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第 六 章


 シャリシャリ。
 耳に涼《すず》しい音が届いている。
 闇《やみ》の中、浮上《ふじょう》しつつある意識の端《はし》っこで、俺はぼんやりと考えていた。
 夢だったのかもしれない。何だか物凄《ものすご》く面白《おもしろ》い夢を見ていたことを覚えていて目覚め後五分くらいはスゲーとか思っているのだが、歯を磨《みが》いているあたりで徐々《じょじょ》にディテールがあやふやになって飯|喰《く》っているうちに霧散《むさん》していき、気が付けばそれは「物凄く面白い夢だった」という輪郭《りんかく》だけしか残っていない。そんな経験なら何度もある。
 そしてちっとも面白くない夢なのに詳細《しょうさい》が明確にいつまでも脳裏《のうり》にこびりついていることだって何度もあった。あるいは夢のようで夢でないものだったのかもしれない。ハルヒと閉鎖《へいさ》空間に籠《こ》もらされたあの夜のような、実際にあって、しかしなかったことになっている、あの記《き》憶《おく》のように。
 俺が目を開けたとき、最初に思ったのはそんなことだった。
 白い天井《てんじょう》が見える。自宅の俺の部屋ではない。朝か夕方か、透明《とうめい》感のあるオレンジ色の光が天井同様白い壁《かべ》を彩《いろど》っていた。
「おや」
 徐々にはっきりしてくる頭に、その声は敬虔《けいけん》な信徒が聞く教会の鐘《かね》の音のように安らぎに満ちて聞こえた。
「やっとお目覚めですか。ずいぶん深い眠《ねむ》りだったようですね」
 俺は首をねじ曲げて声の主を探した。そいつは横たわる俺の脇《わき》にいて、椅子《いす》に座ってリンゴの皮を果物《くだもの》ナイフで剥《む》いていた。シャリシャリ。つるつると赤い皮が切れずに垂れ下がる。
「お早うございますと言うべきでしょうか。夕方ですけど」
 古泉一樹の、穏《おだ》やかな微笑《ぴしょう》がそこにあった。
 見る見るうちに古泉はリンゴを一個|丸裸《まるはだか》にすると皿に載《の》せ、引き出されたサイドテーブルに置いた。そして紙袋《かみぶくろ》から二個目のリンゴを取り出して俺にニッコリ笑いかけた。
「目を覚ましていただいて助かりました。本当に、どうしようかと思ってたのですよ。おっと……、ぼんやりなさっておられますが、僕が誰だか解りますか?」
「お前こそ、俺が誰だか知ってんのか?」
「変なことを言いますね。もちろんです」
 この古泉がどちらの古泉なのか、それは格好を見れば解った。
 紺《こん》ブレザーの制服姿。黒い学ランではない。
 それは北高の制服だ。
 俺は被《かぷ》さっている掛《か》け布団《ぷとん》から片手を出した。点滴《てんてき》のチューブがぶら下がっている。それを見つめながら、
「今はいつだ」
 古泉はこいつにしては驚《おどろ》いた表情となって、
「目覚めて最初の質問がそれですか? まるで自分の置かれている状況《じょうきょう》を把握《はあく》しているようなセリフですが、お答えしますと今は十二月二十一日の午後五時過ぎです」
「二十一日か……」
「ええ、あなたが意識不明になってから、今日で三日目ですね」
 三日目? 意識不明?
「ここはどこだ」
「私立の総合病院です」
 俺は周囲を観察した。なんだか立派な一人部屋、そのベッドの上で俺は寝ている。個室に入れられてるとはな。我が家にそんな財源があったとは知らなかった。
「僕の叔父《おじ》の知り合いがここの理事長なので特別に便宜《べんぎ》を図《はか》ってくれた――ということになっています」
 では、そうじゃないんだな。
「ええ。『機関』に頼《たの》んで手を回してもらいました。一年くらいは格安で寝泊《ねと》まりできますよ。とは言え、三日で済んで僕も胸をなで下ろす気分です。いえ、お金の問題ではありません。僕がついておきながら何をしてたんだとね、上に散々言われました。始末書ものですよ」
 二十一日の三日前は十八日だ。その日の俺に何が起きたのかと言うと……。ああ、そうか、俺は出血多量で死にかけて、それで病院に担《かつ》ぎ込まれた……いや、待て、おかしい。
 俺は着ている病院服を怖々《こわごわ》とめくり、右脇腹《みぎわきばら》に触《ふ》れてみた。
 何ともない。こそばゆいだけで痛くも痒《かゆ》くもない。三日で治る傷じゃないはずだ。誰《だれ》かが修理してくれたのではない限り。
「俺がここにいる理由は何だ? 意識不明だって?」
「やっぱり覚えてないんですか? 無理もありませんね。ひどく頭を打ったみたいですから」
 俺は頭に手をやった。こちらも髪《かみ》の毛しかなかった。包帯が巻かれていたりメッシュをかぶらされているわけでもない。
「そうなんです。不思議なことに外傷はまったくなかったんです。内出血もありませんでしたし、脳機能に異常も見られませんでした。どこが悪いのか、担当医も首を傾《かし》げていましたよ」
 ですが、と古泉は言った。
「僕たちはあなたが階段から転がり落ちるところを目撃《もくげき》しました。それはもう、見事なばかりの階段落ちでしたね。正直言いまして青ざめました。なんとなく、そのまま永眠《えいみん》してもおかしくないようなすごい音がしましたからね。その時の状況を言いましょうか?」
「言え」
 部室|棟《とう》の階段を下りている最中《さなか》に俺は足を滑《すペ》らせたか何かして段差を踏《ふ》み外した。そのまま頭から転がり落ちると、後頭部を踊《おど》り場の床《ゆか》に、ガーン! とぶつけて動かなくなった。
 古泉の説明によるとそういうことになっているらしかった。
「大変だったんですよ。救急車を呼んだり、ぐったりしたあなたに付き添《そ》って病院まで来たりね。血の気の失《う》せた涼宮さんなんてものを初めて見ましたしね。ああ、救急車を呼んだのは長門さんです。彼女の冷静さには救われました」
「朝比奈さんはどんな反応をしてた?」
 古泉は肩《かた》をすくめて、
「あなたが思い描《えが》く通りだと思いますよ。泣きながら取りすがってあなたの名前を呼び続けていました」
「それが起きたのは十八日の何時|頃《ごろ》の話だ。どこの階段だ」
 矢継《やつ》ぎ早《ばや》に質問する。十八日と言えば世界が変わっちまって俺が慌《あわ》てふためいていた初日である。
「それも覚えていないんですか? 昼過ぎのことです。SOS団全体会議を終えた僕たちは五人で買い物に出かけようとしていたんです」
 買い物?
「それすら記憶《きおく》から飛んでしまいましたか。よもやとは思いますが、忘れたふりをしているんじゃないでしょうね」
「いいから続きを教えろ」
 唇《くちびる》を緩《ゆる》めて古泉は笑う。
「その日の会議の主題は、ええとですね、二十五日のクリスマスの日に涼宮さんの地元で子供会の集会があるんですが、そこに我々SOS団がゲスト出演するというものでした。朝比奈さんのサンタ衣装《いしょう》を有効利用しようというわけです。彼女がサンタ役を演じ、子供たちにプレゼントを配るという心温まるイベントですね。涼宮さんが手配をつけてきました」
 いつも通り、勝手なことをしやがる。
「ですがサンタ一人ではリアリティに欠けると思ったのでしょう。涼宮さんは誰かにトナカイの着ぐるみを着せ、朝比奈さんを乗せて会場に登場するというシナリオを書いていました。クジ引きで決めたんですが誰がその役を射止めたか、それはどうです? 思い出してきましたか?」
 さっぱりだな。元々ない記憶を思い出すことが出来たら、そいつは立派な詐話師《ぺてんし》だ。別の病棟《びょうとう》に入院する必要がある。だがこの古泉に言っても詮《せん》ないことだった。
「まあ、あなたになったんですけどね。そういうわけでトナカイの着ぐるみを手縫《てぬ》いすることにしたんですが、そのための材料を街まで買いに行こうと部室棟の階段を下りていたとき、あなたが落ちてきたんです」
「間抜《まぬ》けな話だ」
 そう言うと古泉は小さく眉《まゆ》をひそめた。
「あなたは最後尾《さいこうぴ》を歩いていました。ですから、その時の様子を見た人は誰もいません。我々の横を、こう、」古泉は右手に持ちかえたリンゴを転がり落として左手で受け止めるというパフォーマンスを演じ、「ゴロゴロと転がり落ちてきたのです。ですけどね、」
 再びリンゴの皮むきを始めながら古泉は、
「ピクリともしないあなたに駆《か》け寄った後、階段の上に誰かがいたような気がしたと涼宮さんは言っていました。踊り場の角で制服のスカートが一瞬《いっしゅん》翻《ひるがえ》って、すぐに引っ込んだような気がするとね。僕も気になって調べてみたんですが、その時間の部室棟には我々以外誰も残っていませんでしたし、長門さんも首を振《ふ》りましたね。幻《まぼろし》の女ですよ。誰かに突《つ》き落とされたかどうか、あなたの証言待ちだったんですが……」
 覚えていない。ここはそう言っておくのがベストなんだろう。ただの事故。俺の不注意が招いた単なる自損事故だ。てことにしておけ。
「見舞《みま》いはお前だけか?」
 ハルヒは、と言いかけてすんでのところで唇を止める。だが古泉はくすりと笑みを落とし、
「さっきから何をキョロキョロしているんです? 誰《だれ》をお捜《さが》しでしょう。ご心配なく。僕たちは時間交代であなたを見舞うことにしているのです。あなたが目を開けたときに誰かが側にいるようにね。そろそろ朝比奈さんが来る頃合いです」
 古泉の視線が妙《みょう》に気になった。エイプリルフールの嘘《うそ》話をあっさり信じ込んだ友人を見て心で舌を出しているような、その目は何だ?
「いえ、あなたを羨《うらや》ましく思っているだけです。羨望《せんぼう》と言ってもいいでしょう」
 この状況《じょうきょう》で言うセリフじゃないだろ。
「僕たち団員は交代制ですが、団長ともなると部下の身を案じるのも仕事のうちだそうでして」
 古泉は剥《む》き終えたリンゴを几帳面《きちょうめん》に切り分け、ウサギの彫刻《ちょうこく》を施《ほどこ》してから台の上の皿に置くと、
「涼宮さんならずっとここにいます。三日前から、ずっとね」
 指差された方角を俺は見た。古泉から俺のベッドを挟《はさ》んで反対側。その床《ゆか》。
「…………」
 いた。
 寝袋《ねぶくろ》にくるまったハルヒが、口をへの字にして眠《ねむ》っていた。
「心配していたのですよ。僕も彼女も」
 哀愁《あいしゅう》に満ちた口調が芝居《しばい》くさい。
「特に涼宮さんの動揺《どうよう》ぶりと言ったら……いえ、これはまたの機会にお話ししましょう。とにかく今は、あなたが真っ先にしないといけないことがあるでしょう?」
 誰も彼《か》もが俺に指示をしたがる。朝比奈さん(大)や、この古泉や……。だがそんなツッコミは封印《ふういん》だ。古泉が切りすぎているリンゴを誰が喰《く》うんだというくらいのどうでもいいことだった。
「そうだな」と俺は言った。
 寝顔《ねがお》にイタズラ書き……ではない。それもまた、別の機会でいいだろう。これから何度だって来るさ、そんなチャンスはな。
 俺はベッドに座ったまま手を伸《の》ばし、怒《おこ》ったような顔で眠る顔に指先を触《ふ》れさせた。
 ポニーテールには足りない長さ。俺の目にはたまらなく懐《なつ》かしい。その黒髪《くろかみ》がむずかるように揺《ゆ》れた。

 ハルヒが目を覚ます。


「……ぉが?」
 何やら呻《うめ》きながら薄目《うすめ》を開いたハルヒは、自分の頬《ほお》をつねっているのが誰だか気づいた途端《とたん》、
「あ!?」
 寝袋に入っていることを忘れていたらしい。バネ仕掛《じか》けのように起きあがろうとしてあえなく失敗、ごろんと横回転してシャクトリ虫のように蠢《うごめ》いていたがワタワタと這い出して、すっくと立ち上がるや否《いな》や、俺に人差し指を突きつけて叫《さけ》んだ。
「キョンこらぁっ! 起きるなら起きるって言ってから起きなさいよ! こっちだってそれなりの準備があるんだからね!」
 無茶《むちゃ》を言うな。だが、そんなお前の大声が現在の俺には何よりの薬だ。
「ハルヒ」
「何よっ」
「ヨダレを拭《ふ》け」
 唇《くちびる》と眉をぴくぴくさせながらハルヒは口元を慌《あわ》ててぬぐい、そのまま顔をべたべたなで回しながら俺を睨《ね》め付けた。
「あんた、あたしの顔にイタズラ書きしてないでしょうね」
 したかったけどさ。
「ふん。で、他に言うことはないの? あんたさあ、」
 思った通りに答えた。
「心配かけたようだな。すまなかった」
「わ、解《わか》ってるんだったらいいわよ。そりゃそうよ、団員の心配をするのは団長の務めなんだから!」
 ハルヒの怒鳴《どな》り声を耳に心地《ここち》よく聞いていると、ドアをノックするか弱い音がした。古泉が如才《じょさい》なく立ち上がってスライド式ドアを引く。
 そこに立っていた第三の見舞客《みまいきゃく》は、俺を見るなり、
「あ。あっあっ」
 うろたえた声を出して、花瓶《かぴん》を抱《かか》えたまま戸口に立ちつくした。ふんわりした髪《かみ》、奇跡《きせき》のように愛らしい童顔、背は低いけどグラマラスな北高の上級生。
「やあ……。朝比奈さん。どうも、」
 久しぶりなのかどうなのか、今の俺にはまったく解りませんけどね。
「ふえ……」
 朝比奈さんはポロポロ涙《なみだ》をこぼし始め、
「よかった……。本当に……よかったあ……」
 いつかみたいに抱《だ》きついて欲しいところだったし朝比奈さんもそうするつもりだったのかもしれないが、すっかり花瓶を離すことを忘れているみたいで、ただただ泣き続ける彼女だった。
「大げさねえ。ちょっと頭打って昏倒《こんとう》しただけじゃん。あたしはちゃんと解ってたわ。このキョンが目を覚まさないわけはないの」
 ハルヒはどこかうわずった声で、俺を見ずに言う。
「だってあたしが決めたから。SOS団は年中無休なんだからね。絶対みんなが揃《そろ》ってないといけないの。頭打ったからって、眠りっぱなしになってるからなんて、そんな理由じゃ病欠は認めらんない。解ってる? キョン、三日分の無断欠席は高くつくわよ。罰金《ばっきん》だからね、罰金! それと延滞料《えんたいりょう》も!」
 古泉は軽やかに微笑《ほほえ》み、朝比奈さんは大粒《おおつぶ》涙《なみだ》を床《ゆか》に落とし続け、ハルヒはあらぬ方角を向いて一見怒っているように見える。
 その全員を見ながら、俺はうなずいて肩《かた》をすくめた。
「解ってるよ。延滞込みで、いくら払《はら》えばいいんだ?」
 ハルヒは俺を睨《にら》み、嘘《うそ》のような笑顔となった。単純な奴《やつ》だ。
 その場で俺は人数分茶店|奢《おご》り三日間を言い渡《わた》され、どうやら定期を解約しないといけないらしいと考えていると、
「それからね」
 まだあるのか。
「うん、だって心配料は別枠《べつわく》だもん。そうだわ、キョン。クリスマスパーティでね、あんたトナカイの衣装《いしょう》着てあたしたちの前で一発芸を披露《ひろう》しなさい。あたしたち全員が大ウケするまで何回でもやり直しなんだからね! つまんなかったら異次元にすっ飛ばすわよ! ついでだから子供会でもやんなさい。いいわねっ!」
 ハルヒはプリズムのように瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせ、再び俺に人差し指を突《つ》きつけた。


 目が覚めたはいいが即《そく》退院とはいかない。駆けつけた医師による問診《もんしん》の後、俺は検査室に運び込まれて様々な機械にかけられた。改造人間にでもしようかというような勢いすら感じられ、俺はほとほとウンザリする。おまけに、もう一日が様子見と各種検査によって費《つい》やされることになって、今夜も病室で寝《ねと》泊まりしないといけないらしい。今夜もと言いつつ俺にとっては今日が初めてだし、入院なんかしたこともなかったからいい機会かもしれない。
 ハルヒと古泉、朝比奈さんは、俺のオフクロと妹が来るのと入れ違《ちが》いに帰ってった。いちおう遠慮《えんりょ》したものと見えるが、そんな神経がハルヒにあったとは驚《おどろ》きだ。
 妹と母親の相手をしながら、俺は脳を回転させている。
 あのままだったらどうだろう。長門と朝比奈さんと古泉は単なる一人間で、非常識な正体をハナっから持っていない。長門は無口な本好き文芸部員、朝比奈さんは高嶺《たかね》の花の上級生、古泉は他《ほか》の学校の単なる転校生。
 そしてハルヒも性格がちょっとヒネているだけの女子高生だったとしたら。
 そこから始まる物語もあったかもしれない。現実|認識《にんしき》がどうのこうの、世界の変容がああだこうだといった、歪《ゆが》んだ日常とは無縁《むえん》の物語。
 きっとそこには俺の出番はまるっきりないのだ。俺は淡々《たんたん》としたスクールライフを送り、淡々と卒業していったことだろう。
 それのどちらが幸せだったのか。
 もう解っている。
 俺は『今』こそが楽しかった。そうとでもしないと、死にかけてまで俺のやった行為《こうい》はすべて無駄《むだ》になってしまうじゃないか。
 ここで質問だ。キミならどちらを選ぶ? 答えは明らかなはずだろう。それとも俺一人がそう思っているだけか?


 やがて我が家族も帰途につき、消灯時間を迎《むか》えた病室で俺は天井《てんじょう》を見上げていた。することもないので目を閉じて暗闇《くらやみ》を求める。
 俺のこの三日間。この世界の俺はその三日間をずっと眠《ねむ》って過ごしていた、らしい。
 ならば――。
 そうなるように改変しなければならない。
 この世界は二度改変されている。あの長門が歪めた世界を再び改変して元に戻《もど》した世界が、ここだ。では誰《だれ》が二度目の再改変をやったのか?
 ハルヒではない。あの三日間のハルヒにそんな力はなかったし、ここのハルヒは改変されたことを知らない。
 では誰が?
 朝倉のナイフ一閃《いっせん》を素手《すで》で止めてくれたのは、そんなことが出来そうなのは、それをするだろう奴は――。
 長門しかいない。
 そして俺が意識を失う前に見た二人の朝比奈さん。大人でないほうの朝比奈さん、あれは俺の朝比奈さんだ。この世界にいる、俺がよく知っている愛らしい未来から来た上級生だ。
 加えてもう一人、あの声の主もそうだ。最後に俺に呼びかけた、どっかで聞いたことのある声。
 思い出そうと努力して、そんな努力は必要ないことに間もなく気付いた。
 あれは俺の声だ。
「なるほど、そうか」
 と言うことは、だ。
 もう一度、俺はあの時間に行かなくてはならないのだ。十二月十八日の朝っぱらまで時間|遡行《そこう》しなくてはならない。この時間にいる朝比奈さんと長門と三人で。
 そうして、世界を今ここにある形に戻すのだ。
 朝比奈さんの役目はあの時点に俺と長門を連れて行くこと。長門の役目は狂《くる》った三日間と狂わせたあの長門の正常化だ。またハルヒの力を借り受けるのか、情報統合思念体がそれをするのかは知らないが。
 でもって俺にも役目がある。
 だってそうだろう? 俺はあの時、自分の声を聞いた。聞いたからこそ今の俺がある。俺を俺にするために、俺は過去の俺にセリフを投げかける必要がある。
「すまねえな。わけあって助けることはできなかったんだ。だが気にするな。俺も痛かったさ。まあ、後のことは俺たちが何とかする。いや、どうにかなることはもう解ってるんだ。お前にもすぐ解る。今は寝《ね》てろ」
 セリフを練習してみた。たしかこんな感じだったと思う。一語一句違ってやしないかどうかは自信がないが、だいたい合ってるよな。
 凶刃《きょうじん》に倒《たお》れた自分の代わりに、例の注射装置を使うのもこれからの俺なわけだ。
 マッドな朝倉の襲撃《しゅうげき》から助けてくれなかった理由もよく解る。あの声の俺は、あの時|慌《あわ》てて駆けつけたのではなく、あらかじめ近くに隠《かく》れていたに違いない。朝比奈さんと長門とともに、出てくるタイミングを計っていたのだ。早すぎず遅《おそ》すぎず。俺は朝倉に刺《さ》されなければならなかった。なぜなら、あの時の俺にとって、それは確かにあった過去だったからだ。朝比奈さんならこう言うだろう。
「既定事項《きていじこう》です」、と。


 夜も更《ふ》けてきたが、まだ眠ってしまうつもりはない。
 俺は待っていた。何を待つかって? 決まっているじゃないか。ここにやって来なければいけない奴《やつ》の中で、まだ来ていない奴だ。そして来なければ絶対的に嘘《うそ》だと思われる奴だ。
 ベッドに横たわりながら俺は天井を見つめ続け、それが報《むく》われたのは深夜になってからのことだった。面会時間はとっくに過ぎている。
 病室の扉《とびら》がゆっくりとスライドし、通路の光が小さな人影《ひとかげ》を床《ゆか》に落とす。
 この日、最後に俺を見舞《みま》いに来たのは、セーラー服を着た長門有希の姿だった。
 長門は、いつもの無表情でこう言った。
「すべての責任はわたしにある」
 安心するほど平坦《へいたん》な声で、なんだか途方《とほう》もなく久しぶりに聞いた気のする口調だった。
「わたしの処分が検討されている」
 俺は頭をもたげる。
「誰が検討してるんだ?」
「情報統合思念体」
 自分のことではないように、長門は淡々《たんたん》と続けてこう語った。
 もちろん長門は、自分が十二月十八日未明にしでかすことを知っていた。俺と大人版朝比奈さんが三年前の長門に会いに行ったせいだ。知った上で、ああなることを避《さ》けようと努力をしていた。しかしどうにもならなかった。たとえ事前に知り得た未来でも回避《かいひ》することができない場合がある。いや、あったのだ……。
 夏以降、どこか違《ちが》って見えた長門の挙動が頭をよぎる。
「だとしても」と俺は口を挟《はさ》んだ。「お前がバグることは三年前には解っていたんだよな。なら、いつでもいいから俺に言えばよかったじゃないか。文化祭の後でもいいし、何なら草野球以前でもいい。そうすりゃ俺だって十二月十八日の時点で素早く行動できたってもんだ。さっさと全員を集合させて、三年前に戻《もど》ることができたのに」
 長門は決して笑うことのない表情で顔表面を覆《おお》っていた。そして、
「仮にわたしが事前にそれを伝えていても、異常動作したわたしはあなたから該当する記憶を消去したうえで[#「該当する記憶を消去したうえで」に傍点]世界を変化させていただろう。また、そうしなかったという保証はない[#「そうしなかったという保証はない」に傍点]。わたしにできたのはあなたが可能な限り元の状態のまま十八日を迎《むか》えるように保持するだけ」
「脱出《だっしゅつ》プログラムも残してくれただろ。充分《じゅうぶん》だよ」
 礼を言いつつ俺は腹を立てていた。長門にじゃない。自分にでもない。
 淡《あわ》い口調が病室の壁《かべ》に小さく響《ひび》いた。
「わたしが再び異常動作を起こさないという確証はない。わたしがここに存在し続ける限り、わたし内部のエラーも蓄積《ちくせき》し続ける。その可能性がある。それはとても危険なこと」
「くそったれと伝えろ」
 そう吐《は》き捨てた俺に対し、長門は無言で首を二ミリだけ傾《かたむ》けた。パチリと瞬《まばた》き。
 俺は伸《の》ばせるだけ手を伸ばし、細くて白い手を取った。長門は抵抗《ていこう》しない。
「お前の親玉に言ってくれ。お前が消えるなり居なくなるなりしたら、いいか? 俺は暴れるぞ。何としてでもお前を取り戻しに行く。俺には何の能もないが、ハルヒをたきつけることくらいはできるんだ」
 そのための切り札を俺は持っている。ただ一言、「俺はジョン・スミスだ」と言ってやるだけでいいんだ。
 ああ、そうとも。俺にはヘチマ並みの力しかないとも。しかしハルヒには唐変木《とうへんぼく》な力がある。長門が消えちまったら一切《いっさい》合切をあいつに明かしてすべてを信じさせてやる。それから長門探しの旅に出るのだ。長門の親玉が何をして長門をどこに隠そうが消し去ろうが、ハルヒなら何とかする。俺がさせる。ついでに古泉と朝比奈さんも巻き込んでやろうじゃないか。宇宙のどこにいるのかも解らん情報意識体なんぞ知ったことか。んなもんどうでもいい。
 長門は俺たちの仲間だ。そしてハルヒは、SOS団の誰《だれ》かが行方《ゆくえ》不明になったとしたらそのまま放置するような諦観《ていかん》とはほど遠い。長門だけじゃない、俺や古泉や朝比奈さんが突如《とつじょ》どっかに行っちまったとしても、たとえそれが本人の意思なんだとしても、あいつはそんなものを認めはしないだろう。何をどうやっても連れ戻すに違いない。涼宮ハルヒとはそういう女だ。身勝手で自己中で他人の都合を考えない、ハタ迷惑《めいわく》な俺たちの団長様なんだ。
 俺は長門を強く見据《みす》えた。
「つべこべぬかすならハルヒと一緒《いっしょ》に今度こそ世界を作り変えてやる。あの三日間みたいに、お前はいるが情報統合思念体なんぞはいない世界をな。さぞかし失望するだろうぜ。何が観察対象だ。知るか」
 言ってるうちにますます腹が立ってきた。
 情報統合思念体がどれだけ高度な連中なのかは知らん。きっととてつもなく頭のいい存在だか何かだろうよ。円周率の小数点下一兆|桁《けた》まで二秒で暗算できるような、そんな感じの奴らなんだろうさ。恐《おそ》ろしく高等な技《わざ》だっていくらでも使えるよな。
 だったらな、と俺は言いたい。
 この長門有希にもっとまともな性格を与《あた》えることだってできただろうが。殺人鬼《さつじんき》になる前の朝倉みたいに、クラスの人気者になるような、明るくて社交的で休みの日に友達とショッピングモールで買い物してるような、そういう奴にだってできただろう。なんだって一人|寂《さび》しく部屋に閉じこもって本だけ読んでそうな、鬱《うつ》な娘《むすめ》を設定しやがったんだ。そうでないと文芸部らしくないからか? ハルヒが目を付けそうにないからか? 誰の思い込みだそれは。
 ふと我を取り戻せば、俺は長門の手を強すぎる力で握《にぎ》りしめていたようだった。だが、読書好きの有機アンドロイドはその行為《こうい》に対しては何も言わない。
 長門はただ、俺をじっと見つめたまま、ゆっくりとうなずき、
「伝える」
 やはり平坦《へいたん》な声で呟《つぶや》いた。
「ありがとう」


エ ピ ロ ー グ


 さて、と俺は考える。
 終業式はすで終わって担任岡部から通知票を拝領し、今年中の高校生活はこれで終わりだ。
 本日の日付は十二月二十四日。
 消え失《う》せていた一年九組とその生徒はちゃんと復活して、今回ほとんど出番のなかった古泉一樹もそこにいた。朝倉は半年以上前に一年五組から姿を消していたし、谷口は引き続き浮《う》かれていたし、俺の後ろの席には今日もハルヒが陣取《じんど》っていたし、風邪《かぜ》も流行《はや》ってなどいない。講堂で見かけた長門の顔には眼鏡《めがね》がなく、終業式終わりに偶然《ぐうぜん》出くわした朝比奈さん鶴屋さんコンビは揃《そろ》って挨拶《あいさつ》してくれた。通学|途中《とちゅう》に確認《かくにん》したところ私立光陽園学院もまっとうなお嬢《じょう》様女子校に戻《もど》っていた。
 世界は元通りになっている。
 しかしながら選択《せんたく》権はいまだ俺の手の中にある。俺と長門と朝比奈さんがもう一度過去に――十二月十八日未明に――戻らないと世界はこの通りにはならない。行ったからこそ元通りになったのだ。だが、いつ行くかはまだ決めていない。朝比奈さんにも説明していない。彼女は大人バージョンの自分に事情を教えてもらっただろうか。ここ数日のお姿を拝見する限りでは、もう一つよく解《わか》ってなさそうだが。
「まったくな」
 意味もなく呟き、部室|棟《とう》へ続く廊下《ろうか》を踏《ふ》みしめた。
 サーキットで開催《かいさい》されるモーターカーレースのように俺は同じ地点に戻ってくるルールを背負わされているのかもしれない。二周目と三周目にそれほどの違《ちが》いはなくて、あったとしてもそれを決めるのは俺の仕事じゃないが、オープニングラップとファイナルラップでは同じ道、同じ光景であろうと、まったく異なる意味を持つように見えるだろう。せいぜいリタイアに注意しながら最後まで走りきり、ゴールラインを無事通過できたらそれでいいのさ。そう、誰《だれ》かがチェッカーフラッグを振《ふ》るその時まで。
 ……まあ、それもこれも全部ひっくるめて余計な理屈《りくつ》でしかないのは解っている。
 どう言いわけしようとも無駄《むだ》なことだ。なぜなら俺はこっちを選んじまった。ハルヒのような無意識ハッピー大暴走とはワケが違う。あくまで自らの意思で空回りするバカ騒《さわ》ぎのほうを選んだのだ。
 ならば、最後まで責任を取るべきだろう。
 長門でもなく、ハルヒでもなく、朱《しゅ》に交わったあげく赤くなっちまったこの俺が。
「ざまーねえな」
 気取ったつもりになって自嘲《じちょう》してみた。どうも様になってそうにないがかまやしない。誰も見てない。と思ったら、通りすがりの名も無き女子生徒と目があった。さっと視線を逸《そ》らしてささっと小走りで駆《か》け上がる後ろ姿に呼びかける。ただし聞こえないように、
「メリークリスマスイブ」
 陳腐《ちんぷ》なドラマの最終回なら白い結晶《けっしょう》が一粒《ひとつぶ》パラリと落ちてきて、それを掌《てのひら》で受け止めながら
「あ」とか何とか言うべき日なんだろうが、どうやらホワイトクリスマスになりそうになかった。今日は呆《あき》れるくらいの快晴である。
 俺は階段の一段目に足を乗せた。
 これで完璧《かんぺき》に当事者の一人になってしまった。見てるだけでいいとか思ってた時期は、とっくの昔に銀河の彼方《かなた》に消え失せて過去のものになってしまったわけだ。
「だからどうだって?」
 今頃《いまごろ》になって確認していてどうする。俺はこっち側の人間だ。んなもん、とうの昔に解っていたことだろうが。ハルヒに手を引かれて行った文芸部で部室乗っ取り宣言を聞いたときに。
 SOS団の他のメンツと同じく、俺はこの世界を積極的に守る側に回ってしまったのだ。誰から押しつけられたわけでもなく、望んで手を挙げたんだ。
 となれば、することは一つだろう。
 同じ倒《たお》れるのだとしても前がかりのほうが起きあがりやすいってもんさ。むしろ倒れた自分を助け起こしに行くのだから、結局のところそれは自分のためでもあるんだ。
 階段を上りながら、そろそろ開始される予定のイベントへと心を移した。買い出しは最終的にはハルヒと朝比奈さんの二人で行われた。荷物持ち係に内定していた俺だったが病《や》み上がりということで免除《めんじょ》が言い渡《わた》されたのである。ハルヒなりの配慮《はいりょ》と言うよりは、ぎりぎりまでメニューを伏《ふ》せておきフタを開けて中身に全員|驚嘆《きょうたん》――という計画であるようだ。孤島《ことう》での経験を活《い》かすつもりなのかもしれない。安上がりな闇鍋《やみなべ》クリスマスパーティ。
 いったい何が飛び出てくるのかね。ハルヒのことだ、サプライズを優先させるあまり、人類の料理史においてかつてないような実験的|猟奇《りょうき》鍋になっているかもしれない。けど、何がグツグツいってようがたいていのもんは煮《に》たら喰《く》えるよな。いくらハルヒでも自分の胃腸が消化できない物をぶち込んではいないだろう。あいつが怪獣《かいじゅう》並の胃袋《いぶくろ》を持っているのなら別だが、常識外れなハルヒだって胃腸くらいは人間に準拠《じゅんきょ》してるさ。人類レベルを超《こ》えているのは頭の中だけだ。
 しかも鍋大会のオマケのように、俺はトナカイをかぶって余興を披露《ひろう》する手はずになっていた。ネタ考えるこっちの身にもなってくれよな。
「やれやれ」
 先月|封印《ふういん》を決意したばかりの感嘆詞《かんたんし》が口を突《つ》いて出たが、なに、気にすることはない。発音が同じでもそこに込《こ》められている意味合いが違えば、それはやはり別の言葉なのだ。
 後付けの弁解を組み立てながら、俺は脳内スケジュール帳に予定を一つ書き込んだ。
 その予定は既定|事項《じこう》だ。俺が現在もここにいることができるように、絶対しなければいけないことだ。

 ――近いうちに世界を復活させに行かなきゃならない。

 部室に近づくにつれて、なんとも芳《かんば》しい香《かお》りが鼻の粘膜《ねんまく》を刺激《しげき》する。それだけで腹が満たされそうな気分になってくるが、この満足感の正体はなんだろう。遠からず時間|遡行《そこう》して片を付けなきゃならないってのに、まだ何もしてないうちから満足してれば世話はない。

 ――でも、まあ、その前に。

 時間はまだある。それをするのは今から未来の俺だ。遠い未来というわけにはいかないが、今すぐってわけでもない。
 文芸部室のドアノブに手をかけて、俺は世界に問いかけた。
 なあ、世界。少しくらいは待てるだろ? 再改変をしに行くまで、ちょっとくらい待機しててくれてもいいよな。

 せめて――。

 ハルヒ特製鍋を喰ってからでも、別に遅《おそ》くはないだろう?

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