第四章
翌日再び|飽《あ》きもせず、俺たちは駅前に集まった。ただ昨日と|違《ちが》うのは人員が入れ替わっている点だ。SOS団以外の人間三名ほどが新顔として俺の前に立っている。ハルヒ言うところのザコキャラたちである。
「おいキョン、話が違うぞ」
|抗議《こうぎ》するように言い出したのは谷口だ。
「|麗《うるわ》しの朝比奈さんはどこだ? あの方が出迎えてくれるって言うから来たんだぜ。いねえじゃねえか」
その通り、朝比奈さんは定刻になっても来なかった。たぶん自宅の部屋で出勤|拒否《きょひ》をしているに違いない。昨日も|一昨日《おととい》も散々な目にあっていたからな。
「俺は目の保養に来たんだぞ。それがどうだ。今日はまだ涼宮の逆ギレした顔しか見てねえぞ。|詐欺《さぎ》だ」
うるさいな。長門でも眺めてりゃいいじゃないか。
「それにしても長門さん、やけに似合ってるなあ」
のんびりと言うのは国木田だ。谷口に続くザコニ号である。昨夜、俺が|風呂《ふろ》に入ってたらハルヒから電話がかかってきた。妹から受話器を受け取り、頭を洗いながら聞いたのが、
「谷口のアホと、もう一人……名前が思い出せないけど、あんたの友達よ。その二人を明日連れてきなさい。ザコキャラで使うから」
だけで切りやがった。|挨拶《あいさつ》の一つくらいしやがれってんだ。ものを|頼《たの》むときは命令調でなくて|哀願《あいがん》調で言ってくれ。朝比奈さんみたいにな。
風呂上がり、さて谷口と国木田の休日予定はどうなんだろうと思いつつ携帯にかけると、このヒマな|端役《はやく》二人はあっさり|承諾《しょうだく》の返事をよこした。お前ら|普段《ふだん》、休みの日に何してんだ?
男二人だけでは絵にならないと思ったのか、ハルヒはもう一人のエキストラを用意していた。そのお方は|鍔広帽子《つばひろぼうし》を|目深《まぶか》に被る長門の顔を、|御辞儀《おじぎ》するように|覗《のぞ》き込んでいる。長い|髪《かみ》の毛をさらりと垂らし、彼女は長身を|伸《の》ばして俺に|笑顔《えがお》を降り注いだ。
「キョンくんっ。みくるどうしたのっ?」
元気よくおっしゃるその女性は、|鶴屋《つるや》さんと言って、朝比奈さんのクラスメイトだ。朝比奈さん|曰《いわ》く「この時代で出来たお友達」だそうだから、この人には変なプロフはないと思う。六月|頃《ごろ》にハルヒが「草野球大会に出る」と言い出したときの|助《すけ》っ|人《と》として朝比奈さんが連れてきた|一般《いっぱん》的な高校二年生女子である。そういやそん時にも谷口と国木田がいたな。ついでに俺の妹も。
鶴屋さんは健康的な白い歯を|惜《お》しげもなく見せつけながら、
「それでさっ、何やんのっ? ヒマなら来てって言われたから来たけどさー。涼宮さんの|腕《うで》に付いてる|腕章《わんしょう》は何て読むのあれ? そのハンディビデオをどうするの? 有希ちゃんのあの|恰好《かっこう》なに?」
|矢継《やつ》ぎ早に質問を浴びせてくる。俺が答えようと|唇《くちびる》を開きかけた時には、鶴屋さんは古泉の前に移動しており、
「わお、一樹くんっ! 今日もいい男だねっ」
せわしない人だった。
しかしその鶴屋さんと元気さではハルヒだってタメを張れる。よくまあ朝からこんな大声が出せるなという声で|携帯《けいたい》電話とケンカしている。
「何言ってんのよ! あなたは主演なのっ! この映画の成功は三十%あなたにかかってるの! 七割はあたしの才能だけどね。それはいいの! なんですって? お|腹《なか》痛い? バカっ! そんなイイワケが通用するのは小学校までよ! すぐ来なさい三十秒で!」
どうやら朝比奈さんは突発的ヒキコモリ|症候群《しょうこうぐん》にかかっているようだ。|是非《ぜひ》もない。今日もあんな目にあうと思ったら精神的腹痛に|罹患《りかん》しても不思議はない。気の小さそうな人だからな。
「もうっー!」
|憤然《ふんぜん》と|携帯《けいたい》を切ると、ハルヒはテーブルマナーのなっていない子供を叱りつける寸前の|執事《しつじ》|頭《がしら》のような目つきをした。
「お仕置きが必要だわ!」
そう言ってやるな。朝比奈さんはお前と違ってひっそりと生活したいんだよ。せめて学校のない日曜くらいは、と俺だって思うぜ。
もちろんハルヒは主演女優のワガママなど聞いてやったりはしないのである。ギャラを|払《はら》ってるわけでもないのに主役に厳しい女流|監督《かんとく》は、
「あたしが|迎《むか》えに行ってくるから、ちょっとその荷物貸して」
|衣装《いしょう》の入ったクリアバッグをひったくると、タクシー乗り場までダッシュした。そして|停《と》まっていたタクシーの窓をガンガン|叩《たた》いてドアを開けさせ、飛び乗ったあげくにどこかへと走り去ってしまった。
そういや俺は朝比奈さんがどこに住んでるのか知らないな。長門の家には何回か訪問したことはあるが……。
「朝比奈さんの気持ちもよく|解《わか》りますよ」
いつの間にか俺の|隣《となり》にいた古泉だった。鶴屋さんは、俺のクラスのマヌケコンビに「やあっひさしぶりっ」とか言って、|奴《やつ》らにペコペコ頭を下げさせている。それを|微笑《ほほえ》んで|眺《なが》めながら古泉は、
「なんせこのまま行くと本物の変身ヒロインになりそうな|雰囲気《ふんいき》ですからね。いくら何でもレーザー光線はやりすぎですよ」
「やりすぎでないものと言えば何なんだ」
「そうですねえ。口から火を|噴《ふ》くぐらいでしたら仕込みもしやすいのですが……」
朝比奈さんは|怪獣《かいじゅう》でも芸人でも悪役レスラーでもないんだ。あの愛らしい唇に|火傷《やけど》でもさせてしまったらどうする。責任の取りようがない。まさかお前、率先して責任を取ろうとか考えているんじゃねえだろうな。
「いえ。僕が責任を感じるのだとしたら、それはあの〈|神人《しんじん》〉の暴走を許してしまった時くらいですよ。幸いにしてそのような事態に|陥《おちい》ったことは……ああ、一回ありましたっけね。あの時はありがとうございます。あなたのおかげで何とかなりました」
半年くらい前にハルヒのおかげでクルクルパーになりかけた世界は、俺の粉骨|砕身《さいしん》たる努力と精神的|消耗《しょうもう》の果てに命脈を保つことになったのだった。各国首脳は俺に感謝状の一枚でも送っておかしくないと思うのだが、まだどこの国からも大使館員は来ていない。まあ、来ても困るだけだから求めているわけでもないけどな。前回俺のもらった|報酬《ほうしゅう》は、|涙目《なみだめ》の朝比奈さんが|抱《だ》きついてくれたくらいのもので、よく考えたらもはや俺はそれで|充分《じゅうぶん》だ。古泉に礼を言われても別に|嬉《うれ》しかない。
「その朝比奈みくるですが」
呼び捨てにするな、|不愉快《ふゆかい》だ。
「失礼。朝比奈さんですけどね、とりあえず怪光線を出すことは何とか|回避《かいひ》できそうです」
どうやってだ? カラーコンタクトの予備をハルヒが用意していないとでも楽観視しているのか?
「いえ、それは折り込み済みですよ。長門さんに協力してもらいました」
俺は駅の売店を見つめたまま|凝固《ぎょうこ》しているベタ|塗《ぬ》り|娘《むすめ》へと目を|遣《や》って、また古泉に|戻《もど》した。
「朝比奈さんに何をした?」
「そんなに目くじらを立てなくとも。レーザー照射をなくしただけです。僕もよく知りません。長門さんは|他《ほか》のTFEI|端末《たんまつ》と違って全然|喋《しゃべ》ってくれませんからね。僕は危険値をゼロにするよう|依頼《いらい》しただけです」
「TFEIって何だ?」
「我々が勝手に付けてる略語です。知らなければならないものでもないですよ。ですが、僕が思うに長門さんは『彼ら』の中でも|一際《ひときわ》|異彩《いさい》を放っているような気がしますね。彼女には単なるインターフェース以外に何か役割があるのではないかと、僕は考えてもいます」
あの無口な読書娘にハルヒを観察する以外の何があるってんだ。まだ朝倉涼子のほうが消えて|惜《お》しまれる存在だったぜ。俺は惜しんでなどいないがな。
待つこと三十分、ハルヒを乗せたタクシーが戻ってきた。同乗しているのはウェイトレス朝比奈さんであり、昨日に続いて暗く|沈《しず》んだお顔をしていらっしゃる。ハルヒは運転手から領収書をもらっていた。タクシー代を経費で落とすつもりかもしれない。
それを見ながら谷口と国木田が何かを言っていた。
「この前なんだけどよ、夜にコンビニまで行った帰りにタクシーとすれ違ったんだ」
「へーえ」
「でさ、ふと見るとそのタクシーの『空車』のランプが『愛車』に見えちまってよ」
「それはビックリだね」
「けど、見直す前にタクシーは行っちまった。そん時気付いたんだ。俺に今不足しているのは愛なんじゃないかってことに」
「本当に『愛車』って書いてあったんじゃないかなあ。個人タクシーだよ、きっと」
こんな会話をしているバカニ人に助勢を|仰《あお》がねばならんとは。人材の|払底《ふってい》もここまで来たかという感想を|抱《いだ》かざるを得ない。谷口と国木田がニッケル合金なんだとしたら鶴屋さんはプラチナだ。ロケット花火とアポロ11号くらいの|違《ちが》いは|余裕《よゆう》であるね。
「やっぽー。みくるーっ、タクシーで来るなんてキミ|誰《だれ》?」
鶴屋さんのテンションも高かったが、ライトなマイルドハイテンションだ。ハルヒのイカレたナチュラルハイとは一線を画していると言ってもいいだろう。まだしも鶴屋さんは常識世界の|範疇《はんちゅう》に所属していると言える。
「うわスゲーっ! エロい! みくるそれどこの店でバイトしてんの? 十八歳未満お断りだねっ。あれ? キミまだ十七じゃなかった? あっそか、客じゃないからいいのかっ」
泣きはらした後の目の色をしている朝比奈さんは両目とも自然色をしている。カラーコンタクトは品切れだったらしい。
ハルヒは|小柄《こがら》なグラマラスウェイトレスを引っ張り出して、
「|仮病《けびょう》を使おうったってそうはいかないんだからね! どんどん|撮影《さつえい》するわよ! これからがみくるちゃんの見せ場の本場なの。すべてはSOS団のため! 自己|犠牲《ぎせい》の精神はいつの世でも|聴衆《ちょうしゅう》の感動を呼ぶのよ!」
お前が犠牲になれ。
「この世にヒロインは一人しかいらないわ。本当ならあたしがそうなんだけど、今回は特別に|譲《ゆず》ってあげる。少なくとも文化祭が終わるまではね!」
てめーがヒロインだなんて世界の誰も認めてねえ。
鶴屋さんは朝比奈さんの|肩《かた》をぽこぽこと|叩《たた》いて|咳《せ》き込ませ、
「これなに? レースクイーン? 何かのキャラ? あ、そうだっ。文化祭の焼きそば|喫茶《きっさ》、これでやりなよっ! すんげー客くるよっ!」
朝比奈さんのヒキコモリ化もよく|解《わか》るね。つるべ打ちを|喰《く》らうのが目に見えているのにマウンドに立ちたがるピッチャーはいない。
ゆるやかに顔を上げ、朝比奈さんは救いを求める|殉教《じゅんきょう》者みたいな目で俺を見て、すぐ|逸《そ》らした。もわもわとしたため息をゆっくりと|漏《も》らして、それでも|気丈《きじょう》に|微弱《びじゃく》な|笑《え》みを見せ、ッッッっと俺のほうまで来た。
「|遅《おく》れてごめんなさい」
俺は目の前に下げられた朝比奈さんの頭頂部を見ながら、
「いや、俺はかまいませんけど」
「お昼はあたしの|奢《おご》りですね……」
「いやいや、気にしなくていいですよ」
「昨日はごめんなさい。あたし、知らないうちに光学兵器を発射してたみたいで……」
「いやいやいや、俺は無事でしたし……」
ささっと|窺《うかが》う。長門は星付きアンテナを持ってぼんやりしている。その俺の様子に、朝比奈さんはただでさえ細くか弱い小声をさらにひそめて、
「|噛《か》まれちゃいました」
左手首をさすっている。
「何にです?」
「長門さんに。なんだか、ナノマシン注入がどうとかって……。でも、目からは何も出なくなったみたい。よかった」
おかげで俺が輪切りになる|恐《おそ》れもない……か。しかし長門が朝比奈さんに噛みついている風景はなかなか想像しにくい。で、何を注入?
「昨日の夜です。古泉くんと|一緒《いっしょ》にあたしの家に来て……」
荷物番をしている古泉はハルヒと何やら話し合っている。ぜひ俺もついていきたかったね。
こういう時こそ呼べよな俺を。|閉鎖《へいさ》空間なんぞに|誘《さそ》われるよりは朝比奈さんお宅訪問のほうが楽しいに決まっている。
「なに|内緒話《ないしょばなし》してんのう?」
鶴屋さんがしなやかな|片腕《かたうで》を朝比奈さんの首に|絡《から》めた。
「みくる|可愛《かわい》いなあっ。家で飼いたいくらいだね! キョンくん、仲良くしてやってるーっ?」
それはもう。
谷口と国木田のへっぽこコンビは、半口開けて朝比奈さんを観賞している。見るな。減ったらどうする。と思っているとハルヒが|叫《さけ》んだ。
「場所が決まったわよ!」
何の場所だ。
「ロケの」
そうだったな。ともすれば俺たちの|撮《と》っているのが映画だってことを忘れがちになってしまうね。というか忘れたいね。アイドルタレントの安上がりDVD製作現場のほうが言い得て|妙《みょう》のような気もしているし。
「古泉くんの家の近くに大きめの池があるらしいの。とりあえず今日はそこで撮影することから始めましょう!」
早くもハルヒは「撮影隊一行」と手書きされたビニール製の旗を|掲《かか》げて歩き出している。俺は、まだ朝比奈さんに失礼な視線を浴びせる谷口と国木田を呼び寄せて、|鞄《かばん》やら|袋《ふくろ》やらを仲良く分け合った。
三十分くらい徒歩で移動し、着いたところは池の|畔《ほとり》だった。|丘《おか》の中ほどにある、ほぼ住宅街の真ん中である。池と言ってもけっこう広い。冬になれば|渡《わた》り鳥がやってくるほどのデカさであり、古泉が言うところによるとそろそろ|鴨《かも》だか|雁《がん》だかがやってくる|頃合《ころあ》いだそうだ。
池の周囲には鉄製フェンスが|施《ほどこ》され、|侵入《しんにゅう》禁止を明示している。それ以前に常識問題だろ。|躾《しつけ》の問題かもしれない。最近は小学生でもこんな所を遊び場にしようとはしないぜ。よほどのアホを除いてな。
「何してんの、さっさと乗り|越《こ》えなさいよ」
こいつがよほどのアホであることを忘れていた。ハルヒは|監督《かんとく》自らフェンスに|脚《あし》をかけ手招きする。朝比奈さんが短いスカートを押さえながら絶望的な顔色に変化して、横にいる鶴屋さんがケラッケラッ笑いながら、
「え? ここで何かすんの? とわっはは! みくる泳ぐの?」
ぶるぶる首を|振《ふ》り、朝比奈さんは緑色の水面を血の池を見るような目で|眺《なが》めた。ため息。
「乗り越えるにはちょっとこの|柵《さく》は背が高いですね。そう思いませんか」
古泉が語りかけているのは俺ではなくて、長門だった。そいつに日常会話をしむけても無益なだけだぞ。イエスかノーか、それとも理解不能な一人|喋《しゃべ》りを始めるかだ。
「………」
しかし長門は黙ったままではあるが|珍奇《ちんき》にもリアクションをした。フェンスの柱になっている鉄の棒に指をかけ、チョイと横に引いたのだ。強固なはずの鉄柱はなぜか|炎天下《えんてんか》で放置していたキャラメルみたいにぐにゃりと曲がり、そのまま曲がった状態で常態を固定した。
あいかわらず器用な|真似《まね》をする。余計なことでもあったかもしれないが。俺は|慌《あわ》ててその他大勢へと視線を走らせる。
「へえ、古くなってたんだね」
国木田が訳知り顔で言い、
「だから俺は何をすればいいんだ。カッパ役か?」
ぶつぶつと谷口が|隙間《すきま》の空いた鉄柵に|身体《からだ》をくぐらせて池の波打ち|際《ぎわ》へと降り、
「このへん家の近所なんだよねっ。昔は柵なんかなくてさあ、よくハマったよっ」
鶴屋さんも後に続いた。彼女に手を|繋《つな》がれている朝比奈さんも、嫌々のようにハルヒの待ち受ける池の|縁《ふち》へと向かう。
細かいことを考えない|端役《はやく》三人組だった。助かることこの上ない。
古泉が俺と長門に均等に|微笑《ほほえ》みを見せながら柵の内側に身体を|滑《すべ》り込ませて、黒|魔法使《まほうつか》いとなっている長門も|幽霊《ゆうれい》みたいに俺の前を通り過ぎた。
しょうがないな。ささっと|撮影《さつえい》して、パパッと退散しよう。公共物|破壊《はかい》を誰かに|見咎《みとが》められないうちに。
またもや朝比奈さんと長門が向かい合って立っている。またまた|戦闘《せんとう》シーンらしい。本当にハルヒはストーリーを考えているんだろうな。いったいいつになったら古泉の出番はあるんだ。今日も制服姿の古泉は、俺の後ろで反射板係をやっている。
ぬかるみ気味の地面にディレクターズチェアを置き、ハルヒはスケッチブックにセリフと|思《おぼ》しき文章を書き|殴《なぐ》っていた。
「このシーンはね、いよいよミクルが|窮地《きゅうち》に立たされているところなわけ。青目ビームはユキに|封《ふう》じられちゃったわけね」
フェルトペンを止めて、自画自賛の顔をする。
「うん、いい感じだわ。そこのあんた、これ持って立ってて」
そういう具合に谷口がカンペ係になった。演じる二人はふてくされ顔の谷口の手元を見て、
「こここんなことではっあたしはめげないのですっ! わわっ悪い宇宙人のユキさん! しんみょうに地球から立ち去りなさいっ……。あの……すみません」
思わず謝る朝比奈ミクルのセリフに、長門ユキなる悪い宇宙人の魔法使いは、
「…………そう」
気を悪くしたふうもなくうなずいた。それからハルヒの指示通りのセリフを棒読み。
「あなたこそこの時代から消え去るがいい。彼は我々が手に入れるのだ。彼にはその価値があるのである。彼はまだ自分の持つチカラに気付いていないが、それはとてもきちょうなものなのだ。そのいっかんとしてまず地球を……|侵略《しんりゃく》させていただく」
ハルヒが指揮者みたいに振り動かすメガホンに合わせ、長門は星アンテナで朝比奈さんの顔を示した。
「そそそそんなことはさせないのですっ。この命にかえてもっ」
「ではその命も我々がいただこう」
フラットな長門の言葉に朝比奈さんは|著《いちじる》しくビクリとした。
「カットーっ!」とハルヒが|叫《さけ》んで立ち上がる。二人の間まで|駆《か》け寄って、
「だんだん気分が出てきたじゃない。そうそう、その調子よ。でもアドリブはなしでお願いね。それからみくるちゃん、ちょいこっち来て」
俺たちを残して監督と主演女優は背を向ける。ビデオカメラを降ろして俺は首をこきこきと鳴らした。何の打ち合わせだろう。
すかさず鶴屋さんが|堪《こら》えていた笑い声を|盛大《せいだい》に上げてケラケラと、
「これ何映画? ってゆうか映画なのっ? わはは、むっちゃ|面白《おもしろ》いよ!」
面白がっているのはあなた以外ではハルヒくらいみたいですげどね。
谷口と国木田は「俺たち何のために呼びつけられたんだ?」という顔でボサッと|突《つ》っ立っているし、長門は一人で知らんぷり、古泉は自然体で|恰好《かっこう》をつけながら池の果てを|眺望《ちょうぼう》している。俺はそろそろ録画で|満杯《まんぱい》になってきたテープを|抜《ぬ》き取って新しいDVカセットの封を切った。ゴミを増やしているとしか思えない。
鶴屋さんが俺の手元を興味深そうに|覗《のぞ》き込んできた。
「ふうん。最近のビデオってこんなん? これにみくるのコッパな画像がいっぱいなの? 後で|観《み》せてくんないっ? |爆笑《ばくしょう》できそうだねっ」
笑いごっちゃない。以前のバニーでビラ配りは一日だけで済んだが、このバカ映画撮影は最悪、文化祭前日あたりまで続く|恐《おそ》れがあるのだ。撮影|拒否《きょひ》がそのうち登校拒否に発展するかもしれん。そうなったら困るのは俺だ。|美味《おい》しいお茶が飲めなくなるからな。長門の|淹《い》れたお茶は味気ないし、ハルヒのは物理的に|不味《まず》い。古泉は論外で、俺は自分で茶を滝れるくらいなら水道水で|我慢《がまん》するね。
「お待たせ!」
ああ待ったね。待ったとも。そろそろ帰ろうぜ。これ以上池付近の自然を|踏《ふ》み|荒《あ》らしたくないからな。
「本格的なのはこれからよ。ほら、見なさい!」
ハルヒがぐいと押し出したのは朝比奈さんである。見ろってお前、言われなくとも毎日のようにジロジロ見ているさ。ほら、いつもと変わりなく美しく|可愛《かわい》らしく|見目麗《みめうるわ》しい朝比奈さんは……。
「えあ?」
片方の目の色が|違《ちが》っていた。今度は右目。銀色の|瞳《ひとみ》が申しわけなさそうに俺と地面を往復している。
「さあみくるちゃん、そのミラクルミクルアイRから何でもいいわ、不思議なものを出して|攻撃《こうげき》しなさいっ!」
よせ、と言うヒマもなかった。あったとしても俺はダルマ落とし的輪切りになるくらいだったろうが、にしても何もかもが|突然《とつぜん》すぎた。ヤバイ命令をしたハルヒも、|驚《おどろ》いてうっかり|瞬《まばた》いてしまった朝比奈さんも、それから――。
朝比奈さんを池辺で押し|倒《たお》している長門の暗幕姿も。
昨日の再現だった。リプレイシーンを見ているようだ。長門が得意の|瞬間《しゅんかん》移動を見せていた。瞬間、|帽子《ぼうし》だけが元の位置にあって、そこからふわりと地面に落ちる。それを|被《かぶ》っていた本体は、瞬き一回分の時間(たぶんゼロコンマニ秒くらいだろ)に数メートルの|距離《きょり》を移動して朝比奈さんに乗っかっていた。こめかみにアイアンクロー。
|湿地《しっち》でレスリングを始めた女優二人を全員が|唖然《あぜん》として見守っていた。
「ななな長門さっ……、ひいいいっ!」
無言無表情の長門はそんな悲鳴をものともせず、ほんの少しショートヘアを乱しただけで朝比奈さんに|跨《またが》っている。
「ちょっとお!」ハルヒがいち早く自分を取り|戻《もど》した。
「有希! あなたは|魔法使《まほうつか》いなのよ! |肉弾《にくだん》戦は不得意って設定なの! こんなところで|泥《どろ》んこプロレスしても――」
しかしハルヒは|途中《とちゅう》で口を|閉《と》ざし、三秒ほど考えてから、
「ま、これでもいいか。売りになりそうね。キョン! ちゃんと|撮《と》って! せっかくの有希のアイデアなんだから」
アイデアではないだろう。反射的な行動だ。コンタクトレンズをどうにかするための防衛|措置《そち》なのだ。朝比奈さんもそれを|解《わか》っているはずだが、|恐怖《きょうふ》のあまりか小悲鳴をあげつつ|脚《あし》を。バタバタ。キワドい。いや、そんなサービスショットを|狙《ねら》っている場合ではないのだ。
その時、ガシャンと音がして二人を除く全員が背後を|振《ふ》り向いた。
ハルヒが乗り|越《こ》え、俺たちが|隙間《すきま》を通ってきた池のフェンス。その空間がポッカリと開いている。Vの字型に切り取られたフェンスが道路に|横倒《よこだお》しになっていた。それこそ|誰《だれ》かが不可視のレーザーでも当てたように。
ややあって目を戻すと、貧血気味の|吸血鬼《きゅうけつき》みたいに長門が朝比奈さんの手首に|噛《か》みついていた。
「うかつ」
意外にも長門は自己批判するようなことを言い、
「レーザーは拡散し無害化するように設定した。今度は|超振動《ちょうしんどう》性分子カッター」
息を|吐《は》いてないような口調で|呟《つぶや》く。拾い上げた黒帽子を差し出しながら古泉が言った。
「モノフィラメントみたいなものですね。しかしその単分子カッターは目にも見えなければ、質量もないのですね?」
帽子を受け取った長門は、それを無造作に頭に乗せた。
「|微量《びりょう》の質量は感知した。十の四十一乗分の一グラム程度」
「ニュートリノ以下ですか?」
長門は何も言わず、朝比奈さんの目を見つめている。ウェイトレスさんの右目はまだ銀色のままだ。
「あの……」
噛まれた手首をさすりつつ、朝比奈さんはびくびくと、
「今度はあたしに何を、その、注入したので、ですか……?」
トンガリ帽子の|先端《せんたん》が五ミリ動くくらいの顔の動き。俺にはそれが|困惑《こんわく》の表現に見える。どう説明したものかと|悩《なや》んでいるんだろう。案に|違《たが》わず長門は、
「次元振動周期を位相|変換《へんかん》し重力波に置き|換《か》える作用を持つ力場を体表面に発生させた」
という意味不明なことを苦し|紛《まぎ》れっぼく言った。どうやったらそれが|透明《とうめい》殺人ワイヤーを無効としたことになるのか理解できんが、不可解なことに俺以外の二人はそれなりに|納得《なっとく》したようだ。古泉などは、「なるほど。ところで重力は波動なんですか?」とか関係ないことまで|訊《き》いている。長門も関係ないと思ったんだろう、何も答えないからな。
古泉は決めポーズのような仕草で|肩《かた》をすくめる。
「しかし確かにうかつでしたね。これは僕の責任でもあるでしょう。てっきり目から出るのはレーザービームくらいだとしか思いませんでした。何でもいいから不思議なものを出せ、ですか。涼宮さんの思考は他者の|追随《ついずい》を許しませんね。すごい人です」
追いつくどころか全人類を周回|遅《おく》れにしているようなものだからな。それも3ラップくらいのぶっちぎりで、また後ろに|迫《せま》ってきている|圧迫《あっぱく》感を後頭部に感じるほどだが、パッと見では同一周回を走っているとギャラリーに|勘違《かんちが》いさせるのがミソだ。こればっかりは同じサーキットを走らされている|奴《やつ》にしか解るまいし、ハルヒが速いのはS字だろうがデグナーだろうが立体交差だろうがおかまいなしに直進しかしないからでもある。おまけに一人だけエンジンはパサードラムジェットを使用、いつまでもどこまでも走っていく。追随したくてもできないルールを自分で作り上げているわけで、しかも本人に|八百長《やおちょう》の意識がゼロときている。天然で片づけられる|範疇《はんちゅう》を|超《こ》えたタチの悪さだ。
「まあ幸いにして」と古泉。「フェンスの件は|老朽化《ろうきゅうか》を放置していた地方自治体の管理不行き届きとして|皆《みな》さん、納得しているようですし、大事に至らなくて何よりでした」
俺は帽子に|隠《かく》れた白い顔を|一瞥《いちベつ》する。さっき見せてもらった長門の|掌《てのひら》は、カマイタチのつかみ取りでもしたのかというくらいに|裂《さ》けまくっていた。痛い話が苦手な奴に聞かせたい具合にだ。今は|嘘《うそ》みたいに治っているけど。
俺は|離《はな》れたところにかたまっている第二集団を|眺《なが》めた。ハルヒと|脇役《わきやく》デコボコトリオは、ハンディの映像を見て何やら|嬌声《きょうせい》を上げている……のは鶴屋さんだけか。
「どうするよ? このまま|撮影《さつえい》続行すると何だか|惨事《さんじ》を生むような気がするぞ」
「しかし中止するのもままなりませんね。我々が|強引《ごういん》に映画撮影を|拒否《きょひ》すると涼宮さんはどうなります?」
「暴れ出すだろうな」
「そうでしょう。仮に本人が暴れないようなことがあっても、あの|閉鎖《へいさ》空間で〈神人〉に大暴れさせることは確実です」
けったくその悪いことを思い出させるなよな。俺は二度とあんな所にも行きたくないし、あんなことをしたくもない。
「おそらく涼宮さんは、今の|状況《じょうきょう》が楽しくてしかたがないのですよ。想像力を|駆使《くし》して自分だけの映画を|撮《と》るという|行為《こうい》がです。まさに神のように振る|舞《ま》えますからね。あなたももうご存じの通り、彼女はこの現実が思い通りにならないことに対し常々|苛立《いらだ》っていました。実はそうでもなかったわけなのですが、気付いていないのですから同じ事です。しかしですね、映画の中では彼女の思う通りに物語は進みます。どんな設定であっても可能でしょう。涼宮さんは映画という|媒介《ばいかい》を利用して、一つの世界を再構築しようとしているのです」
つくづく自己中心派だ。思い通りになる事なんて相当の金か権力を持ってないと無理だ。政治家にでもなればいい。
俺がしかめ|面《つら》を何種類か|試《ため》している中、古泉は一種類の|笑顔《えがお》で話し続けている。
「もちろん涼宮さんにそんな自覚はないでしょう。あくまで映画内フィクションとしての世界を|創《つく》っているつもりです。映画制作にかけるひたむきな情熱ですよ。その熱中のあまり、無意識のうちに現実世界に|影響《えいきょう》を|及《およ》ぼしているのだと考えられます」
どっちに転んでもマイナスの目しか出ないサイコロだ。撮影を続けてハルヒの|妄想《もうそう》が暴走してもダメ、やめさせて|機嫌《きげん》を|損《そこ》ねさせてもダメ、バッドエンドまっしぐらの|二択《にたく》だな。
「それでもどちらかに転ばないといけないのだとしたら、僕は続行の道を選びますね」
|根拠《こんきょ》を言ってみろ。
「〈神人〉|狩《が》りもそろそろ|飽《あ》きてきましたし……というのは|冗談《じょうだん》です。すみません。ええとですね、ようはこういうことです。世界が丸ごとリセットされるよりは、多少の変化を許容するほうがまだ生存の道は開けるからですよ」
朝比奈さんがスーパーウーマンになるような現実を許容しろってのか?
「今回の現実変容は〈神人〉に比べると小規模です。長門さんがしてくれたように|防御《ぼうぎょ》修正することだって可能でしょう。世界がゼロからやり直しになることに比べたら、単発的な異常現象をなんとかするほうが簡単のような気がしませんか?」
どう考えてもどっちもどっちだ。ハルヒを後ろからぶん|殴《なぐ》って文化祭が終わるまで気絶させておいたらどうだ?
「|畏《おそ》れ多いことです。あなたが全責任を負ってくれるのならば止めはしませんが」
「俺の|双肩《そうけん》に世界は重すぎるな」
そう答えながら朝比奈さんを見ると、ウェイトレスコスチュームから|生乾《なまがわ》きのドロを指で落としているところだった。なにやら|諦《あきら》めきった顔をしていたが、俺の視線に気付くと|慌《あわ》てたように、
「あ、あたしならだいじょうぶです。何とか乗り切ってみせるから……」
いじらしいね。顔色はあんまり良くないけど。そりゃあ何かあるたびに長門に|噛《か》まれることにはなりたくないよなあ。いくらあっと言う間に噛み|跡《あと》を消してくれるとはいえ、不気味なものは不気味だ。なんせ今の長門は|柄《え》の長い|鎌《かま》を持たせたらタロット十三番目のカードのモチーフにしたいくらいの死神|娘《むすめ》か、|年齢不詳《ねんれいふしょう》のスペースバンパイアだ。どっちだろうとあの世行きは当確している。
朝比奈さんは吸引じゃなくて混入させられたみたいだが。しかし、うかつと言えばどうも朝比奈さんは未来人にしては危機意識がないように思えるな。本心を俺に伝えていないからかもしれんけどさ。なんせ禁則だらけみたいだし。
まあそのうち教えてくれることもあるだろう。その時はもちろん二人きりで、どこか|狭《せま》い所とかでという状況がいいな。
ようやく谷口と国木田、鶴屋さんの出番が|訪《おとず》れた。
ハルヒは三人に映画での役割を申し|渡《わた》し、これにより三名は名も無きチョイ役であることが判明した。役どころは『悪い宇宙人ユキに|操《あやつ》られて|奴隷《どれい》人形と化した|一般人《いっぱんじん》』。
「つまりね」と、ハルヒは気味の悪いニコニコ顔で説明する。「ミクルは正義の味方だから一般人には手を出せないわけ。ユキはその弱点をついたのね。|普通《ふつう》の人間を|催眠魔法《さいみんまほう》で操作するの。そうやって|襲《おそ》ってくる一般人に|抵抗《ていこう》できず|為《な》す|術《すべ》なく、ミクルはボロボロになっちゃうの」
もうすでにボロボロになっている朝比奈さんにこれ以上何をしようと言うんだろう、と俺が思っているとハルヒは、
「手始めに、みくるちゃんを池に|叩《たた》き込みなさい」
「ええっ!?」
|驚《おどろ》きの声を出すのは朝比奈さんきりで、鶴屋さんはゲラゲラ笑い。谷口と国木田は顔を見合わせてから、次に朝比奈さんへと|困惑《こんわく》顔を向けた。
「おいおい」
|妙《みょう》な半笑いで言ったのは谷口だった。
「この|溜《た》め池にかよ? えらく|温《ぬる》いかもしらんが、もうとっくに秋だぜ。水質だってお世辞にもキレイとは言えねえが」
「すっすっす涼宮さん、そのせめて温水プールとかに……」
朝比奈さんも泣きそうな顔で|懸命《けんめい》の反論を|敢行《かんこう》する。国木田ですら朝比奈|擁護《ようご》に回ったようで、
「そうだよ。底なし|沼《ぬま》だったらどうするんだい? 二度と|浮《う》かび上がってこれないよ。ほら、ブラックバスだっていっぱいいるしさ」
朝比奈さんを|卒倒《そっとう》させるようなことを言うな。それに、抵抗すればするほどハルヒは意固地になるのはすでに実証済みである。ハルヒは例によってアヒル口となり、
「|黙《だま》りなさい。いい? リアリズムの前には多少の|犠牲《ぎせい》は付き物よ。あたしだってこのシーンのロケにはネス湖かグレートソルトレイクを使いたかったわよ。でもそんなところに行く時間もお金もないの。限られた時間内に最善を|尽《つ》くすのが人類の使命なわけ。だったらこの池を使うしかないでしょうが」
なんちゅう|理屈《りくつ》だ。どうあっても朝比奈さんは水責めの|刑《けい》になることが前提なのか。別のシーンに差し|替《か》えるとか、そういう考え方はできないのかこの女。
俺も止めに入るべきかと考えていると、背後から|肩《かた》を叩かれた。|振《ふ》り返ると古泉の|野郎《やろう》が|薄《うす》く笑いながら無言で首を振る。|解《わか》っているさ。へたにハルヒをいじくると|奇怪《きかい》な事態がまた発生するかもしれないってことはな。朝比奈さんの口からプラズマ火球が出ちまうようなことになれば、ヘタすりゃ自衛隊を敵に回さなければならん。
「あああ、あたしっ、やりますっ」
悲痛な声で朝比奈さんが宣言した。断腸の思いというやつだろう。世界の平和のために自分の身を犠牲にする|可憐《かれん》な少女の一丁上がりだ。ベッタベタに|手垢《てあか》まみれな展開だが、メイキングビデオではここが一番の盛り上がる部分だろうね。ビデオ回してないけど。
単純にハルヒ大喜び。
「みくるちゃん、イイ! 今のあなたはとっても|恰好《かっこ》いいわ! それでこそあたしの選んだ団員よ! 成長してきたわね!」
成長ではなく、学習した結果だろうと思うね。
「じゃあ、そこの二人はみくるちゃんの手を持って、鶴ちゃんは|脚《あし》を|抱《かか》えちゃって。せーの、で行くわよ。せーので勢いよく池に|放《ほう》り込むの」
ハルヒが指示したのは次のようなシーンであった。
チョイ役三人は、まず長門の前に整列して、黒衣の魔法使いがふらふら動かすアンテナ棒の前で|頭《こうべ》を垂れた。まるで神社でお|祓《はら》いを受けているようだ。|御幣《ごへい》を振るように指し棒を|操《あやつ》っている長門の無表情は、そう言えば何となく|巫女《みこ》っぽい|香《かお》りがしないでもない。
その後、無言で朝比奈さんを指し示した長門の指令電波を受信した三人は、|新鮮《しんせん》な生肉を求めるゾンビのような動きで|硬直《ごうちょく》するヒロインへと歩き出した。
「みくるーっ。ごめんねえ。こんなことしたくないんだけど、あたし操られちゃってるからぁ。ほんと、ごめんよう」
楽しんでるとしか思えない鶴屋さんが|猫《ねこ》型バスみたいな口をしながらウェイトレスににじり寄った。いざというときに小心者になる谷口は迷うフリをしつつ、国木田は頭をぽりぽり|掻《か》きながら、青くなったり赤くなったりする朝比奈さんへと|迫《せま》るのだった。
「そこのアホ二人! もっと|真剣《しんけん》に演じなさい!」
アホはお前だ、という言葉を飲み込んで俺はカメラを|覗《のぞ》き続ける。朝比奈さんはへっぴり|腰《ごし》で、じりじり水辺へと後退していた。
「かくごしろ〜」
明るく言いながら鶴屋さんは朝比奈さんをかくんとコカすと、|露《あら》わになった太ももを|両脇《りょうわき》に抱えた。何というか、もう実にアブナイ。
「ひっ……ひえっ」
本気で|怖《こわ》がっている朝比奈さん。谷口と国木田がそれぞれ片手ずつを持ってぶら下げられる。
「ちちちちょっとその、やっぱり……こここ、これ必要なんですかあ〜?」
悲痛な|叫《さけ》びの朝比奈さんを|一顧《いつこ》だにせず、ハルヒは重々しくうなずいた。
「これもいい|画《え》を|撮《と》るため、ひいては芸術のためなのよ!」
よく聞く言葉だが、こんなデタラメ自主映画のどこに芸術が関係しているのだろう。
ハルヒが号令をかけた。
「今よ! せーのっ!」
ざぼーん。水しぶきが|盛大《せいだい》に上がり、池で暮らす|水棲《すいせい》生物たちの日常を掻き乱した。
「ひ、あぶぅっ……はわぁ……っ!」
|溺《おぼ》れている演技が|巧《うま》いね、朝比奈さん……ではなく、シリアスに溺れているような気がするのだがどうだろう。
「足がっ……届かなっ……あぶっ!」
ここがアマゾン川流域でなくてよかった。こんなふうにバシャバシャしてたらピラニアの|恰好《かっこう》の目印になる。ブラックバスは人を襲わないだろうな――と俺がファインダー越しに思っていると、水しぶきを立てているのは朝比奈さんだけではないことを発見した。
「うげえっ! 水飲んじまった!」
谷口も溺れていた。どうやら朝比奈さんを放り出す勢いで自分まで落っこちちまったらしい。こちらは安心して放っておくことにする。
「何やってんのあのバカ?」
ハルヒも同意見だったらしく、アホ一|匹《ぴき》をほったらかしのままメガホンで古泉を指した。
「さ、古泉くん、あなたの出番よ! みくるちゃんを助けてあげなさい」
照明係に|徹《てっ》していた主演男優は、|優雅《ゆうが》に|微笑《ほほえ》んでレフ板を長門に|渡《わた》すと、池の水辺に歩み寄って手を差し|伸《の》べた。
「つかまってください。落ち着いて。僕まで引っ張り込まないようにね」
|大海原《おおうなばら》の|遭難《そうなん》者が流木にしがみつくように、朝比奈さんは古泉の手をしっかりと|握《にぎ》りしめる。軽々とずぶ|濡《ぬ》れ未来ウェイトレス戦士を引っ張り上げ、古泉はその|身体《からだ》を支えるように寄り|添《そ》った。近寄りすぎだぞ、コラ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「……うう……つめたかったあ……」
ただでさえピッタリしていたコスチュームが濡れたせいで|最早《もはや》スケスケ状態である。俺が|映倫《えいりん》にいれば|躊躇《ちゅうちょ》なくこの映画は十五歳未満入場禁止にするね。正直に言おう、ある意味マッパよりヤバイ。なんか|捕《つか》まりそうな勢いだ。
「うん、バッチリ!」
ハルヒがメガホンを打ち鳴らして絶賛の|雄叫《おたけ》びを放った。俺はまだ池を|泡立《あわだ》てている谷口を無視し、ビデオカメラの停止ボタンを押した。
|無駄《むだ》なものは|露天商《ろてんしょう》を開けるくらいあるくせに、タオルの一枚もないとは何事か。
鶴屋さんのハンカチで顔を|拭《たぐ》ってもらいながら朝比奈さんはじっと目を閉じている。俺はハルヒが|真面目《まじめ》くさった顔をして映像チェックしている|隣《となり》で息を|潜《ひそ》めていた。
「うん、まあまあね」
朝比奈水難シーンを三回も|繰《く》り返して|観《み》ていたハルヒがうなずいた。
「出会いのシーンとしてはまずまずだわ。この段階でのイツキとミクルのぎこちない感じがよく出てる。うむうむ」
そうか? 俺は|普段《ふだん》通りの古泉にしか見えなかったけどな。
「次は第二段階ね。ミクルを救い出したイツキくんは彼女を自宅にかくまうことにするのよ。次のシーンはそっから撮るわ」
って、お前。それじゃ全然|繋《つな》がらないぞ。谷口たちを|操《あやつ》っていた長門はどこに行ったんだ? 谷口たちは? どうやって|撃退《げきたい》されたんだ? いくらザコキャラとはいえ、|描写《びょうしゃ》なしじゃ観客は|納得《なっとく》しないぞ。
「うるさいわね。そんなの撮らなくてもちゃんと観ている人には伝わるのっ! つまんない|箇所《かしょ》は流しちゃっていいのよ!」
このやろう、ただ朝比奈さんを池に|突《つ》き落としたかっただけか。
俺が|義憤《ぎふん》にかられていると、鶴屋さんが挙手して発言した。
「あのさーっ。あたしの家がすぐ近くなんだけどさっ。みくるが|風邪《かぜ》引きそうだから|着替《きが》えさせてやっていいかなっ?」
「ちょうどいいわ!」とハルヒは|輝《かがや》く目を鶴屋さんに向けた。
「鶴ちゃんの部屋を貸してくんない? そこでイツキとミクルが仲良くしてる所を撮りたいから。なんて|潤滑《じゅんかつ》な展開かしら。この映画はきっと成功するわね!」
|御都合《ごつごう》主義が人生のメインテーマらしいハルヒにとっては、なるほど確かに思うとおりの提案なのかもしれないが、ひょっとしたらハルヒがそんなことを考えたから鶴屋さんのこの発言に至った|疑惑《ぎわく》もぬぐい去れない。ハルヒがザコキャラ|認定《にんてい》するくらいだから、鶴屋さんは俺と同じ|一般人《いっぱんじん》のはずだけど。
「えーと、僕たちは?」
国木田の質問である。横で谷口が|脱《ぬ》いだシャツを|雑巾《ぞうきん》みたいに|絞《しぼ》っていた。
「あんたたちはもう帰っていいわ」
ハルヒは無情に告げて、
「ご苦労さん。じぁあね、さよなら。二度と会うことはないかもね」
それきりハルヒの頭からは同級生二人の名前と存在は消え|失《う》せたようである。|呆《あき》れた顔つきの国木田と、犬みたいに|髪《かみ》から|雫《しずく》を飛ばしている谷口を見ることは再びなく、ハルヒは鶴屋さんをガイド役に指名して、すたすた歩き始めた。よかったな二人ともお役|御免《ごめん》で。お前らはどうやらハルヒ的には使用済みBB|弾《だん》くらいの価値しかないみたいだぞ。それは実はけっこう幸せなことなんだぜ。
なぜかノリノリの鶴屋さんは|嬉《うれ》しそうに、
「はーいっ。みなさーんっ、こっちでーす」
先頭に立って旗を|振《ふ》っていた。
ハルヒのワガママ|独壇場《どくだんじょう》は今に始まったことではなく、たぶん生まれついての性質なんだろうし、生後すぐに天地を指して八文字熟語を|絶叫《ぜっきょう》したなんていう言い伝えが後五百年もしたら涼宮ハルヒ語録の一つとして民間伝承となり|流布《るふ》されていたりするのかもしれないが、まあそれはどうでもいいことだ。
集団の|先陣《せんじん》を切って歩くハルヒと鶴屋さんは、いつの間に意気投合したのか|馬鹿《ばか》デカい声でブライアン・アダムスの『18tillIdie』のサビだけをリフレインして|唄《うた》っていた。後を歩いている者として、一応の知り合いとして非常に|恥《は》ずかしい。
|黙々《もくもく》歩きの黒長門とレフ板持ち&主演の古泉はよく他人のフリもせずについて行けているな。少しは|肩《かた》を落として|俯《うつむ》き|加減《かげん》にしょんぼり歩いている朝比奈さんを見習うがいい。それから俺の背負っている荷物を少しは肩代わりしてくれ。さっきから続くのは坂道ばかりで、俺はそろそろ|坂路《はんろ》調教中の競走馬の気持ちが|解《わか》りかけようとしているぞ。
「はーい、|到着《とうちゃく》っ。これ、あたしん|家《ち》」
声を張り上げて鶴屋さんが|一軒《いっけん》の家の前で立ち止まった。声も大きな人だったが自宅もデカかった。いや、たぶんデカいんだと思う。なぜなら門から家が見えないので判断できん。しかしそれこそまさに判断材料だ。門から見て取れないほど遠くに家屋があるということは、そこまで相当な|距離《きょり》があるということで、ついでに左右を見回してみるとどこの|武家屋敷《ぶけやしき》かと思うほどの|塀《へい》が遠近法に従って延々と続いていた。どんな悪いことをすればこんな余分な土地を持つ家に住めるのだろう。
「どぞどぞ、入って入ってっ」
ハルヒと長門は|遠慮《えんりょ》という言葉を知らないのか、自分の家みたいな顔をして門をくぐった。朝比奈さんも来たことがあるようで、たいして|驚《おどろ》きもなく鶴屋さんに背中を押されるように入っていく。
「なかなか古風な旧家ですね。この|幽玄《ゆうげん》の|佇《たたず》まい、|趣《おもむき》があるとはこれを指して言うのでしょう。時代を感じさせますねえ」
古泉が|感嘆《かんたん》しているふうを|装《よそお》って感情のこもらない声で言っている。安物のレポーターか、お前は。
三角べースボールが出来そうなスペースを縦断して、やっと|玄関《げんかん》まで|辿《たど》り着いた。鶴屋さんは朝比奈さんを|風呂場《ふろば》まで連れて行ってから、俺たちを自室に招き入れた。
何だね、自宅の俺の部屋が|猫《ねこ》用の|寝室《しんしつ》に思えるね。だだっ広い和室に通されて、どこに座っていいものやら|悩《なや》むくらいだ。だが、悩んでいるのはどうやら俺一人で、ハルヒをはじめとする長門と古泉も何も|恐《おそ》れ入ることはないようだった。
「いい部屋ね。ここでロケができそうなくらいよ。そうだ、古泉くんの部屋だってことにしましょう。みくるちゃんとのツーショットシーンをここで|撮《と》るのよ」
|座布団《ざぶとん》の上でハルヒが指で作った四角形の中を|覗《のぞ》いている。鶴屋さんの部屋は|卓袱台《ちゃぶたい》しかない簡素な|畳敷《たたみじ》き和室だった。
俺は|隣《とな》りに座る長門の|真似《まね》をして正座していたが、三分と|保《も》たずに足を崩させてもらう。ハルヒは最初から|胡座《あぐら》をかいて、鶴屋さんに何やら耳打ちしていた。
「くふっ! あ、それ|面白《おもしろ》いねっ! ちょっと待ってて!」
鶴屋さんは|朗《ほが》らかかつ高らかに笑い声を上げると、そっから部屋を出て行った。
俺は考える。鶴屋さんは一般人で正しいんだろうな。こうまでハルヒと仲良しさんになれるのは|常軌《じょうき》を|逸《いっ》した人間か人間以外の何かだと相場が決まっているのだが、どこかに波長の共通するものがあるのかもしれない。
待つこと数分、鶴屋さんは|戻《もど》って来た。おみやげは朝比奈さんである。それもただの朝比奈さんではない。風呂上がり朝比奈さんだ。彼女はどうやら鶴屋さんの物らしいぶかぶかのTシャツを着ていた。というか、Tシャツしか着ていなかった。
「あ……。お、お待たせを……」
|濡《ぬ》れ髪上気|肌《はだ》の朝比奈さんは、鶴屋さんの後ろに|隠《かく》れるようにして部屋に入り、正座して縮こまる。なんせ|裾《すそ》も|袖《そで》も朝比奈さんには長すぎるので、Tシャツと言ってもワンピースみたいに見える。それがまた|素晴《すば》らしい効果を発揮していた。外し忘れの右目が銀色のままなのは|危《あや》ういが、ビームもスパスパワイヤーも出ないようなので一安心である。|帽子《ぼうし》も取らずにかしこまっている長門をどこかの|摂社《せっしゃ》で|奉《たてまつ》ってやりたいくらいだ。
「はいこれ。飲んじゃって」
鶴屋さんが|床《ゆか》に置いた|盆《ぼん》には、人数分のグラスが|載《の》って|橙色《だいだいいろ》の液体で満たされていた。鶴屋さんから|渡《わた》されたそのオレンジジュースを朝比奈さんは半分くらい|一瞬《いっしゅん》で飲んだ。今日一番動きが多かったからな、水分を|消耗《しょうもう》していたんだろう。
俺も有り|難《がた》く|頂戴《ちょぅだい》し味わいつつ飲んでると、一口で飲み干したハルヒが残った氷をかみ|砕《くだ》きながら、
「さ。せっかくだし、この部屋で|撮影《さつえい》しましょう」
ろくに休むこともなく始まったのは次のようなシーンだった。
気絶した演技をする朝比奈さんを、古泉がお|姫《ひめ》様|抱《だ》きで部屋に入ってくる。なぜかすでに布団が|敷《し》かれていて、古泉はそこに朝比奈さんを横たえると、じっとその|寝顔《ねがお》を|眺《なが》めるのだった。
朝比奈さんの顔はかなり紅潮、|睫毛《まつげ》がぴくぴくしている。その無防備な|身体《からだ》に古泉はそっとタオルケットをかぶせ、|腕《うで》を組んで|枕元《まくらもと》に座った。
「うーん……」と朝比奈さんが寝言のようなことを|呟《つぶや》き、古泉は口元を|緩《ゆる》めた顔で注視し続ける。
ここでは出番のないらしい長門は、俺と鶴屋さんの背後でまだオレンジジュースをちびちび飲んでいた。俺はファインダーを覗きながら朝比奈さんの寝顔をアップにする。ハルヒが何も指示しないものだからこのあたり、俺の|趣味《しゅみ》の世界である。しかしハルヒは主演二人にはリアルタイムで指示を出し続けていた。
「みくるちゃん、そろそろ起きて。セリフはさっき言った通りよ」
「……ううー」
朝比奈さんはゆっくり目を開け、|妙《みょう》に|潤《うる》んだ目つきで古泉を見上げる。
「気が付きましたか?」と古泉。
「はいー……。ええと、ここは……」
「僕の部屋です」
むくりと上半身を起こした朝比奈さんは、なぜか熱っぽい顔で視点の定まらない目をしている。なんかやけに色っぽいが、これは演技なのか?
「あ……ありがとうございます、う」
すかさずハルヒ指示、
「そこで二人! もっと顔を近づけて! でもってみくるちゃんは目を閉じて、古泉くんはみくるちゃんの|肩《かた》に手を回し、もういいから押し|倒《たお》してキスしちゃって!」
「ええっ……」
どういうわけかトロンとした目つきで朝比奈さんは口を半開きにして、古泉が言いつけ通りに朝比奈さんの肩を抱いたところで、俺の|我慢《がまん》が限界に達した。
「待てこら。いろいろ|端折《はしょ》りすぎだぞ。ってより、なんでこんなシーンがある? なんだこれは?」
「濡れ場よ濡れ場。ラブシーン。時間帯またぎにはこういうのを入れておかないと」
アホか。これは夜九時から始まる二時間ドラマか。古泉も、何を乗り気な顔をしてやがるんだ。こんなものが上映されたら、次の日からお前の|下駄箱《げたばこ》には百単位で|呪詛《じゅそ》の手紙が|舞《ま》い込むぞ。少しは考えろ。
|誰《だれ》かのケラケラ笑いが聞こえて|振《ふ》り向くと、畳の|縁《ヘり》に|爪《つめ》を立てるように身体を折って、鶴屋さんが|爆笑《ばくしょう》していた。
「ひひーっ、みくる、おかしーっ」
おかしくない……と言いたいのだが、明らかに朝比奈さんは通常ではなかった。さっきから首が|据《す》わってないし、目が潤みっぱなしの|頬《ほお》染めっぱなし、しかも古泉に肩|抱《だ》かれても|無抵抗《むていこう》にされるがままになっている。|面白《おもしろ》くない。
「うー……。こいすみくん、あたしなんだかあたまがおもいのねす……ふ」
ネズミに花束を|捧《ささ》げたくなるようなことを言いながら、朝比奈さんは身体をぐらぐらさせている。薬でも盛られたのかという感想を持ち、俺は気付いた。視線が空のグラスへと自然に向き、鶴屋さんが笑いつつ、
「ごっめーんっ。みくるのジュースにテキーラ混ぜといたの。アルコールが入ったほうが演技に|幅《はば》が出るかもっていわれてさっ」
ハルヒの|悪巧《わるだく》みか。俺は|呆《あき》れるより|怒《おこ》りそうになった。そんなもん|黙《だま》って混入するな。
「いいじゃん。今のみくるちゃん、すごく色っぽいわよ。画面|映《ば》えするわ」とハルヒ。
もはや演技どころではなく朝比奈さんはすでにフラフラになっていた。閉じた目の下が赤く染まっている。色っぽいのはいいが、古泉にもたれかかっているのは|不愉快《ふゆかい》だ。
「古泉くん、いいからキスしなさい。もちろんマウストゥマウスで!」
ダメに決まっているだろう。前後不覚になっている人間にやっていいことではないぞ。
「やめろ、古泉」
|監督《かんとく》とカメラマンのどちらの言葉に従うか、古泉はしばらく考える|真似《まね》をした。|殴《なぐ》るぞこの|野郎《やろう》。どのみち俺はハンディを降ろしている。そんなシーンを|撮《と》るつもりも撮らせるつもりもない。
古泉は俺を安心させるように|微笑《ほほえ》んで、フラつく主演女優から|離《はな》れた。
「監督、僕には荷が重すぎますよ。それに、朝比奈さんはもう限界のようですし」
「……あたしならたいじょうふすよ?」
そう言う朝比奈さんは見るからに|大丈夫《だいじょうぶ》ではなかった。
「もう。しょうがないわねえ」
ハルヒは|唇《くちびる》を|尖《とが》らせて、|酔《よ》いどれ|娘《むすめ》へとにじり寄った。
「あら、コンタクトつけたままだったの? ここはハズしとかないといけない場面よ」
朝比奈さんの後頭部をぽかりと|叩《たた》く。
「いっ……いたい」と朝比奈さんは頭を押さえる。
「ダメじゃないのみくるちゃん! こうして頭を叩かれたら目からコンタクトを飛び出させないと。じゃあもう一度、れんしゅう」
ぽかり。
「いたっ」
ぽかり。
「……ひい」と朝比奈さんはぎゅっと目を閉じる。
「やめろバカ」と俺はハルヒの手を|握《にぎ》って制止した。「なにが練習だ。これのどこが演出なんだ? 何が面白いんだよ」
「なによ、止めないでよ。これも約束事の一つなのっ!」
「誰との約束だそれは。ちっとも面白くない。つまらん。朝比奈さんはお前のオモチャじゃねえぞ」
「あたしが決めたの。みくるちゃんはあたしのオモチャなのよ!」
聞いた|瞬間《しゅんかん》、俺の頭に血が上った。視界が赤く染まったような気すらした。本気で頭に来た。一瞬で|衝動《しょうどう》が思考を|凌駕《りょうが》する、それは無我の境地での反射的行動だと言って差し|支《つか》えない。
俺の手首を誰かが握っていた。古泉の野郎が目を細めて小さく首を振っている。古泉が俺の右手を止めているのを見て、俺は初めて自分が握り|拳《こぶし》を振りかざしていることに気付く。俺のこの右手は、今まさにハルヒをぶん殴ろうとしていたようだった。
「何よっ……!」
ハルヒはプレアデス星団みたいな光を|瞳《ひとみ》に宿しつつ、俺を|睨《にら》みつけていた。
「何が気に入らないって言うのよ! あんたは言われたことしてればいいの! あたしは団長で監督で……とにかく|反抗《はんこう》は許さないからっ!」
再び俺の目の前が真っ赤になった。このクソ女。放せ古泉。動物でも人間でも、言って聞かない|奴《やつ》は殴ってでも|躾《しつけ》てやるべきなんだ。でないとこいつは一生このまま|棘《とげ》だらけ人間として|誰《だれ》からも|避《さ》けられるようなアホになっちまうんだ。
「やや……やめてくらさぁいっ!」
飛び込んできたのは朝比奈さんだった。ろれつの|怪《あや》しい声で、
「だめだめですっ。けんかはだめなのです……っ」
俺とハルヒの間に|身体《からだ》を割り込ませた朝比奈さんは、赤い顔のままずるずると|崩《くず》れ落ちた。ハルヒの|膝《ひざ》に|抱《だ》きつくようにして、
「うう……っぷ。みんなはなかよくしないといけません……。そうしないと……んー。ああこれきんそくでしたぁ」
くたりと朝比奈さんは、何かモゴモゴ言いながら目を閉じた。そして、すうすう|寝息《ねいき》を立てながら|眠《ねむ》り込んでしまった。
俺と古泉は坂道を下りながら歩いていた。眼下に広がっているのは先ほどの|溜《た》め池である。
女優が使い物にならなくなったので|撮影《さつえい》は中止になった。眠る朝比奈さんを鶴屋さんに任せて俺と古泉、長門は|大邸宅《だいていたく》を辞去することにしたのだが、なぜだかハルヒだけは一人で残ると言い張って俺からビデオカメラを取り上げ、すぐに背中を向けた。俺も何も言わず、雑多な荷物だけを|抱《かか》えて鶴屋さんの見送りを受けることとなった。
「ごめん、キョンくん」
鶴屋さんは申しわけなさそうに、しかしすぐに|笑顔《えがお》となって、
「あたしもちょっと調子に乗り過ぎちゃったよ! みくるのことは心配しないで。後で送っていくか、なんなら|泊《と》めるからっ!」
長門は門を出てすぐテクテク立ち去った。何の感想もないようだ。長門はそうだろうよ。あいつはいつだって無感想なのさ。
そして|肩《かた》を並べての帰り道、|黙然《もくぜん》と五分ほど歩いたところで古泉が口を開いた。
「あなたはもっと冷静な人だと思っていましたが」
俺もそのつもりだったさ。
「すでに現実がおかしくなっているのに、さらに|閉鎖《へいさ》空間まで生みかねない|真似《まね》は|慎《つつし》んでいただきたいですね」
俺の知ったことか。『機関』だか何だかいうインチキくさい秘密結社はそのためにあるんだろうが。お前たちが何とでもしたらいい。
「さっきの一件ですが、なんとか涼宮さんの無意識は自制してくれたようですね。閉鎖空間はどこにも出ていないようです。僕からのお願いです、明日には仲直りしてくださいよ」
どうしようと俺の勝手だ。お前に言われてハイそうですかと返答できるわけもない。
「まあ、それより今は、現在に彼女が|影響《えいきょう》を|与《あた》えている現実空間をどうにかすることを考えましょうか」
白々と、古泉は話の|舳先《へさき》を変えた。俺もそれに乗ることにする。
「考えるってもな。何がどうなってこうなっているのか、俺には|解《わか》らんぞ」
「簡単な|理屈《りくつ》です。涼宮さんが何かを思いつくたびに、この現実は|揺《ゆ》らぐのです。今までもそうだったじゃないですか」
俺は灰色の世界で|破壊《はかい》の限りを|尽《つ》くしていた青い|巨人《きょじん》を思い出す。
「涼宮さんが何かを言い出し、我々がそれに対処する。なぜかと言えば、この世界でのそれが我々の役割だからですよ」
赤く光る球体の数々を俺は覚えている。古泉はゆったり歩きながら確信を|込《こ》めたような声で言う。
「我々は涼宮ハルヒのトランキライザー、精神安定|剤《ざい》です」
「そりゃあ……おまえはそうだろうが」
「あなたもですよ」
元・|謎《なぞ》の転校生は崩れない|微笑《びしょう》を作り続けている。
「我々は閉鎖空間が主な作業場ですが、あなたはこの現実世界担当です。あなたが涼宮さんの精神を安静にしてくれていれば、閉鎖空間も生まれませんからね。おかげさまでこの半年、僕のアルバイト出動数も減ってきています。お礼を言っておくべきでしょう」
「言わなくていい」
「そうですか。なら言いません」
坂を下り終えて県道に出る。古泉の|沈黙《ちんもく》もそこまでだった。
「ところでこれから付き合ってもらいたい所があるのですが」
「いやだと言ったら?」
「すぐに着きますし、そこで何をするわけでもありませんよ。もちろん閉鎖空間へのご招待でもありません」
古泉が不意に片手を挙げた。俺たちの真横に|停《と》まったのは、どこかで見たような|黒塗《くろぬ》りのタクシーだった。
「話の続きですがね」
後部座席のシートに背をあずけ、古泉が言っている。俺は運転手の後頭部を|眺《なが》めていた。
「現在、涼宮さんとあなたを取り巻く状況《じょうきよう》はパターン化しています。涼宮さんの気まぐれを、あなたや僕たち団員が具体化して形にするという|枠組《わくぐ》みが出来上がっているのですよ」
「|迷惑《めいわく》だ」
「でしょうね。ですが、このパターン化した現状がいつまで続くかは解りません。同じような事態の繰り返しは、おそらく涼宮さんが|嫌《きら》うものの一つでしょうから」
今は楽しんでいるようですがね、と言って|緊迫《きんぱく》感に欠ける笑顔になった古泉は、
「涼宮さんのハメ外しが映画の内部だけに|留《とど》まるように、何とか努力しなければなりません」
野球選手になるためにはバットの|素振《すぶ》りや走り込みから始めればいいし、|棋士《きし》を目指すなら将棋や|囲碁《いご》のルールを覚えることからスタートすべきだし、期未試験でトップをとるには|徹夜《てつや》で参考書を|睨《にら》む志を持つところから開始すればいいかもしれない。つまり努力するための方法論が人それぞれだろうが存在するわけだ。しかし、ハルヒの脳内|妄想《もうそう》を|削除《さくじょ》するにはいったいどんな努力を|払《はら》えばいいんだ?
やめろと言ったらむくれてクソいまいましい灰色の空間を|増殖《ぞうしょく》させるだろうし、かと言って、このままホイホイと|奴《やつ》の妄想に付き合っていたらその妄想が現実になりそうな気配なのだ。
どっちを取っても|両極端《りょうきょくたん》だな。あいつには|中庸《ちゆうよう》という|概念《がいねん》がないのか。まあ、ないからこそ涼宮ハルヒはまさに涼宮ハルヒ以外の|誰《だれ》でもないわけだが。
車外の風景は|徐々《じょじょ》に緑が多くなってきた。|蛇行《だこう》した山道をタクシーは|駆《か》け上がっている。すぐに解る。昨日はバスで|辿《たど》った山へ続く道だった。
やがて停車したのは、がら空きの|駐車場《ちゅうしゃじょう》。神社の参拝客専用だ。昨日ハルヒが|神主《かんぬし》と|鳩《はと》に|銃口《じゅうこう》を向けるという暴挙をおこなった、あの神社である。おかしいな。日曜の今日なら、もっと人がいてもよさそうなものだが。
タクシーから先に降りていた古泉が、
「涼宮さんの昨日の言葉を覚えていますか?」
あんな|妄言《もうげん》の数々をいちいち覚えていられるか。
「行けば思い出しますよ。どうぞ|境内《けいだい》へ」それから言い足した。「今朝にはもうこの状態だったようですよ」
角石を積み重ねて作られた階段を上がっていく。これも昨日来た道だ。ここを上がると鳥居があって、|本殿《ほんでん》に続く|砂利《じゃり》道があり、そこには|土鳩《どばと》の群れが……。
「………」と俺は沈黙する。
わらわらいたのは確かに鳩だった。移動式|絨毯《じゅうたん》のように地面をつつき回している鳥類の一群。
しかし昨日と同じ鳩たちなのかどうかは自信がない。
なぜなら、一面に広がる鳩連中の羽根が一|羽《わ》残らず真っ白に変わっていたからだった。
「……誰かにペンキでも|塗《ぬ》られたのか」
それもたった一夜で。
「|間違《まちが》いなく、この白い羽根は鳩の|身体《からだ》から生えている彼等自前のものです。染められたのでも|脱色《だっしょく》でもありません」
「昨日のハルヒの|銃撃《じゅうげき》かよほどの|恐怖《きょうふ》だったんだな」
それとも誰かが大量の白鳩を持ってきて、先住の土鳩と入れ|替《か》えたんじゃないのか。
「まさか。誰がそんなことをする必要があります?」
考えてみただけだ。結論はもう俺の中にある。口にしたくないんだよ。
昨日、ハルヒはこんなことを言っていた。
『できれば全部白い鳩にしたいんだけど、この際どんな色でも目をつむるわ』
つむってねえじゃねえか。
「そういうことです。これも涼宮さんの無意識のなせる|業《わざ》でしょう。一日の誤差があったのは幸いですね」
エサをくれるとでも思ったか、ざわめく鳩たちか俺たちの足元に寄ってくる。|他《ほか》に参拝客はいない。
「このようにですね、涼宮さんの暴走は着実に進行中なわけですよ。映画作りの|弊害《へいがい》が、現実世界に押し寄せてきているのです」
朝比奈さんの目から光線やらワイヤーを出させただけでは|充分《じゅうぶん》ではないのか。
「ハルヒを|麻酔銃《ますいじゅう》で撃つとかして文化祭が終わるまで|眠《ねむ》らせておいたらいいんじゃないか?」
俺の提案を、古泉は|苦笑《くしょう》でもって|応《こた》えた。
「できなくはないでしょうが、目覚めてからのアフターフォローをしてくれますか?」
「いいや」
そんなサービスは俺の業務の中に入っていない。古泉は|肩《かた》をすくめた。
「ではどうしましょうね」
「あいつは神様なんだろ。お前ら信者がなんとかしろよ」
わざとらしく古泉は|驚《おどろ》く様子を演じた。
「涼宮さんが神ですって? さて、誰がそんなことを言ったのですか?」
「お前じゃねえか」
「そうでしたね」
こいつこそ、ぶん|殴《なぐ》るべきだろう。
古泉は笑い、お決まりのセリフ、「|冗談《じょうだん》です」と言ってから、
「実際、涼宮さんを『神』と定義しても問題ないだろうとは思いますね。『機関』内の意見は|大勢《たいせい》において彼女を『神』視しています。もちろん反対意見もありまして、個人的には僕も|懐疑論《かいぎろん》者の一派です。と言いますのは、もし彼女が本当に神ならば、その自覚もなしにこの世界の内側に住んでいるわけがないと思えるからです。創造主というモノはどこか遠くの上の方で、我々を|鳥瞰《ちょうかん》しながら|奇蹟《きせき》の数々を自在におこない、我々が|慌《あわ》てふためく様を|冷徹《れいてつ》に観察していることでしょうから」
俺はしゃがみ込んで落ちていた羽毛を拾った。そのままの姿勢で羽根を指先で回す。鳩の動きが大きくなった。すまないな、パン|屑《くず》の用意はないんだ。
「僕はこう考えます」
古泉は一人で|喋《しゃべ》っている。
「涼宮さんは神のごとき能力を誰かから|与《あた》えられ、しかしその自覚は与えられていません。神たる存在がいるのだとしたら、涼宮さんこそがその神に選ばれた|特殊《とくしゅ》な人間ということになります。あくまで人間ですよ」
あいつが人間だろうが人間外だろうが俺には大して思い入れはない。しかし、なんでハルヒにそんな無意識タネ無しマジカルパワーが、鳩を白くしたり出来る能力があるんだ。何のために。誰のために。
「さあねえ。|解《わか》りませんね。あなたには解るんですか?」
こいつは|誰《だれ》にケンカを売っているんだ。
「これは失礼を」と|微笑《ほほえ》みつつ、古泉は言葉を|継《つ》いだ。
「涼宮さんは世界を構築するものであり、同時に|破壊《はかい》するものでもあります。もしかしたら我々のこの現実は失敗作なのかもしれない。その失敗した世界を修正する使命を持った者が、涼宮ハルヒという存在なのかもしれない」
言ってろ。
「となれば、つまり我々が間違っているのです。正しいのは常に涼宮さんで、彼女の|行為《こうい》を|邪魔《じゃま》する我々こそが、この世界の異分子、それどころか涼宮さん以外の全人類が間違っていることになる」
ふーん。それはたいへんだねえー。
「問題は間違った側にいる我々です。世界が正しい世界に再構築されたとき、我々は果たしてその世界の一部になることができるのでしょうか? バグとして|排除《はいじょ》されるのでしょうか? 誰にも解りません」
解らんのなら言うな。しかも解ったような口調でな。
「しかしある意味で、今までの彼女があまり|巧《うま》く世界を構築できていないのも確かです。それはですね、彼女の意識が創造の方向に向いているからですよ。涼宮さんは非常にポジティブな人です。ですが、これが逆方向へ向かえばどうなるでしょう」
|黙《だま》る気はないらしい。あきらめて俺は|訊《き》いてやった。
「どうなるんだ」
「解りません。ですが、何であろうとも|創《つく》るよりは|壊《こわ》すほうが簡単なのです。そんなものは信じないから消え|失《う》せろ、それだけでいいのですよ。そうすれば何だろうと『無い』ことになるでしょう。すべてをキャンセルできてしまいます。たとえどんなに強大な敵が現れようと、涼宮さんはその連中を否定するだけで|消滅《しょうめつ》させることができます。|魔法《まほう》だろうと高度な科学技術だろうと、何が相手でもね」
だがハルヒは否定しないだろう。それはあいつが切に待ち望んでいるものだろうからな。
「それが困りものなんですよね」
古泉は困ってない声で|囁《さきや》くように、
「涼宮さんが神なのか神に似た何かなのかは解りようもないと僕は考えますが、ただ一つ言えることがあります。もし彼女が自由に自分の力を|振《ふ》るって、その結果世界が変化したとしても、変化したことに誰も気付かないだろうということです。これはちょっと|凄《すご》いですよ。なぜなら、その変化は涼宮さん本人でさえ気付きようがないでしょうから」
「なぜだ」
「涼宮さんもまた世界の一部だからです。これは彼女が造物主ではないという|傍証《ぼうしょう》の一つですね。世界を創りたもうた神ならば、世界の外側にいるはずです。しかし彼女は我々と同じ世界で生きている。あげく|半端《はんぱ》な改変しかできないのは不自然、非常におかしな話です」
「俺にはお前のほうがおかしく見えるぜ」
古泉は無視して続きを語る。
「ですが、僕は今まで暮らしてきたこの世界が割と好きなんです。様々な社会的|矛盾《むじゅん》を|秘《ひ》めていたりはしますが、それは人類がいつかどうにか出来ることでしょう。問題なのは、天動説が正解で太陽は地球の周りを回っている、みたいな改変が起きることです。涼宮さんにそんなことを信じ込ませないように、僕たちは何とかしようとしているのです。あなたもそう思ったから|閉鎖《へいさ》空間から|戻《もど》ってきたのでしょう?」
さあ、どうだったかな。忘れちまったよ。思い出したくない過去は|封印《ふういん》することにしているのさ。
古泉は口先だけで笑った。|自嘲《じちょう》のような|笑《え》みだった。
「|柄《がら》にもないこと言ってしまいましたね。まるで自分たちが世界を守っていると|勘違《かんちが》いした正義側人間のような言いぐさでした。これは失礼を」