神奈川の在日者の足跡1
コリアタウンを歩こう・証言集会
神奈川の在日者の足跡2
神奈川の在日者の足跡3
にがい涙の大地から
神奈川の在日者の足跡4
まだ軍服を着せますか
(足跡4の日吉地下壕の写真アップしました)
もご覧下さい。
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当日配布された神奈川外キ連の資料を参考にしています。
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ゴールデンウィークの5/5(金)、ちょっと嫌がる娘を無理に連れて、川崎の在日の足跡を歩いてきました。 当日はJR川崎駅前の、フラワーガーデン前で集合しました。そこからふれあい館まで、約2時間の散策です。 |
■川崎市役所 戦前戦中、川崎市役所に多数の朝鮮出身労働者が働いていました。 「 横浜貿易新報 」 1942年9月27日の記事には 「 川崎市が糞尿処理のため、川崎署の尽力により半島出身人夫21名を採用し・・・ 」 とあります。 この後 「 実によく働く 」 との談話が掲載されています。 また同1943年4月11日の記事には 「 川崎市の清掃課では糞尿汲取人夫の労力難を打開すべく 川崎署の応援を得て昨年9月以降半島出身者30余名を雇用し・・・ 」 とあり、 彼らの大部分は日本に来たばかりで言葉も通じないものが多く、25名が尋常夜学校での勉強を希望し、 大島国民夜学校に入学したと掲載されています |
■川崎社会館跡 1921年に神奈川県匡済会によって設立された施設で、労働者合宿所のほか、 簡易食堂、公設浴場、公設市場などがありました。 開設した1921年、宿泊者の3%を、また世界恐慌期の1931年には約30%を、 朝鮮出身者が占めていました。 |
■稲毛神社 太平洋戦争開戦直後の1941年12月9日。 川崎市議会議員全員が、戦勝と皇軍の武運長久祈願を行ないました。 |
■川崎南税務署 殉教官吏故端山豊蔵之碑
殉職官吏故端山豊蔵之碑 「 建碑趣旨 」 |
■トキコ ( 元東京機器工業川崎工場 ) 1945年4月東京機器工業川崎工場に朝鮮出身労働者を連行した、という記録があります。 「 トキコ社史 」 には 「 内地からの応徴士が労働給源窮迫により、 徴用困難となってきた20年4月には、朝鮮から半島応徴士 ( 当時訓練生と称した ) 74名をも受け入れた 」 とあり、さらに 「 川崎労働史 」 には当時の同社勤労課長の説明として、 「 軍需省、県とが打ち合わせて割り当ての指示があり、 2人の職員が京城までゆき、多分朝鮮総督府の関係者からでしょう、 100名から120名かの名簿をもらい連れてきたのです。 途中、釜山その他で逃亡してしまい、川崎に着いたのは72名でした。 しかし、72名というのは珍しく良い方だと、県や関係者から言われました 」 とあります。 |
■川崎沖縄労働文化会館 ここで一休みする予定でしたが、当日はお休みで中を見ることが出来ませんでした。 |
■中島八幡神社 ( 朝鮮池跡地 ) 中島八幡神社の脇に、かつて 「 朝鮮池 」 と呼ばれる池がありました。 1910年頃から川崎区内では、工場や家屋の盛り土用に各所で土が掘られました。 その跡は池となりました。中島八幡神社の脇を掘ったのは朝鮮出身者で、 この池の周辺に朝鮮出身者の集落があったと言われています。 |
■大島八幡神社 ( 砲弾を持つ狛犬 ) 大島八幡神社には、砲弾を持つ狛犬があります。 これは日露戦争に参加した大島村の人たちが、1906年に奉納したものです。 日露戦争は日清戦争に勝利した日本とロシアが朝鮮の支配権を争ったもので、 ポーツマス条約で、日本は大韓帝国に対する支配権をロシアに認めさせました。 約2時間ゆっくり歩く間に神社を3箇所もまわって、 日本にはこんなに神社がたくさんあるのかと思いました。 何人かの人がひょいとやって来て、さい銭を投げ、さっと祈っていく姿を何回か目撃しました。 生活の中で、天皇を中心とした神社に対する習慣がしっかり根付いていることを、改めて感じました。 |
■ふれあい館 ふれあい館は1988年に川崎市によって建設されました。 在日コリアン多住地域の桜本地区で、 地域の人びとが認めあい共に生きる地域社会の創造を目的としています。 ふれあい館の事業には、地域の子どもたちがいつでも来て遊べるプログラム、学童保育、 ハングル講座、チャンゴ講座、歴史や人権に関係する講座などがあります。 しばらく休んだ後、館長のぺ・ジュンドさんの話を聞きました。 川崎での在日の歴史や、人権運動の発生の地としての経過、これからの運動の方向性など多岐に渡った話を聞くことが出来ました。 でもぺーさんはたっぷり2時間も話してくれたので、教会青年会の後輩の私としては、心の中でマキを出していました。 |