦渡御では、もちろん水はかけられません。各町内の御酒所の人たちも、沿道に立って頭を下げながら鳳輦を出迎えていました。
↑神幸祭の鳳輦渡御
↑祭礼提灯
↑犬も沿道でお祭り見物(?)
<本日のキモノ>
桔梗の花の丸模様の藍染め浴衣に、博多織の八寸名古屋帯。
この浴衣は、実は三味線の浴衣ざらいの時に揃いであつらえたものですが、普段着てもまったく違和感のない柄なので、便利です。
日傘は、白地に藍の浴衣生地で作られたものです。この日傘は、年配の女性になかなか好評で、何人かの方が声をかけてくださいました。
足元は、素足に塗りの千両下駄です。
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東京下町
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2005年08月14日
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隅田川花火大会
東京の夏の風物詩、隅田川花火大会が行われた。
当初、雷雨の予報も出ていて天気が心配されたが、幸い、良いほうに予報がはずれた。
やはり、浅草寺・四万六千日で出される雷よけのお札の御利益なのだろうか……。
隅田川花火大会の歴史は古く、その起源は、江戸時代にさかのぼる。
亨保年間に起こった大飢饉と疫病で多数の死者が出たため、徳川吉宗の発案により大川(今の隅田川)で慰霊祭が行われ、両岸の水茶屋では、川開きの日に川施餓鬼(かわせがき)が行われた。
その翌年には、川開きの花火大会が行われ、以降、年中行事として定着したのだという。
隅田川の花火は、川をはさんで浅草側と向島側から見ることができるが、浅草側は、かなりの人出になる。
かといって向島側は、川に近いところだと高速道路や桜並木に遮られて見えない。
そこで私は、向島側の、川から少し離れた位置で見ることにしている。
それでも、間にいろいろな建物があるため、多少の障害物が入ってしまうことはやむを得ない。
今回見た場所も、花火の打ち上げ方向にビール会社の看板があった。高く打ち上げられる花火の場合は問題ないのだが、低い位置に上がる花火だと、看板の後ろになってしまう。
花火がまったく欠けない状態で見られるところは、屋形船か高層ホテルの上層階、あるいはヘリコプターくらいしかないだろう。
しかし、建物と建物の間や、看板の向こうに見える花火も、下町情緒があふれていてなかなかオツなものである。
江戸時代の花火を再現したものから最新の花火まで、合計2万発の花火が下町の夜空を彩った。
<余話>花火の掛け声
花火を見るときに掛け声をかける人がいます。今回の隅田川花火大会でも大人から子どもまであちこちで掛け声をかけていましたが、そのほとんどが「玉屋ぁ〜」というものでした。
しかし、玉屋以外にもう一つ、花火の代表的な掛け声があるのをご存じですか?
「鍵屋ぁ〜」です。
江戸での花火製造元の元祖は、実は鍵屋なのです。
玉屋は、鍵屋から暖簾分けした店ですが、鍵屋に負けずとも劣らない技術を持っており、両店はお互い腕を競い合って花火を盛り上げていました。
しかし玉屋は、火事を出してしまったことにより幕府から処罰され、江戸から追放されて廃業してしまったのです。
鍵屋は今でも残っているのですが、それなのに玉屋の掛け声ばかりがかかってしまうのは、ちょっとかわいそうですね。
ちなみに、鍵屋の現当主は女性です。まだまだ男社会である花火師の世界のなかで女性が当主としてがんばっているのですから、「鍵屋ぁ〜」の掛け声も、もっとかかるといいのですが。
江戸時代の狂歌に、こんなしゃれたものがあります。
橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋と言わぬ情(錠)なし
<本日のキモノ>
花火大会に行く前に用事があったので、浴衣ではなく小千谷縮にしました。
麻織物なので花火大会にも仰々しくならないし、浴衣ほどカジュアルすぎないので着用範囲が比較的広く、便利なのです。しかも、麻の薄物なので涼しいし、自宅で洗えます。
7月24日と同じコーディネートで、紗献上の八寸帯に、金魚の帯留です。
電車の中で、この帯留を見て「あら、まあ、金魚なのね〜!」と声をかけてくださった方がいました。結構よく見てくださっているのだなあと、ちょっとうれしくなりました。小物に凝る甲斐があるというものです。
この小千谷縮は、昨年買ったのですが、竺仙が仕立て上がりで売っていたものです。反物から買うよりもかなりリーズナブルでした。
しかし、今年は新潟県中越地震の影響で小千谷縮が品薄になっているため値段が高騰しているようで、仕立て上がりのものはほとんど出ていません。
ほとぼりが冷めてまた値段が落ち着くまで、小千谷縮を買うのはお預けです。それまで大事に着なければ……。
小千谷縮は、細かな縦シボが特徴です。これを見て通りすがりに「あら、何だかあの着物、シワシワだわ……」というような視線で見る人が時々います(涙)。まあ、そんな視線は意に介しませんが……。
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東京下町
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2005年07月30日
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四万六千日
浅草のほおずき市へ行った。
7月10日に浅草寺の観音様におまいりすると、四万六千日間おまいりしたのと同じ功徳があるとされている。
その「四万六千日」の日にあわせて、毎年7月9日、10日の2日間、浅草寺の境内に「ほおずき市」が立ち、多くの人でにぎわう。
今年は特に、土日と重なったためかなりの人出が見込まれていたようだ。
今日は、浅草へ行く用事があったので、少し早めに行ってほおずき市を見てみたのだ。
浅草寺に着いたら、まずは観音様におまいり。本堂も多くの人でごった返していた。
浅草寺では、7月9日、10日の2日間だけ、雷よけのお札が売られる。
お札をいただいた後、境内のほおずき市を見て回った。
↑ほおずき市の間だけ売られる、浅草寺の雷よけのお札。
境内にはたくさんの店が出ていた。
すでに赤く色づいているものを売っている店、これから赤くなるものを売っている店など様々だが、やはり、ほどよく赤く色づいている鉢に人気が集まっていた。
毎年、決まった店に買いに来るという人もいるようだ。
有料で配送もしてくれるので、ひと鉢買って実家に送った。
境内を出たところに運送会社のトラックが止まっていたのだが、荷台の中はすでにほおずきの箱でいっぱいになっていた。
鉢植えだけでなく、枝についたほおずきや、枝からとったほおずきを袋に入れたものも売られている。
私は、あとに用事を控えていたので、袋入りのほおずきを1袋だけ買った。
<本日のキモノ>
7月2日
のコーディネートと同じ、朝顔柄の綿紅梅(めんこうばい)に、博多織の紗献上八寸名古屋帯。ただし足元は、下駄ではなく白の草履。
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東京下町
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2005年07月09日
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三社祭
5月22日の日曜日、浅草の三社祭へ行った。
三社祭は、浅草寺の隣にある浅草神社の祭礼。
毎年この時期に、金・土・日の3日間で行われる。
1日目は、木遣りや芸者衆も加わってのパレード、2日目は氏子各町内の神輿渡御が行われる。
そして3日目は、三社祭のメインイベント、「宮出し」と「宮入り」が行われる。早朝、浅草神社から3基の神輿(一之宮、二之宮、三之宮)が出され、各町内を回った後、日没とともに浅草神社へ戻るのだ。氏子各町内の人々が競い合うようにして神輿を担ぐ様子は、とても迫力がある。
もう一つ、この三社祭の名物がある。
それは、浅草の芸者さんたちによる「くみ踊り」。
「やなぎ」「さくら」「藤」の3つの組に分かれた芸者さんたちが、組ごとに踊りを披露し、お座敷を回るのである。
お座敷を回る合間をぬって、浅草見番の2階で「くみ踊り観賞の集い」が行われたので、観に行った。事前予約定員制で、お弁当も付いている。これだと、料亭のお座敷で見るよりもかなりリーズナブル(もちろん、料亭のお座敷で見られればいいのだが、なかなかそうはいかない……)。
芸者さんたちの踊りの合間に、幇間(ほうかん)衆の芸や踊りも披露された。「幇間」とは、いわゆる「太鼓持ち」のことで、宴席で芸や踊りをしてお客を楽しませる芸人である。昔はたくさんいたそうだが、今は、現役で幇間をやっているのは浅草の4人だけのようだ。
浅草の芸者さんには、芸達者な人が多い。
東京の花柳界のなかでも特に芸に秀でていたといわれる吉原の芸者さんがいなくなるとき、吉原の花柳界に伝わっていた芸を、浅草の花柳界に引き継いだのだという。
立方(踊る人)だけでなく、鳴り物担当の芸者さんやお囃子さんの息もぴったりだった。
芸者さんのなかで一人、とりわけ踊りの上手なお姐さんがいる。ベテランのお姐さんという感じで、男踊りも上手く、ビシッと決まっているのだ。いつも惚れ惚れしながら見ている。
芸者さんたちのきれいな姿と踊り、幇間衆の楽しい芸を見て、とても楽しいひとときを過ごせた。
「くみ踊り観賞の集い」が終わって外へ出ると、ちょうどその界隈を神輿(二之宮)が通るところだった。お神輿が近づいてくると、なんとなく気分が昂揚してくるから不思議である。
近くで見ると、担ぎ手の熱気もよく伝わってきて、とても迫力があった。
夕食をとって店を出ようとすると、雨が降っていた。
三社祭のときは、必ず一日は雨が降る、というジンクスがあるのだが、まさにその通りになってしまった。
着物を着ていたが、万一に備えて雨コートと折りたたみ傘を持っていたので、あわてず。
着付けの際の襟どめなどに使うクリップで、着物の裾を帯の上端に留めてから、雨コートを羽織る。
こうすれば、雨が激しいときでも裾を汚さなくてすむ。
そのあとお茶を飲んだりしているうちに宮入りの時間が近づいてきたので、雷門前へ。
すでにたくさんの人が集まっていた。
雨は小降りになっていたが、傘をさすとほかの人のじゃまになってしまうので、襟のところに手ぬぐいをかけて完全ガード。ちょうど、着物と同じような色でしかも三社祭の網の柄(下記<本日のキモノ>を参照)が描かれた手ぬぐいを持っていたので、それを使用。
まもなく、三之宮が雷門前に到着。
ここで担ぎ手が交替するのだが、雷門の町内には人が少ないためか、よその町から担ぎ手が手伝いに来ることも多いらしい。
それはいいことなのだが、困るのは、なかには「神輿の上に乗る人がいる」ことだ。
ほかの町内でも時々こういったことを見かけるのだが、そのたびに町内の長老から注意をされているようだ。
神輿は、読んで字のごとく、神様の乗り物である。神輿に神様が乗って、町内を練り歩き、氏子に神の恩恵を授けるのだ。神様が乗る大切な乗り物に人間が足を乗せるなど、あってはならないこと。
古い人たちはみんなその理屈を知っているから、決して神輿に乗ったりしないし、ほかの人が神輿に乗ることも認めていない。
しかし、大阪の「だんじり」や博多の「山笠」などの映像をテレビで見て影響される人がいるのか、神輿の上に乗って扇子で音頭をとっている人を、ここのところ毎年必ず見かけるようになった。
大阪の「だんじり」や博多の「山笠」で人が乗っているのは、「山車(だし)」である。
「山車」は神輿とは違って人間が乗るもの。だから、ああして山車の上に乗り、勇壮に音頭をとっているのだ。
こうしたお祭りの場合にも、山車とは別に神輿が出されるケースが多いが、神輿は神事に用いるから絶対にそれには乗らない。
京都の祇園祭だって、人が乗る「山鉾」のほかに神輿も出されるが、神輿は厳かに担ぐだけで、それに乗るようなことは決してない。
そういったことを知らずに、テレビの映像だけ見てすぐに真似をしようとするのは、勘違いもはなはだしい。
今回も、勘違いして神輿に乗っている人を見て、ほかの町内の人が「神輿から降りろ!」と注意をしていたが、聞こえなかったのか聞かなかったのか、乗ったまま行ってしまった。
もしも三社祭で、神輿に乗っている人を見かけたら、ギャラリーもさりげなくその勘違いを正してあげてください。
「おい、あれ見てみろよ、神輿に乗っかってやんぜ。神輿に乗っかるなんざぁ、江戸っ子じゃあねぇな」と……(笑)。
<本日のキモノ>
毎度おなじみ(笑)無地の結城紬に、博多織の矢鱈縞(やたらじま)の献上八寸名古屋帯。
今回、この帯を使って、初めて「角出し」に挑戦してみた。
角出しは前から一度やってみたいと思っていたのだが、劇場などで椅子にきちんと背中をつけなければならない時にはやはりお太鼓が最適なので(歌舞伎座で、ごくまれに文庫結びをしている人を見かけるが、背もたれにしっかりと背をつけられないから、本人もつらいだろうし後ろの人にもおそらく迷惑……)、なかなか挑戦する機会がなかった。結び方は、帯の雰囲気とのかねあいも大切だし。
角出しは、時代劇で町娘やおかみさん、芸者などが広くやっている結び方だが、今はあまり見かけない。
昔は、帯締めは使わず帯揚げ(といっても普通の紐だが)だけで結んでいたのだが、今の帯では長さが足りないので、帯締めを使う。
帯枕を使わないので、背中はとても楽だった。結構はまりそうだ。夏になると博多帯を締める機会が圧倒的に多くなるので、ことあるごとにやってみようかなあ……。
根付も扇子も、「お祭りモード」に。
お神輿の根付に、三社祭の時期だけ浅草の文扇堂で作られる、網の模様の扇子。この網の模様は、浅草神社の由来(漁師が網にかかった小さな観音像を引き上げてそれを祀ったというもの)から三社祭のモチーフとして使われている。
こういった小物に凝るのもまた、キモノの楽しみ。
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東京下町
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2005年05月22日
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上野の山は花ざかり
京都旅行から戻ってきた後、すぐに東京の桜が満開になったので、東京で花見。
朝早く家を出て、会社に行く前に上野の山(上野公園)へ寄った。
上野は、東京音頭にも「花は上野よ ちょいと柳は銀座……」と唄われているとおり、古くからの花見の名所である。
平日の夜や休日の昼間ともなると、とにかくものすごい人だかりで、酔っぱらって騒ぐ人たちやカラオケをやる人たちもいるので落ち着いて桜など見ていられない。
そのため、上野公園の桜は毎年、朝見に行くことにしている。
例年だと、朝は人もまばらでゆっくりと見ていられたのだが、今年は、4月に入って新入社員も多いせいか朝から人がたくさん歩いていて、びっくりした。
池の周りのベンチもほぼうまっている。
しかたがないので、歩きながら花を見て公園を抜けた。
冒頭の写真は、清水観音堂のしだれ桜。
鮮やかなピンク色が美しい。
清水観音堂は、その名のとおり、京都の清水寺を模して建立されたもの。
観音堂の石段を降りる途中、石灯籠の背景に桜がひろがっていた。
不忍池のほとりの桜と柳。ピンクと緑のコントラストが美しい。
不忍池の周りの桜と弁天堂。夜間は弁天堂がライトアップされ、また違った美しさがある。
公園を出た後、近くのコーヒーショップで朝食をとってから、地下鉄に乗って会社へ向かった。
日が長くなってきて、陽気もよくなったこの時期、朝早く起きるのはなかなか気持ちがいい。
きれいな花も見て、なんとなく、その日一日がんばって仕事ができそうな気がした。
やはり、「早起きは三文の得」である。
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東京下町
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2005年04月08日
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羽子板市
浅草の羽子板市に行った。
浅草寺の境内で毎年12月17日、18日、19日に行われている、師走の浅草の風物詩である。
境内には羽子板の出店が並び、店ごとに様々な趣向をこらした羽子板が並べられている。
また、12月18日は「納めの観音」(一年のいちばん最後の、観音さまのご縁日)なので、浅草寺にも多くの参拝客が訪れていた。
私も、まずは観音さまへお参りし、羽子板市の会場を回った。
本当は縞の着物を着て行こうと思っていたのだが、またしても徹夜明けで昼寝をしていたら寝過ごしてしまい、あわてて出かけたので洋服にした。
会場では、着物を着ている人もちらほらと見かけた。
羽子板の大半は、歌舞伎の演目や役者をモチーフにしたものや、日本舞踊の曲をモチーフにしたものであるが、同じモチーフでも店によって人形の顔などが微妙に異なるので、自分の好みにあったものを探すのも楽しいだろう。
そんななか、その年話題になった人物をモチーフにした「変わり羽子板」も並べられている。
今年は、松井選手(写真左)やイチロー選手のほか、中村獅童の「丹下左膳」などの羽子板があった。
「ヨン様羽子板」(写真右)もあった。
変わったところでは、「パペットマペット羽子板」なども。
「マツケンサンバ羽子板」もあったそうだが、私が見に行った時には売り切れていた。残念!
羽子板は、サイズや細工によって値段が様々である。
大きな羽子板が売れると、「シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャン、シャン」と手締めの音が聞こえてくる。
羽子板とともに売られているのが、羽根つきに使う羽根をつなげた飾り(もちろん、実際に使うこともできる)。
長いひご棒の先に羽根を付けた飾りもある。
これらもなかなかの人気商品のようで、多くの人が買い求めていた。
せっかくなので、羽根をつなげた飾りを買うことにした。
大きなのと小さなのと一つずつ買って、しめて1600円ナリ。
しかし、ここで2000円出しておつりの400円をもらうような、野暮なことはしてはいけない。
何と言っても縁起物なので、おつりのお金が店から「出ていく」のは避けなければならないのだ。
おつりは「ご祝儀」として納める、それが縁起物を買う時の心得。
もしもおつりの出ないようなキリのいい金額だったら、少し余計に渡してご祝儀にする。
というわけで、ちょうど2000円札があったのでそれを出して、おつりはお納めくださいと言った。
すると、お店のおにいさんが「えっ!? いえいえ、そんなわけには……」と驚いていた。
このご時世、きっかりおつりをもらっていく人が多いのかなあ……。いけません。
今日び、「ゼームショ」がうるさいなどいろいろな制約があるのかもしれないが、縁起物商売に「収支があわない」なんて野暮天なこと言うようなお役所があるとしたら、まっぴらごめんだね。
「いえいえ、ほんとにいいんですよ、ご祝儀ですから。少ないですけど(笑)」と言って、少ないご祝儀はメデタク納められたのであった。
「羽根」だから「運気がハネあがる」「悪いものをハネ返す」と言って、縁起をかつぎ、無病息災を願うのだ。
お店のおにいさんも「縁起物ですから、これで来年一年無病息災ですよ。どうぞよいお年を」と、縁起物を買った客へのメデタイ口上を言ってくれたので、気持ちがよかった。
お正月を控えた「心地よいあわただしさ」が感じられる、羽子板市の会場であった。
羽子板市を見たあと、夕食をとるために、観音裏のとある和食店へ。
釜めしと季節の一品料理がおいしい店である。
遠くからわざわざ来る人もいるようで、休日の夕食時ともなると、お店の中はいつもにぎわっている。
ここのお店は、料理もさることながら、お店のご主人の雰囲気がよい。
寡黙だけれど、仕事はていねいだし、お客への対応もきちんとしている。
季節の味を楽しみたいので、かぼちゃの煮物(冬至にはちょっと早いが)とフグの塩辛、牡蠣(かき)の釜めしを食べた。
そのほか、この店の看板商品の一つ「厚焼き玉子」。
この店の厚焼き玉子は、東京風の甘い味付けのものと、関西風のだし巻きと、2種類用意されているのがポイント。
私は、いつも「だし巻き」のほうを頼む。京風のだし巻きではなく、大阪の某料亭風なのが、私にはうれしい。
店を出て歩いていると、あるお店の2階から三味線の音と唄が聞こえてきた。
このあたりは、浅草の花柳界があるので、どうやら店のお客が芸者さんを呼んでいるようである。
こういった風情も、なかなかよい。
店の中から聞こえてくる三味線にあわせて、その唄を口ずさみながらそぞろ歩いた。
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東京下町
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2004年12月18日
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