第 三 章
十二月二十日。
世界がおかしくなって三日目の朝、夢のない眠りから覚めた俺は、相変わらず胃の中に三十ミリ弾《だん》がダース単位で入っているような気分でベッドから身を起こした。掛《か》け布団《ぶとん》の上で寝ていたシャミセンがごろんと転がり落ち、でろんと床《ゆか》で長く伸《の》びた。その腹を軽く踏《ふ》みながら、俺は溜息《ためいき》をつく。
部屋の戸口から妹が顔を覗《のぞ》かせた。覚醒《かくせい》している俺を見て残念そうな表情を作り、
「ねえ、シャミ、喋《しゃべ》った?」
一昨日《おととい》の晩からこればっかり訊《き》きやがる。俺の返答も代わり映《ば》えしない。
「いーや」
足の指にかぶりつく猫《ねこ》の柔毛《じゅうもう》の感触《かんしよく》を味わっていると、自家製「ごはんの歌」を唄《うた》いながら妹がシャミセンを連れ去った。猫はいいよ、飯喰《く》って寝て毛繕《けづくろ》いするのが仕事だ。一日くらい立場を入れ替《か》えて欲しいものだ。案外、俺が探しているアイテムを簡単に探し当ててくれる可能性もある。
そうだ、鍵《かぎ》はまだ見つかっていない。鍵が何だかも解《わか》らない。プログラム起動条件。今日中に何とかしないと、きっと世界はこのままだろう。もっと悪くなる怖《おそ》れだってある。期限か……。なぜそんなもんを設定した? 長門でも期間限定サービスが精一杯《せいいっばい》なことだったのか?
何も解らないまま、俺は学校に出かける。曇《くも》り空は今にも雪の粉をちらつかせそうな気配を人々の頭上に展開させていた。今年はホワイトクリスマスになるかもしれない。降ったら積もってしまいそうでもある。近年この辺りで積雪を観測したことはないが、今季のこの寒さでは充分《じゅうぶん》あり得るな。そうなりゃきっとハルヒは犬よりも喜んで冬季的なイベントをおっはじめるだろう。ハルヒがいたら。
途中《とちゅう》で目を奪われるようなものを見ることもなく、いつものように俺は北高に向かい、坂を上がり、一年五組の教室にたどり着いた。気力のなさが体力にフィードバックしているせいで、のろのろ歩いていたから予鈴《よれい》ぎりぎりの着席だ。昨日同様に休みがちな級友たちだが、感心することに谷口は一日休んだだけで済んだようだ。マスクはまだ取れていないが、ちゃんと今日も登校している。こいつがこんな学校好きだったとは初めて知ったよ。
そして今日も後ろの席では、朝倉が意味ありげに微笑《ほほえ》んでいた。
「おはよう」
誰《だれ》にでもそうするように、朝倉は軽やかに挨拶《あいきつ》を口にする。俺は顔つきだけで返礼した。
チャイムが鳴り出すと同時に担任岡部は颯爽《さっそう》と登場、ホームルームが始まった。
なんだか曜日の感覚まで狂《くる》っているような気がする。今日の授業の時間割が俺の覚えている時間割のままなのかどうか、それすら曖昧《あいまい》になってきた。先週の今日と同じだと、今の俺にははっきり断言することも出来ない。昨日と今日の時間割が入れ替わっていたとしても気づけないように思う。やはりおかしいのは俺のほうなのか? 涼宮ハルヒなんてやつは最初からいない。朝倉はクラスの人気者。朝比奈さんは手の届かない上級生で、長門はたった一人の文芸部員。
そっちが正しく、SOS団なんてもんは今までの俺が夢見ていた妄想《もうそう》だったのか。
いかん、考えが後ろ向きになってきた。
一限目の体育、サッカーの紅白試合で自陣《じじん》ゴールを守る気のてんでないディフェンダーを演じ、二限目の数学を適度に聞き流しているうちに休み時間となる。
机につっぷして額を冷やしていると、
「よ、キョン」
谷口だった。マスクを顎《あご》の下にずらして、いつものヘラヘラ笑いを浮《う》かべている。
「次の化学だけどよ、今日は俺の列が当てられる番なんだ。ちょっと教えてくれ」
俺に教えを請《こ》おうとは身の程《ほど》知らずな。互《たが》いの学力レベルなんぞ、とうに解りきった仲だろうが。お前に解らん箇所《かしょ》が俺に解ったためしなどない。
「おい、国木田」
俺はトイレから帰ってきたコンビの片割れを呼んでやった。
「水酸化ナトリウムについて知ってる限りの情報を谷口に伝えてやってくれ。特に塩酸と仲がいいかどうかを知りたいらしい」
「まあまあいいんじゃないかなあ。混ぜたら中和されるからね」
やって来た国木田は谷口の広げた教科書をのぞき込み、
「あ、この問題ね。簡単だよ、まずモルで計算してそれからグラムに当てはめて出すんだ。ええとね、」
解りきった奴《やつ》が当たり前のように難問を解いていく姿には無力感しか覚えない。
谷口はひとしきりふんふんとうなずいていたが、国木田の計算がクライマックスに来たあたりで覚える気がなくなったようだ。俺の机からシャーペンを取り上げて教科書の余白に言われたとおりの数字と記号を書き込んでいる。
それが一段落ついてから、変な感じのする笑みを見せて、
「キョンよ、サッカーやってるときに国木田から聞いたんだが、お前、一昨日《おととい》何やら騒《さわ》いでたんだってな」
一昨日ならお前もいただろう。
「昼休みは保健室で寝《ね》てたさ。午後もダルくてボーっとしてたしよ。今日初めて聞いたぜ。朝倉がいるとかいないとか言って半狂乱《はんきょうらん》だったんだって?」
「まあな」
俺は手をヒラつかせた。とっとと立ち去れという合図だったのだが、谷口はニヤケ面《づら》のままで、
「その場にいたかったぜ。お前が喚《わめ》いたり暴れたりするとこなんぞ、そんなしょっちゅう見れるとは思えねえからな」
国木田も思い出し顔で、
「キョンももう気は確かになったみたいだね。朝倉さんにはつっけんどんだけどさ。彼女と何かあったのかな?」
説明しても頭が爽やかな人|扱《あつか》いされるだけだろう。だから言わない。筋道が通っているじゃないか。
「そういえば、誰かの代わりに朝倉さんがいるのがおかしいっていう話だったよね。その人見つかった? ハルヒさんだっけ。それ、結局誰だったんだい?」
蒸し返さないでくれるか。今の俺はその名を聞くと条件反射でビクってしてしまうんだ。たとえオウムの鳴き声のように単なる反復だったとしてもだ。
「ハルヒ?」
見ろ、谷口も首をひねっている。ひねりながら、こんなことを言った。
「そのハルヒってのは、ひょっとして涼宮ハルヒのことか?」
そう、その涼宮ハルヒの……。
頸骨《けいこつ》がギリギリと音を立てた。俺はゆっくりと同級生のアホ面を振《ふ》り仰《あお》ぎ、
「おい谷口、お前は今、何と言った?」
「だから涼宮だろ。東中にいたイカレ女だ。中学ではずっと同じクラスでなあ。そういや今頃《いまごろ》何してんだろうな。――で、なんでキョンがあいつのことを知ってんだ。朝倉の代わりってどういうことだ?」
目の前が一瞬《いっしゅん》真っ白になり――、
「てめえ、この! タコ野郎《やろう》!」
叫《さけ》びながら俺は飛び上がった。その勢いに恐《おそ》れ入ったか、谷口は国木田とテンポを合わせるように一歩下がって、
「誰《だれ》がタコだ。俺がタコだと言うんならお前なんかスルメがいいとこだ。それにウチは代々|白髪《しらが》の家系だぞ。将来のことを考えるならおめーのほうが危ねー」
うるせえ、余計なお世話だ。俺は谷口の胸《むな》ぐらをつかんで強引《ごういん》に引き寄せ、鼻先が付きそうになるまで顔を近づけた。
「お前、ハルヒを知ってるのか!」
「知ってるも何も、あと五十年は忘れられそうにねーな。東中出身であいつを知らない奴がいたら、そりゃ健忘|症《しょう》の心配をしたほうがいい」
「どこだ」
俺の声は唸《うな》り声さながらだ。
「あいつはどこにいる。ハルヒの居場所はどこだ。どこに行きやがった?」
「なんだよ、ドコドコと。おめーはタイコか。どっかで涼宮に一目惚《ひとめぼ》れでもしたのか。やめとけ。これは親切心で言うんだぞ。あいつはルックスは上級だが性格が破滅《はめつ》している。たとえばだ、」
校庭に白線で意味不明な幾何《きか》学模様を描《か》いたりな。よく解ってるさ。俺が知りたいのは過去のあいつの悪行じゃない。今、ハルヒがどこにいるかなのだ。
「光陽園学院」
と、谷口は言った。水素の原子番号を答えるように。
「下の駅前高校にいるはずだ。まあ、頭はよかったからな。バリバリの進学校にお行きなきった」
進学校?
「光陽園学院って、そんなレベル高かったか? お嬢《じょう》さん女子校だろ」
谷口は憐《あわ》れみの視線で、
「キョン、お前の中学じゃ何を教えていたか知らんが、あっこは前から共学だ。そいで県内有数の進学率を誇《ほこ》る名門だぞ。そんなのが学区内にあっていい迷惑《めいわく》だぜ」
何かと比べられるしな、という谷口の愚痴《ぐち》を聞きながら、手を放した。
なぜこんなことに気づかなかったのか、我ながら切腹ものである。
ハルヒが北高にいなかったことで、てっきり世界のどこにもいないと信じかけるなんて、俺の想像力はたった今カマドウマ以下に決定された。来年の夏に田舎に帰ったら、ともに縁《えん》の下《した》で語り合うのがお似合いだ。
「おい、どうした」谷口はシャツの前をはたきながら、「なあ国木田、やっぱまだこいつおかしいぞ。けっこうヤバイんじゃないか」
何とでも言ってくれ。この時ばかりはまったく気にならない。憎《にく》まれ口を叩《たた》く谷口より、深刻そうにうなずく国木田より、もっと腹立たしい奴《やつ》がいる。
なんて信じがたいハードラックだ。俺の席の近くに東中の奴がいたなら、一昨日の昼休みに谷口が教室にいさえすれば、俺はもっと簡単にハルヒの名を耳にできただろう。誰かが仕込みでもしているのか。出てこい、そいつ。一発|殴《なぐ》らせろ。しかしそれもまた後回しでかまわない。聞くべきことは聞き終えたのだ。なら、次は行動するだけだ。
「どこ行くの? キョン? トイレかい」
国木田の言葉に振り向きながら、それでいて小走りでドアを目指しながら、俺は答えた。
「早退する」
一刻も早く。
「鞄《かばん》も持たずに?」
邪魔《じゃま》だ。
「国木田、岡部に訊《き》かれたら俺はペストと赤痢《せきり》と腸チフスを併発《へいはつ》して死にそうだったと伝えておいてくれ。それから、谷口」
口を開けて俺の行動を見送っていた愛すべきクラスメイトに、俺は心からの感謝を捧《ささ》げた。
「ありがとよ」
「あ、ああ……?」
頭の横で指をクルクル回す谷口をそれ以上見ることなく、かくして俺は教室を飛び出し、一分後には学校を飛び出していた。
急な坂道をハイペースで駆《か》け下り続けるのは難しい。十分ほどは急激にテンションが上がったことで脇目《わきめ》もふらずに走っていたが、心はともかく両足と両肺が酷使《こくし》に抗議《こうぎ》行動を始めやがった。考えてみれば三時間目が終わってからでも充分《じゅうぶん》間に合ったな。この時期なら光陽園学院も半ドンになってるだろうが、終了《しゅうりょう》のチャイムまでに到着《とうちゃく》すればいいのだ。北高からなら散歩気分で歩いたとしても一時間もかからない。
時間配分の失敗に気づいたのは日課となってる強制ハイキングコースを下り終え、私鉄沿線にある私立高校が見えてきた辺りである。校内がしんとしているのは授業中だからだろう。俺は腕《うで》時計を確認《かくにん》する。俺たちの高校とそう違《ちが》っていないだろうから、たぶん今は三時間目だ。てことは門が開くには後一時間以上は楽にある。この寒空の下、手ぶらでボサッと待っていなければならない。
「それとも強引に乗り込んじまうか……」
ハルヒならそうするだろうし最後まで上手くやってしまうんだろうが、いかんせん俺にはその自信がなく、ぶらりと校門のほうへと歩き出して慌《あわ》ててUターンした。閉ざされた門の前に厳《いか》めしい警備員が立っている。さすが私立、金のかかったことをしている。
フェンスをよじ登って侵入《しんにゅう》してもいいが、てっぺんまでかなりの距離《きょり》だし有刺鉄線《ゆうしてっせん》まで付いてたしで、これは大人しく待機していたほうが良さそうだ。無理に押し入ってとっつかまりでもしたら何もかも終わりとなる。ここまで来てゲームオーバーは勘弁《かんべん》して欲しい。ハルヒとは違い、俺は自重すべき時はそうするんだ。
そうして待つこと二時間近く。
聞き慣れないチャイムが聞こえ、しばらくして校門から溢《あふ》れるように生徒たちが吐《は》き出された。
なるほど、谷口の言ったとおりに共学になっている。女子の黒ブレザー姿はそのままだが、彼女たちに混じって男子の黒い詰《つ》め襟《えり》姿が共々に下校の道を急いでいた。女子がセーラーで男子がブレザーの北高とは逆だ。男女の比率はやや女子のほうが多い気がするが……。
「何と、まあ」
男子の中に何人か見た覚えのある奴らがいた。一年九組の生徒たちだ。消えたと思ったら、こっちの高校に来ていたか。たまたまかどうなのか同じ中学出身の奴はいない。顔を知っている奴らも俺には気づかず、ただ胡散臭《うさんくさ》そうな視線をチラリとよこしてすぐ逸《そ》らすのみだった。今の彼らには別の歴史が刻まれているのだろう。北高に通うより幸せな歴史なのかもしれねえな。坂道を登らなくてもいいからな。
俺は待ち続けた。すんなり出会えるかどうか、確率は半々だ。万一あいつが何らかの部活に所属したり、または立ち上げたりして学内に残っているのなら、それまで俺はここで案山子《かかし》になっていなければならない。頼《たの》む。とっとと帰宅の途《と》についてくれ。そして俺の前に現れてくれ。
もし、この光陽園学院に別のSOS団が存在し、俺や他の連中たちの代わりに別の奴らがそこでよろしくやっているのだとしたら……。
そう思うと五臓六腑《ごぞうろっぷ》がデングリ返し的|叛乱《はんらん》を起こしそうになる。俺や朝比奈さんや長門や古泉が用済みってことになってはいまいな。それだと俺は脇役にもなれず、完全なる部外者となってしまうじゃないか。それだけは勘弁して欲しい。誰《だれ》に祈《いの》ればいいんだ。キリストか釈迦《しゃか》かマホメットかマニかゾロアスターかラヴクラフトか、何だっていい。この俺の不安感を取り除いてくれるなら、俺はどんな神話や伝承だって信じてしまえるだろう。街頭の怪《あや》しい宗教団体|勧誘《かんゆう》員にだってついていってしまえる。溺《おぼ》れる者は藁《わら》だってつかみ、そして甲斐《かい》なく泥沼《どろぬま》に沈《しず》む。その気分が今はよく解《わか》るぜ。
苛立《いらだ》ちと焦《あせ》りと後ろ向きな感覚に満ちた十数分が過ぎた。
「……ふーう」
俺の漏《も》らした息の意味を、俺自身にもつかみ取れない。どうして俺はこんな盛大な溜息《ためいき》を明るくつくのだろうね。
いた。
校門から吐き出される黒ブレザーと詰め襟の群れの中に、寿命《じゅみょう》が来るまで忘れようのない女の顔が混じっていた。
髪《かみ》が長い。入学式後の自己|紹介《しょうかい》であらぬことを口走り、クラス中の空気を固体化させたときと同じ、腰《こし》まで届くようなロングヘアだ。しばし見とれてから、俺は指折り数えて曜日を確認する。今日はストレートの日ではない。ここのこいつは髪型《かみがた》七変化をやっていないらしい。
光陽園学院の生徒たちが邪魔《じゃま》そうに左右を通り過ぎていく。立ちつくす他校の男子を彼ら彼女らはどう思っただろうか。どう思われようとかまわない。気にする余裕《よゆう》を俺は失っている。
俺は立ちつくしたまま、近づいてくるブレザー制服の女子生徒を見つめていた。
涼宮ハルヒ。
やっと――見つけた。
不覚にも微笑《ぴしょう》してしまう。発見したのはハルヒだけじゃなかった。
ハルヒの横を歩きながら何やら話しかけている詰め襟の生徒、それは古泉一樹の見飽《みあ》きた微笑みフェイスに相違《そうい》ない。思わぬ付録まで付いてきやがった。
ここでのこいつらは二人仲良く下校するような間柄《あいだがら》なのか。それにしてはハルヒは不機嫌《ふきげん》そうな、俺の記憶《きおく》にある高校入学初期の状態を維持《いじ》している。たまに横を向いてポツリと返答して、またムスっとした顔でアスファルトの地面にややキツイ目を落としている。
以前のあいつだ。SOS団の発足を思い立つまで、学内のどこでもそうしていたような、強い敵が見あたらないことにイラだって力を持てあましている格闘《かくとう》家のような表情が俺にはひどく懐《なつ》かしい。あの頃《ころ》のハルヒもこうだった。ありふれた日常に退屈《たいくつ》していたものの、求めるのに必死で自分で生み出そうとはまだ思いついていない時代のハルヒである。
いや、感慨《かんがい》にふけるのは後回しだ。二人の姿がだんだん近づいてくる。俺に気づいた様子はない。
情けないことに俺の鼓動《こどう》は抑《おさ》えようもなくアップテンポを刻んでいた。いま内科医にかかったら医者が耳から聴診《ちようしん》器をむしり取るくらいのパンキッシュなツービートが聞こえるだろう。このくそ寒いのに汗《あせ》まで惨《にじ》んできやがった。膝《ひざ》が笑っているのは気のせいだと思いたい。ここまで臆病《おくびょう》者ではないはずだ。
――来た。すぐ目の前にハルヒと古泉がいる。
「おい!」
何とか声を発する。
ハルヒの顔が上がり、目が合った。
黒ソックスに包まれた足が止まり、
「何よ」
冷蔵室に付着した霜《しも》のように冷たい視線だった。その視線が俺の全身をさっと一周し、ふいっと視線を逸らして、
「何の用? ってゆうか誰よあんた。あたしは知らない男から、おい、なんて呼ばれる筋合いまるでなしよ。ナンパなら他を当たってくんない? そんな気分じゃないの」
予想していたから衝撃《しょうげき》はそれほどない。やはりここのハルヒは俺と出会ってはいないのだ。
古泉も立ち止まって俺に無感動な目を向けている。俺のことなど見たこともないし一度たりとも会ったことなどあるわけがない、と言いたげな顔だった。
その古泉に声を掛《か》ける。
「お前とも、初めましてになるのか」
古泉はひょいと肩《かた》をすくめた。
「そのようですね。どちら様でしたでしょうか」
「ここでもお前は転校生なのか?」
「転校してきたのは春頃ですけど……なぜそれを?」
「『機関』という組織に思い当たることはないか」
「キカン……ですか? どういう字をあてるのでしょう」
当たり障《さわ》りのない無意味な笑《え》みは見知ったこいつのものだ。だが俺を見る目には警戒《けいかい》心が現れている。こいつも朝比奈さんと同じだ。俺を知らない。
「ハルヒ」
びく、とハルヒは頬《ほお》を動かし、あの大きな黒い瞳《ひとみ》で睨《にら》んでくる。
「誰《だれ》に断ってあたしを呼び捨てにするわけ? なんなのよ、あんた。ストーカーを募集《ぼしゅう》した覚えはないわ。そこどいてよ、邪魔なんだから」
「涼宮」
「名字だってお断り。だいたい何であたしの名前を知ってるのよ。東中出身? 北高よね、その制服。なんでこんなとこにいんの?」
ふん、とハルヒはそっぽを向き、
「かまわないわ、古泉くん。無視しましょ。こんな失礼な奴《やつ》にかまうことない。どうせただのアホな奴よ。行きましょ」
なぜハルヒと古泉が並んで通学路を歩いているのか、こっちでは古泉が俺の役割を課せられているのか。そんなことが頭をかすめたが、取り急ぎ考えることはそれじゃない。
「待ってくれ」
俺を避《さ》けて歩き出そうとしたハルヒの肩をつかんだ。
「放しなさいよ!」
ハルヒは腕《うで》を振《ふ》って俺の手を振り払《はら》う。本気の怒《いか》りがハルヒの顔に浮《う》いている。だがこの程度でむざむざこいつを見過ごすことはできない。何のためにここまで来たのか解らないだろ。
「しつこいわよ!」
すっと沈《しず》み込んだ体勢から、ハルヒは感心するほど流麗《りゅうれい》なフォームでローキックを放った。俺の踝《くるぷし》に激痛が走り抜《ぬ》け、いっそ悶絶《もんぜつ》したくなったが、のたうち回るのは当分保留だ。何とか立ち位置を確保しつつ、俺は心身共に悲痛な思いで言った。
「一つだけ教えてくれ」
我ながら勇気を振り絞《しぼ》らなくてはならなかった。これでダメならまったくどうしようもない。最後の希望――これから放つのは、そんな質問だ。
「三年前の七夕を覚えているか?」
立ち去りかけていたハルヒがピタリと止まる。長い黒髪《くろかみ》の後ろ姿に、俺は言葉を重ねた。
「あの日、お前は中学校に忍《しの》び込んで校庭に白線で絵を描《か》いたよな」
「それが?」
振り向いたハルヒは怒《おこ》った顔つきをしている。
「そんなの、誰だって知ってるわ。だからどうだっていうのよ」
俺は言葉を選びながら、それでも早口で言うことにした。
「夜の学校に潜《もぐ》り込んだのはお前だけじゃなかったはずだ。朝比奈……女の子を背負った男が一緒《いっしょ》にいて、お前はそいつと絵文字を描いた。それは彦星《ひこぽし》と織姫宛《おりひめあて》のメッセージだ。内容はたぶん 『わたしはここにいる』――」
続く言葉を発することができなかった。
伸《の》び上がったハルヒの右手が、俺のネクタイをひっつかんで思い切りしめ上げたからである。恐《おそ》ろしい力で引き寄せられ、前のめりの体勢を強《し》いられたあげく、額をハルヒの石頭に思い切りぶつけた。
「ってえな!」
クレームをつけようと睨みつけると、相手もこっちを睨んでいた。すぐ間近から鋭《するど》い眼光が俺の目へ脇目《わきめ》もふらずに飛んでいる。なんだか久しぶりに見るな。ハルヒの怒り顔っていうのもさ。
半ギレ女は戸惑《とまど》ったような声で、
「どうして知ってんのよ。誰から聞いたの? いいえ、あたし誰にも言ってない。あのときの……」
セリフを切り、ハルヒは表情を変化させて俺の制服を注視した。
「北高……まさか。……あんた、名前は?」
胸元《むなもと》をつかまれているから息苦しい。バカ力女め。だが今は、変わっていないハルヒパワーをしみじみ懐《なつ》かしんでいる場合ではない。俺の名前。未《いま》だかつて一回もこいつから呼ばれたことのない本名を言うべきか、すっかり定着してしまった間抜けなニックネームで答えるべきか。
いや、いずれにせよ今のこいつには通じまい。どっちも聞いたことのない名称《めいしょう》のはずだ。ならば、俺が名乗るべき固有名詞はこれしかない。
「ジョン・スミス」
なるべく冷静な口調を保ったつもりだが、なにしろ吊《つる》し上げをくっている最中《さなか》だ。やや苦しげになってしまったのは容赦《ようしゃ》して欲しいね……と思っていたら、次の瞬間《しゅんかん》、胸ぐらを圧迫《あっぱく》していた強固な力が消え失せた。
「……ジョン・スミス?」
ネクタイから手を離《はな》し、ハルヒは呆然《ぽうぜん》とした顔で片手を空中で静止させていた。いま俺は滅多《めった》に拝むことのできないものを見ているぞ。涼宮ハルヒが死神に魂《たましい》を抜かれたかのように、口をポカンと開けているのだ。
「あんたが? あのジョンだって言うの? 東中で……あれを手伝ってくれた……変な高校生……」
不意にハルヒはよろめいた。漆黒《しっこく》の長髪《ちょうはつ》を顔の前になびかせてグラリと傾《かたむ》きかけるところを、古泉が腕を伸ばして支えてやる。
繋《つな》がった。
手伝ったというかほとんど俺の仕事だったじゃねえか――と反論して時間を無駄《むだ》にするつもりはない。そうだ、俺はとうとう手がかりを見つけることができたのだ。おかしくなっちまった世界でたった一人、過去の記憶《きおく》を共有している人間を。
やっぱりお前か。
他《ほか》の誰《だれ》でもない、涼宮ハルヒ。
このハルヒが三年前の七夕に俺に出会っているというのなら、そこから三年後のこの世界はその時点から地続きのはずだ。何もかもが「なかったこと」になっているわけじゃあない。俺が朝比奈さんと三年ほど時間をさかのぼり、長門の力によってまた元の時間に復帰できた、その歴史は確かにあったのだ。どこから違《ちが》ってしまったのかはまだ解らないが、少なくとも三年前まではこの世界は俺の知っている世界としてあったのだ。
いったい何が生じて俺だけが正気で紛《まぎ》れ込んでしまったんだ?
だが、それを考えるのも後にしよう。
ハルヒの絶句という世にも珍《めずら》しいものを見ながら俺は言った。
「詳《くわ》しいわけを話したい。これから時間あるか? ちょっとばかり長い話になりそうなんだ……」
三人で肩《かた》を並べて歩いている最中にハルヒが言った。
「ジョン・スミスには二回会ったわ。あの後すぐ、あたしが家に帰ろうと道歩いてたら、後ろから声かけてきたの。なんて言ってたかしら……あ、そう! えーとね、『世界を大いに盛り上げるためのジョン・スミスをよろしく!』って叫《さけ》んでた。どういう意味だったの?」
そんなことはしていない。グラウンドからハルヒが消えるのを確認《かくにん》した後、俺は朝比奈さんを起こすとそのまま一緒に長門のマンションへ急いでいたからだ。他にもいたのかジョン・スミス。しかしよりにもよって、なんてことを言いやがったんだ、そのジョン・スミスは。
まるでハルヒに余計な入れ知恵《ぢえ》をするために叫んだようなものじゃないか。
「それは東中で会ったのと同じ奴《やつ》だったか?」
「遠かったもん。暗いしさ。どっちも顔は覚えてないわ。でも声と雰囲気《ふんいき》はそうね、あんたと似ているかも。北高の制服だったし」
何だかややこしいことになってきた。せっかく繋がったと思ったら、まだズレているのか。
とりあえず近くにあった喫茶《きっさ》店に入る。どうせならいつもSOS団が集合場所に使う駅前の御用達《ごようたし》喫茶がふさわしく思ったが、ここからではちょっと遠い。
「俺の知っているお前は北高にいて、入学式の後にこんなことを言ったんだ……」
注文の品が届く前から俺は説明を開始、運ばれてきたホットオーレが一気のみできるくらいに冷め切る頃《ころ》には、ほとんどを包《つつ》み隠《かく》さずダイジェストで話していた。宇宙人に未来人、超能《ちょうのう》力者《りょくしゃ》が揃《そろ》うSOS団。文芸部の部室。
特に七夕の時間旅行は念入りに語った。そこが一番大事な部分だと思えたからだ。
ぼかしたのはハルヒが神だか時空の歪《ゆが》みだか進化の可能性だかというところだ。どれが本当とも定かではないからな。単にハルヒに奇妙《きみょう》な潜在《せんざい》的パワー、世界を変えることができるかもしれない不確かな能力があるらしいと言うだけにとどめておく。
それでもこいつの気を引くには充分《じゅうぶん》すぎたようで、しきりに考え込むそぶりを見せた後に言った。
「どうしてあたしが考えた宇宙人語が読めたの? あたしならここにいるから早く現れなさいって書いたつもりなのは確かだけど」
「翻訳《ほんやく》してくれた奴がいたんだよ」
「それが宇宙人?」
「宇宙人に造られた対人類コミュニケート用ヒューマノイドインターフェイス……だったかな」
俺は長門有希に関するおおよそのことを話してやる。文芸部室のオマケだと思ってたら意外な設定を秘《ひ》めていた無表情の読書好き。それから朝比奈さんのことも教えてやる。等身大着せ替《か》えマスコット兼《けん》宣伝係兼部室専用メイドにして実態は未来人。俺は彼女に付き合って三年前の七夕の夜に時間旅行した。帰りは長門の世話になった。
「その時のジョンが、あんたなわけか。うん、信じてみても悪くないわね。そうか、タイムトラベルかあ……」
ハルヒは未来人を見るような目でまじまじと俺を見つめ、小さくうなずいた。
やけに理解が早いな。まさかこうも簡単に信じてくれるとは思っていなかった。だって以前、二人きりの不思議市内探訪をやった時には例の喫茶店でお前は俺の話をまるで信じなかったんだぜ。
「そのあたしは本当にバカね。あたしは信じるわよ」
ハルヒは身を乗り出して、
「だって、そっちのほうが断然|面白《おもしろ》いじゃないの!」
大輪の花を咲《さ》かすような笑顔に見覚えがある。俺が初めて見たハルヒの笑顔だ。英語の授業中にSOS団設立を思いついた時に浮かべていた、百ワットの笑みだった。
「それにさ、あたしあれから北高の生徒を全員調べたのよ。張り込みだってしたわ。でも、ジョンみたいな人はいなかった。もっと顔をよく見ておいたらよかったって思った。そう、三年前にはあんたは北高にいなかったのね……」
当時の俺は二パターンいた。一人は中学生活を漫然《まんぜん》と過ごしている俺。もう一人は長門の家の客間で朝比奈さんとともに時間を凍結《とうけつ》されていた。
ついでにこいつのこともご注進しておこう。
「そこにいる古泉が超能力者だった。お前にはいろいろ世話になったし、世話もしたぜ」
「それが本当だとしたら、驚《おどろ》くべき話です」
優雅《ゆうが》にカップを傾《かたむ》ける古泉は、半信半疑の目の色をしている。
俺はハルヒに向き直り、
「どうして北高に来なかった?」
「別に理由はないわ。七夕のことがあったからちょっぴり興味はあったけど、あたしが進学する頃にはジョンも卒業してるだろうし、だいいち探してもどこにもいなかったしさ。それに光陽園のほうが大学進学率が高くてね、中学の担任がぜひこっちにしろってうるさかったのよ。面倒《めんどう》だからそうしてやったわ。高校なんかどこでもいいと思ってたもん」
古泉にも水を向けてやる。
「お前はどうしてだ。なぜそっちの学校を選んで転校したんだ」
「なぜと言われましても涼宮さんと同じです。自分の学力レベルに見合ったところに行ったまでですよ。さして北高が悪いとは言いませんが、光陽園学院のほうが校舎も設備も充実していたものですから」
北高にはエアコンもないからな。
ハルヒが溜息《ためいき》をついた。
「SOS団か……。楽しそうね、すっごく」
おかげさまで。
「あなたの言葉を信じるならば」
横から口出ししてきたのは古泉だ。如才《じょさい》ないスマイルを若干《じゃっかん》抑《おさ》えたシタリ顔で、
「聞いた限りにおいて、あなたが陥《おちい》った状況《じょうきょう》を説明するには二通りの解釈《かいしゃく》が上げられます」
いかにも古泉が言いそうなことだった。
「一つはあなたがパラレルワールドに移動してしまった、というものです。元の世界からこの世界へ。二つ目の解釈は世界があなたを除いてまるごと変化してしまったということですね」
それは俺も考えたさ。
「しかし、どちらにも謎《なぞ》は残ります。前者の場合ですと、ではこの世界にいた別のあなたはどこに行ったのかが謎ですし、後者ではなぜあなただけが放置されたのかが解《わか》りません。あなたに不思議な力があるのならそれはそれで説明できますが」
ない。断言する。ない。
古泉は小憎《こにく》らしいほどスタイリッシュなアクションで肩《かた》をすくめた。
「パラレルワールド移動ならば、あなたは元の世界に戻《もど》る方策を探す必要があります。世界改変の場合では世界を元に戻すための方法論が必要です。いずれにしても早期解決の道はそれをおこなったのは誰《だれ》かを突《つ》き止めることですね。その行為《こうい》者なら元に戻す方法も知っている可能性が大ですから」
ハルヒ以外に誰がいるんだ。
「さあ、異世界からの侵略《しんりゃく》者が地球を舞台《ぶたい》に遊んでいるのかもしれませんね。案外そこらから突然《とつぜん》、悪そうな敵キャラが出てくるのかもしれませんよ」
本気で言っていないのは一目|瞭然《りょうぜん》だ。古泉はあからさまに投げやりな口調をしている。しかしハルヒは気づいていないのか、目を爛々《らんらん》と輝《かがや》かせていた。
「その長門さんと朝比奈さんって人にも会ってみたいわ。そうね、その部室にも行ってみたい。世界を変えたのがあたしだったら、そしたら何か思い出すかもしれないでしょ。ね、ジョン、あんたもそのほうがいいわよね?」
まあ、そうだな。反対する理由はない。この現象がこいつの仕業《しわざ》だったなら――俺はそう思っていたが――それで何かを感じてくれるかもしれないし、長門と朝比奈さんも俺のことを思い出してくれるかもしれない。宇宙人と未来人の手先が正気を取り戻してくれたら、たぶんこの事態を打開する方法も見つかる。で、ジョンってのは俺のことか。
「キョンだっけ? それよりマシじゃない。ジョンのほうがよっぽど人の名前をしてるわ。欧米《おうべい》ではありふれた名前よ。誰がつけたの? キョンなんていうダサダサなニックネーム。あんた、よっぽどバカにされてるのね」
命名者は親戚《しんせき》のおばちゃんで広めたのは妹だが、それでもハルヒの罵倒《ばとう》が心地《ここち》よく聞こえるのはなぜだろう。そんなに久しぶりというわけでもないのに。
「じゃ、行きましょ」
ほとんど口を付けていないダージリンティーを惜《お》しみもせず、ハルヒは光陽園学院|謹製《きんせい》の鞄《かばん》を手にした。
一応、尋《たず》ねてみた。
「これから? どこに」
すっくとハルヒは立ち上がり、傲然《ごうぜん》と俺を見下ろしながら叫《さけ》んだ。
「北高に決まってるでしょ!」
宣言するが早いかハルヒは喫茶《きっさ》店を競歩しながらスキップするみたいな足取りで出て行った。自動ドアが開くのも待ちきれないといった勢いだった。
実にあいつらしい振《ふ》る舞《ま》いで、俺はそこはかとなく安心する。
さすがだな、ハルヒ。お前はいつもそうだったよ。思いついたらその二秒後には行動しているんだ。それでこそお前だ。部室の扉《とびら》を蹴飛《けと》ばすように開けて登場するたび、お前は突然の決定を俺たちに知らせるんだ。驚《おどろ》かないのは長門くらいで……
「しまった」
腕《うで》時計に目を落とす。とっくに放課後になっている時刻である。昨日長門のマンションでした約束を忘れていた。明日も部室に行くと言ったのに、これでは遅刻《ちこく》だ。ドアのノックを一人で待つ長門のしょんぼりした姿が容易に想像できる。ちょっと待っててくれ。すぐにとんぼ返りするからさ。
残された伝票を古泉がすくい上げ、
「僕が奢《おご》るのは涼宮さんの分だけですよ?」
俺のも奢ってくれたらお前に教えてやってもいいのだが。
「ほう。何でしょう」
かつてこいつから聞いた話をそのまま返してやった。手短に。人間原理がどうしたとかいうハルヒ神様説。いかにしてこいつがハルヒの先回りにやっきになっていたかを。孤島《ことう》での自作自演等々。
考え込む古泉に、俺は改めて問うた。
「やったのはハルヒか、他にこの状況《じょうきょう》を生み出した奴《やつ》がいるのか。どっちが正解だと思う?」
「あるいは、あなたの言う涼宮さんが本当に神様みたいな力を持っているのであれば、その彼女がしたのかもしれません」
他に該当《がいとう》者を思いつかないからな。しかし、そうだとしたらハルヒは古泉だけを側《そば》に呼んで俺と長門と朝比奈さんをほったらかしたことになる。自分で言うのも何だが、ハルヒが俺たち以上に古泉に執着《しゅうちゃく》を持っていたとは思えない。これもハルヒの無意識がなせるワザなのか。
「選ばれて光栄、と言うべきでしょうね」
古泉はくっくと笑って、
「なぜなら僕は……そうですね。僕は涼宮さんが好きなんですよ」
「……正気か」
冗談《じょうだん》だろう?
「魅力《みりょく》的な人だと思いますが」
どこかで聞いたようなセリフだ。古泉は真面目《まじめ》な口調で、
「でもね、涼宮さんは僕の属性にしか興味がないのです。転校生だという、ただそれだけの理由で喋《しゃべ》るようになったのですよ。なんせ普通《ふつう》の転校生なもので、最近|飽《あ》きられつつあるようですが。SOS団でしたか、そこでのあなたにはどんな属性が有ったんですか? ないのだとしたら、それは涼宮さんが本当にあなたを気に入ったということですよ。そこでの涼宮さんが僕の知る涼宮さんと同じ人格だったとしての仮定ですけどね」
今も昔も、俺には履歴書《りれきしょ》に書いたら病院行きを宣告されるような肩書《かたが》きはないのさ。知らず知らずおかしなことに巻き込まれるという使えない特技を除いては、な。
ハルヒがドアから顔を出して実にいい笑顔《えがお》で怒鳴《どな》った。
「何してんの、早く来なさい!」
古泉が三人前の飲料費を精算するのを待って、俺は暖房《だんぼう》の心地よい喫茶店から息の白くなる外界へと軽やかな第一歩を踏《ふ》み出した。
店の前にタクシーが止まっている。ハルヒが呼び止めたらしい。どうやっても素早《すばや》く北高に行きたくてたまらないようだ。ちなみに俺がたびたび古泉と乗ったどこかで見たような黒塗《くろぬ》りタクシーではない。普通のイエローキャブである。
「北高まで、全速力で!」
乗り込みながらハルヒが運転手に命じた。次に俺、最後に古泉が後部座席に収まる。小娘《こむすめ》の命令口調に初老運転手は気を悪くする気配も見せず、苦笑《くしょう》する様子で緩《ゆる》やかにアクセルを踏み込んだ。
「北高に乗り込むのはいいけどさ」と俺はハルヒの横顔に言った。「その格好じゃ、さすがに目立つぜ。他校の生徒が入り込むには多少の理由が必要だ。教師連中に見つかったら、少しは面倒《めんどう》なことになる」
ハルヒは黒ブレザーの上下で、古泉は学ランだ。短縮授業で午後にそれほど生徒が残っているわけではないとは言え、セーラー服と紺《こん》ブレの中にこいつらが飛び込んでいくのはいかにも部外者ですと大っぴらに宣言しているようなものだ。
「それもそうね……」
ハルヒは三秒ほど考えて、
「ジョン、あんた今日体育の授業あった? いいえ、なくてもかまわないわ。体操着を教室に置いてたりしてない?」
ちょうどいい具合に、今日は一限がサッカーだった。
「じゃ、体操着とジャージはあるのね?」
あるが、それがどうした。
ハルヒはニンマリと笑い、
「作戦を伝えるわ。ジョン、古泉くん、ちょっと顔を貸しなさい」
タクシーの運転手に聞かれても困ることはないだろうに、俺たちに顔を寄せさせてハルヒは作戦とやらを囁《ささや》いた。
「お前らしいよ」
と俺は応《こた》えて、眉《まゆ》を寄せる古泉の複雑な表情を見《み》遣《や》った。
北高近くで車を降りた俺は、まず自分の教室にとって返した。ハルヒが考案した北高|侵入《しんにゅう》作戦の準備のためだ。
ちなみにタクシー代は古泉に任せきりである。ここでのあいつはハルヒの財布代わり的ポジションに甘んじているようで、罰《ばつ》ゲームでもないのにご苦労なことだと思うね。本気でハルヒに恋愛《れんあい》感情を抱《いだ》いているのか? いったいどこに惚《ほ》れたのか聞いておきたいが、そういやハルヒは異常な行動にもかかわらず中学時代にやたらモテたと谷口が言ってたな。まあ北高でもSOS団なんて立ち上げなければ、あの女は誰彼《だれかれ》かまわず告白の列をバッサバッサと切り捨てていた可能性もある。ならばSOS団はハルヒにとって格好の風よけの役割を果たしていたとも言える。あんな謎《なぞ》クラブの首領として君臨してれば、たいていの常識的な男は暴投を見逃《みのが》すバッターのように回避《かいひ》行動に移るさ。バットを振《ふ》って三振《さんしん》や頭部|直撃《ちょくげき》のデッドボールより、四回見逃して一塁《いちるい》ベースに歩くほうがまだいいもんな。
そんなことを考えながら最上階を目指す。
校舎の中に人影《ひとかげ》は少ないが皆無《かいむ》というわけでもなく、帰宅してもすることのない奴《やつ》らが部活のために残っている姿が散見された。さいわいにして、一年五組の教室には誰もいなかった。そういや俺だって担任岡部に見つかってはマズいのだ。無断早退したやつがノソノソと戻《もど》ってきたのを発見すれば、俺でも理由が知りたくなる。
誰がやってくれたのか、俺の机の上は綺麗《きれい》に片づいている。朝倉かもしれない。出しっぱなしだった筆記用具やノートがどこかと見ると、きちんと仕舞《しま》われており、鞄《かばん》だけが机の横に引っかかっていた。目当てのブツはその鞄の反対側にぶら下がっている。
「色んなことを考える奴だ」
俺はハルヒへの感嘆《かんたん》を呟《つぶや》きながら体操着入れを持ち上げた。このデカめの巾着袋《きんちゃくぶくろ》の中には今日の一限でも使用した半袖《はんそで》のトレシャツと短パン、ジャージの上下が入っている。タクシーで来る途中《とちゅう》に聞いたハルヒ案による侵入作戦、それは「北高生に変装すればいいのよ」という至極《しごく》もっともなものであった。「古泉くんがあんたの体操着着て、あたしがジャージを穿《は》くのね。それで走りながら堂々と入っていったら、ロードワークから帰ってきた運動部員だと誰だって思うわ。うん、ばっちし」
昆虫《こんちゅう》が擬態《ぎたい》するように自分たちもそうしようというわけだ。それでも帰宅途中の北高生を男女一人ずつ襲《おそ》って制服を剥ぎ取るよりは随分《ずいぶん》とマシである。
「それでもよかったわね」
校門を出てしばらく行った曲がり角で、俺を待っていたハルヒはケロリとコメントした。体操着袋を受け取りながら、
「むしろそっちのほうが見とがめられにくいわ。あんたも、そんなナイスな考えを思いついたんならさっさと言いなさいよ」
そんな追い剥ぎじみたことができるか。
ハルヒは袋の紐《ひも》を緩めると、遠慮《えんりょ》が微塵《みじん》もない動作で逆さにした。四枚の衣類がアスファルトにボトリと落ちる。
「ちゃんと洗濯《せんたく》してるでしょうね」
一週間くらい前にな。
「ところで涼宮さん」
古泉は所々に泥《どろ》が染《し》みついている俺の体操着上下に、追いつめられた砂ネズミがモンゴル虎《とら》を見るような目を向けていたが、
「どこで着替《きが》えましょうね。近くに遮蔽《しゃへい》された空間があればいいのですが」
「ここでいいじゃん」
ハルヒはあっさりと答え、自らジャージの下を取り上げた。
「人通りもないし、寒いのはちょっとだけよ。ああ、安心して。あたしなら後ろを向いてるから。ジョンもそうしなさい。壁《かべ》役になるの」
俺に流し目を送っているのは何のつもりだ。
「あたしは見られてても全然かまわないしね」
ニカリと笑いながらジャージのズボンに足を突《つ》っ込み、そのままスカートの下に穿《は》いてしまうと、
「そんなに足が長いとも思えないけど」
しゃがみ込んで両足の丈《たけ》を折り返して長さを調節、再び立ち上がってスカートのホックを外した。ためらいもなく腰《こし》からスカートをストンと落とし、黒ジャケットも脱《ぬ》ぎ捨て、ついにブラウスのボタンに手をかけたあたりで俺は横を向いた。
「別にいいわよ。下にTシャツ着てるもの」
ジャケットとスカートの上にハラリと落ちるブラウスを、視線の端《はし》に引っかけながら目を戻す。白い半袖無地Tシャツと俺のジャージパソツを身にまとったハルヒが得意げに胸を反らし、長い髪《かみ》を風にたなびかせていた。それを眺《なが》めているうちに、なんとなくもう一度見てみたいと思っていた絵姿を思い出した。
「なあ、ポニーテールにしてみないか?」
ハルヒはきょとんと俺を見つめ、
「なんで?」
別に意味なんかないさ。ただの俺の趣味《しゅみ》だ。
ふん、と鼻を鳴らしつつハルヒは満更《まんざら》でもなさそうに、
「簡単そうに見えるかもしれないけど、ちゃんとするの、けっこう面倒《めんどう》なのよ」
言いながらも、ハルヒは地に落ちた黒ジャケットのポケットから髪留めゴムを取り出して、長い黒髪を器用に後頭部でまとめあげた。
「まあね、このほうが運動部らしいかもね。これでいい?」
ばっちりだ。俺の目には魅力《みりょく》度三十六パーセント増になったように見えるぜ。
「バカ」
他《ほか》にどういう反応をしていいのか解《わか》らなくなったとき、こいつはとりあえず怒《おこ》った顔を形作るのである。とっくに学習済みだ。
遅《おく》れることしばし、古泉の着替えも完了《かんりょう》した。この寒空の下で半袖短パンはさぞ涼しかろう。しかもそれが他人の体操服ともなれば格別の気分に違《ちが》いない。古泉は肌《はだ》を粟立《あわだ》てながら、
「涼宮さん、そのジャージの上着は羽織らないんですか? でしたら僕に貸して欲しいのですが」
同じように二の腕《うで》を剥《む》き出しにしているのに、ハルヒは寒気を吹《ふ》き飛ばすような笑顔で、
「これはダメ。鞄《かばん》を隠《かく》すのに使うから。せっかく格好を似せたのに持ってる鞄で正体が割れちゃ片落ちと言うものだわ」
確かに光陽園学院の通学鞄は北高の物とは微妙《びみょう》に異なる外観をしている。ハルヒはジャージの上衣を風呂敷《ふろしき》みたいに広げると自分と古泉の鞄を包み込み、俺に持つよう命じた。脱いだ二人分の制服は体操着入れへと直行する。これも俺が持たされた。
「じゃあ、これから」
ハルヒは脇《わき》を締《し》めて両手を腰にあてがった。
「いかにもマラソソから帰ってきた感じで走るわよ。いいわね!」
そりゃいいけどさ。俺はどうなんだ。こんな荷物を抱《かか》えて、しかも制服姿でロードワークに出ている運動部員ってのは何者だよ。
「マネージャーってことにしときゃいいでしょ。それ、ファイト! いちにっ、ファイト! いちにっ」
走り出したポニーテールを、一瞬《いっしゅん》顔を見合わせてから同時に肩《かた》をすくめた俺と古泉が追いかける。
俺もこの古泉もよく知っている。あらゆる意味で走り出したハルヒを止めることなど、あらゆる状況《じょうきょう》で無理なのだ。なら、後を追うしか選択肢《せんたくし》は他にない。
な、いつもそうだったろ?
いいのか悪いのか、北高の校門は山の下の私立と違ってほとんど常時開放状態である。警備員などどこを探してもいない。何の問題もなく素通《すどお》りし、ハルヒの掛《か》け声を聞きながらの短い偽装《ぎそう》マラソンはすぐ終了《しゅうりょう》、ゴール地点の玄関《げんかん》に無事たどり着いた。ハルヒと古泉を我が校舎へと招き入れるのにこんな手間がかかるとは、三日前までお前らは普通《ふつう》の顔してここに通っていたんだぞ。
「しょぼい校舎ねえ。この壁なんてプレハブじゃないの? 県立ってこんな貧乏《ぴんぽう》なわけ? 受験しなくて正解だったかも」
もっともな感想を聞きながら俺は立ち並ぶ下駄《げた》箱から目を離《はな》した。上履《うわば》きに履き替《か》え終え、さて二人の分をどうするかと来客用スリッパが落ちてないか探していたのだが、ハルヒはお構いなしだった。手近な下駄箱を開けて誰《だれ》とも知らない北高生の上履きを引きずり出している。
何もかもがハルヒのやりそうなことで、俺は自分でも知らないうちに変な笑みを浮《う》かべていたようだ。
「なに笑ってんの? すごいバカみたいな顔に見えるわよ。あたしは笑われるようなことをやってないんだからね」
言われて口元を改める。確かにそうだ。ハルヒの暴挙はともかくとして、笑っている場合では全然ない。
たぶん似たようなサイズだろうと思い、古泉には谷口の靴《くつ》を放《ほう》ってやった。
「恐《おそ》れ入ります」
ちっとも恐れ入っていない口調で礼を言いながら古泉は靴を履き替えた。元々履いていたスニーカーは谷口の下駄箱へ押し込んでやる。
俺はジャージにくるまれた二人の鞄を小脇《こわき》に抱え直し、
「案内する。ついてきてくれ」
「ちょい待ち」
歩き出そうとするとハルヒから制止を受けた。無意識にか、ポニーテールの先を指に絡《から》めている。
「長門さんっていう宇宙人は文芸部にいるのね?」
今では元宇宙人の一女子高生みたいなものだが、それでもあいつは俺が行くまで一人で待っていると思う。
「その長門さんは逃《に》げそうにないわね。先に朝比奈さんっていう未来人を捕《つか》まえに行きましょう。彼女はどこ?」
もう帰っちまってるんじゃあ……、と思ったところで閃《ひらめ》いた。俺のインスピレーションもまだまだ捨てたものではない。記憶《きおく》に探《さぐ》りを入れるまでもなかった。俺を知らないと言い切ってくれた朝比奈さんは書道セットを持っていたよな。でもってSOS団に拉致《らち》される前の彼女は書道部に在籍《ざいせき》していた。なら、ここでは今でもそうかもしれない。
「わかった。こっちだ」
長門すまん。もうちょっとだけ待っててくれ。書道教室を経由して行くからさ。書道部が本日|開催《かいさい》していることを祈願《きがん》しつつ、俺の足は自然と速まった。
その部屋のドアを開いたのはハルヒである。ノックなどという奥ゆかしさとは無縁《むえん》の奴《やつ》であり、俺にもその無礼を回避《かいひ》すべく働きかけるような気を回す余裕《よゆう》がなく、古泉は居心地《いごこち》悪そうに廊下《ろうか》に立ちつくしていた。
書道教室には三人の女子生徒がいて、書き初《ぞ》めのリハーサルに励《はげ》んでいるようだった。
「朝比奈さんってのはどれ?」
「……はい?」
こっちを見て目を見開いている三人の中で、ひときわ小さな人影《ひとかげ》が頼《たよ》りなさそうな声を唇《くちびる》から漏《も》らした。
「なんでしょう……」
椅子《いす》にちょこんと座っている朝比奈さんは、手にした筆を空中で止めている。
俺はハルヒの肩越《かたご》しに室内をさっと確認《かくにん》した。ホッとすることに鶴屋さんはいない。彼女は書道部ではなかったのだっけ。
耳元でハルヒが囁《ささや》いた。
「あの娘《こ》がそうなの? ほんとに二年生? 中学生に見えるけど」
「俺にも中学生に見えるが、彼女で合ってる。間違《まちが》いなく朝比奈みくるさんだ」
聞くなりハルヒはずかずか踏《ふ》み込んで、毛筆を構えた姿勢で固まっている小柄《こがら》な天使にデタラメを放った。
「生徒会情報室室長の涼宮です。朝比奈みくるさん、あなたに訊《き》きたいことがあるので来ました。ちょっと出頭してちょうだい」
Tシャツとジャージ姿でよく言うよ。
朝比奈さんは目をぱちくりさせて不安そうな声、
「生徒会……じょうほうしつ? 何ですかそれ……わたし何も」
「いいからいいから」
筆を奪《うば》って書きかけの半紙の上に転がすと、ハルヒは朝比奈さんの腕《うで》を握《にぎ》って強引に立ち上がらせた。他の女子部員さんたちは恐れをなしたか、まだ驚《おどろ》きの最中《さなか》なのか何も言ってこない。鶴屋さんがここにいたらハルヒとの異種|格闘技《かくとうぎ》戦を観《み》ることができたかもしれないが、ともかくハルヒは朝比奈さんの腰《こし》に手を回してガッチリ固定し、有無を言わせず連行してきた。
「あなた……。めちゃ胸デカいわねえ。うん、いいキャラしてる。気に入ったわ」
ハルヒは嬉《うれ》しそうに、捕まえた他校の上級生の胸をまさぐっていた。
「ひぃゃ! わわ、あのその……あっ!?」
入り口で待機していた俺を見た朝比奈さんがさらに目を大きくする。いつぞやの変態がまた現れたとか思われてんのかな。朝比奈さんは廊下で寒そうに足踏《あしぶ》みする古泉にも驚きの視線を投げかけ、古泉は他人を見るそのままの目で朝比奈さんを一瞥《いちべつ》して、
「一応、怪《あや》しいものではないつもりです。僕はね」
そんな格好でここまで来といて部外者|面《づら》しても通用せんぞ、古泉。
ハルヒはわたわたする朝比奈さんを、出かけ先が歯医者だと悟《さと》った子供の逃走《とうそう》を防ぐ母親のように抱《かか》えて、
「さあ、ジョン。残るは長門さんとやらよ。その彼女のところまで案内なさい」
言われるまでもない。
目ざとい同級生や俺の無断エスケープを知る教師どもに発見されないうちに、俺たちはそこに行かねばならない。
通称《つうしょう》旧館、部室|棟《とう》三階にあるSOS団|本拠地《ほんきょち》、正式には文芸部の部室へと。
今度の扉《とびら》はノックしてから俺が開いた。
「よう、長門」
テーブルにハードカバーの図書館本を立てかけて読んでいた眼鏡《めがね》の顔がすっと上がった。
「あ……」
長門は俺を見て安堵《あんど》したように息を吐《は》き、
「え」
続いて現れたハルヒに目を丸くし、
「……え」
そのハルヒに抱え込まれている朝比奈さんの姿に口を開け、
「…………」
末尾《まつび》をつとめた古泉の登場に至って絶句した。
「こんにちは」
と笑顔《えがお》を振《ふ》りまきながら、ハルヒは全員が部屋に入ったのを見届けてドアに鍵《かぎ》をかけた。がちゃり、という効果音に長門と朝比奈さんが同じ反応、ビクリと身体《からだ》を強《こわ》ばらせた。
「なんなんですかー?」
いつかのように朝比奈さんは半泣きだった。
「ここどこですか、何であたし連れてこられたんですか? 何で、かか鍵を閉めるんですか? いったい何を、」
このまったく同じ反応に俺まで泣きそうになる。懐《なつ》かしいぜ。
「黙《だま》りなさい」
いつかと同様、ハルヒはぴしゃりと一刀両断し、ぐるりと室内を見回して、
「そっちの眼鏡っ娘が長門さん? よろしく! あたし涼宮ハルヒ! こっちの体操服が古泉くんで、この胸だけデカい小さい娘が朝比奈さん。で、そいつは知ってるわよね? ジョン・スミスよ」
「ジョン・スミス……?」
怪訝《けげん》な面持《おもも》ちで眼鏡のフレームを押さえ、長門は不思議そうにこっちを見た。俺は肩《かた》をすくめて間抜《まぬ》けなニックネームを受け入れた。キョンでもジョンでも似たようなもんだ。
「ふーん、ここがそうなの。SOS団か。何にもないけどいい部屋だわ。いろいろ持ち込み甲斐《がい》がありそう」
ハルヒは新居に連れてこられたばかりの猫《ねこ》のように部室を隅々《すみずみ》まで歩き回り、窓の外を覗《のぞ》いたり本棚《ほんだな》の中身に興味深げな視線を送っていたが、俺に向かって言ったのが、
「でさ、これからどうする?」
お前、何も考えずにここまで来たのか。本当にハルヒそのまんまなんだな。
「この部屋を拠点にするのはあたしとしても賛成だけど、交通が不便だわ。学校が終わってからここに来るには時間がかかるしさ。あたしの学校と北高って全然交流ないしね。そうだ、時間を決めて駅前の喫茶《きっさ》店に集合ってことでどう?」
いきなり言い出したところで、こいつと俺以外の全員には意味不明だろう。
長門は戸惑《とまど》い顔の置き人形化しているし、朝比奈さんはオドオドと挙動|不審《ふしん》、古泉はだんまりを決め込んでいる。
とりあえず何か言おうと口を開きかけたとき――。
ピポ
突然《とつぜん》、手も触《ふ》れていないパソコンが電子音を発した。長門が反射的な仕草で顔を横向ける。
「ひえっ?」
朝比奈さんがへっぴり腰《ごし》になるのだけは辛《かろ》うじて認識できた。俺が持つそれ以外の状況《じょうきょう》識別能力のすべてがパソコンへと収束していく。
古めかしいCRTディスプレイがぱちぱちと音を立てながら、うっすら明るくなっていくのが解《わか》った。長門の眼鏡にその模様が反射している。
それに呼応してハードディスクが回転するシーク音が――続かなかった。前にもこんな事があったな……。いや、あの時は自分でスイッチを入れたのだったか……。OSを立ち上げず、別のものを表示したパソコンの画面を俺は見たことがある……。
「どいてくれ」
身体が勝手に動く。俺はハルヒを押しのけて全速力でディスプレイの正面に回った。
ダークグレイのモニタ上に、音もなく文字が流れ始める。
Y U K I .N > これをあなたが読んでいる時、わたしはわたしではないだろう。
……そうだよ。その通りだよ。長門……。
「何? スイッチも押してないのに、びっくりするじゃないの」
「タイマーがセットされていたのでしょうか。それにしても、えらく古いパソコンですね。アンティークものですよ」
背後でハルヒと古泉が会話しているが俺は聞いていなかった。一字一句見落とすことはできない。瞬《まばた》きも惜《お》しい。心臓がタップを踊《おど》り出す音を耳元で聞きながら、俺は画面を見つめていた。
Y U K I .N > このメッセージが表示されたということは、そこにはあなた、わたし、涼宮ハルヒ、朝比奈みくる、古泉一樹が存在しているはずである。
まるで俺の読む速度に合わせたようにカーソルは無骨なフォントを紡《つむ》ぐ。
Y U K I .N > それが鍵《かぎ》。あなたは解答を見つけ出した。
俺の出した解答じゃないんだ。古泉を伴《ともな》ってハルヒが勝手に押しかけてきたんだよ。こっちのハルヒもなかなか役に立つじゃないか……。それにしても長門、数日ぶりだな。
ディスプレイの文字を懐《なつ》かしい思いで読む俺である。声には出さず、だが胸の内で長門の平《へい》坦《たん》声で音読する。スクロールは続く。
Y U K I .N > これは緊急《きんきゅう》脱出《だっしゅつ》プログラムである。起動させる場合はエンターキーを、そうでない場合はそれ以外のキーを選択《せんたく》せよ。起動させた場合、あなたは時空修正の機会を得る。ただし成功は保証できない。また帰還《きかん》の保証もできない。
緊急脱出――プログラム。これが。このパソコンが。
Y U K I .N > このプログラムが起動するのは一度きりである。実行ののち、消去される。非実行が選択された場合は起動せずに消去される。Ready?
それで終わりだった。末尾《まつぴ》でカーソルが点滅《てんめつ》している。
エンターキーか、それ以外か。
気が付けばハルヒが後ろから覗《のぞ》き込んでいた。
「どういう意味? なんの仕掛《しか》けなの? ジョン、あんたやっぱりあたしをからかっているだけなの? 説明してよ」
ハルヒも古泉も朝比奈さんのことも俺は無視した。ポニーテールなハルヒも俺の体操服を着ている古泉もやっぱり可愛《かわい》い朝比奈さんもこの時ばかりは眼中にない。俺の注意はパソコンと、この部屋にいるただ一人に向いていた。驚《おどろ》きの表情で画面を見つめている眼鏡《めがね》少女に対してだけ言う。
「長門、これに心当たりはないか?」
「……ない」
「本当にないのか?」
「どうして?」
自分の意思表示を押し殺しているような返答に、これはお前が打った文章だからだ……と言いたかったが、この長門は面食らうだけだろう。
俺はもう一度最後の部分を見直した。
長門が残してくれたメッセージ。俺の知っている長門の、だ。緊急脱出プログラムとやらが具体的にどういうものかは解らない。保証できないってところにも一抹《いちまつ》の不安が発生する。
だが、今更《いまさら》くどくど悩《なや》んだりはしなかった。俺はあの長門に全幅《ぜんぷく》の信頼《しんらい》を寄せていたし、今も寄せている。あいつのやることに間違《まちが》いがあるとは思えない。何度も危機を救ってくれたのは大人しくて寡黙《かもく》な宇宙人製の有機アンドロイド、長門有希に他《ほか》ならない。あいつの言葉を疑うくらいなら俺は自分の頭を疑うさ。
「ねえ、ジョン。どうしたの? また変な顔してるわよ」
ハルヒの声すら遠くに聞こえる。
「ちょっと黙《だま》っててくれ。今、考えをまとめてるんだ」
ここは考えどこだ。違《ちが》う高校に行ってたハルヒと古泉、未来人じゃない朝比奈さん、何も知らない長門について考えて、俺が考えるべきはそんなことではないことを再確認する。
パソコンに表示された長門の自己表現。そのメッセージを疑うかどうかでもないんだ。
俺は背筋を伸《の》ばして深呼吸する。
そう――。
それより何より確かなのは、俺がこの世界から脱出したいってことだ。すでに馴染《なじ》みとなって俺の日常に組み込まれたSOS団とそこの仲間たちと再会したいのだ。ここにいるハルヒや朝比奈さんや古泉や長門は、だから俺の馴染みではないんだ。ここには『機関』も情報統合思念体もなく大人版朝比奈さんが来ることもないのだろう。それは間違っている。
決心までに、たいした時間はかからなかった。
俺はポケットからくしゃくしゃの紙片を取り出し、
「すまない、長門。これは返すよ」
差し出した白紙の入部届けに、長門の白い指が緩慢《かんまん》に伸びた。一回失敗して、二度目にやっとつまむことに成功する。俺が手を放すと、入部届け用紙は風もないのに震《ふる》えていた。
「そう……」
声まで震わせて、長門は睫毛《まつげ》で目の表情を隠す。
「だがな」俺は大急ぎで言った。「実を言うと俺は最初からこの部屋の住人だったんだ。わざわざ文芸部に入部するまでもないんだ。なぜなら――、」
ハルヒと古泉と朝比奈さんは「何言ってんだこいつ」みたいな顔で俺を見ている。長門の顔は髪《かみ》に隠れてよく見えない。かまわない。安心しろ長門。これから何が起ころうと俺は必ず部室に戻《もど》ってくる。
「なぜなら俺は、SOS団の団員その一だからだ」
Ready?
O.K.さ、もちろん。
俺は指を伸ばし、エンターキーを押し込んだ。
その直後――。
「うわっ?」
強烈《きょうれつ》な立ちくらみに襲《おそ》われ、俺は思わずテーブルに手をつこうとして、そしてぐるりと視界が回る。耳鳴り。誰《だれ》かの声が遠くから聞こえる。目の前が暗くなる。上下の感覚も失せた。浮遊《ふゆう》する感覚。急流に落ちた木の葉のように。くるくる回っている。俺を呼ぶ声がどんどん離《はな》れていく。何と言っている? ジョンかキョンか。それも解らない。ハルヒの声のような気がしたが違うような気もする。暗い。墜《お》ちているのか? どこへ。どこに墜ちようと言うんだ。
混乱する思考。俺の目は開いているのか? 何も見えない。もう何も聞こえない。ただ流されている気配だけがする。俺の身体《からだ》はどこだ。ハルヒは。ねじ曲がっている。古泉。朝比奈さん。ここは? 俺はどこに行こうとしている? 緊急《きんきゅう》脱出《だっしゅつ》プログラム。脱出する先に何が待っているんだ。
長門――。
「うわっ!?」
再び声を上げながら俺は砕《くだ》けそうになった膝《ひざ》をなんとか支えてやった。それから自分が立っていることに気づいた。
「何だ……?」
周囲は暗い。だが真の闇《やみ》ではない。大丈夫《だいじょうぶ》だ、俺の目はまだ見えている。
「ここは……」
窓から差し込む僅《わず》かな明かりを頼《たよ》りに、俺は自分の居場所を確かめる。ここは何かの部屋で、俺が手をついているのはテーブルの表面で、そのテーブルには旧式なパソコンが載《の》っている……。
「文芸部室だ」
さっきまでの。
だが長門はいない。ハルヒも朝比奈さんも古泉も消えている。俺一人。それに真っ暗だった。夕方になりかけの日差しが部屋を照らしていたのに、いきなり夜になっていた。窓から見上げた空には、まばらと言うにも少なすぎる星が申しわけ程度に瞬《またた》いている。時間がすっ飛んでしまったようだ。
室内の様子はつい先ほどまでと変わっていない。本棚《ほんだな》とテーブルがあって旧式パソコンが一台。それだけで悟《さと》った。俺は元の世界に戻ってきたのではない。ここにはSOS団の備品がまったくなかった。団長机も朝比奈さんのコスプレ衣装《いしょう》もなく、がらんとした文芸部室のままである……の、だが……。
額から汗《あせ》が流れて目にしみた。俺はブレザーの袖《そで》で汗をぬぐう。
何かおかしい。
この違和感《いわかん》は何だ。ここがどこだかは解る。文芸部の部室で間違《まちが》いない。おめーはタイコか。谷口のセリフが不意に去来した。どこ。問題はそれじゃない。そうだ。どこか、ではないんだ。
「ここは……」
唐突《とうとつ》に俺は違和感の正体を突《つ》き止めた。気づくと同時に体感温度が一気に上昇《じょうしょう》したように感じたが、そうではない。最初から気温はこうだったんだ。俺の体温変化による体感温度の錯覚《さっかく》ではない。
我慢《がまん》できず俺はジャケットを脱《ぬ》いだ。全身の毛穴が開いて次々と汗を噴《ふ》き出しつつある。上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくっても部屋に籠《こ》もった熱気は収まらない。
「暑い」
と、俺は呟《つぶや》いた。
「まるで――」
まるで真夏の気温だった。
つまり、現在の俺が思うべき疑問は一つだけだ。
今は、いつだ。