紺色のセーターに、ふわりと白いレースのスカーフ。中国残留孤児東北訴訟が終結した27日、原告集会に参加した仙台市太白区の並木玉恵さん(64)は、お気に入りの服に身を包み、笑顔で、何度も何度も仲間と肩をたたき合った。帰国から12年。これから本当に「日本人」としての生活が始まるのかもしれない。
来日したころ泣いてばかりいた孫は、今は「いなくなったらすごく困る通訳」に成長した。「これからは『中国から来た人』ではなく、日本人として生きてほしい。そして、日本と中国をつないで」。自身は、二つの国で居場所を探し続けた。孫には、両国を舞台にした活躍を願う。
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「次の試験はいつから」「英語の成績はもうちょっと伸びるんじゃない」
10年前、母玉恵さんとともに暮らすため来日した紅梅さん(39)。長女(14)は今春、中学3年になる。高校受験を控え、家庭では成績や志望校の話題が増えてきた。一家では初めての「日本での受験」。どうやって高校を選べばいいのか--家族みんなが、わからないことだらけだ。
素顔は、今どきの中学生。休み時間に友達とテレビドラマや音楽の話をするのが、何より楽しい。周りと少し違うのは、中国で買い込んでくる時代劇のDVDを、夜中に一人で見ることぐらいだ。仲の良い友達に通訳しながら一緒に見たこともあるが、学校では「周りが騒ぐから嫌」と中国語は口にしない。
家にかける電話も、友達がそばにいる時は日本語だけ。居場所や帰宅時間を早口に告げて、切ってしまう。玉恵さんは「電話の日本語は早口でわからない。聞き返すと切られちゃうよ」と少し寂しげに笑う。
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突然、日本語の世界に飛び込んだのは4歳の時。場所は仙台の保育所だった。
周りの子の話も、保育士の話も分からない。ついたあだ名は「泣き虫」。家で「『なきむし』ってなぁに?」と聞いたが誰も答えられず、家族で辞書をのぞき込んだ。
そのうち、先生や友達の名前、「鬼ごっこ」「かくれんぼ」など遊び言葉から順番に覚えた。1年後に近くの保育所に移った時にはぺらぺらに。「中国で買い物をしていると、中国人と思われる。日本でも普通に暮らしてるし、けっこう便利」とさらりと話す。
祖母が日本人で、幼いころに中国大陸に残された孤児であることは、いろいろ聞かされている。「おばあちゃんが大変だったのは知ってる。でも、今はあんまり興味はない。今の生活には関係ないし、私は私だから」
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小学校のころから、玉恵さんが日本人の友人に出す手紙を、中国語で聞き取って日本語で書く役を引き受けてきた。教師と保護者の連絡帳の中身を母に読んだり、文法の間違いを直してあげることもあった。「通訳ならできるかも」と思った。
今は、女優の上戸彩さんがテレビで演じていた、空港の仕事をやってみたい。「空港なら芸能人に会えるし、制服もかわいい」と理由を数え上げた後、少し考えて付け足した。「言葉も生かせるし」
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一家の名字「並木」は、玉恵さんが帰国した96年7月、初めて訪れた定禅寺通(仙台市青葉区)で、青々と茂るケヤキ並木を見上げ、その場で決めた。「生命の力がいっぱいに満ちあふれている」
3世代それぞれの目から見た「祖国」は、美しく優しいだけではなかった。だが、一人ひとりが張りめぐらし始めた根と枝は、やがて「日本と中国」を結ぶ一本の道を彩る並木に成長するはずだ。(この企画は文は伊藤絵理子、写真は手塚耕一郎が担当しました)
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中国残留孤児は80~90年代に多く帰国し、現在は3世を中心に就学年齢者も多い。「義務教育世代」など若年で来日した2世3世の場合、比較的短い1~2年程度で日本語を習得し、日常生活に支障はなくなるという。
だが、教科の学習内容が理解できなかったり、日本社会に適応できず、意欲をなくす生徒もいる。帰国した1世を対象に厚生労働省が行った03年の生活実態調査によると、2世や3世の学校編入時の問題の有無について、74・4%が「問題なかった」と回答。だが、学校生活で「問題がない」としたのは、わずか27・3%にとどまった。具体的な問題の内訳は▽学費が負担27・4%▽いじめ26・6%▽授業についていくのが大変12・1%--など。教育現場では、日本語以外のきめ細かい指導も求められている。
世代間の意思疎通も大きな課題だ。日本語の習得が困難な親世代と、中国語を知らなかったり忘れてしまう子供世代の間で、会話が困難になる例も珍しくないという。日本語を自由に操る若年者は、高齢化する孤児にとって、病院や役所での通訳を気軽に頼める重要な存在。子や孫との交流は、そのまま日本社会と接する窓口でもある。
毎日新聞 2008年3月29日 地方版