序章・秋
文化祭が終了《しゅうりょう》して何となく虚脱《きょだつ》感に覆《おお》われていた十一月|下旬《げじゅん》。
映画の撮影《さつえい》段階で大いに暴れ、当日の上映会でも一応の興行成績を収めたハルヒ監督《かんとく》だったが、これで当分は満足感の余韻《よいん》にひたっておとなしくしてくれると思いきや、そのテンションは文化祭前中後を通して全然変化しなかった。
しかし学校側としてもそうそうハルヒの頭を要《い》らない具合に調子よくさせようという行事を次々繰り出すほどの手駒《てごま》の持ち合わせはなく、やったことと言えば生徒会会長選挙くらいのものである。正直、俺はハルヒが立候補したらどうしようかとヒヤヒヤしていたのだが、どうもハルヒは生徒会組織を零細文化系同好会側の仇敵《きゅうてき》であるという妙《みょう》な思いこみをしているようで、自ら獅子《しし》身中の虫として生徒会に入り込み、学園|陰謀《いんぼう》物語の黒幕になるつもりはないらしかった。
むしろその黒幕――そんなもんがいたとしたらだが――と率先《そっせん》して戦いたいと思っているフシさえある。
せっかくのSOS団なんていうインチキな活動団体を黙殺《もくさつ》、または見て見ぬフリしてくれているんだ。ありがたく立場をわきまえていればいいのにハルヒはいつでも戦う気満々、ただし何をどうやって戦う気なのかまでは今のところ俺の知る限りではない。
だが、そんな期待あるいは予感とは無関係に、俺たちに戦いを挑《いど》んできたのは生徒会側の刺客《しかく》ではなかった。
復讐《ふくしゅう》に燃える隣人《りんじん》だったのである。
射手座の日
目の前に暗黒の宇宙空間が広がっていた。
アイマスクして馬頭星雲に迷い込んだような暗闇《くらやみ》であり、星の輝《かがや》き一つ観測できないというシンプルなギャラクシースペースで、はっきり言いや手抜《てぬ》きの書き割り背景だ。もうちょっと何か演出があってもいいんじゃないかと思いもすれ、まあ何かと都合があるのだろうこの宇宙空間にも。予算とか技術とか時間とかそういった感じのものがさ。
「何も見えねえな」
と俺は呟《つぶや》いた。さっきからモニタは単なるブラックオンリーの色彩《しきさい》で、ほとんどディスプレイの故障を疑ってもよさげな雰囲気《ふんいき》を俺の目に伝えている。
この宇宙空間のどこを彷徨《ほうこう》しようかと俺が思案していたところ、虚無《きょむ》的な画面上の下部から突如《とつじょ》として光点が登場、そのままずんずん前進を開始したため、たまらず俺は意見具申することにした。
「おいハルヒ、もうちょっと下がったほうがいいんじゃないか? お前の旗艦《きかん》が前に出すぎだぞ」
それに対するハルヒの返答はこうだった。
「作戦|参謀《さんぼう》、あたしを呼ぶときは閣下と言いなさい。SOS団団長は軍の階級で言えば上級大将くらいなんだからね。こん中で一番エライの」
誰《だれ》が作戦参謀で誰が閣下かと言い返す前に、
「涼宮閣下、敵艦隊に不審《ふしん》な動きがあるとの長門情報参謀からの連絡《れんらく》です。いかがいたしますか?」
古泉が状況《じょうきょう》を報告した。ハルヒの回答は、
「かまうこたないわ。突撃《とつげき》あるのみよ!」
まったくハルヒらしい指令だが、誰もそれに従うわけではない。つか、誰も従ったりはしなかった。まともにあいつらとやり合っても種子島《たねがしま》三段|撃《う》ちに立ち向かう武田《たけだ》騎馬《きば》軍団のようにズタボロにされるのは解《わか》りきっている。
朝比奈さんが不安げな表情で片手を挙げ、
「あのう……。あたしはどうしたら……?」
「みくるちゃん、邪魔《じゃま》だからあなたの補給艦隊はそこらへんを適当にウロウロしてたらいいわ。期待してないから。キョン、あんたと有希と古泉くんで敵の前衛を蹴散《けち》らしなさい。そしたらあたしがトドメを刺《さ》しに出るからね。厳《おごそ》かに!」
誰かこいつを止めてくれと言いたい。
俺はモニタに目を戻《もど》し、SOS団宇宙軍における自艦隊の位置取りを再確認《さいかくにん》した。 <キョン艦隊> と名付けられた俺率いる一万五千|隻《せき》の宇宙艦隊は、ちょうど <ハルヒ☆閣下☆艦隊> の真後ろを追撃する形で前線へと進発している。その横に <古泉くん艦隊> が随伴《ずいはん》し、一番|頼《たよ》りになりそうな <ユキ艦隊> は俺たちの遥《はる》か前方で索敵《さくてき》行動を取っていた。補給艦を引き連れた <みくる艦隊> がどこにいるかを探せば、朝比奈さんのおぼつかない操作によって開戦スタート時から迷走《めいそう》を繰《く》り広げている。
「わー。どっち行けばいいんですかぁ?」
朝比奈さんは悲鳴に近い困惑《こんわく》の声を上げて、いつものように困っていた。
どこでもいいです。俺たちの後ろの方をウロチョロしていてください。画面上の艦艇《かんてい》といえども、あなたの名前が冠《かん》されたモノが傷物になるのは見たくありませんからね。
不意に、見つめる画面に変化が訪《おとず》れた。 <ユキ艦隊> が放った索敵艇からの情報が、データリンクされた俺の艦隊にも伝えられてきたのだ。味方艦隊のシンボルマーク以外黒一色だった宇宙空間に、長門の捕捉《ほそく》した敵部隊の位置情報が表示される。
「下がれ、ハルヒ」と俺は言った。「奴《やつ》らは艦隊を分散させている。多分、お前の位置を探《さぐ》ってるんだ。大将は大将らしくしてろ。後ろでふんぞりかえっていればいいんだよ」
「なによう」
ハルヒは唇《くちびる》を突《つ》き出して異を唱えた。
「あたしだけ除《の》け者にする気なの? ズルいわそんなの。あたしだってビームやミサイルをピコピコ撃《う》ち合ったりしたいのに!」
俺は <キョン艦隊> に微速《びそく》前進を命じるかたわら、
「いいかハルヒ。お前の旗艦がやられたらその時点で俺たちは負けるんだぞ。見てみろ。突出している敵の艦隊四つは雑兵《ぞうひょう》どもだ。旗艦艦隊は後方で指令だけしてるんだろうよ。将棋《しょうぎ》やチェスだって王将がお供もなしで敵陣《てきじん》にずかずか上がったりはしないだろう? しかもこんな序盤《じょばん》にさ」
「それは……そうかもね」
ハルヒの渋《しぶ》い顔で、だがどことなく自尊心をくすぐられたような表情をした。俺を見る瞳《ひとみ》は猫がエサをねだる時のような形をしている。
「じゃあ、あんたたちで何とかしなさい。敵の旗艦を見つけ出してバシバシ砲撃《ほうげき》するのよ。あんな連中に負けてなるもんですか。勝つのよ。負けたら栄《は》えあるSOS団の名が廃《すた》ると言うものだわ。なにより、あいつらが調子に乗るのが我慢《がまん》ならないのよね!」
「閣下」
すかさず古泉がご注進に走った。
「長門情報参謀の <ユキ艦隊《かんたい》> が敵前衛と会敵しました。これより戦闘《せんとう》行動に移ります。閣下におかれましては、我々の後方に遷移《せんい》し、全体的な戦術指揮をお願いしたいと愚考《ぐこう》する所存であります」
真剣《しんけん》そうなセリフだが、微笑《ほほえ》み混じり言われても現実性に欠ける。
「あら、そうなの?」
ハルヒは古泉のベンチャラにご満悦《まんえつ》となり、団長席で腕組《うでぐ》みしながら腰《こし》を反らした。ロクな戦術指揮能力もないのに階級が高いというだけで隊長をやってる士官学校出の若手キャリアのような顔をして、
「古泉|幕僚《ばくりょう》総長がそう言うなら、言うとおりにしてあげる。じゃあ、みんな、しっかり働くのよ。ちょこざいなコンピュータ研の連中なんかギッタギタのメッタメタにやっちゃいなさい。狙《ねら》うのは殲滅《せんめつ》よ。木《こ》っ端微塵《みじん》に打ち砕《くだ》くの」
完全勝利を目論《もくろ》んでいるようなのはモチベーションとしては正しいのだろうが、この宇宙戦には相手の思惑《おもわく》もあるということを忘れないほうがいい。敵コンピュータ研だって同じ野望を持って参戦していることだろう。
そして俺の見る限り、我がSOS団側の勝算は旧日本軍がレイテ沖《おき》で米軍に完勝を納める確率よりもなお低いと見積もられる。歴史にif[#「if」は縦中横]はないが、同数同戦力でリプレイしたとしてもコテンパにやられるのが主だった筋書きになっているに違《ちが》いないね。とっとと白旗を揚《あ》げた方がいいんじゃないだろうか。
「ま、そうもいかないんだろうが」
と俺は腕《うで》まくりをして、画面の敵影《てきえい》情報を再確認した。さすがは長門、旗艦部隊を除いた敵艦の位置をほぼ網羅《もうら》するデータを送ってくれている。ここから我が軍を勝利に導くのは、大げさにも作戦|参謀《さんぼう》の肩書《かたが》き押しつけられた俺の頭脳と手腕《しゅわん》似かかっているというわけだ。
どうしたものだろう?
「さて……と」
俺は刻々と変化するノートパソコンの液晶《えきしょう》を見つめながら、ハルヒ司令官閣下の思惑通りに事態を終える方策を考え始めた。その前に、今このような事態に俺たちが置かれている状況《じょうきょう》を説明しておいたほうがいいかな。混乱する前に考えをまとめることは人生のあらゆる岐路《きろ》で有益だ。では、そうしてみよう。
事と次第《しだい》は、一週間前に遡《さかのぼ》る。
某月《ぼうがつ》某日の秋の放課後。
文化祭が終わって数日が過ぎ、学園に静けさが戻《もど》っていた。
てのはありふれた導入部分の常套句《じょうとうく》で、早い話が祭前の状態に回帰しただけであるのだが、それにしてもまあ無事に終わってくれただけでも有り難《がた》い気分になっているのは俺だけではないと思いたい。
真正直に腹の中を打ち明けてくれたわけでもないから正式には解《わか》りかねるものの、古泉の微笑《びしょう》はいつもより安堵《あんど》の比重が勝《まさ》っているようだったし、長門のいつもの無表情もそれを裏付けるかのようだ。
とにかくここ最近、この読書マシーンがぼんやり本読んでいる姿を何よりの平穏《へいおん》の証拠《しょうこ》であると見なすようになっていて、もし長門が妙《みょう》な行動を取り始めたり、ましてや慌《あわ》てふためいたりするような光景を目にしたならば、俺はそろそろ遺書か自叙伝《じじょでん》かのどちらかを書く用意をするに違いない。おそらく長門にとって不測の事態なんてのはほとんどないはずだから、こいつが文芸部の部室でのどかに海外SFの原書を読んでいるということは、恐《おそ》るべき悪夢が間近に迫《せま》っているわけではないという確固たる証拠と言えよう。
その一方で、未来から来たとはとても思えないほど過去の事をなんにも知らない美少女ニセメイドさんは、今日も無意味な奉仕《ほうし》的給仕女性の衣装《いしょう》を完璧《かんぺき》にまといつつ、あっつ熱の日本茶を真剣な目と手つきでもって淹《い》れていた。どこから仕込んできたのか、各種お茶っ葉に対するお湯の最適な温度という知識を入手した朝比奈さんは、湯沸《ゆわか》しポットではなくわざわざカセットコンロにヤカンをかけて湯を沸かすようになっている。片手に持つのは温度計であり、そんなもんをフタ開けたヤカンに突《つ》っ込んで慎重《しんちょう》な眼差《まなざ》しをしているメイドルックのふわふわ未来人なんてのもここでしか見ることはできまいね。なんか微妙《びみょう》に間違っているような気もするのだが、間違い探しを始めたらこのSOS団アジトで間違っていないものなどまったくない。何もかもが間違っているからだ。唯一《ゆいいつ》正常なのは、自分が確かに存在しているというこの俺の意識のみである。いやまったくデカルト様々だ。
この文芸部室のはずがいつのまにか涼宮ハルヒとその一味の根城になってしまった異空間で、こうも正気を保ち続けている俺は意外にけっこう大物なのかもしれないな。考えてみれば俺以外の連中は最初から変な背後関係を持っているわけだし、団長のハルヒはいつまで経《た》っても謎《なぞ》にまみれた存在、まがりなりにも常識的な客観性を持っているのは俺だけというこの有様をどう思うよ。
ボケ四人に対してツッコミ一人とは、いくらなんでも比率がおかしすぎるぜ。せめてもう一人くらい俺の精神|疲労《ひろう》を共有するような人間がいてもいいんじゃないだろうか。だいたい俺だってそうそう律儀《りちぎ》にツッコミ入れる性癖《せいへき》を持ってないんだぞ。そんな気にならん時だってある。俺だけがこんな責務を負わされているのは不公平だと恨《うら》み節の一つでも唄《うた》いたいところだが、かと言って谷口や国木田を巻き込んでやろうとも思わない。気の毒だからではなく、能力的な問題さ。あの二人にハルヒと対抗《たいこう》できるボキャブラリーと反射神経があるとは思えないし、そういやあいつらと鶴屋《つるや》さんもどっかボケてるよな。くそったれめ。この世は狂《くる》ったもん勝ちか。
「うーむ」
俺は腕を組み、さも難しいことを考えているような唸《うな》り声を出した。別にいま古泉とやっている囲碁《いご》の次の一手を悩《なや》ましく思っているからではない。古泉の黒石を大量死に追い込むことはそれほど難易度が高くないのだ。ゲームマニアのくせに全然|上手《うま》くならない古泉と一緒《いっしょ》にしてもらっては困るぜ。そうではなく、この世界は本当に正気なのかどうかを俺は心配している。なぜなら狂った世界では狂った人間しかまともに生きていけないだろうと俺は推測しているからだ。正気の人間こそがそこでは狂気《きょうき》に侵《おか》されていると見なされるだろう。よくもまあ、こんな理不尽《りふじん》と不条理|渦巻《うずま》くSOS団部室で普通《ふつう》の高校生をやれるもんだと我ながら感心するね。そろそろ誰《だれ》か誉《ほ》めてくれてもよさそうなものだ。
「ならば僕が賞賛の言葉を贈《おく》って差し上げましょうか」
古泉は格好だけは様になっている手つきで盤上《ばんじょう》に石を置き、俺の白石をかすめ取りながら微笑《ほほえ》んだ。所作は一丁前だがな。目先の石ころに注意するばかりでは、数歩進んだところにある溝《みぞ》にハマるという近未来が待ち受けていることにえてして気づかないものさ。
「遠慮《えんりょ》しておこう」
俺は答え、碁石の容器に指を突っ込んでジャラジャラ言わせつつ古泉のまるで本心から俺を讚《たた》えているような表情を眺《なが》め返し、さほどの喜びを得られることなく無気力に言った。
「お前に誉められても嬉《うれ》しかねえよ。何か裏があるんじゃないかとかえって不安になるだけだ。言っておくが、俺はゲームの駒《こま》じゃないんだからな。お前たちの思うとおりに動くと思ったら大間違《おおまちが》いだ」
「その『お前たち』というのが、どの僕たちなのかお聞きしたいところでもありますが、とんでもありませんよ。涼宮さんもあなたも、まったく予測できないことをしでかしてくれますからね。僕がここにいるのが一つの確かな証明でしょう」
もしも、古泉が転校してくるようなことがなければ、ハルヒはこいつをSOS団の一員にしようとは思わなかっただろう。あいつにとって必要だったのは「古泉一樹」という人間の性別や性格や人柄《ひとがら》やルックスではなく、単に転校してきた、というただそれだけの理由だ。変な時期に慌《あわ》てて転入してきたのが運のつきだったな。あるいはハルヒに近づくためにわざと転校してきたのかもしれないが、いちおうハルヒが探し求めるところの超能力者《ちょうのうりょくしゃ》であるこいつからしたら、いつチェレンコフ放射を始めるか予測不能な放射性物質の近所にいるようなものだろうし、ヘタに近づきたくなかったというのが本音かもしれん。
「それは過去形ですよ」
古泉はつまんだ碁石を見つめて、
「あの当時は確かにつかず離《はな》れず監視《かんし》するだけにとどめておく予定でした。ですから涼宮さんが最初に僕の所を訪《おとず》れて、その日の放課後にこの部室へと連れてこられてたときは肝《きも》を冷やしましたよ。おまけに活動目的が宇宙人未来人超能力者を捕《つか》まえて一緒に遊ぶことなどと宣言されましたしね。もう笑うしかありませんでした」
懐《なつ》かしそうに思い出を語る古泉だった。
「ですが今は違います。僕はかつて謎の転校生だったかもしれませんが、その属性は現在の僕から失われています。涼宮さんはそう考えているでしょうね」
じゃあ何だ。俺にしてみれば、お前はまだまだ謎だらけだぜ。
古泉は部室を見回し、狭《せま》い場所を好む猫《ねこ》のように隅《すみ》っこの椅子《いす》に座って読書にふける長門を見て、次にヤカンと睨《にら》めっこしている朝比奈さんを見つめてから、視線を一周させて戻《もど》ってきた。
ハルヒの姿はない。クラスの掃除《そうじ》当番に当たっているからであり、そうでなければ俺と古泉がこんな会話をのんびりやっているはずもない。
その団長不在の部室で、古泉は怪我《けが》をした小鳥を治療《ちりょう》しようとしているベテラン獣医《じゅうい》のような笑《え》みととともにこう言った。
「僕も長門さんも朝比奈さんも、それから当然あなたも、今や立派なSOS団の一員です。それ以上でもそれ以下でもないのですよ。涼宮さんは、そのように考えているはずです」
SOS団の団員以上および以下という分類に何の意味があるのだろう。
「意味はありますよ。宇宙人や異世界人といった一般《いっぱん》人類外の存在が団員以上、団員以外の一般人類が団員以下です」
谷口や国木田、鶴屋さんや俺の妹は団員以下なのか。あいつらや鶴屋さんをかばうわけではないが、連中が俺以下の存在価値しかないってのを黙《だま》ってうなずくのは心が痛むぜ。
「非常に簡単な論理です。彼らが涼宮さんにとって重要な存在として目されているなら、彼らは我々の一員としてここに居るはずです。いない、ということはすなわち、彼らは涼宮さんにとって重要でない、つまり単なる通りすがりの一般人である証拠なのです。まったくね、結果論ほど論証が楽な論理もありません」
「異世界人はどうした。まだ来てないのか」
「結果論的に、今のこの世にはいないでしょう。いたなら、何らかの偶然《ぐうぜん》なり必然なりによってこの部屋に呼ばれているでしょうから」
「来なくて幸いだ。違う世界なんぞに行きたくねえよ」
俺が白石を振《ふ》り下ろして古泉の大石を頓死《とんし》させるのと、勝敗の見えてきた碁盤《ごばん》の横に湯飲みが置かれるのが同時だった。
「お待たせしちゃって、ごめんなさい。お茶です」
弱小校の野球部を就任一年目にして地区大会優勝に導いた監督《かんとく》のような笑みを浮《う》かべて、朝比奈さんがすぐ横に立っていた。
「雁音《かりがね》っていうのを買ってみたんです。上手く淹《い》れることができたと思うけど……。高かったんですよぅ?」
自腹を切らせてしまって申し訳ない。代金は後でハルヒに請求《せいきゅう》するべきでしょう。いやまあ、そこまで茶葉に凝《こ》らなくても、朝比奈さんの御手《みて》が差し出すものなら水道水でも俺にはエビアン以上の品質です。
「うふ。味わって飲んでね」
すっかりメイド装束《しょうぞく》が板についてきた朝比奈さんは、古泉の前にも湯飲みを置くと、慣れた所作で盆《ぼん》を掲《かか》げ持ったまま、残った湯飲みを長門の元へと運んでいった。
「…………」
いつものように長門は無感想だが、朝比奈さんからしたら素直《すなお》に礼を言われるより何も言われないほうが安心するらしい。今に至るもSOS団の宇宙人と未来人が仲良く会話する光景は見たことがなく、というか長門が誰《だれ》かと楽しげに喋《しゃべ》っているシーンなんか未《いま》だにない。まあ、それはそれでいいんだと思う。いきなり長門が饒舌《じょうぜつ》になってもビビっちまうし、ハルヒ並みの「お前口さえ開かなけりゃあな……」なんていう女になってしまうのも少々|惜《お》しい。
黙ってて問題のない奴《やつ》は、やっぱり黙っていたほうがいのさ。
そうやって碁を打ちながらのんびり茶をすすっていると、この世にはびこる悪の存在を忘れそうになってくる。しかし、そんな小市民的平和は長く続かず、厄介《やっかい》ごとはまるで忘却《ぼうきゃく》されるのを恐《おそ》れるがごとく周期的に訪問してくるのだった。
ノックの音がした。俺は顔を上げ、傷だらけで安っぽい扉《とびら》を眺《なが》めてから心の準備を開始する。何故《なぜ》かって? 部室内で漫然《まんぜん》と過ごしているメンツはハルヒを除く四人の団員たちである。そしてハルヒはノックをするなどという殊勝《しゅしょう》な行為《こうい》から最もかけ離《はな》れた位置で高笑いしているようなヤツだ。つまりこのノックの主はハルヒではなくSOS団の誰でもないのだから、それ以外の第三者だということになる。誰かは知らないが、どうせ何らかのやっかいごとを提供するためにここを訪問して来たに違いないという推理がたちどころに成り立つではないか。いつぞやの喜緑《きみどり》さんみたいにさ。
「はぁい、ただいま」
上履《うわば》きを鳴らしながら朝比奈さんが応対に向かう。すっかりこなれてきた動作であり、メイドであることに自分でも何ら疑問を覚えていないようであった。いいこと……なんだろうか。
「あっ?」
扉を開いた朝比奈さんは意外な人物を見たようだ。軽く目を見開いて、
「どうぞ……。お、お入りになります?」
朝比奈さんは二歩ほど後ずさって、何故か両手で胸を隠《かく》すような仕草をする。
「いや、ここでいい」
と、訪問者がやや緊張《きんちょう》気味の声で返し、開いたドアから首だけを伸《の》ばして室内をあらためるようにうかがった。
「団長さんは不在か……」
押し隠す安堵《あんど》が色《いろ》濃く滲《にじ》み出る声を出したのは、なんとなく馴染《なじ》みになりつつある隣室《りんしつ》の主、コンピュータ研の部長であった。
誰も動かないのでまたしても俺が窓口になることになる。朝比奈さんは棒立ちだし、古泉は微笑《ほほえ》んだまま上級生を見つめているだけ、長門は本しか見ていない。
「なんでしょうかね」
いちおう上級生だ。敬語まじりで話してやるのが筋だろう。俺は立ち上がり、朝比奈さんをかばうようにして前に出た。ん? 部室の敷居《しきい》を跨《また》ごうとしないコンピュータ研の部長、その後ろに数名の男子生徒たちが先祖代々|成仏《じょうぶつ》に失敗した背後霊《はいごれい》のように群がっている。どうした、討《う》ち入りの季節にはまだ早いぞ。
部長氏は進み出てきたのが俺だったことにホッとしたのか、薄《うす》ら笑いを浮かべる余裕《よゆう》が出てきたようで、いくぶん背筋を反らしつつ、
「まず、これを受け取って欲しい」
何のつもりか、一枚のCDケースを差し出してきた。受け取るも何も、コンピュータ研が俺たちに善意からなるプレゼントをくれるはずはないから、俺は当然のように疑いの眼差《まなざ》し。
「いや、決して物騒《ぶっそう》なものではない」と部長。「中に入っているのはゲームソフトだ。僕たちのところが開発した、オリジナルのものだよ。この前の文化祭で発表してたんだけど、見なかったのかな」
悪いがそんなヒマはなかったね。文化祭で俺がいつまでも覚えていたい記憶《きおく》は、軽音楽部のバンド演奏と朝比奈さんの焼きそば喫茶《きっさ》用|衣装《いしょう》くらいのものだ。
「そうか……」
部長は気を悪くしたわけでもないようだが肩《かた》を落とし気味にして、「展示場所が悪かったかな……」と呟《つぶや》いた。用件が世間話ならさっさと終わらせて帰ったほうがいいぞ。こんな所にハルヒが現れたら、どんな揉《も》め事に発展するか解《わか》ったもんじゃない。
「もちろん用件があって来たんだ。でも、まあ手短にしたほうがいいような気もする。では、言うぞ!」
部長が何やら汗《あせ》ばみながら言う姿に、背後霊集団も毅然《きぜん》とした表情でうなずいた。とっとと終わらせて欲しい。
「ゲームで勝負しろ!」
部長は裏返った声で叫《さけ》び、再びCDケースを突《つ》きつけた。
何でまたコンピュータ研と俺たちがそんなもんで対戦しなくてはならないんだ? 遊び相手に不自由しているんなら、もっと別の部室に行ったほうがいいと老婆心《ろうばしん》ながら申し添《そ》えたいところだ。
「遊びじゃない」
部長氏は徹底《てってい》抗戦《こうせん》するつもりのようで、
「これは勝負だ。賭《か》けるものだってちゃんとあるぞ」
ならば古泉を差し出そう。コンピュータ研の部室で心ゆくまで勝負してくれたらいい。
「そうじゃなくて、キミたちと勝負したいんだよ!」
頼《たの》むから、そう勝負勝負と言わないでくれ。ハルヒの地獄耳《じごくみみ》がどこで聞いているか解らない。万一、あの根拠《こんきょ》不明の自信家がその単語を聞きつけたら――、
「うりゃあ!」
「げふをっ」
奇怪《きかい》なセリフを吐《は》きつつ、部長の姿が誰《だれ》かに蹴飛《けと》ばされたように真横にすっ飛んで視界から消えた。
「わ!?」「部長!」「大丈夫《だいじょうぶ》ですか!」
数秒ほど遅《おく》れて、部員たちが口々に叫びながら廊下《ろうか》に横たわる部長氏に取りすがり、俺は緩《ゆる》やかに視線を横向ける。
「あんたたち、何者?」
爛々《らんらん》と光る瞳《ひとみ》をコンピュータ研の部員たちに向け、いい形をした唇《くちびる》を大いに笑わせているその女こそ、涼宮ハルヒに違《ちが》いない。
部長氏に闇討《やみう》ち同然のドロップキックをかまし、自分はあざやかな着地を決めておいての勝ち誇《ほこ》った顔である。
ハルヒは耳にかかった髪《かみ》を見せつけるかのように払《はら》いのけ、
「悪の集団がついに来たのね。あたしのSOS団を邪魔《じゃま》に思う秘密組織か何かでしょう。そうはいかないわよ。暗い闇を照らして邪悪《じゃあく》を根絶やしにするのが正義の味方の使命なんだからね! ザコはザコらしくワンショットで消えなさい!」
転倒《てんとう》の拍子《ひょうし》に頭を打ったらしい部長氏は、「ううう」とか呻《うめ》いて配下の部員たちに介抱《かいほう》されつつ心配させている。ハルヒの口上を聞いていたのは、どうやら俺一人のようだ。
「なあ、ハルヒ」
高校入学以来もう何度目か解らないが、言い聞かせるような声で語りかける。
「蹴りを入れるのは話を聞いてからでもよかったんじゃないか? おかげで、見ろ。俺も彼らもどうしていいか解らんじゃないか。ゲームで勝負――、までしか俺は聞いていないぞ」
「キョン、勝負事なんていうのはね、言い出したその時から勝負なの。宣言イコール宣戦布告なわけ。敗者が何を言おうとそれはイイワケよ、勝たないと誰も聞く耳持たないわ」
ハルヒは仕留めた獣《けもの》の検分をする狩人《かりゅど》のように部長氏に歩み寄り、失礼にも失望の声を上げた。
「なによ。お隣《となり》さんじゃん。どうしてこんな奴《やつ》らがあたしにケンカ売りに来たわけ?」
だから今まさにそれを説明してもらうところだったんだよ。機会を与《あた》えず横合いから不意をついたのはお前だ。
「だってさ」とハルヒは唇を尖《とが》らせて、「てっきり生徒会が部室の明け渡《わた》し請求《せいきゅう》に押しかけたのかと思っちゃったのよ。そろそろ来る頃合《ころあ》いかなあって計算してたのに。まったく、ややこしいことしないでよね」
「だとしてもキックしていいことはないだろ」
俺がハルヒを諌《いさ》めようとしていると、
「そう言えばそのイベントがまだでしたね……」
いつの間にか戸口に立っていた古泉がひょっこり廊下に登場し、考え込むような顔をしやがったのでその爪先《つまさき》を踏《ふ》んづける。余計なことを口走るんじゃない。
「うう……卑怯《ひきょう》なり、SOS団……」
呻き声を漏《も》らしながら部長氏はようやく立ち上がった。脇《わき》から部員たちに支えられて、
「と、とにかくっっ、勝負はしてもらう。どうせ言葉は通じないだろうと思って、文書を作成してきたんだ。これを読めば勝負の内容はよく解るだろう」
部員の一人がコピー用紙の束とCDケースを、野生のライオンに生肉を与えようとしているような手つきで持ち上げており、
「ご苦労様です」
にこやかに受け取ったのは古泉だった。
「それで、ゲームはいいのですが、説明書も付属しているのですか?」
別の部員はまた紙束を持って古泉に押しつけた。そして小声で、
「部長、用はすみました。部室に帰りましょう」
「うん、そうしよう」
弱々しくうなずき、
「では、そういうことで――」
用件を途中半端《とちゅうはんぱ》に告げ、そそくさ帰ろうとした部長氏の首根っこをハルヒの手によってむんずと掴《つか》まれた。
「ちゃんと説明しなさいよ。文章でごまかそうったってそうはいかないんだからね。このあったま悪いバカキョンにも解《わか》るようにセリフで解説するように!」
バカは誰《だれ》のことだ。
哀《あわ》れ、このようにして部長氏は文芸部室へと引きずりこまれることになった。残されたコンピュータ研部員たちが抗議《こうび》の声を上げるヒマもなければ救助する手だてもなく、そして扉《とびら》は閉《と》ざされた。
文化祭というハレの時期を過ぎ、年がら年中ハレ真っ盛《さか》りのハルヒと違って、全校規模ではすっかりケとなる日常に回帰したと思っていたのだが、どうもコンピュータ研もハレな気分を持続させていたようだ。しかし現在パイプ椅子《いす》に座らされて単身オドオドしている部長氏の姿は、まるでダンジョンの最深部でパーティからはぐれたあげくリビングデッドの群れに取り囲まれたMPゼロ状態の白《しろ》魔術師《まじゅつし》のそれであった。同じようにオドオドしている朝比奈さんが淹《い》れたお茶にも手を付けず、ハルヒによって尋問《じんもん》を受けている。
簡単にまとめさせてもらおう。
部長氏の要望は以下の通りである。
1.コンピュータ研自作の対戦ゲームで勝負しようではないか。
2.我らが勝てば、現在SOS団の机に鎮座《ちんざ》しているパソコンは、晴れて本来あった場所に帰還《きかん》を果たすことになる。
3.だいたいだな、SOS団に多機能型パソコンは不|釣《つ》合いである。コンピュータはコンピュータ研にあってしかるべき機材であり、強く返還を求める次第《しだい》である。
4.パソコン強奪《ごうだつ》時に部長|及《およ》び部員たちが負担した精神的苦痛は、この際だから忘れてもいい。いや、忘れたい。お互《たが》い忘れよう。
5.以上のような理由により、キミたちは我々と戦わねばならない。……戦え。
古泉から回ってきた紙束に、こんな感じのことが解りにくい上に読みにくい文体で細々と書いてあった。訴状《そじょう》と果たし状を兼《か》ねているらしいが、丁寧《ていねい》に印字された文章も俺がざっと目を通すだけで、ハルヒは直《じか》に部長氏から聞き出していた。早い話が、
「使ってないんだったら、パソコン返せよ」
部長氏は言った。その言葉に対し、ハルヒは心外そうに答える。
「あたしは使ってるわよ。きちんとね。この前の映画もこれで編集したのよ」
やったのは俺だが。
「ホームページも作ってたし」
それも俺がやった。ハルヒがパソコン使ってしたことと言えば、暇《ひま》つぶしのネット巡回《じゅんかい》と落書きみたいなシンボルマークを描《か》いただけだろうが。
「そのホームページだって、半年|経《た》ってもインデックスしかないじゃないか。もう何ヶ月も更新《こうしん》の気配すらない」
部長氏はふくれ面《つら》である。なんとまあ、彼は定期的にあのしょぼいサイトを訪《おとず》れてアクセスカウンタを回してくれる常連らしい。なるほど、カマドウマの時のアレはそのせいであったようだな。我々がパソコンを活用しているかどうかが、よほど気になっていると見える。
「でもあたしが頂戴《ちょうだい》って言った時、あげるって答えてたじゃないの。キョン、あんたも覚えてるでしょう」
そうだっけ。朝比奈さんがへたり込んでいるシーンはまざまざと脳裏《のうり》に蘇《よみがえ》るが、部長のコメントまで注意してなかったよ。仮に言ったのだとしても、あのときの部長氏は心神|耗弱《こうじゃく》状態だったろうから取引は無効なんじゃないかな。
「断固、抗議する」
部長氏は本気らしい。腕《うで》を組んで口を結ぶその表情には精一杯《せいいっぱい》の強がりが浮《う》いている。半年経ってあきらめも付くと思いきや、だんだん怒《いか》りがぶり返してきたようだ。
ふーん、とハルヒは微笑《ほほえ》みながらうなずいた。
「まあいいわ。そんなに勝負したいんならしてあげようじゃないの。こっちが賭《か》けるのはパソコンね。それで、そっちは何を賭けるの?」
「何って、そのパソコンだよ。僕たちが負けたら、それはキミたちの物にしておいて構わない」
ハルヒは平然と言い放った。
「これはとっくにあたしたちの物になってるわよ。元からある物をもらったってあんまり嬉《うれ》しくないわ。別のものを持ってきなさい」
不覚にも。この言いぐさには俺は感動すら覚えた。何であろうといったん手にした物の所有権は自分に帰属するらしい。将来、泥棒《どろぼう》にでもなるつもりだろうか。
しかし部長氏は怒り出すどころか、引きつったような笑いを作り、
「解《わ》ったよ。君たちが勝てば、新たに……そうだな、パソコンを人数分、四台|進呈《しんてい》しよう。ノートタイプのやつでいいかな?」
自ら賭け金を釣り上げることを言い出した。これにはハルヒも虚《きょ》を衝《つ》かれたようで、
「え、いいの?」
座っていた団長机からぴょんと飛び降り、部長氏の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「ホントね? 途中《とちゅう》でやっぱやめ、なんて言うのは許さないわよ」
「言わない。約束する。血判状でも持ってくるがいい」
あくまで強気の部長氏であり、俺はなるほどと思う。
さっきから長門がつまんで凝視《ぎょうし》しているCDの中身がどんなゲームなのかはまだ知らないが、制作側だけあってとことんやり尽《つ》くしているのだろう。コンピュータ研がハイアビリティなゲーマー揃《ぞろ》いかどうかは置いといて、素人《しろうと》のSOS団のメンツなど一蹴《いっしゅう》できると考えているに違《ちが》いない。俺もそう思う。まともにやり合いさえすれば、何の勝負でも俺たちが勝利するとは考えにくい。前の野球で勝った時は長門のあり得ざる秘力の賜物《たまもの》で、我々の実力ではないのだ。
だがそれを解っていない奴《やつ》が一人いた。
「あんたんとこ、女子部員がいないでしょ?」
ハルヒが不思議なことを言い始めた。
「いないけど、それで?」と部長氏。
「欲しい? 女の部員」
「……いーや、別に」
精一杯の虚勢《きょせい》を張る部長氏だった。ハルヒは悪い置屋の女主人みたいな笑《え》みで口元をニマニマさせて、
「もしあんたたちが勝ったら、この娘《こ》をコンピュータ研に進呈するわ」
と、指差したのは長門の顔だ。
「女の子欲しいんでしょう? 有希ならきっと即戦力《そくせんりょく》になるわよ。物覚えはよさそうだし、この中で一番|素直《すなお》だしね」
このアホウ、何を提案しやがるんだ。相手がパソコン四つを賭けているのに、こっちが一台では不|釣《つ》り合いだと考えているのか。だがパソコン四台と長門ではスペックに開きがありすぎるぞ。お前は知らないかもしれないが。
「…………」
景品|扱《あつか》いされているのに、長門は平気な平左《へいざ》をしている。あまり動かない目が一瞬《いっしゅん》俺をかすめ、ハルヒを通り越《こ》してコンピュータ研部長の顔をじっと見つめた。
部長氏は明らかに動揺《どうよう》の表情でたじろぎながら、
「いやぁ……でも……」
「なに? みくるちゃんのほうがいいって言うの? それともパソコン四台では不釣り合い? んじゃ、副賞としてウチが勝ったらあんたんとこの部を『北高SOS団第二支部』に改名しなさい」
「あ……ええと……その、」
ハルヒの言葉に朝比奈さんが口元を押さえて立ちすくみ、
「お前が賞品になれ」
俺は憤然《ふんぜん》とハルヒに立ち向かった。
「いつまでも長門や朝比奈さんを備品扱いしてるんじゃねえぞ。賭けるなら自分の身体《からだ》を賭けたらいいじゃねえか。勝手なこと抜《ぬ》かすな」
「何言ってんのよ。神聖にして不可侵《ふかしん》の象徴《しょうちょう》たる存在、それがSOS団団長なの。もはや団そのものと言っても決して虚言《きょげん》ではないわ。あたしは『これだっ!』って思う人以外にこの職を譲《ゆず》るつもりはないわよ」
お前は卒業後もここに居座るつもりか。
「それにね、誰《だれ》であろうとも自分自身と等価|交換《こうかん》できるモノなんか、この世のどこを探しても見つかったりはしないよの」
ハルヒは理不尽《りふじん》な物言いであっさり俺の攻撃《こうげき》をかわし、無言の長門と言葉を消失した朝比奈さんを交互《こうご》に指さして、なおも部長氏に迫《せま》った。
「で、どっちがいいわけ?」
そして俺を横目で見ながら言い足した。
「どうしてもって言うんだったら、まあ、あたしでもいいけどさ」
さすがに部長氏はハルヒの戯言《たわごと》に乗ることはなかった。注意深く目線を追っていた俺の観察結果によると、どうも長門のあたりでしばしの逡巡《しゅんじゅん》があったようだが、解《わか》るような気もするね。
彼は朝比奈さんの胸をわしづかみにするという磔刑《たくけい》に値《あたい》する前科を背負っており、その犯罪|行為《こうい》の相手を指名する度胸はないのだろう。それに谷口によると長門はけっこうな隠《かく》れ人気者であるらしいので、彼の趣味《しゅみ》が無口系読書少女に合致《がっち》していた可能性もある。朝比奈さんでは気後《きおく》れしすぎるからというのが理由の一つであるかもしれないが、だからと言って露骨《ろこつ》に「女子部員が欲しい」などと表明しないだけの慎《つつし》みも彼は持ち合わせていたようで、まあまあ当たり前の結果だ。
ああ、ハルヒ? すっかり性格の知れ渡《わた》った今や、こいつを指名するような男は真性のマゾかよほどの変わり者なのさ。でもってハルヒ以上に変わってもいないと思われる。だから俺も安心して放っておけるというものだ。
かくして、戦いの舞台《ぶたい》が整えられた。
いったん文芸部室から出て行った部長氏は、手勢を引き連れて戻《もど》ってきた。彼らの手の内にあるのはノート型パソコンで見間違えようもない。賞品の前払《まえばら》いとは気前がいいと思っていたら、このゲームには一チームにつき五台のパソコンが必要なのだという。コンピュータ研なのか電気配線業者なのか解らないような機敏《きびん》さで、連中はハルヒ御用達《ごようたし》デスクトップと四つのノートパソコンをLAN接続し、次々と自家製ゲームソフトをインストールしていった。その会話の端々《はしばし》から、試合内容は五対五でやるオンライン宇宙|戦闘《せんとう》シミュレーションだということが解った。ようするにSOS団側の五台、コンピュータ研側でも五台のパソコンを用意、その全部を一つのサーバにくっつけて対戦するようだ。俺たちは俺たちの部室で、彼らは彼らの部室のパソコンを使って。
もちろんサーバとなるコンピュータは彼らの部室にあるわけだ。ふむ。なるほどね。
「練習期間は一週間もあればいいだろう」
部長は部員たちの器用な動きを得意げに眺《なが》めながら、
「一週間後の午後四時にスタートだ。それまでに腕《うで》を磨《みが》いておくことだね。あまりに弱いと拍子《ひょうし》抜《ぬ》けするからな」
勝った気でいるようだったが、それはハルヒも同じ事だ。新しい備品が増えて笑いが止まらないような顔をしている。
「うん、サブノートが欲しいと思い始めていたのよね。やっぱパソコンは団員の数だけあるべきだわ。設備投資は働くもののモチベーションを上げるためにも重要なことよ」
ノートパソコンで懐柔《かいじゅう》されちまうほど俺のモチベーションは安っぽくないぜ。くれると言うならもちろんもらうけどな。
俺はすっかり冷めてしまったお茶を飲み、さりげなく長門の表情を垣間《かいま》見《み》た。朝比奈さんと壁際《かべぎわ》に並んでコンピュータ研部員たちの作業を見守っている無表情な顔には何も変化が感じられない。いつもの落ち着きようだった。
奴《やつ》ら作製のゲームだ。まさかとは思うが、怪《あや》しいウイルスが仕込まれていないとも限らない。もしそうなら長門も黙《だま》ってはいないだろう。その辺のことは任せておいていいな。コンピュータ研がどんな裏技《うらわざ》を使おうと、長門の裏をかくのはそう簡単なことじゃないんだぜ。
飲み干した湯飲みを弄《もてあそ》んでいると、朝比奈さんがささっと近寄ってきた。
「キョンくん、これ……何をすることになるの? あたしはあまり、その、き、機械には疎《うと》いんですけど……」
困惑《こんわく》の顔でどんどん増えつつあるコード類に目を落としている。そこまで困り果てることはありませんよ。
「ゲームですから、適当に遊んでおけばいいんですよ」
そう言って慰《なぐさ》めた。実のところ、それは俺の本心である。もし本当に長門や朝比奈さんを賭《か》けての勝負なら俺も本気の力を見せるに一片《いっぺん》の躊躇《ちゅうちょ》もないが、ハルヒがパクったパソコンを返す返さないの問題なら話も別さ。コンピュータ研の出してきた条件は、俺にとってノーリスハイリターン。それだけのハンデと自信の差が俺たちと彼らの間にあるってことでもあるな。
「負けてもともと、勝ったらバンザイの世界ですよ。今度ばかりは、ハルヒにも四の五の言わせたりはしません」
はっきりと俺は言い切り、朝比奈さんの不安を一掃《いっそう》してあげるために笑いかけてもみた。
「でもぅ、涼宮さんが……。とても張り切っているみたいですけど」
説明書らしきコピー紙を手にした古泉を横にはべらせ、コンピュータ研の撤収《てっしゅう》を待たずにハルヒは早くも団長机に着いてマウスを握《にぎ》りしめていた。
なぜか満足げな顔で部長氏以下、隣《となり》の部員たちは誇《ほこ》らしげに出て行った。さぞ腕の振《ふ》るいがいがあったと見える。
その後、しばらくそれぞれのパソコンで動作|確認《かくにん》などをしていたが、そろそろ陽《ひ》も暮れるということで今日はお開きとなった。
その帰り道、五人で集団下校しているときの俺と古泉の会話である。坂道を下る女三人組と数メートルの距離《きょり》を置き、話しかけたのは俺のほうだった。
「ここいらで封印《ふういん》したほうがいいんじゃないかと思うセリフがあるんだ」
「ほう。何でしょうか」
「当ててみろ」
古泉はほのかに苦笑《くしょう》を唇《くちびる》にたたえつつ、考え込むふりをしたのも一瞬《いっしゅん》で
「僕があなたの立場だったとして、濫用《らんよう》を避《さ》けたいと思えるセリフはいくつもありませんね。候補としては無言での『……』か、『いい加減にしろ』なども有力ですが、やはりこれしかないのではありませんか?」
俺が黙っていると、古泉はたゆまぬ微笑《びしょう》とともに解答を発した。
「やれやれ」
サービスのつもりか肩《かた》をすくめて両手をあげるジェスチャー付だ。古泉はヒラヒラと手を動かしながら、
「あなたの気分もよく解《わか》りますよ」
解ってたまるか。
「いえいえ。できる限りマンネリな心境に陥《おちい》るのは回避《かいひ》したいという思いが働いているのでしょう? 同じリアクションばかりしていては、他人はどうか知らないとしてもあなた自身に飽《あ》きが来る。何度も繰《く》り返しプレイしてとっくに味わい尽《つ》くしたゲームをもう一度やり直そうという気にならないのと同じです。あなたは飽きることを恐《おそ》れているのですよ。涼宮さんと同じようにね。違《ちが》うのは彼女はどうしても自らの行動を主体として考えているのですが、あなたはそんな彼女の行動を受けて初めて反応を考えなければならない点です。さあ、これはいったいどちらの立場が楽なのでしょうね」
何を分析医《ぶんせきい》みたいなことを言ってやがる。俺の精神状態をとってつけたような理屈《りくつ》で補完しようとするんじゃねえぞ。だいたいそんなことを言い出せば、言っているお前はどうなのさ。古泉だってハルヒの行動にひたすら受身をとっているだけじゃないか。
「僕たちは僕たちで、主体性を持ってここにこうしているのですよ。お忘れですか? 僕や長門さん、朝比奈さんは主義主張こそ違え、ほぼ同一の目的でここにこうしているのです。言うまでもなく、涼宮さんの監視《かんし》という最重要な課題を持ってね」
そういうわけでただ一人何の目的もなくSOS団に引きずり込まれた俺だけが、ワケもわからず右往左往するハメになっているという様相を呈《てい》している。まったく、誰《だれ》の魂胆《こんたん》なんだ。
「僕が知るわけはないでしょう」
古泉は楽しげに俺と目を合わせていた。
「観察対象という身分で言えば、涼宮さんだけではなく、今はあなたもそうなのですから。これからあなたと涼宮さんが何をやってくれるのか、戦々恐々《せんせんきょうきょう》としながらも、僕はなんとなく豊かな心を育《はぐく》ませてもらっています。これは感謝しておいてもいいでしょうね。いや冗談《じょうだん》は抜《ぬ》きでね、有り難《がた》いことだと思いますよ」
他人《ひと》事《ごと》なれば、そりゃ見てても楽しいだろうさ。
文化祭を機に正気を取り戻《もど》したのか、季節を表現する山からの風もなんとなく冷たい秋の風味を伴《ともな》っていた。俺が好きになれない季節である。これから寒くなる一方かと思うと、ハルヒの暴虐《ぼうぎゃく》のほうがいくらかマシに思えてくる。
すでに暗い道を歩くその前方で、一人で喋《しゃべ》っているハルヒと時折相づちを打つ朝比奈さん、登下校時は歩く以外の機能を持たないような長門が一塊《ひとかたまり》になっている。長門の鞄《かばん》がふくれているのは、あてがわれたノートパソコンが入っているからだ。そんな物を持って帰ってどうするのかという俺の問いに、長門はゲームCDを鞄の底に滑《すべ》り落としながら「解析《かいせき》する」と答えてくれた。その影法師《かげぼうし》を見ているうちに言うべきことを思い出す。
「ところで古泉。俺から提案が一つばかしあるんだが」
「それは珍《めずら》しい。拝聴《はいちょう》いたしましょう」
念のために声を潜《ひそ》めて言うことにする。
「今度のコンピュータ研とのゲーム勝負のことだけどな、とりあえずインチキをするのはやめておこう」
「インチキとは何を指しての言葉でしょうか」
古泉も小声で聞き返す。
「野球の時に長門が使ったようなアレのことだ」
忘れたとは言わせないぞ。
「最初にお前に言っておく。仮にお前がシミュレーションゲームを有利に進めるような超能力《ちょうのうりょく》があったとしても使うんじゃない。超能力じゃなくてもいい、どんな手段でも、ルールに外れるようなギミックを使うことは俺が許さん」
古泉は微笑みながらも探《さぐ》るような視線を俺に向け、
「それはまた、どういう思惑《おもわく》があなたにあるからですか? 我々が負けてしまってもいいと、そうおっしゃるのでしょうか」
「そうさ」
俺は認めた。
「今回ばかりは宇宙的あるいは未来的、または超能力的なイカサマ技《わざ》は封印《ふういん》だ。まっとうに戦って、まっとうな結末を迎《むか》える。それが最適な手段だろう」
「理由を問いたいですね」
「負けても失うものは盗品《とうひん》のパソコンだけだ。それも元の持ち主のところに帰るだけだからな。俺たちは別に困らん」
帰す前に朝比奈画像集をどこかに移す必要はあるだろうが。
「僕がお聞きしたいのはパソコンの是非《ぜひ》についてではありませんよ」
古泉は面白《おもしろ》そうな口調で、
「あなたもご存じのように、涼宮さんは何かに負けることが好きではないのです。どうにもならない、これは負けそうだ、と感じると閉鎖《へいさ》空間を生み出して人知れず大暴れさせてしまうほどにね。それでもいいと思うのですか?」
「かまやしないね」
俺はハルヒの後ろ姿を眺《なが》めていた。
「いくらあいつでも、そろそろ学んでもいい頃《ころ》だ。そうそう何もかも思い通りになってたまるか。ましてや今回はハルヒが言い出したことじゃねーし、それほどの意気込みがあるわけでもないだろう」
超常能力封印を明日にでも長門に伝えないとな。朝比奈さんにも言っておくか。自ら機械オンチを告白してきた彼女に格別な能力やアイテムがあるとは想定しにくいが、ま、これも念のためだ。
古泉が小さく笑い声を漏《も》らした。何のつもりだ、気色悪い。
「いえ、おかしかったからではありません。羨《うらや》ましくなったものですから」
俺のどこに羨望《せんぼう》を感じたと言うんだ。
「あなたと涼宮さんの間にある、見えざる信頼《しんらい》関係に対してですよ」
何のことやら、さっぱりだね。
「しらばっくれるつもりですか。いえ、あなたにも解《わか》っていないかもしれませんね。涼宮さんはあなたを信頼し、あなたもまた彼女を信頼しているということですよ」
勝手に俺の信頼先を決めるな。
「一週間後のゲーム勝負に負けたとします。しかし、そこで涼宮さんが閉鎖空間を生み出したりはしないだろうとあなたは思っている。そのように信頼しているからです。また、涼宮さんはあなたならゲームを勝利に導くだろうと信じている。これも信頼です。彼女が団員の身柄《みがら》を賭《か》けようかと言い出したのは、負けるはずがないと確信しているからですよ。決して言葉に出したりはしませんが、あなたがた二人は理想形と言ってもいいくらいの信頼感で結びついているんです」
俺は沈黙《ちんもく》の井戸《いど》に潜《もぐ》り込んだ。返す言葉がなかなか思いつかないのはなぜだろう。古泉の推測が俺の心の的に高得点で突《つ》き立ったからか? 信頼|云々《うんぬん》は専門家に任せるとして、確かに俺はハルヒが精神世界で暴走を繰《く》り広げるとは思っていない。それはこの半年間を振《ふ》り返ってみればいいことだ。SOS団設立から映画|撮影《さつえい》まで、色んなことがあって様々なことが俺たちの前を通り過ぎた。俺自身それなりに成長したつもりだし、ほぼ同様の経験をしているハルヒだってそうだろう。でなけりゃあいつはぶっちぎりの本当のアホだ。取り返しようがないほどの。
「試《ため》してみる価値はある」
ようやく俺は言葉を紡《つむ》ぎ上げた。
「コンピュータ研とのゲーム対戦で負けて、それでハルヒがけったくそ悪い灰色世界を生み出すようなことがあれば、今度こそお前たちの事情なんか知ったことか。ハルヒと一緒《いっしょ》に世界をこねくり回してろ」
古泉は微笑《ほほえ》みだけを浮《う》かべていた。そしてさも当然のようにこう言った。
「それが信頼感というやつですよ。僕が羨ましくなる理由が解りましたか?」
俺は答えず、ただ歩くことだけに集中した。古泉はなおも何かを言いたげな顔をしていたが、聞く耳を持たない俺の様子を感じ取ったのか、とうとう何も言わなかった。
まあいい。古泉が思わせぶりな顔をするのには慣れっこだ。朝比奈さんが部室でメイドの格好をしていたり、ハルヒがいつだって裏付けのない自信に満ち溢れているのと同じくらい普通《ふつう》のことである。
長門がいるのかいないのか解らない希薄《きはく》な存在感しか持たないのと同様……とも表現したいところだったのだが――。
一週間後の対コンピュータ研戦の場で、俺は思わぬ光景を目にすることになった。
そんなこんなで翌日の放課後から、隣室《りんしつ》の連中を仮想敵とした俺たちの特訓が始まった。特訓といってもゲームに興じるだけなのだが、そのコンピュータ研作製によるオリジナルゲームを取り急ぎ概略《がいりゃく》だけでも紹介《しょうかい》しておくべきだろう。
<|The《ザ》 |Day《デイ》 |of《オブ》 |Sagittarius《サジタリウス》 3>
というのがゲームタイトルである。なんとかイイ感じにキメようとしてかえって意味不明になってる感が否《いな》めないが、問題視すべきなのは中身なので気にしないことにする。それを言い出せばSOS団なんていうグループ名の下《もと》にいる俺たちの立場がなくなってしまうしな。名称《めいしょう》と活動内容の無意味さ及《およ》び無関係さにかけては、視点をグローバルに広げたところでこの団を下回るものが幾《いく》つもあるとは思えない。しかし3ってことは1と2もあったのか。
それはともかく、まず なるゲームの背景となる世界観の説明からおこなうと――。
時はいつの時代かわからん。途方《とほう》もなく未来であることは確かなようだ。人類は外宇宙へと飛び出し、そこそこの版図を築き上げている。そんな宇宙的スケールでの、とある恒星《こうせい》系での領地争いであるようだった。そこには二つの星間国家が樹立しており、互《たが》いに国境線の位置取りに関して果ても見えない闘争《とうそう》を繰り広げている。便宜《べんぎ》的に片方を <コンピ研連合> 、もう一方を <SOS帝国《ていこく》> と並び称することにしよう。おのおのの国家は戦場が宇宙空間であるゆえに宇宙|軍《ぐん》艦隊《かんたい》を常備しており、風雲急を告げる事態となると惜《お》しげもなく持てるばかりの戦力を前線に投入し、相手を殲滅《せんめつ》するまで無益な戦争をエンドタイトルまで繰り広げるという筋書きになっている。そこには外交や謀略《ぼうりゃく》といった純粋《じゅんすい》な戦闘《せんとう》行為を妨《さまた》げる余計なコマンドなど存在しない。ただ撃滅《げきめつ》あるのみなのだ。ハルヒ好みかもな。
スタート時点では画面はほぼ真っ暗である。モニタの下部で青く輝《かがや》いているのが我々の操作する艦隊ユニットだ。底辺が短めの二等辺三角形の形をしており、それが合計五つ、横に並んでいるのが解る。これこそハルヒが全軍を統括《とうかつ》する <SOS帝国> 軍の戦力のすべてだ。一ユニットあたりに宇宙戦艦が一万五千|隻《せき》ほど内包されているから総数七万五千、それプラス各艦隊に少数くっついている補給艦部隊。それらの戦艦を操《あやつ》って、同数の敵 <コンピ研連合> の艦隊を撃破すれば勝利条件クリアだが、今回のルールではお互いの大将艦隊、我々なら <ハルヒ☆閣下☆艦隊> の旗艦、相手は部長氏艦隊の旗艦を撃破されたら全軍のダメージや撃沈《げきちん》数いかんに関《かか》わらずその時点で負けとなる。
艦隊は一人につき一個艦隊が与《あた》えられ、自分のパソコンからは自分の艦隊ユニットしか操作できない。いくらハルヒが独走しようとも、俺の使っているノートパソコンからはどうしようもないというわけだ。
妙《みょう》なこだわりを感じさせるのは、徹底《てってい》的に索敵《さくてき》しないと敵の位置はおろかこの宙域にどんな障害物が浮いているのかも解《わか》らないってところである。とにかく艦隊を移動させようとしたら、その方向に何がいてどんな物体が転がっているか、まず索敵《さくてき》艇《てい》を派遣《はけん》して走査しなければならず、さらにその索敵艇が戻《もど》ってきて初めてその範囲《はんい》の状況《じょうきょう》が解るというまわりくどさ。
艦隊そのものの視界は半径にして数センチ(画面上の距離で)しかないため、索敵行動をおろそかにして直進していると思わぬ角度から敵の攻撃《こうげき》を喰《く》らったりして、しかもその敵の位置も解らないといういただけないことに成り果てるのだ。
ただ、味方の艦隊同士はデータリンクで結ばれており(という設定らしい)、たとえば長門の艦隊の視界や索敵艇が持ち帰った情報はそのまま我々全員のものとして共有することができる。俺が何をしなくても真っ黒な画面の中でその範囲だけは明るく表示され、惑星《わくせい》やアステロイドベルト、索敵した時点での敵艦の位置が解るといった仕組みである。
それでも全体マップはやたらにだだっ広く、よって、すみやかな敵の位置特定と行動予測が明暗を分けそうだ。
使用できる武器は二種類、ビームとミサイルのみである。敵が射程内にさえいればビームは発射したその瞬間《しゅんかん》に命中し、ミサイルのほうはノロノロ飛んでいく代わりにホーミング機能を付けることができる。向かってくるミサイルが誘導《ゆうどう》モードに設定されていると避《さ》けようがないのでいちいち撃墜《げきつい》しなければならない。
大まかに言ってそんな感じの、宇宙を舞台《ぶたい》にした2D艦隊シミュレーションゲームである。ちなみにターン制ではなくリアルタイム制で行われるから、悠長《ゆうちょう》に星系を探索しているとたちどころに敵側から袋《ふくろ》だたきにされる。このあたりも変にシビアであった。
来《きた》るべき試合に向け、さっそく我々はゲーム週間に入った。ハルヒだけは机でデスクトップ、それ以外の四人は長テーブルに並んで着いてノートパソコンを見つめながらマウスをカチカチやっているという、なかなかシュールな光景がここしばらくのSOS団的活動内容になっている。練習は対戦モードでなくCPU戦だが、難易度をベリーイージーにしても一勝をあげるまで三日かかったというのだから、こちら側のゲームスキルランクはほとんどマントル層の下を手動ドリルで這《は》っているレベルだ。
「あーっ! またやられたっ! キョン、なんか腹立つわよ、このゲーム」
CPU相手にこの成績じゃあな。ハルヒでなくても頭に来るだろうが、別にゲームバランスが狂《くる》っているわけではなくて、お前の旗艦が前方|不如意《ふにょい》のまま突進《とっしん》して相手の集中|砲火《ほうか》を一方的に受けているからだ。
「戦術を変えないといけないってのもあるが」
俺はゲームオーバーをもの悲しげなBGMとともに告げている液晶《えきしょう》モニタから目を離《はな》した。
「艦隊のパラメータをいじり直したほうがいいかな。特にお前の旗艦艦隊をだ」
ここの艦隊ユニットにおける戦力|振《ふ》り分けパラメータは三つあった。『速度』『防御《ぼうぎょ》』『攻撃』である。プレイヤーは最初にポイントを100与えられ、それを三つのパラメータに分配するのが初期設定画面だ。『速度・30』『防御・40』『攻撃・30』といった感じだな。これをハルヒは『速度・50』『防御・0』『攻撃・50』でプレイしてるんだから、奴《やつ》の旗艦|装甲《そうこう》はダンボール製も同然だ。宇宙をなめるなと言いたい。とにかく素早《すばや》く動いて敵艦を叩《たた》きのめすことしか考えていないらしく、俺や古泉がどうこうする前に旗艦が沈《しず》んでいれば、これじゃ世話を焼くヒマもねえよ。
「もうっ! めんどいったらないわね。こんなの作って何が楽しいのかしら。あたしはもっと解りやすいのが好きなのにっ」
不平たらたらだが、ハルヒはそれでも飽《あ》きずにリプレイを始めた。俺のノートパソコン画面に のロゴが再表示される。
ハルヒは楽しそうにマウスをクリックしながら、
「RPGにすればよかったのにさ。あいつらが魔王《まおう》とか邪神《じゃしん》役で、あたしが勇者。オープニング直後にラスボス戦が始まるやつがいいわ。いつも思うのよ、ダンジョンの奥でぼんやり待ってるんじゃなくて最初から親玉が登場しちゃえばいいのに。あたしが魔王ならそうする。そしたら勇者たちも長ったらしい迷宮《めいきゅう》をうろうろしないですむし、簡単に話が終わるし」
むちゃくちゃを言うハルヒを無視し、俺は横にいるその他メンツを順番に見ていった。最もハルヒに近いところに座っているのが古泉|幕僚《ばくりょう》総長、次が俺で、その隣《となり》に朝比奈さん、一番|隅《すみ》っこに長門がいる。
「これは難しいですね。まあ僕がこの手のゲームに不慣れなせいかもしれませんが。シンプルですがマニアックな操作性です」
適当な感想を述べている古泉は、オセロやってる時と同様ほがらかに微笑《びしょう》しており、必要もないのにメイド衣装《いしょう》を着込んだ朝比奈さんは、
「わわ、全然思い通りに動いてくれないんですけどぉ。でもどうして宇宙って設定なのに行動|範囲《はんい》が二次元限定になってるんですか?」
基本的な疑問を放ちつつ、慣れない手つきでマウスをカチカチ言わせている。
この二人はいいとしよう。残る一人こそが俺にとっての最大|懸案《けんあん》項目《こうもく》だ。
「…………」
高度な数学的難問に立ち向かっている数理学者のような目つきでディスプレイを見つめている長門有希。最も早くこのゲームに順応したのはこいつであり、ハルヒの猪突猛進《ちょとつもうしん》一直線戦法にもかかわらず唯一《ゆいつ》の勝利をもぎ取れたのは、彼女の的確な艦隊《かんたい》運用能力がたまたまウマいこと作用したからである。
もちろん釘《くぎ》を刺《さ》してある。魔術だか情報操作だかの超裏技《ちょううらわざ》は決して使わないように。昼休みにそう言っておいた。数秒間、俺の目をじっと見つめていた長門は、無言でこっくりとうなずいて同意を示し、俺の肩《かた》の荷物も少しだけ軽くなったものである。おかげで気兼《きが》ねなく対戦ゲームに挑《いど》める。仮にこれで俺たちが勝ってしまったとしてもそれは何かの間違《まちが》いであり、間違ってしまったんだから仕方がない。うむ、責任|回避《かいひ》のイイワケも準備|万端《ばんたん》だ。
あとはせいぜい善戦できるだけの戦術を練り直し、奮闘むなしく敗れ去るという演出を考えることにしよう。朝比奈画像フォルダをCDか何かに焼いておくのも忘れずに。
まつろわぬ秋の空にふさわしく一週間がめまぐるしく経過して、いよいよ開戦の時を迎《むか》えた。
ハルヒに率いられた俺たちは文芸部室で定位置につき、コンピュータ研は連中の部室で画面上のカウントダウンを眺《なが》めているという状況だ。
プレイ前のモニタが表示しているのはお互《おた》いの艦隊|紹介《しょうかい》一覧である。とは言え、解《わか》るのは名称《めいしょう》とどこの隊に旗艦が配置されているかくらいで、パラメータや艦隊配置は隠《かく》されている。
コンピュータ研のユニットは旗艦部隊を筆頭に <ディエス・イラエ> <イクイノックス> <ルペルカリア> <ブラインドネス> <ムスペルヘイム> なるパーソナルネームが付いていた。
なにやらこしゃくなネーミングセンスであり、何をがんばっているのかは知らんが間違ったがんばりかたのように思えてならない。そんな彼らの考え出した愛称の由来を、さして知りたくもないのは俺だけではなかったようで、
「めんどくさいから左から順番に敵A・B・C・D・Eでいいわ。旗艦部隊がAね」
ハルヒはあっさり敵艦隊のコードネームを変更《へんこう》し、そのまま連中の独りよがりな呼称は忘れ去る構えである。どうせなら俺が指揮することになる <キョン艦隊> のことも忘れて欲しいが。
「そろそろね。みんな、いい? 勝ち馬に乗っていくわよ。これは始まりにすぎないの。敵はコンピ研だけじゃないわ。あらゆる邪魔者《じゃまもの》たちを蹴散《けち》らして、SOS団は宇宙の彼方《かなた》までその名を轟《とどろ》かせなきゃダメなの。そのうち教育委員会に掛《か》け合ってすべての公立校にSOS団支部を作るつもりよ。野望は広く持たないと」
ハルヒの誇大《こだい》妄想狂《もうそうきょう》みたいな檄《げき》をどう感じたか、古泉は親指で緩《ゆる》んだ唇《くちびる》をはじき、朝比奈さんはメイド衣装《いしょう》の袖《そで》を引っ張り、俺は深呼吸のふりをしてため息をつき、長門はぴくりと眉毛《まゆげ》を動かした。
「まあ、あたしたちが負けるわけはないけどね。勝って当然とは言え、手抜《てぬ》きは絶対に禁止! 途中半端《とちゅうはんぱ》な勝ち方は相手に悪いもん。叩《たた》きのめすのよ」
いつも思うのだが、この自信の原材料は何なのだろう。二ミリグラムでいいから俺にも分けて欲しいね。
「そう、ちょっぴり注入してあげようか?」
なんだか知らないがハルヒは突然《とつぜん》俺をにらみ始めた。まじめな顔でこっちを見るなよ。俺の顔をそんなに注目したところで大吉《だいきち》のオミクジを吐《は》き出したりはしないぞ。
そのまま十秒ほど経過したあたりで耐《た》えられなくなった俺は目を逸《そ》らし、その途端、
「どう、少しは効いたでしょう」
ハルヒは勝ち誇《ほこ》った笑顔《えがお》を作る。そのニラメッコにどんな効能があったと言うのか。
「エネルギーを視線に込《こ》めて送ってあげたじゃないの。身体《からだ》がポカポカしてくるとか、発汗《はっかん》作用が促進《そくしん》されるとか、そんなのをあんたも感じたでしょう? そうね、今度から元気のない人を見かけるたびにこうしてあげようかしら」
頼《たの》むから人通りの多いところでガン飛ばしするのはやめてくれよな。ハルヒの元気エネルギー注入|行為《こうい》を因縁《いんねん》付けと勘違《かんちが》いして迫《せま》ってくる不良軍団から逃《に》げる方法をシミュレートしていると、
「まもなくスタートですよ」
古泉の面白《おもしろ》がっている声が届き、俺の視線はパソコン画面へと舞《ま》い戻《もど》る。一人だけ緊張《きんちょう》感を漂《ただよ》わせる朝比奈さんが、とても不安そうな声で呟《つぶや》いた。
「……どうしよ。自信ないなあ」
そんな真剣《しんけん》にならなくてもゲームで死傷者は出ませんよ。出たとしてもそれは八つ当たりされたディスプレイくらいです。
敗北に怒《おこ》ったハルヒがパソコンを窓から投げ捨てないことを一緒《いっしょ》に祈りましょう。
十六時〇〇分。
開戦のファンファーレが鳴り響《ひび》き、パソコンの所有権を争う戦いが幕を開けた。
当初、 <SOS帝国《ていこく》> 軍が予定していた作戦はこうである。
先鋒に <ユキ艦隊《かんたい》> 、その後ろに <古泉くん艦隊> と <キョン艦隊> を配置し、さらにその後ろから <みくる艦隊> と <ハルヒ☆閣下☆艦隊> がついてくる。
――以上であり、以下でもない。
索敵艇《さくてきてい》の派遣を「めんどい」の一言で却下《きゃっか》したハルヒは敵艦隊をデストロイすることしか考えないため、実際に敵と遭遇《そうぐう》するまで何の役にも立たないことは歴然としていた。
もっと何の役にも立たないであろう朝比奈さんには、各艦隊から引き抜いた補給艦をまとめてあてがっており、よって <みくる艦隊> を表すユニットは他《ほか》よりも若干《じゃっかん》大きめの三角形を形成している。そのぶん動きも鈍重《どんじゅう》になっていて、俺が彼女に指示したのは「戦闘《せんとう》に巻き込まれそうになったら逃げてください」というまことに理路整然とした行動指針である。当然だろう。
ついでにハルヒ艦隊のパラメータは『速度・20』『防御《ぼうぎょ》・60』『攻撃・20』に設定してある。ようはこいつの部隊が壊滅《かいめつ》したら即座《そくざ》に敗北なのだから、防御力重視になるのも仕方のない決断だ。戦争すんのは『33』『33』『34』という平均的な分配をなした長門、古泉、俺に任せて後方でじっとしていれば格好の時間|稼《かせ》ぎにもなっていいだろうと立案したわけだが、ちょっと目を離《はな》すと前に出たがる冒頭《ぼうとう》のシーン通りでもある。
そして今、最初にチラリと述べたようにコンピュータ研とSOS団のシミュレーションゲーム対決、いよいよ決戦の火蓋《ひぶた》が切って落とされようとしているのだった。
「しょうがないわね。じゃ、あたしはしばらく引っ込んでるから、あんたたちで敵をコテンパンにしちゃいなさい。みくるちゃん、一緒にちょっと見物してましょ」
「あ、そ……そうですね」
俺の左隣《ひだりどなり》で、朝比奈さんは従順にうなずき、小声を甘やかな吐息《といき》に取り混ぜながら、
「がんばってくださいね、キョンくん」
思わず百種類くらいのガンバリでもって応《こた》えたいくらいの声援《せいえん》をくれるのだった。旗艦部隊が <みくる艦隊> だったら喜んで弾避《たまよ》け係を仰《おお》せつかるところだが、あいにく守るべきは俺がもし封建《ほうけん》時代の実力派|諸侯《しょこう》だったらならイの一番に叛乱《はんらん》を起こすであろう横暴なる主君である。しかし残念ながらこのゲームに『反旗を翻《ひるがえ》す』というコマンドはないようだ。ないんだったらしょうがない。とにかく目前の敵を何とかするだけの話さ。
十六時十五分。
長門が猛然《もうぜん》とキーボードを叩《たた》いている。目にもとまらぬスピードというのが比喩《ひゆ》ではなくそこにあった。マウスなどという迂遠《うえん》な物を使う気になれなかったらしいのだが、それだけではない。いつの間にやら長門は を操作するために独自のマクロを組み上げ、自在に艦隊を運用するより直接的な入力方法を構築したらしいのである。そのおかげで <ユキ艦隊> の奮闘ぶりは、ビザンチン帝国ユスチニアヌス帝位《ていい》時代の名将ベリサリウスにも匹敵《ひってき》するのではないかと瞠目《どうもく》する獅子《しし》奮迅《ふんじん》さ加減だが、いかんせん多勢に無勢と言ったところだ。
こちらでまともに戦闘に参加しているのは <ユキ艦隊> <古泉くん艦隊> <キョン艦隊> の三個艦隊であり、敵側は姿を見せるつもりのなさそうな <ディエス・イラエ> (敵A)を除いた四個艦隊だ。過去の歴史をひもといて学べることが一つある。基本的に戦争は数で決まる。三対四では、ただでさえ劣勢《れっせい》が決定づけられている俺たちに勝利後のシャンパンファイトをする機会が訪《おとず》れる確率は低く、かといってハルヒや朝比奈さんを引っ張り込むこともままならない。いともあっさりと全軍そろってなぶり殺しアワーをタイムサービスするのは確定的だろう。
「敵は鶴翼《かくよく》陣形《じんけい》で我々を誘い込むつもりのようですよ」
古泉|幕僚《ばくりょう》総長が俺に囁きかけた。
「このまま追撃して行けば相手の形成した包囲《ほうい》網《もう》に自ら飛び込むようなものです。ここは一時停止して、専守防衛につとめるのが得策ではないかと」
そうは言ってもな、俺はいいけどハルヒがどう言うものだろうか。
それに、だ。
俺は朝比奈さんの頭|越《ご》しに、情報|参謀《さんぼう》長門の横顔を盗《ぬす》み見た。
なぜだかは知らん。だが、奇妙《きみょう》なことに長門が意表をつくような積極性を見せている。開始早々のこのゲームでも見た目は普通通りの無表情だが、ディスプレイ上の <ユキ艦隊> は他のどのユニットよりも能動的に動き回って作戦行動に従事していた。いったい のどこに長門の琴線《きんせん》に触《ふ》れるものがあったというのか。
解析《かいせき》する、という長門の言葉に嘘《うそ》はなかった。いつもは無感動を擬人《ぎじん》化したような宇宙的人造人間は、コンピュータ研作製のオリジナルゲームを隅《すみ》から隅まで熟知するまでになっている。ひょっとしたら作った連中より詳《くわ》しくなっているかもしれない。こいつにかかれば現代地球文明|圏《けん》のパソコンなど産業革命以前の工場生産ライン並にオールドタイマーなのだろうし、赤子の手を捻《ひね》るも同然とはこのことだ。
それにしても長門の目の輝《かがや》きがツヤ消しブラックからシルバーメタリック処理くらいに変容しているのは、ちょっとばかり気がかりなんだが……。
かつてないやる気を見せ、長門はタイピングゲームよろしく目まぐるしい動きでキーをパンチし続けた。視線は一瞬《いっしゅん》たりとも固定されず、GUIの恩恵《おんけい》を放棄《ほうき》して画面隅に開いた小さなウインドウに、ひたすら指のつりそうなスピードでコマンドを打ち込んでいる。
「…………」
<ユキ艦隊> は機敏《きびん》に位置を変えながらしきりと索敵艇《さくてきてい》を放ち、迫《せま》り来る敵艦隊の捕捉《ほそく》に全力を傾《かたむ》けていた。それでも現時点で判明している敵の居所は、我が帝国軍《ていこくぐん》の前方にいる <敵B> と <敵C> の二個艦隊のみだ。長門はその二つの艦隊と互角《ごかく》に戦いながら一人で前線を支えている。こりゃ俺もぼやぼやできねえな。加勢しないと。
そう思って移動し始めた <キョン艦隊> の側面に、突如《とつじょ》としてビームの雨が浴びせかけられた。
「なぬ?」と俺。
「おっと、と」と古泉。
見ると <古泉くん艦隊> も左舷《さげん》方向から来る砲撃《ほうげき》を浴びている。どこから現れやがったのか、いつの間にか接近していた <敵D> と <敵E> がそれぞれ左右から俺と古泉のユニットへ側面|攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けていた。たちまち <キョン艦隊> の保有艦数が目減りしていく。
「何やってんのよ!」
ハルヒが黄色メガホンで俺に叫んだ。
「ちゃっちゃと反撃しなさい! 返り討ちよ!」
言われんでもそうするさ。こいつら、長門の索敵網《さくてきもう》をくぐり抜《ぬ》けてここまで来るとはなかなかの手練《てだ》れだが、こっちだってハイそうですかとやられるままにはなりはしないぜ。
俺は <キョン艦隊> に方向|転換《てんかん》を命じ、全艦首を右舷へ九十度回頭させる。そして射程|範囲《はんい》内に敵艦を捕捉、いざ全力射撃――しようと思った瞬間に、 <敵E> もまた素早《すばや》くUターンして深遠なる闇《やみ》の中に消えてしまった。腹が立ったので追撃しようとアタリをつけて索敵艇を出してみたが、艦影《かんえい》を一つも捉《とら》えることができない。
「くそ、逃《に》げやがった」
どうやら『速度』に特化した艦隊での一撃|離脱《りだつ》作戦か。 <古泉くん艦隊> の右舷を襲《おそ》っていた <敵D> もぴったしなタイミングで姿をくらませている。なるほど、 <ユキ艦隊> と小競《こぜ》り合いしている <B> <C> が囮《おとり》で <D> <E> が主戦力なのか。そいで艦隊部隊 <敵A> は参加せずにどっかでどっしり構えているという、そういう算段らしいな。
「ひえ、こわいっ」
つたない動きながら、朝比奈さんは着実に自分の艦隊をどんどん画面の隅のほうへと追いやっていた。あまり遠くに行き過ぎると俺たちの艦隊は補給先を失ってそのうち武装ゼロとなってしまうが、このままではエネルギーやミサイルの在庫を気にするまでもなく勝敗が決しそうな気配だ。主導権はしょっぱなから <コンピ研連合> 側にある。
その後も、側面攻撃部隊である <敵D> と <敵E> は一回残り物をやったら味をしめて夕食時に必ず現れるようになった近所のノラ犬のようにフラリとやって来ては <キョン艦隊> と <古泉くん艦隊> にヒットアンドアウェイを敢行《かんこう》し、追いすがろうとするとホーミングミサイルを撃《う》ちまくりながら遁走《とんそう》するという非常にイライラする戦法で俺たちを苦しめてくれた。一気に決着を付けるのは避《さ》け、じわじわとこちらの戦力を削《けず》っていく腹づもりだな。ハルヒの最も嫌《いや》がるパターンだぜ。
一方で、孤軍《こぐん》でもってじりじり前進を続ける <ユキ艦隊> は、何とか頭を押さえ込もうとする <敵B> と <敵C> の波状攻撃を巧《たく》みに受け流しながら効果的な反撃を試みたりしていて、もしこいつの艦隊がなければ俺たちは今頃《いまごろ》宇宙空間を流れる星間物質の欠片《かけら》になっていたかもしれない。負けても敢闘賞《かんとうしょう》くらいならやってもいいんじゃないか。
「…………」
長門は呼吸をしていないような顔で両目をモニタに据《す》え付け、キーボードの酷使《こくし》を一時たりとも止《や》めることがない。これにはコンピュータ研の連中も意外だったろう。俺ですら意外に思っているのだ。
ハルヒの負けず嫌《ぎら》いがいつの間に長門にまで伝染してしまったのか、とね。
十六時三十分。
事態はいよいよ膠着《こうちゃく》の泥沼《どろぬま》にずっぽりとハマっているようだった。
先頭の <ユキ艦隊> が手強《てごわ》いと悟《さと》ったコンピュータ研は、 <敵B> 一部隊を対長門専門に残し、未《いま》だ行方《ゆくえ》の知れない旗艦艦隊 <敵A> を除いた三個艦隊が交互《こうご》に俺たちの左右を攻《せ》めるという時間差波状攻撃を仕掛け始めていた。まったく感心することに <敵C> <D> <E> の連携《れんけい》は熟練の腕前《うでまえ》だ。 <C> に対処しようとするとすかさず <D> が反対側から攻撃を加え、 <D> を追って進撃すれば <E> がさらに側面からビームを放つといった神出鬼没《しんしゅつきぼつ》ぶり、なんかもう手加減を知らない上級者と対戦ゲームやったってちっとも楽しかねえという気分を満喫《まんきつ》できる。少しは遠慮《えんりょ》しろと言いたいが、パソコン数台がかかっているからそうもいかないか。
しかし、これはかなりよろしくない状況《じょうきょう》である。負けるつもりが九割を占《し》めていたのは前述の通りだが、いくら負けるにしてももっとハデな展開を予測していたのだ。じゃんじゃん撃ち合ったあげく豪快《ごうかい》な撃沈《げきちん》とか、負けたけどいい汗《あせ》かいたし、まあいっか、お互《たが》いよく頑張《がんば》ったよ――みたいなやつをだ。
しかるに何だ、このチマチマとした体力削り作戦は。
「もう我慢《がまん》できないわ」
予想通りと言うか、ついにハルヒが麾下《きか》の旗艦艦隊に単純明快な指令を伝えた。
「全艦《ぜんかん》全速前進よ! キョン、そこ邪魔《じゃま》だからどいて! 敵の親玉を見つけ出して、タコ殴《なぐ》りにしてくるわ!」
<キョン艦隊> と <古泉くん艦隊> の間に割って入ろうとする <ハルヒ☆閣下☆艦隊> を、俺と古泉は小魚の群れ並に瞬時《しゅんじ》の連携で押し留《とど》めようとした。
「何すんのよ! 古泉くんまであたしの華麗《かれい》な戦いを妨害《ぼうがい》するつもり? いいからどきなさい。幕僚《ばくりょう》総長を解任するわよ」
「それは困りますね」
と言いながらも、古泉は自分の艦隊をハルヒ艦隊の進路上から移動させようとはしない。
「閣下、ここは我々にお任せください。不肖《ふしょう》この古泉、一命を賭《か》けても閣下を最後の最後までお守りする所存です。僕の進退に関しましては、戦闘《せんとう》終了《しゅうりょう》後に好きなようにしてください」
「そうだ」
俺も古泉の肩《かた》を持つ。
「少しでも勝率を上げたいのなら、お前はすっこんでろ。こっちはまだ敵の旗艦も発見できてねえんだぞ」
「だからあたしが発見してやるわよ。たぶんここらへんに――」と俺たちから見えないモニタの端《はし》っこを指差し、「――いると思うから、そこまで一直線に向かうの。それから偉《えら》い者同士、サシでドンパチしてやるわっ!」
どこ行く気かは知らんが、辿《たど》り着く前に <ハルヒ☆閣下☆艦隊> は冬眠《とうみん》前の熊《くま》に襲われたミツバチの巣のようになるんじゃなかろうか。
ハルヒは下からぐいぐいと艦隊を突《つ》き上げつつ、マウスを握《にぎ》った拳《こぶし》も突き上げていた。
「だからってじっとしてても同じことでしょ。さっきから見てたら何よ。この <キョン艦隊> 、敵に逃《に》げられてばかりじゃないのよ。それにどんどん戦力も減らされてるしさ。やっぱあたしが出て行かないとダメね」
「だからやめろって」
俺は自艦隊を操《あやつ》って旗艦艦隊の進路を塞《ふさ》ぎにかかり、さりげなく古泉も反対側から同じ動き、そんなことは知ったことかと <コンピ研連合> の三艦隊は一撃《いちげき》離脱《りだつ》攻撃《こうげき》を延々と繰《く》り返し、朝比奈さんの <みくる艦隊> はとうの昔に宇宙空間の迷子《まいご》となっていた。
「どこですかぁ? ああん、なんだかどっちが右なのかも解らなくなってきましたよう」
右隣《みぎどなり》の朝比奈さんは、俺のノートパソコンと自分のモニタを代わる代わる見て、半分ベソをかいた表情で、
「みなさん、どこ行っちゃったんですかぁ」
いやもう、ごめんなさい。朝比奈さんにおかれましては、どこでも好きな所を好きなように彷徨《さまよ》っていてくださいとしか。
<ハルヒ☆閣下☆艦隊> がギリギリと <キョン艦隊> の尻《しり》に食いついてくるおかげで、俺まで身動きが取れなくなってきた。ハルヒの盾《たて》代わりになってるようなもんだから、ひきもきらない敵襲《てきしゅう》によって俺のユニットを示す三角形はどんどん小さくなっていく。
「どきなさい!」
どきたくても動けねえ。薄情者の <古泉くん艦隊> は、ハルヒに追突《ついとつ》される前にちょこざいにも離脱しており、そ知らぬ顔で <敵D> と砲火《ほうか》を交えていた。ハルヒの足止め役を俺だけに押しつける気か。
「くそ」
俺は <ハルヒ☆閣下☆艦隊> と合体中の自軍戦力をなんとか自由にすべく、マウスの左ボタンを押しまくりながらポインタを適当な場所へと移動させる。 <キョン艦隊> のだいぶ収縮した三角形はナメクジの散歩みたいにのろのろと方向|転換《てんかん》するが、いかんせんナメクジだ。その間も敵側からロックオンされた俺の艦隊にビームとミサイルがばんばん飛んでくる。
こりゃ、負けたな。
俺が白旗を揚《あ》げたくなったのも仕方がないと納得《なっとく》してもらいたい。こっちの大将がこんなんでは、万に一つの勝機がこっちに舞《ま》い降りようとしてたとしても心変わりして逃げ出すってもんさ。なんでもそうなんだが、やはりトップは冷静でないと組織は円滑《えんかつ》に動かない。よく知らんけど、そんなもんじゃないのか?
俺とハルヒが現実でも電脳空間でもモメているこの時、SOS団内では大局的な視野の広さと冷静さを持ってゲームを進行させていたのは一人だけであった。
――と、思っていたのだが。
実はそうでもなかったらしいと俺が気づいたのは、テーブルの端《はし》にいる団員の指の動きがさらに加速して、ついには高感度カメラで撮影《さつえい》してからスロー再生しなければ見えないんじゃないかというレベルにまで到達《とうたつ》してからだった。
イライラが高じるあまり爆発《ばくはつ》するのはハルヒの役目であり専売特許であるはずだ。だが今回、それは必ずしも正解とは言えないようである。
今この場で誰《だれ》よりも激昂《げっこう》しているらしい人物、それは我がSOS団の誇《ほこ》る物知り情報|参謀《さんぼう》にして読書マニアの文芸部員――。
「…………」
長門有希だった。
十六時三十五分。
「うおう?」
信じがたい光景がモニタに忽然《こつぜん》と登場し、俺はうっかりマヌケな声を上げてしまう。
「なんだこりゃ」
<SOS帝国《ていこく》> 全軍の索敵《さくてき》終了《しゅうりょう》範囲が一気に三倍になっていた。出現と消失を繰り返していた敵 <C> <D> <E> の現在位置もばっちりだ。一つは左翼《さよく》方向から古泉部隊へ向けて射線を微調整《びちょうせい》中で、一つは離脱直後の反転を今まさに終えようとしているところで、一つはもつれ合っている <キョン艦隊《かんたい》> と <ハルヒ☆閣下☆艦隊> 目がけて進軍中である。でもまあ、なぜ敵の動きがそこまで解るようになってしまったかと言うと……。
<ユキ艦隊> が二十個に分裂《ぶんれつ》していた。
「これはこれは」
古泉の賞賛の声が俺には虚《うつ》ろに聞こえる。
「さすがは長門さん。よくこんなことをする気になりましたね。僕も一時は考えたのですが、あまりに煩雑《はんざつ》になるもんですから、立案時に放棄《ほうき》したんですよ」
「待てよ古泉」と俺。「こんなの、説明書に書いてあったのか?」
「ありましたよ。最後のほうにですが。やり方を教えましょうか。まずコントロールキーとF4キーを同時に押ししてからテンキーで分裂する艦隊の数を決定し――」
「いや、いい。俺はやる気がない」
もう一度、モニタをよく見てみる。
さっきまで <ユキ艦隊> だった三角ユニットが、不思議光線を当てられたみたいに縮小している。その代わりと言うと何だが、他《ほか》に同じものが二十個もある。試《ため》しにそのうちの一つを選んでマウスポインタを当ててやると <ユキ艦隊12> と表示された。
分艦隊?
01から20までにナンバリングされたその小三角形たちは、あるものは今まで通り <敵B> 相手に砲撃戦《ほうげきせん》を続行し、またあるものは敵艦の合間を縫《ぬ》ってまだ見ぬ宇宙へ飛び出し、他のあるものは左右に散開し、それからまた別のあるものは大きくターンして苦戦する <キョン艦隊> に加勢してくれるようだった。
古泉、説明しろ。
「ええとですね。一応ですが、艦隊ユニットを二つ以上に分け、個別に操作することができるようになっているのです。上限は確か二十でしたっけ。説明にそう書いてありました」
「何のメリットがあるんだ?」
「御覧《ごらん》のとおり索敵範囲が格段に向上します。それだけ目が増えるみたいなもんですからね。他にもありますよ。たとえば艦隊を二つに分けた場合ですと、一個を囮《おとり》にしてもう片方を敵の背後に回らせるとかですね。でもデメリットのほうが大きいのでコンピュータ研側も作戦に取り入れてないようです」
古泉は俺に顔を近づけ、ハルヒには届かないような声を潜《ひそ》めて、
「複数の艦隊操作を一人でしなければならないわけですよ? 一つでも動かしている間は残りを動かすことができず、単なる木偶《でく》の坊《ぼう》になってしまいます。ましてや二十個もの分艦隊を同時操作するなど、人間|技《わざ》では不可能ですね」
隣《となり》の部屋で肝《きも》を抜《ぬ》かれているであろう面々の表情を想像しながら、俺は横へ視線を滑らせた。
「おい、長――」
黙々《もくもく》とキーボードを叩《たた》き続ける長門の両指が生み出すスタッカートは、どんなに耳を凝《こ》らしてもカタカタカタ……ではなく、ガガガガとしか聞こえないまでになっていた。
「あ、あの……。そんなに力入れると壊《こわ》れるんじゃあ……」
おっかなびっくりと朝比奈さんが注進するが、長門は目もくれない。その目がどこを見ているかと辿《たど》れば、長門のパソコンが映しているのはゲーム画面ではなく、黒い背景に白い英数字|及《およ》び記号しかないという、なんだか大昔のコンピュータのBIOS設定画面のようなものだ。それがまた凄《すご》いスピードでスクロールしている。
「なに?」
と、長門は俺を見ずに訊《き》いた。
「……えーとだな」
あのー、長門さん? あなたは一体何をしておいでなのでしょうか。
心で呟《つぶや》く俺の独り言も思わず丁寧《ていねい》調になってしまうくらい、長門のキーを打ち込む姿からは無形のプレッシャーが感じられた。
ふと自分のモニタで確認《かくにん》すると、二十個に分散した <ユキ艦隊> はまるで命を吹《ふ》き込まれた茶柱のように生き生きと動き回って敵を翻弄《ほんろう》していた。すっかり画面の有無《うむ》など問題にしなくなっているらしい……って、ちょっと待てよ。俺はインチキはすんなって言っておいたぞ。
「していない」
と長門は呟いた。ここではじめて俺のほうを向き、しかし手の動きはそのままに、
「特別な情報操作をおこなっているわけではない。課せられたルールを遵守《じゅんしゅ》している」
長門の視線上から離《はな》れるように、朝比奈さんが小さな身体《からだ》を仰《の》け反らせている。長門は俺と目を合わせながら、
「私はこのシミュレーションプログラムに含《ふく》まれていない行動を取っていない」
「そ、そうなのか。そりゃすまなかった」
なんか怖《こわ》いオーラがショートカットの頭の上から立ち昇《のぼ》っているようでもあった。
しかし長門の表情も目の色も普段《ふだん》と変わりなく無機質で、にもかかわらずいつもなら「そう」とか言って再び黙《だま》り込むはずだが、この時ばかりは次のように言葉を続けた。
「インチキと呼ばれる行為《こうい》をしているのはわたしではなく、コンピュータ研のほう」
間のいいことに、ハルヒは自分のユニットを <キョン艦隊《かんたい》> から引き剥《は》がすことに成功し、
「遅《おそ》! どうしてこんな遅いの? パソコンに栄養ドリンク振《ふ》りかけたら速くなるかしら」
とか言いながら喜々として前線へと移動させるのに夢中のようだった。
俺は朝比奈さんの前に身体を乗り出して、長門に小声で質問した。
「奴《やつ》らがインチキしてるってのは、どういうことだ?」
超《ちょう》高速《こうそく》ブラインドタッチを寸時も停滞《ていたい》させることなく、長門は無表情に応《こた》える。
「彼らは我々のコンピュータ内に存在しないコマンドを使用し、この擬似《ぎじ》宇宙|戦闘《せんとう》を有利なものとしている」
「どういうこった?」
長門は一瞬《いっしゅん》沈黙《ちんもく》し、考えをまとめるように瞬《まばた》きして、
「索敵《さくてき》モード・オフ」
と呟いてから、続いて静かな口調で語ってくれた。
その説明によれば、コンピュータ研側が使っているゲームは最初からその「索敵モード・オフ」とやらの状態に設定されていたらしい。そんな切り替《か》えスイッチはもちろん俺たちのほうにはなく、だいたいオンとオフでどう違《ちが》うのかも解《わか》らん。何だそれは。
「オンにすれば索敵行動が義務づけられる。オフの場合はしなくていい。彼らは索敵システムを形骸《けいがい》化し、また必要としていない」
えーとだな、それはいったいどういうことか。
「索敵モードをオフにすれば、マップのずべてがライトアップ表示される」
つまり……、
「マップ全域のすべてが我々の艦隊位置を含めて最初から丸見え」
長門にしては解りやすい説明だ。
「それだけではない」
笑わない宇宙人製人工生命体は淡々《たんたん》と言い募った。
それによると <コンピ研連合> 側の艦隊にはワープ機能までついているそうだ。道理でやけに
タイミング良く姿をくらましていたと得心する。 <SOS帝国《ていこく》> とは技術レベルで五百年くらいの差はありそうだ。戦国時代の歩兵に自衛隊の機甲《きこう》部隊が襲《おそ》いかかっているようなものである。それでは勝てるはずがないじゃないか。
「そう」
長門も保証してくれる。
「我々には敗北以外の選択肢《せんたくし》がなかった」
なかった――か。過去形だな。それで? 今はどうなんだ。現在形で言い換《か》えて欲しいところだったが、長門の黒い瞳《ひとみ》に見たことのない感情の揺《ゆ》らぎを感じて俺はちょっと頭を引きつつ、
「でもな、長門。やっぱり宇宙的なパワーはなしにしたいと思うんだ。連中がズルしてるのはよく解ったよ。しかしさ、だからと言ってこっちがさらにインチキな魔法《まほう》を使って対抗《たいこう》しちまったら、結局連中と同じことになっちまうぜ。いやそれ以上だ。お前の手品は地球上の法則にあんまり則してやいないからな」
「あなたの指示に違反《いはん》することはない」
長門は即答《そくとう》した。
「地球の現代技術レベルに則《のっと》ってプログラムに修正を施《ほどこ》したいと思う。既知《きち》空間の情報結合状態には手を付けないと約束する。人類レベルの能力にあわせ、コンピュータ研究部への対抗|措置《そち》をとる。許可を」
俺に言ってんのか。
「わたしの情報操作能力に枷《かせ》をはめたのはあなた」
…………。
こいつと出会って半年以上が経《た》つ。その間で、俺は長門の無表情の奥に隠《かく》された微妙《びみょう》な感情変化――こいつにまともな感情があったらの話だが――を、曲がりなりにも多少は感じ取れるとそれなりの自負を覚えるようになっていた。このとき俺が長門の白い顔にピコ単位で見出したのは、紛《まぎ》れもない決意の色だ。
朝比奈さんが驚《おどろ》いた顔で俺を見ている。古泉も見ているが、ただしこいつは半笑いだ。ハルヒだけが何事かわめきながらビームとミサイルを景気よくまき散らしていて、ほどなく弾切《たまぎ》れで敵陣《てきじん》の真ん中で立ち往生することだろう。決断するに残された時間はあまりない。
何て答えよう……そう悩《なや》んだのは数秒間程度だった。長門はやる気になっている。こんな長門は初めて見た。思うに、これはいい兆候《ちょうこう》だという気がしてならないのだ。情報統合思念体に製造された人間そっくりの有機アンドロイド。案外こいつもベタなロボットにありがちな、人間になりたいと言う欲求が芽生えつつあるのかもしれない。
そして俺は、それがよくないことだなんて全然思わないのである。
「よし、長門。やっちまえ」
俺は励《はげ》ますような笑《え》みを浮《う》かべて太鼓判《たいこばん》を押した。
「この世の人間にできる範囲《はいんい》内で、なんでも好きなようにやれ。コンピ研に一泡《ひとあわ》吹《ふ》かせてやるんだな。二度と俺たちにクレームをつけることのないように、ハルヒが望むとおりの結末を見せてやるがいいさ」
長門は長い間、俺の主観では途方《とほう》も長く感じられた時間の間、俺を見つめていた。
「そう」
発したりアクションははなはだ短く、それから長門は実行キーをぱちんと押して、たったそれだけで形勢はいきなり逆転した。
十六時四十七分
狡猾《こうかつ》な罠《わな》はすでに仕組まれていたのである。
あまりの唐突《とうとつ》さに唖然《あぜん》とするほどだが、俺の驚愕《きょうがく》ゲージなどまだまだ修行《しゅぎょう》の足りない門前の小坊主《こぼうず》並くらいであろう。対戦相手のコンピュータ研連中は、今頃《いまごろ》世界|恐慌《きょうこう》二日目のウォール街程度にパニック状態に陥《おちい》っているに違いない。
すべては長門がさっきからやっていた分身の指術の結果だった。つくづく味方でよかった。お供え物の一つや二つ自腹を切って進呈《しんてい》してもいい気分である。今度|面白《おもしろ》そうな本を買ってきてプレゼントしてやるよ。そういやこいつの誕生日はいつってことになっているんだろうね。
まあ、それは後々考えることにして、状況《じょうきょう》説明に戻《もど》らせてもらう。
敵艦隊《てきかんたい》の数々はプレイヤーの茫然《ぼうぜん》さを体現するように動きを止めていた。
長門は自分のノートパソコンからコンピュータ研のパソコン五台に侵入《しんにゅう》をはたすと、稼動《かどう》している のプログラムを直接いじくったらしい。どうやったらそんなことができるのかは訊《き》くな。俺に解《わか》るわけがない。ないのだが目的はただ一つ、相手側の索敵《さくてき》モードをすべてオンにするためである。これにより <コンピ研連合> の可視範囲は大きく削《けず》り取られた。さぞ画面の暗闇《くらやみ》部分が増えたことだろう。連中は索敵艇《さくてきてい》を飛ばす必要がなく、また実際にまったく飛ばしていなかったとの情報|参謀《さんぼう》の報告だ。
長門はさらに相手側の「索敵モード」をオン状態のままで固定されるように奴《やつ》ら側のソースを書き換えてしまい、かつ自分以外の誰《だれ》にも修復できないようにロックした。ただしワープ機能は削除《さくじょ》するのではなく、ちょっぴり変更《へんこう》を加えてそのままにしておく。長門考案によるちょっとした謀略《ぼうりゃく》さ。
これらを全部、ゲーム中の二十個分艦隊を器用に動かしながら例の宇宙人的能力なしにやってのけたのだから、普通《ふつう》の人間シバリ付けたとしてもこいつはやはり尋常《じんじょう》ではないよな。
「さて、ようやくチャンス到来《とうらい》ですよ」
古泉が愉快《ゆかい》げな微笑《ほほえ》み混じりに画面上の状況をナレーションしてくれた。
「御覧ください <敵C> と <敵D> は無数の <ユキ分艦隊> に阻《はば》まれて我々の位置を見失っています。 <敵E> は僕と交戦中で、それから <敵B> ですが、このままですと間もなく <ハルヒ☆閣下☆艦隊> の射程に入ります」
「敵みっけ!」
ハルヒの喜びに溢《あふ》れた声が響《ひび》いて、古泉のセリフを証明した。
「撃《う》て撃て撃てー!」
モニタに額をつけんばかりにして、ハルヒは雄叫《おたけ》びをあげている。
鎖《くさり》から解き放たれた <ハルヒ☆閣下☆艦隊> はビームとミサイルは八方に撃ちまくりながら敵艦隊へと突入《とつにゅう》していった。泡を食った <敵B> は慌てて急速回頭、逃《に》げだそうするその先には俺の <キョン艦隊> が待ち受けている。
「そらよっと」
俺は人差し指をわずかに動かして、持てるビームのありったけを <敵B> の鼻先に撃ち込んでやった。
「こらキョン、それはあたしの獲物《えもの》よ! よこしなさい!」
挟《はさ》み撃ちにされた <敵B> は瞬《またた》く間に形を崩《くず》していく。ぶるぶる身をよじっていた <敵B> ユニットは、やがて小さなビープ音とともに爆散《ばくさん》した。一丁上がり。
さらなる獲物を求め、ハルヒは移動式打ち上げ花火装置と化した艦隊を今度は <敵E> の横腹へと転進させる。古泉と押し合いへし合いをしている <敵E> もまた、二正面作戦を強いられた結果としてざくざく艦数を減らしていった。
苦しげな挙動を見せていた <敵E> だが、ついに万策《ばんさく》尽《つ》きたと覚悟《かくご》を決めたのだろう。それまで決して <SOS帝国《ていこく》> 軍の目の前でだけは使わなかった隠《かく》しコマンドを強行した。
「あ、消えた! え? 何で?」
ハルヒが叫《さけ》び、俺はついにこの時が来たことを知った。それまで十字|砲火《ほうか》のただ中にいた空間から <敵E> が消滅《しょうめつ》している。
ワープってやつだ。もうちょっと凝《こ》った名前を付けたらいいのに、今どきワープもないだろうよ。
だが、これこそ長門の仕掛《しか》けた狡猾な罠の真髄《しんずい》だった。
「あれ。何か違《ちが》うのが出てきたわよ」
ハルヒの声を聞きながら、俺はすでに手を休めていた。
「きゃっ?」
朝比奈さんも可愛《かわい》く驚《おどろ》き、しきりに瞬《まばた》きしながらモニタを見つめる。
「キョンくん、なんかあたしが動かしてたやつ、どっかいっちゃいましたけど……」
ワープしたのは <敵E> だけではない。 <ハルヒ☆閣下☆艦隊> だけをそのままに、敵味方合わせてすべての艦隊が空間移動していた。
長門が変更したプログラム、それは『コンピュータ研のいずれかの艦隊がワープ機能を起動させれば、敵味方の区別なく <ハルヒ☆閣下☆艦隊> を除いたすべての艦隊も同時刻に、及《およ》び強制的にワープする。各艦隊におけるワープ後の出現座標は指定したコードに従う』、というものだった。
目には目を、インチキにはインチキを。ただしインチキすぎないように。
隣室《りんしつ》の驚愕《きょうがく》は索敵モードんときとは比べものにならんだろうな。俺は初めて目にしたコンピ研旗艦艦隊 <敵A> (ディエスなんとか)を画面上に発見し、その出現位置を確認《かくにん》して肩《かた》をすくめた。
「因果応報ってやつさ」
部長氏の <敵A> は <ハルヒ☆閣下☆艦隊> のド真ん前に登場させられていた。
その真後ろには同じように飛ばされてきた無傷の <みくる艦隊> がほとんど触《ふ》れあうような距離《きょり》にいて、さらにショートワープした <古泉くん艦隊《かんたい》> によって右舷《うげん》に狙《ねら》いを定められ、反対側の左舷|攻撃《さげん》を担当するのは再び合体した <ユキ艦隊> であり、斜《なな》め横には添《そ》え物程度に小さくなった <キョン艦隊> が控《ひか》えている。コンピュータ研の他の連中がどこにいるかを探せば、広いマップの遥《はる》か片隅《かたすみ》に四艦隊|揃《そろ》って瞬間《しゅんかん》移動を遂《と》げていた。そこまで行ってたらもうどうやっても間に合うまい。
<SOS帝国> 軍全艦による包囲網《ほういもう》の中で <敵A> 一個艦隊のみが立ち往生していた。
「なんかよく解《わか》んないけど」
ハルヒは舌なめずりせんばかりの溌《はつ※》[#「_※」は「さんずい+發」、第3水準1-87-9]剌《らつ》とした表情となって、大きく片手を振《ふ》り上げた。
「全艦全力射撃! 敵の大将を地獄《じごく》の業火《ごうか》で焼いてあげなさい!」
その合図とともに、ハルヒ、古泉、俺、長門の艦隊が一斉《いっせい》に武装の限りを放出した。あわあわしていた朝比奈さんも、長門の「撃て」という冷たい声にビクッとなりながら、この日初めての攻撃を四面《しめん》楚歌《そか》の <敵A> にたっぷりとお見舞《みま》いする。
「ごめんなさい……」と朝比奈さん。
何が何だか解っていないのはコンピュータ研部長だろうな。奥のほうで高みの見物を決め込んでいたらいきなりインチキ索敵《さくてき》が解除され、何もしてないのに突然《とつぜん》ワープしたあげく敵陣《てきじん》の真ん中に出現してしまったのだから。
「や、……」
れやれ、と続きそうになって言葉を飲み込んだ。古泉がニヤリと微笑《ほほえ》みかけてくる。無視だ無視。
画面に注意を戻《もど》すと、部長氏の <敵A> 艦隊は、前後左右の至近距離ビームのシャワーとミサイルの雨をくらい、ひっくり返った草ガメのようにのたうちまわっていた。うーん自業自得と言っても今回ばかりはいいんじゃないかなあ。アンフェアなことを企《くわだ》てたのはそっちが先だしさ。でもまあ、存在している段階ですでにアンフェアな長門有希を持っていたこっちもあんまり偉《えら》そうな顔はできないか。
長門の速射砲《そくしゃほう》的キータイピングが、とうとう最後まで休憩《きゅうけい》なしでいっちまった。 <敵A> 艦隊はバルカン砲の残弾《ざんだん》カウンターのように見る見る数を減らしていき、最後に残った一|隻《せき》を <ユキ艦隊> のドット単位の精密照準されたビームに狙撃《そげき》され、それが敵旗艦の最期《さいご》の見納めとなった。
ちょろいファンファーレが鳴り響《ひび》き、五台のモニタに輝《かがや》かしい文字が表示されてゲームは終わる。
『You Win!』
十七時十一分。
決着がついてから約十分後、部室のドアをノックする者がいた。
よろよろと入ってきたのはコンピュータ研の連中であり、中でも部長氏はやけっぱちのような口調で、
「負けたよ。完全にウチの負けだ。潔《いさぎよ》く認める。すまない。謝る。勘弁《かんべん》して欲しい。この通りだ。キミたちを甘く見ていた。間違《まちが》っていた。完敗もいいところだった」
頭を下げる部長氏の前で、ハルヒは日時計のように鼻高々と立っていた。睥睨《へいげい》するハルヒ閣下の視線を浴びて、コンピュータ研の部員たちは体調のよくなさそうな顔色でうなだれる。
「あんなに見事にスッパリとすべてを見透《みす》かされていたなんてね……。僕たちが姑息《こそく》な手段を使っていたことは申し開きしようもない事実だ。でもまさか……。プレイの最中にゲームの中身を書き換《か》えられるとは……。信じられないけど……これも事実か……」
虚構《きょこう》の別世界にイってしまったような目で部屋を見回す部長氏に、ハルヒは眉毛《まゆげ》を片方だけ吊《つ》り上げて、
「何ブツブツ言ってんの? 負けたイイワケなんか聞きたくないわよ。でさ、約束は覚えているわよねえ?」
楽しそうに指をちっちっと振っている。勝った嬉《うれ》しさに浸《ひた》るあまり、とんでもなく不自然な勝ち方をしたことに対する疑問は頭のどこを探しても見つかりそうにない。こいつにしてみれば、ようするに勝ったもん勝ちなのである。
「もう文句はないでしょ? このパソコンはあたしの物で、それからノートパソコンもあたしたちの物よね。忘れたとは言わせないし、言ったらかなりキッツい目にあわせるわよ。そうねぇ、手始めに『緑色のコビトが追いかけてくる』と叫《さけ》びながら素《す》っ裸《ぱだか》で校庭を十週するの刑《けい》に処すわ」
無体な言葉にコンピュータ研部員たちはさらに首を前倒《まえだお》し。それを気の毒に思ったのか気詰《きづ》まりだったのか、
「あ……、そだ。お茶でもいかがですか?」
気ぃ遣《つか》いの朝比奈さんが立ち上がって湯沸《ゆわ》かしポットへ向かい、苦笑《くしょう》を浮《う》かべた古泉がガラクタ入れの中から紙コップのパックを取り出していた。長門はパイプ椅子《いす》に座ったまま、ハルヒの前に整列して頭を垂れる男子生徒たちを冗談《じょうだん》の通用しそうにない目で見つめている。
ハルヒはなおも上機嫌《じょうきげん》に演説をしているが、その部員たちの列から一人、部長氏がゆらりと離《はな》れて俺のもとに近寄ってきた。
「なあ、キミ」と彼はか細い声で、「あれをやったのは誰《だれ》なんだい? 世界でも通用しそうな凄腕《すごうで》ハッカーは。……いや、だいたい想像はつくんだが……」
長門がゆっくりと俺を見上げ、部長氏は長門を見ていた。
まあな。どうやら部外者から見ても、こんな頭良さげなことをしそうなのは長門が最有力候補に見えるようだ。
「ものは相談だが」
部長氏は長門に向かって
「キミがヒマなときでいい。たまにでいいのでコンピュータ研の部活に参加してみないか? いや、してくれないか?」
なんか勧誘《かんゆう》し始めた。さっきまで炎天下《えんてんか》に三日間放置された冷凍《れいとう》サンマみたいだった目の色が活気づいている。人間心底参ってしまうと開き直るしか手だてがないのかもな。
長門はモーター内蔵のような動作で顔の向きを部長氏へ移動させ、その動作を逆回転させるようにして俺に向き直った。何を言うでもなく、闇《やみ》ガラスのような瞳《ひとみ》に物問いたげな光だけを反射させて、じいっと俺を見つめている。
「…………」
なんだろう。念波でも送っているつもりなのか。それとも判断の是非《ぜひ》を俺にゆだねる意思の現われなのか。そんな顔されても(といっても無表情だが)困るぜ。お前への問いかけなんだ、そんなもん自分で判断すればいい。むしろ、そうすべきだ。
俺が長門をならって無言の光線を返答として送っていると、
「ちょっとちょっと、そこで何やってんのよ」
ハルヒが俺たちの間に割って入った。
「勝手に有希をレンタルしちゃだめよ。そういう話はまずあたしを通しなさい」
やはりデビルイアー、聞こえていたらしい。ハルヒは腰《こし》に両手を当て、いっそ誉《ほ》めたいくらいの偉《えら》そうなポーズで、
「いい? この娘《こ》はSOS団に不可欠な無口キャラなの。あたしが最初に目を付けたんだからね、後から来たって遅《おそ》いわよ。どこにもやったりしないんだから!」
お前が目を付けたのは部室であって長門ではなかったはずだが。
「いいの! 有希|込《こ》みでこの部室をもらったんだから。あたしはこの部屋にあるものは、たとえ泡《あわ》の抜《ぬ》けたコーラでも誰かにあげたりしないわよ」
それはあたしのだから、と誰にはばかることなくセーラー服の胸元《むなもと》を威勢《いせい》良く反らすハルヒだった。
「まあ、待て」
俺は言った。そして考えた。
これでも俺は長門の表情を読むことにかけては誰よりも自信を持っているつもりだ。なんたって三年前の長門有希に出会ったことのある男なのだ。感情の顔面的表現をほぼ完璧《かんぺき》に抑《おさ》えている長門だが、まったく無感情でもないらしいと俺は感づいていて、ループモードの夏休み事件でもそうだったし、今回のゲーム対決でもなんとなく解《わか》った。そう、いつだったか、市立図書館に誘《さそ》ったときにも感じたことだ。
長門にだって興味を惹《ひ》かれるものが少なからずある。
コンピュータ研との 対戦で誰よりもムキになっていたのはハルヒではなく長門だ。読書以上の熱意を傾《かた》けていたキーパンチ。それがインチキトリックの封印《ふういん》を申し伝えた俺の言葉に由来するのかどうかは解らん。しかし俺にはキーボードを叩《たた》くその姿がなぜか楽しそうに見えたのだ。小難しい本を読む以外の新しい趣味《しゅみ》がこいつに芽生えたのだとしたら、別に否定するものではないんじゃないか? このSOS団アジトで部屋の付属品になっているよりも、他者と接することで学校生活にわずかでも溶《と》け込むほうがこいつにとっても喜ばしいのではないだろうか。
いつまでも涼宮ハルヒの監視《かんし》だけでは、長門だって疲《つか》れるに違《ちが》いない。宇宙人製有機ヒューマノイドインターフェースだって、たまには気晴らしが必要だ。
「お前の好きにしろ」
今日ばかりは部長氏の肩《かた》を持つことにした。
「パソコンいじりは楽しかったか? なら、お前の気の向いたときでいい、お隣《となり》さんに行ってコンピュータをいじらせてもらえ。自主制作ゲームのバグ取りでもしてやったら感謝されるぞ。きっとこれよりも高性能な遊び道具が揃《そろ》ってるだろうし」
長門は無言で、だが微細《びさい》に表情を揺《ゆ》れ動かしながら俺を見ている。それでいいのかと訊《き》いているようでもあり、どうすればいいのかと尋《たず》ねているようでもあった。揺らめく影《かげ》めいたものが長門の黒|飴《あめ》みたいな瞳を通り過ぎたような気がした。
ずいぶん長い刻《とき》が流れたように感じたが、実際は瞬《まばた》き三回分くらいだったろう。
「……そう」
何がそうなのかと問いただす前に、長門はかくりとうなずき、部長氏を見上げてオクターブの変わらない声でこういった。
「たまになら」
当然ならがハルヒはゴネた。
「勝ったのはあたしたちなのに、どうして大切な団員をレンタルしないといけないのよ。レンタル料は高いわよ。そうね、一分につき千円が最低ライン」
分給千円なら俺が買って出たいね。
「涼宮閣下」
お茶をすすっていた古泉が得意の笑顔《えがお》を振《ふ》りまきながら近づいた。
「閣下たるもの、時には敗軍の健闘《けんとう》を讃《たた》えることも必要かと存じます。ただ強いだけでなく度量の広さを見せつけるのもトップに立つ者の条件の一つですよ」
「え、そうなの?」
ハルヒは口をアヒルのクチバシ状にしながら、
「まあ、有希がいいんならいいけど……。でも! ノートパソコンは返さないわよ。あ、それからね、」
話している最中に名案を思いついたらしい。ハルヒは部長氏をにらみながらニンマリと笑顔を作る。いそがしい顔面だね。
「いい? あんたたちは敗残兵、勝者の言うことは何でも素直《すなお》に聞かないといけないの。それが戦争ってもんよ」
お盆《ぼん》をしずしずと持ってきた朝比奈さんからお茶(雁音《かりがね》だったか?)をひったくってガブガブ飲みつつ、
「あんたたち全員、今後あたしに絶対的な忠誠を誓《ちか》いなさい。うん、悪いようにはしないわ。あたしは実力主義だからね、がんばりようによっては正式な団員にしてあげてもいいわよ。たとえば……そうね、生徒会と全面戦争するときはあたしの手足となって働くの。それまでは準団員ね」
この調子で全校生徒SOS団団員化を企《くわだ》てているのではないだろうな、という俺の危惧《きぐ》も知らずにハルヒは意気|揚々《ようよう》と、
「古泉くん、さっそく調印書を作ってちょうだい」
「かしこまりました、閣下」
幼少の皇帝《こうてい》を意のままに操《あやつ》る外戚《がいせき》宰相《さいしょう》のような笑みで返答し、古泉はさっそく自分の物になったばかりのノートパソコンになにやら打ち込み始めた。
翌日以降も部室の風景が格別に変化するということはなかった。猫《ねこ》に小判状態のノートパソコンが無駄《むだ》に増えただけである。朝比奈さんはメイドルックであちこちハタキがけしてからヤカンをカセットコンロにかけ、古泉は一人バックギャラモンをやってて、長門はテーブルの隅《すみ》で黙然《もくぜん》と読書にふけりつつ、次にハルヒが何か言い出すまでのつかの間の平穏《へいおん》を楽しんでいた。
そんな変哲《へんてつ》のないSOS団的日々の放課後で、ごくまれに読書好き宇宙人の姿を見失うときがある。いないなと気づいた数分後には、またふらりと現れて読書を再開するから、俺の認識《にんしき》上ではやはり長門はこの部屋の真の主のようなものだった。
「…………」
海外ミステリ小説を原書で読む長門の見た目は、ぱっと見、何も変わっていない。中身が変わりつつあるのかどうかは……さて。俺にも解《わか》りようはないな。
長門は相変わらず、ここにこうしてちゃんといる。気まぐれな微風《そよかぜ》のようにお隣《となり》にも顔を出しているらしい。それで充分《じゅうぶん》さ。
「キョンくん、どうぞ。今回は中国のお茶に挑戦《ちょうせん》してみました。ふふ……どう?」
控《ひか》え目に微笑《ほほえ》む朝比奈さんからマイ湯飲みを受け取り、ゆっくりと味わいながら飲んでみても今までの茶葉とどう違《ちが》っているのか俺の舌はとりたてて感激したりはしなかった。あなたのくれるものなら雑草ジュースだって美味に思えるに決まってますよ。
俺は感想を心待ちにしている顔の朝比奈さんになんと返答したものかとボキャブラリーを探《さぐ》りながら、当分は変な事件に巻き込まれることもないだろうと考えていた。
その予感が大間違いだったと判明したのは、それから一ヵ月後、冬休みとクリスマスの押し迫《せま》った師走《しわす》の半ばのことである。
涼宮ハルヒの存在を見失ったとき、俺はそれを悟《さと》ることになった。