■無料ホームページスペース■


プロローグ


 地球をアイスピックでつついたとしたら、ちょうど良い感じにカチ割れるんじゃないかというくらいに冷え切った朝だった。いっそのこと、むしろ率先してカチ割りたいほどだ。
 とはいえ寒いのも当然で、それは今が冬だからだ。一ヶ月ちょい前の文化祭までがやたら暑かったと思えば十二月になった途端《とたん》、ど忘れを思い出したかのように急激に冷え込みやがり、今年の日本には秋がなかったことを身にしみて実感する。誰《だれ》かが商売|繁盛《はんじょう》の判じ物を呪文《じゅもん》と勘《かん》ちが違いしたんじゃないだろうな。シベリア寒気団の連中も、たまにはルートを変更《へんこう》すればいいのに。こう毎年やってくることもないだろう。
 地球の公転周期が狂《くる》ってやしないかと、俺が母なる大地の健康を気遣《きづか》いながら歩いていると、
「よっ、キョン」
 追いついてきた軽薄《けいはく》な男が水素並みに軽い調子で俺の肩《かた》を叩《たた》いた。立ち止まるのはおっくうなので振《ふ》り返るだけにした。
「よう、谷口《たにぐち》」
 と俺は返答し、また前を向いて遥《はる》かな高みにある坂のてっぺんを恨《うら》めしく眺《なが》める。こんな坂道を毎日のように上っているんだから、体育の授業なんざもっと削《けず》ってもいいんじゃないか? 毎朝がハイキングの通学路を歩く学生への心配りを担任|岡部《おかべ》他《ほか》の体育教師ももっとするべきだ。どうせ自分たちは車で来てるんだし。
「何をジジむさいこと言ってんだ。早足で歩け。いい運動だぜ。身体《からだ》が暖まるだろ。俺なんか、ほら見ろ、セーターも着てねえ。夏場は最悪だが、この季節にはちょうどいいぜ」
 やたら元気なのはいいことだが、その素《もと》となるのは何だ。俺にも少し振りかけてくれ。
 谷口はしまらない口元をニヤリとゆがめ、
「期末テストも終わっただろ。おかげで今年中に学校で学ぶことなんかもう何もねえよ。それよりもだ、素晴《すば》らしいイベントがもうすぐやってくるじゃねえか!」
 期末テストなら全校生徒に対して平等に降りかかり、平等に終わった。不公平なのは採点されて戻《もど》ってきた解答用紙に書き込まれている数字くらいのものだろう。
 俺はそろそろ予備校の心配をし始めた母親の様子を思い出しながら気分を暗澹《あんたん》とさせた。来年、二年になれば、クラス分けは志望校に沿って行われる。文系か理系か、国公立か私立か。さあ、どうしような。
「そんなこと後で考えりゃあいい」谷口は笑い飛ばした。「もっと別に考えることがあるだろ? 今日が何月何日がお前知ってるか?」
「十二月十七日」と俺。「それがどうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもねえ。一週間後に胸が躍《おど》るような日がやってくるのを、お前は知らんのか?」
「ああ、なるほど」俺は正解を思いついた。「終業式だな。確かに冬休みは心待ちするに足りるイベントだ」
 しかし谷口は、山火事に出くわした小動物のような一瞥《いちべつ》をみまい、
「違うだろ! 一週間後の日付をよーく思い出してみろ。自《おの》ずと解答にたどり着くだろーが」
「ふん」
 俺は鼻を鳴らして、もわっと白い息を吐《は》いた。
 十二月二十四日。
 解《わか》ってたさ。来週に誰かのでっち上げか陰謀《いんぼう》のような行事があるってことくらい、とっくにお見通しだ。誰が見逃《みのが》しても俺が見逃せようはずもない。俺以上にこの手のイベントをめざとく発見する奴《やつ》が近くの席に座っているのだからな。先月ハロウィンを見過ごしてしまったことを残念がっていたし、何かやるつもりなのは間違いない。
 いや、実は何をやるのかも知っている。
 昨日、部室で、涼宮《すずみや》ハルヒは確かにこう発言した………


「クリスマスイブに予定のある人いる?」
 扉《とびら》を閉めるなり鞄《かばん》を投げ出したハルヒは、オリオンの三連星のような輝《かがや》きを瞳《ひとみ》に浮《う》かべながら俺たちを睥睨《へいげい》した。
 その口調には、「予定なんかあるわけないわよね、あんたたちももうちゃんと解ってるでしょ?」みたいな言外のニュアンスが込められているようで、イエスとでも答えようものならたちどころにブリザードを呼び寄せかねない勢いであった。
 その時、俺は古泉《こいずみ》につきあってTRPGをやっているところであり、朝比奈《あさひな》さんはほとんど普段着《ふだんぎ》となりつつあるメイド衣装《いしよう》で電気ストーブに手をかざし、長門《ながと》はSFの新刊ハードカバーを指と目だけを動かして読んでいた。
 ハルヒは鞄の他に持っていた大きな手提《てさ》げバッグを床《ゆか》に置き、俺のそばにつかつかとやってくると胸を反らして見下ろす視線をよこし、
「キョン、もちろんあんたは何にもないわよね。訊《き》かなくても解るけど、いちおう確認《かくにん》してあげないと悪いような気がするから訊いてあげるわ」
 世界一有名な猫《ねこ》のような笑いを浮かべている。俺は転がそうとしていたダイスを、いわくありそうな微笑《びしょう》をたたえる古泉に手渡《てわた》して身体をハルヒへ向けた。
「予定があったらどうだってんだ。まずそれを先に言え」
「ってことは、ないのね」
 勝手にうなずいて、ハルヒは俺から視線をはずした。おい、ちょっと待てよ。まだお前の質問に答えてないぞ。……まあ、何の予定もないのは今回に限ったことでもないのだが。
「古泉くんは? 彼女とデートとかするの?」
「そうであったらどれほどいいことでしょう」
 手のひらでサイコロを転がしつつ、古泉は芝居《しばい》じみた吐息《といき》を漏《も》らした。実にわざとらしい。イカサマの香りがプンプンする。
「幸か不幸か、クリスマス前後の僕のスケジュールはぽっかりと空いています。どうやって過ごそうかと、一人で思い悩《なや》んでいたところですよ」
 そう言いつつ微笑するハンサム面《づら》に俺は嘘吐《うそつ》けとか思う。しかしハルヒはあっさりと信じ込み、
「悩むことはないわ。それはとても幸せなことだから」
 次にハルヒが舳先《へさき》を向けたのはメイド少女の姿へである。
「みくるちゃん、あなたはどう? 夜更《よふ》けすぎに雨が雪へと変わる瞬間《しゅんかん》を見に行こうとかって誰《だれ》かに誘《さそ》われてない? ところで今時そんなことをマジな顔で言う奴が本当にいたら殴《なぐ》っちゃっていいわよ」
 大きな双眸《そうぼう》を見開いてハルヒを見つめていた朝比奈さんは、いきなりの詰問《きつもん》にビビクンとしてから、
「いえ、そ、そうですね。今のところ何も……。ええと、夜更けすぎ……? あ、それよりお茶を……」
「とびっきり熱いやつをお願いね。この前のハーブティーってやつがおいしかったわ」
 注文するハルヒに、
「は、はい! さっそく」
 お茶を入れるのがそんなに楽しいのか、朝比奈さんは顔を輝かせてカセットコンロにヤカンをかけた。
 満足げにうなずきつつ、ハルヒは最後の一人となった長門に言った。
「有希《ゆき》」
 長門はページから顔を上げずに短く答えた。
「ない」
「よね」
 小鳥の囀《さえず》りのように端的《たんてき》な会話を終え、ハルヒは改めて俺に偉《えら》そうな笑《え》みを向ける。俺は我関せずといった具合に本を読み続ける長門の白皙《はくせき》の顔を見て、そんな当意即妙《とういそくみょう》に答えなくてもいいものを、と少しばかり思った。ちょっとはスケジュールを思い出すフリくらいすればいいのに。
 ハルヒは片手を振《ふ》り上げると、
「そういうことで、SOS団クリスマスパーティの開催《かいさい》が全会|一致《いっち》で可決されました。異論や反論があるならパーティ終了《しゅうりょう》後に文書で提出しなさい。見るだけなら見てあげるわよ」
 つまり何があっても言い出したことを取り消したりはしないってことであり、とうに見慣れた展開でもある。言葉通りに一応だったが、全員の予定を聞いて回ったあたりは半年前くらいに比べると進歩と言えなくもない。それが予定でなく全員の意思であったらなおさらよかったのだが。
 すべてがシナリオ通りに進んでいると言いたげな満足顔で、ハルヒは置いていた手提げバッグに手を突《つ》っ込んだ。
「でさ。せっかくのクリスマスシーズンなんだから、いろいろ準備もしないといけないでしょ? そう思ってグッズを用意してきたの。こういうのは雰囲気《ふんいき》作りから始めるのが正しいイベントの過ごしかただわ」
 そうして出てきたのは、スノースプレー、金や銀のモール、クラッカー、ミニチュアサイズのツリー、トナカイのぬいぐるみ、白い綿、電飾《でんしょく》、リース、赤と緑の垂れ幕、アルプス山脈が描《えが》かれたタペストリー、ゼンマイで動く雪だるま人形、ぶっといローソクとキャンドル立て、幼稚園児《ようちえんじ》なら入れそうな巨大《きょだい》クツシタ、クリスマスソング集入りCD……。
 子供にお菓子《かし》を配る近所のお姉さんみたいな笑顔で、ハルヒは次々とクリスマスっぽい品物を登場させてはテーブルに並べ、
「この殺風景な部室をもっとほがらかにするの。クリスマスを積極的、かつ前向きに味わうためには形から入るのが初心者向けね。あんたも子供の頃《ころ》にこんなことしなかった?」
 するもしないも、後もう少ししたら俺の妹の部屋がクリスマス仕様になる。今年もその手伝いを母親に命じられるだろう。ちなみに当年取って小学五年生十一歳になる我が妹は、どうやら未《いま》だにサンタ伝説を信仰《しんこう》しているようだ。俺が人生のかなり初期に見抜《みぬ》いてしまった両親の巧妙《こうみょう》なる偽装《ぎそう》工作にまだ気づいていないのである。
「あんたも妹さんの純真な心を見習いなさい。夢は信じるところから始めないといけないのよ。そうでないと叶《かな》ものも叶わなくなるからね。宝くじは買わないと当たらないわ。誰かが一億円の当たりクジをくれないかなあなんて思ってても、絶対そんなことないんだからね!」
 ハルヒは嬉《うれ》しそうに怒鳴《どな》るという器用な技《わざ》を見せながら、パーティ用の三角|帽《ぼう》を取り出して自らかぶった。
「ローマに行けばローマの、郷にいれば郷のしきたりに従わないといけないのよね。クリスマスにはクリスマスのルールに則《のっと》るわけ。誕生日を祝われてイヤな気分になる人間なんてそうそういないからね。ミスターキリストだってあたしたちが楽しそうにしているのを見て喜ぶわ、きっと!」
 さすがに、生まれた年すらよく解っていないキリスト生誕日にまつわる諸学説をここでそらんじるほど俺は空気の読めない人間ではない。それにキリスト誕生推定日が複数あるなんてことを言えばハルヒのことだ、「だったらそれ全部をクリスマスにしたらいいじやない」とか言い出して、年に何回もツリーを持ち出すハメになりかねないし、いまさらA.D.の始まりが前倒《まえだお》しされても困るだけだし、太陽|暦《れき》だろうが古代バビロニア暦だろうが所詮《しょせん》は人間の勝手な都合だし、広大な宇宙を黙々《もくもく》と回る天体たちは別に何を気にすることもなく寿命《じゅみょう》の果てるまでそうやっていることであろう。ああ、宇宙はいいなあ。
 などと大宇宙の神秘について思わず少年心をくすぐられる俺に夢想の猶予《ゆうよ》も与《あた》えず、ハルヒは部室内をサービス精神|旺盛《おうせい》なパンダのようにウロウロしながら、部屋のあちこちにクリスマス用小物を置いて回り、読書中の長門の頭にも三角帽を載《の》せ、スノースプレーをしゃかしゃか振ってガラス窓に『Merry Xmas!』と書き殴《なぐ》った。
 いいけど、それ、外から見たら鏡文字になってるぞ。
 そうこうしているうちに、ティーカップをお盆《ぼん》に載せた朝比奈さんがクルミ割り人形のようによちよちとやってきた。
「涼宮さーん、お茶入りましたよ」
 メイドスタイルで微笑《ほほえ》む朝比奈さんの姿は今日も極上《ごくじょう》で、何度見てもそのたびに新鮮《しんせん》な潤《うるお》いを俺の心に届けてくれる。たいていハルヒが何かを言い出すごとに悲惨《ひさん》な目に遭《あ》う朝比奈さんも、今度のクリスマスパーティには不安を覚えていないらしい。バニーでビラ配りやセクハラな衣装《いしょう》で映画に出ることに比べたら、団員全員でこぢんまりしたパーティを楽しむことなど実際的|純粋《じゅんすい》的に楽しげなことだしな。
 だが、本当にそうか?
「ありがと、みくるちゃん」
 機嫌《きげん》良くハルヒはカップを受け取って、立ったままハーブティーをずるずるすすり込む。その様子を邪気《じゃき》のない笑顔で見守る朝比奈さん。
 わずか数十秒で熱々の液体を飲み干し、ハルヒは先ほどまでの笑顔をさらに二乗にした。
 イヤな予感がするね。何かいかがわしいことを考えているときの笑みだ。けっこう長いつきあいだ、それくらいは俺にだって理解できている。
 問題は……。
「とってもおいしかったわ。みくるちゃん、お礼と言っては何だけど、あなたにちょっと早めのプレゼントがあるのよね」
「え、ほんとですか?」
 目を瞬《またた》かせる可憐《かれん》なメイドさんに、
「これ以上の真実はないってくらい本当よ。月が地球の周りを回ってて地球が太陽の周りを回っているくらい本当のことだわ。ガリレイのことを信じなくてもいいけど、あたしの言うことは信じなさい」
「あ、はははい」
 そうしてハルヒはまたもやバッグに手を差し入れた。
 気配を感じて顔を向けると、まともに目があった古泉が微苦笑《ぴくしょう》を浮《う》かべて肩《かた》をすくめて見せる。何のつもりだと言いたいところだが、何となく解《わか》る。だてにハルヒの仲間を半年以上もやってないんだ、これで想像できないほうがおかしいだろ。
 そう、と俺は思うのだった。
 問題は、まさにハルヒの思いつきを抑制《よくせい》できる人間やそんな効果のある薬がこの世のどこにもないということなのだ。誰《だれ》か発明してくれたら個人的に勲《くん》一等を進呈《しんてい》したい。
「じゃじゃーん!」
 幼稚《ようち》な掛《か》け声とともに、ハルヒがバッグの奥底から最後に出してきたクリスマスアイテム、それは――。
「そ、それは……?」
 反射的に後ずさる朝比奈さんに、ハルヒは弟子《でし》に愛用の杖《つえ》を伝授しょうとしている老|魔法使《まほうつか》いのような表情で言い放った。
「サンタよ、サンタ。ばっちりでしょ? やっぱこの時期なんだから、季節限定の格好をしてないと示しがつかないからね。ほら、着替《きが》え手伝ってあげる」
 まさしく、後退する朝比奈さんにゆっくりと詰《つ》め寄っていくハルヒが両手で広げているのは、サンタクロースの衣装に他《ほか》ならないのであった。


 かくして俺と古泉は部室の外に放《ほう》り出され、内部で行われているハルヒによる朝比奈さん衣替《ころもが》えシーンをむなしく妄想《もうそう》するのみである。
「えっ」「きゃ」「わわっ」という、悲鳴にも似た小さな声が、いらない想像力を俺に与え、なんだか扉《とびら》の向こうを透視《とうし》できてるんじゃないかってくらいの幻覚《げんかく》を運んできた。いやあ俺もそろそろ本格的にヤバいのかもしれないな。
 しばらく幻想夢物語に浸《ひた》っていると、
「朝比奈さんには気の毒ですがね」
 ヒマをもてあましたか古泉が語りかけてきた。廊下《ろうか》の壁《かべ》にもたれて腕《うで》を組む無駄《むだ》な面《つら》と物腰《ものごし》のよさを誇《ほこ》るこの男は、
「涼宮さんが楽しそうにしている様子は、僕に安心感を与えてくれますよ。イライラしているところを見るのが一番心の痛む事柄《ことがら》ですから」
「あいつがイラつくと変な空間が発生するからか?」
 古泉は前髪《まえがみ》を片手の薬指ですいっとかき上げ、
「ええ、それもあります。僕と僕の仲間たちが何より恐《おそ》れるのは閉鎖《へいさ》空間と〈神人〉の存在です。簡単そうに見えたかもしれませんが、あれでも苦労してるんですよ。ありがたいことに、この春以降、どんどん出現回数は減っていますが」
「てことは、まだたまには出てくるのか」
「まれにね。ここのところは深夜から明け方|頃《ごろ》に限られています。涼宮さんが眠《ねむ》っている時間ですよ。おそらく、イヤな夢を見ているその時に、無意識に閉鎖空間を作ってしまうのでしょう」
「寝《ね》てても起きてても、迷惑《めいわく》を生み出すヤツだな」
「とんでもない」
 古泉にしては鋭《するど》い声が飛んできた。正直言うとちょっとだけ驚《おどろ》いた。古泉は笑いを極小に抑《おさ》えて、俺を強い目線で見据《みす》えた。
「あなたは知らないでしょう。高校入学以前の涼宮さんがどのようだったかをね。僕たちが観察を始めた三年前から北高に来るまで、彼女が毎日のように楽しげに笑う姿なんて想像もしませんでしたよ。すべてはあなたと出会ってから、もっと正確に言うと、あなたとともに閉鎖空間から帰ってきてから、です。涼宮さんの精神は、中学時代とは比較《ひかく》にならないレベルで安定しています」
 俺は無言で古泉を見返した。視線を逸《そ》らすと負けのような気がして。
「涼宮さんは明らかに変化しつつあります。それも良い方向にね。我々はこの状態を保ちたいと考えていますが、あなたはそうではありませんか? 彼女にとって今やSOS団はなくてはならない集まりなのですよ。ここにはあなたがいて、朝比奈さんがいる。長門さんも必要ですし、はばかりながら僕もそうでしょう。僕たちはほとんど一心同体のようなものですよ」
 それは、お前サイドの理屈《りくつ》だろう。
「そうです。でも、決して悪いことではないでしょう? あなたは数時間刻みで〈神人〉を暴れさせている涼宮さんを見たいのですか? 僕が言うのも何ですが、決していい趣味《しゅみ》とは言えませんね」
 俺にそんな趣味はないし、これからも持つつもりはない。そればっかりは断言しておかなければならないな。
 古泉はふっと表情を改めた。また元の曖昧《あいまい》スマイル状態に復帰する。
「それを聞いて安心ですよ。変化と言えば、涼宮さんだけでなく僕たちだって変化しています。あなたも僕も、朝比奈さんもね。たぶん長門さんも。涼宮さんのそばにいれば、誰だって多少なりとも考え方が変わりますよ」
 俺はそっぽを向いた。図星をつかれたからではない。自分自身にはそんな実感はないから、図星なんかつかれようもないな。意外に感じたのは、長門がちょっとずつ変わりつつあるってことをこいつも気づいているってことだ。インチキ草野球に三年|越《ご》しの七夕、カマドウマ退治に孤島《ことう》の殺人劇やループする夏休み……。あれやこれやをわたわたとやっているうちに長門のちょっとした態度や仕草が、すべての始まりを告げた文芸部室での邂逅《かいこう》から微細《びさい》に変化しているのは確かだ。錯覚《さっかく》ではない。俺にだって手作り望遠鏡くらいの観察眼はあるんだ。思えば孤島でもあいつはちょっとおかしかった気がする。市民プールや盆踊《ぼんおど》り会場での様子もだ。映画|撮影《さつえい》での魔法使《まほうつか》いぶりもさることながら、コンピュータ研とのゲーム対戦ではさらなるおかしな振《ふ》る舞《ま》いを見せていた。……が。
 それは良いことなんだろう。ハルヒはともかく、俺にはそっちのほうが重要に思えるね。
「世界の安定のためでしたら」と古泉が微笑《ほほえ》み混じりに言った。「クリスマスパーティの主催《しゅさい》くらいは安いものです。その上楽しいときたら、僕が言う文句はボキャブラリーのどこを探しても見あたりませんね」
 反論のセリフが思いつかないことを何故《なぜ》か腹立たしく思っていると、
「もういいわよ!」
 いきなり扉が開かれ、そして部室の扉は内開きになっていたものだから、そのドアに身を預けていた俺は当たり前の結果としてゴロンと無様に背中から転がった。
「ひえっ!?」
 声の主は俺でもハルヒでもなく、朝比奈さんであり、ましてやその声は上から降ってきて、ちなみに仰向《あおむ》けに倒《たお》れた俺はイヤでも天井《てんじよう》を見上げる形にあったが天井は見えず、代わりに別のものが見えた。
「こら、キョン! 覗《のぞ》くなっ!」
 そう叫《さけ》んだのはハルヒで、
「ふわ、あふっ」
 うろたえた声を出して後ろに跳《は》ねたのは、朝比奈さんだろう。八百万《やおよろず》の神々に誓《ちか》う。足しか見えなかった。
「いつまで寝てんのよ! 起きなさいよっ!」
 ハルヒに襟首《えりくび》をつかまれて俺はようやく立ち上がる。
「まったくこのエロキョン! みくるちゃんのパンツ覗こうとするなんて、あんたには二億五千六百年早いわ! さてはワザとね、ワザとなんでしょ」
 合図を終えないうちにドアを開けたお前が悪い。これは事故だ。事故なんですよ朝比奈さん――と言おうとして、俺は目を奪《うば》われた。何にかと誰《だれ》か訊《き》くかい?
「わわ……」
 頬《ほお》を朱色《しゅいろ》に染めて立っている朝比奈さんのお姿以外に何もないね。
 白い縁取《ふちど》りをされた赤い服にぽんぽんのついた赤い帽子《ぼうし》……のみを身につけた朝比奈さんは、丈《たけ》の短い裾《すそ》を両手で握《にぎ》りしめ、恥《は》ずかしさのあまりか妙《みょう》に潤《うる》んだ目で俺を見つめていた。
 どこから見ても完璧《かんペき》完全、一分の隙《すき》すら見つけることのできないサンタ姿である。耄碌《もうろく》の境地に達した老サンタがひそかに家督《かとく》を孫娘《まごむすめ》に譲《ゆず》っていた、その孫娘こそ今ここにいる朝比奈みくるの正体なのだ。
 と、言われたら八対二の割合で信じてしまえることだろう。うちの妹なら絶対信じる。確実だ。
「非常によいですね」
 感想を述べたのは古泉である。
「申しわけありませんが、常套句《じょうとうく》しか思いつきませんよ。ええ、とてもよくお似合いです。うん、そうですとも」
「でしょ?」
 ハルヒは朝比奈さんの肩《かた》を抱《だ》き寄せ、目を白黒させているサンタ少女の顔に頬を寄せた。
「めっちゃくちゃ可愛《かわい》いわ! みくるちゃん、もっと自分に自信を持ちなさい。これからクリパまで、あなたはSOS団専用のサンタクロースよ。その資格があなたにはあるわ!」
「ふひー」
 情けなさそうな吐息《といき》をつく朝比奈さんだったが、これだけはハルヒが正しい。誰も反対するものはいないだろうな、と考えて長門のほう見やると、小柄《こがら》なショートカットの無言娘は、当然無言のままに読書にふけり続けていた。
 頭に三角|帽《ぼう》を載せっぱなしで。


 その後、ハルヒは俺たちを整列させて、その前で何か言っていた。
「いい? この時期ね、街の中でサンタを見かけてもホイホイついていったりしちゃダメよ。奴《やつ》らは偽物《にせもの》なんだから。本物は地球上にピンポイントでしか現れないの。みくるちゃん、あなたは特に気をつけるのよ。知らないサンタから安易に物を貰《もら》ったり、言われたことにうなずいていたりしちゃダメ」
 朝比奈さんをムリヤリ偽サンタにしておきながら言うセリフじゃないだろう。
 よもや、こいつはこの歳《とし》にもなって妹同様に例の国際的ボランティア爺《じい》さんの存在を信じているんじゃないだろうな。織姫《おりひめ》彦星《ひこぼし》に向けて願望|充足《じゅうそく》メッセージを放つような奴だからあり得ないことでもないが、俺はまさかと思うに留《とど》めておいた。何と言ってもすでに聖朝比奈が部室におわしてくれているのだ。本物を超越《ちょうえつ》した贋作《がんさく》がここにある。それでいいじゃないか。これ以上何かを望んだりしたら北欧《ほくおう》三国のどこかからクレームが来るだろう。
 俺が年一しか働かない怠《なま》け老人の闇《やみ》にまみれた資金源について考えていると、
「でさ、キョン。クリスマスパーティを盛大にやるのはいいとして、今年は思いつくのが遅《おそ》かったからキリストの誕生日だけだけど、来年は釈迦《しゃか》とマホメットの誕生会もしてやんないとね。でないと不公平だわ」
 ついでにマニ教とゾロアスター教開祖の誕生日も祝ってくれ。信者でもない野郎《やろう》どもに祝われても雲の上にいるであろう彼らにすれば苦笑《くしょう》するだけだろうし、ハルヒは祝うためにそれをするのでなく騒《さわ》ぐ口実が欲しいだけなのでお互《たが》い様だが、バチを当てるのならハルヒだけにしてくれよな。俺は片棒の端《はし》っこをちょいとつまんでいるだけなのだからさ。
 この場合どこの神様|宛《あて》にいいわけをすればいいのかと考える俺を尻目《しりめ》に、ハルヒは団長席に着いて、
「何がいい? 鍋《なべ》? すき焼き? カニはNGよ、あたしアレ苦手なの。殻《から》から身をほじくるのがイライラすんの。どうしてカニって殻も食べられるようになってないのかしらね。進化の過程でもうちょっと学ばなかったのかって言いたいわ」
 そう思ったからこそ甲羅《こうら》を獲得《かくとく》したんだろうよ。連中はお前に喰《く》われるために海底で自然|淘汰《とうた》されてきたわけじゃねえ。
 古泉が挙手の上、こう発言した。
「それでは店を予約しなければなりませんね。すでにシーズンに差し掛《か》かっておりますし、急がないとどこも一杯《いっぱい》になってしまいますよ」
 こいつが紹介《しょうかい》するような店にはあまり行きたいと思わないな。また変な店主が出てきてディナーの最中《さなか》にキテレツな殺人喜劇が始まりかねない。
「あ、それは心配しなくていいわ」
 俺と同じ感想を抱《いだ》いたのか、ハルヒは笑顔《えがお》で首を振《ふ》った。で、言ったのが、
「ここでやるから。必要な物は揃《そろ》ってるし、後は材料だけよ。そうね、炊飯《すいはん》ジャーも持ってきたほうがいいわ。それからお酒は厳禁よ。あたしはもう一生飲まないって心に誓《ちか》っているからね」
 もっと別のことを誓って欲しかったが、それよりすんなり聞き逃《のが》せないことが先にあった。
「ここでやる?」と俺は部室を見回した。
 確かに土鍋やカセットコンロは常備されている。冷蔵庫まで鎮座《ちんざ》しているのだ。どれもハルヒがSOS団|黎明《れいめい》期にどこかから運び込んで来たものだが、まさかこの時のために用意していたんじゃないだろうな。とりあえずコンロは朝比奈さんが本格的なお茶を入れるときの役には立っていたが、本来学校内それも古ぼけた部室|棟《とう》でそんな料理していいものなのだろうか。考えるまでもなくよくはない。棟内火気厳禁だ。
「いいわよ」
 ハルヒはちっとも動じず、調理師|免許《めんきょ》もないのになぜか腕《うで》だけは確かな小学生料理人のような笑みで、
「こういうのはコソっと隠《かく》れてやるのが楽しいの。もし生徒会や先生達が乗り込んできたら、あたしの素晴《すば》らしい鍋料理を振る舞《ま》ってあげるわけ。そしたらそいつらもあまりのおいしさに感涙《かんるい》にむせび泣きながら特例を認めるに違《ちが》いないって寸法よ。寸分の間違いもないわ。完璧《かんペき》よ」
 面倒《めんどう》くさがりのクセに、やるとなれば何であれ人並み以上にこなすハルヒのことだから、料理の腕前も口ほど並みにはあるのだろう。しかし鍋料理? いつのまに決まったんだ。話の流れではカニではないみたいだが、希望を募《つの》るフリだけして自己完結するとは ―― まあいつものことか。気にするまい………。


 と、いうようなことが昨日あったわけである。谷口にところどころ端折《はしょ》って話しているうちに高校に到着《とうちゃく》した。
「クリスマスパーティねえ」
 校門を過ぎながら谷口は半分笑った顔をする。
「涼宮のやりそうなことだな。部室で鍋大会か。ま、マジで教師どもには見つからないようにしろよ。また面倒なことになるぜ」
「なんならお前も来るか?」
 話した手前もあるので誘《さそ》ってやることにした。ハルヒも谷口なら気にしないだろう。こいつと国木田《くにきだ》、鶴屋《つるや》さんの三人は、困ったときの人数あわせトリオになっている。
 しかし谷口は首を振った。
「いやあ悪いなあ、キョン。俺はその日、しょぼい鍋なんぞを喰い散らかすヒマはねえんだ。うけけ」
 なんだその気味の悪い笑みは。
「あのなあ、クリスマスイブに変な仲間内で集まって鍋をつつきあうなんて、モテない連中のするこった。残念だが、俺はもうそっち側の男じゃなくなっちまった」
 まさかとは思うが。
「そのまさかってヤツだと思ってくれ。俺のスケジュール帳の二十四日には赤いハートマークが刻まれているぜ。いや悪い。マジで悪い。ほんと、すまねえーなあー」
 なんてこった。俺がハルヒやSOS団の面々と妙《みょう》ちきりんな遊びをやっている間に、谷口のアホ野郎に彼女ができていようとは。
「相手は誰《だれ》だ?」
 できるだけひがみに聞こえないように気を付けつつ尋《たず》ねると、
「光陽園《こうようえん》女子の一年さ。無難なとこだろ?」
 光陽園学院。山の下にある駅前の女子校か。ちょうど俺たちがえっちらおっちら山登りを始めるスタート地点に建ってるから、黒ブレザー制服の女子どもが大名行列のように歩いているところを毎朝見かける。割とハイソなお嬢《じょう》さん連中が通っているので有名だが、それより殺人的坂道を歩かなくてもいいのは羨《うらや》ましい話だ。いや別に谷口が羨ましいわけではない。
「いいじゃねえかよ。お前には涼宮がいるんだろ? 鍋《なべ》か……。あいつの手料理? 鍋に手料理もへったくれもないような気もするが、腹は膨《ふく》れるだろ。うらやましいなあ、キョン」
 こいつめ、クリスマスイブの話を振ってきたと思ったら、自慢《じまん》したかっただけか。
「さあ、どこをどう巡《めぐ》るか、そろそろ段取りを決めねえとなあ。悩《なや》むぜ」
 俺は憮然《ぶぜん》。さらに無言。


 この日の放課後にはたいした出来事もなかった。部室ではハルヒが新たに持ってきた飾《かざ》りを部屋中に取り付けるという作業に俺と古泉が追われ、ハルヒは指を差して指示するだけ、朝比奈さんはサンタ姿でお茶くみ兼《けん》マスコット状態、今日も三角|帽《ぼう》を装着させられた長門は黙々《もくもく》とハードカバーを読んでいる。
 それで一日が終わった。鍋の内容はまだ決まっていない。そのうち俺を荷物持ちにして買い物に出かけることだけは決まっているらしい。いったい何鍋になるんだろうな。闇鍋《やみなべ》は陰謀《いんぼう》の香《かお》りがするのでやめておいて欲しいのだが……。
 さて、プロローグにしては長すぎるな。しかし、以上のことは本当に単なるプロローグに過ぎなかった。本題はここから、翌日から始まる。ひょっとしたら今日の晩には始まっていたのかもしれないが、そこんとこはどうでもいい。
 この次の日、山風に凍《こお》り付くような十二月十八日。俺を恐怖《きょうふ》という名の奈落《ならく》に突《つ》き落とすようなことが起きた。
 あらかじめ言っておく。
 それは、俺にはちっとも笑えないことだった。



第 一 章


 朝、俺はいつものように妹の必殺|布団《ふとん》はぎによって、傍《かたわ》らで毛布にくるまっていた三毛猫《みけねこ》とともに目覚めさせられた。母親の命令を忠実に実行する朝一番の刺客《しかく》、それが妹である。
「朝ご飯はちゃんと食べろって、お母さんが」
 にこにこと言いながら、妹はベッドにわだかまる猫《ねこ》を抱《だ》き上げて耳の後ろに鼻先をつけた。
「シャミも、ご飯できてるよ」
 文化祭以降、我が家の飼い猫になったシャミセンは、ぼんやりした顔であくびをして、ぺろりと前足をなめた。この元おしゃべり猫だったオス三毛猫は、すっかり言葉を失って単なる愛《あい》玩《がん》動物の地位を我が家に築いていた。今思えばこいつが人間語を話したというのは聞き間違《まちが》いだったのかと思うくらい、一|匹《ぴき》のどこにでもいる猫と化している。人語とともに猫語も忘れたのか、ほとんどと言っていいほど鳴かないのはやかましくなくていいのだが、どういうわけか俺の部屋を寝床《ねどこ》にしているので、シャミセンにかまいたがる妹が足繁《あししげ》くやってくるようになったことには閉口する。
「シャミー、シャミー。ごっはんだよー」
 調子ハズレな節をつけて歌いながら、妹は猫を重そうに抱いたまま部屋を出て行く。俺は朝の冷気に肌《はだ》を粟立《あわだ》てつつ時計の時刻をにらみつけていたが、暖かいベッドへの未練をすべて放棄《ほうき》し腰《こし》を上げた。
 そして着替《きが》えと洗面を終えるとダイニングに下り、五分で朝食を済ませて妹より二足ほど先に玄関《げんかん》を出た。今日も順調に寒い。
 ここまでは普段《ふだん》通りだった。


 例によって坂道を上っている俺の目に、見覚えのある後頭部が映った。十メートルほど先行しているその姿は、谷口のもので間違いない。いつもは快調に登山道を跳《は》ね跳《と》んでいるくせに今日はやけにゆっくり歩いている。たちまち追いついた。
「よう、谷口」
 たまにはこっちから肩《かた》を叩《たた》いてやるのもいいだろう、と思ってそうしてやったのだが、
「……む、キョンか」
 声がやけにくぐもっているのも当然で、谷口は白いマスクを装着していた。
「どうした? 風邪《かぜ》か?」
「ああ……?」谷口はダルそうに、「見ての通り風邪状態だ。本当は休みたかったんだが、親父《おやじ》がうるさくてな」
 昨日まで元気いっぱいだったのに、突然《とつぜん》の風邪があったもんだ。
「何言ってやがる。昨日も調子はよくなかったぞ。ゲホゲホン」
 咳《せ》き込む谷口の弱りかけの様子には見慣れないだけにこっちのリズムも狂《くる》うな。しかし、昨日も風邪気味だって? 俺には普段通りのお調子者に見えたが。
「ん……そうだったか? 調子がよかったつもりはないんだが」
 首を捻《ひね》る谷口に、俺は意地悪く笑いかけて言った。
「イブの予定を嬉《うれ》しそうに語ってただろ。まあ、デートまでには治せよ。そんなチャンスは滅多《めった》に到来《とうらい》しないだろうからな」
 しかし谷口はますます首を捻り、
「デートだあ? なんのことだ。ゲホ。イブに予定なんかねえぞ」
 なんのことだはこっちのセリフだ。光陽園女子の彼女はどうしたんだ。ひょっとして昨日の晩にでもフラれたか。
「おい、キョン。マジでおめーは何言ってんだ? そんなもん俺は知らねえ」
 谷口はむっすり口をつぐんで、また前を向いた。どうやら風邪の症状《しょうじょう》が節々《ふしぶし》に効いているらしく、弱っているのは演技ではなさそうだ。それにこの分ではデートがご破算になったのも当たりだったようで、そりゃへばりもするよ。威勢《いせい》のいいことを言っていた手前、俺と顔を合わせるのも心苦しかろう。そうかそうか。
「気を落とすな」
 俺は谷口の背中を押してやり、
「やっぱ鍋《なべ》大会に参加するか? 今ならまだ間に合うぞ」
「鍋ってなんだ? どこでする大会だよ、それ。聞いた覚えはねえな……」
 ああ、そうかい。しばらくは何を言っても耳を素通《すどお》りするくらいショックだったのか。ならば俺は手を引こう。すべては時間という偉大《いだい》なる悠久《ゆうきゅう》の流れが解決してくれるさ。何も言わないことにしてやるよ。
 のろのろ歩きの谷口に付き合って、俺もゆっくりと坂を上り続けた。
 この時点で気づくのは、さすがにまだ無理だった。


 驚《おどろ》いたことに、いつのまにか一年五組には風邪が蔓延《まんえん》しているようだった。予鈴《よれい》ぎりぎりに教室に入ったってえのに空席がいくつもあるし、クラスメイトの二割程度に白マスクが流行している。全員の潜伏《せんぷく》期間と発症時期が同期を取ったとしか思えない。
 もっと驚いたのは、俺の真後ろの席が一時間目が始まっても空席のまま取り残されていることだった。
「なんと、まぁ」
 ハルヒまで病欠してんのか。今年の風邪はそんなにタチが悪いのか? あいつの体内に侵入《しんにゅう》する勇気ある病原体がいようとは、ましてやハルヒが細菌《さいきん》だのウイルスだのに敗北を喫《きっ》するとは、にわかには考えがたい出来事だ。何か新しい悪巧《わるだく》みを思いついて、そのための下準備をしているといったほうがまだ納得《なっとく》できる。鍋以外にもまだ何かあるのだろうか。
 どうにも教室内の空気が寒々しいのはエアコンがないせいでもなさそうだ。突然にして欠席者が増えるとはな。なんだか五組の総人口までもが目減りしているような気さえする。
 ハルヒの気配が背後から迫《せま》ってこないってのもあるが、なんとなく空気が違《ちが》っている感じがした。
 そうして漫然《まんぜん》と授業をこなし、順当に昼休みになる。
 俺が冷え切った弁当箱を鞄《かばん》から取り出していると、国木田が昼飯片手にやって来て俺の後ろの席に着いた。
「休みみたいだから、ここに座ってもいいよね」
 タッパウェアを包むナプキンをほどきつつ言う。高校で同じクラスになって以来、こいつと昼飯を喰《く》うのが半ば習慣化されている。もう一人の昼飯仲間、谷口はと探してみると、今日は学食なのか教室にはいなかった。
 俺は椅子《いす》を横向きにして、
「なんか風邪がいきなり流行《はや》りだしているな。うつされなけりゃいいんだが」
「んん?」
 几帳面《きちょうめん》に広げたナプキンの上にタッパを置き、中身を吟味《ぎんみ》していた国木田は、怪訝《けげん》な表情をして俺を見返した。箸《はし》をカニばさみのように動かしながら、
「風邪なら一週間前から流行の兆《きざ》しを見せていたよ。インフルエンザじゃないみたいだけど、かえってそっちのほうがよかったかもね。今は特効薬があるから」
「一週間前?」
 弁当のホウレン草入り卵焼きをバラす手を止め、俺は聞き返す。
 先週の今頃《いまごろ》に誰《だれ》かが風邪菌を撒《ま》き散らしていたような行為《こうい》はなかったように思う。欠席者はいなかったはずだし、授業中に咳《せき》をしている奴《やつ》だって記憶《きおく》にない。一年五組の誰もが健康体に見えたのに、俺の視界の及《およ》ばぬ範囲《はんい》でひそかに病魔《びょうま》は進行していたと言うのか。
「あれ? けっこう休んでいる人もいたけどなあ。キョンは気づかなかったのかい?」
 まったく気づかなかった。本当の話か、それは?
「うん、本当。今週に入っていよいよヒドくなったね。学級|閉鎖《へいさ》は避《さ》けたいよね。冬休みが削《けず》られそうな気がするし」
 ふりかけご飯を口に運ぶ国木田は、
「谷口もここんとこしんどそうにしてるなあ。親父さんの方針が病は気力で治せってもんだから、四十度を越《こ》さないと学校休めないみたいだよ。悪化する前に何とかしたほうがいいと僕は思うね」
 俺は箸を止めた。
「国木田。すまんが、俺には谷口がしんどそうにしているのは今日からだと思うんだが」
「え、そんなことないよ。今週の初めにはもうあんな調子だったじゃん。昨日の体育も見学してたしさ」
 だんだん混乱してきた。
 待て、国木田。何を言ってるんだお前は。俺が覚えている限り、昨日の体育の授業では谷口はアッパー系のドラッグをやってんじゃねえかってくらい溌剌《はつらつ》とサッカーの紅白戦に出てたぞ。敵チームにいた俺が何度も奴の足元にスライディングタックルを決めてやったから間違いのないことだ。彼女のできた谷口をひがんでのことではないが、今日のことを知っていれば遠慮《えんりょ》はしていただろうな。
「そうだっけ。あれえ? おかしいな」
 国木田はキンピラゴボウの人参《にんじん》を取り分けながら、首を傾《かたむ》けた。
「僕の見間違いかなぁ」
 のんきな口調である。
「うーん、でも後で谷口に訊《き》いたら解《わか》ることだよね」
 今日はいったいどうしたことだ。谷口も国木田も、なんだか靄《もや》に包まれたようなことを言ってる上、ハルヒなんか欠席している。ハルヒを除く全人類が困るようなことがまた発生しようとしている前兆ではないだろうな。あるわけのない俺の第六感が警戒《けいかい》警報をピリピリ発令し始め、首筋の裏側あたりに妙《みょう》な冷気が走った。


 その通り。
 俺の勘《かん》も捨てたものではない。それはまさしく前兆だった。勘で解らなかったのは、困るのは誰かってところだ。ハルヒを除く全人類……ではなく、この事態が発生しているのに気づいて困ったのは意外にもたった一人だけだった。そいつ以外の全人類は別に困りはしない。なぜなら事態の発生自体に気づくはずもないからだ。認識《にんしき》の外にあるものを認識することは決してできないのである。彼らにしてみれば世界は何も変わっていなかった。
 では誰が困ることになったのか。
 言うまでもない。
 俺だ。
 俺だけが困惑《こんわく》の中で立ちつくし、呆然《ぼうぜん》としたまま世界に取り残されることになったのだ。
 そう、やっと俺は気づいた。
 十二月十八日の昼休み。
 形を伴《ともな》った悪い前兆が、教室のドアを開いた。


 わあ、という歓声《かんせい》が教室前部のドア付近にいた数人の女子から上がった。入ってきたクラスメイトの姿を確認しての声らしい。わらわらと群がるセーラー服姿の隙間《すきま》から、重役出勤してきたそいつ[#「そいつ」に傍点]の姿がちらりと覗《のぞ》く。
 通学|鞄《かばん》を片手にぶら下げたそいつ[#「そいつ」に傍点]は駆《か》け寄ってきた友人たちに笑顔《えがお》を向けて、
「うん、もう大丈夫《だいじょうぶ》よ。午前中に病院で点滴《てんてき》打ってもらったらすぐによくなったわ。家にいてもヒマだから、午後の授業だけでも受けようと思って」
 風邪《かぜ》よくなった? という一人の質問に答え、柔《やわ》らかく微笑《ほほえ》んだ。それから短い談笑を終えると、セミロングの髪《かみ》を揺《ゆ》らしながら、ゆっくりと……こちらに――歩いて――来た。
「あ、どかないと」
 国木田が箸《はし》をくわえて腰《こし》を浮《う》かせる。俺はと言うと、声帯の発声機能を丸ごと全部|没収《ぼっしゅう》されたように、むしろ酸素を呼吸することすら忘れて、そいつ[#「そいつ」に傍点]の姿を凝視《ぎょうし》していた。無限の時間のようにも感じたが、実際はそう何歩も歩いていなかっただろう。足を止めたとき、そいつ[#「そいつ」に傍点]は俺のすぐ横に立っていた。
「どうしたの?」
 俺を見ながら不思議そうな口調で常套句《じょうとうく》を吐《は》いた。
「幽霊《ゆうれい》でも見たような顔をしているわよ? それとも、わたしの顔に何かついてる?」
 そしてタッパを片づけようとしている国木田に、
「あ、鞄を掛《か》けさせてもらうだけでいいの。そのまま食事を続けてて。わたしは昼ご飯食べて来たから。昼休みの間なら、席を貸しておいてあげる」
 言葉の通り、その女子生徒は鞄を机横のフックに掛けると、友人たちが待ちわびる輪の中へ身体《からだ》を翻《ひるがえ》した。
「待て」
 俺の声はさぞヒビ割れていたことだろう。
「どうしてお前がここにいる」
 そいつ[#「そいつ」に傍点]は、ふっと振《ふ》り返り、涼《すず》しげな視線を俺に突《つ》き刺《さ》した。
「どういうこと? わたしがいたらおかしいかしら。それとも、わたしの風邪がもっと長引けばよかったのに、つていう意味? それ、どういうことなの?」
「そうじゃない。風邪なんかどうでもいい。それではなくて……」
「キョン」
 心配げに国木田が俺の肩《かた》をつついている。
「本当に変だよ。さっきからキョンの言ってることはおかしいよ、やっぱり」
「国木田、お前はこいつを見て何とも思わないのか?」
 我慢《がまん》できずに俺は立ち上がり、不可解なものを見る目で俺を見ているそいつ[#「そいつ」に傍点]の顔を指さした。
「こいつが誰《だれ》だが、お前も知ってるだろう? ここにいるはずのない奴《やつ》じゃねえか!」
「……キョンさあ、ちょっと休んでただけでクラスメイトの顔を忘れちゃったりしたら失礼だよ。いるはずのない、ってどういうこと? ずっと同じクラスにいたじゃん」
 忘れやしないさ。かつての殺人|未遂犯《みすいはん》を、仮にも俺を殺そうとした奴の顔なんてものを忘却《ぽうきゃく》するには半年とちょっとは短すぎる。
「解ったわ」
 そいつ[#「そいつ」に傍点]はとびっきりの冗談《じょうだん》を思いついたような笑みを広げた。
「お弁当食べながらうたた寝《ね》してたんでしょう。悪い夢でも見てたんじゃない? きっとそうよ。そろそろ目が覚めてきた?」
 綺麗《きれい》な顔をほころばせ、「ねえ?」と国木田に同意を求めているそいつ[#「そいつ」に傍点]は、俺の脳裏《のうり》に焼き付いて未《いま》だ離《はな》れない女の姿をしていた。
 様々な映像がフラッシュバックする。夕焼けに染まった教室――床《ゆか》に長く伸《の》びる影《かげ》――窓のない壁《かべ》――歪《ゆが》んだ空間――振りかざされるナイフ――うっすらとした笑み――さらさら崩《くず》れ落ちる砂のような結晶《けっしょう》……。
 長門との戦いに敗れて消滅《しょうめつ》し、表向きはカナダに転校したことになった、かつての委員長。
 朝倉涼子《あさくらりょうこ》が、ここにいた。


「顔を洗ってきたらすっきりするわよ。ハンカチ持ってる? 貸してあげようか」
 スカートのポケットに手を入れた朝倉を俺は手で制した。出てくる物がハンカチだけとは限らない。
「いらん。それよりどういうことか教えろ。何もかもをだ。特にどうしてお前がハルヒの席に鞄を置くのか言ってくれ。それはお前の机じゃない。ハルヒのだ」
「ハルヒ?」
 朝倉は眉《まゆ》を寄せ、国木田に問いかけた。
「ハルヒって誰のことなの? そんな愛称《あいしょう》の人がいたかしらね」
 そして国木田もまた、絶望的な回答をよこした。
「聞いたことないなあ。ハルヒさんねえ。どんな字を書くんだい?」
「ハルヒはハルヒだ」
 と俺は目眩《めまい》を感じながら呟《つぶや》いた。
「お前たち、涼宮ハルヒを忘れたのか? どうやったらあんなやつを忘れることができるんだ……」
「涼宮ハルヒ……うーんとね、キョン」
 国木田はいたわるような声で、ゆっくりと俺に、
「そんな人はこのクラスにはいないよ。それにこの席はこの前の席替《せきが》えのときから朝倉さんの席なんだよ。どっか他《ほか》のクラスと勘違《かんちが》いしてるんじゃないの? でもなあ、涼宮っていう名前には全然聞き覚えがないなあ。一年にはいないと思うけど……」
「わたしの記憶《きおく》にもないわね」
 朝倉も俺に病気|療養《りょうよう》を勧《すす》めたがっているようだ。優《やさ》しい猫《ねこ》なで声で、
「国木田くん、ちょっと机の中を見てくれる? 端《はじ》っこのほうにクラス名簿《めいぼ》があるわ」
 国木田が取り出した小冊子を俺はひったくった。一番に開くのは一年五組のページ。女子の名前が並ぶ列に指を這《は》わせる。
 佐伯《さえき》、阪中《さかなか》、鈴木《すずき》、瀬能《せのう》……。
 鈴木と瀬能の間にどんな名前もない。涼宮ハルヒの名前がクラス名簿から消えている。誰を捜《さが》してるんだ、そんな奴はハナっからいねーぜとページが語りかけているようで、俺は名簿を閉じて目も閉じた。
「……国木田、頼《たの》みがある」
「何だい?」
「頬《ほお》をつねってくれ。日を覚ましたい」
「いいの?」
 思い切りやられた。痛かった。そして目は覚めない。目蓋《まぶた》を開けたとき、朝倉はまだそこにいて唇《くちびる》で半円を作っていた。
 何かが起こっている。
 気がつけば俺たちはクラス中の注目の的になっていた。まるでジステンパーに罹患《りかん》した年老いたノラ犬を見るような視線が俺に集中している。くそ、なぜだ。俺は何一つ間違ったことを言ってないぞ。
「ちくしょう」
 俺は近くにいた数人に、二つの質問を浴びせて回った。
 涼宮ハルヒはどこだ。
 朝倉涼子は転校したはずだ。
 得られた答えはまったく芳《かんば》しくなかった。全員|図《はか》ったように、
「知らない」
「してない」
 と答えて、俺の目眩は吐《は》き気を伴《ともな》うまでになる。強烈《きょうれつ》な現実|喪失《そうしつ》感覚の襲撃《しゅうげき》を受け、近くの机に手をついて身体《からだ》を支えなければならなかった。精神のどこかが打ち砕《くだ》かれたような気がした。
 朝倉が俺の腕《うで》に手をかけて、心配そうにのぞき込む。その髪《かみ》から漂《ただよ》う芳《かぐわ》しい香《かお》りが、俺には麻薬《まやく》のように感じられる。
「保健室に行ったほうがいいみたい。具合のよくないときって、そういうこともあるわ。きっとそうよ。風邪《かぜ》の引きはじめなんじゃないかしら」
 違う!
 大声で喚《わめ》きたい。おかしいのは俺じゃない。この状況《じょうきょう》だ。
「放してくれ」
 朝倉の手を払《はら》って、俺は教室の出口へと向かった。肌《はだ》で漠然《ばくぜん》と感じていた違和《いわ》感が、頭の中に浸透《しんとう》していく。突如《とつじょ》として蔓延《まんえん》した風邪、谷口とのかみ合わない会話、名簿から消えたハルヒの名前、朝倉の登場……だと? ハルヒがいなくなる? 誰《だれ》も覚えていない? そんなわけあるか。この世界はあいつを中心に回ってるんじゃなかったのか。宇宙規模の要注意人物、それがあいつじゃなかったのか。
 もつれがちの足を叱咤激励《しったげきれい》し、俺は這うように廊下《ろうか》へ進み出た。
 まっさきに思い出したのは長門の顔だ。あいつなら事情を説明してくれる。寡黙《かもく》な万能《ばんのう》の宇宙人アンドロイドである、あの長門有希ならば。いつでもあいつはすべてを解決してくれた。長門のおかげで俺は生きていると言っても過言ではない。
 長門なら。
 この俺を窮地《きゅうち》から救い出してくれるだろう。
 長門のクラスは近い。走るまでもなく数秒で到着《とうちゃく》した。何も考えることができないまま、俺はドアを開けて小柄《こがら》なショートカットの姿を探す。
 いない。
 だが絶望にはまだ早い。昼休みのあいつはたいてい部室で本を読んでいる。教室にいないからと言って、長門までが消え去ったと考えるのは早計だ。
 次に思い浮《う》かんだのが古泉だった。旧館にある文芸部室はここからでは遠い。朝比奈さんの二年教室も向かいの校舎だ。一階下の一年九組に行くのが早い。古泉|一樹《いつき》、ちゃんとそこにいろよ。これほど古泉のニヤケ面《づら》を見たかったことはない。
 廊下を小走りで駆《か》け抜《ぬ》け、階段を三段抜かしで飛び降り、校舎の隅《すみ》にある一年九組を目指しながら、俺はそこに超能力野郎《ちょうのうりょくやろう》がいることを祈《いの》った。
 七組の前を通り過ぎ、八組も通過した先、そこに一年九組が……。
「……なんなんだ、これは」
 やっとの思いで立ち止まり、もう一度|壁《かべ》に掛《か》かっているプレートを見直す。一年八組の左《ひだり》隣《どなり》が七組。そして八組の右隣《みぎどなり》には――。
 非常階段に続く踊《おど》り場《ば》だけがあった。
 ない。影《かげ》も形も。
「いくらなんでも、これはないだろう……」
 古泉はおろか。
 九組自体がなくなっていた。


 参るしかない。
 昨日まであったはずの教室がないなんて誰が想像する? 人間一人が行方《ゆくえ》不明になったわけじゃないんだぞ。クラスの全員が消え去り建物自体が縮んでいる。突貫《とっかん》工事でも一夜では無理だ。九組の連中はどこに消えた?
 あまりの茫然《ぼうぜん》により、俺は時間の感覚を失っていた。どれだけそこに立ちつくしていたか、背を小突《こづ》かれてようやく意識を取り戻《もど》したものの、俺は教科書を抱《かか》えたマシュマロマンみたいな生物教師の声を上の空で聞いた。
「何してるんですか。授業はもう始まっています。教室に戻りなさい」
 休み時間|終了《しゅうりょう》を告げるチャイムすら聞こえていなかったらしい。廊下には他に誰もおらず、七組の教室からは教師の張り上げる声だけがわずかに響《ひび》いていた。
 よろよろと俺は移動を開始する。前兆を見定める時間は終わった。もう起こってしまったのだ。いるはずのないやつがいて、いなければいけないやつがいない。朝倉一人にハルヒと古泉および九組の生徒たちでは、交換《こうかん》するにもまるで尺があわない。
「なんてこった」
 俺が狂《くる》ったのではないんだとしたら、ついに世界が狂ったのだ。
 誰がそれをした?
 ハルヒ、お前か?


 おかげで午後からの授業をまったく何一つ聞けやしない。どんな声も物音も俺の耳を素通《すどお》りし、脳|細胞《さいぼう》に何の情報を植え付けることはなく、気がつけばホームルームさえ終わって、とうに放課後になっていた。
 俺は恐《おそ》れていた。後ろの席でシャーペンを走らせている朝倉よりも、ハルヒと古泉が学校にいないってことにだ。誰かに改めて確認《かくにん》することすら、もうたまらなくイヤである。「そんな奴《やつ》、知らん」と言われるたびに、俺はずぶずぶと底の見えない沼沢地《しょうたくち》に沈《しず》んでいくだろう。椅《い》子《す》から立ち上がる気力もなかなかチャージされない。
 谷口はあっさりと、多少は俺のことを気にしていた国木田も帰り道につき、朝倉は女子数人で笑いさざめきながら教室を後にした。出がけに振《ふ》り返り俺によこした目には、元気のないクラスメイトを本気で気遣《きづか》う光があって、ますますくらくらする。おかしい。何もかもが。
 掃除《そうじ》当番の連中に引きずられるようにして、俺はようやく鞄《かばん》片手に廊下《ろうか》に足を踏《ふ》み出した。
 どのみち放課後の俺の居場所はここではない。
 そして悄然《しょうぜん》と階段を下り、一階にたどり着いた俺は、そこで一筋の光明を見いだして走り出した。
「朝比奈さん!」
 こんな嬉《うれ》しいことが他にあるか。俺の女神|兼《けん》眼精|疲労《ひろう》回復薬が対面から歩いてくる。なお喜ばしいのは、その童顔グラマラス美少女の隣に鶴屋さんの姿まであることだ。あまりの喜びに気が遠くなりかけた。
 ――もうちょっと慎重《しんちょう》になっておくべきだったと思う。
 我ながら異常な速度で二人の上級生に駆け寄って、俺は目を見開く朝比奈さんの両肩《りょうかた》をがっしとばかりに鷲《わし》づかみにした。
「ひえっ!」
 驚愕《きょうがく》する顔は見えていたが、俺の口は勝手に喋《しゃべ》った。
「ハルヒがいないんですよっ! 古泉なんか漂流《ひょうりゅう》教室になってます! 長門はまだ確認してませんが、朝倉がいて、どうも学校の様子自体が変なんです。あなたは俺の朝比奈さんですよね!?」
 ぽと、ごん。朝比奈さんが持っていた鞄と習字セットが床《ゆか》に落ちる音だ。
「えっ? あっ、ひっ。えっ。ちょ、その……」
「だから、あなたは未来から来た朝比奈さんですよね!?」
 対して朝比奈さんは、
「……未来って? 何のことでしょう。それより放してくだ……さい」
 胃の奥がキュウとなる。朝比奈さんが俺を見る目は飼い慣らされたインパラが野生のジャガーを見る目そのものだった。明らかな恐怖《きょうふ》の色である。それこそ俺が最も恐れていた色だ。
 愕然《がくぜん》としていると、片手がぐいとひねり上げられた。関節がイヤな音を立てる。痛え。
「ちょいとっ少年!」
 鶴屋さんが俺の手に古流武術系の技《わざ》を施《ほどこ》していた。
「いきなりはダメだよっ。ごらん、うちのみくるがすっかり怯《おぴ》えてるよっ」
 声は笑っていたが目が菊《きく》一文字なみに真剣《しんけん》そのものだった。見ると確かに朝比奈さんは、うるうるした瞳《ひとみ》で腰《こし》を引かせている。
「みくるファン倶楽部《くらぶ》の一年かい? 物事には手順てやつがあるんだよっ。先走りはよくないなあっ」
 今日何度目かの精神的寒気が背骨を滑《すべ》り下りた。俺は片手を腕《うで》がらみに取られた体勢のまま、
「あの、鶴屋さん……?」
 鶴屋さんは俺を見据《みす》える。まるで知らない他人を見るように。
 あなたもなのか、鶴屋さん。
「あれ。あたしを知ってるの? ところで僕ちんはどなたかなあ。みくるの知り合いかいっ?」
 見たくないものを見てしまった。鶴屋さんの陰《かげ》で縮こまっていた朝比奈さんは、俺をまじまじと見つめてプルプル首を振ったのだ。
「しし、知らないです。あ、のう。人違《ひとちが》いじゃあ……」
 そろそろ一年も終わりだが今期絶望宣告をくらった感じがして目の前が暗くなる。誰に何を言われようと俺はこたえないだろうが、朝比奈さんにそう言われるのは、幼少のころ憧《あこが》れていた年上の従姉妹《いとこ》が男と駆《か》け落ちして以来のショックだった。
 朝比奈さんに朝比奈さんと呼びかけて人違いもくそもない。この朝比奈さんがどっか別にいる朝比奈さんであるのなら話は別だが……あ、そうだ。彼女が本当に俺の知っている朝比奈さんかどうか、判別する方法があるじゃないか。
「朝比奈さん」
 自由なほうの手で自分の胸元《むなもと》を指差した。動転していたとしか思えない。俺は次のように口走っていた。
「あなたの胸のここらへんに星形のホクロがあるはずです。ありますよね? できたらそれ見せてもらえれば――」
 思いっきり殴《なぐ》られた。
 朝比奈さんに。グーで。
 俺の放ったセリフにキョトンとした朝比奈さんは、みるみるうちに赤くなり、次に涙《なみだ》を目に溜《た》めて、それから緩《ゆる》やかで不器用なモーションでもって右ストレートを俺の顔面に炸裂《さくれつ》させ、
「……っう」
 嗚咽《おえつ》のような声を漏《も》らして駆け去った。
「あっ、みくるっ。しょうがないなあ。ねえ少年、あんまりオイタしちゃダメにょろよ。みくるは気が小さいからね! 今度何かしたら、あたしが怒髪《どはつ》で突《つ》いちゃうからねっ」
 最後に俺の手首をイヤと言うほどキツく握《にぎ》り、床に落ちた鞄と習字セットを抱《かか》えると鶴屋さんは朝比奈さんの後を追って走り出した。
「待ちなーっ、みくるーっ」
「…………」
 茫然《ぼうぜん》と見送る俺の頭の中では木枯《こが》らしが吹《ふ》いていた。
 終わりだな、もう。
 明日まで命が保《も》つだろうか。朝比奈さんを泣かせちまったということが学校内に知れ渡《わた》れば、勢い込んで襲《おそ》ってくる奴《やつ》は枚挙にいとまがないと思われる。立場が逆なら俺だってそうするさ。辞世の句の用意をしていたほうがいいかもしれない。


 いよいよ打つ手がなくなってきた。ハルヒの携帯《けいたい》に電話してみても戻《もど》ってくるのはオペレーターの 『現在使われておりません』だけ、自宅の番号は記録《きおく》も記憶もしていないし名簿《めいぼ》からはハルヒの名前ごと抹消《まっしょう》されている。家まで出向くことも考えたが、よくよく思い出せば俺はあいつの家に行ったことがない。ハルヒが俺んちまで来たことはあるのに不公平だとか思ってももう遅《おそ》い。
 消え失《う》せた九組はともかく、古泉とハルヒがどこかにいやしないかと職員室にも行って訊《き》いてみた。無惨《むざん》なものだ。涼宮ハルヒという生徒はどのクラスにも在籍《ざいせき》していない。古泉一樹なる転校生はこの学校に来ておらず存在もしたことがないときやがった。
 処置なしだ。
 手がかりはどこにある。これはハルヒによる人|捜《さが》しゲームか? 消えた自分の所まで辿《たど》り着けという、そんな遊びなのだろうか。だが何のために。
 俺は歩きながら考え込んだ。朝比奈さんの一撃《いちげき》の効果か、少しは頭が冷えてきた。カッカしていてもいいことはない。こういう時こそ冷静に、冷静に。
「頼《たの》むぜ」
 呟《つぶや》きを吐《は》いて俺が向かう先はただ一つ。最後の砦《とりで》であり最終絶対防衛ライン。ここが陥落《かんらく》したら一巻の終わり、打ち切り終了《しゅうりょう》だ。
 部室|棟《とう》、通称《つうしょう》旧館にある文芸部部室。
 そこに長門がいなければ、俺に何ができるというのだろう。
 故意にゆっくりと歩き、時間をかけて部室へと移動する。数分後、古ぼけた木製|扉《とびら》の前に立った俺は胸に手を当てて心拍数《しんぱくすう》を確認《かくにん》する。平常運転にはほど遠いが昼休みよりはマシになっている。異常の連鎖《れんさ》に遭《あ》いすぎて、だんだん感覚が麻痺《まひ》してきたのかもしれない。こうなったらもうヤケである。最悪の結果を予想しつつ闇雲《やみくも》に前進するしかない。
 俺はノックを省略し、勢いよく扉を開いた。
「…………!」
 そして見た。
 パイプ椅子《いす》に座り、長テーブルの片隅《かたすみ》で本を広げている小柄《こがら》な人影《ひとかげ》を。
 驚いた表情で口を開け[#「驚いた表情で口を開け」に傍点]、眼鏡のレンズ越しに俺を凝視する長門有希を[#「眼鏡のレンズ越しに俺を凝視する長門有希を」に傍点]。


「いてくれたか……」
 安堵《あんど》の息とも溜息《ためいき》ともつかぬものを吐き出しながら後ろ手に扉を閉めた。長門はいつものように何も言わず、にもかかわらず俺は手放しで喜べなかった。朝倉との一件以来|眼鏡《めがね》をかけなくなったのが俺の既知《きち》である長門有希だ。しかるに、ここにいる長門の顔には、かつてこいつがかけていた眼鏡が今もある。改めて思うが長門は眼鏡のないほうが見栄《みば》えがするな。俺の趣《しゅ》味《み》ではさ。
 それに、そんな表情は似合わない。まるで全然知らない男子生徒にいきなり飛び込まれて不意を突かれた女子文芸部員のような顔じゃないか。なぜ驚くんだ。そんな感情から一番|離《はな》れているのがお前の特色じゃなかったのか。
「長門」
 朝比奈さんとのことに懲《こ》りていた俺は、突っ込みがちな上半身をなるたけ抑《おさ》えてテーブルに近寄った。
「なに?」
 長門は動かずに返答した。
「教えてくれ。お前は俺を知っているか?」
 すっと唇《くちびる》を結び、長門は眼鏡のツルを押さえてしばらく沈黙《ちんもく》の時を過ごした。
 俺があきらめたほうがいいかと出家先を考え始めていると、
「知っている」
 そう答えた長門は、俺の胸の当たりに視線を注いでいる。希望がわいてきた。この長門は俺の知る長門なのかもしれん。
「実は俺もお前のことなら多少なりとも知っているんだ。言わせてもらっていいか?」
「…………」
「お前は人間ではなく、宇宙人に造られた生体アンドロイドだ。魔法《まほう》みたいな力をいくらでも使ってくれた。ホームラン専用バットとか、カマドウマ空間への侵入《しんにゅう》とか……」
 言いながら早くも後悔《こうかい》の念が押し寄せてきた。長門は明らかに変な顔になっている。目と口を開き、俺の肩口《かたぐち》くらいに視線をさまよわせていた。俺と目を合わせるのを恐《おそ》れているような気配が長門の周囲に漂流《ひょうりゅう》している。
「……それが俺の知っているお前だ。違《ちが》ったか?」
「ごめんなさい」
 耳を疑うようなことを長門は言った。なぜ謝る。どうして長門がこんなセリフを吐く。
「わたしは知らない。あなたが五組の生徒であるのは知っている。時折見かけたから。でもそれ以上のことをわたしは知らない。わたしはここ[#「ここ」に傍点]では、初めてあなたと会話する」
 最後の砦は、脆《もろ》くも風化した砂上の楼閣《ろうかく》となって崩《くず》れ落ちた。
「……てことは、お前は宇宙人じゃないのか? 涼宮ハルヒという名前に何でもいい、覚えはないか?」
 長門は「宇宙人」と唇を動かして面食らったように首を傾《かたむ》けた後、
「ない」と言った。
「待ってくれ」
 長門でダメなら誰《だれ》も頼《たよ》れないことになる。生まれたてのツバメの雛《ひな》が親鳥に見捨てられたようなものだ。こいつに何とかしてもらうしか俺の正気を確保する機会はない。このままでは俺が狂《くる》ったことになる。
「そんなはずはないんだ」
 だめだ、またもや冷静さが失われようとしている。頭の中で三原色の流星群が乱れ飛んでいるような混乱状態。俺はテーブルを迂回《うかい》して長門の側《そば》に歩み寄った。
 白い指が本を閉じる。分厚いハードカバー。タイトルを見て取る余裕《よゆう》はない。長門は椅子から立ち上がると、俺から退くように一歩後ろに下がった。磨《みが》きたての黒|碁石《ごいし》みたいな二つの瞳《ひとみ》が戸惑《とまど》うように揺《ゆ》れ動く。
 俺は長門の肩に手を置いた。朝比奈さん相手に失敗したばかりだが過去を顧《かえり》みる余裕も失われていた。逃《に》げられたくなかった一心だ。それにこうしてつかんでないと、そのうち知り合いすべてが手のひらからこぼれ落ちてしまうのではないかと俺は恐れた。これ以上誰を失いたくもない。
 制服|越《ご》しに伝わる体温を手で受け止めながら、俺は背《そむ》けられたショートヘアの横顔に言った。
「思い出してくれ。昨日と今日で世界が変わっちまってる。ハルヒの代わりに朝倉がいるんだよ。この選手交代を誰が采配《さいはい》した? 情報統合思念体か? 朝倉が復活しているんだからお前も何か知ってるはずだ。朝倉はお前の同類なんだろう? 何の企《たくら》みだ。お前なら解《わか》りやすくなくとも説明はできるはずだ――、」
 これまでそうだったように、と続けようとして俺は飲み込んだ液状の鉛《なまり》が胃腸に広がっていく感覚を覚えた。
 この普通《ふつう》の人間のようなリアクションは何だ。
 固く目を閉ざした長門の横顔、陶器《とうき》のように白かった頬《ほお》に朱《しゅ》が差している。薄《うす》く開いた唇から小刻み版溜息のような息を吐《は》き、ふと気づくと俺がつかんでいる華奢《きゃしゃ》な肩は、寒さに凍《こご》える子犬のように振動《しんどう》していた。震《ふる》える声が耳に届く。
「やめて……」
 我に返った。いつしか長門は壁《かべ》に背を付けており、つまり俺は無意識のうちに長門をそこまで追い込んでしまっていたようだ。なんてことを俺はしている。これではまるで暴漢じゃないか。誰かに見られでもしたら即刻《そっこく》後ろに手が回ると同時に社会的制裁を受けること必至だ。二人きりの文芸部室でおとなしい女子部員に襲《おそ》いかかった外道《げどう》な畜生《ちくしょう》野郎《やろう》。客観的に見てそれ以外の何者でもない。
「すまなかった」
 両手をホールドアップして俺は力なく、
「狽籍《ろうぜき》を働くつもりはないんだ。確認《かくにん》したいことがあっただけで……」
 足がよろける。俺は近くにあったパイプ椅子《いす》を引き寄せて水揚《みずあ》げ直後の軟体類《なんたいるい》のようにぐんにゃりと腰《こし》を下ろした。長門は壁にくっついたまま動かない。部室を飛び出して行かなかっただけ僥倖《ぎょうこう》だと思わねばならないな。
 改めて部屋内部に視線を周回させると、ここがSOS団秘密基地などではないことが一目で理解できる。この部屋にあるのは本棚《ほんだな》とパイプ椅子数個、折りたたみ式長テーブルとその上に置いてある旧式のデスクトップパソコンのみで、それもハルヒの奸計《かんけい》によってコンピュータ研から奪取《だっしゅ》してきた最新機種ではない。それより三世代ばかり旧型だ。あれと比べたら二頭立て馬車とリニアモーターカーくらいの能力差があるだろう。
 当然ながら「団長」と書かれた三角錐《さんかくすい》も置かれるべき団長机もなかった。冷蔵庫も様々なコスプレ衣装《いしょう》の吊《つ》られたハンガーラックもない。古泉が持ち込んだ各種ボードゲームもなく、メイドもいなければサンタの孫娘《まごむすめ》もいない。ナッシングアットオール。
「ちくしょう」
 俺は頭を抱《かか》えた。ゲームオーバーだ。もしこれが何者かの精神|攻撃《こうげき》なら、それはまんまと成功している。誉《ほ》めてやるぜ。で、誰の実験だこれは。ハルヒか、情報統合思念体か、見えざる新たな世界の敵か……。
 五分くらいそうしていたように思う。どうにか気を取り直すフリだけして、俺は怖々《こわごわ》と顔を上げた。
 長門はまだ壁に張り付いて俺に黒檀《こくたん》のような目を向けていた。眼鏡《めがね》がちょっとズレている。天に感謝したいことがあるとすれば、長門の瞳に浮《う》いているのが脅《おび》えや怖《おそ》れではなく、死に別れたはずの兄と繁華街《はんかがい》で偶然《ぐうぜん》再会した妹のような色彩《しきさい》だったことだろうか。少なくとも通報されることはなさそうだ。恐慌《きょうこう》状態の中にあって、ほんの少しだけ安心する要素である。
 座ったらどうだ、と言いかけて、俺は長門の椅子を奪《うば》っていたことを発見した。座席を譲《ゆず》ってやろう。それより別の椅子を出したほうがいいか。いや、俺の近くに座りたくはないかもしれない。
「すまん」
 もう一度謝って俺は立ち上がった。たたんだ状態で立てかけてあったパイプ椅子を持ち、部屋の中央へと移動する。長門から充分《じゅうぶん》な距離《きょり》だと判断したところで椅子に座り、引き続き頭を抱えることにする。
 ここはただの零細《れいさい》文芸部だ。五月のあの日、制御《せいぎょ》の利《き》かない工業用ロボットみたいなハルヒに力ずくで連れてこられ、長門と初顔合わせした時分の俺が見た部屋模様である。その時ここにはテーブルと椅子と本棚と長門しか付属していなかった。雑多なものが増え始めたのはそれからだ。「これからこの部屋が我々の部室よ!」とハルヒが宣言してからなのだ。コンロやヤカンや土鍋《どなベ》や冷蔵庫やパソコンが備わったのは……。
「うん?」
 俺は頭を抑《おさ》える手を浮かす。
 待て、何が備わったって?
 ハンガーラック、給湯ポット、急須《きゅうす》、湯飲み、食器、古いラジカセ……。
「違《ちが》う」
 SOS団のアジトとなる前の部室にはなく、以後の部室にはあり、かつ今のこの部屋にもあるものを探せ。
「パソコンだ」
 確かに種類は違う。電源コードしか床《ゆか》を這《は》ってないので多分ネットにも繋《つな》いでいない。しかし注意を喚起《かんき》されるものと言えばこれしかない。間違い探しの唯一《ゆいいつ》の解答だ。
 長門は立ったままだった。そんなに気になるのか、俺をずっと眺《なが》めていたようだ。しかしこちらが顔を向けると、すかさず視線を床に落とす。注意深く見れば頬のあたりがまだ淡《あわ》く色づいている。ああ……長門。これはお前ではないんだな。お前が顔を紅潮させて困ったように目を泳がすことなんてないものな。
 無理かもしれないができるだけ警戒《けいかい》されないように俺は自然を装《よそお》って立ち上がった。
「長門」
 パソコン背面を指で差し、
「それ、ちょっといじらせてもらっていいか?」
 長門は顔を驚《おどろ》かせ、しばらくして困惑《こんわく》がありありと解る表情に変化して、俺とパソコンを三度|交互《こうご》に見ていたが、大きく息を吸った後、
「待ってて」
 ぎこちない動作で椅子をパソコン前まで持っていき、本体の電源スイッチを押してから座った。
 OSが立ち上がるまでには買ったばかりのホット缶《かん》コーヒーが猫《ねこ》の飲み頃《ごろ》温度になる時間が必要だった。リスが木の根をかじっているような音がやっと終わると、長門はマウスを素早《すばや》く操作し、俺の推測ではいくつかのファイルを移動ないし削除《さくじょ》しているようだ。あまり人に見せたくないものがそこにあったのだろう。気持ちは解る。俺だってMIKURUフォルダを誰《だれ》にも見られたくない。
「どうぞ」
 か細い声で長門は俺を見ずに言い、また椅子から離《はな》れて壁面《へきめん》の歩哨《ほしょう》となった。
「悪いな」
 席に着いた俺はさっそくモニタをのぞき込み、知る限りのあらゆるテクニックを駆使《くし》してMIKURUフォルダとSOS団サイトファイルを探し求め、徒労感が肩《かた》を落とさせた。
「……ねえか」
 どうやっても繋がりを見つけることができない。ハルヒがここにいたという証拠《しょうこ》がどこにもない。
 先ほど長門の隠《かく》したデータが何だったろうかとも思ったが、監視《かんし》するような視線が俺の背後から届いている。見られてはマズいものを発見されそうになるや、即座《そくざ》に電源コードを引き抜《ぬ》こうと身構えているような気配である。
 俺は席を立った。
 手がかりはこのパソコンにはないのだろう。本当に見たかったのは朝比奈画像集でもSOS団ウェブサイトでもない。ハルヒと俺が閉鎖《へいさ》空間に囚《とら》われてしまったときに出現したような、長門のヒントメッセージが表示されるんじゃないかと思ったのだ。その期待は無惨《むざん》に投げ捨てられた。
「邪魔《じゃま》したな」
 疲労《ひろう》した声で告げて俺は扉《とびら》に向かった。帰ろう。そして寝《ね》てしまおう。
 ここで意外なことが起こった。
「待って」
 長門は本棚《ほんだな》の隙間《すきま》から藁半紙《わらばんし》を引っこ抜き、ためらいがちに俺の前に立つ。そして俺のネクタイの結び目あたりを見ながら、
「よかったら」
 片手を出してきた。
「持っていって」
 渡《わた》されたのは白紙の入部届けだった。


 さて。
 せめてもの救いは今まで散々非常識な目に遭《あ》っておいてよかったということだ。でなけりゃ、とうにカウンセラーの姿を求めて走り回っているに違《ちが》いない。
 状況《じょうきょう》を鑑《かんが》みると俺の頭がバッドな感じにオシャカになったか世界の気が違っちまったかのどちらかだが、今の俺は前者の可能性をほぼ排除《はいじょ》できる。いつだって俺は正気で、世界に転がる森羅万象《しんらばんしょう》に対するツッコミ役を自認《じにん》しているのだ。おかしくなっている世界にホラ、こうしてツッコミを入れることだってできるぞ。なんでやねん。
「…………」
 俺は長門ばりに沈黙《ちんもく》する。色々な意味でうすら寒い。空《カラ》元気にも限度はある。
 長門は単なる読書好き眼鏡《めがね》っ娘《こ》になってるし、朝比奈さんは見知らぬ上級生、古泉なんかはどこで学生をやっているのか、北高に転校もしてきていない。
 何なんだよ、これは。
 俺に最初からやり直せって言うのか? それにしては季節が変じゃねえか。リセットしてまた初っぱなから……つうのなら、高校生活初日に戻《もど》してくれてもいいだろう。誰がリセットボタンを押したのかは知らんが、時間の流れはそのままに環境《かんきょう》設定だけ変えちまってもオロオロするだけだぞ。現にすっかり狼狽《ろうばい》しまくっている。この役どころは朝比奈さんのものじゃなかったのか。
 それにあいつはどこにいる。俺だけをこんな所におっぽり出しておいて、あのアホはどこでのうのうと生活しているんだ。
 ハルヒはどこだ?
 お前はどこにいる。
 早く姿を現してくれ。不安になるじゃねえか。
「……くそ、何で俺があいつの姿を探さないといけないんだ」
 それともハルヒ、ここにお前はいないのか。
 勘弁《かんべん》してくれよな。どうして俺がこんなことを思うのかは俺にだって解《わか》らないが、お前が出てこないと話にならんだろうが。俺だけにこんな憂鬱《ゆううつ》で溜息《ためいき》な気分を押しつけるのは筋違いだぞ。何を考えていやがった。
 王墓作りの材料となる巨大《きょだい》な石を担《かつ》いで坂を上っている職業|奴隷《どれい》の気分を味わいながら、俺は渡り廊下《ろうか》から見える寒々とした薄曇《うすぐも》りの空を見上げる。
 ポケットの入部届けがカサリと音を立てた。


 自宅の部屋に戻った俺を出迎《でむか》えたのはシャミセンと妹だった。妹は無邪気《むじゃき》に笑いながら先端《せんたん》にモジャモジャの付いた棒を振《ふ》って、ベッドに寝そべるシャミセンの頭をぺたぺた叩《たた》いている。シャミセンはめんどくさそうに目を細めつつ、時折手を出して妹の相手をしてやっていた。
「あ、おかえりー」
 妹は笑顔《えがお》で俺を見上げて、
「晩ご飯もうすぐだって。ごはんだにぁあ、シャミー」
 シャミセンも俺を見上げたが、すぐあくびをして妹の繰《く》り出す猫《ねこ》じゃらし作戦に投げやりな応戦をした。
 そうか、まだこいつらが残っていたな。
「おい」
 俺は猫じゃらし棒を奪《うば》い取ると、それで妹のデコをパスンと叩いた。
「ハルヒを覚えているか? 朝比奈さんでもいい。長門は? 古泉は? 一緒《いっしょ》に草野球して、映画に出たことはないか?」
「なーに、キョンくん。知らぁなぁい」
 次に俺はシャミセンを抱《だ》き上げ、
「この猫はいつからこの家にいるんだ? 誰《だれ》が連れてきた」
 妹はもともと丸い目をさらに円に近づけ、
「んーと先月。キョンくんが持ってきたよ? でしょ。外国に行っちゃうトモダチからもらったんだよね。ねぇシャミー」
 俺の手から三毛猫をむしり取ると、妹は愛《いと》おしそうに頬《ほお》ずりし、眠《ねむ》そうに目を細めるシャミセンが悟《さと》りきったような顔で俺を眺《なが》めた。
「貸せ」
 再び猫を奪取《だっしゅ》する。品物のようにやりとりされて迷惑《めいわく》そうにヒゲを震《ふる》わせるシャミセンには後で乾燥餌《かんそうえさ》で報《むく》いてやることにする。
「俺はこいつと話がある。二人きりでな。だからお前は部屋を出て行け。今すぐだ」
「えー。あたしもお話ししたい。ずるいよキョンくん。え?……シャミとおしゃべり? え? ほんとに?」
 俺は問答無用で妹の腰《こし》を抱《かか》えると部屋の外に放《ほう》り出し、「絶対開けるな」と厳命してドアを閉じた。直後、
「おかーさーん。キョンくんがー頭おかしくなってるよー」
 ひょっとしたら本当かもしれないことを叫《さけ》びながら階段を下りていく妹の声が聞こえる。
「さあ、シャミセン」
 俺はあぐらを組んで、床《ゆか》にちょこんと座る貴重なオス三毛猫に言った。
「以前、俺はお前に絶対|喋《しゃべ》るなと言った。だがそれはもういい。むしろ喋ってくれたほうが今の俺は安心する。だからな、シャミセン。何か喋れ。なんでもいい。哲学《てつがく》ネタでも自然科学ネタでもいい。解りやすくなくていい。喋ってくれ」
 シャミセンは俺を退屈《たいくつ》そうに見上げていたが、心底退屈になったのかちゃっちゃと毛繕《けづくろ》いを始めた。
「……俺の言ってることが解るか? 喋ることはできないがヒアリングはできるとか、そんなんか? だったらイエスの場合は右|前脚《まえあし》を、ノーの場合は左前脚を出してくれ」
 手のひらを上向けて鼻面《はなづら》に突《つ》きつける。シャミセンはしばらく俺の指のにおいをくんくんと嗅《か》いでいたが、やはりというか、何も言わず何の意思表示もすることなく、毛繕いに戻《もど》った。
 そうだろうな。
 こいつが喋ったのは映画|撮影《さつえい》の間、それも短い間だけだ。クランクアップと同時にこいつは普通《ふつう》の猫になっちまった。喰《く》う寝《ね》る遊ぶくらいしか動詞を持ち合わせていない、当たり前の猫である。
 一つ解った。ここは猫が喋るような世界ではない。
「あたりまえだろ」
 脱力《だつりょく》して寝転がりながら俺は手足を伸《の》ばした。猫は喋ったりしない。だからおかしかったのはシャミセンが口をきいたあの時のほうで、つまり今はおかしくない。だが本当にそうか?
 いっそ猫になってしまいたい。そうしたら何を考えることもなく本能のままに過ごせるだろうのに。
 妹が晩飯の完成を告げに来るまで、俺はそうしていた。

■お 得情報盛りだくさん
■高性能レンタルサーバ