プロローグ
涼宮《すずみや》ハルヒと言うよりは俺が憂鬱《ゆううつ》だったのではないかと思われるSOS団発足記念日は思い起こせば春先のことであり、やはりハルヒではなく俺がすっかり溜息《ためいき》づくしだった自主映画|撮影《さつえい》にまつわる出来事はいちおう暦《こよみ》上で秋になってのことだった。
その間約半年の時間が経過しているのも当然ながら、夏休みを挟《はさ》んだその半年間にハルヒが手をこまねいて時が過ぎるままに任せているわけもなく、当たり前のように俺たちは理不尽《りふじん》かつわけの解《わか》らない事件とか事件なのかどうかも解らない事件モドキみたいなものにさんざん巻き込まれていたのは言うまでもないだろう。
何と言っても季節が季節だ。気温の上昇《じょうしょう》とともにそこら中から虫がやたら出てくるのと同様に、ハルヒの頭の中からも謎《なぞ》のような思いつきがまろび出て、出てくるだけならまだしもその思いつきを俺たちの手でもって何とかしなければならないという不条理な事態が待ち受けていたのは、ホントどうしたものだろうね。
古泉《こいずみ》や長門《ながと》や朝比奈《あさひな》さんがどう思っているのかはよく解らないが、少なくとも俺の自覚症状《じかくしょうじょう》としては気力体力|充分《じゅうぶん》なパラメータを保持しているにもかかわらず、何だかすっかり腹一杯《はらいっぱい》喰《く》いすぎて自重では動けなくなった小さくて丸っこい動物のような気分を毎度のように味わわされていて、こうなれば最後、坂道をコロコロ転がり落ちるだけである。
今も転がっている最中《さいちゅう》なのかもしれないな。
なんせハルヒは頭の中が常に愉快《ゆかい》な事で満たされていないと決まってロクでもないことを考え始めるという他人にすれば迷惑《めいわく》この上ない習性を持っている。とにかく何もしなくていい、みたいな状況《じょうきょう》が我慢《がまん》ならないらしい。何もないなら無理矢理することを探し始めるような奴《やつ》なのだ。そうして俺の経験上、ハルヒが何かを口走って俺たちが安寧《あんねい》の心地《ここち》に浸《ひた》ったことはない。これからもないかもしれない。なんてヤツだ。
いい悪いは別にして、何よりも退屈《たいくつ》を嫌《きら》う女、それが涼宮ハルヒであった。
というわけで憂鬱が溜息に移り変わる間の半年間、俺たちSOS団がこうむることになった退屈しのぎのアレやコレやをせっかくなのでここで紹介《しょうかい》したい。何がせっかくなのかは俺にだって知れたことではないが、語っても損をすることはないだろうし、せめで誰《だれ》か一人にでも俺の抱《かか》えることになったこの名状しがたい気分を共有してもらえたら本望《ほんもう》だ。
そうだな……、まずあのマヌケな野球大会のことから始めようか。
涼宮ハルヒの退屈
ある日の「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」、略してSOS団のアジト(正確にはまだ文芸部部室)で、涼宮ハルヒは甲子園《こうしえん》で一番クジを引いた野球部キャプテンの選手|宣誓《せんせい》のような溌剌《はつらつ》さとともに高らかに宣言した。
「野球大会に出るわよ!」
六月であり、放課後であった。あの、俺にとっては悪夢のような事件から二週間後のことでもあり、おかげでろくすっぽ勉強に集中できなかったため悪夢そのものだった中間試験の結果が返りつつある初夏の頃《ころ》でもあった。
そのくせハルヒはどう控《ひか》えめに見ても全然授業を真面目《まじめ》に聞いていないのに一人で成績学年ベスト10に名を連ねているのだから、この世に神がいるのだとしたら、そいつには人を見る目がまったくないか、よほどの根性《こんじょう》悪《わる》に違《ちが》いない。
……まあ、そんなのはどうでもいいんだ。今、ハルヒが叫《さけ》んだセリフのほうがよほど問題だ。
なんつった、今こいつ?
俺はこの部屋にいる俺以外の三つの顔を見回した。
最初に見たのは、中学生みたいな童顔の上級生、朝比奈みくるさんだった。白い羽を背中に付けたら今にも天へと帰っていきそうな顔立ちの、とんでもなく可愛《かわい》いお方である。そのお顔と小柄《こがら》な身長に似合わず、これまたとんでもなくグラマラスであることを俺は知っている。
なぜか唯一《ゆいいつ》この高校の制服を着ていない朝比奈さんは現在、薄《うす》ピンクのナース姿に身をまとい、麗《うるわ》しい唇《くちびる》を形良く半開きにしてハルヒを見つめていた。彼女がナースの恰好《かっこう》をしているのは看護学生でもなければコスプレマニアというわけでもなく、単なるハルヒの指令によるものだ。またどこかの怪《あや》しいネット通販《つうはん》で入手したのだろう、ハルヒが持ってきて強制的に朝比奈さんにあてがったのである。万人《ばんにん》が思い浮《う》かべるであろう「いったいそれに何の意味があるのか?」という問いには、こう答えよう。
「ねーよ、んなもん」
かつてハルヒは、「この部室にいる時は常にこの衣装《いしょう》を着ていなさい。絶対よ!」などと命令調で明言し、朝比奈さんは「そそ、そんなぁ……」と、半泣きになりつつも生《き》真面目に言いつけを守っているのだった。あまりのいじらしさに時々後ろから抱《だ》きつきたくなるほどだったが、まだやったことはない。誓《ちか》ってもいい。
ちなみに二週間ほど前はメイド服が標準で、今もそのメイド衣装は部室の片隅《かたすみ》でハンガーに掛《か》けられてぶら下がっている。こっちのほうが可愛いし似合っているし俺の趣味《しゅみ》に合致《がっち》しているので、そろそろ原点に回帰して欲しいと俺は考えている。たぶん、朝比奈さんならリクエストに応じてくれるだろう。悩《な》ましくも恥《は》じらいながら。うん、実にいいね。
その今はナースの朝比奈さんは、野球がどうしたとかいうハルヒの宣言を聞いた後、
「え……?」
カナリアの挨拶《あいさつ》のような可愛らしい声でリアクションしたきり、絶句を続けている。無理もない反応だ。
俺は次に、この場にいるもう一人の女子の顔へと視線を向けた。
背丈《せたけ》は朝比奈さんとどっこいどっこいだが存在感ではヒマワリとツクシくらいの違いがある長門|有希《ゆき》は、いつものように何も聞こえていないかのごとく、分厚いハードカバーを開いたままページからまったく視線を逸《そ》らさない。数十秒おきに指が動いて頁《ページ》をめくるので、ようやくこいつが生きていることが解《わか》るくらいだ。日本語を覚えたてのセキセイインコでももう少し喋《しゃべ》るだろうし、冬眠《とうみん》中のハムスターでもこいつよりは身動きすると思うね。
いてもいなくても同じような奴《やつ》なので別に力を入れて描写《びょうしゃ》するところでもないのだが、一応|紹介《しょうかい》しておくと、こいつは俺やハルヒと同じ一年生で、この部室が本来所属するクラブの生徒、一人しかいない文芸部員だ。つまりSOS団なる我等が同好会は、文芸部の部室に間借りというか実は寄生も同然にここを根城にしているのである。もちろん学校側の承認《しょうにん》はまだ受けていない。この前《まえ》出した創部|申請書《しんせいしょ》は生徒会から門前払《もんぜんばら》いをくらった。
「…………」
無反応な長門の顔をずらすと、その横に古泉|一樹《いつき》のニヤケハンサム面《づら》があった。面白《おもしろ》そうな顔をして、俺に視線を投げかけている。意味もなくむかつく。長門に輪をかけてこいつなんかどうでもいい。この謎《なぞ》の転校生男――もっとも謎がどうのと言っていたのはハルヒだけだったが――は、前髪《まえがみ》をパサリと払《はら》って、いまいましいまでに整った顔を笑いの形に歪《ゆが》めた。そして俺と目が合うと、殴りたくなるくらい様《さま》になるしぐさで肩《かた》をすくめて見せた。殴って欲しいのか、こいつは?
「何に出るって?」
誰《だれ》も反応しないので、いつものように俺はしぶしぶハルヒに訊《き》き返した。どうしてみんな俺をハルヒの通訳係にしたがるんだ。迷惑《めいわく》この上ないぞ。
「これ」
得意満面の表情でハルヒが俺に差し出したのは、一枚のチラシだった。チラシにいい思い出のない朝比奈さんが密《ひそ》かに身を縮めるのを視界の脇《わき》に捕《と》らえながら、俺はその紙切れに書かれている文字を音読する。
「第九回市内アマチュア野球大会参加|募集《ぼしゅう》のお知らせ」
この市における草野球チャンピオンチームをトーナメント方式で決定しようとかなんとか。主催《しゅさい》は役所で、毎年おこなわれている由緒《ゆいしょ》正しい催《もよお》しなのだそうだ。
「ふーん」
と、俺は呟《つぶや》いて顔を上げた。ハルヒの輝《かがや》かしいまでに朗《ほが》らかな顔がスマイル百%で至近|距離《きょり》にあった。俺は思わず半歩ほど後ずさり、
「で、誰が出るんだ、その野球大会に」
解ってはいたが訊いてみた。
「あたしたちに決まってるじゃない!」とハルヒは断言してくれる。
「その『たち』というのは、俺と朝比奈さんと長門と古泉も入っているのか?」
「あたりまえじゃないの」
「俺たちの意思はどうなるんだろう」
「あと四人、メンツを揃《そろ》える必要があるわね」
例によって自分に都合の悪い話が耳に届かない奴である。ふと思いついた。
「お前、野球のルール知ってるのか?」
「知ってるわよ、それくらい。投げたり打ったり走ったり滑《すべ》り込んだりタックルしたりするスポーツよ。野球部に仮入部したこともあるから、一通りはこなしたわ」
「仮入部って、何日くらい行ってたんだ」
「一時間弱かしら。てんで面白くなかったからすぐに帰ったけど」
その面白くなかった野球大会に、なぜ今更《いまさら》しかも俺たちが出場しなければならないのか。あまりに当然の疑問に対し、ハルヒは次のように答えた。
「我々の存在を天下に知らしめるチャンスだわ。この大会で優勝したら、SOS団の名前が一人歩きしていくきっかけになるかもしれないじゃないの。いい機会よ」
こんな団の名がこれ以上|耳目《じもく》を集めることだけは勘弁《かんべん》してもらいたいし、だいたい一人歩きさせてどうするつもりなんだ。何が、いい機会、なんだ。
俺は困り果てていたし、朝比奈さんも困っていた。古泉は「なるほどなるほど」などと呟きつつ、ちっとも困った顔をしていない。長門は困っているのかどうなのか、ひょっとしたら話すら聞いていないのかもしれないが、いつもの無機質な表情で陶器《とうき》のように固まっていた。
「ねっ、ナイスアイデアでしょ? みくるちゃん」
いきなり振《ふ》られて、朝比奈さんはうろたえつつ、
「えっ? えっ? でででも……」
「なにかしら?」
水辺で水を飲む子鹿《こじか》に近づくアリゲーターの動きでハルヒは朝比奈さんの背後に回ると、腰《こし》を浮《う》かせていた小柄《こがら》な看護婦もとい看護師姿にいきなり後ろから抱《だ》きついた。
「わきゃ! ななな、何を何を……!」
「いい、みくるちゃん、この団ではリーダーの命令は絶対なのよ! 抗命罪《こうめいざい》は重いのよ! 何か意見があるなら会議で聞くわ!」
会議? いつも一方的にハルヒがわけの解《わか》らんことを俺たちに押つけるために開かれるミーティングみたいなやつのことか?
ハルヒはもがく朝比奈さんの首に白蛇《はくじゃ》みたいな腕《うで》を絡《から》めつつ、
「いいでしょ野球。言っとくけど狙《ね》うのは優勝よ! 一敗も許されないわ! あたしは負けることが大嫌《だいきら》いだから!」
「わわわわわ……」
朝比奈さんは目を白黒させながら顔を赤くしてぶるぶる震《ふる》える。スリーパーホールドすれすれの抱きつき技《わざ》で拘束《こうそく》し朝比奈さんの耳をはむはむ噛《か》みながらハルヒは、うらやましい想《おも》いが顔に出ていたんだろう、俺をじろりと睨《にら》みつけた。
「いいわね!」
いいも悪いも、どうせ俺たちが何を言っても無視するつもりのくせに。
「いいんじゃないですか」
古泉が同調しやがった。
おいおい、そんな爽《さわ》やかに賛成票を投じるな。たまには反論の一つでもしてやれよ。
「じゃっ、あたし、野球部行って道具もらってくるから!」
小型|竜巻《たつまき》のような勢いでハルヒが飛び出していき、解放された朝比奈さんは椅子《いす》の背もたれにへたり込み、古泉は述懐《じゅっかい》した。
「宇宙人|捕獲《ほかく》作戦やUMA|探索《たんさく》合宿旅行とかじゃなくてよかったじゃないですか。野球でしたら我々の恐《おそ》れている非現実的な現象とは無関係でしょう」
「まあな」
この時は俺もいったん納得《なっとく》した。いくらハルヒでも野球するのに宇宙人や未来人や超《ちょう》能力者が必要であるなどとは言い出すまい。ならば発見できるはずのない超常現象を探して町中をうろうろするより(SOS団のメイン活動がそれなのだ)、草野球に興じているほうが多少はマシかもしれん。朝比奈さんもコクコクうなずいているし。
結果的にその推測の矢は完全に的を外し、外しただけだったらいいのだがその的の掛《か》かっていた壁《かべ》を貫通《かんつう》してどこまでも飛んでいくことになったのだが、そのことを俺が悟《さと》るのはもうちょい後だ。
ようするに、と俺は思う。野球でなくても、自分の目を引くものなら何だってよかったんだろう。第一、ハルヒによって旗揚《はたあ》げされたSOS団という恥《は》ずかしい名称《めいしょう》を持つこの同好会未満の非公認《ひこうにん》学内団体自体がすでにこいつの単なる思いつきの産物である。なんせ正式名称が「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」というやたら長い上に恐ろしく独りよがりで抽象的《ちゅうしょうてき》という謎《なぞ》の団なのだ。もっと小マシなネーミングにしようとした俺の目論見《もくろみ》はあえなく玉砕《ぎょくさい》し、爾来《じらい》、改名の機会は訪《おとず》れていない。
以前、それは何をするクラブなのかと訊《き》かれたハルヒは、まるで敵将の首を討《う》ち取った足軽兵のような顔でこう答えた。
「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒《いっしょ》に遊ぶことよ!」
元から奇行《きこう》で学内に轟《とどろ》いていた涼宮ハルヒの名が、完全に変人の代名詞として殿堂《でんどう》入り確定となったセリフである。
とまあ、こんな調子で、カラスが光物をちょろまかすように、猫《ねこ》が小さくてチョロチョロ動く物体を見ると反射的に飛びついてしまうように、台所でゴキブリを発見した人が殺虫|剤《ざい》を探すように、たまたま見かけて気の惹《ひ》かれたものならドッジボールでもゲートボールでもポートボールでも何でも、「これする!」と言い出したことだろう。草ラグビー大会じゃなかったことを喜ぶべきだったかもしれない。野球より大人数を揃《そろ》えないといけないからな。
つまりハルヒは、ただ退屈《たいくつ》だったのだ。
いったいどのような交渉《こうしょう》の果てか、ハルヒは野球用具一式を抱《かか》えてつむじ風のように戻《もど》ってきた。小型の捨て犬が入れられていそうな段ボールの中身は、ボロボロのグローブ九個と、あちこちぼこぼこの金属バット、薄汚《うすよご》れた硬式《こうしき》ボールがいくつか。
「待て」
と俺は言ってチラシをもう一度よく見た。
「これは軟式《なんしき》野球の試合だぞ。硬式を持ってきてどうするんだ?」
「ボールはボールでしょ、同じことよ。バットで叩《たた》いたら飛ぶわよ、絶対よ」
俺だって野球なんか小学生の頃《ころ》に校庭で遊んだとき以来だ。だが、軟式と硬式の違《ちが》いくらいは解る。硬式のほうが当たれば痛い。
「当たらないようにすればいいじゃない」
お前が何を案じているのかさっぱり解《わか》らん、みたいな顔でハルヒは簡単に言った。
俺はあきらめて、
「それで、その試合とやらはいつなんだ」
「今度の日曜」
「明後日《あさって》じゃねえか! いくらなんでも急すぎるだろ」
「でも、もう申し込んじゃったし。あ、安心して、チーム名はSOS団にしといたから。そのへんは抜《ぬ》かりないわ」
俺は脱力《だつりょく》して、
「……他《ほか》のメンツはどこからかき集めるつもりだ?」
「そこらを歩いているヒマそうなのを捕《つか》まえればいいじゃない」
これを本気で言っているんだからな。そしてハルヒが目を付けそうな人間は、一つの例外を除いて、みんな普通《ふつう》ではないのである。その数少ない例外は俺。そして俺は、これ以上理解できない身の上の人間と知り合いになるつもりはない。
「解った。お前はじっとしてろ。選手集めは俺がする。とりあえず……」
俺は一年五組の男どもの顔を思い浮《う》かべる。俺が声をかけてついてくるような奴《やつ》……。谷口《たにぐち》と国木田《くにきだ》くらいだな。
俺がそう言うと、ハルヒは、
「それでいいわ」
自分のクラスメイトを「それ」扱《あつか》いし、
「いないよりはマシでしょ」
他の連中は涼宮ハルヒの名前を出した途端《とたん》に逃《に》げ出すだろう。えーと、あと二人どうするか。
「あのう」
朝比奈さんが控《ひか》えめに片手を挙げた。
「あたしのお友達でよろしければ……」
「じゃ、それ」
ハルヒ即答《そくとう》。誰《だれ》でもいいようだ。お前は何も知らないからいいかもしれんが、俺はちょっと気になる。朝比奈さんの友達? いつどこの友達だ?
疑問が顔に出たのをめざとく見つけたのだろう。朝比奈さんは俺に向かって、
「大丈夫《だいじょうぶ》です。このじ……けほん。クラスで知り合ったお友達ですから」
安心させるようなことを言ってくれた。すると古泉が、
「では僕も友人を一人連れてきましょうか。実は我々に興味を抱《いだ》いているある人物に心当たりが――」
とか言い出したので黙《だま》らせた。お前のツレなんか来《こ》なくていい。どうせけったいな野郎《やろう》に決まっている。
「俺がなんとかする」
誰でもいいんなら、俺にも知り合いは他にもいる。ハルヒは鷹揚《おうよう》にうなずいて、
「じゃあ、まずは特訓ね、特訓」
まあ、話の流れ上、そうなるのだろうな。
「今から」
今から? どこで?
「グラウンドで」
開けっ放しの窓から、おっしゃばっちこーい、とか言っているような野球部員たちのかけ声が小さく響《ひび》いていた。
ところで、いきなり言うのも何なんだが、実はこの部室に集《つど》っていた俺以外の四人はそれぞれにそれぞれの理由で普通の人間じゃない。自分の実体に自覚|皆無《かいむ》なのはハルヒだけで、他の三人は三人とも自分の正体を頼《たの》みもしないのに明かしてくれ、また俺に理解するよう促《うなが》した。その三つの主張は俺の常識が地球あたりだとすると冥王星《めいおうせい》軌道《きどう》の外くらいを回っているような理解不能ぶりだったわけで、しかし俺は先月末に実地を伴《ともな》った体験によって、どうもそれが事実っぽいことを知らされていた。知りたくもなかったが、いつのまにかハルヒの配下に組み入れられて以来、俺の希望が通ったことはほぼないと言っていい。
単純に言えば、朝比奈さんと長門と古泉がこの学校に存在するのは、ハルヒがいるからなのである。なぜか皆《みな》さん、ハルヒになみなみならぬ関心をお持ちのようだ。
俺にはただのナチュラルハイ女にしか見えないが、そう思っているのは俺だけであって、そんな俺の確信も少々揺《ゆ》らぎつつある昨今である。
誓《ちか》って言おう。どうかしているのは俺の頭じゃない。
世界のほうなのだ。
そんなこんなで俺は、それぞれに常軌《じょうき》を逸《いっ》した立場の他の団員とともに土埃《つちぼこり》舞《ま》う運動場で立っているというわけだ。
練習場所を追い払《はら》われた野球部員たちが迷惑《めいわく》そうに俺たちを見ている。当たり前だ。いきなり珍妙《ちんみょう》な一団が現れたと思うと、首領格の女がセーラー服を翻《ひるがえ》しながらバットを振《ふ》りかざして意味不明なことを叫《さけ》び、あっけに取られているうちに野球部割り当てのグラウンドスペースを占拠《せんきょ》され、何が何だか解《わか》らないうちに球拾いとボールトス係りになることを命令されてしまったのだから、これが迷惑でなくてなんだろう。
おまけに俺たちは普通の制服姿で、ナースが一人混じっているような集団なのだ。
「最初は千本ノックね」
ハルヒの予告通り、ピッチャーズマウンドあたりに横一列になった俺たちに、ノックの雨が降り注いだ。
「ひー」
朝比奈さんはグローブを頭にかぶってうずくまり、俺はそんな彼女の身体《からだ》にボールがぶつからないように決死の覚悟《かくご》で白球に立ち向かう。それにしてもハルヒの打球はほとんど殺人的に鋭《するど》い当たりの連発だ。何をやらせても一丁前にこなしやがる。
古泉はいつもの微笑《ほほえ》みを浮《う》かべつつ、けっこう楽しそうにノックをさばいていた。
「いやあ、久しぶりですよ。懐《なつ》かしいな、この感触《かんしょく》」
ハルヒの乱れ打ちを軽《かろ》やかなステップで処理しながら、古泉は白い歯を俺に向けた。そんな余裕《よゆう》があるなら、朝比奈さんをかばってやってくれ。
長門はと見れば、棒立ち状態で正面を向いていた。自分に向かって飛んでくるボールにも委細かまわず、ただ突《つ》っ立っている。耳の横数ミリを掠《かす》める球にも微動《びどう》だにしない。たまにラジコンみたいな動きで左手にはめたグローブをゆっくり動かし、直撃《ちょくげき》コースを取る打球だけをキャッチしてはポトリと落とす。もうちょっと動けよ。それとも動体視力の良さを褒《ほ》めてやるべきだろうか。
他人を気にしていたのが悪かったか、イレギュラーバウンドした硬球《こうきゅう》が俺のグラブを掠め股下《またした》を抜《ぬ》き、朝比奈さんの膝小僧《ひざこぞう》を直撃してしまった。不覚。
「わきゃあ!」
朝比奈ナースバージョンさんは悲鳴を上げて、
「痛いー……ですー」
しくしく泣き始めた。もう見てられん。
「後を頼む」
俺は古泉と長門に言い残し、朝比奈さんに介添《かいぞ》えして、白線の外に出た。
「こらぁ! どこ行くのよ! キョン! みくるちゃん! 戻《もど》りなさぁい!」
「負傷退場だ!」
ハルヒの制止に手を挙げて、俺は朝比奈さんの腕《うで》を取りつつ保健室へ向かった。埃《ほこ》っぽい部室や、荒《あ》れたグラウンドより、ナース服が似合うことだけは間違《まちが》いない。
片手を目に当てて涙《なみだ》に濡《ぬれ》れた瞳《ひとみ》を隠《かく》していた朝比奈さんは、廊下《ろうか》を歩いている最中にすがりついている相手が俺だと気付いたようで、
「きゃっ!」
録音しておきたいくらい可愛《かわい》い声を出しつつ飛び退《の》き、うっすらと赤くなった顔で俺を見上げた。
「キョンくん、だめ、わたしと仲良くしたりなんかしたら……、また……」
また、どうなるんでしょうね。俺は肩《かた》をすくめて、
「朝比奈さん、もう帰っちゃっていいですよ。ハルヒには、足の打撲《だぼく》で全治二日と言っておきます」
「でも……」
「いいんですよ。悪いのはハルヒです。朝比奈さんが気に病《や》む必要はありません」
手をヒラヒラさせながら俺は言った。朝比奈さんはうつむき加減に俺を上目遣《うわめづか》いで見る。涙目が色っぽさ二倍増しだ。
「ありがとう」
腰《こし》砕《くだ》けそうになる可憐《かれん》な微笑みを投げかけて、朝比奈さんは名残惜《なごりお》しそうに振り返り振り返り、その場を去った。ハルヒもこの健気《けなげ》さを見習えないもんかね。いい感じになると思うのに。
グラウンドに戻ると、シートノックはまだ続いていた。呆《あき》れたことに、守備についているのは野球部員たちで、古泉と長門はバックネット裏でぼんやり立っている。
俺に気付いた古泉が快活な笑顔で
「やあ、どうも。お帰りなさい」
「何やってんだ、あいつは」
「見ての通りです。どうも我々では手応《てごた》えがなかったようでしてね、先ほどからあの調子です」
まさに広角打法。ハルヒは宣言した通りのポジションに宣言した通りの球を打ち込んでいた。
俺たち三人はすることもなく、延々とハルヒのナイスバッティングを鑑賞《かんしょう》し、このイカレ女がやっとバットを置いて満足そうに額の汗《あせ》を拭《ぬぐ》うあたりまで付き合った。古泉が愉快《ゆかい》そうに言う。
「驚《おどろ》きですね。本当にちょうど千本ぴったりですよ」
「そんなもん数えているお前のほうが驚きだよ」
「…………」
無言で長門はきびすを返し、俺もそれに倣《なら》った。
「なあ」
俺は小柄《こがら》なセーラー服姿の横顔に提案した。
「試合当日だがな、雨を降らせてくれないか。雨天中止になりそうな、デカイやつを」
「できなくはない」
長門は淡々《たんたん》と歩きながら言った。
「ただし推奨《すいしょう》はできない」
「なぜだ?」
「局地的な環境《かんきょう》情報の改竄《かいざん》は惑星《わくせい》の生態系に後遺症《こういしょう》を発生させる可能性がある」
「後遺症って、どれくらい後だ」
「数百年から一万年」
えらく遠大な話だな。
「じゃ、やめといたほうがいいな」
「いい」
五ミリほどうなずいて、長門は決まり切った歩調で歩き続けた。
背後を振《ふ》り返ると、ハルヒは制服のままマウンドに上がって、投げ込みを開始しているところだった。
二日後。日曜日。午前八時ちょうど。
俺たちは市営グラウンドに集合した。陸上競技場に隣接《りんせつ》する野球場は合計二つ。一回戦は五イニングまで。夕方までにベスト4を決め、準決勝と決勝は来週の日曜日にやるという二週がかりの大会だ。出場チームは無数だが、どうにも場違いなことに、全員学校のジャージで集まっているのは俺たちのチームくらいであって、他《ほか》の参加者たちはほとんどがちゃんとした野球のユニフォームを着ていた。関係ないが長門の制服以外の姿を俺はこのとき初めて見た。
後で聞いたのだが、この草野球大会はけっこうな歴史を持つ(九回目だけど)それなりに真面目《まじめ》なトーナメント戦らしい。だったらハルヒが受付に来た段階で断って欲しかった。
ちなみに谷口と国木田は電話一本、二つ返事で快諾《かいだく》した。谷口は朝比奈さんと長門目当てで、国木田は「なんか面白《おもしろ》そうだね」と参加を決めやがった。、単純な奴《やつ》らで助かる。
朝比奈さんが連れてきた助っ人の二年生は鶴屋《つるや》さんとおっしゃる、かつてのハルヒくらいに髪《かみ》の長い元気な女の人で俺を見るなり、
「キミがキョンくん? みくるからよっく聞いてるよっ。ふーん。へえーっ」
などと言って、朝比奈さんをなぜか慌《あわ》てさせた。何を言われているんだろう、俺。
そいでもって俺が連れてきた第四の選手は、今、ハルヒとにらめっこをしている。
「キョン、ちょっと来なさい」
ハルヒは俺を剛腕《ごうわん》でもって大会本部テントの脇《わき》に連れて行くと、
「何考えてんの、あんた。あんなのに野球やらせる気なの?」
あんなのとは失礼な。あんなんでも、俺の妹だぞ。
「小学五年生、十歳って自己|紹介《しょうかい》されたわ。あんたの肉親と思えないほど素直《すなお》そうな子ね。いいえ、そんなことよりね、リトルリーグ部門ならいいけど、あたしたちが出るのは一般《いっぱん》部門なのよ!」
俺だって何も考えずに妹を連れてきたわけではない。これでも深謀遠慮《しんぼうえんりょ》した結果なのである。俺はこう考えたのだ。実のところ、俺はせっかくに日曜日に朝っぱらから起きだして運動するなんて全然乗り気ではないのである。本日ここまで来てしまったのは不可抗力《ふかこうりょく》のたまものだ。ならばせめてこの乗り気のしない時間を一刻も早く終わらせたいと感じるのは当然の心理的働きで、ようはとっとと負けてさっさと帰ってしまえばいいのだ。妹を混ぜなくてもこのメンツならまず一回戦での敗北は確実だが、万が一と言うことがある。こっちを率いているのは誰《だれ》あろう涼宮ハルヒだからな。まかり間違《まちが》って優勝でもしてしまったら、また面倒《めんどう》なことになるような気がする。確実に負ける要因を入れておく必要があるだろう。ドシロウトの小学生女子を入れておいたら、これは間違いなく負ける。勝つほうがおかしい。
ハルヒには言えないが、俺は俺なりに人並みの脳味噌《のうみそ》を持っているのである。
「ふん、まあいいわ」
ハルヒは鼻を鳴らしてそっぽを向き、
「ちょうどいいハンデね。あんまりボロ勝ちしても悪いし」
どうやら勝つつもりらしい。どうやってだろう。
「ところでだな。まだ打順も守備位置も決めてないんだが、どうするんだ」
「ちゃんと考えてきたわ」
満面に得意という言葉を浮《う》かび上がらせて、ハルヒはジャージのポケットから紙切れを取り出した。メンバーを今日初めて知ったのに、何を基準に決めたのかと思っていたら、
「これで決めたら文句ないでしょ」
紙に描《か》いてあるのは八本の線。それが二枚。俺の目には作りかけのアミダクジに見えるが、錯覚《さっかく》か?
「何言ってんの? アミダに決まってるじゃないの。打つ順番と、守るところの二種類ね。それから、あたしはピッチャーで一番だから」
「……おまえが考えたのは、決める方法だけか」
「なに、その顔。なんか不満あんの? 民主的な方法でしょ。古代ギリシャじゃクジ引きで政治家選んでたのよ!」
古代ギリシャの政治制度と現代日本の草野球の打順を一緒《いっしょ》にするな。しかもお前だけ自分の好きなようになってるじゃないか。それのどこが民主的だ。
……まあ、いいか。余計に早く負けることができそうだ。さっきルール説明を聞いたところ、十点差が付けばその時点でコールドゲームらしい。今のうちに帰り支度《じたく》でもしておこう。なんせ、一回戦の相手は去年まで三年連続ディフェンディングチャンピオンの優勝候補筆頭だしな。
上ヶ原《かみがはら》パイレーツ。近所の大学の野球サークルである。どちらかと言えば硬派《こうは》に属するサークルのようだ。シリアスだった。全員が勝ちにきていた。試合前の簡単な練習でそれが解《わか》った。皆《みな》さん、気合が入りまくりの大声を出しつつ、バックホームの連携《れんけい》や、ダブルプレーのフォーメーション確認《かくにん》までしている。本格的だ。端的《たんてき》に言うと目の色が違うって奴《やつ》だ。俺たちは間違った場所に来てしまったんじゃないだろうかと一瞬《いっしゅん》周囲を見渡《みわた》して、ここが野球大会|開催《かいさい》地である市営グラウンドであることを再確認しなければならなかったほどである。
負けちまえばいいとは思っていたが、だんだん現実から逃避《とうひ》したくなってきた。相手チームに謝りたくなってくるほど、こっちのチームはしょぼいのだ。
俺が敵前|逃亡《とうぼう》の方策を練っていると、ハルヒが一同を整列させて、
「作戦を授《さず》けるわ。みんな、あたしの言うとおりにしなさい」
監督《かんとく》みたいなことを言い出した。
「いい、まず何としてでも塁《るい》に出るのよ。出たら、三球目まで盗塁《とうるい》ね。バッターはストライクならヒットを打ってボールなら見逃《みのが》すの。簡単でしょ? あたしの計算では一回に最低三点は取れるわね」
ハルヒ頭脳の計算によればそうなるらしいが、この自信の根拠《こんきょ》はどこから来るものなのだろう。もちろんどこからも来てなどいない。根拠のない自信を体現した存在、それがこいつなのである。しかし、世間ではそういう奴のことを「バカ」と言うのではないだろうか。そしてこいつはただのバカではない。バカ世界的食物|連鎖《れんさ》の頂点に君臨する、バカの女王なのだ。
アミダクジ神の宣託《せんたく》によって決定した我が『チームSOS団』のスターティングメンバーをお知らせしておこう。
一番、ピッチャー、涼宮ハルヒ。二番、ライト、朝比奈みくる。三番、センター、長門有希。四番、セカンド、俺。五番、レフト、妹。六番、キャッチャー、古泉一樹。七番、ファースト、国木田。八番、サード、鶴屋さん。九番、ショート、谷口。
以上である。補欠なし。マネージャーもなし。応援《おうえん》もなし。
整列して挨拶《あいさつ》の後、さっそくハルヒがバッターボックスに入った。ヘルメットの存在をすっかり忘れていた我々は、運営委員会からセコハンの白ヘルを借りていた。自前のものと言えば、ハルヒが人数分持ってきた黄色のメガホンくらいである。
ツバをついと指で上げ、ハルヒは野球部からパクってきた金属バットを構えながら不敵に微笑《ほほえ》んだ。
プレイボールを審判《しんぱん》がコールし、敵チームのピッチャーがワインドアップモーションに入る。
その第一球目。
コキン。
小気味よく金属音が響《ひび》き、白球がぐんぐん飛距離《ひきょり》を稼《かせ》ぐ。猛《もう》バックするセンターの頭上を抜《ぬ》いて、フェンスにワンバウンドで直撃《ちょくげき》。ボールが内野に返った時、ハルヒはすでにセカンドベースに到達《とうたつ》していた。
別に驚《おどろ》きはしなかった。ハルヒならこれくらいのことはする。朝比奈さんと古泉も同意見だろうし、長門はたぶん驚くという感情がない。だが、俺たち四人以外のメンツは例外なく驚きの表情で、ガッツポーズを繰《く》り返すハルヒを眺《なが》めていた。特に敵チームが。
「ピッチャー全然大した球じゃないわよっ! あたしに続きなさい!」
ハルヒが威勢《いせい》よく叫《さけ》んでいる。が、これは完全に逆効果だった。どうやらバッテリーは女だからと言って手加減する気分は早くも絶無になったようだ。
二番手の朝比奈さんがぶかぶかのヘルメットをかぶって、おずおずという感じでバッターボックスに立つ。
「よ、よろしくお願い――し、ひん!」
言い終わらないうちにインコース高めに直球が決まった。なんて野郎《やろう》どもだ。朝比奈さんにデッドボールをかましたら承知せんぞ。即《そく》、乱闘《らんとう》だ。
続く二球目を、朝比奈さんは地蔵と化して見送った。バッターアウトの宣告を受けると、ホッとしたようにベンチに戻《もど》ってくる。
「こらーっ! 何でバット振《ふ》らないのよ!」
ハルヒが何か言ってるが、放《ほう》っておけばいい。朝比奈さんが無事《ぶじ》で何よりだ。
「…………」
三番は長門。金属バットの先端《せんたん》を地面に引きずりながら黙々《もくもく》と打席に向かい、
「…………」
すべての球を見逃して、あっさり三振《さんしん》、また黙々と戻ってくる。そしてネクストバッターボックスの俺に、
「…………」
メットとバットを手渡《てわた》し、黙々とベンチに座って、元通りの置き人形になった。
ハルヒの怒声《どせい》がやかましい。まあ、朝比奈さんや長門に期待するほうが間違《まちが》いだ。
「キョン! あんた絶対に打ちなさいよっ! 四番でしょ!」
クジ引きで決まった四番に期待しないで欲しいものだが。
俺は長門を見習って、黙《だま》って打席に立った。
一球目は見逃してストライク。これは驚き、やたら速いぞ。ボールが空気を切り裂《さ》くシュルシュルシュルなんて音までしてる。何キロ出ているのか知らないが、目にも止まらぬとはこのことだ。実際、投げた、と思ったらもうキャッチャーミットに収まっていた。ハルヒはこんなのを長打にしたのか?
二球目。とりあえず振ってみた。金属バットは無益に空を斬《き》った。空振《からぶ》り。かすりもしない。かする気もしない。
三球目。うわ、球が曲がった。カーブというやつか? 見送れば完全にボールになる外角球に手を出してジ・エンド。三者連続三振。スリーアウト、チェンジ。
「アホーっ!」
敵チームがベンチに戻っていくなか、左中間で手を振り回しながらハルヒが怒鳴っていた。
面目《めんぼく》ない。
俺たちの守備は、はっきり言ってサバンナ地帯の蟻塚《ありづか》以上に穴だらけだった。
特に外野がひどい。ライトの朝比奈さんとレフトの俺の妹はフライが上がったら最後、まず取れない。試合前の守備練習でそれが解《わか》った。なので、ライトに球が飛んだらセカンドの俺が、レフトはショートの谷口が、全力で走って球の落ちるところまで行かねばならない。朝比奈さんはボールが自分めがけて飛んでくるのを見るや、グローブを頭に載《の》せてしゃがみ込んでしまうのだからしかたがないし、妹のほうは、嬉《うれ》しそうに走ってボールを追いかけるものの、その三メートル横に球が落ちたりして、これまたどうしようもない。
センターの長門は捕球《ほきゅう》は完璧《かんぺき》だが、自分の守備|範囲《はんい》に飛んできたものにしか反応せず、しかもいちいち動作が緩慢《かんまん》なので、ライナーで横を抜かれると二塁打《にるいだ》は堅《かた》い。
…………すみやかに負けて帰ろう。それがいい。
「しまっていこーっ! おーっ!」
ハルヒが一人で気合を入れている。その球を受けることになったキャッチャーの古泉が付けているプロテクタやレガース、ミットもまた借り物であることは言うまでもない。
相手チームの一番打者が審判《しんぱん》に一礼してバッターボックスへ。
ハルヒはオーバースローから一球目を投じた。
ストライク。
キレ、スピード、コントロールともに申し分のない見事なストレート。完全にど真ん中だったが、バッターのバットをピクリとも動かせない迫力《はくりょく》に満ちた本格的な球だった。
もちろん、俺以下、SOS団のメンバーは驚《おどろ》かない。こいつがサッカー日本代表に突然《とつぜん》指名されたところで驚きやしないだろう。ハルヒなら何を可能にしても不思議ではない。
しかし相手チームの一番打者はそうはいかなかったようで、続く二球目も茫然《ぼうぜん》として手を出せず、三球目にようやくバットを振ったが、あえなく三振。どうもバッターの手元で微妙《びみょう》に変化するクセ球のようだった。ハルヒの性格同様、タチが悪い。
凡退《ぼんたい》した一番手にアドバイスを受けた二番打者は、バットを短く持って当てにくる構えだ。しかし二球ファールしたあげく、これまた空振り三振。
これには俺も不安になってきた。この調子で最終回までいくんじゃないだろうな。が、さすがはクリンナップの一角、三番手の打棒がハルヒ渾身《こんしん》のストレートをジャストミートした。いくらなんでもストライクゾーンに直球しか投げなければ打たれるだろ。
突《つ》っ立ったままピクリとも動かない長門の遥《はる》か上空をボールは越《こ》え、場外へと消えた。
内野を一周する敵の三番手を、ハルヒはまるでイアソンに裏切られた王女メデイアのような目で見つめていた。
ともかく、これで一点のビハインド。
続く四番に二塁打を許し、五番が国木田のエラーで一、二塁、六番にはライト前に落ちるテキサスヒットで二点を献上《けんじょう》、七番が放った三塁線|強襲《きょうしゅう》の当たりを鶴屋さんが軽快にすくい上げ矢のような送球、バッターランナーをアウトにして、やっとチェンジ。
一イニングが終わって2−0。意外に苦戦している。善戦などしてもらっては困るのだが。早いとこ十点取ってもらって直帰と行こう。
こちらの五番から七番、妹、古泉、国木田は順調に三者凡退し、落ち着くヒマもなく二回の裏の守備が始まった。
敵は、我がチームSOS団のウィークポイントが外野にあると見抜《みぬ》いたようだ。あからさまなアッパースイングで打ち上げることだけを狙《ねら》ってきた。その度《たび》に俺と谷口はひたすら外野へダッシュして捕球を試みるのだが、成功率は十%くらいのもんで、しかも異様に疲《つか》れる。ま、朝比奈さんの窮地《きゅうち》を救うためならこれくらいは軽いもんさ。脅《おび》えて丸くなっている朝比奈さんは、これはこれでとても可愛《かわい》いからな。
そんなこんなで結局、この回は五点取られた。7−0。あと三点だ。次の回で終わりにできるだろ。
三回の表。こちらの攻撃《こうげき》。
長い髪《かみ》を後ろで束ねた鶴屋さんがファールで粘《ねば》っている。運動神経のいい人のようだったが、ついにはキャッチャーフライを打ち上げて、バットでメットをこんこん叩《たた》きながら、
「むずいわねーっ、バットに当てるだけで精一杯《せいいっぱい》」
それを見ながらハルヒが眉《まゆ》を寄せ何かを考える風情《ふぜい》だが、こいつが考えることは大方ロクでもないことに決まっている。
「ふうん。やはりアレが必要のようね……」
ハルヒは口を尖《とが》らせて、おもむろに審判へこう言った。
「ちょっとタイム!」
それから、メガホンを手に行儀《ぎょうぎ》よく座っていた朝比奈さんの首根っこをつかむと、
「ひっ!」
小柄《こがら》なジャージ姿をずるずる引きずり、ベンチ裏へと消えた。朝比奈さんと一緒《いっしょ》にボストンバッグを手に持っていたが、その中に何が入っていたのかは、ほどなくあきらかとなった。
「ちょちょっと……! 涼宮さんっ! やっやめっ……てぇ!」
朝比奈さんの可愛い悲鳴が切れ切れに聞こえると同時に、
「ほら、さっさと脱《ぬ》いで! 着替《きが》えるのよ!」
ハルヒの居丈高《いたけだか》な声が風に乗って運ばれてきたからだ。またこのパターンか。
果たして、再び登場した朝比奈さんは、これ以上なくこの場にふさわしい衣装《いしょう》を身につけさせられていた。鮮《あざ》やかなブルーとホワイトを基調としたツートンカラーのノースリーブにミニプリーツ。両手には黄色のポンポン。
完璧《かんぺき》なまでのチアリーダーだ。こんな衣装をどこから持ってきたんだろう。謎《なぞ》だ。
「似合うなあ」
国木田が呑気《のんき》な感想を漏《も》らし、
「みくるー、写真|撮《と》ってもいいー?」
ケラケラ笑いながら鶴屋さんがデジカメを取り出した。
ついでに言うと、ハルヒも同じ衣装を着ていた。自分一人で着ればいいのに……とは俺は思わなかった。朝比奈さんのチアガール姿は、はっきりいって物凄《ものすご》く可愛かったからだ。何着ても可愛いんだけどね。
「ポニーテールのほうがいいかしら」
ハルヒは朝比奈さんの髪を撫《な》でながら後ろでまとめようとして、俺の視線に気付き口をアヒルみたいにした。ポニー中止。
「さ、応援《おうえん》しなさい」
「えええ、どどうやってですか……?」
「こうやってよ」
ハルヒは朝比奈さんの背後に回ると、華奢《きゃしゃ》な白い腕《うで》を取って、かんかんのうよろしく両手を上下させ始めた。まるで不思議な踊《おど》りだな。耳元でハルヒが「言え、言いなさい!」とか何事かを大声で囁《ささや》いている。
「ひいいー、皆《みな》さん、打ってくださぁい! お願いだからーがんばってえぇー!」
ファルセットで叫《さけ》ばされている朝比奈さんだった。少なくとも谷口だけは頑張《がんば》る気分になったようで、ネクストバッターボックスで無闇《むやみ》に素振《すぶ》りをしているが、いくら気合を入れたところで相手ピッチャーの球を打てるとは思えない。
案の定、谷口はすぐにすごすごとベンチまで戻《もど》ってきて、
「ありゃあ、打てねえな」
こうして打順が一巡《いちじゅん》、再びハルヒがバッターとして立った。
チアリーダー姿のままで。
以前、ハルヒと朝比奈さんがバニーガールの扮装《ふんそう》で並んでいたときも目に悪い光景だったが、これまたインパクト的に似たり寄ったりだ。
現に相手バッテリーはどこを見ていいものやら困り果てている。朝比奈さんは何もかもが良いが、ハルヒは性格以外のものがほとんど良いのだ。ツラとスタイルも。
突如《とつじょ》としてコントロールを乱したピッチャーの、甘く入ってきた棒球をハルヒは見逃《みのが》さない。またしてもセンターを抜《ぬ》くスタンディングダブル。送球が乱れる間に、三|塁《るい》まで陥《おとしい》れた。ハルヒにスライディングされた三塁手の視線の先が気になるところだ。
そして次のバッターはハルヒを凌駕《りょうが》する魅惑《みわく》の美少女チアガールなのである。おどおどとバットを構える朝比奈さん。幾多《いくた》の男ども(俺|含《ふく》む)の視線を浴びて、羞恥《しゅうち》のあまりほんのり上気している。いい。
すっかりヘロヘロ球しか投げられなくなった相手投手だが、やはりと言うか、それでも朝比奈さんは打てない。わざわざ打ち頃《ごろ》の球を山なりで投げてくれるっていうのに、
「えい!」
バットを振《ふ》るときに目をつぶっているんだから、当たるものも当たらないだろう。
そうこうしているうちにツーストライクまで追い込まれ、すると三塁ベース上で、ハルヒが両手をバタバタさせ始めた。何やってんだ、ありゃ?
「どうやらブロックサインを出しているようですね」
古泉が悠然《ゆうぜん》と解説する。
「サインなんか決めてたか?」
「いいえ。ですが、この状況《じょうきょう》で涼宮さんが選択《せんたく》しようなサインプレーはだいたい想像がつきますよ。あれは多分、スクイズをせよと言ってるんでしょう」
「ツーアウトからスリーバンドスクイズのサインか? どこかの永世|監督《かんとく》でももうちょっとましな采配《さいはい》をするぞ」
「察するに、朝比奈さんがヒットを打つ可能性はほとんどゼロですから、まさかするわけないスクイズをして相手チームの意表をつけば、ひょっとしたら内野手がエラーをするかもしれず、また朝比奈さんでもバットになんとかボールを当てるくらいなら出来るだろうと思ったのではないですか」
「完全に読まれているけどな」
内野手全員、前がかりの守備位置についてスタートダッシュの体勢である。ハルヒのジェスチャーに問題があるんじゃないだろうか。あれはどう見てもバントの動作だ。
果たして、スクイズは失敗に終わった。そもそも朝比奈さんはスクイズとは何かを知らなかったようで、ハルヒのモロバレなジェスチャースクイズにも「え? え?」と首を傾《かし》げているうちに見逃しの三振《さんしん》、スリーアウトチェンジ。
飼い主に怒《おこ》られることを覚悟《かくご》した子犬のように、しおしお戻ってくる朝比奈さんをハルヒは呼び止めた。
「みくるちゃん、ちょっとこっちに来て、歯を食いしばりなさい」
「ひぃえぇ……」
ハルヒは朝比奈さんの震《ふる》えるほっぺたを両手でつまむと、びよんと引っ張り、
「罰《ばつ》よ、罰。みんなにこの面白《おもしろ》い顔を見てもらうがいいのよ!」
「やへへぇ……ひはいへぇ……」
「アホか」
俺はメガホンでハルヒの頭を叩《たた》き、
「意味不明なサインを出すお前が悪い。一人でホームスチールでも何でもしろ、バカ」
その時だった。
ぴろりろぴろりろ。古泉がジャージのポケットから携帯《けいたい》を出して液晶《えきしょう》ディスプレイを眺《なが》め、片方の眉《まゆ》を上げた。
朝比奈さんはびっくりする顔で、左耳を手で押さえて遠くの方を見る目つき。
長門は、真っ直《す》ぐに真上を見上げた。
守備位置に散る間際《まぎわ》、古泉が俺を呼び止めて、
「まずいことになりましたよ」
聞きたくもなかったが、言ってみろ。
「閉鎖《へいさ》空間が発生し始めました。これまでにない規模だそうですよ。ものすごい速度で拡大しているとのことです」
閉鎖空間。
俺もすでにお馴染《なじ》みの灰色の世界。忘れるもんか、あの薄暗《うすぐら》い空間に閉じこめられたおかげで、俺は一生もんのトラウマを背負うことになったんだからな。
古泉は微笑《ほほえ》みを崩《くず》さずに、
「つまりこういうことです。閉鎖空間は涼宮さんの無意識的ストレスによって発生します。そして今の涼宮さんは非常に不機嫌《ふきげん》です。ゆえに閉鎖空間は発生し、彼女の機嫌が直らない限り拡大し続け、あなたもよくご存知の『神人《しんじん》』も暴れ続ける、と、そういうことですね」
「……つーことは、ハルヒは、野球に負けているから、という理由でヘソを曲げているわけか。あのアホみたいな空間を作ってしまうくらいに?」
「そのようです」
「子供か、あいつは!」
古泉はコメントしなかった。ただ、薄く笑っただけである。俺はため息をつく。
「でたらめだな」
そう言った俺を眺めて古泉は、
「何を今更《いまさら》言ってるんですか、それも人ごとのように。大いにあなたが関《かか》わっている、これは事件なのですよ。打順を決める際、我々はクジを引きましたね?」
「確かにアミダクジで決めたからな。それがどうした」
「その結果、あなたは四番になった」
「別に嬉《うれ》しくもないぞ」
「あなたが嬉しかろうがプレッシャーを感じようが、それは涼宮さんにはどうでもいいことです。問題なのは、あなたが四番を引いたという事実なのです」
「解《わか》るように喋《しゃべ》ってくれ」
「簡単なことです。涼宮さんがそう望んだから、あなたは四番バッターになったのですよ。これは偶然《ぐうぜん》ではありません。彼女はあなたに四番の働きをしてもらいたいと考えているのです。そして、あなたがまったく四番らしからぬことに失望を感じている」
「悪かったな」
「ええ、僕も困っています。このままでは涼宮さんの機嫌は悪くなる一方、閉鎖空間もまた増え続けるという筋書きです」
「……で、俺はどうすればいいんだ」
「打って下さい。できれば長打、ホームランなら最高でしょう。それもどでかいヤツを。バックスクリーン直撃弾《ちょくげきだん》で手を打ちますがいかがです?」
「無茶を言うな。ホームランなんかゲームでしか打ったことないぞ。あんな曲がる球を打てるわけないだろうが」
「そこをなんとかしていただきたい、と我々一同、切に願う所存ですよ」
願われたところで俺はランプの精でも猿《さる》の手でもないのだからどうしようもないだろ。
「この回でコールドゲームにならないように、全力を尽《つ》くしましょう。ここで試合が終わるようなことがあれば、世界が終わってしまうことと同義です。なんとしてでも二点以内に収めなければね」
セリフの割には危機感のない顔つきで、古泉はそう言った。
三回裏。ハルヒはそのままの衣装《いしょう》でマウンドに登った。当然、朝比奈さんもチアの恰好《かっこう》でライトにいる。
剥《む》き出しの手足を惜《お》しげもなくさらけ出し、ハルヒはランナーがいてもいなくても変わりないワンドアップ投法で球を投げるのだった。
最初の打者のライナー性の当たりは、たまたま長門の正面をついてアウト、しかし二人目の大フライには見向きもせず、左中間を転々と転がる間にスリーベース。カッカ来ているらしいハルヒの投じる球は相変わらずの球威《きゅうい》だったが、直球オンリーではそりゃ打たれるわな。さすが優勝候補。この後、ヒット二本と国木田のフィルダースチョイスであっさり二点を追加され、もはや絶体絶命である。しかもランナーは一、二|塁《るい》。あと一点で試合は強制|終了《しゅうりょう》。そして世界はどうなるのか解らない。
カン。白球が舞《ま》い上がる。ライト方向に。落下予測地点では朝比奈さんがおろおろしている。考えているヒマはない。俺は何度目かの全力|疾走《しっそう》で右翼《うよく》へと駆《か》ける。間に合え!
ダイビング、そしてキャッチ。グラブの先端《せんたん》にかろうじてボールが引っかかっている。
「おりゃ!」
そのまま二塁ベースカバーに入った谷口に全力投球、てっきり長打になるものと思い込んでいたランナー二人は、タッチアップも待たずに次の塁をすでに回り終えていた。捕球《ほきゅう》した谷口がベースを踏《ふ》んで、アウト。ダブルプレー。
なんとか首は繋《つな》がった。ああ疲《つか》れた。
「ナイスプレー!」
朝比奈さんの賞賛の眼差《まなざ》しを受けつつ、谷口と国木田と妹と鶴屋さんが俺の頭をグラブで叩《たた》きまくるのにピースサインを返しながら、ハルヒのほうを窺《うかが》うと、奴《やつ》は難しい顔をしてスコアボード(と言っても移動式のホワイトボードだが)をにらみつけていた。
ベンチに座り込んでタオルをかぶった俺の横に古泉が来て、
「さっきの続きですが」
あんまり聞きたくないな。
「実は対症療法《たいしょうりょうほう》はあります。あなたが前回、涼宮さんとともにあちらの世界に行ったとき、どうやって戻《もど》ってきましたか?」
だからそれを思い出させるな。
「あの手を使えば、ひょっとしたらうまくいくかもしれません」
「断る」
くくく、と古泉は喉《のど》を鳴らした。なんか腹立つぞ、お前。
「そう言うと思っていました。ではこうしましょう。ようは勝ちさえすればいいのです。妙案《みょうあん》を思いつきましたよ。たぶん、うまくいくと思います。彼女とは利害が一致《いっち》するはずですから」
にこやかに言って古泉は、ぼーっと白い円の中で佇《たたず》んでいる長門の方へと向かった。動くものと言えば微風《そよかぜ》に揺《ゆ》れるショートヘアだけの長門の耳に何かを囁《ささや》きかけるふうである。不意に、長門はするりと振《ふ》り返り、俺を無感動な目つきでじっと見つめた。
あれは、うなずいたのか? 頭を支える釣《つ》り糸が切れた人形みたいに顔がかくんと上下して、てくてくと打席へ。
ひょいと左横を見ると、今度は朝比奈さんが長門を凝視《ぎょうし》している。
「長門さん……、とうとう……」
少しばかり青い顔で気になることを言った。
「あいつがどうかしましたか?」
「長門さん、呪文《じゅもん》を唱えているみたい」
「呪文? 何ですか、それ」
「えーと……禁則|事項《じこう》です」
ごめんなさい、と朝比奈さんは頭を下げた。いやいいです、禁則事項ならしかたないっすよねえ。はあ、どうやらまた例の非現実的なことが始まろうとしているようだ。
長門の呪文とやらに、俺は思い当たるふしがあった。
やたら暑かった五月の夕暮れ。あの日の教室に長門が乱入してこなければ、確実に今頃《いまごろ》の俺は墓の下で惰眠《だみん》中だ。その時も長門は凄《すさ》まじい早口で呪文みたいなものを呟《つぶ》きながら、俺を殺そうとした襲撃者《しゅうげきしゃ》を撃退したのだった。そう言えばその頃の長門は眼鏡《めがね》っ娘《こ》だったな。
今度はいったい何をするつもりなんだろうか。
すぐに解《わか》った。
バット一閃《いっせん》、ホームラン。
ろくに力を入れず振ったとしか思えない長門のバットは、ピッチャーの剛球《ごうきゅう》を真芯《ましん》で捕《と》らえ、高々と宙を舞《ま》わせたあげく外野フェンスの向こうへと消えせしめた。
俺は仲間たちへと視線を向けた。古泉は優雅《ゆうが》に微笑《ほほえ》みながら俺に会釈《えしゃく》を返し、朝比奈さんは少しばかり硬《かた》い表情で、でも驚《おど》いてはいない。妹と鶴屋さんは無邪気《むじゃき》にも「すごいねーっ」などと感心している。
が、その他《ほか》の連中は総員口ポカン状態だった。もちろん相手チームもな。
小躍《こおど》りしながらホームベース付近に駆《か》け寄ったハルヒは、淡々《たんたん》とダイアモンドを一周してきた長門のメットをばんばん叩きながら、
「すごいじゃないの! どこにそんな力があるの?」
長門の細腕《ほそうで》を取って折ったり曲げたりさせている。無表情に、されるがままになっている長門だった。
やがてベンチまで歩いてきた長門は、俺にバットを手渡《てわた》して、
「それ」
使い古しの金属バットを指差し、
「属性情報をブースト変更《へんこう》」と言った。
「なにそれ?」と俺。長門はしばらくじっと俺を見つめながら、
「ホーミングモード」
それだけ言って、すたすたベンチに帰ると、隅《すみ》っこのほうに座って足元から分厚い本を拾い上げ凝視し始めた。
現在9−1の四回表。どうやらこれが最後のイニングになりそうだった。
ピッチャーはショックから抜《ぬ》けきれない表情をして、それでも俺の目からは充分《じゅうぶん》に速い球を投げ込んできた。
そして俺は長門の言葉の意味を知る。
「おうわっ!」
バットが勝手に動いた。釣られて俺は腕《うで》と肩《かた》が泳ぐ。キン。
当たっただけに思えた俺の打球は、風に乗ったみたいにふらふらとどこまでも飛んでいきスタンドをオーバーし、芝生《しばふ》を越《こ》えて第二グラウンドまで飛んでいった。ホームラン。あんぐり。
なるほど、ホーミングモードね……。
俺は自動|追尾《ついび》能力と飛距離《ひきょり》倍増機能を獲得《かくとく》したらしいバットを放《ほう》り出すと、せいぜい早足で走り出した。
二|塁《るい》を回って顔を上げると、ベンチで両手を振《ふ》り上げるハルヒと目が合った。すぐにそっぽを向きやがる。お前も妹とか鶴屋さんみたいに喜べ。見たとこ、谷口と国木田は愕然《がくぜん》で、朝比奈さんと古泉と長門は黙然《もくぜん》で、敵チームのナインは愕然たる面持《おもも》ちであった。
非常に申し訳ない気分であるのだが、対戦相手の愕然はさらに続くことになる。
俺の妹がよろよろと次の打席へ。メットが大きすぎて顔の半分以上が隠《かく》れているため真っ直《す》ぐ歩くのも怪《あや》しい。俺が用意したこの敗戦用秘密兵器は、第一球目をフルスイングして柵越《さくご》え弾《だん》を放った。つまり、いわゆる一つのホームランというやつだ。
いくら何でもデタラメ、嘘《うそ》っぱちにもほどがある。大学生の投げる時速130キロ(推定)の球を、小学五年生のチビ娘《むすめ》がメインスタンドまで運んでしまったのだから、これは現実の出来事とも思えない。
「すごいわ!」
ハルヒはまったく現実を疑っていなかった。とっとこベースを回ってきた妹を振り回しながら喜色満面、
「素晴《すば》らしい才能ね! 将来性充分だわ! あなたならメジャーも狙《ねら》えるわよ!」
ぶんぶん回されながら妹はきゃあきゃあと喜んでいる。
何というか……まあ、これで9−3。
俺はベンチで頭を抱えていた。
ホームラン攻勢《こうせい》は依然《いぜん》として続行中だ。現在のスコアは9−7。一イニング七連続ホーマー。おそらく大会史上に残る本塁打《ほんるいだ》記録ではないだろうか。
大飛球を飛ばして戻《もど》ってきた谷口は、
「俺、野球部に入ることにしたぜ。この俺のバッティングセンスがあれば甲子園も夢じゃねえ。なんたって、バットが勝手に球に当たるような気すらするんだぜ!」
その横で国木田は能天気にも、
「いやぁ、ほんとだねぇ」
などと和《なご》やかに言ってるし、鶴屋さんは妙《みょう》にしゃちこばっている朝比奈さんの肩を叩《たた》きながら大笑いしてるし、とことん単純な奴《やつ》らで大助かりだ。
「真っ向勝負よ!」
ハルヒがバットをかざしてそんなことを言っているが、それは本来はピッチャーのセリフなんじゃないのか?
もう聞き飽《あ》きてきたというのに、またコキンという金属音がとどろき、球はバックスクリーンにぶつかって跳《は》ね返った。
これで9−8。この時までに相手ピッチャーは三人代わっていた。同情されたくはないだろうが、思うことにする。可哀想《かわいそう》に。
打者|一巡《いちじゅん》して朝比奈さん、長門、俺と連続して本塁打を打ちまくり、ついに逆転9−11。十一本連続本塁打。さすがに俺はそろそろどうにかしないとヤバイのではないかと思い始めた。相手チームの視線が、俺たち選手ではなく、このバットに向けられているような気がしてきたからである。魔法《まほう》のバットか何かと勘違《かんちが》いされているんじゃないだろうか。あながち間違いでもないのだが。
俺は次打者の妹にバットを渡《わた》す前に、ベンチの端《はし》で本を読んでいる長門を連れ出した。
「もう充分だ」
俺は言った。長門は表情のない漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》で、いつもは十秒に一回くらいしかしない瞬《まばた》きを珍《めずら》しく連続させ、
「そう」
と、答え、俺が持つバットのグリップエンドに細っこい指を当て、口の中で早口言葉を唱える。聞き取れやしなかったが、聞き取れたところで意味が解《わか》るとも思えないのでかまわん。
すい、と指を離《はな》した長門は、そのまま何も言わずにベンチの定位置につき、また本を広げ始める。
やれやれ。
妹、古泉、国木田の三人は、今までの打撃《だげき》が嘘だったみたいにバットを沈黙《ちんもく》させて三者連続|三振《さんしん》に終わった。実際、インチキだったわけだが。
忘れていたが、実はこの試合は時間制限があった。一回戦に限れば九十分打ち切りなのである。今日中にそれなりの試合をこなそうとすれば無理もない主催者《しゅさいしゃ》側の配慮《はいりょ》だ。よって、次の回はない。この四回裏を抑《おさ》えきれば、我々の勝ちとなる。
いいのか? 勝っちまって。
「勝たなくてはならないでしょう」と古泉。
「仲間からの連絡《れんらく》によりますと、おかげさまで閉鎖《へいさ》空間の拡大は停止の傾向《けいこう》にあるようです。停止しても『神人』はあのままですから、どうやったって処理しなくてはならないのですけどね。それでも増え続けなくて、こちらとしては助かります」
しかし、ここで逆転されたらサヨナラ負けを喫《きっ》するぞ。その結果ハルヒの機嫌《きげん》がどうなるのか、無用な想像力を働かせるほど俺は勤勉ではない。
「そこで提案です」
古泉は歯ブラシのCMに推薦《すいせん》したくなるほどの白い歯を見せつけながら、俺にその提案とやらを囁《ささや》いた。
「本気か?」
「えらく本気です。この回を最小失点で切り抜《ぬ》けるには、それしか手は残されていません」
再び、やれやれ。
守備位置の変更《へんこう》が審判《しんぱん》に伝えられた。
キャッチャーは古泉に代わって長門。古泉はセンターへ。そして俺は、ハルヒとポジションチェンジしてマウンドに立っていた。
古泉にピッチャー交代を告げられたハルヒは最初ゴネていたが、リリーフが俺だということを聞いた途端《とたん》、複雑な顔をして、
「……まあ、いいわ。でも打たれたら全員に昼飯|奢《おご》りだからね!」
とか言いつつ、セカンドへ後退した。
長門は立ったままひたすらぼーっとしているだけだったので、俺と古泉でプロテクタやらフェイスマスクやら付けてやった。こんなダウナー系にキャッチャーやらせて大丈夫《だいじょうぶ》か?
とことこと長門はホームベースの後ろまで歩いて、ぺたんと座り込んだ。
さて、試合再開だ。時間がないので投球練習も割愛《かつあい》されている。俺はぶっつけでいきなり人生初のピッチャーをしなくてはならない。
とりあえず、投げてみた。
ぱすん。
どうにか届きましたという感じの頼《たよ》りない球が長門のミットに収まった。ボール。
「まじめにやれーっ!」
そう叫《さけ》んでいるのはハルヒだ。俺はいつですこぶる真面目《まじめ》さ。今度はサイドハンドで投げてみよ。
二投目。すこしは幻惑《げんわく》されて欲しかったのだが、バッターには通用しなかった。俺のヘナチョコストレートに猛然《もうぜん》とバットが襲《おそ》いかかる。しまった、打撃投手並みに打ち頃《ごろ》の球を投げちまった……!
ぶうん。
「ストライク!」
審判が高らかに呼ばわった。空振《からぶ》りしたんだからストライクにもなるだろう。ただ、バッターは信じられないというような顔で、長門の手元を見ている。
気分は解《わか》る。そりゃそうだ。俺の軟弱《なんじゃく》ボールが、バットにぶったたかれる寸前に軌道《きどう》を変えて三十センチも降下したなら誰《だれ》でも不信感を覚えていい。
「…………」
座り込んだままの長門が手首のスナップだけで球を返した。ふわふわと飛んでくる気の抜けたボールを受け取り、俺は投球モーションに入った。
何回投げてもハーフストレートにしかならない。そして三球目はとんでもない大暴投のすっぽ抜け――の、はずが、数メートル飛んだところで針路修正、明らかに慣性と重力と航空力学を無視した機動で曲がり、加速までして一気にミットを目指し、スパン。いい音がして、長門の小柄《こがら》な身体《からだ》が揺らいだ。
バッターは目を剥《む》いているし、審判もしばらく声を出さなかった。ややあって、
「……ストライク、ツー」
自信なさそうにコールした。面倒《めんどう》なのでちゃっちゃっと行こう。
もう俺は適当に投げた。狙《ねら》いも何もない。力も全然入れていない。にもかかわらず、俺の投げた球は、バッターが見送れば必ずストライクコースに、振《ふ》りに来たらかすりもせずに変化するのである。
秘密は俺が投げるたびに何かをブツブツ呟《つぶや》いている長門にある。それはあまりにも秘密なので、俺にすら仕組みが解らない。おそらく以前、俺の命を救ったり教室を再現したりさっきバットをどうにかしたような、何からの情報操作をしているのだろう。
おかげで、ほとんど扇風機《せんぷうき》を相手に投げているのも同然である。今日のMVPは長門有希で決定だ。
あっという間にツーアウト、最後の打者もツーナッシングまで追いつめた。こんなに簡単に俺がストッパーやってていいのだろうか。すまん、上ヶ原パイレーツ。
いまや真っ青になっているラストバッターに、俺は渾身《こんしん》でもなんでもないひたすら普通《ふつう》の球を投じた。
軌道《きどう》修正、ストライクゾーンへ。打者は思いっきりバットを振る。再軌道修正、外角低めへ。バットが空中に残像を残して一回転、三振《さんしん》アウト、ふう、やっと終わっ……てなかった。
「!」
ボールが転々とバックネット方向へ。調子に乗って曲げすぎたようだ。長門のミットを掠《かす》めたホップしてからフォークのように落ちるというミステリアスボール(命名、俺)は、ホームプレートの角にワンバンして、あらぬ方向へと転がっている。
振り逃《に》げだ。
最後のチャンスとばかりにバッターは走り出す。しかし長門はミットをそのままの姿勢で固定し、フェイスマスクをかぶった状態で黙々《もくもく》と座り込んでいるだけだ。
「長門! 球を拾って投げろ!」
指示する俺を無感動に見上げて、長門はゆらゆらと立ち上がり、転がり逃げるボールを追った。とてとてと。降り逃げバッターは一|塁《るい》を蹴《け》り、二塁を陥《おとしい》れようとしている。
「早くーっ!」
ハルヒがセカンドベースの上でグラブを振り回してる。
やっとでボールに追いついた長門は、拾い上げた軟式《なんしき》を海亀《うみがめ》の卵でも見るような目つきでじっとみて、それから俺を見た。
「セカンド!」
俺は自分の真後ろを指差す。そこにハルヒがいて、大声を上げている。長門はミリ単位のうなずきを俺に返して――、
ビュン。俺の側頭部を白いレーザービームが掠めた。髪《かみ》の毛何本かが持っていかれる。そのレーザーが、長門が手首の動きだけで放《ほう》った送球であることに気付いたのは、球がハルヒの手首からグラブを、吹《ふ》っ飛ばし、グラブに填《はま》り込んだままセンターまですっ飛んでいくのを見てからだった。
ハルヒは自分がさっきまで填めていたグラブが消え失《う》せたことに目を見はり、ランナーのほうはと言うと、セカンド手前で仰天《ぎょうてん》のあまり、コケていた。
センターの古泉がグラブを拾い上げてボールを取り出し、誰に対しても同じニコニコ顔で歩いてきて俯《うつぶ》せ状態の打者走者にタッチして、謝った。
「どうもすみません。我々、少しばかり非常識な存在なんですよ」
その非常識な存在に俺まで数えられているんじゃないんだろうな、と思いながら、俺は深々と嘆息《たんそく》した。
試合、終了《しゅりょう》。
上ヶ原パイレーツの皆《みな》さんは男泣きに泣いておられた。よくは知らんが、後で大学のOBから折檻《せっかん》でも受けるからだろうか。女子小学生が混じっている、女のほうが多いような高校生の素人《しろうと》チームに負けたのがよほど悔《くや》しいのか。その両方だろうね。
一方で、そんな敗者の哀愁《あいしゅう》をまったく考慮《こうりょ》しないハルヒは、はしゃいでいるように見えた。SOS団設立を思いついたあの日と同じくらいの笑顔《えがお》で、
「このまま優勝して、それから夏の甲子園に乗り込みましょう! 全国|制覇《せいは》も夢ではないわ!」
というようなことを真面目《まじめ》に叫《さけ》んでいる。乗り気そうなのは谷口だけだったが。俺は勘弁《かんべん》してくれと思っていたし、高野連だってそう思うだろう。
「ごくろうさまです」
いつの間にか横に来ていた古泉が、
「ところでこれからどうします? 二回戦もやりますか?」
俺は首を振《ふ》った。
「ようするに負けたらハルヒはご機嫌《きげん》斜《なな》めになるわけだろ? てことは勝ち続けなきゃならん。さらに、てことはまた長門のインチキマジックの世話になる必要がある。どう考えたって、これ以上、物理法則を無視していたらマズいだろうよ。棄権《きけん》しよう」
「それがいいでしょう。実は僕もそろそろ仲間の手伝いに行かなくてはならないんですよ。閉鎖《へいさ》空間を消すためにね。『神人』退治の人手が足りないようでして」
「よろしく言っといてくれ。あの青い奴《やつ》にも」
「伝えましょう。それにしても今回のことで解りましたが、涼宮さんをあまりヒマにさせておいてはダメのようですね。今後の課題として、検討の余地があります」
それでは後はよろしく、と言って、古泉は二回戦進出辞退を告げに運営本部テントまで歩き出した。
やっかいなほうをさり気なく俺に押しつけやがった。しょうがない。
俺は、朝比奈さんに無理矢理フレンチカンカンを踊《おど》らせて自分も踊っているハルヒの背中をつついた。
「なによ、あんたも一緒《いっしょ》に踊る?」
「話がある」
俺はグランドの外にハルヒを連れ出した。存外ハルヒはおとなしくついてきた。
「あれを見ろ」
俺はベンチでうずくまっている上ヶ原パイレーツの選手たちを示して、
「気の毒だと思わないか?」
「なんで?」
「たぶん、彼らはこの日のために辛《つら》く厳しい練習に耐《た》えてきたんだ。四年連続優勝がかかっていたんだからな、相当重圧もあったとこだろう」
「だから?」
「中にはベンチ入りすら出来なくて涙《なみだ》を飲んだ選手もいたに違《ちが》いない。ええと、ほら、あのネット裏に立っている五分|刈《か》のにーちゃんなんかそんな感じだ。なんて気の毒なのだろう。彼にはもう出番がないのだ」
「それで?」
「二回戦は辞退しよう」
俺はきっぱりと言った。
「充分《じゅうぶん》楽しんだだろう? 俺はお釣《つ》りを誰《だれ》かにやりたいくらいだ。後は飯でも食いながらバカ話でもしているほうがいい。実はもう足とか腕《うで》とかはガタガタのボロボロなんだ」
それは本当だ。内外野を行ったり来たりしていたせいで、実にもうヘトヘトなのである。精神的にもな。
ハルヒは得意の表情、拗《す》ねたペリカンのような表情になって、俺を上目で黙《だま》って見続けた。俺が落ち着かない気分になりかけたとき、
「あんたは、それでいいの?」
いいともさ。朝比奈さんも古泉も、おそらく長門もそう思っていることだろう。妹はさっきから素振《すぶ》りの練習をしているが、あいつは飴玉《あめだま》一個でバットを投げ出すさ。
「ふうん」
ハルヒは俺とグラウンドを交互《こうご》に見ながら、しばらく考えて、あるいは考えるフリをして、ニヤリと笑った。
「ま、いいわ。お腹《なか》空いたし。お昼ご飯に行きましょう。あたし思うんだけど、野球ってすごく簡単なスポーツだったのね。こんなにあっさり勝てるなんて思ってもなかったわ」
そうかい。
俺は反論せず、ただ肩《かた》をすくめた。
相手チームのキャプテンは二回戦進出の権利を譲渡《じょうと》すると申し出たとき、涙ながらに感謝してくれた。それを見て俺はまた申しわけなく思う。こちとら、かなり無理なイカサマで勝ちを盗《ぬす》んでしまったからな。
そそくさと立ち去ろうとした俺を、そのキャプテンは呼び止めて、耳元でこう囁《ささや》いた。
「ところで、キミたちの使っていたバット、いくらでなら譲《ゆず》ってくれる?」
というわけで古泉を除いた俺たちは今、ファミレスの一角を占拠《せんきょ》して飯を食っている最中だ。
妹はすっかりハルヒと朝比奈さんに懐《なつ》いてしまい、二人の間で危なっかしくナイフをハンバーグに突《つ》き刺《さ》している。谷口は国木田と真剣《しんけん》に野球部に入ることを相談しているが、まあ好きにすればいい。鶴屋さんの興味は今度は長門に向いたみたいで、「あなたが長門有希ちゃん? みくるからよっく聞いてるよっ」とか話しかけて黙々《もくもく》とBLTサンドを頬張《ほおば》る無口な下級生に無視されている。
みんな頼《たの》みすぎなくらいに注文しているが、それもそのはず、ここでの払《はら》いは俺の奢《おご》りになっていた。
素晴《すば》らしい名案を思いついたみたいな口調で、ハルヒがそう宣言したからである。なんでそんなことをハルヒが思いついたのかはさっぱり解《わか》らない。こいつの思考がトレースできたためしもないから、いちいち俺は驚《おどろ》きはしないし、面倒《めんどう》なので抗議《こうぎ》もしなかった。それどころか、晴れやかな気分ですらあった。
なぜなら、どういうわけか俺のポケットには、けっこうな臨時収入があったからである。
上ヶ原パイレーツの健闘《けんとう》を祈《いの》りたい。
数日後のことになる。
放課後、俺たちはまた部室|棟《とう》の一室で、いつものようにノーマルな日常を送っていた。
メイド衣装《いしょう》の朝比奈さんが淹《い》れてくれた玄米茶《げんまいちゃ》を飲みながら、俺は古泉相手にオセロをしていて、その横では長門が図書館から借りてきたらしい分厚い辞典みたいな哲学書《てつがくしょ》を読みふけっている。ちなみに朝比奈さんの今日のいでたちは俺の要望によるものだ。ナースよりはメイドさんに給仕されるのがいいだろ、やっぱり。その朝比奈さんは盆《ぼん》を抱《かか》えて俺たちの対戦を目を細めて観戦している。
ここしばらく変わりない、いつもの俺たちの風景である。
そして雄大《ゆうだい》な黄河《こうが》の流れのように悠然《ゆうぜん》たる一時を、ぶちこわしにするのはいつも涼宮ハルヒだった。
「遅《おく》れてごっめーん!」
意味もなく謝りながら、ハルヒが冬場の隙間風《すきまかぜ》のように飛び込んできた。
その顔面全体を覆《おお》うスマイル状の仮面が不気味だ。こいつがこんないい顔で笑い出すと、なぜか俺が疲《つか》れるカラクリになっているのである。不思議な世界だな、ここは。
予想通り、ハルヒはまたまた唐変木《とうへんぼく》なことを言い出した。
「どっちがいい?」
俺はオセロの黒石をパチリと置いて、古泉の白石を二枚ひっくり返し、
「どっちとは?」
「これ」
ハルヒが差し出した二枚の紙切れを、不承不承受け取った。
またしてもチラシだった。見比べる。一つは草サッカー大会のお知らせで、一つは草アメリカンフットボール大会のお知らせだ。こんなもんを印刷した業者を真剣に呪《のろ》うね、俺は。
「ホントはね、野球じゃなくてこの二つのどちらかにしようと思ってたのよ。でも野球のほうが日程が早かったからね。で、キョン、どっちがいい?」
俺は暗澹《あんたん》たる思いに駆《か》られて部室に視線を彷徨《さまよ》わせた。古泉は微笑苦《びしょうく》を浮《う》かべてオセロの石を指で弾《はじ》き、朝比奈さんは泣きそうな顔でふるふると首を横に振《ふ》っていて、長門は面《おもて》を書物に伏《ふ》せたまま動くのは指だけだ。
「でさ、サッカーとアメフトって何人でやるスポーツ? この前の連中だけで足りる?」
ハルヒのハレーションを起こしそうに明るい笑顔《えがお》を眺《なが》めながら、俺はどっちのほうが選手が少なくてすむのだろうかと考えていた。