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 序章・冬

 涼宮ハルヒに関して色々思うところがあるのは当然だろうが、俺が端的《たんてき》にこいつを言い表すとしたら、それはこんな感じのキャッチコピーになるだろう。

 日本一|核《かく》ミサイルの発射ボタンを持たせてはいけない女、ここに厳存す。

 一般論《いっぱんろん》として普通《ふつう》の女子高生がそんなもんを持つことは万が一にもないが、こいつに限っては万分の一の確立が億になろうと、あるいはマイナスの累乗《るいじょう》がどこまでも続こうとまったく関係がない。あくまで持つか持たないか二つに一つなのだ。カウントダウンタイマーがついてないのに作動をはじめた時限|爆弾《ばくだん》よりタチが悪く、メルトダウン必至の原子炉《げんしろ》より迷惑《めいわく》なシロモノであるわけだが、そいつを作動停止といかないまでもマナーモードくらいにはすることは、方々に迷惑をかけた末に何とかできるらしいと俺は知らされていた。
 それはこいつの退屈《たいくつ》をどうにかして紛《わぎ》らわせ、核ミサイルのことなんかを一瞬《いっしゅん》でも考えたりさないことだ。当分の間でいいから他《ほか》の何かに熱中させることができたら、ウチの三毛猫《みけねこ》シャミセンがペットボトルの蓋《ふた》を投げてやると三分くらいは齧《かじ》りついているのと同じ理屈《りくつ》で、その何かにかかりきりになるだろうから――。
 というのが、かつて語った古泉の主張の要旨《ようし》であり、奴《やつ》は現在でも意見を変えていないらしい。
 てなわけで、俺たちはまたもや唐変木《とうへんぼく》な目に遭《あ》っていた。
 遭っていた? いやホントにな。会うでも合うでも逢《あ》うでもない。今くらいこの字がバッチリはまっている状況《じょうきょう》もそうそうないぜ。
 なぜなら俺たちは現在、正真正銘《しょうしんしょうめい》十全パーフェクトなまでに遭難《そうなん》していたからだ。



 雪山症候群

「まいったわね」
 俺の前を歩いているハルヒが本心を吐露《とろ》するように言った。
「全然前が見えないわ」
 ここはどこかと訊《き》くかい? 夏休みは孤島《ことう》に行った。では冬休みはどこに行くかをハルヒの頭になって考えてみればいい。
「おかしいですね」
 古泉の声は最後尾《さいこうび》から聞こえてくる。
「距離《きょり》感から言って、とっくに麓《ふもと》に着いているはずですが」
 ヒントは、寒くて白い所だ。
「冷たいです……うう」
 吹《ふ》き付ける風のせいで朝比奈さんの声は切れ切れだ。俺は振《ふ》り返り、カルガモのヒナのようにおたおたと歩いているスキーウェアを確認《かくにん》した。励ますようにうなずきかけてあげてから目を先頭に戻《もど》す。
「…………」
 俺たちを先導している長門の足取りも心なしか重い。踏《ふ》みしめる白い結晶《けっしょう》が粘着《ねんちゃく》するかのようにスキー靴《ぐつ》にまとわりつき、一歩歩くごとに体積を増している感じだ。そんな感じになるような場所と言えばどこだ?
 面倒《めんどう》だ。答えを言っちまおう。
 見渡《みわた》す限り白景色で、行けども行けども冷たい雪しか目に入らない。
 そうとも、ここは雪山以外のどこでもない。
 吹雪の山荘《さんそう》にやってきたあげく、その雪山で絶賛遭難中――。それが今俺たちの置かれている限りなく正確な状況だった。
 さあてと。これは誰《だれ》が予定した筋書きなんだろうな。この時ばかりは結末のあるシナリオの存在を信じたい。でないと、俺たちはここで五人|揃《そろ》って凍死《とうし》の憂《う》き目に直面し、春|頃《ごろ》なって溶《と》けた雪の下からチルド状態で発見されかねん。
 古泉、なんとかしろ。
「そう言われましてもね」
 コンパスに目を落とした古泉は、
「方向はあっているはずです。長門さんのナビゲーションも完璧《かんぺき》でした。にもかかわらず僕たちはもう何時間も山を下りることができません。普通に考えて、これは普通の状況ではありませんね」
 じゃあどういうことなんだ。俺たちは永遠にこのスキー場から出られないのか?
「異常であることは間違《まちが》いないようです。まるっきり予測不能でした。長門さんにも原因が解《わか》らないのですから、何しろ不測の事態が発生したということだけは解ります」
 そんなん俺にも解ってる。先頭を歩く長門が帰り道を発見できずにいるのだから、これは相当おかしなことだ。
 またか。またハルヒが何かロクでもないことを考えついてしまったからか。
「一概《いちがい》には言えませんね。これは僕の感覚が教えてくれる勘《かん》ですが、涼宮さんは決してこのような現象を望んだわけではないと思います」
 どうして言い切れる。
「なぜならば、涼宮さんは宿の山荘で発生する不思議な密室殺人劇を楽しみにしていたはずだからです。そのために僕もいろいろ考えたのですから」
 夏に続いて冬の合宿先でもマーダーゲームが予定されていた。前回は失敗気味のドッキリだったが、今度は最初から自演であることを明かしての推理大会である。実は登場人物も同じで、孤島で俺たちを待っていた荒川《あらかわ》執事《しつじ》に森《もり》園生《そのう》メイド、多丸《たまる》兄弟がまたもや同じ役名と間柄《あいだがら》で芝居《しばい》してくれることになっていた。
「確かにな……」
 実際、ハルヒは犯人と犯人特定に至るトリックの解明を楽しく待ちわびていたから、まさか今夜にも事件が起こると解っている山荘に帰り着くのを無意識にだって拒否《きょひ》したりはしないだろう。
 付け加えれば、そこには臨時エキストラとして鶴屋さんと俺の妹、それからシャミセンまでいて、俺たちの帰りを待っているのだ。
 実を言うと俺たちが宿にしている山荘は鶴屋家が所有する別荘だった。あの明るく調子のいいお方は自分もついて行くことを条件に合宿所提供を快諾《かいだく》し、シャミセンは古泉が考案したトリックの小道具として使用するためで、妹は勝手に俺の荷物に付着していた。その二人と一|匹《ぴき》は遭難仲間には入っていない。シャミセンは山荘のマントルピースの前で丸くなってるだろうし、鶴屋さんはスキーのできない俺の妹に付きあって雪ダルマを作って遊んでいた。それが俺の覚えている最後の光景だった。
 三者ともハルヒにはほぼSOS団準団員であり、再会を拒《こば》む理由は誰にも、特にハルヒにはありはしない。
 だったらなぜだ。なぜ俺たちは暖房《だんぼう》の効いたSOS団冬合宿の場へと帰還《きかん》を果たせないんだ。
 長門の力をもってしても行き先が見通せないとは、いったいこれはどうしたことだ?
「夏冬連続で嵐《あらし》とはね……」
 学校が長期|休暇《きゅうか》に入るたび、俺たちは人知を超《こ》えた現象に遭遇《そうぐう》しなければならないという法則でもできたのか?
 疑問と不安のブレンドを幻味《げんみ》的に味わいつつ、俺は過去の記憶《かこ》を呼び出していた。
「なんでこんなことになっちまったんだ?」
 では回想モード、スタート。
 ………
 ……
 …

 冬休みに合宿することはほとんど決定された未来に等しく、そんな未来があらかじめ見通せていたなら実際にその通りのことが起こっても驚《おどろ》きはない。
 なんせ夏休みの初日に出発した殺人|孤島《ことう》ツアー(台風付き)が終了《しゅうりょう》したと思ったら、すでにその帰りのフェリーの船上において高らかに宣言されちまい、誰《だれ》が宣言したかというとそれはハルヒ以外の誰でもなく、その決意表明をうやむやのまま呑《の》まされたのはハルヒ以外の俺たちでありツアーコンダクターに叙任《じょにん》されたのは古泉である。
 冬になったら別のことに興味が向いているかと少しは期待していたのだが、我らの団長はこういうところだけはやけに物覚えがいいらしく、
「年越しカウントダウンinブリザード」
 俺たちにホチキスで留めたペラが回ってきた。配り終えたハルヒは誘拐犯《ゆうかいはん》が子供に向けるような笑顔《えがお》で、
「予定通り、この冬は雪の山荘に行くわよ。ミステリアスツアー第二|弾《だん》!」
 場所は部室で、時間は終業式が終わったばかりの二十四日のことである。長テーブルの上ではカセットコンロにかけられた土鍋《どなべ》がグツグツ言っており、俺たちは雑多な食材が適当に煮《に》えているだけのその鍋を囲んで昼飯代わりにしていた。
 ハルヒがデタラメな順番で投入する肉や魚や野菜類を、布巾《ふきん》をかぶったメイドバージョンの朝比奈さんが菜箸《さいばし》でより分けたりこまめにアクをすくったりしている傍《かたわ》らで、ただ喰《く》っているだけの俺と長門と古泉のSOS団五人組に加え、今日はスペシャルゲストを招いていた。
「うわっ、めちゃウマいっ。何これっ? はぐはぐ……ひょっとしてハルにゃん天才料理人? ぱくぱく……うひょー。ダシがいいよ、ダシがっ。がつがつ」
 鶴屋さんである。この元気な声の主は黙々《もくもく》と食いつづける長門と張り合うように、いちいち雄叫《おたけ》びを上げながら箸を高速移動させて鍋の中身を自分の取り皿に運び込み、
「やっぱ冬は鍋だねっ! さっきのキョンくんのトナカイ芸も大笑いしたし、いやーっ今日は楽しいなあっ」
 ウケてくれたのはあなただけでしたよ鶴屋さん。ハルヒと古泉は終始ニヤニヤ笑い、朝比奈さんなんか途中《とちゅう》で顔を伏《ふ》せて肩を振《ふる》わせ始めたし、長門に至ってはそれのどこが面白《おもしろ》いのかとロジカルに考えているような表情で、まったくいたたまれない気分を最大限に実感しながら俺は滝《たき》のようなヒヤ汗《あせ》をかいていた。人を笑わせる才能に欠けていることをハッキリと悟《さと》ったね。芸人の道だけは志すまいと心に決めたところであるが、まあ、それはいい。
 鶴屋さんは単なる鍋仲間や朝比奈さんの付き添《そ》いとしてここにいるのではなかった。それがゆえのスペシャルゲストなのである。ではいったいどんなスペシャルなのかと言うと……。
「その吹雪《ふぶき》の山荘なんだけどね」
 ハルヒは山荘の枕詞《まくらことば》を雪から吹雪へとグレードアップさせて、
「喜びなさい、キョン。なんと! 鶴屋さんの別荘を無料で利用させてもらえることになったわ。なんかスゴくいい所らしいわよ。今から楽しみだわ! さ、じゃんじゃん食べてちょうだい」
 ハルヒは豚肉《ぶたにく》の塊《かたまり》を鶴屋さんの皿に投下させ、ついでに自分の皿にも食べ頃《ごろ》になったアンコウの切り身を確保した。
「いっつも家族で行くんだけどねっ」
 鶴屋さんは口に放《ほう》り込んだ豚肉を丸飲みして、
「今年はおやっさんがヨーロッパ出張でいないんだよね。どうせだから三が日が終わったら家族でスイス行ってスキーしようってことになっちゃったっ。だから別荘のほうはキミたちと行くよ! なんか面白そうだしさっ」
 朝比奈さんがポツリと漏《も》らした合宿の件を聞きつけた鶴屋さんが、ならばと言って申し出てくれたということらしい。古泉も渡《わた》りに船だとばかりにホイホイと賛同し、冬の合宿旅行書をハルヒにプレゼンテーションしたところ、ハルヒは刺身《さしみ》をまるごと与《あた》えられた猫《ねこ》のように大喜びし、
「鶴屋さんにはこれを進呈《しんえい》するわ!」
 机の中から取り出した無地の腕章《わんしょう》に『名誉《めいよ》顧問《こもん》』と書き殴《なぐ》って渡した――そうだ。
 その古泉はにこやかな顔で、ハルヒと長門と鶴屋さんによる大食い選手権みたいな食べっぷりを眺《なが》めていたが、俺の表情に気づいたか、
「ご安心を。今度はドッキリではありませんから。あらかじめ断っておいた上での推理ゲームですよ。実はメンバーも前回と同じです」
 荒川|執事《しつじ》と森メイドさん、多丸兄弟の計四人が今回も寸劇を演じてくれるという予定だと言う。そりゃいいんだが、その四人は普段《ふだん》いったい何をしている人たちなんだ? 『機関』とやらの事務職員か何かか。
「いずれも僕の知り合いで小劇団の役者さんたちです……ってとこでどうでしょうか」
 ハルヒが納得《なっとく》するんだったらそれでもいいさ。
「涼宮さんは面白かったら何だって気にはしませんよ。それが最大の問題でもあるんですが……。シナリオに満足してくれるかどうか、今から胃が痛みます」
 古泉は胃の上を押さえるジェスチャーをしたが、微笑《ほほえ》みくんのままなので下手な芝居《しばい》にすら見えないね。
 俺はハルヒよりも人間ができているつもりなので、能天気に面白がって後のことをさっぱり考えないという楽天気分にはなれそうもない。安心材料がどこかにないかと見渡して最初に目が止まったのは長門の無表情顔である。いつもの調子の長門だった。俺がずっと知っていた普段通りの長門有希は、まるで何事もなかったかのように鍋料理をもりもりと食っている。
「…………」
 何にせよ、と俺は思う。
 今度だけでも長門に負担がかかるような事態にはさせないようにしよう。いや、せにゃならん。順番から言えば今回はだいじょうぶな回のはずだ。夏合宿では長門が妙《みょう》な活躍《かつやく》をするシーンはなかった。冬の合宿でもそうなってもらいたい。苦労するのは古泉とその仲間たちだけでいい。
 俺はそう考えながら手元のペラ紙に視線を落とした。
 この紙切れに書かれているスケジュールによると、出発は十二月三十日。大晦日《おおみそか》の前日だ。雪山と言ってもそう遠い所ではなく、列車で何時間か揺《ゆ》られていればその日のうちに到着《とうちゃく》する。
 とりあえず着いたその日はスキー三昧《ざんまい》で、晩は全員で宴会《えんかい》(アルコール厳禁)、料理は夏の島に引き続き荒川執事氏(ニセ執事なんだが本物以上に執事っぽかったので他《ほか》に言いようがない)と森園生さん(ニセメイドだが以下同)が担当してくれるのだそうだ。多丸氏二人は翌日の朝に遅《おく》れてきた客として登場、そこから推理ゲームの前フリが開始されることになっている。
 そうやって大晦日を事件発生とトリックの解明にあてて午前0時前に全員集合、おのおの持ち寄った推理を『毒入りチョコレート事件』的に順番に披露《ひろう》し、最終推理者に内定している古泉が軽《かろ》やかに解答を激白する。そして胸のつかえがスッキリ解消したところで終わりゆく一年に別れを告げつつ、来《きた》る新しい年に挨拶《あいさつ》を送る。ようこそ!
 という計画になっていた。
 顔を上げるとハルヒの大得意顔が俺に向けられている。何もやっていないうちからどうしてそんなに得意げでいられるのかが不思議でならないね。
「新年を盛大《せんだい》に祝ってあげるのよ」
 ハルヒは長ネギを箸《はし》でつまみながら、
「そしたら新年のほうも感謝して、すっごくいい年になってくれるわ。あたしはそう確信しているの。来年はSOS団の転機となる年になりそうな気がするのよね」
 年月を勝手に擬人《ぎじん》化するのはいいが、お前にとってのいい年が俺たち全員にとってのいい年になるとは思えん。
「そう? あたしは今年がすっごく面白《おもしろ》かったし来年もそうなったらいいなと思ってるけど、あんたは違《ちが》うの? あ、みくるちゃん、鍋《なべ》が煮詰《につ》まってきたからお湯足して」
「あっはいはいっ」
 朝比奈さんはヤカンの許《もと》へパタパタ駆《か》け寄り、
「うんしょ」
 重そうに持ってきたヤカンを鍋の上で注意深く傾《かたむ》けた。
 その華麗《かれい》なるお姿を見つめながら、俺は今年一年のうちに出くわした様々なあれやこれやを思い出し、少しばかり感情が揺れ動いた。ハルヒはすっごく面白かったと言う。では俺が面白かったかどうかと問われれば、決まってる。
 だいたいガキの頃《ころ》に何か不思議なことがないかと、あればいいだろうなと考えていたのが俺の初心だったのだ。それこそ宇宙人でも何でもいい、その手のものが出てきて何かやってるような話に一枚加わりたかったんだからな。妄想《もうそう》が実現してるんだから大喜びしていないと本来ならおかしいんだ。だかなあ、いくらなんでもこう続けざまに加わりっぱなしになるとは想定外だったぜ。
 しかし、そんなことを内心で思いつつも本音はこうだ。
 ああ、楽しかったさ。
 今ならハッキリ声高らかに言える。この境地まで辿《たど》り着くのには相当な時間がかかったよ。ただし、もう一つ本音を言わせてもらえば、もうちょっとだけ平穏《へいおん》でもよかったとも思うんだ。俺的には普通《ふつう》に部室で遊んでいる温《ぬる》いインターバルが、あとほんの少し欲しかった。
「変なこと言うわね」
 ハルヒはアン肝《きも》を頬張《ほおば》りながら、
「ずっと遊んでばかりいたじゃん。ひょっとしてあんた、まだまだ遊び足りなかったって言うの? だったら年が終わる前にラストスパートをかけようか」
「いらんことはせんでいい」
 こいつは知らないのだ。これまで俺がどんな事態に遭遇《そうぐう》し、どうやって切り抜《ぬ》けてきたのかを。野球に勝ったり、夏休みを終わらせたり、映画でおかしくなりかけた現実を回復させたり、過去に行って戻《もど》って来てまた行って、さらにもう一度行くことが決定しているんだぞ。自分で決めたことだから誰《だれ》を恨《うら》もうとも思わないが、将来教職を取る予定もないのにこの時期、俺大いそがしだ。
 まあ、そんなこともハルヒには言えないんだが。
「スパートするのはその山荘《さんそう》に行ってからでも間に合うだろ」
 俺はハルヒが伸《の》ばしかけていた箸を払《はら》うようにして鍋から白菜を引き上げた。せっかくのハルヒ特製鍋だ。食欲|旺盛《おうせい》な女性|陣《じん》(朝比奈さんは除く)に食い尽《つ》くされないうちに腹に収めとこう。次にいつ喰《く》えるか解《わか》らない。
「まあね」
 ハルヒは機嫌《きげん》良く牛モツを己《おのれ》の皿に移し替《か》える。
「スパートついでにスパークもするわよ。いい? 大晦日《おおみそか》は実は年に一回じゃないの。考えても見なさい。その年のその日は一生に一度しかないわけ。今日だってそうよ。今日って日は過ぎちゃえばもう二度と来ないのよ。だからね、悔《く》いを残さないように過ごさないと今日に申しわけないわよね。あたしは一生|記憶《きおく》に残るような毎日をすごしたいと思うわ」
 ハルヒの夢見るような口調に、横で生煮えの鶏肉《とりにく》にかぶりついていた鶴屋さんが、
「わお。ハルにゃん、三百六十五日にあったことを全部覚えてんのっ? すっげー。みくるーっ、お茶ちょうだいっ」
「あっはいはいっ」
 急須《きゅうす》を片手にした朝比奈さんは鶴屋さんが掲《かか》げる客用湯飲みに注意深く煎茶《せんちゃ》を注ぐ。すっかり小間使いにされているが、そうしている朝比奈さんはなんだか嬉《うれ》しそうだった。ハルヒは無頓着《むとんちゃく》な鍋《なべ》奉行《ぶぎょう》を大いに楽しんでいるし、古泉は湯気を立てる鍋を背景にしてまで優美な印象を受ける微笑《びしょう》をたくわえ、長門は黙々《もくもく》モグモグと聞こえない舌鼓《したづつみ》を打ち続けている。名誉《めいよ》顧問《こもん》となった鶴屋さんが臨時の準団員として加わっているが、おしなべていつものSOS団的|雰囲気《ふんいき》だった。
 今の俺はよく解っている。こういう時間こそが貴重なのだ。こっちを選んじまった以上、これからもハルヒを中心とする微妙《びみょう》に奇妙《きみょう》な出来事が何だかんだと発生するのは高確率で間違いない。すべてのオチがつくその日まで、あと一つや二つくらいは何かあるだろう。
 とりあえず異世界人がまだ来てないってのもあるしさ。
「来るなら来てみやがれってんだ」
 思わず呟《つぶや》きが漏《も》れてしまったが、ハルヒと鶴屋さんが椎茸《しいたけ》の奪《うば》い合いをする歓声《かんせい》にまぎれて誰の耳にも届いていないようだった。
 ただ、長門だけがほんの少し睫毛《まつげ》を動かしたような気はした。
 ふと窓が目にとまる。空が出し惜《お》しみしているような景気の悪さでポツポツと雪が降っていた。俺の視線を読んだ古泉が、
「旅行先の山に行けばイヤと言うほど雪遊びができますよ。ところでスキーとスノボ、どちらがいいですか? 用具の手配も僕の仕事なのでね」
「スノボはやったことないな」
 生返事をして冬空から目を離《はな》した。古泉は無難なスマイルを浮《う》かべたまま、だが目端《めはし》を利《き》かせていたようで、
「あなたが見ていたのはどちらのユキでしょう。空から降るほうですか? それとも、」
 これ以上古泉と見つめ合っていても益はない。俺は肩《かた》をすくめ、椎茸|奪取《だっしゅ》作戦に参加することにした。
 首尾《しゅび》よく教師にも教師にチクろうとする誰かにも見つからず、あるいは気づきつつスルーしてくれただけかもしれないが、ともかく満腹となった俺たちは鍋やら食器ならゴミやらを片づけて部室を後にして、学校を出た時には小雪も収まっていた。
 実家で開催《かいさい》されるパーティーにどうしても出席しなければならないという鶴屋さんと別れ、SOS団の面々はケーキ屋に向かった。ハルヒが予約していた特大のクリスマスケーキを受け取ってから目指した場所は長門のマンションである。
 一人|寂《さび》しく聖夜を過ごす長門をおもんぱかったわけではなく、一人暮らしの長門の部屋ならケーキ食いながらバカ騒《さわ》ぎを楽しめるという条件のよさがものを言った。ツイスターゲームを担《かつ》いでいる古泉とケーキの箱を抱《かか》える俺のどちらが幸せか解らないが、先頭を切って跳《は》ねるように歩いているハルヒは充分《じゅうぶん》にハッピーステイタスに見え、それは時折ハルヒに両手を持って振《ふ》り回されている朝比奈さんや、無言でてくてく歩みを刻む長門にも伝染しているようにも思える。
 このぶんだと雪の代わりにサンタの大群が降ってくることもなさそうだ。ハルヒは普通人《ふつうじん》レベルのクリスマスイブを満喫《まんきつ》して、それだけで腹一杯《はらいっぱい》のようだった。俺の妹とどっこいの精神構造だな。今日だけかもしれんが。
 理由をわざわざ言うこともないと思うが、この時期の俺は寛大《かんだい》な気分を持続させていた。たとえハルヒがサンタ狩《が》りに行こうと言い出して夜の町を徘徊《はいかい》することになったとしても、俺は苦笑混じりで付き合ってやったかもしれない。
 防音処理の行き届いた長門の部屋で古泉の用意した各種ゲームに興じている間、俺たちの誰《だれ》もが楽しそうに見えたのは真実だ。ノートパソコン二台を繋《つな》いでプレイした  トーナメントは長門の独壇場《どくだんじょう》で、ツイスターゲームではハルヒと押し合いへし合いするハメになったが、そこらを歩いているカップルも引き込んでお前らも参加しろと言ってやりたいほどの大騒ぎな夜――。

 俺たちのクリスマスイブはそんなふうだった。

 そのクリスマスイブから大晦日イブまでは、まるでハルヒが時間の背中をぐいぐい押しているのではないかと思えるほど一瞬《いっしゅん》で過ぎた。その間に部屋の大掃除《おおそうじ》をしたり、中学の級友から頭を疑いそうな電話がかかってきたり、その絡《から》みでアメフトの試合を見に行ったりというようなことをしていたものの、総じて順当に年の瀬《せ》は押し迫《せま》っていく。
 新しい年か。本当にどうなっちまうんだろうね。俺個人的なことを言えば、そろそろ成績のほうを何とかしないとけっこうヤバイな。
 母親は俺を予備校に放《ほう》り込みたくてうずうずしている様子を言外に見せており、これが健全な運動部でバリバリ活躍《かつやく》していたり健全でないにしても得体の知れている部活に参加しているならまだイイワケのしようもあるが、健全でもなければ得体も知れない未公認《みこうにん》団体でひたすらブラブラしている――ように周囲には見えるだろう――成績|不振《ふしん》の進学志望者がいたら俺だってちったあ高校で学ぶことがあるだろうよと言いたくなる。
 どういう理屈《りくつ》かハルヒは理不尽《りふじん》なまでに学業|優秀《ゆうしゅう》、古泉だってこの前の期末の結果だけ見りゃ秀才の範疇《はんちゅう》に入り、考古学的な趣味《しゅみ》からかもしれないが朝比奈さんは割と努力して授業を聞いているようだし、長門の成績なんかあえては語るまでもないだろう。
「ま、後回しにしておくか」
 まずは冬合宿を成功裡《せいこうり》に終わらせないとな。今考えるべきはそれだけでいい。勉強なら新年になってからでもできる。年越《としこ》しカウントダウン合宿は年内にスタートを切らねばならない。
 と、そんなわけで――。
「出発っ!」
 と、ハルヒが叫《さけ》び、
「やっほーっ」
 と、鶴屋さんが同調し、
「現場は絶好のスキー日和《びより》だそうです。今のところは」
 古泉が天候情報を伝え、
「スキーですかぁ。雪の上を滑《すべ》るスキーですよね?」
 朝比奈さんがマフラーにくるまった顎《あご》を上げ、
「…………」
 長門は片手に小さなカバンを提《さ》げたままピクリともせず、
「わぁい」
 と、俺の妹が飛び跳ねた。
 早朝の駅前である。これから列車に乗って、さらにいろいろ乗り継《つ》ぎ、目的地である雪山|到着《とうちゃく》予定時刻は昼過ぎとなっている。それはいいんだが、どうしてここに予定せざる人員として俺の妹がいるのかというと……。
「いいじゃん、ついて来ちゃったのはしかたがないわ。ついでよ、一緒《いっしょ》に連れていってあげたら一瞬で話はすむわ。邪魔《じゃま》にはならないでしょ」
 ハルヒは前屈《まえかが》みになって妹に笑いかけ、
「どうでもいい奴《やつ》なら追い返したところだけど、このあんたと違《ちが》って素直《すなお》な妹さんなら全然オッケー。映画にも出てくれたしさ。シャミセンの遊び相手にちょうどいいじゃない」
 そう、この旅行には俺ん家《ち》の三毛猫《みけねこ》までが付属しているのだ。これに関してはSOS団の合宿計画担当者のセリフを聞こう。
「推理劇のトリックに猫が必要だったんですよ」
 猫は知っていたとか、そういうのか。
 自分の荷物の上に座っていた古泉は、
「適当な猫でもよかったのですが、映画ではけっこうな役者ぶりを見せてくれましたしね。その名演をもう一度というわけです」
 今のシャミセンはただの喋《しゃべ》らない家猫だぜ。演技のほうは期待しないほうがいい。俺は妹と鼻面《はなづら》を付き合わせているハルヒを眺《なが》めて、
「おかげで出かけに見つかっちまった」
 なにぶん朝も早かったし、母親には固く口止めしておいたから安心しきっていた。妹も俺がハルヒたちと旅行に行くなんてまったく気づいていなかったろう。だが意外な落とし穴は最後に口を開いた。俺が自分の部屋で、まだ夢見|心地《ごこち》のシャミセンを猫用キャリーに収納しているところに、なぜか妹が入ってきたのだ。どうやらトイレに起きて帰ってきたはいいが寝《ね》ぼけて部屋を間違えたらしい。
 その後の展開は一本道だ。突然《とつぜん》、妹はパッチリと目を見開き、
「シャミをつれてどこに行くの? その格好は? 荷物は?」
 うるさいのなんの。そして小学五年生十一歳の我が妹は夏よりもパワーアップした暴れぶりをひとしきり見せた後、両手両足で俺のカバンにしがみつき、岩場に貼り付いた変な色した貝のように離《はな》れようとしなかった。
「一人増えるくらいなら余裕《よゆう》ですよ」と古泉は微笑《ほほえ》む。「ましてや子供料金、さして予定は狂《くる》いません。僕も涼宮さんに同感ですね。ここまで来て追い返すのは忍《しの》びませんから」
 ハルヒとじゃれ終えた妹は、今度は朝比奈さんに飛びついて豊かなふくらみに顔を埋《うず》めた後、じっと黙《だま》って立っている長門の膝《ひざ》に抱《だ》きついてよろめかせ、最終的に大笑いをする鶴屋さんに振《ふ》り回されてきゃいきゃい言っている。
 妹でよかった。これが弟なら即刻《そっこく》裏通りに連れ込んでいるところだ。

 雪山行きの特急でも妹の勢いは衰《おとろ》えず、俺たちの間を飛び回っては無駄《むだ》に元気を振りまいていた。今からこんなに飛ばしていては終盤《しゅうばん》に息切れすること相違《そうい》なく、また俺が眠《ねむ》りこける妹を背負って歩くハメになりかねないが注意してもそれこそ無駄だ。妹と同等くらいにハルヒと鶴屋さんも高レベルなテンションを維持《いじ》しているし、少し控《ひか》え目に朝比奈さんも何だかぽわぽわと高揚《こうよう》しているらしい。長門ですら、読もうと開いていた文庫本をあきらめたようにカバンにしまい、妹に静寂《せいじゃく》な視線を注いでいた。
 俺は窓際《まどぎわ》に頬杖《ほおづえ》をつき、高速で流れていく風景をぼんやりと眺めている。横の通路側に古泉が座っていて、ハルヒたち女グループは俺たちの前の席にいた。向かい合う形に座席の方向を変え、今は五人で|UNO《ウノ》をやっている。あまり騒《さわ》ぐなよ。他の乗客に迷惑《めいわく》だからな。
 つまはじきにされた俺と古泉は列車が走り出して十分ほどババ抜きをしてみたが、虚《むな》しくなってすぐにやめた。何が悲しくて男二人で道化《どうけ》の押し付け合いをしなくてはならんのか。
 ならばこれから俺の目を享楽《きょうらく》の宴《うたげ》に誘《さそ》ってくれるであろう、まだ見ぬ朝比奈さんのスキーウェア姿でも妄想《もうそう》していたほうがまだしも建設的である。そう思った俺が二人きりのゲレンデで仲よく滑り降りるという状況《じょうきょう》にどうしたら持っていけるかと考えていたら、
「にゃ」
 足元のキャリーバッグがごそごそと音を立て、その隙間《すきま》からヒゲを出した。
 例の映画|騒動《そうどう》が終了《しゅうりょう》してから、シャミセンは元ノラ猫とは思えないほどおとなしく手のかからない猫に変わり果てている。エサの時間が来るまでぼうっと待っているし、無闇《むやみ》にじゃれついてくることもなく、どうやらこいつの欲求の中で最大の地位を誇《ほこ》るのは睡眠欲《すいみんよく》らしい。今朝方にキャリーに入れて以来ずっと眠り続けていたのだが、いくら怠惰《たいだ》な猫でも飽《あ》きがくるということはあるようだ。退屈《たいくつ》そうに蓋《ふた》の辺りを掻《か》いている。もちろん車内で出すわけにはいかない。
「もうちょっと我慢《がまん》しろ」
 俺は足元に言い聞かせた。
「着いたら新品のカリカリをやる」
「にゃ」
 それだけで解《わか》ったようにシャミセンは再びおとなしくなった。古泉が感心したように、
「最初、喋り出したときはどうなることかと思いましたが、その猫はアタリでしたね。いえ、オスの三毛猫というラッキー性だけではなくて。ちゃんと物の解った、いい猫です」
 群れていたノラ猫たちの中からこいつをランダムに取り上げたのはハルヒだった。それが数万分の一の確率でしか発生しない染色体異常だったのだから、いっそハルヒに宝くじでも買わせてみたらどうだ。少しは活動費のたしになるかもしれんぞ。いつまでも文芸部の部費を横流ししているのは、そろそろ俺もどうかと思うぜ」
「宝くじですか? それはそれで涼宮さんのことですから、ややこしいことになりそうな気もしますね。もし彼女が億単位の金を手に入れたら何を始めると思います?」
 あまり考えたくはないが、米軍|払《はら》い下げのセコハン戦闘機《せんとうき》くらいは買い付けてきそうだ。単座ならまだいい、もしそれが複座だったりしたら、後部シートに座ることになるのが誰《だれ》かなんて考えるまでもない。
 あるいは気前よく宣伝費に使っちまうかだな。ゴールデンタイムのバラエティを見ていたら突如《とつじょ》として『この番組はSOS団の一団提供でお送りしています』なんていうテロップが流れ出し、俺たちが出演するコマーシャルフィルムが全国のお茶の間に届けられている光景を想像して背筋が寒くなった。ハルヒにプロデューサー的ポジションを与《あた》えるとロクなことをしでかさないのは、幼稚園児《ようちえんじ》に株の運用を任せて失敗する確率よりも解りきったことだ。
「もしかしたら人類にとって非常にタメになることを考え出してくれるかもしれませんよ。何かの発明資金にあてるとか、研究所でも作るとかね」
 古泉は希望的観測球を打ち上げるが、ヘタな博打《ばくち》はしないほうがいいものだ。なんたってこっちの賭《か》けるものがデカすぎる。リスク計算できるヤツなら躊躇《ためら》うに決まっているさ。それこそよほどのことがない限りな。
「コンビニで当たり付きアイスでも買わせよう。それで充分《じゅうぶん》だ」
 俺は再び風景を楽しみ始め、古泉は背もたれに深く身を沈《しず》めて目を閉じた。向こうに着いたら大いそがしだろうから、今のうちから体力の温存を図《はか》るのは正しき選択《せんたく》だ。
 列車の外の様子はどんどん田舎《いなか》度を増していき、トンネルをくぐり抜けるたびに雪景色度もレベルアップする。それを眺《なが》めているうちに、俺も心地《ここち》よい眠りに就《つ》いていた。

 そうやって列車の旅を終え、荷物を抱《かか》えて駅からまろび出た俺たちを出迎《でむか》えてくれたのは、快晴の青と積もりまくった雪の白のツートンカラー、それからいつか見た覚えのある二人組みのバカ丁寧《ていねい》な挨拶《あいさつ》だった。
「ようこそ。お待ちしておりました」
 深々と腰《こし》を折るザ・ベスト・オブ・執事《しつじ》役《やく》と、
「長旅お疲《つか》れ様です。いらっしゃいませ」
 年齢不詳《ねんれいふしょう》のあやしい美人メイドさんである。
「どうも、ご苦労様です」
 しゃしゃり出た古泉がその二人に並んで、
「鶴屋さんは初めてですね。こちらが僕のちょっとした知り合いで、旅行中身の回りの世話をお願いすることになる荒川さんと森園生さんです」
 夏の孤島《ことう》とまるで違《ちが》っていない。三つ揃《ぞろ》いを着こなしたロマンスグレーな荒川氏と、質素ながらメイド以外のなんでもないエプロンドレスがハマっている森さんは、
「荒川です」
「森です」
 ぴったりのタイミングで頭を下げた。
 この突《つ》き刺《さ》すような寒さの中コートも羽織っていないのは演出の一環《いっかん》か、それとも演技といえども役に成りきっている職業意識からくるものか。
 鶴屋さんは重そうなカバンを軽々と振《ふ》り回しながら、
「やあ! こんにちはっ。古泉くんの推薦《すいせん》なら疑いようがないよっ。こっちこそよろしくねっ。別荘《べっそう》も好きに使っちゃっていいよ!」
「恐《おそ》れ入ります」
 荒川氏は慇懃《いんぎん》にまた一礼し、やっと顔を上げて俺たちに渋《しぶ》い笑《え》みを見せた。
「皆様《みなさま》も、お元気そうで何よりです」
「夏には失礼しました」
 森さんが緩《ゆる》やかな微笑《ほほえ》みを浮《う》かべながら言って、俺の妹を見てさらに微笑みを柔《やわ》らかくする。
「まあ可愛《かわい》いお客さんですね」
 招かざる客、俺の妹は熱湯に落とした乾燥《かんそう》ワカメよりも早く素《す》に戻《もど》り、「わぁい」とか言いながら森さんのスカートに飛びついた。
 ハルヒは満面の笑みをたたえながら一歩進んで雪を踏《ふ》みしめ、
「久しぶり。この冬合宿も期待してるわ。夏は台風のおかげで少し遊び足りなかったけど、そのぶんは冬で収支を合わせるつもりだから」
 それから俺たちへと振り返り、飛車が敵陣《てきじん》で龍《りゅう》成ったような元気さで、
「さ、みんな。こっから気合入れて全速力で遊ぶわよ! この一年の垢《あか》を全部落として、新しい年を迎《むか》える頃《ころ》にはまっさらになるくらいのつもりで行くわ。悔《く》いの一欠片《ひとかけら》だって翌年には持ち込んだりしちゃダメ。いいわね!」
 それぞれのやり方で俺たちは返答した。鶴屋さんは「ゆえーいっ!」と片手を突き上げ、朝比奈さんはちょっと腰を引かせながらオズオズとうなずき、古泉はあくまでにこやかに、長門はそのまま無言で、妹は森さんにまとわりついている。
 そして俺は、見つめていると目を痛めそうなくらいに輝《かがや》くハルヒの笑顔から目を逸《そ》らして遠くへと視線を飛ばした。
 嵐《あらし》が来るなんて予想もつかないほど、雲一つない青空だ。
 この時までは。
 鶴屋家の別荘へは二台の四駆《よんく》に分乗して行った。ドライバーは荒川さんと森さんであり、と言うことは、森さんは少なくとも四輪の免許《めんきょ》取得者に足りる年齢だということだけは推理できる。ひょっとしたら同年代じゃないかと疑っていたから、それだけでも俺にはけっこうな収穫《しゅうかく》だ。いや別に深い意味はないんだ。働き者のメイドなら朝比奈さん一人で間に合っているから森さんに格別の思いが発生しているわけではない。ここ重要。
 どこを見ても真っ白な風景の中、車の旅はさほど長くは続かなかった。十五分も走っただろうか、俺たちの乗るゴツい車はペンション風の建物の前に停《と》まった。
「いい雰囲気《ふんいき》のとこじゃないの」
 真っ先に飛び降りたハルヒが雪を踏みしめながら満足感を漂《ただよ》わす感想を述べた。
「ウチの別荘の中じゃ一番こぢんまりしてるんだけどねっ」と鶴屋さん。「でも気に入ってんだっ。これくらいのが一番|居心地《いごこち》いいのさ」
 駅からそんなに離《はな》れておらず、近くのスキー場には歩いていける距離《きょり》にあるという立地条件だけでもけっこうな値段になりそうだし、おまけに鶴屋さんはこぢんまりなどと本気で言っているらしいが、それは彼女の自宅である日本家屋と比べてのこぢんまり具合なので一般《いっぱん》的な感性を代表して言わせてもらえば、夏に訪《おとず》れた孤島の別荘と遜色《そんしょく》ないデカさだった。いったい鶴屋家はどんな悪いことをしてここまで羽振りのいい建物を建てることができたのだろう。
「どうぞ、皆様」
 先導してくれるのは荒川|執事《しつじ》である。彼と森さんの二人は、鶴屋さんから許可と鍵《かぎ》を得て俺たちに先行すること一日、昨日にはここに到着《とうちゃく》し準備を整えていてくれたのだという。古泉の周到《しゅうとう》な根回しによるところ大であり、細かいことを気にしない鶴屋さんと鶴屋家の人々のおおらかな性格もなんとなくうかがえる話だった。
 全面木造、本気でペンションとしてオープンしたら毎シーズン満員|御礼《おんれい》になりそうな鶴屋家冬の別荘にありがたく入りながら、俺はちょっとした予感を抱《いだ》いていた。
 何だかよく解《わか》らない。しかし、その漠然《ばくぜん》とした予感は確かに俺の頭の中を通り過ぎて行ったのだ。
「ん……?」
 別荘の内装に感心しつつ俺は周囲を見回した。
 ハルヒは鶴屋さんを褒《ほ》め称《たた》える言葉を口にしながら笑いまくり、鶴屋さんも朗《ほが》らかに笑い返している。古泉は荒川さんと森さんの三人で何かを話し合っていた。俺の妹はさっそくシャミセンをキャリーバッグから取りだして抱《だ》きしめ、朝比奈さんは持っていた荷物を床《ゆか》に下ろしてホッとしたように息を吐《は》き、長門はどこを見ているのか解りにくい視線を空中に固定している。
 どこにも変なところはない。
 俺たちはこれから合宿とは名ばかりの単なる遊興に数日を費《つい》やし、また再び元の位置に戻って日常の続きをエンジョイすることになる……。
 はずだった。
 発生することが決まっている殺人事件劇はまさしく劇であって真剣《しんけん》なものではなく、あらかじめ解っているんだからそれでハルヒの情動が揺《ゆ》れ動くこともない。長門と朝比奈さんの出番もないだろう。古泉が異能の力を発揮する場も生じない――。
 言い方にもよるが、これから起こるのはデキレース。先の見えない怪《あや》しい殺人事件ではないのである。部屋をこじ開けて入ったらカマドウマが出てきたりするような予想を超《こ》える事態になるとも思えない。
 しかし何だろう。違和《いわ》感としか言いようのないものが定例句の妖精《ようせい》のように通り過ぎた感覚がした。そうだな、夏休み後半が延々とループしていたのに気づかないまま、だが妙《みょう》な感じだけは覚えていたあの雰囲気に似ている。ただしデジャブというわけでもなく……。
「ダメだ」
 粘液《ねんえき》にまみれた魚をつかんだみたいに、その感覚はするりと手の内から消え去った。
「気のせいか」
 俺は首を振《ふ》り、カバンを担《かつ》いで別荘《べっそう》の階段を上り始めた。割り振りされた自分の部屋に向かうためである。豪華《ごうか》と言うほどではないが、それは俺に金目のモノを見る目がないからだろう。シンプルに見えてこの階段の手すりも聞いたら仰天《ぎょうてん》するくらいの材料費と人件費がかかっているに違《ちが》いない。
 寝室《しんしつ》の並ぶ二階|廊下《ろうか》で、
「キョンくんさ」
 鶴屋さんが笑顔《えがお》で近寄ってきた。
「妹ちゃんと同じ部屋でいいかい? ホント言うと用意していた部屋数がギリなんだよねっ。あたしが子供の頃《ころ》に使っていた屋根裏部屋を開けてもいいけど、それじゃ寂《さび》しいでっしょ?」
「別にあたしの部屋でもいいわよ」
 ハルヒが首を突《つ》っ込んできて、
「さっき部屋を見てきたけど、広いベッドだったわ。三人川の字で寝《ね》ても平気なくらいよ。やっぱここは女同士で相部屋になるのが健全でしょ?」
 健全も何も、妹と同じ部屋でも俺は別にどうだっていいことだ。朝比奈さんと同室になったらかなりの精神的|急勾配《きゅうこうばい》が発生するだろうが、妹とシャミセンの違いなんか俺にはまったく感じない。
「ね、どう?」
 ハルヒが訊《き》いたのはシャミセンを肩《かた》にしがみつかせている妹へだ。妹はケラリとした笑みで、まるで雰囲気《ふんいき》を無視した発言をした。
「みくるちゃんとこがいい」

 というわけで妹は朝比奈さんの部屋にまんまと潜《もぐ》り込み、俺の部屋にはシャミセンが残されることとなった。せっかくなのでこの猫《ねこ》も誰《だれ》かに貸与《たいよ》したかったのだが、
「遠慮《えんりょ》しておきますよ。あなたと違って僕は猫が喋《しゃべ》り出すことに耐性《たいせい》がありませんから」
 古泉はやんわり否定《ひてい》し、長門は三十秒ほど三毛猫の眉間《みけん》を見つめていたが、
「いい」
 短く言って背を向けた。
 まあ、この別荘の中を適当にウロウロさせておけばいいだろう。知らない家に連れてこられたというのにシャミセンは我が家と変わりない顔をしてベッドに飛び乗り、列車の中でさんざんねただろうにまた居眠《いねむ》りを始めている。ついでに俺も横になってしまいたかったが、そんな休憩《きゅうけい》時間はスケジュールに組まれておらず、ハルヒの号令に従って俺たちは着いたそうそうに階下へ集合することになった。
「さあ、行くわよ。スキーしに!」
 さっそくすぎるような気もしたが、ハルヒ的ラストスパート兼《けん》スパークのために無駄《むだ》に使える時間は一秒たりともないのだ。おまけに根っから元気なのは鶴屋さんもであり、ひょっとしたらハルヒ以上にハイな彼女との相乗効果で行動力までダブルになっている気もするね。
 スキーウェアと板は古泉がどこからかレンタルしてきた。いつのまに俺たちの採寸をしたのかが不思議だ。急な参加となった妹のぶんまであって、それまたピッタリなのである。『機関』とやらのエージェント(想像するに黒服黒サングラス)が北高や小学校に忍《しの》び込み、保健室の棚《たな》から生徒の身体情報をあさっている光景を幻視《げんし》してみる。うむ、後で朝比奈さんのスリーサイズを尋《たず》ねておこう。知ったところでどうするわけでもない情報ではあるが、これも知的|好奇心《こうきしん》というやつだ。
「スキーも久しぶりだわ。小学校のときに子供会で行ったきりかしら。地元じゃ全然降らないもんね。やっぱり冬は雪だわ」
 そりゃ降雪地方でない奴《やつ》特有の言い分だな。雪なんざ降らなきゃいいと思っている人々だって中にはいるぜ。特に戦国時代の上杉《うえすぎ》謙信《けんしん》なんかはそうだったと俺は分析《ぶんせき》している。
 スキー板を担ぎ、歩きにくいブーツで行軍する俺たちは、やがて見事なゲレンデに辿《たど》り着いた。ハルヒと同じく俺もスキーは久々だ。中学以来じゃないかな。妹は初めてのはずで、どうやら朝比奈さんもそうらしい。長門も未経験者に違いないがプロスキーヤー以上の腕前《うでまえ》を見せることを俺は半ば信仰《しんこう》していた。
 リフトで登っていく色とりどりのスキーウェアがポツリポツリと目に入る。思っていたより人は少ないなと思っていると鶴屋解説が入った。
「割と穴場なとこなんだよっ。知る人ぞ知る静かなスキー場さ。だってここ、十年前まであたしんとこのプライベートゲレンデだったからねっ」
 今は開放しているけど、と補足する鶴屋さんの言葉にはまるで嫌《いや》みなところがない。世の中にはこういう人も実際にいるのである。見栄《みば》えもよければ性格も金回りも家柄《いえがら》もいいという、もうどうしようもないようなお人がね。
 リフト乗り場付近でスキーを履《は》いたハルヒが言った。
「どうする、キョン。あたしはこのまま最上級コースに出ちゃいたいけど、みんなちゃんと滑《すべ》れるの? あんたは?」
「少し練習させてくれ」
 俺は板をブーツに装着したはいいが、三十センチおきにコケている妹と朝比奈さんを見ながら言葉を返した。
「ますは基本を教えとかないと、最上級どころかリフトに乗るのも一苦労しそうだ」
 早くも雪まみれの朝比奈さんは、まるでスキーウェアを着るために生まれて来たような似合いぶり。いったいこの人が着て違和《いわ》感を発生させるような衣服がこの世に果たしてあるのだろうかとたまに思う。
「じゃさっ。あたしがみくるを鍛《きた》えるから、ハルにゃんは妹ちゃんを頼《たの》むよ! キョンくんたちは適当にそのへん滑っといてっ」
 願ってもない提案だ。俺もスキー勘《かん》を取り戻《もど》すにはしばらくかかりそうである。ふと横を見ると、
「…………」
 無表情にストックを握《にぎ》りしめた長門が、つい〜っと滑り出していた。

 結局、妹はてんでモノにならなかった。ハルヒの教え方に難があるんじゃないか?
「足を揃《そろ》えて思いっきりストックをガーンとやるとピューンと行くから、そのままドワーって気合で行って、止まるときも気合で止まるの、オリャーっ。これで何とかなるわ」
 何ともならなかった。気合でどうにかできるんならこの上なくエコな自動車が開発できるだろうが、あいにく妹程度の気合ではコケる間隔《かんかく》が三十センチから三メートルになったくらいの違《ちが》いだ。それでも妹は無性《むしょう》に楽しげで、きゃらきゃらとコケまくって雪をむしゃむしゃ食べていたから結果はどうであれ娯楽《ごらく》としては正しいのかもしれない。腹|壊《こわ》すからやめとけ。
 一方の朝比奈さんは元々才能があったのか、鶴屋さんがハイレベルなインストラクター的|手腕《しゅわん》を備えていたのか、ものの三十分でスキースキルを会得《えとく》していた。
「わっわっ。楽しい。わぁ、すごい」
 真っ白な背景の中、笑顔《えがお》で滑っている朝比奈さんの姿は、長くなるので中略するが短くまとめると、ハイカラな雪女の末裔《まつえい》がおっかなびっくり現世に現れたくらいの画面|映《ば》えする芸術性を帯びていた。これだけでも即座《そくざ》にUターンして帰路についてもオッケーてなもんだ。その前に写真を撮《と》っておく必要はあるだろうが。
 スキーの自主錬をする俺や古泉を横目に、ハルヒはいつまで経《た》っても上達しない妹を考え込むような顔で見ていた。自分は一刻も早く山の高いところにいって直滑降《ちょっかこう》を試《ため》したいが、この小学五年生を連れて行くわけにはいかない、みたいな顔つきだ。
 たぶん鶴屋さんも同じことを思ったのだろう、
「ハルにゃんたちはリフト乗ってっちゃっていいよ!」
 鶴屋さんはコケたまま嬉《うれ》しそうに手をジタバタさせている妹を救い起こしながら、
「この子はあたしが手ほどきしとっから! なんだったらここで雪ダルマでも作って遊んどくよっ。ソリでもいいかなっ。どっかそのへんで貸してくれると思うしっ」
「いいの?」
 ハルヒは妹と鶴屋さんを見ながら、
「ありがと。ごめんね」
「いいっていいって! さ、妹くんっ。スキー教室と雪ダルマとソリ滑りのどれがいい?」
「雪ダルマくん!」
 と、妹は大声で答え、鶴屋さんは笑いながらスキーを外した。
「じゃ、ダルマくんだっ。でっかいの作ろう、でっかいのっ」
 さっそく雪玉を作り始めた二人に、朝比奈さんも混じりたそうな表情で、
「雪ダルマですかあ。あぁ、あたしもそっちのほうがいいような……」
「だーめ」
 すかさずハルヒが朝比奈さんの腕をロックしてニッコリと、
「あたしたちは頂上まで行くわよ。みんなで競争するの。最初に麓《ふもと》まで降りてきた者に冬将軍の地位を授《さず》けるわ。がんばりましょ」
 たぶん自分か勝つまでやめないつもりだ。それは別にいいが、いきなり頂上行きは俺もちょいとビビリが入る。段階的に上げていこうぜ。
 ハルヒはふんと小鼻を鳴らして、
「なっさけないわねえ。こんなの、ぶっつけでやるのが一番|面白《おもしろ》いのに」
 とか言いつつも珍《めずら》しく俺の案を採用した。とりあえず中級コースから行って、メインイベントの最上級難関はオーラスに取っておくことにする。
「リフト乗りましょ。有希ーっ、行くわよっ。戻ってきなさぁい」
 周囲をぐるぐる回るように弧《こ》を描《えが》いていた長門は、その声を合図にターンすると雪を削《けず》るようにしてぴたりと俺の横に止まった。
「競争よ、競争。リフトは人数分のフリーパスをもらったから日が暮れるまで……いいえ! 日が暮れても何度でも乗れるわ。ささ、みんなついてきて」
 言われなくてもそうするさ。たとえ俺が雪ダルマ制作班に参加希望を表明したところで許可されはしないだろうし、古泉はともかく長門や朝比奈さんをハルヒの好き勝手に付き合わせてそのまま放《ほう》っておいた日には、ブリザードを通り越《こ》して氷河期が前倒《まえだお》しされかねん。ちゃんと客観性を持った人徳者がついていないといかん。俺に誇《ほこ》れるほど立派な客観性があるかどうかは、まあイマイチ解《わか》ったもんでもないし古泉あたりがたちどころに幾《いく》つもの理屈《りくつ》で反論しそうだが、俺は気にすることを放棄《ほうき》した。なぜなら、そんなのはとっくの昔にどうだっていいことになっていたからだ。
 メンバー全員が元気な姿でここにいるし、雪は申し分のないパウダースノーだし、澄《す》んだ空はどこまでも青い。その空と同じくらいの晴れやかな顔で我らの団長が手を差し伸《の》べた。
「このリフト二人乗りなのね。公平にグッパーで決めましょう」

 さて。
 その後の展開で特筆すべきことはあるまい。別行動の鶴屋さんと妹を残し、SOS団正規メンバーはリフトに乗ってなだらかな勾配《こうばい》を上がっていき、ごく普通《ふつう》にスキーを楽しんだ。麓まで滑《すべ》り降りるたびに雪ダルマは形をなすようになっていき、鶴屋さんと妹はまるで同年代の友人のように明るく笑いあいながらダルマにバケツをかぶせたり目鼻をつけたりとエンジョイしている。早くも二体目の雪ダルマに取りかかろうとしていたのが俺の見た二人の最新の記憶《きおく》だ。

 そして、最後の記憶になるかもしれなかった。

 何度目のスキー大回転競争だっただろう。
 順調に滑り降りていた俺たちは、いつのまにやら……これが本当にいつの間《ま》だったのか全然解らないんだ。いつしか、突然《とつぜん》、突如《とつじょ》として、吹雪《ふぶき》のまっただ中にいた。視界はすべてホワイトアウト、一メートル先に何があるのかも確認《かくにん》できない。
 びゅうびゅうと吹《ふ》き付ける強風が雪の欠片《かけら》を乗せて身体《からだ》にバンバンぶち当たっている。冷たさよりも痛みが先に来るほどだ。剥《む》き出しの顔がたちまち凍《こお》り付き、息をするのも下を向かねばならないような、とんでもないブリザードだった。
 何の予兆もなかった。
 先頭を切って滑り降りていたハルヒがスキーを停《と》め、競《きそ》い合っていた長門も急停止して、朝比奈さんと一緒にゆっくり滑っていた俺と最後尾《さいこうび》の古泉が追いついたとき――。
 すでに吹雪はここにあった。
 まるで誰《だれ》かが呼び寄せたように。

 …
 ……
 ………
 以上で回想を終わる。これで俺たちが雪山をのたのた歩いている理由が解っていただけただろうか。
 なんせ視界がきかないもんだから、数メートル先に断崖絶壁《だんがいぜっぺき》があっても気づかず落ちる危険性がある。そんな崖《がけ》などは確かなかったはずだが、地図を無視していきなり出現しても大して不思議ではなく、ジャンプ台もないのにラージヒルに挑《いど》みたくもない。さすがに崖は大げさとしても雪で白く迷彩《めいさい》された樹木に正面|衝突《しょうとつ》してはヘタすりゃ鼻の骨くらいは折れるだろう。
「俺たちは今どこを歩いてるんだ?」
 こういうときに頼《たよ》りになるのは長門だった。俺としては不本意なのだが命には代えられない。そうやって長門の正確無比なナビゲーションに従って山を下りているというのに、すでにそのまま何時間も経過しているのは最初に述べたとおりだ。
「変ねえ」
 ハルヒの呟《つぶや》きにも不審《ふしん》な香《かお》りがこもり始めている。
「どうなってんの? いくらなんでもここまで人の姿を見かけないなんておかしいわ。いったいどんだけ歩いたと思ってんのよ」
 その視線が先頭の長門に向いている。長門が降りる方向を間違《まちが》えたのではないかと疑っている顔だ。そうとしか思えない状況《じょうきょう》ではある。ここは秘境でも何でもないスキー場なのだ。だいたいの見当を付けて斜面《しゃめん》を道なりに降りていけば、自《おの》ずと麓《ふもと》に到着《とうちゃく》しないとおかしい。
「しょうがないからカマクラ作ってビバークでもする? 雪が小やみになるまで」
「待て」
 俺はハルヒを呼び止め、雪を掻《か》き分けるようにして長門の横に並んだ。
「どうなってる?」
 ショートヘアを凍気《とうき》でごわごわした無表情|娘《むすめ》は俺をゆっくりと見上げて、
「解析《かいせき》不能な現象」
 小さな声でそう言った。黒目勝ちの目は真摯《しんし》なまでにまっすぐ俺に向けられている。
「わたしの認識《にんしき》しうる空間座標が正しいとすれば、我々の現在位置はスタート地点をすでに通り過ぎた場所」
 何だそりゃ。それじゃあ、とうに人里に入ってなければいかんだろう。こんだけ歩いてんのにリフトのケーブルやロッジの一つも見なかったぞ。
「わたしの空間|把握《はあく》能力を超《こ》えた事態が発生している」
 長門の冷静な声を聞きながら、俺は大きく息を吸った。舌先に当たった雪の結晶《けっしょう》が蒸発するように溶《と》けていき、発する言葉も同様に霧散《むさん》した。
 長門の能力を超えるような事態?
 妙《みょう》な予感はこれだったのか。
「こんどは誰の仕業《しわざ》だ」
「…………」
 長門は思考するように沈黙《ちんもく》し、叩《たた》きつける雪の乱舞《らんぶ》を瞬《まばた》きもせず見つめた。
 俺たちは全員、腕時計《うでどけい》も携帯《けいたい》電話も持たずにゲレンデに乗り出していたから、現在時刻もよく解《わか》らなくなっていた。鶴屋家の別荘《べっそう》を出たのは午後三時|頃《ごろ》だったかな。それから何時間も経《た》っているに違《ちが》いないのに、曇《くも》りまくった空はまだぼんやりと明るい。しかし厚い雲と吹雪のおかげで太陽の位置が全然解らん。ヒカリゴケに覆《おお》われた洞窟《どうくつ》の中にいるような不可解な明るさで、思わず俺は親知らずのさらに奥《おく》が金気|臭《くさ》い痛みを訴《うった》え始めるのを感じた。
 行けども行けども雪の壁《かべ》が立ちはだかり、天蓋《てんがい》は灰色一色。
 どこかで体験したような光景とちょっと似ている感じがしないでもない。
 まさか――。
「あっ!」
 すぐそばでハルヒが叫《さけ》び声を上げ、俺は心臓が肋骨《ろっこつ》を突《つ》き破って飛び出すかと思うくらいに驚《おどろ》いた。
「おい、ビビらすなよ。デカい声上げやがって」
「キョン、あれ見て」
 ハルヒが風にも負けず一直線に指差す先――。
 そこに小さな光が点《とも》っていた。
「何だ?」
 目をこらす。雪交じりの風のせいでまるで瞬《またた》いているように見えるが、光源自体は移動していない。交尾《こうび》を終えた蛍《ほたる》みたいに弱った光だ。
「窓から漏《も》れる光だわ」
 ハルヒは声に喜色を浮《う》かべながら、
「あそこに建物があるのよ。ちょっと寄らせてもらいましょう。このままじゃ凍死しそう」
 その予言はこのままいけば事実になるだろうな。だが建物だと? こんなところに?
「こっちよ! みくるちゃん、古泉くん。しっかりついてきなさい」
 人間除雪車となったハルヒがザクザクと道を造って先頭を進み始める。寒さと不安と疲労《ひろう》感から来るものだろう、ガタガタ震《ふる》える朝比奈さんをかばうように支えながら、古泉はハルヒの後を追った。すれ違いざまに囁《ささや》いたセリフが俺の心をより寒くさせる。
「明らかに人工の光ですね。ですが少し前まであんなところに光なんかありませんでしたよ。これでも周囲に目配りしていましたから確かです」
「…………」
 長門と俺は黙《だま》ったまま、スキー板で雪を蹴散《けち》らして道を作ってくれているハルヒの背中を眺《なが》めた。
「早く早く! キョン、有希! はぐれちゃダメよ!」
 他《ほか》にどうしようもない。氷づけとなって百年後くらいのニュース記事になるよりは、少しでも生存の可能性に賭《か》けたほうがいい。それが誰《だれ》かの仕組んだ罠《わな》への入り口なんだとしても、他に道がないのならそこを歩いていくのが唯一《ゆいいつ》の方向だ。
 俺は長門の背を押して、ハルヒが作り出した雪道を歩き始めた。

 近づくにつれて光に正体が明らかになってくる。ハルヒの人並み外れた視力を賞賛してやってもいいな。それは紛うかたなく窓から漏れ出している室内灯の光だった。
「洋館だわ。すごく大きい……」
 ハルヒは一旦《いったん》立ち止まり、顔を垂直に向けて印象感想をおこなってから再び歩き出した。
 俺もまた巨大《きょだい》な建物を見上げ、ますます暗澹《あんたん》たる感情を抱《いだ》く。白い雪と灰色の空の中で、その館《やかた》は影絵《かげえ》のようにそびえ立っていた。どこか禍々《まがまが》しく思ったのは見慣れない外見のせいだけではなさそうだ。館というより城に近い威容《いよう》を誇《ほこ》り、屋根の上には用途《ようと》不明な尖塔《せんとう》がいくつも突き出していて、光の加減か外装がやけに黒っぽい。そんな建物が雪山の直中《ただなか》に建っているのだ。これが怪《あや》しくないと言うのなら、全国の辞書の怪しいという単語の項目《こうもく》をすべて書き換《か》える必要がある。
 吹雪《ふぶき》の雪山。遭難《そうなん》中の俺たち。方向も見失って歩いている最中に発見した小さな灯火《ともしび》。そして辿《たど》り着いたのは奇妙《きみょう》な西洋風の館――。
 これだけ条件が揃《そろ》ってるんだ。次に出てくるのは今度こそ怪しい館の主人か、それとも異形の怪物《かいぶつ》か? で、以降のストーリはミステリかホラーのどちらに分岐《ぶんき》するんだ?
「すいませーんっ」
 早くもハルヒは玄関《げんかん》扉《とびら》に声を張り上げている。インターホンもノッカーもない。無骨な扉がハルヒの拳《こぶし》によって叩かれた。
「誰かいませんか!?」
 殴打《おうだ》を繰《く》り返すハルヒの後ろに続き、俺はもう一度館を見上げた。
 それにしても、あまりにも用意された感じがまとわりつく状況《じょうきょう》、設定と舞台《ぶたい》装置だ。これが古泉の仕掛《しか》けでないのは解《わか》る。これで館の扉が開いたら荒川さんと森さんが最敬礼してたら最高なんだが……。長門が自分で自分の能力を超《こ》えていると証言したことからも、そうなってくれそうにないのは明らかだった。古泉たちが長門を出し抜《ぬ》けるとは思えないし、仮に長門を抱《だ》き込んでドッキリの一部に荷担《かたん》させているのだとしても、長門は俺にだけは嘘《うそ》を言わない。
 ハルヒは猛吹雪《もうふぶき》にも負けないくらいの大声を張り上げていた。
「道に迷っちゃって! 少しでいいから休ませてもらえますか! 雪の中で立ち往生して困ってるんですっ!」
 俺は振《ふ》り返って全員がいることを確認《かくにん》した。長門はいつものビスクドール的表情でハルヒの背中を見つめている。朝比奈さんはビクついた顔で自分の身体《からだ》を抱きしめ、くしゅんと可愛《かわい》くクシャミしてすっかり赤くなっている鼻先を擦《こす》る。古泉の顔面からもニヤケスマイルは消えていた。腕組《うでぐ》みに傾《かし》げた首、やや苦い物を噛《か※》[#「_※」は「口+齒、第3水準1-15-26]んでいるような表情と言う思案顔をした古泉は、扉が開いたほうがいいか閉《と》ざされたままのほうが迷っているようなハムレット的|雰囲気《ふんいき》をまとっていた。
 ハルヒの立てる騒音《そうおん》はこれが俺の家のあたりならとうに近所|迷惑《めいわく》レベルに達している。にもかかわらず、扉の内側からは何の返答もない。
「留守なのかしら」
 手袋《てぶくろ》を脱《ぬ》いで拳に息を吐《は》きかけながらハルヒは恨《うら》めしそうに、
「明かりがついているから誰かいると思ったんだけど……。どうする、キョン」
 どうすると言われても即座《そくざ》に回答しかねる問題だな。トラップの匂《にお》いがする場所に勢いよく飛び込むのは直情径行な熱血ヒーローの役回りだ。
「雪と風さえ防げる場所があればいいんだが……。近くに納屋《なや》とか物置小屋がないか?」
 しかしハルヒは離《はな》れを探すような回りくどいことをしなかった。手袋をはめ直した手が、雪と氷のこびりついたドアノブを握《にぎ》るのを俺は見た。祈《いの》るような横顔が、ふっと息を吐く。真剣《しんけん》な面持《おもも》ちのまま、ハルヒはゆっくりノブをひねった。
 止めるべきだったのかもしれない。最低、長門のアドバイスを聞いてから判断すべきだったような気もする。だが何もかも時|遅《おそ》く――。
 まるで館そのものが口を広げたように。

 扉が開いた。

 人工の灯火が俺たちの顔を明るく照らす。
「鍵《かぎ》かかってなかったのね。誰《だれ》かいるんだったら、出てきてくれてもよさそうなのに」
 ハルヒはスキーとストックを建物の壁《かべ》にもたせかけると、先陣《せんじん》を切って中に飛び込んでいき、
「どなたかーっ! いませんかっ。お邪魔《じゃま》しますけどーっ!」
 しかたない。俺たちも団長の行動を模倣《もほう》することにした。最後に入ってきた古泉が扉を閉め、何時間ぶりかに冷気と寒気と耳障《みみざわ》りな風切り音とに一次的別れを告げることができた。やはりホッとしたのだろう、
「ふぇー」
 朝比奈さんがペタリと座り込んだ。
「ねえ、誰もいないのーっ!」
 ハルヒの大声を聞きながら、明るさと暖かさが骨に染《し》み渡《わた》ってくるのが解った。ちょうど真冬の外から戻《もど》ってきた直後に熱い風呂《ふろ》につかったような感じだ。頭とスキーウェアに積もっていた雪がたちまち溶《と》けて床《ゆか》に水滴《すいてき》を作っている。暖房《だんぼう》が効いていた。
 しかし、人の気配はない。そろそろ誰かが出てきて迷惑そうな態度を隠《かく》さずハルヒを追い払《はら》ってもよさそうな展開だったが、呼びかけに応じてやってくる登場人物は皆無《かいむ》だった。
「幽霊《ゆうれい》屋敷《やしき》じゃないだろうな」
 俺は呟《つぶや》いてその館《やかた》の内部を見回した。扉を開けてすぐが大広間になっている。高級ホテルのロビーと言ったら話が早いか。吹《ふ》き抜けになっている天井《てんじょう》はやけに高いところにあって、これまたやけに巨大《きょだい》なシャンデリアが煌々《こうこう》たる明かりを灯《とも》していた。床に敷《し》かれているのは深紅《しんく》の絨毯《じゅうたん》だ。外装は奇怪《きかい》な城のようでも中身はかなり現代的で、真ん中には幅《はば》のある階段が二階の通路へと続いている。これでクロークさえあれば本当にホテルに来たのだと錯覚《さっかく》するほどだ。
「ちょっと探してくるわ」
 待てども現れない館の住人に業《ごう》を煮《にや》やしたのはハルヒだった。びしょぬれのスキーウェアから脱皮《だっぴ》するように這《は》い出すと蹴《け》り飛ばすようにスキーブーツも脱ぎ捨てて、
「非常事態だからしょうがないと思うけど、勝手に上がり込んじゃって後から文句言われるのもイヤだしさ。誰かいないか見てくるから、みんなはここで待ってて」
 さすが団長と言うべきか、いかにも代表者チックなことを言うと、ハルヒは靴下《くつした》のまますぐさま走り出そうとした。
「待て」
 止めたのは俺だ。
「俺も行く。お前一人じゃどんな失礼をやらかすか不安だからな」
 大急ぎでウェアとブーツを取り外す。途端《とたん》に身体が軽くなった。吹雪の山中を歩きづめることで蓄積《ちくせき》した疲労《ひろう》感を、まるごと衣服に託《たく》して脱ぎ去った気分だ。俺はかさばる衣装《いしょう》を手渡《てわた》しながら、
「古泉、朝比奈さんと長門を頼《たの》む」
 雪山|脱出《だっしゅつ》の役にまったく立たなかった超能力《ちょうのりょく》野郎《やろう》は唇《くちびる》をひん曲げるような笑《え》みを浮《う》かべて会釈《えしゃく》で答えた。俺を見上げる朝比奈さんの心配そうな瞳《ひとみ》と、黙々《もくもく》と立ちつくす長門を一瞥《いちべつ》してから、
「行こう。こんだけ広いんだ。奥のほうまで声が届いていないだけかもしれん」
「あんたが仕切んないでよ。こう言うときはね。リーダーシップを取るのは一人にしたほうがいいの! あたしの言うとおりにしなさい」
 負けず嫌《ぎら》いみたいなことを言いつつハルヒはさっと俺の手首をつかんで、待機に回った団員三人に、
「すぐに戻ってくるわ。古泉くん、二人をお願いね」
「了解《りょうかい》しました」
 古泉は普段《ふだん》の笑みに戻ってハルヒに答え、俺にもうなずきかけやがった。
 たぶん、こいつは俺と同じことを考えている。
 この館の隅々《すみずみ》まで捜索《そうさく》しても人の姿を発見することはできない。
 なぜだか俺にはそんな予感があった。

 まずハルヒは階上の探索行《たんさくこう》を選んだ。広間の大階段を上がると、左右に分かれる通路が長々と延びており、通路の左右両側にちょっと数える気にならないほどの木製|扉《とびら》がついている。ためしに一つ開けてみる。すんなり開いた扉の中はこざっぱりした洋式の寝室《しんしつ》だった。
 廊下《ろうか》の両端がさらに階段になっていて、俺とハルヒはもう一階上を目指した。行く先はハルヒ任せだ。
「あっち。次、こっち」
 ハルヒは片手で指さし確認《かくにん》しながら、もう一方の手で俺の手首を引いていた。新たな階に到着《とうちゃく》するたび「誰かいますか!」と至近で叫《さけ》ぶ大音声《だいおんじょう》に耳をふさぎたくも思うが、それすらままならないね。俺はハルヒの指が示すまま、ただ付き従うだけである。
 数が多すぎるのでランダムに扉を開け放ち、そのすべてが同じような寝室でしかないことを確認しながら俺たちは四階までやって来た。館の通路は常夜灯なのか、どの階も明かりに満ちている。
 さて次はどの扉を開けようかと目で選んでいたら、
「こうしていると夏を思い出すわね。船を確認しに外に出たときのこと」
 ……ああ、そういうこともあったな。今と同じように俺はハルヒに引きずられて土砂降《どしゃぶ》りの中を歩かされたっけ。
 俺がセピア色の記憶《きおく》フィルムを巻き戻していると、突然《とつぜん》ハルヒが立ち止まり、手首を捕《と》らわれている俺も止まる。
「あたしさ」
 ハルヒはトーンを落とした声で話し始めた。
「いつの頃《ころ》からか忘れたけど、いつのまにかだけど……。できるだけ人とは違《ちが》う道を歩くことにしてきたの。あ、この道って普通《ふつう》の道路のことじゃなくて、方向性とか指向性とかの道ね。生きる道みたいな」
「ふうん」と俺は相づちを打つ。だからどうした。
「だから、みんなが選びそうな道はあらかじめ避《さ》けて、いつも別のほうに行こうとしてたわけ。だってさ、みんなと同じほうに行ったって大概《たいがい》面白《おもしろ》くないことばかりだったのよ。どうしてこんな面白くないことを選びたがるのかあたしには解《わか》らなかった。それで気づいたの。なら、最初から大勢とは違うほうを選べば、ひょっとしたら面白いことが待ってるんじゃないかって」
 根っからのヒネクレ者はメジャーだからという理由なだけで、そのメジャーなものに背を向けたりする。損得度外視で自らのマイノリティの道を選ぶのだ。俺にも多少そんな気《け》があるからハルヒの言っていることだって解らん話ではないさ。ただ、お前は極端《きょくたん》に走りすぎるあまりメジャーだのマイナーだのとは全然別次元にいっちまってる気がするぜ。
 ハルヒはフフっと微妙《びみょう》な笑い方をして、
「ま、そんなことはどうでもいいんだけどね」
 何だよ。俺の答えを聞くまでもないんなら最初から尋《たず》ねるな。この状況《じょうきょう》をどう思ってやがるんだ。悠長《ゆうちょう》に笑い話のできる場合ではないだろうが。
「それより気になることがあるんだけど」
「今度は何だ」
 うんざり感を込《こ》めて返答した俺に、
「有希と何かあったの?」
 …………。
 ハルヒは俺を見ず、まっすぐ前の廊下の先を見つめているようだった。
 俺の返事は一拍《いっぱく》以上|遅《おく》れていた。
「……なんのこった。別に何もねーよ」
「うそ。クリスマスイブからずっと、あんた、有希を気にしてばかりいるじゃん。気がついたら有希のほうばっか見てるし」
 ハルヒはまだ廊下の先を見通そうとしている。
「頭打ったせいじゃないわよね。それとも何よ。有希に変な下心を持ってんじゃないでしょうね」
 長門ばかりを眺《なが》めている自覚なんか心情としてまったくない。せいぜいいって朝比奈さんと合わせてロクヨンくらいの割合……なんて言ってる場合じゃねえな。
「いや……」
 口ごもざるを得なかった。例の消失の件からこっち、俺が長門をそれなりに気にしているのはハルヒの読み通りだし、言葉の上だけでも否定語を使用するのは俺自身が気にする。しかし、まさかこいつに気づかれていたとは思わないから模範《もはん》解答も用意しておらず、真実をそのまま伝えるわけにはもっといかず。
「言いなさいよ」
 ハルヒはわざとのように歯切れよく、
「有希もちょっと変だもの。見た目は前と変わんないけど、あたしには解るんだからね。あんた有希に何かしたでしょ」
 わずか二言三言の間に下心から既成《きせい》事実に移り変わろうとしている。このまま放《ほう》っておいたら古泉たちの所に戻《もど》るまでに俺と長門は本当に『ナニかあった』ことにされてしまう恐《おそ》れがある。実際に何かがあったことは確かだから、咄嗟《とっさ》に完全否定するのも難しい。
「あー。ええとだな……」
「ごまかそうったってそうはいかないわよ。いやらしい」
「違うって。やましいことなんか俺にも長門にもねえんだ。えー……。実は……」
 いつしかハルヒは俺にアーチェリーの的を見る目を注いでいた。
「実は?」
 挑《いど》むような目つきのハルヒに、俺はやっとの思いで言葉をねじり出した。
「長門は悩《なや》み事を抱《かか》えているんだ。そう、そうなんだよ。ちょっと前に俺はその相談に乗ってやったんだ」
 考えるのと話すのを同時進行でやるのは辛《つら》いな。それが口からデマカセならなおさらだ。
「正直言ってそれはまだ解決していないんだ。何というか……つまり……ようするに長門が自分で解決しないといけないことだからな。俺にできるのは話を聞いてやって、長門がどうしたいのかを自分で決めさせることくらいでさ。長門はまだ解答保留中だから相談された手前、俺もまだ気になっている。それが目にでちまったんだろう」
「どんな悩みよ、それって。どうしてあんたなんかに相談するわけ? あたしでもいいじゃないの」
 疑念の晴れない口ぶりだった。
「有希があたしや古泉くんよりあんたを頼《たよ》りにするとは思えないわ」
「お前じゃなけりゃ誰《だれ》でもよかったんだろう」
 キリキリと眉《まゆ》を吊《つ》り上げるハルヒを、俺は自由なほうの手で制してやった。ようやく頭が回り出してきたぜ。
「つまりこうなんだ。長門が一人暮らしをしているわけは知っているか?」
「家庭の事情でしょ? あれこれ聞き出すのはやらしいと思って、そんなに詳《くわ》しくは知らないけど」
「その家庭の事情がちょっと発展を見せているんだ。結果の如何《いかん》によって長門の一人暮らしは終わるかもしれん」
「どういうこと?」
「簡単に言えば引っ越《こ》しさ。あのマンションを離《はな》れて、遠くの……親族のもとに行く可能性があるんだ。当然、学校も変わることになる。言っちまえば転校だ。来年の春、キリのいいところで二年に上がると同時に別の高校に……」
「本当?」
 ハルヒの眉が緩《ゆる》やかに下がる。こうなればしめたものだ。
「ああ、だが長門は家庭の事情がどうあれ、転校はしたくないそうだ。卒業まで北高にいたいと言っている」
「それで悩んでたの……」
 ハルヒはしばしうつむいて、だが顔を上げたときは再び怒《おこ》った顔になっていた。
「それこそ、だったらあたしに言えばいいじゃない。有希は大切な団員なのよ。勝手にどっか行くなんて許せないわ」
 そのセリフが聞けただけでも俺は満足だよ。
「お前に相談なんかしたら余計に話がこじれると思ったんだろうよ。お前のことだ。長門の親族のもとに乗り込んで、転校絶対反対のデモ行進くらいするだろう」
「まあね」
「長門は自分でケリをつけたいと決心してはいるんだ。ちょっと迷っているだけで心はあの部室にあるのさ。だがずっと一人で考え込んでいても精神に負担がかかるから、誰かに伝えておきたかったんだろう。ちょうど俺が入院してて、長門が一人でお見舞《みま》いに来てくれたときに聞いたんだ。たまたまそこに誰もいなくて俺だけがいたってことさ。それだけ」
「そう……」
 ハルヒは軽く息をつき、
「あの有希がね……。そんなことで悩んでたの? けっこう楽しそうに見えたのに。休み前だけど、廊下《ろうか》でたまたま出くわしたコンピ研の下っ端《ぱ》部員たちに最敬礼されてたわよ。満更《まんざら》でもなさそうな感じだったけど……」
 俺は満更でもないような顔をする長門をイメージし、どうにも想像できずに頭を揺《ゆ》らした。ハルヒはパッと顔を上げて、
「でも、うん、まあ、そうね。有希らしいと言えば有希らしいわ」
 信じてくれたようで俺も安堵《あんど》の息を吐《は》く。この嘘《うそ》エピソードのどこに長門らしさがあったのか我ながら不思議だが、ハルヒには長門がそういう感じの娘《こ》に見えているようだ。俺は話をまとめにかかる。
「ここで言ったことはオフレコにしとけよ。間違《まちが》っても長門には言うな。安心しろ、あいつなら新学年になっても部室でおとなしく本読んでるさ」
「もちろん、そうじゃないとダメよ」
「だがな」
 俺はハルヒにつかまれた手首の熱さを感じながら言い足した
「もし、万が一にだ。長門がやっぱり転校するとか言い出したり誰かに無理矢理連れて行かれようとしてたら、好きなように暴れてやれ。そのときは俺もお前に荷担《かたん》してやる」
 ハルヒは目を二度ほど瞬《しばたた》かせた後、俺をポカンとした顔で見上げた。そして極上《ごくじょう》の笑《え》みを広げて、
「もちろん!」

 俺とハルヒが一階エントランスロビーまで戻《もど》ると、スキーウェアを脱《ぬ》いで待っていた三人が三様の対応で迎《むか》えてくれた。
 なぜか朝比奈さんは早くも半泣きの顔をして、
「キョンくん、涼宮さぁん……。よかったぁ、戻ってきてくれて……」
「みくるちゃん、何泣いてんの。すぐに戻ってくるって言ったじゃない」
 ハルヒは上機嫌《じょうきげん》に述べて朝比奈さんの髪《かみ》を撫《な》でているが、俺は古泉の表情が目障《めざわ》りだった。何だよ、そのアイコンタクトは。そんな意味不明なパスを送られても俺の胸には届かんぞ。
 もう一人、長門はぼんやりと突《つ》っ立って黒目をハルヒに向けている。いつも以上にぼんやりしているように見えたが、宇宙人的有機生命体にもラッセル車じみた雪中進軍は負担だったものと解釈《かいしゃく》して俺は納得《なっとく》した。長門が無謬《むびゅう》性の塊《かたまり》ではないというのは織り込み済みだ。今の俺はそれを知る側にいる。
「ちょっとよろしいですか?」
 古泉がさり気なく近づいて俺に耳打ちした。
「涼宮さんには内緒《ないしょ》にしておきたいことがあります」
 そう言われれば黙《だま》って耳を傾《かたむ》けるしかないな。
「あなたの体感でかまいません。あなたと涼宮さんがこの場を離《はな》れてから戻ってくるまで、どれだけの時間が経《た》ったと思いますか?」
「三十分も経ってないだろう」
 途中《とちゅう》でハルヒの話を聞いたり嘘話を語ったりしていたものの、感覚的にはその程度だ。
「そうおっしゃるだろうと思っていましたよ」
 古泉は満足げなのか困り顔なのか解《わか》らないような表情となりながら、
「残された僕たちにとってはですね、あなたと涼宮さんが探索《たんさく》に出かけてからここに帰還《きかん》するまで、実に三時間以上が経過しているんです」

 計測してくれたのは長門だった、と古泉は語った。
「あなたがたの帰りがあまりにも遅《おそ》いので」
 すっかり乾《かわ》いた前髪を弾《はじ》きつつ、こいつはニヒルに微笑《ほほえ》みながら、
「思いつきを試《ため》してみることにしました。長門さんに僕から見えない、離れた場所に行ってもらうよう依頼《いらい》したんです。秒数を正確に数えるよう打ち合わせて、十分後に戻ってくると約束して」
 長門は素直《すなお》に従ったそうだ。このエントランスから横へ続く通路へと歩き、やがて角を曲がって姿を消し――。
「ところが、長門さんは僕が二百を数え終わらないうちに帰ってきました。僕の感覚では三分も経っていないのは疑いを得ない。しかし長門さんは間違いなく十分を計測したと言い張りましたよ」
 長門が正しいに決まってる。お前が途中で居眠《いねむ》りをしたか桁《けた》を間違えたかしたんだろ。
「朝比奈さんも僕とほぼ同じ数を小声で数えていましたけどね」
 そりゃあ……。やっぱり長門のほうが合ってると思うのだが。
「僕だって長門さんのカウント精度を疑問視したりはしません。彼女がこういった数学的単純作業で間違いを犯《おか》すはずはないですから」
 じゃあ何だ、っていう世界だな。
「この館《やかた》は場所によって時間の流れる速度が異なる……または、存在するここの人間によって主観時間と客観時間にズレが発生する。そのどちらかか、あるいは両方です」
 古泉はいっそ清々《すがすが》しい面持《おもも》ちで朝比奈さんを乱暴になだめるハルヒを見て、また俺を見た。
「できる限り全員が一塊《ひとかたま》りになっていたほうがいいですね。でないと、どんどん時間の齟齬《そご》が生じることになる。それだけならまだいいのです。この建物の内部だけが時間的に狂《くる》っているのなら対処方法はないでもありません。しかし、僕たちが誘《さそ》い込まれるようにしてここにやって来た、それ以前から齟齬が開始されていたとしたらどうでしょう。突然《とつぜん》の吹雪《ふぶき》と、歩けども目的地にたどり着かない山下りに、あなたはどんな想像をしましたか? 僕たちはその時すでに別の時空間に紛《まぎ》れ込んでいたのだとしたら……」
 ハルヒに髪をかき回されている朝比奈さんを眺《なが》めてから長門を見る。吹雪で変な形になっていた髪型はすっかり乾いて元に戻っていた。雪よりは暖かみのある白い肌《はだ》だ。
 俺も古泉に囁《ささや》き返した。
「お前のことだ、長門と朝比奈さんとすでに話し合いの場を設けただろう。何か言ってたか?」
「朝比奈さんにはまるで見当がついていないようです」
 それは様子を見れば解る。肝心《かんじん》なのはもう一人だ。
 古泉はさらに声をひそませ、
「それが何も答えてくれませんでした。僕が先ほどの依頼をしたときも一言もなく歩き出して、戻《もど》ってきてからも無言です。本当に十分間だったのかと訊《き》いたらうなずいてはくれましたが、それ以外はどんな意思表示もなしです」
 長門は赤《あか》絨毯《じゅうたん》の表面をじっと注視している。表情がないのは昨日も今日も同じだが、ぼんやり度が増しているような気がするのは果たして気のせいですませていいのかな。
 俺が長門に気遣《きづか》いの声をかけようと動きかけた時、
「キョン、何してんの。みんなに報告しないといけないじゃない」
 ハルヒが釣果《ちょうか》を自慢《じまん》するような声で一同を睥睨《へいげい》し、
「さっき見回ってきたんだけど、二階から上の部屋は全部ベッドルームだったわ。どっかに電話がないかと思ったんだけど……」
「ああ、なかった」と俺も追加情報を披露《ひろう》する。「ついでにテレビもラジオもなかった。モジュラージャックや無線機らしい機械の姿もな」
「なるほど」
 古泉は指先で顎《あご》を撫《な》でながら、
「つまりどこかと連絡《れんらく》を取ったり、外界から情報を得る手段が何もないということですね」
「少なくとも二階以上にはね」
 ハルヒは不安の欠片《かけら》もなさそうに微笑み、
「一階のどこかにあればいいんだけどね。あるんじゃない? これだけデカい館だもん、通信専用の部屋がわざわざ用意されてるのかも」
 では探しに行きましょう、とハルヒは旗の代わりに手を振《ふ》って、暗澹《あんたん》たる顔つきの朝比奈さんを引き寄せた。
 俺と古泉、少し遅《おく》れて長門も歩き出す。

 ほどなく俺たちは食堂に落ち着いていた。アンティークな内装が施《ほどこ》されているこのスペースは、入ったことがないからよくは知らないが三星級のレストランのような豪勢《ごうせい》な広さと煌《きら》びやかさを兼《か》ね備えている。白いテーブルクロスのかかった卓上《たくじょう》には黄金色に輝《かがや》くキャンドルまで立っていて、天井《てんじょう》を見上げるとそこにも豪華《ごうか》なシャンデリアが吊《つ》り下がり、SOS団メンバーを冷たく見下ろしていた。
「ホントに誰《だれ》もいなかったわねえ」
 ハルヒは湯気の立ちのぼるティーカップを口元に持っていきながら、
「どうしちゃったのかしら、ここの人たち。明かりもエアコンも付けっぱなしで、電気代がもったいないわ。通信室もないしさ。どうなってんの?」
 ハルヒがズルズル啜《すす》っているホットミルクティーは、このレストランみたいな食堂|奥《おく》の厨房《ちゅうぼう》からカップやポットともども無断で拝借したものである。朝比奈さんが湯を沸《わ》かしている間にハルヒとそこら中を開けてみて回ったところ、棚《たな》には洗って乾燥《かんそう》させたばかりのようにピカピカの食器が並んでいるし、特大の冷蔵庫にはふんだんに食材が用意されているし、とてもじゃないがここが長らく無人の館として放置されていたとは思いがたい。まるで俺たちの到着《とうちゃく》と同時に全員が荷物をまとめて出て行ったような雰囲気《ふんいき》だ。いや、それすら疑わしいな。だったら少しは人間の気配か残り香《が》の一つでも残っているはずだ。
「まるでマリー・セレスト号みたいね」
 ハルヒはちゃかしているつもりらしいが、あんまり笑えないな。
 一階の探検は五人でおこなった。ぞろぞろ列になって歩く俺たちは扉《とびら》を見つける度《たび》に次々に開いていき、その度ごとに使えそうなものを発見していた。巨大《きょだい》な乾燥機《かんそうき》のしつらえられたランドリー室を見つけたり、最新機材が装備されたカラオケルームを見つけたり、銭湯みたいに広い浴室を見つけたり、ビリヤードと卓球台《たっきゅうだい》と全自動|雀卓《ジャンたく》が設置されたレクリエーションルームを見つけたり……。
 願えばその通りの部屋が新たに発生するんじゃないかと思えるくらいだ。
「可能性としては」
 古泉がカップをソーサーに置き、キンキラの燭台《しょくだい》をもてあそぶように手に取った。そのままガメる気かと思ったが、細工を入念に鑑定《かんてい》するような目で見てすぐに置いた。
「この館《やかた》にいた人々は、吹雪《ふぶき》になる前に全員で遠くに出かけ、この悪天候のせいで足止めされているということが考えられます」
 薄《うす》い微笑《ほほえ》みをハルヒに見せつけるように浮《う》かべ、
「だとすれば、吹雪が収まりしだい戻ってくるでしょう。勝手に上がり込んだ非礼を許してくれればいいのですが」
「許してくれるわよ。他《ほか》にしょうがなかったんだしさ。あ、ひょっとしたらこの館、あたしたちみたいに道に迷ったスキー客の避難所《ひなんじょ》になってるんじゃない? それだったら無人なのも解《わか》らないでもないわ」
「電話も無線機もない避難所なんかないだろ」
 俺の声は心持ち疲《つか》れている。五人で一階部分をのし歩いたあげくに解ったことはそれくらいだ。通信手段やニュースソースだけに留《とど》まらず、この建物の中には時計すらなかった。
 それ以前に、この館は建築基準法と消防法を確実に無視している気がするんだがと思いつつ、
「どこの誰がこんなデカいだけで不便な避難先を作るんだ?」
「国か自治体じゃないの? 税金で運営されてるんじゃないかしら。そう考えるとこの紅茶とかも遠慮《えんりょ》なく飲めるしね。税金ならあたしだって払《はら》ってるから使用する権利はあるわ。……そうだ、お腹《なか》空《す》いたから何か作ってきましょうよ。手伝って、みくるちゃん」
 思い立つと他人の意見に左右されないハルヒである。素早《すばや》く朝比奈さんの手を取ると、
「えっ? あっはっはい」
 心配そうな瞳《ひとみ》を俺たちに向けながら厨房へと連行された。朝比奈さんには申しわけなかったし古泉の言う時間の流れも気になるが、ハルヒが消えてくれたのは都合がいい。
「長門」
 俺は空になった陶磁器《とうじき》を見つめているショートカットの横顔に言った。
「この館は何だ。ここはどこだ」
 長門は固まったまま動かない。そして三十秒くらいしてから、
「この空間はわたしに負荷《ふか》をかける」
 そんなポツリと言われても。
 解らん。どういうことだ? 長門のクリエイターだかパトロンだかに連絡《れんらく》を取って何とかしてもらうことはできないのか。異常事態なんだ。たまには手を貸してくれてもいいだろ?
 やっと俺のほうに向いた顔には何の表情もない。
「情報統合思念体との連結が遮断《しゃだん》されている。原因|解析《かいせき》不能」
 あまりに淡々《たんたん》と言われたので飲み込むまでに少々時間がかかった。気を取り直して俺は尋《たず》ねる。
「……いつからだ」
「わたしの主観時間で六時間十三分前から」
 間隔が失《う》せているから数字で言われても解りにくいなと思っていると、
「吹雪に巻き込まれた瞬間《しゅんかん》から」
 黒目がちの瞳はいつものように静かな色をしている。しかし俺の心はあいにく静けさを保ってくれたりはしなかった。
「どうしてその時に言わなかったんだよ」
 責めているわけじゃないんだ。長門のだんまり癖《ぐせ》は通常のこいつであるという証拠《しょうこ》のようなものだから、しかたがないというよりはそうでなくてはならないからさ。
「ということはここは現実にある場所じゃないのか。この館だけじゃなくて……俺たちがずっと歩いてきた雪山から全部、誰《だれ》かの作った異空間か何かなのか?」
 長門はまた黙《だま》り込み、しばらくして、
「解らない」
 どこか寂《さび》しそうにうつむいた。その姿がいつぞやの長門を想起させ、ちょっと焦《あせ》る気分がする。しかしだ、こいつにも解らないなんて言語を絶する現象がハルヒがらみ以外にあったとは。
 俺は天を仰《あお》ぎ、もう一人のSOS団団員に言った。
「お前はどうだ。何か言うことはないか?」
「長門さんを差し置いて僕が理解可能な現象もそうありませんが」
 興味深そうな目を長門に向けていた副団長|殿《どの》は、やや姿勢を正した。
「僕に解るのは、ここが例の閉鎖《へいさ》空間ではないということくらいです。涼宮さんの意識が構築した空間ではありません」
 言い切れるのか?
「ええ。これでも涼宮さんの精神活動に関してはスペシャリストですからね。彼女が現実を変容させるようなことがあれば僕には解ります。今回の涼宮さんは何もしていません。こんな状況《じょうきょう》を願ったわけでもない。まず無関係と言い切れます。何でも賭《か》けてください。即座《そくざ》に倍賭け《ダブルアップ》を宣言しましょう」
「じゃあ誰だ」
 俺はうすら寒さを感じる。吹雪のせいでそう見えるだけなのか、食堂の窓から見える風景はひたすらグレー色だ。あの青白い <神人《しんじん》> がひょっこり顔を覗《のぞ》かせても別段おかしいとは思わないような背景だった。
 古泉は長門を見習ったように沈黙《ちんもく》して肩《かた》をすくめた。緊張《きんちょう》感のない仕草だったが、それは演技だったのかもしれない。深刻な顔を見せたくなかったのだろうか。
「お待たせー!」
 ちょうどハルヒと朝比奈さんがサンドイッチを山積みした大皿を抱《かか》えて来たからな。
 俺の体内時計が勘《かん》で教えてくれるところによれば、そうたいして待ってはいないはずだ。ハルヒと朝比奈さんが厨房《ちゅうぼう》へと消えてから実質五分にも満たないだろう。だが、さり気なくハルヒに聞いて明らかになった所要時間は最低でも三十分はかかっているらしく、料理を見る限りではどうやらそっちも正しそうだった。サンドイッチ用の薄切《うすぎり》りパンは一枚一枚焼いてあるし、ハムやレタスにも下味がついているし、卵を茹《ゆ》でて刻んでマヨネーズであえて具材にするにも五分ではすまないね。てんこ盛りのミックスホットサンドの量は、二人がどんなに手抜《てぬ》きをしても相応の時間がかかりそうな手の込《こ》みようで、余談になるのを知りつつ言うと、これがかなり美味《うま》いのだ。ハルヒの料理の腕《うで》はクリスマス鍋《なべ》で身に染《し》みていたが、いったいこいつの不得意科目は何だろう。小学校時代に出会っていれば道徳の成績だけは勝っていただろうが……。
 俺は自分の頭を小突《こづ》く。
 こんなことを考えている場合じゃないんだ。心配すべきなのは今の俺たちの現状だけというわけにはいかないんだよ。
 朝比奈さんは自分の作った料理の行方《ゆくえ》が気になるのか、俺が新たにサンドイッチに手を伸《の》ばすたびに息を詰《つ》めて見守って、安堵《あんど》した顔を作ったり緊張《きんちょう》したりしている。前者の場合がハルヒの製作によるもので、後者が朝比奈さんのものなのだろう。まる解《わか》りだ。
 彼女はまだ知らない。古泉にも言っていない。ハルヒには知らせるわけにはいかない。
 長門と俺だけが知っていて、まだ実行していないことがある。
 そうだ――。

 俺はまだ世界を救いに過去に戻《もど》っていないんだ。

 慌《あわ》てて行くこともないと思い、年明けでもいいかと考えていた。朝比奈さんに何と言おうか文案を練っていたということもあって、のんびりと年末気分を味わっていたのはマズかったのか? このままこの館から出られないなんてことになれば……。
「いや、待てよ」
 それではおかしなことになる。俺と長門と朝比奈さんはなからず十二月の半ばに時間|遡行《そこう》するはずなのだ。でないとあの時の俺が見たあの三人は何だったのだという話になる。てことは、俺たちは首尾《しゅび》よく通常空間に脱出《だっしゅつ》できるのか。そうであれば安心材料の一つにもなるが。
「ささ、どんどん食べなさいよ」
 ハルヒは自らパクつきながら紅茶をがぶ飲みしている。
「まだまだあるからね。何ならもっと作ってきてあげてもいいわよ。食糧《しょくりょう》庫《こ》、食べきれないほど大量の食材がたんまりあったからね」
 古泉は微苦笑《びくしょう》してハムカツサンドを噛《か※》[#「_※」は「口+齒、第3水準1-15-26]みしめつつ、
「美味ですよ。非常にね。まるでレストランの味です」
 太鼓《たいこ》持《も》ちみたいな感想をハルヒに向けて言っているが、俺が気になるのはこいつではない。いかにも材料の無断使用を気にして食の進んでいない朝比奈さんでもない。
「…………」
 長門だ。
 ちまちまとした食べ方は本来のこいつのものではなかった。
 宇宙人製有機アンドロイドは、まるでいつもの旺盛《おうせい》な食欲をどこかに置き忘れたかのように、手と口の動きが半減していた。

 大半をハルヒと意地になった俺で平らげた軽食が終了《しゅうりょう》した後、
「お風呂《ふろ》入りましょうよ」
 能天気にハルヒが提案し、誰《だれ》も反対しなかった。反対意見がないのは誰もが肯定《こうてい》しているからであると思い込むのもこいつの特性で、
「大浴場があったもんね。男女別にはなってなかったから順番よ、もちろん。団長として公序《こうじょ》良俗《りょうぞょく》と風紀の乱れは許容できないからさ。レディファーストってことでいいわよね?」
 他《ほか》にすることの思い当たるふしがないってのもあるが、とにかくこういう時はハルヒのようにサクサクと次に進む道を導き出す奴《やつ》がいるのはかえって助かる思いだ。それだけ気分が紛《まぎ》れるからな。じっと考えていても何も思いつかないのであれば、機械的にでも身体《からだ》を動かしているほうが脳も刺激《しげき》を受けて、何やら思いつき電波を発信してくれるかもしれない。自分の脳みそに期待しよう。
「その前に部屋決めね。どこがいい? どの部屋も同じだったけど」
 古泉論によれば一部屋でまとまっているのがベストであるが、そんな提案をすればカエル跳《と》びアッパーが飛んできそうな気がしたので自重、
「全員近くの部屋がいいな。隣同士《となりどうし》と向かいで五部屋確保したらいいだろう」
 俺が重々しいセリフを吐《は》くのと同時にハルヒは席を立った。
「じゃ、二階のどっかにしましょ」
 颯爽《さっそう》と歩き始めるハルヒを俺たちも追う。途中《とちゅう》、エントランスに放《ほう》り出したままのスキーウェアをランドリー室の乾燥機にたたき込んでおいてから、階段を上る。
 館《やかた》の誰かが戻ってきたら飛び出せるように、とハルヒの配慮《はいりょ》によって階段近くの五部屋に仮住まいさせてもらうことにした。俺と古泉が隣同士で、その通路を挟《はさ》んだ対面《トイメン》に長門、ハルヒ、朝比奈さんが寝室《しんしつ》を確保する。俺の正面がハルヒの部屋だ。
 さっきハルヒと見回ったときにも感じたが、余計なものの何もない文字通りのベッドルームだ。超《ちょう》格安《かくやす》ビジネスホテルだってもうちょっと何かあるぜ。古風な化粧台《けしょうだい》を除けばベッドとカーテンくらいしかない。窓は完全なはめ殺しで、よく見ると二重ガラスになっている。その防音効果か、外が相変わらずの風と雪の降り荒《あ》れる悪天候だってのに室内は無音だ。逆に気味が悪い。
 整理する手荷物もないので俺たちは部屋決めの後、すぐさま赤《あか》絨毯《じゅうたん》通路に集合した。
 ハルヒはまた挑発《ちょうはつ》的な笑顔《えがお》で、
「解ってるわね、キョン」
 何を解れと?
「決まってるでしょ、こういうシチュエーションに置かれた煩悩《ぼんのう》まみれの男が決まってするようなことをしちゃダメだからね。あたしはそんなステレオタイプが大っ嫌《きら》いだから!」
 何をすりゃいいんだっけ?
「だからぁ……」
 ハルヒは女団員二人の腕《うで》を引き寄せ、静謐《せいひつ》な顔でされるがままになっている長門の横髪《よこがみ》に側頭部をつけながら、きっぱりと叫《さけ》んだ。
「覗《のぞ》くなっ!」

 ハルヒだけが姦《かしま》しい三人|娘《むすめ》たちが遠ざかるのを見計らい、俺は滑《すべ》るように自室を出た。外の猛吹雪《もうふぶき》など無関係とばかりに館の通路はしんとしている。空気は暖かい。だが心地《ここち》よさとは無縁《むえん》のものだ。心を寒くさせるような暖かさにありがたみは感じない。
 足を忍《しの》ばせて目指した先は隣の部屋だ。小さくノック。
「何でしょう」
 古泉が顔を出し、歓待《かんたい》するような笑顔で口を開きかけた。俺が唇《くちびる》の前で人差し指を立てると、心得たように口を閉《と》ざす、俺も無言で古泉の部屋に滑り込んだ。忍び込むのは朝比奈さんのところにしておきたかったが、ここで遊んでいるヒマはない。
「お前に言っておくことがある」
「ほう」
 古泉はベッドに腰《こし》をかけ、俺にも座るように手で促《うなが》した。
「それこそ何でしょう。気になりますね。他のお三方に聞かれては困るような話でしょうか」
「長門には聞かれてもかまわんけどな」
 何の話か、それは言うまでもなかろう。
 ハルヒの消失から始まって、俺が病室で目覚めるまでの様々な事柄《ことがら》だ。朝倉《あさくら》涼子《りょうこ》の復活、二度目の時間|遡行《そこう》と三年前の七夕、設定の違《ちが》っちまったSOS団のメンツたち、朝比奈さん大人バージョン、それから、これから俺がしなきゃならないはずの世界復活計画――。
「ちょいと長い話になるぜ」
 俺は古泉の横に腰を下ろして語り始めた。
 古泉は絶好の聞き役で、合間合間に適当な相づちを打ちながら最後まで優等生的|聴講生《ちょうこうせい》の態度を保っていた。
 要点だけをかいつまんでまとめたので予想したよりは長くかからない。俺としては細部まで長々と描写《びょうしゃ》したいところでもあったが、何せよ優先すべきは解《わか》りやすさと一般《いっぱん》性だと思っているので、俺もそのようにしてやった。
 おとなしくオチまで聞き終えた古泉は、
「なるほどね」
 とりたてて感動したわけでもなさそうに、微笑《びしょう》した口元を指でなぞりながら、
「それが本当だとしたら、興味深いとしか言いようがありませんね」
 お前の言う『興味深い』ってフレーズは時候の挨拶《あいさつ》か。
「いえ、本当にそう思っているんですよ。実は僕にも思い当たるふしがあったものですから。あなたが話通りの体験をしたのだとしたら、僕の疑惑《ぎわく》も補強されるというものです」
 俺は面白《おもしろ》くない顔をしていただろう。こいつが思い当たるものとは何だ。
「弱まっている可能性があるんですよ」
 だから何がだ。
「涼宮さんの力。それから長門さんの情報操作能力もです」
 何を言おうとしているんだ? 俺は古泉を見た。古泉は無害そうな微笑《ほほえ》みを違《たが》えず、
「涼宮さんが閉鎖《へいさ》空間を生み出す頻度《ひんど》を減じさせているというのは、クリスマス前にお話ししましたね。それと呼応するように、僕が長門さんから感じる……何と表現すべきでしょうか、つまりは宇宙人的な雰囲気《ふんいき》と言いましょうかね? その手の感覚、気配みたいなものです。それが減少しているように思えるのです」
「……へぇ」
「涼宮さんは徐々《じょじょ》に普通《ふつう》の少女に向かおうとしている。加えて長門さんもまた、情報統合思念体の一端末《いちたんまつ》の立場から外れようとしている――、そんな気がしてならないのですよ」
 古泉は俺を見ている。
「僕にしてみれば、それ以上を望みようのない展開です。涼宮さんがそのまま現実の自分を肯定《こうてい》し、世界を変化させようと考えたりしなければ僕の仕事は終わったも同然ですよ。長門さんが何の力を持たない普通の女子高生になってくれたら大いに助かります。朝比奈さんは……そうですね、どうとでもできますから未来人でもけっこうですが」
 俺を無視するように古泉は独白を続ける。
「あなたはもう一度過去に行って自分と世界を元通りにしなければならない。なぜなら、あなたはその過去において未来から来た自分と長門さんと朝比奈さんを目撃したから――でしたか」
 そうとも。
「しかし現在の僕たちは全員|揃《そろ》って吹雪《ふぶき》の山中に迷い込み、誰《だれ》かが用意でもしてくれたかのような怪《あや》しい館《やかた》にいる。長門さんにも理解できない。いわば異空間に閉じ込められているわけです。この状態が延々と続けば、あなたがたが過去に戻《もど》るすべはないと考えられますから、まさしくその理由によって、少なくともあなたと長門さんと朝比奈さんの三者だけは元の空間に戻らなければならない。いや、戻ることはすでに決定している……」
 そうじゃないとおかしいだろう。俺がもう一つ緊迫《きんぱく》感を感じられないでいるのはそのせいなんだ。あの時俺は確かに俺の声を聞いた。しかして今の俺はまだあのときに戻っていないのだから、戻るのはこれからということになる。なら、このままこうして吹雪の館にずっと滞在《たいざい》し続けるような事態にはならないはずで、脱出《だっしゅつ》できるのは規定事項《きていじこう》だ。朝比奈さん(大)も言ってたじゃないか。『でないと、今のあなたはここにはいないでしょう?』と。
「なるほど」
 古泉はもう一度同じせりふを言って、俺に微笑みかけた。
「しかし僕には別の仮説があるんですよ。どちらかと言えば悲観的な仮説です。簡単に言うと、僕たち全員が元の空間に復帰できなくとも全然かまわないような理屈《りくつ》がね」
 もったいぶらずに早く言え。
 では、と前置きして古泉は用心深く声のトーンを下げた。
「現在の僕たちはオリジナルの僕たちではなく[#「オリジナルの僕たちではなく」に傍点]、異世界にコピーされた存在なのかもしれません」
 俺が理解するのを待つようにこちらを見ているが、意味不明にもほどがある。
「解りやすく言い換《か》えましょう。たとえば僕たちの意識が、そのままスキャンされてコンピュータ空間に移し替《か》えられたとしたらどうでしょうか。意識だけはそのままに仮想現実空間へ移送されたとしたら」
「コピーだあ?」
「そうです。何も意識だけに限らない。統合思念体クラスの力を持つものならどうにでもできるでしょう。つまりこの異空間に紛《まぎ》れ込んだ僕たちはオリジナルの僕たちではなく、ある一定時刻から忠実にコピーされた同一人物なんです。オリジナルの僕たちは……そうですね。今頃《いまごろ》鶴屋さんの別荘《べっそう》で宴会《えんかい》を楽しんでいるのかもしれない」
 ちょっと待ってくれ。意味するところの把握《はあく》が追いつかないのは俺が無学だからか?
「そういうわけではないでしょうが、もっと身近な例を挙げましょう。あなたがコンピュータゲームをしていると仮定しましょう。ファンタジー的なRPGです。何が出てくるか解《わか》らない洞窟《どうくつ》に入る前、一応セーブするのは当然の対策と言えます。仮にそこでパーティが全滅《ぜんめつ》したとしても、また元のセーブポイントからリプレイすることができますからね。あらかじめコピーデータを作製しておけばオリジナルは大切に保存しておいて、コピーにあえて無茶な行動を取らせることだって可能です。不具合があればリセットすればいいのですから。今僕たちが置かれている状況《じょうきょう》がそれだとしたらどうなります?」
 古泉は諦観《ていかん》したような表情になってまで、しかしまだ微笑を消してはいなかった。
「つまりはここは誰かが構築したシミュレーション空間で、僕たちはコピーされた実験動物です。このような状況下に置かれたとき、涼宮さんを含《ふく》めた僕たちがどのように反応するかを観察するための、まさにそのための場所なんですよ」
「古泉……」
 呟《つぶや》きながら俺は猛烈《もうれつ》な既視感に襲《おそ》われていた。夏のエンドレスオーガストにも体験したような、理不尽《りふじん》な記憶《きおく》の断片《だんぺん》だ。何だろう。覚えているはずのない記憶が俺の頭の片隅《かたすみ》で叫《さけ》んでいる。思い出せ、と。
 ようようにして俺は言った。
「以前にも似たようなことがなかったか?」
「雪山で遭難《そうなん》した記憶ですか? いえ、僕にはありませんが」
「そうじゃない」
 雪山は関係ない。これとは別に、俺たちが何か他の時空に放《ほう》り込まれたような記憶が……なんとなく俺にはあるんだ。そこは非常に非現実的なところで……。
「カマドウマを退治したときのことですか? あれは確かに異空間でしたね」
「それでもない」
 俺は懸命《けんめい》に頭を凝《こ》らした。ぼんやり浮《う》かんでくるのは、奇妙《きみょう》な格好をした古泉にハルヒ、長門に朝比奈さん、そして俺。
 そうだな、古泉。何か知らんがお前は竪琴《たてごと》を持っていたような気がする。全員が古風な衣装《いしょう》を身につけていて、そこで俺たちは何かをしていた……。
「まさか前世の記憶を持っているんだとか言うのではないでしょうね。あなたに限ってそのようなことはないと考えていたのですが」
 前世だの後世だのが本当にあるんだったら、人類はもっと解り合えているだろうよ。そんなもんは現世についてイイワケをしたがっている連中の戯言《たわごと》だ。
「もっともです」
 くそったれ。思い出せない。異空間などに思い出はないと俺の理性が主張している。しかし俺の深い部分にある感性は別のことを訴《うった》えていた。
 何だったのだろう。断片的なキーワードしか浮かんでこないが、そこには王様とか海賊《かいぞく》とか宇宙船とか銃撃戦《じゅうげきせん》みたいなものが泡《あわ》のようにたゆたっている。これはどうしたことだ? そんなもんはなかったという記憶はある。しかし俺の心の奥底でわだかまっている合わないピースは何だろう。正体がつかみきれない。
 俺の苦悩《くのう》するような表情を見たか、古泉は平然と言葉を継《つ》いだ。
「長門さんにも解析《かいせき》不能で、かつここが彼女に負荷《ふか》をかけるような空間なのだとしたら、館《やかた》を含めて吹雪《ふぶき》の山での遭難を演出したものの正体はある程度推測できます」
 俺は黙《だま》っている。
「長門さんと同等か、それ以上の力を持つ誰《だれ》かです」
 それは誰だ。
「解りません。ですが、そのような存在が僕たちをこの状況に追いやったとして、このまま僕たちを留め置きたいと考えるなら、最大の障害となるのは長門さんでしょう」
 古泉は下唇《したくちびる》を指でなぞりながら
「僕がその何者かの立場なら、真っ先に長門さんをどうにかすることを考えます。単独ではほぼ無力と言っていい僕や朝比奈さんとは違《ちが》って、長門さんは統合思念体と直結していますから」
 ハルヒよりよほど神様的な連中らしいからな。単数なのか複数なのかも解らないが。しかし親玉との連結が遮断《しゃだん》されていると長門は告白している。
「ひょっとしたら、その何者かは長門さんの創造主よりも強大な力を持っているのかもしれません。そうなればアウトですが……」
 言っている途中《とちゅう》で何やら思いついたような顔をして、ハンサム野郎《やろう》は腕《うで》を組んだ。
「朝倉涼子を覚えていますよね?」
 忘れそうになっていたのだが今月になって忘れることはできないようなことが起きちまった。
「情報統合思念体内部の少数派で過激派、その一派がクーデターを成功させたというのはどうですか? 我々からすれば神も同然の知性体です。長門さんを孤立《こりつ》させ、僕たちを位相のズレた世界に閉じ込めることなど簡単にやってのけるはずです」
 思い出す。社交的で明るく優良なクラス委員長。尖《とが》ったナイフの切っ先。俺は二度まで朝倉に襲われ、二度とも長門に救われたのだ。
「いずれにせよあまり結果は変わりません。僕たちはこの館から脱出《だっしゅつ》できず、永劫《えいごう》の時をここで過ごすことになる」
 竜宮城《りゅうぐうじょう》かよ。
「的を射て当を得た表現です。我々のこの状態は歓待《かんたい》と言ってもいいでしょう。欲しいと念じたものが用意されている。暖かく広い館、冷蔵庫に一杯《いっぱい》の食材、お湯を満たした大浴場、快適な寝室……。館からの脱出に必要なものを除いてね」
 それでは意味がない。こんなアンノウンスペースに留め置かれて怠惰《たいだ》な生活を満喫《まんきつ》できるほど俺はこれまでの人生に絶望していない。高校生活だって一年足らずで終了《しゅうりょう》するにはいくらなんでも短すぎるだろ。俺にだってここにいる連中以外にももう一度は会っておきたい人間がいるさ。谷口と国木田をその数に数えてやってもいいし、家族やシャミセンとこれっきりなのはさすがに悲しいぜ。だいたい俺は冬が大の苦手で、アイスランドの人には悪いが雪と氷に閉じ込められて余生を過ごすなんざ一生かかっても慣れそうにないんだ。夏の暑さとセミの喧噪《けんそう》をこよなく愛する男と呼んでくれ。
「それを聞いて僕も一安心ですよ」
 古泉は大げさに息を吐《は》いた。
「仮に涼宮さんが異常事態に気づき、自らの能力を開放することになれば、どんな結果を引き起こすか解《わか》ったものではありません。これを仕組んだ者の目的はそれであるかもしれないのです。これと言った進展がないのなら、わざと刺激《しげき》的な操作をおこなって暴発を誘《さそ》う。よくある手ですよ。ここがシミュレーション空間で僕たちがオリジナルと切り離《はな》されたコピーなら、下手人も遠慮《えんりょ》することはないでしょうしね。あなただってゲームのキャラクターに無茶をさせても良心が痛むことは稀《まれ》なのではないでしょうか?」
 そう言われれば思い当たる過去がないでもないな。だが連中はあくまで数値でしかなく、俺たちは現実にこうして生きているつもりだ。
「まずここを脱出することです。異空間にいるよりは現実的な遭難《そうなん》のほうがいくらかマシです。なんとかなる。いえ、なんとかしなければいけません。涼宮さんや僕たちを閉じ込めておきたいと思うような存在は我々[#「我々」に傍点]にとって明確な敵です。我々というのは『機関』や情報統合思念体じゃなくて、SOS団ですけどね」
 何だっていいさ。俺と同意見なら、そいつは即座《そくざ》に仲間入りだ。
 それきり俺は深い思索《しさく》の旅に出発し、古泉もシンクロするように考え込む顔で顎《あご》に手を当てていた。
 やがて――。
 小さなノックが俺と古泉の間の沈黙《ちんもく》を打ち砕《くだ》いた。膠《にかわ》でも貼《は》り付いたような重い腰《こし》を上げ、俺は扉《とびら》を開く。
「あの……。お風呂《ふろ》空きましたよ。次、どうぞ」
 風呂あがりの朝比奈さんはほどよく上気して、ぽわわんとした色気を無邪気《むじゃき》に振《ふ》りまいていた。湿《しめ》った髪《かみ》が一筋|頬《ほお》に貼り付いているのが妙《みょう》に扇情《せんじょう》的で、裾《すそ》の長いTシャツから覗《のぞ》く素足《すあし》が艶《なまめ》かしい。俺の精神状態が正常ならば、即刻《そっこく》抱《だ》き上げて自分の部屋の隅《すみ》っこに置いておきたいくらいだ。
「ハルヒと長門はどこです?」
 俺が廊下《ろうか》を見ながら言うと、朝比奈さんはクスリと笑《え》みをこぼし、
「食堂でジュースを飲んでます」
 俺の食い入るような視線を感じたのか、少し慌《あわ》て気味に身体《からだ》の前と裾を押さえた。
「あ、着替《きが》えは脱衣所《だついじょ》にありましたよ。このシャツもそうなの。バスタオルと洗面道具もちゃんと……」
 照れ照れした感じの仕草がえもいわれぬ良い具合だった。
 俺は振り返って古泉の動きを目で殺しておいて、素早く通路に出た。後ろ手にドアを閉める。
「朝比奈さん、一つだけ訊《き》きたいんですが」
「はい?」
 ドングリ眼《まなこ》が俺を見上げ、不思議そうに首を傾《かし》げる。
「この館《やかた》についてどう思いますか? 俺にはめちゃめちゃ不自然なシロモノに思えますが、あなたはどうです」
 朝比奈さんは長く艶《つや》やかな睫毛《まつげ》をパチパチとさせてから、
「えーと、涼宮さんはこれも古泉くんの用意したミステリゲームの……えーと、ふくせん? なんじゃないかって言ってましたけど……お風呂場で」
 ハルヒはそうやって折り合いをつけてりゃいいが、朝比奈さんまで納得《なっとく》してもらっては困るな。
「時間の流れがおかしいのはどういう理屈《りくつ》ですか。あなたも古泉の実験に立ち会ったんでしょう?」
「ええ。でも、それも含《ふく》めてトリック……? ってやつじゃないんですか?」
 俺は額を押さえて溜息《ためいき》を押し隠《かく》した。どうやったら古泉にそんなことが可能なのかも解らんし、仮にそれがどうにかして俺たちを欺瞞《ぎまん》したトリックの一部なんだとしたら、ハルヒにも教えてやらないと不公平だろう。第一、時間は朝比奈さんの専門分野じゃないですか。
 俺は腹を決めて言った。
「朝比奈さん、未来と連絡《れんらく》はつきますか。今、ここでです」
「へ?」
 幼顔の上級生はキョトンと俺を見つめ、
「そんなの、言えるわけがないじゃあないですかぁ。うふ。禁則ですよー」
 おかしそうに笑い出してくれたが、俺は冗談《じょうだん》を言ったつもりもなければ、これが笑い事でもないと認識《にんしき》しているのだ。
 しかし朝比奈さんはそのままクスクス笑いながら、
「ほら、早くお風呂入らないと涼宮さんに怒《おこ》られますよ。ふふ」
 アブラナの周りを飛び交《か》う春先のモンシロチョウのような足取りで、小柄《こがら》な上級生はふわふわと階段に向かい、一度振り返って俺に不器用なウインク送り届けてから姿を階下に消した。
 だめだ。朝比奈さんは頼《たよ》りにならない。頼ることができそうなのは……。
「くそ」
 俺は絨毯《じゅうたん》に向かって息を吐《は》いた。
 あいつに余計な負担はかけさせたくない。なのに、今ここで何とかしてくれそうなのはその一人しかいない。古泉は頭でっかちな推測を口にするだけだし、ハルヒは下手なつつき方をすればどんな暴発を起こすか解《わか》らない。いくら俺が奥の手を持っているとは言え、古泉の話を聞いた後では迂闊《うかつ》に使用することは難しい。この状況《じょうきょう》に俺たちを追い込んだ何者かは、まさにそれを狙《ねら》ってるかもしれないんだ。
「どうすりゃいいんだ……?」

 風呂につかって血行を良くすれば名案が閃《ひらめ》くかと期待したが、脳みそのできばえは自分がよく知っている通りで、何ら事態を改善するようなアイデアを生み出したりはしなかった。あまりに当然の結果で落胆《らくたん》すら覚えないのが情けない。
 脱衣場には朝比奈さんの言ったとおり、バスタオルと着替えが用意されていた。丁寧《ていねい》にたたまれたフリーサイズのTシャツとイージーパンツが棚《たな》にずらりと並んでいる。適当に選んで身につけ、古泉とともに食堂へと向かった。
 先に上がっていた三人はテーブルにジュースの瓶《びん》をずらりと並べて待っていた。
「ずいぶん長《なが》風呂《ぶろ》だったじゃん。何してたの?」
 俺としてはカラスよりは少しマシなくらいの入浴時間だったのだが。
 ハルヒが渡《わた》してきたミカン水を飲みながら、俺の視線はどうしても長門じゃなければ窓の外へと向いてしまう。身体《からだ》が暖まったおかげか、すっかり機嫌《きげん》の圧力が上昇《じょうしょう》しているハルヒは終始ニコニコ顔で瓶ジュースをラッパ飲みし、朝比奈さんも自分の置かれている立場をまったく理解しない微笑《ほほえ》みを浮《う》かべて、それは立場を理解しているはずの古泉もそうだった。長門がいつもより小さく見えたのは、湿《しめ》った髪《かみ》がつつましく垂れ下がっているからか。
 それにしても今何時|頃《ころ》なんだ。窓から見える外の様子は変わらずの吹雪《ふぶき》一色で、しかしなぜかぼんやりと暗い。完全な真っ暗闇《くらやみ》じゃないのがかえって不気味である。
 ハルヒも時間の感覚が失《う》せているようで、
「娯楽室《ごらくしつ》で遊ばない?」
 そんな極楽《ごくらく》な提案をする始末だった。
「カラオケもいいけど、久しぶりに麻雀《マージャン》がしたいわ。レートはピンのワンスリーでルールはアリアリ、でも真面目《まじめ》に手作りしたいからチップとご祝儀《しゅうぎ》はなしね。国士十三面と四暗刻《スーアンコウ》単騎《たんき》はダブル役満でいいわよね?」
 ルールにケチを付ける気はないが、俺はゆっくり首を振《ふ》った。今しないといけないのはカラオケでも賭《か》け麻雀でもなく、考えることだったからだ。
「いったん一眠《ひとねむ》りしようぜ。遊ぶんならいつでもできるだろ。さすがにちょっと疲《つか》れたよ」
 雪に半分|埋《う》もれたまま、何時間もスキー担《かつ》いで歩いていたんだ。これで疲労《ひろう》が蓄積《ちくせき》されないのはハルヒの筋肉くらいだぜ。
「そうねえ……」
 ハルヒは他の連中がどちらの意見に賛成なのかを見極《みきわ》めるように、一人一人の表情を確かめていたが、
「ま、いいわ。ちょっとお休みしましょ。でも起きたら全開で遊ぶんだからね」
 渦状《うずじょう》星雲が二、三個入ってそうな輝《かがや》きを瞳《ひとみ》に宿らせて宣言した。

 それぞれ決めておいた部屋に引っ込んだ後、俺はベッドに寝《ね》そべって打開策の脳内人格会議を実行していた。しかしこんな時に限ってどいつもこいつも己《おのれ》の無能ぶりを露呈《ろてい》するだけで、何一つ有益な提案を出しやがらない。全員が押し黙《だま》って誰《だれ》かが何かを言わないかとそればかりを期待しているうちに時は過ぎ、どうやら俺はうとうとしていたらしかった。なぜなら、
「キョンくん」
 いきなりの呼び声に、思わず飛び上がったくらいだから。
 ドアが開閉する音も、誰かが部屋に入ってくる足音や衣擦《きぬず》れ、気配すら感じていなかった。つまりそういうわけで俺は驚《おどろ》き、部屋の中央に立っている人影《ひとかげ》を見てさらに驚愕《きょうがく》した。
「朝比奈さん?」
 光源になっているのはカーテンを開け放した窓からの雪明りだ。しかし、その薄暗《うすぐら》い照明の中でもその人の容姿を見間違《みまちが》えるわけはない。いつも可愛《かわい》い部室の精霊《せいれい》のごとき存在、SOS団専属のマスコットの朝比奈さんだ。
「キョンくん……」
 もう一度言って微笑み、朝比奈さんは遠慮《えんりょ》がちな足取りで歩いてきた。慌《あわ》てて座り直した俺の横に、剥《む》き出しの両足を揃《そろ》えてちょこんと腰掛《こしか》ける。何だか明言できないおかしさを感じてよく見ると、廊下《ろうか》でお休みを言ったときと服装が違っていた。ロングTシャツ一枚みたいな格好ではない。かといってそれよりまとう布地が増えているわけでもなかった。
 朝比奈さんは白いワイシャツ一枚という、まるで誰かの妄想《もうそう》を具現化したような衣装《いしょう》で俺を見上げていた。至近|距離《きょり》から。
「ねえ……」
 麗《うるわ》しい童顔が何かを求めるように、
「ここで寝ていい?」
 二つの肺が口から飛び出るようなことを言った。(おかしい)
 潤《うる》んだ目が俺の顔を確実に捉《とら》え、頬《ほお》をうっすらと上気させながら、朝比奈さんはしとやかに俺の腕《うで》にもたれかかった。(なんだこれは)
「一人だと不安なんです。眠《ねむ》れなくて……。キョンくんのそばなら気持ちよく眠れそうなの……」
 熱っぽい体温がシャツを通して伝わってくる。火ぶくれができるかと錯覚《さっかく》するほどの熱さだった。柔《やわ》らかいものが押し付けられる。朝比奈さんは俺の腕を抱《だ》くように、顔を近づけてきた。
「いいでしょう? ね?」
 いい悪いの問題ではない。朝比奈さんにそこまでさせて断るような人間は男にも女にもいない。だから、いい。そうですよね、このベッドは一人寝には広いですから……。(まてよ)
 うふ、と微笑んで彼女は俺の腕を解放し、ただでさえ開いていたシャツのボタンを外し始めた。くらくらするほどの柔らかい曲線が少しずつ露《あらわ》になる。ハルヒによってバニーガールにさせられた時や、うっかり部室の戸を開けて着替《きが》えを目《ま》の当たりにしてしまったときに見て、パソコンのハードディスクに眠る隠《かく》しフォルダの中にある映像と同じ、あの胸元《むなもと》がすぐ目の前にあった。(きづけ。ちがう)
 白いワイシャツのボタンは残すところ二つ……いや一つ。真っ裸《ぱだか》よりも扇情《せんじょう》的なシーンだった。モデルがいいからな。何と言っても朝比奈さんがこうしているんだ。(おい)
 朝比奈さんは上目で俺を窺《うかが》いながら、恥《は》じらうような誘《さそ》うような表情で微笑《ほほえ》んでいる。指が最後のボタンにかかった。目を逸《そ》らしていたほうがいいのだろうか。(よくみろ)
 前のすっかり割れたシャツの内部に、息づく白い肌《はだ》がゆるやかに上下していた。あまりにも芸術的な、アフロディーテも貝の中にひっこみそうなスタイルで(ちがうんだ)つややかな胸の丘の片方には(それだ)、アクセントのように一つの星が……。
 喉《のど》の奥が空気を吐《は》き出す。
「くっ……!」
 俺はバネ仕掛《じか》けのようにベッドから飛び退《の》いた。
「違う!」
 よく見ろ、どうして気づかなかった? それが俺の朝比奈さん[#「俺の朝比奈さん」に傍点]かどうか確認《かくにん》するすべは俺が一番よく知っているし、この前もそうやって確認しようとしたじゃないか。朝比奈さんのそこ[#「そこ」に傍点]を見さえすれば、俺には解《わか》るんだ。
「あなたは誰だ」
 ――この朝比奈さんには左胸のホクロがない。
 ベッドで半裸《はんら》をさらす彼女は、俺を悲しげに見つめながら、
「どうして? わたしを拒絶《きょぜつ》するの?」
 もしこれが本物の朝比奈さんだったら? (ちがうっつってるだろ)それでも俺は理性を保てただろうか。いや、違う。そんなことも問題じゃない。朝比奈さんが人目を忍《しの》んで俺を誘惑《ゆうわく》しに来るはずはない。その必要なんかないんだ。
「あなたは朝比奈さんじゃない」
 俺はじりじり後ずさりしながら、涙《なみだ》を溜《た》め始める魅惑《みわく》的な瞳《ひとみ》を見つめた。まったくどうかしている。こんな表情をさせるくらいなら朝比奈さんかどうかなんて関係ないんじゃないか? (よせよ)
「よしてくれ」
 俺は何とか口にできた。
「誰《だれ》だ。この館《やかた》を作った奴《やつ》か。宇宙人か異世界人かどっちだ。何のためにこんなことをする」
「……キョンくん」
 その朝比奈さんの声は悲哀《ひあい》に沈《しず》んでいた。面《おもて》を伏《ふ》せ、悲しそうに唇《くちびる》を歪《ゆが》める。そして。
「!」
 彼女はシャツの裾《すそ》を翻《ひるがえ》し、風のように走ってドアへ向かった。部屋を出て行く一瞬《いっしゅん》前、涙を浮《う》かべた瞳で俺を振《ふ》り向き、さっと廊下《ろうか》に出て行く。ドアが意外なくらい大きな音を立てて閉まり、その音につられたように俺は中から鍵《かぎ》をかけていたことを思い出した。合い鍵がない限り、侵入《しんにゅう》することはできなかったはずだ。
「待ってください!」
 咄嗟《とっさ》に丁寧語《ていねいご》を発しつつ、俺もドアに駆《か》け寄って開いた。
 バン。やけに大きな音がした。いくら勢いをつけたとは言え、扉《とびら》一つが開いた効果音にしては腹に響《ひび》くなとと思っていたら――。
「あれっ? あんた……」
 正面にハルヒの顔があった。俺の部屋の真向かい、自分の部屋の扉を開けて顔を出しているハルヒが、口をあんぐりと開けて俺を見つめている。
「キョン、さっきまであたしの部屋にいな……かったわよねえ」
 通路に顔を出しているのは俺とハルヒだけではなかった。
「あの、」
 ハルヒの右隣《みぎどなり》、Tシャツ姿[#「Tシャツ姿」に傍点]の朝比奈さんも当惑顔《とうわくがお》で扉を半分開けており、左隣には、
「…………」
 長門のほっそりした姿もあった。ついでに横を見ると、
「これはこれは」
 古泉が鼻先を掻《か》きながら変な感じに目配せし、妙《みょう》な具合に微笑《びしょう》する。
 音が大きく聞こえたカラクリが解った。五人全員がまったく同じタイミングで扉を開いたのだ。五重奏のユニゾンがその正体だ。
「何、みんな。どうしたのよ?」
 ハルヒが最初に立ち直り、心持ち俺を睨《にら》むようにして、
「何で全員同時に一緒《いっしょ》に部屋から出てきたの?」
 俺は偽《にせ》の朝比奈さんを追おうとして――と言いかけて気づいた。さっきのハルヒのセリフに気がかりな部分がある。
「お前はなぜなんだ。まさかトイレに行こうとしたわけじゃないよな」
 驚《おどろ》くべきことにハルヒは少しうつむき加減に下唇を噛《か※》[#「_※」は「口+齒、第3水準1-15-26]み、それからようやく口を開いた。
「変な夢を見たのよ。いつのまにか、あんたが部屋に忍《しの》び込んでくる夢。全然あんたらしくないことを言ったり、えーと、したりしたから、ちょっとおかしいなと思って……。そう、ぶん殴《なぐ》ってやると逃《に》げ出して……。え? 夢……よね? でも、なんかおかしいわ」
 それが夢だとしたら、今は夢の続きになる。悩《なや》むように眉間《みけん》を寄せるハルヒを眺《なが》めていると、古泉が足を運んできた。
「僕と同じですね」
 俺に顔を向けてジロジロと見てくる。
「僕の部屋にもあなたが現れました。見かけはあなたそのものでしたが、ちょっと振る舞《ま》いが、気味が悪かったと申しますか……。まあ、あなたがやりそうにないようなことを、ね。してくれましたよ」
 理由もなく怖気《おぞけ》がする。古泉のニヤケ面《づら》から目を離《はな》し、俺は朝比奈さんに注目した。本物だ。こうしてみていればすぐに解《わか》る。さっきの俺は何を勘違《かんちが》いしたんだ? 雰囲気《ふんいき》と言い仕草と言い、これが朝比奈さんでなくてなんだろう。
 俺の視線をどう受け取ったのか、朝比奈さんは何故《なぜ》か顔を赤らめた。彼女のところにも俺が登場したんだろう、と信じかけていたのだが、
「わたしのところには涼宮さんが」
 もじもじと両の指を絡《から》ませて、
「そのぉ、変な涼宮さんで……。うまく言えないけど、偽者みたいな……」
 というか偽者だ。それは間違《まちが》いないが、しかし何だこの事態は。全員の部屋に俺たちのうちの誰かのバッタもんが現れただと? 俺のところに朝比奈さんで、ハルヒと古泉の部屋に俺、朝比奈さんのもとにハルヒ……。
「長門」と俺は言い、続けて訊《き》いた。「お前のところには誰《だれ》がやってきた?」
 朝比奈さんと同じくTシャツ一丁の長門は、ぼんやりした顔を静かに上げて俺を直視、
「あなた」
 小さな声でポツリと言うと、ひっそりと両眼《りょうめ》を閉じた。
 そして――
「……有希!?」
 ハルヒの疑問形的|叫《さけ》びをBGMに、俺は信じられないものを見ていた。
 長門が、あの長門有希がクタクタと崩《くず》れ落ち、見えない掌《てのひら》に押されたかのように、横倒《よこだお》しになっているのだ。
「どうしたの有希。ちょっと……」
 誰もが絶句して動けない中、唯一《ゆいいつ》ハルヒだけが即座《そくざ》に駆け寄って小柄《こがら》な身体《からだ》を抱《だ》き起こした。
「わ……。すごい熱じゃないの。有希、だいじょうぶ? ねえ、有希っ!」
 首をがくんと落としたまま長門は目蓋《まぶた》を閉じている。無表情な寝顔《ねがお》だった。しかし長門が安らかに眠《ねむ》っているのではないということを、俺の本能が悟《さと》っている。
 ハルヒは長門の肩《かた》を抱きながら、キッとした目で大声を発した。
「古泉くん、有希をベッドまで運んでちょうだい。キョン、あんたは氷枕《こおりまくら》を探してきなさい。どっかにあるはずだわ。みくるちゃんは濡《ぬ》れタオルを用意して」
 俺と朝比奈さん、古泉の三人がしばし呆然《ぼうぜん》としているのを見て、ハルヒは再び大音声《だいおんじょう》で、
「早く!」

 古泉がぐったりしてた長門を抱き上げるのを見てから俺は階段を早足で下りた。氷枕か。どこを探したらあるかな……。
 そんなことを考えているのも、長門が気絶するように倒《たお》れた衝撃《しょうげき》から立ち直れていないからだろう。あり得ない光景だった。そのせいでニセ朝比奈さんが俺の部屋でやってたことや、他の連中の部屋にそれぞれ俺たちのうち誰かの偽者が発生したというミステリーが、もうウザイくらいにどうでもよくなってきた。勝手にしやがれ。そんなもん俺には関係ない。
「|やろう《野郎》」
 本格的にヤバい。ちくしょう、長門にはしばらく平和な人間的生活を味あわせてやりたいと思っていたのに、これじゃ逆目しか出ていないじゃねえか。
 氷枕のあてもないまま歩いているうちに、俺は無意識に厨房《ちゅうぼう》にやって来ていた。俺の家では冷却《れいきゃく》シートは救急箱じゃなくて冷蔵庫に入っている。この館《やかた》ではどうだろう。
「待てよ」
 大型冷蔵庫の取っ手を握《にぎ》る前に、俺はふと腕《うで》を止めた。氷枕を思い描《えが》き、強く念じてみる。
 冷蔵庫を開けた。
「……やはりな」
 キャベツの玉の上に、青い氷枕が載《の》っていた。
 まったく用意がいい。便利すぎるぜ。しかし誰だか知らんが逆効果だ。おかげで決心が強まった。
 こんなところに、これ以上いてはいけない。

 キンキンに冷えた氷枕を抱《かか》えて食堂を出ると、館のエントランスに古泉が一人で立っていた。玄関《げんかん》の扉《とびら》を熱心に見ているが、いったい何のつもりだ。雪をかき集めてくるようにハルヒに命じられでもしたのか。
 俺は苦言の一つでも呈《てい》してやろうとと近づき、古泉は俺に気づいて先に口火を切った。
「ちょうどよかった。これを見てもらえますか」
 扉を指さす。
 俺は文句を後回しにして指さされた方を見る。そこに奇妙《きみょう》なものを発見し、言葉に詰《つ》まった。
「何だ、これは」
 言えるのはその程度だ。
「こんなもんがあったとは気づかなかったが」
「ええ、ありませんでしたよ。この館に最後に入ったのは僕です。扉を閉めたときに見ましたが、その時にこんなものはなかったはずです」
 館の玄関扉、その内側に形容しにくいものが貼《は》り付いていた。あえて近い表現を探すと、コンソールとかパネルとかになるだろうか。
 木製の扉に、金属|光沢《こうたく》のある五十センチ四方くらいのプレート――やっぱりパネルというのが一番か――がくっついていて、頭痛を催《もよお》しそうな記号と数字が並んでいた。
 我慢《がまん》して目を凝《こ》らす。一番上にあるのが、

 x−y=(D−1)−z

 その一段下にも記号が並んでいて、

 x=□、y=□、z=□

 □の部分が凹《へこ》んでいる。まるでそこに何かをはめ込めと言わんばかりだった。俺が三つの窪《くぼ》みに困惑《こんわく》のにらみをきかせていると、
「ピースはそこにあります」
 古泉が指差す先の床《ゆか》に、木枠《きわく》に並べられた数字ブロックが入っていた。よくよく見ると0から9までの数字が三列になって収められている。かがみ込んで摘《つま》み上げてみた。麻雀《マージャン》牌《パイ》のような形状で、重さもそれくらい。雀牌と違《ちが》うのは表面に彫《ほ》られた模様で、一桁《ひとけた》のアラビア数字のみが刻印されている。
 計十種類の数字が三組ずつ、平らな木箱に詰められていた。
「この方程式の解答となる数字を」と古泉もブロックの一つを拾い上げて観察の視線を据《す》え付けながら、「空いた部分に当てはめろということでしょう」
 俺はもう一度、数式のほうに目をやった。途端《とたん》に頭が痛くなる。数学は俺の数多く存在する不得意科目の一つだった。
「古泉、お前には解けるるのか?」
「どこかで見たような式ではあるんですが、これだけでは何とも解きかねますね。単純に両辺の数値を等しくするだけならいくらでも組み合わせがあります。これがもし、ただ一つの解を、導き出せというのなら、もっと条件を絞《しぼ》ってくれないと無理ですね」
 俺は四つのアルファベットのうち、異彩《いさい》を放っている一つに注目した。
「このDは何だ。答えなくてもいいみたいだが」
「一つだけ大文字ですしね」
 古泉はナンバー0の石牌《せきはい》をもてあそびながら喉《のど》を押さえるような仕草をし、
「この数式……。知っているような気がします。ここまで出ているんですが……。何でしたっけね。見たのはそんな昔ではないと思うんですけども」
 そのまま固まって眉《まゆ》を寄せている。珍《めずら》しい。古泉がしみじみと真面目《まじめ》な顔で考え事をしている図なんてな。
「で、これに何の意味があるんだ?」
 俺は持っていた牌を木枠に戻《もど》した。
「扉の内側に忽然《こつぜん》と算数問題が発生したのは解《わか》ったが、それがどうしたんだ」
「ああ」
 古泉はふっと我に返り、
「鍵《かぎ》ですよ。扉に鍵がかけられています。内側から開けるすべがありません。ノブをいくらひねっても甲斐《かい》なしなんですよ」
「何だと?」
「試《ため》してもらえば解りますよ。見ての通り、内側には鍵穴《かぎあな》もノッチもありません」
 やってみた。開かない。
「誰《だれ》がどうやって閉めたんだ? オートロックでも内側からなら開くはずだろう」
「そんな常識論が通用しない空間だという一つの証明ですね」
 古泉は意味なしスマイルを戻して、
「誰だか知りません。ですが、その誰かは僕たちをここに閉じこめておきたいのでしょう。窓はすべてはめ殺し、入り口の扉《とびら》には固い施錠《せじょう》……」
「じゃあ、このパネルの数式は何だよ。暇《ひま》つぶしのクイズか?」
「僕の考えに間違《まちが》いがなければ、この数式こそが扉を開く鍵なのです」
 古泉はゆったりした口調で言った。
「長門さんが作ってくれた、唯一の脱出《だっしゅつ》路《ろ》だと思います」

 俺が最近の記憶《きおく》を呼び覚ましてノスタルジーに駆《か》られているのもお構いなく、古泉は舌をすべらかに回し始めた。
「情報戦と言うべきでしょうか。何らかの条件|闘争《とうそう》があったものと思われます。何者かが我々を異空間に閉じ込める。長門さんはそれに対抗《たいこう》して脱出路を用意する。それがあの数式なのではないでしょうか。解くことができたら我々は元に戻れますが、そうでなければずっとこのままという図式です」
 古泉はコンコンと扉を叩き、
「具体的にどういう戦いがあったのかは解りようのないことです。これが精神生命体同士の情報戦なんだとしたら僕たちに想像しようもないことですから。しかし現実にはこのようなカタチとして現れた。このパネルがその結果なのでしょう」
 謎《なぞ》めいた館《やかた》に不|釣《つ》り合いな計算問題。
「偶然《ぐうぜん》ではありません。僕たちが奇妙《きみょう》な夢的なものを見たと思ったら、その直後に長門さんが倒《たお》れ、扉にこのパネルが発生する……。これらの連続した出来事は偶発的なものではなく、何らかの関連性があるに違いありません」
「きっとそれが脱出の鍵なんですよ。たぶん、長門さんによる」
 パネルのどっかに「Copyright (C) by Yuki Nagato」と書いてあるんじゃないかと探しちまった。なかったが。
「これも推測ですが、長門さんがこの空間で使用できる力はそれほど大きくないのだと思います。統合思念体と接続を断《た》たれた今や、彼女には彼女単独での固有能力しかないのです。だからこんな中途半端《ちゅうとはんぱ》な脱出口しか開けられなかったのでしょう」
 推測にしてはやけにもっともらしいじゃねえか。
「ええ、まあね。『機関』は長門さん以外のインターフェイスとも接触《せっしょく》を図《はか》っていますから。ある程度の情報は僕のところにも回ってきますよ」
 他の宇宙人話を詳《くわ》しく聞きたくもあるが、今はいい。それよりこの妙なパズルを何とかすることだ。俺はパネルの記号と木枠《きわく》に入った数字の石を交互《こうご》に眺《なが》め、長門の控《ひか》え目な声を思い出した。
この空間はわたしに負荷をかける
 俺たちを吹雪《ふぶき》の館に導いたのが何者かは知らないが、長門を熱出して倒れるまでにした奴《やつ》を俺は許しちゃおかん。そんなゲロ野郎《やろう》の目論《もくろ》みに乗ってなどやるものか。何が何でもここから出て行って鶴屋さんの別荘《べっそう》まで戻ってやる。誰一人欠けることなく、SOS団の全員でだ。
 長門はちゃんと自分の仕事を終えたんだ。俺には見えも聞こえもしながったが、異空間にさまよい込んでからずっと不可視の敵≠ニ戦っていたに違いない。いつもよりぼんやりしているように見えたのはそのためだったんだろう。その結果、倒れ伏《ふ》しながらも小さな風穴を開けてくれた。後は俺たちが扉を開かせる番だ。
「ここを出るぞ」
 俺の決意表明に対し、古泉は爽《さわ》やかに笑った。
「もちろん僕もそのつもりです。いくら快適でも、ここはいつまでもいたいと思う場所ではなりませんからね。理想郷とディストピアは常に表裏《ひょうり》一体です」
「古泉」
 そう呼びかける俺の声は自分でも驚《おどろ》くくらいにシリアスだった。
「お前の超能力《ちょうのうりょく》で穴をこじ開けられないのか。このままじゃマズい。長門がああなっちまった今、なんとかできそうなのはお前だけだ」
「それは過大評価というものですけどね」
 古泉はこんな状況《じょうきょう》でも微笑《びしょう》を刻んでいた。
「僕は自分が万能《ばんのう》な超能力者と言った覚えはありませんよ。力を発揮できるのは限定された条件下のみです。それはあなたもご存知のはず――」
 せりふを最後まで聞くことはなかった。俺は古泉の胸《むな》ぐらをつかんで引き寄せ、
「そんなことは聞いちゃいない」
 唇《くちびる》を皮肉に歪《ゆが》める古泉を睨《にら》みつけ、
「異空間はお前の専門だろうが、朝比奈さんは頼《たよ》りになりそうにないし、ハルヒはアレだ。いつぞやのカマドウマみたいに、お前にできることもあるだろうよ。『機関』とやらは木偶《でく》の坊《ぼう》の集まりか」
 木偶人形なのは俺もだ。なんもできない。落ちついてもいられないから古泉以下とも言える。思いつくのはここで古泉をぶん殴《なぐ》り、次に俺をぶん殴ってもらうことくらいだ。手加減|抜《ぬ》きで自分で自分を殴れないからな。
「何やってんの?」
 背後から鋭利《えいり》な声が突《つ》き刺《さ》さった。不機嫌《ふきげん》そうな声色《こわいろ》が、
「キョン、氷枕《こおりまくら》はどうしたのよ。あんまり遅《おそ》いんで見に着たら何? 古泉くんと組み手の練習して、どういうつもり?」
 ハルヒが仁王立《におうだ》ちで腰《こし》に手を当てていた。柿《かき》泥棒《どろぼう》の常習犯を現行犯|逮捕《たいほ》した近所の爺《じい》さんのような表情で、
「少しは有希のことも考えなさいよ。遊んでるヒマはないのよ!」
 俺と古泉が遊んでいるように見えたのだとしたら、ハルヒも多少は心を別の場所に移送しているのかもしれない。俺は古泉の胸元から手を放し、いつ落としたのかも記憶《きおく》にない氷枕を床《ゆか》から拾い上げた。
 ハルヒは素早《すばや》く枕を奪《うば》い取り、
「なにこれ」
 視線を扉《とびら》に付いている変な式へと向けた。古泉は乱れた襟元《えりもと》を指で引っ張りながら、
「さあ、それを二人で考えていたのですよ。涼宮さんには見当がつきますか?」
「オイラーじゃないの?」
 拍子《ひょうし》抜《ぬ》けすることに、あっさりと感想を述べた。応じたのは古泉で、
「レオンハルト・オイラーですか? 数学者の」
「ファーストネームまでは知らないけど」
 古泉はもう一度ドアの謎《なぞ》パネルを数秒間ほど見つめ、
「そうか」
 演出のように指をパチンと鳴らした。
「オイラーの多面体定理ですね。おそらく、これはその変形ですよ。涼宮さん、よく解《わか》りましたね」
「違《ちが》うかも。でも、このDってとこ、次元数が入るんだと思うから、たぶんよ」
 違おうが正解だろうがいい。とりあえず俺は当然のような疑問を抱く。オイラーとは誰《だれ》で何をしでかした人だ。多面体定理って何だ? そんなもん数学の授業に出てきたか? とも尋《たず》ねたいところだが、数学の授業はいつも半分|寝《ね》ているので積極的に質問するのははばかれる。
「いえ、高校の数学では普通《ふつう》は出てきません。ですが、あなたも聞いたことはあるはずですよ。ケーニヒスベルクの橋問題くらいはね」
 それなら知ってる。数学の吉崎が授業中の雑談の一環《いっかん》として出してきたパズルの例題だった。二つの中州《なかす》と川の対岸にかかった何本かの橋を一筆書きで渡《わた》りおおせるかどうかってやつだろ? 確かできないんだったよな?
「そうです」と古泉はうなずき「そのパズルは平面上の問題ですが、オイラーはそれが立体にも当てはまることを証明したんです。彼は歴史に残る定理を幾《いく》つも発見していますが、多面体定理はその一つです」
 古泉は解説する。
「あらゆる凸型《とつがた》多面体において、その多面体の頂点の数に面の数を足して辺の数を引けば、必ず答えが2になるという定理です」
「…………」
 俺があらゆる数学的要素を窓から投げ捨てたいと考えているのが解ったのか、古泉は苦笑しつつ片手を背中に回し、
「では、解りやすく図にしてみましょう」
 黒色フェルトペンを取り出した。どこからだ? 隠《かく》し持っていたのか? それとも俺が氷枕を出した方法でか。
 古泉はフロアに膝《ひざ》をつくと、涼しい顔で赤《あか》絨毯《じゅうたん》にペンを走らせた。ハルヒも俺も止めない。落書きくらいどうとでもなりそうな館《やかた》だ。
 そうやって描《えが》き出されたのはサイコロのような立方体の図である。

※[#図画像 05_297_304]|図a《P.297》

「見てもらえば解りますが、これは正六面体です。頂点の数は8、面の数はそのまま6です。そして辺の数は12。8+6−12=2……と、なるでしょう?」
 これだけでは足りないと思ったか、古泉は新たな図形を描いた。

※[#図画像 05_297_304]|図b《P.297》

「今度は四角錐《しかくすい》です。数えると、頂点の数が5、面の数も5、辺は8あるのが解ります。5+5−8で、答えはやはり2となります。たとえ面の数をどんどん増やして百面体くらいにまで行っても出てくる解答が必ず2になるこの式を、オイラーの多面体定理と言うのですよ」
「そうかい。それは解ったよ。ところでハルヒの言った次元数とは何のこった」
「それもまた単純です。この多面体定理は何も立体だけに作用する方式ではなく、二次元平面図にも当てはまるんですよ。ただしその場合、頂点+面−辺は必然的に1となるんですが、ケーニヒスベルクの橋問題はこちらの考え方です。
 絨毯に別の落書きが生まれた。

※[#図画像 05_297_304]|図c《P.298》

「見ての通りの五芒星《ごぼうせい》、一筆書きの星マークです」
 自分で数えてみた。頂点の数はひいふう……10だ。面は……6だな。辺の数が一番多くなるのか、ええと合計15。てことは10+6−15だから――1だ。
 俺が計算している間に古泉は四つ目の図を描き終えていた。北斗《ほくと》七星を書き間違ったような絵である。

※[#図画像 05_297_304]|図d《P.299》

「こういうデタラメな図でもいいわけですよ」
 面倒《めんどう》になってきていたが、せっかくなので暗算してやろう。えー……。点は7、面は1、そして辺は7か。なるほど、やっぱり1になる。
 古泉は晴れやかな笑顔《えがお》でフェルトペンに蓋《ふた》をして、
「つまり三次元の立体ならイコール2、二次元の平面なら1になるのです。それを頭に置いて、この式を見てみましょう」
 ペン先は扉《とびら》のパネルに向いていた。
「x−y=(D−1)−z。xは頂点で合っているでしょう。となればそこから引き算されるのは辺でしかないのでyは辺の数です。やや解《わか》りにくいのは本来左辺にあるべきz、すなわち面の数が右辺に移動してマイナス記号を付帯されているところですね。そしてこの(D−1)というやつですが、立体なら2、平面なら1となるはずですので、Dに当たるのは三次元なら3、二次元なら2となります。このDはディメンション、次元のDですよ」
 俺は黙《だま》って聞き続け、頭を働かせることに集中している。うむ。とりあえずは解ったと思う。なるほど、これがオイラーさんの開発したナントカ定理だというのは理解した。
「それで?」
 と俺は訊《き》いた。
「この数字クイズの答えはどうなる。xとyとzにはどの数字ブロックを入れてやればいいんだ?」
「それは」
 と古泉は答えた。
「解りません。元となる多面体か平面図がないと」
 それじゃ意味ねーだろ。どこにあるんだ、その元となる図形とやらは。
 さあ、と古泉は肩《かた》をすくめ、俺をますます苛立《いらだ》たせる。
 だが、その時だ。
 難しい顔をして方程式を見ていたハルヒが、突然《とつぜん》すべきことを思い出したみたいに、
「そんなのどうでもいいわ――、それよりっ、キョン!」
 やにわに叫《さけ》ぶなよ。
 「後で有希を見に来てやってよね」
  それはもちろんだが、どうしてそんなに居丈高《いたけだか》に言うんだ。
 「だってあの娘《こ》、譫言《うわごと》であんたの名前を呼んでるんだから。一回だけだけど」
  俺の名前を、長門が? 譫言?
 「一体なんて言ったんだ?」
 「だから、キョン、って」
  長門が俺を愛称《あいしょう》で呼びかけたことなんか一度もなかった。というか、本名でもニックネームでも具体的に俺を指す名称で呼ばれた記憶《きおく》そのものがない。あいつが俺を主語にするセリフを言うとき、それはいつも二人称代名詞だった……。
  俺が不定形の感情の靄《もや》を胸の奥に感じていると、
 「いや……」
  古泉が異を唱える。
 「それは本当にキョン≠ナしたか? 別の言葉の聞き違《ちが》いという可能性はないでしょうか」
  なんだこいつ、長門の寝言《ねごと》に文句を付けるつもりか。
  しかし古泉は俺を見ずハルヒを見つめて、
「涼宮さん、これはけっこう重要なことですよ。よく思い返してみてください」
 古泉にしては勢い込んだ声の調子で、ハルヒも少し意外そうにしながら目を斜《なな》め上に向けて考えるような様子を見せた。
「そうねえ。はっきりと聞いたわけじゃないからキョンじゃなかったかもしんないわね。声、小さかったしさ。もしかしたらヒョンとかジョンとかだったかも。キャンやキュンではなかったように思うわね」
「なるほど」
 古泉は満足げに、
「最初の第一声が不明で、残りの語尾《ごび》だけが聞き取れたんですね。はは、そうか。きっと長門さんが言いたかったのはキョンでもジョンでもなく、ヨン≠ナすよ」
「よん?」と俺。
「ええ、数字の4≠ナす」
「4がどうし……」
 俺はセリフを止めた。数式を見上げる。
「ねえ」
 ハルヒは苛立ったように唇《くちびる》を尖《とが》らせて、
「こんな数字クイズにかまけてる場合じゃないわよ。有希のことを心配しなさいよ。もうっ」
 氷枕《こおりまくら》を振《ふ》り回しながら目を三角に怒《いか》らせつつ、
「後でちゃんと見舞《みま》いに来るのよ! いいわねっ!」
 雄叫《おたけ》びを残し、足音高くさっさと階段を上がっていった。それを見送って、完全に視界から消えたのを確認《かくにん》してから古泉は言った。確信に満ちた声と表情で。
「やっと条件が出そろったんですよ。これで解りました。x、y、zに当てはまる数字がね」

「先ほど僕たちが体験した現象を思い出してください。涼宮さんが夢だったのかと疑って、僕にはあやふやな実感がある偽者《にせもの》の件です」
 古泉はまたペンを片手に腰《こし》を屈《かが》めた。
「誰《だれ》のところに誰の幻影《げんえい》が現れたのか、それを図にしてしまいましょう」
 まず古泉は赤《あか》絨毯《じゅうたん》に点を一つ打ち、その横に『キ』と書き入れた。
「これがあなたです。あなたの部屋に来たのは朝比奈さんでしたよね」
 点から上に直線を延ばし、そこにも点を穿《うが》って『朝』と記す。
「朝比奈さんの部屋には涼宮さんが登場した」
『朝』を表す点から、今度は斜め左下に線を書き、点と『涼』の字を書く。
「涼宮さんのところにはあなたでした」
 点『涼』から延びた線は点『キ』に合流し、直角三角形が完成した。
「そして僕のところにはあなたです。本当に、あなたらしからぬあなたと言えましたよ。気が狂《くる》ったとしてもあなたはあんなことをしないでしょうね」
 点『キ』から下に線を引き、点『古』と書き入れた。
「長門さんもあなただと言いましたね」
 この時点で俺も気づいた。俺を表す点から左に延ばされた線の先に点『長』が付けられて、古泉はペンのキャップをかぶせて終了《しゅりょう》の合図をする。
「すべては関連していたのです。夢とも現実ともつかない偽者は、ですから長門さんが僕たちに見せた幻影です」
 俺は古泉が描《か》いた最新の図形を見た。じっくりと。

 一筆書きの4≠セった。
「これを扉《とびら》の数式に従って計算すればいいわけです。僕たちが見た偽の僕たちとの相関図ですよ。平面なのでDは自動的に2≠ノなりますね」
 俺が頭で計算するよりも早く、
「それを当てはめていると、頂点は僕たちの人数分なので5=A面の数はあなたと涼宮さんと朝比奈さんで構成された三角形ですから1=A辺の数は全部で5=v
 前髪《まえがみ》を爪弾《つまび》き、古泉は笑う。
「x=5、y=5、z=1。それが解答です。ちょうど両辺ともに0になりますね」

 感心したり賞賛してやる時間が惜《お》しい。
 俺は数字ブロックを手に取った。三つ。答えが判明したなら、早速《さっそく》そいつに従ってやるのみだ。
 だが古泉はまだ疑問を持っているようで、
「僕が怖《おそ》れているのは、これが消去プログラムではないかということです」
 一応|訊《き》いてやる。それは何だ。
「僕たちがコピーされ、シミュレーションによって存在させられているのだとしたら、わざわざこの異空間から出て行く必要はありません。オリジナルが現実にいるのであればそれで充分《じゅうぶん》ですからね」
 古泉はちょいと両手を上向けて、
「この数式に正答することで発動する仕掛《しか》け、その正体は僕たちを消去することなのかもしれません。僕たちはいわば自殺することになるわけです。さて、ここで変化のない満ち足りた人生を永遠と歩むのと、いっそのことデリートされてしまうのと、あなたはどちらがいいと思いますか?」
 どっちも嫌《いや》だね。永遠に生きたいなどとは思わないが、今すぐ消えちぃまうのも断固として拒否《きょひ》する。俺は俺だ。他《ほか》の誰とも入れ替《か》わったりはしない。
「俺は長門を信じる」
 我ながら落ちついた声だった。
「お前のこともだ。俺はお前の出した解答が正解だと思っている。だが、それはこの方程式の答えまでだぜ」
「なるほど」
 古泉は以心伝心の技《わざ》を会得《えとく》しているのか柔《やわ》らかに微笑《ほほえ》んだ。そして半歩ほど後ろに下がって、
「あなたにお任せしますよ。何が起ころうと僕はあなたと涼宮さんについていくことしかできません。それが僕の仕事であり任務でもあるのでね」
 その割には楽しそうでよかったな。楽しい仕事なんて滅多《めった》にあるもんじゃないぞ。
 古泉は笑顔《えがお》を幾分《いくぶん》か真面目《まじめ》なものに変化させ、
「僕たちが通常空間に復帰できたという仮説を前提とした話ですが、一つお約束したいことがあります」
 平穏《へいおん》な声で言った。
「今後、長門さんが窮地《きゅうち》に追い込まれるようなことがあったとして、そしてそれが『機関』にとって好都合なことなのだとしても、僕は一度だけ『機関』を裏切ってあなたに味方します」
 俺に、じゃなくて長門に味方しろよ。
「そのような状況下では、あなたはまず確実に長門さんに肩入《かたい》れするでしょうから、僕があなたの味方するのはそのまま長門さんを助けるという意味になりますよ。やや遠回りになるかもしれませんがね」
 唇の片端《かたはし》を歪《ゆが》めて、
「僕個人的にも長門さんは重要な仲間です。その時、一度限りは長門さん側に回りたいと思います。僕は『機関』の一員ですが、それ以上にSOS団の副団長でもあるのですから」
 古泉は完全に見守る目で俺を眺《なが》めていた。自分のターンを終え、意思表示の権利を放棄《ほうき》して満足しているような顔だった。ならば俺は遠慮《えんりょ》なく己《おのれ》の考えるところを躊躇《ためら》わずにさせてもらおう。
 十二月半ば――。俺は元いた世界から一人で取り残され、いろいろ走り回ったあげく脱出《だっしゅつ》できた。だから今度だってそうするのさ。あの時と違《ちが》うのは、今回は俺一人じゃなくてSOS団の全員がここを出て行くってことだ。竜宮《りゅうぐう》城《じょう》に用はない。消えるのは俺たちじゃない。この空間だ。
 俺は躊躇《ちゅうちょ》なくブロックを所定の場所にはめ込んだ。
 カチン。小気味いい音がした。金具の外れる音だと思う。
 息を詰《つ》めてノブを握《にぎ》った。力を入れる。
 緩《ゆる》やかに扉が動き出した。

「――――」

 これまで俺は言葉にならない声を思わず上げてしまうような体験をしてきた。呆《あき》れ果てたり驚愕《きょうがく》したり恐懼《きょうく》したりとさまざまで、何度も「こりゃないだろう」と思ったりしてて、こんだけ時間と空間が牛の胃腸ぐらいに歪《ゆが》んでいるようなシーンに出くわせば、いくらなんでもそろそろ殺虫|剤《ざい》の効きにくいゴキブリ並みの耐性《たいせい》がついていてもおかしくないとも考えていた。
 撤回《てっかい》しなければならないようだ。
 重い扉を開き終えた俺は、
「――――」
 どうやっても声を発することが不可能な状態に陥落《かんらく》していた。
 自分の目が信じられない。どうして俺の視神経はこんな光景を脳みそに伝えてくるんだ。どこでおかしくなった? 網膜《もうまく》か水晶体《すいしょうたい》か。どこがイカレた。
 明るい日差しが俺の目を眩《くら》ませる。明るい陽光が上空から降り注いでいた。
「――こりゃあ……」
 クシャミが出そうなくらいの晴天が広がっている。吹雪《ふぶき》どころか雪片《せっぺん》のひとひらも舞《ま》っていない。どこまで行ってもただ青く、雲|一粒《ひとつぶ》も浮《う》いていない空だった。あるのは……。
 リフトのケーブルが視界を横切っている。ガタゴと動く登りのリフトにスキーウェア姿のカップルが乗っていた。
 よろめいた足元が、どうしたことだ、やけに重い。
 雪だった。俺は雪を踏《ふ》みしめている。キラキラと輝《かがや》く白い大地が目映《まばゆ》くて、俺の目はますます眩んだ。
 ふと気配を感じて顔を上げると、猛《もう》スピードで滑走《かっそう》する人影《ひとかげ》がすぐ脇《わき》を通り過ぎた。
「うわ!?」
 思わず小さくジャンプして視線を追わせる。俺を障害物のように避《さ》けて行ったのは、カービンスキーを履《は》いたスキーヤーだった。
「ここは……」
 スキー場だ。疑いようがない。よく見なくてもそこら中にスキー客がいて、思い思い滑《すべ》りを楽しんでいる様子が、ごくごく自然に目に入る。
 横を向いた。どうも肩《かた》が重いと思ったらスキーとストックを担《かつ》いでいやがる。次いで足先に目を転ずると、俺の足はスキーブーツを履いていた。そして俺が着ているのは鶴屋家|別荘《べっそう》を出るときに支給されたスキーウェア以外の何でもなかった。
 背後を大急ぎで見る。
「あ……?」
 朝比奈さんが子供の鯉《こい》ノボリみたいに口を開け、目を白黒させていた。
「なんと」
 古泉も愕然と天を見上げている。二人とも見覚えのあるウェアで、当然のようにTシャツ姿なんかではない。
 館《やかた》など影も形もなかった。それはもう、絶対的にあるはずがない。ここはただの穴場のスキー場なんだ。地図にない怪《あや》しい館の出る幕なんか水蒸気の一|粒子《りゅうし》もない。
 ……ってことは。
「有希!?」
 ハルヒの声が身体《からだ》の前から聞こえ、俺はいそがしく顔と眼球を動かした。
 雪の上に倒《たお》れた長門を、ハルヒが取りすがるようにして抱《だ》き起こしているところだった。
「だいじょうぶ? 有希、そういえばあなた熱が……あれっ?」
 ハルヒは巣穴から外を窺《うかが》うナキウサギのように周囲を見回し、
「変ね……。さっきまで館の部屋にいて」
 そこで俺に気づいて、
「キョン、なんだか変な気分がするんだけど……」
 答えず、俺はスキーとストックを放《ほう》り出して長門の横に膝《ひざ》をついた。ハルヒも長門も吹雪前、スイスイとゲレンデを疾走《しっそう》していた時の衣装《いしょう》のままだった。
「長門」
 そう呼ぶと、ショートヘアが小さく動き、ゆるゆると頭を上げた。
「…………」
 果てしのない無表情、いつも変わらない大きさの瞳《ひとみ》が俺を見上げる。顔を雪まみれにした長門は、そうやってしばらくじっと視線と顔を固定していたが、
「有希っ!」
 俺を突《つ》き飛ばしたのはハルヒだった。そうして長門を抱《かか》えるようにして、
「何が何だか解《わか》らないわ。でも……、有希、目が覚めたの? 熱は?」
「ない」
 長門は淡々《たんたん》と答え、自分の足で立ち上がった。
「転んだだけ」
「ほんとうに? だってすっごい熱だった……ような気がするんだけど、あれ?」
 ハルヒは長門の額に手を当てて、
「ほんと、熱くないわね。でも、」
 周囲をぐるりと見渡《みわた》して、
「えっ? 吹雪……。館……。まさか? 夢……じゃないわよね。あれれ? 夢……だったの?」
 俺に訊《き》くなよ。まともな返答をしてやるサービスは受け付けてないんだ。お前限定でな。
 俺が知らんぷりを装《よそお》っていると、「おーいっ」という威勢《いせい》のいい声がそう遠くないところから聞こえた。
「どうしたのーっ?」
 ゲレンデの斜面《しゃめん》がなだらかになるスキー場の麓《ふもと》で、二組の人影が手を振《ふ》っていた。
「みくるーっ、ハルにゃーんっ!」
 鶴屋さんだった。彼女の近くには大中小の三つの雪ダルマが佇立《ちょりつ》して、ちょうど中規模雪ダルマと同じくらいの背丈《せたけ》の人影も付録のようについていた。こっちを見て飛び跳《は》ねているのは俺の妹だ。
 俺は改めて現在位置を把握《はあく》した。
 リフト乗り場からそう離《はな》れていない、初級コースのそれもかなり下ったあたりに俺たち五人は群れている。
「まあ、いいわ」
 とりあえずハルヒは深く考えるのを止《や》めたようで、
「有希、おぶってあげるからあたしの背中に乗りなさい」
「いい」と長門。
「よくない」とハルヒは断じて、「よく解らないけど、自分でも何でか解らないけど、あなたは無理しちゃダメなの。熱はないみたいだけど、なんかそんな気がすんのよ。安静にしてなきゃダメ!」
 ハルヒは有無《うむ》を言わせず長門を背負い、手を振り続ける鶴屋さんと妹のほうへ走り出した。新品の除雪車でもこうはいかんだろうと思えるくらいの、もし冬季五輪に人を背負っての雪上百メートル走があれば、ぶっちぎりの金メダルだろうと思える速度で。

 その後。
 鶴屋さんの連絡《れんらく》によって、荒川さんが車を回してくれた。
 長門は自分を病人|扱《あつか》いするハルヒに抵抗《ていこう》するように、長門なりの健康体アピールをポツポツと訴《うった》えていたが、俺の目配せの効果が少しはあったのか、やがて黙々《もくもく》とハルヒの言うなりと化す。
 車には長門、ハルヒ、朝比奈さんと妹が乗り込んで先に別荘《べっそう》へと向かい、俺と古泉と鶴屋さんは散歩する足取りで歩いて戻《もど》ることになった。
 その最中に鶴屋さんが語ったところによると、
「なんかさぁ、みんな板|担《かつ》いでザクザク歩いてスキー場降りてきたけど、何やってたのっ?」
 ええと、吹雪《ふぶき》は?
「んーっ? そういや十分くらい猛烈《もうれつ》に雪降った時があったかな? でも、そんな言うほどのもんじゃなかったよっ。ただのニワカ雪さっ」
 どうやら俺たちが雪の中を歩き回り、館《やかた》で過ごした半日以上もの刻《とき》は、鶴屋さんにとって数分もかかっていないようだった。
 鶴屋さんはハキハキとした歩調と口調で、
「五人ともそろーりそろーり降りてきて、なぜに? って思ってて、したらば、いっちゃん前の長門ちゃんがバッタリ倒《たお》れたね。すぐ起きたけどさー」
 古泉は微苦笑《びくしょう》するだけで何も言わない。俺も言わない。外から俺たちを観測していた第三者、この場合は鶴屋さんだが、彼女にとって俺たちはそのように見えたのだろう。そして、そっちが正しいのだ。俺たちは夢か幻《まぼろし》の世界にいた。現実はこっち、オリジナルな世界はこっちだ。
 しばらく黙《だま》って歩みを刻んでいると、鶴屋さんは爽《さわ》やかにケラリと笑い、俺の耳元に口を寄せてきた。
「ねえキョンくんっ、話は変わるけどさっ」
 なんすか、先輩《せんぱい》。
「みくると長門ちゃんが普通《ふつう》とはちょっと違《ちが》うなぁってことくらい、あたしにも見てりゃ解《わか》るよ。もちろんハルにゃんも普通の人じゃないよねっ」
 俺はマジマジと鶴屋さんを観察し、その明るい顔に純粋《じゅんすい》な明るさのみを見出してから、
「気づいてたんですか?」
「とっくとっく。何やってる人なのかまでは知んないけどね! でも裏で変なことをしてんでしょっ? あ、みくるには内緒《ないしょ》ね。あの娘《こ》、自分では一般人《いっぱんじん》のつもりだからっ!」
 よほど俺のリアクション顔が面白《おもしろ》かったのだろう、鶴屋さんは腹を押さえるようにしてケラケラ笑い声を上げた。
「うんっ。でもキョンくんは普通だね。あたしと同じ匂《にお》いがするっさ」
 そして俺の顔を覗《のぞ》き込んで、
「まーねっ。みくるが何者かだなんて訊《き》いたりしないよっ。きっと答えづらいことだろうしねっ。何だっていいよ、友達だし!」
 ……ハルヒ、もう準団員でも名誉《めいよ》顧問《こもん》でもない。鶴屋さんも正式にスカウトしろ。もしかしたらこの人は俺より物わかりのいい的確な一般人を演じてくれるかもしれないぞ。
 鶴屋さんはサバサバした動作で俺の肩《かた》をはたき、
「みくるをよろしくっぽ。あの娘があたしに言えないことで困っているようだったら助けてやってよっ」
 それは……、……もちろんですが。
「でもさぁ」
 鶴屋さんは目をキラキラさせて、
「あん時の映画、文化祭のヤツだけどっ。ひょっとして、あれ、本当の話?」
 聞こえていたのかどうか、古泉が肩をすくめる仕草をしたのが目の端《はし》に映った。

 別荘に帰り着くと、長門はハルヒの手によって自室で無理矢理|寝《ね》かされていた。
 あの館《やかた》にいたときのようなぼんやり感は今や白皙《はくせき》の表情のどこにもなく、部室で読書しているひんやりした印象が顔面にも雰囲気《ふんいき》にも表れている。ふとした拍子《ひょうし》に微細な感情が揺《ゆ》れ動くことだってある、俺の馴染《なじみ》みの長門そのままだった。
 まるで寝台《しんだい》に憑《つ》いた介護《かいご》の精のように、朝比奈さんとハルヒが長門の枕元《まくらもと》にいて、妹とシャミセンもそこで待機していた。遅《おく》れて長門の部屋に入った俺と古泉、鶴屋さんが来るのを待っていたのか、全員|揃《そろ》ったところでハルヒが次のように述べた。
「ねえ、キョン。あたしさ、何だか妙《みょう》にリアルな夢を見ていたような気がするのよね。館に行って、お風呂《ふろ》入ったりホットサンド作って食べたり」
 幻覚《げんかく》を見たんだろ、と言いかけた俺に、ハルヒは続けて、
「有希は知らないって言うんだけど、みくるちゃんもあたしと同じようなことを覚えていたわ」
 俺は朝比奈さんに目を泳がせた。愛らしいお茶くみメイドさんは、「ごめんなさい」と言いたげにうつむいた。
 こいつは困ったな。そんなもん幻覚かデイドリームで落ちをつけようと思っていたのに、二人揃って同じ白昼夢を見る理屈《りくつ》にすぐさま思いが及《およ》ばない。
 どうやって騙《かた》ろうかと考えていると、
「集団|催眠《さいみん》です」
 古泉がやれやれという顔を俺に見せながら口を挟《はさ》んだ。
「実は僕にもそれらしい記憶《きおく》があるんですよ」
「催眠術にかかっていたっていうの? あたしも?」と、ハルヒ。
「人為《じんい》的な術とはちょっと違いますが。そうですね、涼宮さんの性格から言って、もし今から催眠術をかけますよとあらかじめ告げたりしたら、かえって懐疑《かいぎ》的になって催眠術が通用することはないでしょう」
「そうかも」
 ハルヒは思案する顔。
「ですが、我々は白い吹雪《ふぶき》しか見えない風景の中を一定のリズムで延々と歩き続けていました。ハイウェイヒュプノーシスという現象をご存知でしょうか。まっすぐな高速道路を車で走り続けていると、等間隔《とうかんかく》に立っている外灯の風景がドライバーに催眠状態を誘発《ゆうはつ》させ、眠らせてしまうと言う現象のことです。それと同様の状態に我々も置かれてしまった可能性は高いと思われます。電車に座って乗っているとよく眠気を催《もよお》しますが、あれも電車の揺れが一定のリズムを刻んでいるからなのです。赤ん坊《ぼう》を眠らせるときに背中をゆっくりとトントンと叩《たた》くのも同じ理屈なんです」
「そうなの?」
 ハルヒが初めて知ったという顔をするのに対し、古泉は深くうなずきながら、
「そうなんですよ」
 説得するような口調で
「吹雪の中を行進している最中に誰《だれ》かが呟《つぶや》いたのでしょう。どこかに避難《ひなん》できるような館があって、そこがとても快適な空間ならいいのに……というようなことをね。何と言っても遭難《そうなん》中の我々は極限状態に置かれていましたし、そんな精神状態ではどんな幻《まぼろし》を見ても不思議はありませんよ。砂漠《さばく》をさまよう者がオアシスの幻影《げんえい》を見るという故事はご存知でしょう?」
 古泉め、強引《ごういん》にまとめにかかってる。
「うん……、まあね。あれがそうだったわけ?」
 ハルヒは頭を傾《かたむ》けて俺を見た。
 らしいぜ。俺もうんうんうなずきながら納得《なっとく》顔《かお》を作ってやった。古泉はここぞとばかりに、
「長門さんが転んだ音で僕たちは正気に戻《もど》ったんです。間違いありません」
「言われてみればそんな気もするけど……」
 ハルヒはさらに首を傾《かし》げ、すぐに戻《もど》した。
「まあ、そうよね。あんな都合のいいところに変な館が建っているわけないし、だんだん記憶もぼんやりしてきたわ。夢の中で夢を見ていたような気分」
 そう、あれは夢だ。現実には存在しない館だった。俺たちには必要のない、ただの精神|疲労《ひろう》から来る幻覚だったのさ。
 気がかりなのは他の二名。SOS団じゃない部外者だ。俺は鶴屋さんを見る。
「うへっ」
 鶴屋さんは片目を閉じて俺に笑いかけた。その表情が語りかけるものを解読すると、「まっ、そういうことにしとけばっ」という暗黙《あんもく》の了解《りょうかい》が復号される。俺の勘繰《かんぐ》りすぎかもしれないな。それ以上鶴屋さんは何も言うことなく、いつもの調子の鶴屋スマイルで一切《いっさい》の余計なコメントを発することはなかった。
 そしてもう一人、俺の妹はというと朝比奈さんの膝《ひざ》にすがりつくようにして、すっかり夢見空間をさまよっている。猫《ねこ》と同じで起きて喋《しゃべ》っているときはうっとうしいが寝顔《ねがお》だけはやたらに可愛《かわい》く、朝比奈さんも満更《まんざら》ではなさそうに妹の表情を眺《なが》めている。その様子では朝比奈さんも妹も古泉の解説後半部分をほとんど聞いてはいまい。
 床《ゆか》で毛繕《けづくろ》いしているシャミセンが、俺を見上げて「にゃ」と鳴いた。まるで安心しろとでも言うかのように。

 そんなことをやっているうちに、やっと冬合宿一日目の夜が到来《とうらい》した。
 長門はベッドを離《はな》れたくて仕方がないようだったが、その度《たび》にハルヒは大騒《おおさわ》ぎして半ば押し倒《たお》すように布団《ふとん》をかぶせていた。
 俺は思う。無理して寝かしつける必要はない。たとえそれで楽しい夢を見たとしても、しょせんは夢だ。大切なのは今ここに俺たちがこうしているということなのさ。いくら夢みたいな舞台《ぶたい》で夢みたいな大活躍《だいかつやく》をしたとしても、目覚めるとともに強制|終了《しゅうりょう》される幻《まぼろし》なんかに興味はない。解《わか》ってはいるんだ――。
 いろんなことが後回しになっている。結局あの館はなんだったとか、ハルヒは古泉の作り話を本心から受け入れたのかとか。今は長門で遊ぶことにかまけて、どうでもよくなっているみたいだが。
 ハルヒのけたたましい声から逃《のが》れるように、俺は意味もなく外に出てみた。都会では見ることのない星空とその光を反射する一面の銀色が闇雲《やみくも》に眩《まぶ》しく、けど何故《なぜ》かそんなに寒く感じない。
「だが」
 明日は一年の最終日だ。古泉作の推理劇興業が待っている大晦日《おおみそか》、ハルヒもラストスパートに拍車《はくしゃ》をかけてくるだろう。
 どうせだ。それまでゆっくり休んでいればいい。長門はこんな機会が滅多《めった》になさそうなヤツだった。いつ寝てるのか、そもそも寝る必要があるのかどうかもわからないが、この際である。思う存分|睡眠《すいみん》欲《よく》を満たすべきだ。シャミセンを布団に放《ほう》り込んでやるのも妙案《みょうあん》だろう。湯たんぽ代わりにはなる。
 見渡《みわた》す限りの雪原に向かって、俺は独り言を言った。
「今夜だけは吹雪《ふぶき》きそうにないな」
 長門が夢を見ることが可能なのだとしたら、せめて今宵《こよい》だけでもいい夢が舞《ま》い降りろ。
 そう願わないほうがいい理由など、俺にはまったくもって全然ない。
 ついでに星々に祈《いの》っておく。今日は七夕ではなく大晦日にもなっていないが、別にベガとアルタイルに限った話でもないだろう。宇宙にはこんだけ恒星《こうせい》があるんだ。そのうちの一つに届けば何とでもしてくれるさ。
「新年をよい年にしてくれよ」
 頼んだぜ、そこにいる誰《だれ》か。

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