第三章
土曜。その日。
俺たちは駅前に集合した。家にあった一番でかいリュックにあらゆるものを|詰《つ》め込んで駅まで歩いていった俺を、他の四人が|勢揃《せいぞろ》いして待ち受けていた。
ハルヒがカジュアル、朝比奈さんがフェミニンスタイルで並んでいる姿は遠くからでも目を引く。全然似ていない|姉妹《しまい》みたいな感じ。上級生のはずなのに妹みたいに見える朝比奈さんは、服装だけが少し年上の|装《よそお》いだ。
変人三人に囲まれていた朝比奈さんは、俺を見つけると、|幾分《いくぶん》ホッとしたように|会釈《えしゃく》して小さく手を|振《ふ》ってくれた。うむ。
「おっそいわよ!」
叫んでいるがハルヒは今日も上機嫌だった。こいつが手ぶらなのはメガホンと監督用折りたたみ|椅子《いす》が俺の荷物に|含《ふく》まれているからである。
「まだ九時前だぜ」
俺は|仏頂面《ぶっちょうづら》で言って、|両脇《りょうわき》を見る。長門の|陶磁器《とうじき》顔と、古泉のさわやかスマイル。それにしても学校でもないのに長門が制服なのは|普段《ふだん》と同じだが、古泉までもが制服姿なのはどうしたことだ。
「これが僕の撮影|衣装《いしょう》なんだそうですよ」
と、古泉は答えた。
「昨日そのように言われましてね。役の上では、僕は|一介《いっかい》の高校生に身をやつした|超能力者《ちょうのうりょく》ということになっていますから」
そのまんまじゃねえか。
俺がカメラやら小道具やらでかさばるバッグを降ろして額を|拭《ぬぐ》っていると、ハルヒが遠足前の小学生みたいな|笑顔《えがお》で、
「キョン、あんた一番後に来たから|罰金《ばっきん》ね。でもまだいいわ。これからバスに乗るから。バス代くらいはあたしが出したげる。必要経費ってやつよ。あんたは全員に昼ご飯を|奢《おご》りなさい」
勝手に決めつけ、片手を振りながら、
「さあみんな! バス停はこっちよ! さっさとついてきなさい!」
その|腕《うで》の|腕章《わんしょう》が「超|監督《かんとく》」になっているのを俺は|見逃《みのが》さなかった。ついにハルヒの中では大監督すらも|超越《ちょうえつ》してしまったらしい。よほど|凄《すご》い映画にするつもりなんだろう。重ねて言うが、俺は朝比奈さんのPVを撮っていたほうがよっぽど楽しいのだが。
バスに|揺《ゆ》られて三十分、山の中にある停留所で降りて、それからさらに三十分。俺たちはハイキングコースをえっちらおっちら登っていた。
どこにでもありそうな森林公園だった。生まれも育ちもこの辺で暮らしている俺には昔から|馴染《なじ》みの場所だ。小学生の|頃《ころ》は毎年のように遠足と言えば近場の山登りだったからな。
公園とは名ばかりで、山の中腹にムリヤリ開けた空間を作り適当な|噴水《ふんすい》があるような、何を好きこのんでこんな所まで登らねばならんのだと苦言の一つでも|呈《てい》したくなるほどの、何にも無いところである。喜んでいるのは、まだ|娯楽《ごらく》のなんたるかを知るすべもないガキどもくらい、そのガキどもを連れてきたと|思《おぼ》しき家族連れの姿を何組も見かけることが出来る。
俺たちは噴水を中心とする広場の|片隅《かたすみ》に|陣取《じんど》って、そこを|撮影《さつえい》基地とすることにした。手ぶらのハルヒは元気を有り余らせていたが、俺はすっかりへばっていた。山道の|途中《とちゅう》で古泉に半分くらいの重量を押しつけなければ、マジで行き|倒《だお》れていたかもしれん。俺がワンゲルの装備みたいなバッグに|凭《もた》れてゼイゼイ言ってると、
「あの、飲みます?」
目の前に小さなペットボトルが差し出され、そのボトルは朝比奈さんの手に|握《にぎ》られている。
「あたしの飲みかけでよければ……」
神のウーロン茶だ。おそらく天上の味がするに|違《ちが》いないね。良いも悪いもない。飲まないと|天罰《てんばつ》が下ると言うものだ。俺が遠慮なく受け取ろうとしたとき、邪悪な悪魔の手が天使の腕を|払《はら》いのけた。朝比奈さんからウーロン茶をひったくったハルヒが、
「後にしなさい、後に。みくるちゃん、今はこんな雑用係に水分補給させてる場合じゃないの。急がないと、絶好の天気が|翳《かげ》ってくるかもしれないんだからね。さっさと撮影を始めるわよ」
朝比奈さんは、おっとりと目を丸めた。
「え……? ここ|撮《と》るんですか?」
「当たり前じゃないの。何しに来たと思ってるのよ」
「じゃあ、あたし|着替《きが》えなくていいんですね? ここ、着替える場所ないし……」
「場所ならあるわよ。ほら、周り一面がそうよ」
ハルヒが指でぐるりと示した場所には、緑の木々に囲まれた山並みが整列していた。
「ちょっと奥に行けば|誰《だれ》も来やしないわ。天然の|更衣《こうい》室よ。さ、行きましょ」
「ひひ、ひゃあーっ。た、助け」
助けるヒマもなく、ハルヒは森の奥に朝比奈さんを引きずって消えた。
再登場した朝比奈さんは、撮影コスチュームであるところのピチピチウェイトレス服を|身体《からだ》に|貼《は》りつけ、何だか毛先があちこち飛び跳ねたややこしい|髪型《かみがた》をして|潤《うる》みきった|瞳《ひとみ》を道ばたに生えている秋の花に向けていた。
その片方の目の色が|比喩《ひゆ》ではなく違っている。左目だけが青い。なんだこりゃ。
「カラーコンタクトよ」
ハルヒが解説する。
「左右の目の色が違うっていうのもけっこう重要なのね。ほら、たったこれだけのことでググっと神秘性が増すでしょ。これさえしてれば間違いはないの。記号よ、記号」
背後から朝比奈さんの|顎《あご》をつかんで、小さな顔を|傾《かたむ》けさせる。されるがままの朝比奈さんは|茫洋《ぼうょう》たる目つきである。
「この青い目には秘密があるわけ」とハルヒ。
「そりゃまあ、意味もなく色が違っていても話にならんからな」
今にも|倒《たお》れそうな朝比奈さんの|疲《つか》れた顔だけでもググっとくるけどね。
「それで、どんな秘密があるんだ、そのカラーコンタクトに」
「まだ秘密」
ハルヒはにんまりしながら答え、
「ほら、みくるちゃん。いつまでグンニャリしてんの。しっかりしなさい。あなたは主演なのよ。ブロデューサーと|監督《かんとく》の次に|偉《えら》いのよ。しゃんとするのしゃんと!」
「ふえー」
悲しい声を出して、朝比奈さんはハルヒの命ずるままにポーズを取る。ハルヒは朝比奈さんに|拳銃《けんじゅう》(モデルガンだよ)を握らせ、
「女暗殺者みたいな感じを出しなさい。いかにも未来からきた感じで」
などと無理な注文をつけている。朝比奈さんはおずおずとグロックを構えて、|精《せい》|一杯《いっぱい》の流し目を――カメラだな――にくれた。このいかにも無理してる感が|堪《たま》らなくいいんだ、これが、いやマジで。
それにしても意味もなくアクティビティ|溢《あふ》れる|奴《やつ》だ。|観《み》た映画がつまらんと思うことは俺だってよくあるが、なら自分がやったほうがマシだとばかりに映画を撮ろうなんてことは思いもしないしやり方だって|解《わか》らん。仮に撮ったとして、それが本当にマシなものになるとも思っていない。しかしハルヒは|真剣《しんけん》に自分に監督の才があると思い込んでいるらしい。少なくとも深夜にやってたマイナー映画よりは|素晴《すば》らしいものを作る気でいることは確かだ。その自信は何に裏打ちされているのだろう。
ハルヒは黄色いメガホンを|振《ふ》り回しながら|叫《さけ》んでいる。
「みくるちゃん! もっと照れをなくしなさい! 自分を捨てるのよ! 役にハマってなりきればいいのよっ! 今のあなたは朝比奈みくるじゃなくて朝比奈ミクルなのっ!」
……もちろん、ハルヒの自信が何の裏付けもないのは知れたことだ。|根拠《こんきょ》もなく自信満々で周囲の|秩序《ちつじょ》をカオス化するのが、こいつ、涼宮ハルヒの持って生まれた機能なのだ。でなければ大それた|腕章《わんしょう》なんかつけて偉そばるわけがない。
監督ハルヒの指示の|下《もと》、記念すべきシーン1の|撮影《さつえい》が始まった。
つっても、広場をひたすら走っている朝比奈さんを横から撮っているだけだ。これがオープニングなのだという。せめて|脚本《きゃくほん》でも書いてくるのかと思ったか、ハルヒはそんなもんはないと断言しやがった。
「ヘタに文書にして内容が|漏《も》れるとマズいじゃない」
というのがその理由である。どうやらこの映画は香港形式で進められるようだった。なんかもう、すげーぐったりして来た俺だったがカメラレンズの向こうで二丁拳銃を|握《にぎ》りしめ、女走りで息を切らしている朝比奈さんよりはまだマシかもな。
俺たちが見守る中、朝比奈さんは右に左にふらふらしながら走り続け、テイク5でようやく監督のオッケーが出た|途端《とたん》にへたり込んだ。
「ひい……ひい……」
両手を地面について背中を上下させるウェイトレスを|顧《かえり》みず、ハルヒは|脇《わき》に|控《ひか》える長門に指示を送った。
「じゃ、次は有希とみくるちゃんの|戦闘《せんとう》シーンね」
長門はお気に入りの黒装で、つつつとカメラの前まで移動する。制服の上から暗幕みたいなマントを|被《かぶ》りトンガリ黒|帽子《ぽうし》を頭に|載《の》せるだけだから、朝比奈さんのように|茂《しげ》みに連れ込まれることがなかったのは幸いなことだった。もっとも長門ならどこでも平気な顔で|着替《きが》えの一つぐらいしそうではある。配役を|交換《こうかん》してみてはどうかな。長門がウェイトレスで、朝比奈さんが|魔法使《まほうつか》い。どっちも不思議と似合いそうだぞ。
ハルヒは朝比奈さんと長門を三メートルくらい|離《はな》れて向かい合わせに立たせ、
「みくるちゃん、有希を思うさま|撃《う》ちなさい」
「えっ」と朝比奈さん。走ったおかげで乱れた|後《おく》れ毛を揺らしながら、「でも、これ人を撃っちゃダメなんじゃ……」
「だいじょうぶよ。みくるちゃんの|腕《うで》じゃどうせ当たるわけないし、仮に当たりそうでも有希なら|避《よ》けるわ」
長門は|黙《だま》ったまま、星付きアンテナをじっと持って立っていた。
それはまあ、俺だってそう思う。長門なら|銃口《じゅうこう》を額に押し当てられた状態で引き金を引いても|素《す》で避けそうだ。
「あの……」
|恐《こわ》い料理長に割った皿の報告をする新米メイドのような顔で、朝比奈さんは長門をこわごわと見上げる。
「いい」と長門は|応《こた》えた。そしてアンテナをくるりと回し、「撃って」
「ほら、いいって。じゃんじゃか撃ちなさい。言っとくけど同時に撃つんじゃなくて|交互《こうご》に撃つのよ。それが二丁|拳銃《けんじゅう》の基本だから」
古泉がレフ板を頭上に構えている。ハルヒがどこからかは知らないが持ってきたのだ。|今頃《いまごろ》写真部あたりが|盗難《とうなん》届を出しているかもしれない。しかし古泉、お前主役じゃなかったのか?
「|環境《かんきょう》には臨機応変に適合しませんとね。僕は撮影される側にいるより、こっちのほうが|性分《しょうぶん》に合っているんですよ。このまま裏方になれないものかと、昨日から考えているんですが……」
「えいっ」
朝比奈さんは重そうにモデルガンを構え、目をつむって連射した。その様子を俺が横から撮影する。BB|弾《だん》の|軌跡《きせき》はよく見えなかったが、長門が表情一つ変えずに|突《つ》っ立っているところを見ると、本当にまったく命中していないようだった。魔法で避けているからか……と思い始めた頃に、長門はゆっくりと指し棒をあげ、顔の前でちょろりと振った。こつんと音がして地面に|弾《たま》が転がり落ちる。|眼鏡《めがね》なしになったのに|凄《すご》い視力も相変わらずだな。
長門は|瞬《まばた》きしないで銃口を見ている。いつもだってあんまりしないが、それだって「たまには瞬かないと不自然だから」と言いたげな瞬きで、そっちのほうがよほど不自然である。|瞳孔《どうこう》開きっぱなしで歩こうが天上をぶち破ろうが|瞬間《しゅんかん》移動しようが、もう俺はちっとも|驚《おどろ》きやしないだろう。だから今も驚いていない。
長門は|壊《こわ》れたワイパーみたいな動きで、たまに指し棒を振り、その|度《たび》にBB弾がパラ……バラ……と落っこちた。
それにしても単調な戦闘シーンだ。長門は棒しか動かさないし、朝比奈さんは二丁のグロックだかベレッタだかをぷしゅぷしゅ撃っているだけだし、しかも当たってないし、だいたいハルヒは「思うさま撃て」と言っただけでセリフを教えていない。聞こえてくるセリフは朝比奈さんの「ひっ、ほわっ、こわっ」という小さな|嬌声《きょうせい》だけである。
なんだか、|闘《たたか》いの前にお|互《たが》い|致命傷《ちめいしょう》は|避《さ》けようぜと打ち合わせておいたハブとマングースのようなやる気のないバトルシーンだった。
「うん、まあこんなもんかしら」
朝比奈さんの拳銃が弾切れになったところで、ハルヒがメガホンで|肩《かた》たたき。俺はハンディビデオを降ろして、ディレクターズチェアの上に|胡座《あぐら》をかいているハルヒに近寄った。
「おいハルヒ。これのどこが映画だ。何の話なんだかさっぱり|解《わか》らねえぞ」
涼宮|超監督《ちょうかんとく》はチラリと俺を見上げ、
「いいの。どうせ編集段階で切ったり|繋《つな》げたりするつもりだし」
|誰《だれ》がするんだ、その切ったり繋げたりをさ。俺の役職の所に「編集」とか書いてあったような気もするが。
「せめてセリフだけでも入れろよ」
「いざとなれば音声は消してアフレコするわ。効果音とかBGMも入れないといけないしね。今は深く考えなくていいのっ!」
考えようにも、ストーリーがお前の頭の中にしかないんだから俺たちが考えることなど何もない。せめて俺は朝比奈さんに対するハルヒのセクハラを最小限にするべく注意するくらいだった。俺以外の男のボディタッチ厳禁。それが俺の基準である。文句はないよな?
「それじゃ次のシーンね! 今度は有希の|反撃《はんげき》よ。有希、魔法を使ってみくるちゃんをいてこましちゃいなさい!」
長門は黒帽子のひさしの|影《かげ》の中から、|衣装《いしょう》より黒い|瞳《ひとみ》を俺に向けた。俺にしか解らないような角度で首を|傾《かたむ》げる。なんとなく伝わった。長門は「いいの?」と|訊《き》いているようだ。
もちろん答えは「ノー!」だ。魔法はともかく、朝比奈さんを痛めつけるようなことは許可できないね。ほら、朝比奈さんが青くなってぶるぶる|震《ふる》えているじゃないか。
当然ハルヒは長門が不可解なタネ無しマジックを使えるとは知らない。こいつが言ってるのは、あたかも魔法を使っているような演技をしろということだろう。
長門もちゃんとわきまえてくれたようで、「………」と無言をセリフとしながら、アンテナ棒を持ち上げてユラーリユラリと、まるでコンサートで観客がサイリウムを振るみたいな動作をおこなう。
「まあ、いいわ」とハルヒ。「このシーンにはVFXを使うから。キョン、あとで有希の棒から光線が出てる感じでお願いね」
どうやったらそんなビジュアルエフェクトがかませるのか、俺にそんな技術はないぞ。ILMから社員と機材を借りてくる予定があるなら別だが。
「みくるちゃんはそこで悲鳴! そして苦しそうにぶっ|倒《たお》れなさい」
しばらくオロオロしていた朝比奈さんは、「……きゃ」と|呟《つぶや》くように言ってパタリコと前向きに倒れた。両手を投げ出して倒れ|伏《ふ》す朝比奈さんの|傍《かたわ》らで、その|魂《たましい》を入手したばかりの死神のような長門が立っている光景。それを|撮影《さつえい》する俺に、俺の横でいつまでもレフ板上げっぱなしの古泉。
そろそろ周りの家族連れの視線が痛くなってきた。
|慈悲《じひ》深くも、しばしの|休憩《きゅうけい》時間をハルヒが|与《あた》えてくれたため、俺たちは車座で地面に座り込んでいた。
ハルヒは俺が|撮《と》った映像を|繰《く》り返し再生しては、もっともらしい顔でうーんとか|唸《うな》っている。
朝比奈さんと長門の間には、ちょこちょこと寄ってきた子供が数名いて、「これ何のテレビ?」とか訊いていた。朝比奈さんは弱々しく|微笑《ほほえ》むだけで首を振り、長門は完全に無視して大地と一体化していた。
いったい自分の撮っている映像が何のシーンなのかハルヒが明かさないものだから全然解らんのだが、次に超監督は近くの神社に行こうと言い出した。もう休憩終わりか。
「|鳩《はと》がいるの」
なのだそうだ。
「鳩がバサバサ飛び立つのを背景に歩いているみくるちゃんを撮るのよ! できれば全部白い鳩にしたいんだけど、この際どんな色でも目をつむるわ」
|土鳩《どばと》しかいないと思うけどな。すでにヨレヨレになっている朝比奈さんの|腕《うで》に自分の腕を|絡《から》め(逃げないようにだろう)、ハルヒは森林公園内を横断して県道に向かうようだ。俺は古泉と機材を分け合い、ジャングルの取材に|訪《おとず》れた撮影スタッフの現地人シェルパみたいな|面持《おもも》ちで後をつけて、着いたところが山の中のでっかい神社だった。久しぶりに来たなあ。それこそ小学生時の遠足以来だ。
|境内《けいだい》の「エサやり禁止」という看板の前で、ハルヒは|枯《か》れ木に花を|咲《さ》かそうとするがごとく堂々とパン|屑《くず》をまいていた。日本語が読めないとしか思えない。
たちまち地面を|埋《う》め|尽《つ》くす勢いで鳩の群れが押し寄せ、後を絶つことなく空から|舞《ま》い降りてくる。鳩色になった神社の境内は、よく見るまでもなくかなり不気味だ。その鳩のカーペットの中に朝比奈さんが一人で立たされている。足元をつつき回されて|唇《くちびる》を震わせるウェイトレス。その姿を俺が正面から撮っていた。何やってんだ、俺。
画面の外ではハルヒが朝比奈さんから取り上げたイーグルだかトカレフだかの|拳銃《けんじゅう》を|携《たずさ》え、すちゃっとセイフティを解除した。何をするのかと思っていたら、いきなり朝比奈さんの足元に向かって|射撃《しゃげき》、
「ひえええっ!」
鳩に|豆鉄砲《まめでっぽう》を|喰《く》らわす|絵面《えづら》がリアルで拝めるとは思わなかった。動物愛護協会がすっ飛んできそうな|蛮行《ばんこう》に、平和の|象徴《しょうちょう》たちは|一斉《いっせい》にグルッポとか鳴きながら舞い上がる。
「これよ! この絵が欲しかったのよね。キョン、ちゃんと撮ってなさいよ!」
一応カメラは回っているから撮れているだろ。右往左往して飛び回る鳩の|渦《うず》の中央で、朝比奈さんは頭を|抱《かか》えてしゃがみ込んでいる。
「みくるちゃんコラーっ! 何座ってんの!? あなたは飛んでる鳩をバックにゆっくりとこっちに歩いてくるのよ! 立ちなさあい!」
そんなシーンを|悠長《ゆうちょう》に撮っている場合ではなさそうだ。俺が|覗《のぞ》いているファインダーの|最奥《さいおう》から、動物愛護協会の代わりに神社の|神主《かんぬし》らしきジーサンがすっ飛んできたからである。|袴《はかま》姿だから神主の関係者で合ってると思う。俺が説教の一つでも|覚悟《かくご》していると、ハルヒは|躊躇《ためら》うことなく最終手段に出た。
手にしていたCZだかSIGだかいうモデルガンを、そのジーサンに向けて|撃《う》ち始めたのである。|灼《や》けた鉄板に立たされたような|踊《おど》りを見せる神主(多分)。シルバーサービス|振興《しんこう》会から|抗議《こうぎ》が来そうな|振《ふ》る舞いだった。
「|撤収《てっしゅう》ーっ!」
やおら叫んだハルヒは、身を|翻《ひるがえ》して走り出した。いつ移動したのか、長門はとっくに遠く|離《はな》れた鳥居の下で俺たちを待っている。|放《ほう》っておけば逃げ|遅《おく》れそうな朝比奈さんを、俺と古泉が|両脇《りょうわき》から抱えて荷物と|一緒《いっしよ》に持ち上げた。
|監督《かんとく》が逃げ出したんだ。主演女優をスケープゴートにするわけにはいかんだろ。
十分後、俺たちは道沿いにあったドライブインみたいな食事|処《どころ》の一角にいた。俺がなぜか|奢《おご》ることになっている昼飯である。
「|惜《お》しいことをしたかもしんないわね。あの老神主を敵役にしてボコったほうがアドリブとしてはよかったんじゃないかしら」
ハルヒが犯罪ギリギリなことをほざいている。
朝比奈さんはざる|蕎麦《そば》を三本ほど|啜《すす》った後、テーブルに|突《つ》っ|伏《ぷ》していた。
「みくるちゃん。あなた小食ねえ。そんなんじゃ大きくなれないわよ。胸ばっかり育ってもコアなマニアに喜ばれるだけよ。ちゃんと背も|伸《の》ばさないと」
言いつつ、ハルヒは朝比奈さんの蕎麦を横取りしてずるずると喰っていた。
俺は知っている。あと何年後かは知らないが、朝比奈さんは顔もボディもミス太陽系代表に選出されるくらいの成長を|遂《と》げるのだ。本人も知らないみたいだけどね。
古泉はずっと|苦笑《くしょう》していた。長門は|黙々《もくもく》とミックスサンドを口に運んで|頬《ほお》を|膨《ふく》らませている。
俺は喰い終えたミートソースの皿を|脇《わき》に押しやって、二人前の昼食を平らげているハルヒに言った。
「あの神主が学校に苦情でも入れたらどうするつもりだ。古泉の制服で、俺たちの正体はバレバレだぞ」
「だいじょうぶじゃないかしら」
ハルヒはどこまでも楽観的である。
「|距離《きょり》あったし、よくあるブレザーだし、何か言われてもトボケときゃいいのよ。他人の空似よ。BB|弾《だん》だけじゃ|証拠《しょうこ》になんないわ」
俺は証拠の|詰《つ》まっているビデオカメラを見た。この映像を上映なんかしたら一発でネタバレすると思うのだが。神社まで来て鳩に囲まれているウェイトレスがこの|近隣《きんりん》に二人以上もいるとは思えない。
「それで、次はどこに行くんだ?」
「もう一度公園の広場に|戻《もど》りましょ。よく考えたらあれだけじゃ|戦闘《せんとう》になってないわ。観客のハートを|鷲《わし》づかみにするには、もっと激しいアクションが必要ね。うん、イメージが|湧《わ》いてきたわ。森の中を必死に|逃《に》げるみくるちゃんと、それを追う有希。そしてみくるちゃんは|崖《がけ》から落ちてしまうの。そこにたまたま通りがかった古泉くんが助けるっていう展開はどうかしら」
行き当たりばったりの展開だな。こんな山の中をたまたま通りかかる制服姿の男子高校生ってのは何者だ。それだけで|怪《あや》しすぎるぞ。それにハルヒのことだから本当に朝比奈さんを崖から突き落とすかもしれない。つーかハルヒ、お前が落ちろ。朝比奈さんのスタントとしてこの|衣装《いしょう》を着込め。まあ、少し胸が足りないかもしれないが……。
そんなことを考えている俺を、ハルヒは|眉《まゆ》を|吊《つ》り上げて流し目での|一睨《ひとにら》み。
「あんたなんか想像してる? まさかあたしのウェイトレス姿を|妄想《もうそう》してるんじゃないでしょうね」
実に的確に言い当てて、
「あたしは監督なんだからね。そんな|嬉《うれ》しがって表に出たりはしないのよ。二|匹《ひき》のウサギを追いかけていたら切り株につまずいてコケるだけなの」
おまえはブロデューサーも|兼《か》ねてるんじゃなかったっけ。
「裏方スタッフは何役兼ねてもいいのよ。でもまあ、カメオ出演みたいに|一瞬《いっしゅん》だけチラッと映るのはいいかもね。お遊びも入れといたほうがマニア心をくすぐるから」
どこのマニアが対象になっているんだろう。朝比奈さんマニアか? 今までのところ朝比奈みくるコスチュームプレイ集にしかなってねえぞ。……考えてみれば、それで|充分《じゅうぶん》だが。
古泉はホットオーレを|優雅《ゆうが》な仕草でテーブルに戻し、
「登場人物は僕たち三人だけなのですか?」
ばか、余計なことを|訊《き》くな。
「そうねえ……」
ハルヒは口をアヒルにして考え込むふうである。それくらいあらかじめ考えておけ。
「やっぱり三人だけじゃ少ないかしら。うん、少ないわね。脇が光ってこそ主役も生きるというものだわ。古泉くん、いいことを気付かせてくれたわ。お礼に出番を増やしてあげる」
「それは……どうも」
古泉は|笑《え》みを|浮《う》かべたまま、しまった、と言いたげな顔になった。ざまを見るがいい。俺なんか|藪《やぶ》をつつけばマムシが出てくると知ってるから何も言わないのだ。
しかしどこから新たな登場人物を連れて来るつもりだろう。こいつがアトランダムに連れて来る人間は、七十五%の確率で変態的な裏設定を持っていることになっている。順番から言えば今度は異世界人が来そうだ。そして俺はそんな|奴《やつ》にこの世に来て欲しくないと考えてもいる。
「ボスを|倒《たお》す前にはザコをたくさんとっちめないといけないのよね。ザコ、ザコ……」
唇《くちびる》の下に指を当てるハルヒは俺をチラリ見する。
「あいつらでいいだろ」
俺もハルヒの考えを読み取った。谷口と国木田。連れて来てももうまったくどうでもいい奴と言えば、あの二人くらいだ。完全な|脇役《わきやく》以下、ザコ中のザコキャラである。単独で出現したホイミスライムより無害であるのは|間違《まちが》いない。
「それでいいわ」
もう一人くらい欲しそうな|監督《かんとく》の顔から目を|逸《そ》らし、俺はテーブルにほっぺたをつけて目を閉じる朝比奈さんを|盗《ぬす》み見た。やっぱり|寝顔《ねがお》も|可愛《かわい》いね。寝たフリもな。
俺はソーダ水をちゅうちゅう吸っている長門の死神衣装に目を|遣《や》って、その無感動ぶりを心ゆくまで|鑑賞《かんしょう》してから、
「で、次は? 何を|撮《と》るんだ?」
ハルヒは|蕎麦湯《そばゆ》をどぼどぼ|注《つ》ぎ、それをすっかり飲み干すまでの時間を|稼《かせ》いだ。それから、
「とにかくみくるちゃんにはヒドイ目にあってもらうとするわ。|可哀想《かわいそう》な少女がとことん|酷《ひど》いコトされて、最後に逆転ハッピーになるってのが、この映画のテーマだから。みくるちゃんが不幸になればなるほどラストのカタルシスも。パーンと|弾《はじ》けるってものよ。安心して、みくるちゃん。これはハッピーエンドだからね」
ハッピーなのは最後だけだろうな。その間、朝比奈さんはひたすらハルヒ監督の|暴虐《ぼうぎゃく》にさらされるというわけだ。さて、どんなシナリオをハルヒは用意してるんだろう。ブレーキ役は俺だけみたいだし、ここは一つ注意して見守らないとな。ところでカタルシスって何だ?
朝比奈さんは、閉じていた|目蓋《まぶた》を半分だけ開けて、俺のほうを救いを求めるような目で見つめてくれた。左目だけが|碧眼《へきがん》のヘテロクロミア。が、すぐに|薄《うす》い|吐息《といき》をして、ゆるゆると閉じる。なんですか、俺が|頼《たよ》りになりそうにないっていう意思表示ですか。
古泉と長門が何の|防波堤《ぼうはてい》にもなりそうにない現在、俺だけですよ、あなたの味方は。
もっとも、俺が何かしようとしてもハルヒを押し|留《とど》めることのできた|例《ためし》もまた、この半年間皆無だったけどさ。俺の|騎士道《きしどう》精神的意気込みだけでもくみ取って欲しいね。風車に|槍《やり》を投げてるような|虚《むな》しさを感じないでもないけど。
正直言うと、別に止めることはないと思っていた。半年前、俺はハルヒを|羽交《はが》い|締《じ》めにしてでもSOS団創設を断念させるべきだったと考えたのだが、そんなもんは結果論で、俺がボヤボヤしているうちにハルヒは部室と団員を用意してしまい、なし|崩《くず》し的に俺も団員その一にされていた……ってのが現実的な結果だ。
しかし、もし俺がこの女の後頭部を背後から|棍棒《こんぼう》で|殴《なぐ》るなり|闇討《やみう》ちするなり不意打ちするなりして制止できていたら、朝比奈さんや長門や古泉たちと出会わずにすんだかもしれない。あるいは、もっと別の形で出会えたかもしれない。つまり宇宙人だとか未来人だとかいうような信じがたい設定を知らされることなく、|普通《ふつう》の同級生とか上級生とか赤の他人とかで|廊下《ろうか》をすれ違うだけだったかもしれない。
どっちがよかった? などと訊くなよ。俺はすでに団員三人の白己PRを聞いちまったし、長門の変な力やもう一人の朝比奈さんや赤玉になる古泉を|目撃《もくげき》しているんだからな。たぶんどっかのパラレルワールドに行けば、ハルヒや以下の三人と会話一つしたことのない俺がいるだろうから、そいつに訊けばいいことさ。俺は知らねえ。
知らねえと言っていられないのは、この俺の今の状態だ。映画作り。うむ。適度に文化祭っぽい展開だ。何もおかしくはないだろう。おかしいのはハルヒの頭の中くらいだが、それはとっくに|解《わか》りきったことなので|今更《いさら》|誰《だれ》も|驚《おどろ》かない。いきなり映画を作ると言い出したところで、こいつがアホなことを言い出すのも今更なので俺にしてみれぱ定期的なルーチンワークだ。適当にやってりゃ何とかなるだろ――。
と、そう考えた。だから映画|撮影《さつえい》を止めることもしなかった。監督でも何でも好きなことをやれ。好きなだけ周囲を|振《ふ》り回してくれ。それでお前の気が晴れるなら、俺も内心のため息を押し殺して付き合ってやるさ。お前と二人っきりで得体の知れん空間に閉じこめられるのは|金輸際《こんりんざい》願い下げだからな。
張り切るハルヒとヨレた朝比奈さんと微笑み古泉と仮面みたいな長門の無表情を眺めながら、俺はそう思っていたのだ。
止めときゃよかったと|後悔《こうかい》する時が来るとも知らずに。
俺たちはまた森林公園広場に|舞《ま》い|戻《もど》った。なんとかならないのか、この段取りの悪さは。神社に行く前にまとめて撮っておけよ。|脚本《きゃくほん》がハルヒの頭にしかないのがそもそもの問題だ。やっぱり文書化は大切だよな。文字情報|偉大《いだい》なり。
「やっぱ|銃《じゅう》はやめにするわ。もっと凄い弾が出ると思ってたのに、ハデな|炎《ほのお》も音もないし臨場感がないもの。あんまり効いてる気がしないのよ。レプリカだとダメね」
ヤマツチモデルショップの赤字経営を後押しするようなことを言いつつ、ハルヒは|運動靴《うんどうぐつ》の|爪先《つまさき》で地面に二つのペケマークを書いていた。朝比奈さんと長門の立ち位置を。バミっているらしい。
「みくるちゃんはこっち、有希はここ」
「ふみゅう」
朝からハルヒに引っ張り回されている朝比奈さんは、すでに一日分のカロリーを全消費したようなおぼつかない|脚《あし》の動きで|抵抗《ていこう》の余地もなく、エロいウェイトレス姿でウロツキまわる精神的|疲労《ひろう》度がよほどキているらしい。|羞恥《しゅうち》の思いを|超《こ》えて幼児退行化しているのかと思うくらいのお人形さんぶりだった。
長門は元からの人形ぶりで、|黙々《もくもく》とバミり位置に移動して黙々と立ちつくす。黒マントが|吹《ふ》き下ろしの山風にそよそよとなびいている。
ハルヒは朝比奈さんからもぎ取ったモデルガンを指先でくるくる回しながら、
「この位置を動かないでね。向かい合って|睨《にら》み合っているシーンを撮りたいから。古泉くん、レフ板用意して」
それからディレクターズチェアに戻ってきたハルヒは、銃を天に向けてぶしゅんとぶっぱなして、
「アクション!」
と|叫《さけ》んだ。
俺は|慌《あわ》ててカメラを構えたが、もっと慌てたのは朝比奈さんだろう。アクションて。ハルヒは立ってろとしか言っていないぞ。どんなアクションをせよと言うのか。
「………」
長門と朝比奈さんは無言で相手の顔色をうかがい合っている。
「あの……」
先に朝比奈さんが視線を|逸《そ》らす。
「………」
長門はじっと朝比奈さんを見つめ続けている。
「………」
朝比奈さんも|沈黙《ちんもく》する。
そのまま、そよそよと風が吹いているだけのお見合い場面が延々と続けられた。
「もう!」
ハルヒがなぜかキレた。
「そんなんじゃバトルにならないでしょー」
立ってるだけだからな。
|拳銃《けんじゅう》からメガホンに持ちかえたハルヒは、つかつかと朝比奈さんに近寄ると、自分が|結《ゆ》った|柔《やわ》らかそうな|栗色《くりいろ》の|髪《かみ》をぽこんと|叩《たた》いた。
「みくるちゃん、いい? あのね、いくら|可愛《かわい》いからってそんだけで安心してちゃダメよ。可愛いだけの女の子なんて|他《ほか》にも|腐《くさ》るほどいるのよ? |安穏《あんのん》としてたらすぐに下から若いのがどんどん出てきて追い|越《こ》されちゃうの」
何が言いたいんだ?
頭を押さえる朝比奈さんに、ハルヒは言い聞かせるように言った。
「だからね、みくるちゃん。目からビームくらい出しなさい!」
「ふえっ!?」
朝比奈さんは驚きに目を見開いて、
「無理ですっ!」
「その|色違《いろちが》いの左目はこのためのものなのよ。無意味に青くしてるんじゃないのよ。凄い力を|秘《ひ》めているっていう設定なの。つまりそれがビームなの。ミクルビームよ。それを出すの」
「で、出ませんっ!」
「気合いで出せ!」
|及《およ》び|腰《ごし》になる朝比奈さんにヘッドロックをかまし、ハルヒは黄色メガホンで|旋毛《つむじ》をぽこぽこ叩いている。
いたいいたいと泣き声を上げる朝比奈さんがあんまりにもあんまりだ。俺は、レフ板を置いて|面白《おもしろ》そうにその光景を|眺《なが》めている古泉にカメラを|渡《わた》し、ハルヒの首根っこをつかんだ。
「やめろ、バカ」
|小柄《こがら》なウェイトレスから|暴虐超監督《ぼうぎゃくちょうかんとく》を引きはがす。
「まともな人間が目からビームなんか出すかい。アホか」
両手で頭を押さえている朝比奈さんを見ろ、|可哀想《かわいそう》に|涙《なみだ》ぐんでいるじゃないか。その通り、つぶらな|瞳《ひとみ》から出るものと言えば|真珠《しんじゅ》の涙くらいなのだ。
「ふん」
|襟首《えりくび》をつかまれたまま、ハルヒは横を向いて鼻を鳴らす。
「|解《わか》ってるわよ、それくらい」
俺は手を|離《はな》す。ハルヒはメガホンで首筋を叩きながら、
「ビーム出すくらいの気合いを入れろって言いたかっただけよ。主演とは思えない|覇気《はき》のなさだったから。あんたも|冗談《じょうだん》の解らない|奴《やつ》ね」
お前の冗談は冗談にならないから困るんだ。朝比奈さんに本当にビーム発射機能があったらどうするんだ。
……ありませんよね?
不安になって朝比奈さんに流し目を向ける。朝比奈さんはオッドアイみないな涙目で、きょとんと俺を見上げた。パチパチ|瞬《まばた》きして小首を|傾《かし》げる。どうも俺のアイコンタクトは朝比奈さんには通用しないみたいだな。と思っていると、古泉がしゃしゃり出てきてハルヒに|諫言《かんげん》した。
「そのへんは撮った後でCG処理するなりして何とかできるでしょう」
ティッシュの箱を手にした古泉は親切めかした|詐欺師《さぎし》的|笑《え》みを|浮《う》かべ、それを朝比奈さんに|手渡《てわた》して、
「涼宮さんも最初からそのつもりだったのではないですか?」
「そのつもりだったわ」とハルヒ。
|怪《あや》しいもんだ、と思う俺。
朝比奈さんはティッシュペーパーで涙を|拭《ぬぐ》い、ちんと鼻をかんでから、挙動|不審《ふしん》な仕草でハルヒを見たり俺を見たり。
長門は目立ちすぎの|黒子《くろこ》みたいな|恰好《かっこう》で|黙《だま》ったまま風にそよがれている。早く|陽《ひ》が暮れないもんかな。光量不足につき|撮影《さつえい》続行不可になる時間が待ち遠しいね。
「今のはNG、もっぺん|撮《と》り直し」
ハルヒが言って、朝比奈さんと決めポーズの打ち合わせを始めた。
「ミクルビームっ! って|叫《さけ》びながら手をこうするの」
「ここ、こうですか……?」
「違う、こうよ! それから右目は閉じといて」
左手で作ったVサインを左目の横に置いてウインクすると目からビームが出る仕組みらしい。
「みくるちゃん、言ってみて」
「……ミミミ、ミクルビームっ」
「もっと大きな声で!」
「ミクルビームっ!」
「照れずに大声でっ!」
「ひ……ミクルビー……ムっ!」
「腹から声を出せっ!」
何のコントだ。
真っ赤になって|絶叫《ぜつきょう》する朝比奈さんに腹式発声を|強《し》いるハルヒ。広場をちょろついていたヒマなガキどもや家族連れたちの目が痛い。見せ物ではないと言いたいところだが、俺たちの|撮《と》っているのは映画らしいのでまさしく見せ物だ。このメイキングシーンを撮っておくだけでいいんじゃないかね。ハルヒ式ハッピーストーリーがどれほどのものかは知らんが、朝比奈みくるプロモとしてはもう|充分《じゅうぶん》すぎるほどだぞ。
やがて朝比奈さんと長門はさっきのバッテンマークの上に立ち、古泉は|脇《わき》でレフ板を持ってバンザイ続行、その横でハルヒがふんぞり返り、俺は長門の背後に回って黒い背中から二メートルくらい離れ、その|肩越《かたご》しに朝比奈さんを撮ることになった。これもハルヒ指示によるカメラアングルだ。
|突然《とつぜん》の変化はこの直後に起こった。
「はい、そこでビーム!」
ハルヒのかけ声に、朝比奈さんは自信なさそうにポーズを取った。
「みっ……ミクルビーム!」
ムリヤリなカメラ目線でヤケ気味のファルセット、|可愛《かわい》く叫んでへたっぴなウインク。
その|瞬間《しゅんかん》、俺の|覗《のぞ》いているカメラのファインダーが突然真っ暗になった。
「あ?」
何が起こったのか理解が追いつかなかった。カメラの故障かと思ったほどだ。俺はハンディビデオを目から外して、目の前に立つ|不吉《ふきつ》な|衣装《いしょう》のトンガリ|帽子《ぼうし》を見た。
「………」
長門が俺の目前で|握《にぎ》り|拳《こぶし》を作っている。レンズを|覆《おお》って暗くしたのは長門の右手だ。
「え?」とハルヒも口を開け放している。
ハルヒの|描《か》いた×マークは俺の二メートルほど前方にある。ついさっきまで確かに長門はそこに立っていた。ハルヒのアクションコールで朝比奈さんが声を上げた時、ビデオカメラには長門の黒い後ろ姿もちゃんと写っていた。それから一秒もしないうちにななぜか長門は、俺の顔の前で何かを握るように|片腕《かたうで》を上げて静止している。ワープしたとしか説明できない。
「あれっ」とハルヒも言った。「有希、いつの間にそんな所にいるの?」
長門は答えず、ビー玉みたいな|瞳《ひとみ》を朝比奈さんに向けていた。その朝比奈さんも目を見開いて|驚愕《きょうがく》の表情、そしてゆっくりと瞬きを――。
再び長門の手が光速くらいのスピードで動いた。まるで飛んでいる|蚊《か》を|捕《つか》まえるように空中をつかむ。持っていたはずの星付きアンテナ棒はどこだ?
ん? 今なんか|微《かす》かに変な音がしたぞ。火の|点《つ》いたマッチをどぶ川に落としたような、そんな音だ。
「えっ……?」
|戸惑《とまど》っているような声を出したのは朝比奈さんだ。|状況《じょうきょう》が|解《わか》らないのだろう。俺だって解らない。長門はいったい何をしているんだ?
朝比奈さんは救いを求めるように、視線を横に向け――不自然な音が古泉のほうから|響《ひび》いた。
聞き|違《ちが》いを疑いようのない、パンクしたタイヤから空気の|抜《ぬ》けるような……。
古泉が頭の上で持っていたレフ板――|発泡《はっぽう》スチロールの板に白い厚紙を張っただけのチープなシロモノだ――が、|斜《なな》めに切断されていた。|珍《めずら》しく絶句する古泉が、ぽろりと落下するレフ板の上辺を|眺《なが》めて|茫然《ぼうおん》としている。だが、そんな貴重な光景をゆっくり眺めている|余裕《よゆう》は、俺にもなかった。
長門が動いていた。長門だけが。
黒い|影《かげ》が地を|蹴《け》って、ふわりと|舞《ま》い降りた先は朝比奈さんのすぐ前だ。長門はマントの下から|伸《の》ばした右手で、朝比奈さんの顔面を|鷲《わし》づかみにした。細っこい指が朝比奈さんの目を覆うように、こめかみに指をめり込ませている。
「あぎゃっ……ななな長門さ……!」
構わず長門は大外がりをかけて主演ウェイトレスを地面に押し|倒《たお》した。豊かな胸の上に馬乗りになる死神装束。朝比奈さんは悲鳴を上げて、アイアンクローをかけている長門の細腕を握りかえした。
「ひえええっ!」
やっと俺は我に返った。なんだなんだ? 長門が瞬間移動して|撮影《さつえい》を|妨害《ぼうがい》したかと思うと、古泉のレフ板が二つに割れ、宇宙人が未来人に|襲《おそ》いかかっている。ハルヒはいつの間にこんな演出を二人に伝えた――わけでもなさそうだ。|監督《かんとく》も俺と古泉と|一緒《いっしよ》になって|唖然《あぜん》としていたからだ。それは二人の演技があまりに真に|迫《せま》っていたからではないだろう。
「……カットカット!」
ハルヒは|腰《こし》を|浮《う》かしてメガホンを|椅子《いす》に|叩《たた》きつけた。
「ちょっと、有希、何してんの? そんなの予定にないわよ」
白い太ももの大半を|露《あら》わにしてバタついている朝比奈さんの上で、長門は|黙々《もくもく》として乗っかって顔をつかんだままだ。
小声で|呟《つぶや》くような声を聞いて俺がそっちを向くと、古泉がレフ板の切り口を見つめて|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めていた。その目が俺に気付いて、|奇妙《きみょう》な目配せをしやがった。何の|真似《まね》だ、それは。
いや、古泉の意味ありげな目線などどうでもいい。今はなぜか総合|格闘技《かくとうぎ》を始めた長門をなんとかしないと。俺はカメラを|携《たずさ》えて組んず|解《ほぐ》れつしているウェイトレスと黒ずくめの|魔法使《まほうつか》いに|駆《か》け寄った。
「何をやってるんだ、おい長門」
|鍔広《つばひろ》帽子がゆっくりとこちらを向いた。長門のブラックホールみたいに黒い瞳が俺を見上げ、小さな唇が開きかけ、
「………」
何か言うのかという俺の期待は|封《ふう》じられた。長門は話す内容にふさわしい言語がないとでも言うような顔で無言のままに唇を|閉《と》ざし、ゆるゆるとマウントポジションを解いて立ち上がった。黒マントの|右肩《みぎかた》が動き、|衣装《いしょう》の下に手が引っ込む。
「ひぃ……ひぇぇ……」
ひたすら|脅《おび》えているのは|仰向《あおむ》けに転がっている朝比奈さんだ。そりゃ|恐《こわ》いと思うね。長門が例の無表情で迫ってきて、地面に引き倒されたら俺だってビビる。なんせ長門の今の|恰好《かっこう》はあまり夜道の曲がり角とかで|鉢合《はちあ》わせしたくない黒魔道士だ。気の弱い|幼稚園児《ようちえんじ》なら失禁は|免《まぬが》れそうにない。
「………」
ぶかぶかのトンガリ|帽子《ぼうし》を|目深《まぶか》にかぶった長門は|微動《びどう》だにせず、|真《ま》っ|直《す》ぐ俺を見つめていた。
俺はがくがくする朝比奈さんの肩を支えて起きあがるのにカを貸した。泣き虫が目に止まったと見えて、朝比奈さんは|鳴咽《おえつ》を|漏《も》らしながらポロポロと|涙《なみだ》をこぼしていた。長い|睫毛《まつげ》に|縁取《ふちど》られた|瞳《ひとみ》が|濡《ぬ》れたおかげでさらなる|魅力《みりょく》度アップに……あれ?
「もう、何やってんのよ二人とも。台本にないことしないでちょうだい」
台本も書いていない監督がやって来て、俺と同じく「あれっ?」と|怪訝《けげん》な声を上げた。
「みくるちゃん、コンタクトどうしたの?」
「えっ……」
俺の|腕《うで》にしがみついて泣いていた朝比奈さんは、指を左目の下に当てて、
「あれっ?」
三人で不思議がっていてもしかたがない。こういうときは事態を|把握《はあく》していそうな|奴《やつ》に|訊《き》くに限る。
「長門、朝比奈さんのカラーコンタクト知らないか?」
「しらない」
長門は平然と答えた。|嘘《うそ》だと思う。
「さっきの|格闘《かくとう》で落っこちたのかしら」
ハルヒは見当違いのことを言って地面を見回している。
「キョン、あんたも探しなさいよ。安いもんじゃないのよ。けっこうしたんだから」
|這《は》いまわるハルヒに付き合って、俺も四つん這いになった。|無駄《むだ》だと|悟《さと》ってもいたがな。朝比奈さんの上から|退《ど》いた長門の右手が、そっと何かをつかんで引っ込められたのを俺は見たように思っていた。そして、組み|敷《し》いていた長門がつかんでいたのは朝比奈さんの顔面だ。
「なんでどこにもないのよ」
口を|尖《とが》らせているハルヒには悪いが、俺は|真面目《まじめ》に探していなかった。|振《ふ》り返って見ると、古泉は分離したレフ板の切り口を合わせたり離したりして遊んでいる。お前も探すフリをしろよ。
古泉は|微笑《ほほえ》んで、
「風で飛んでいったのかもしれませんね。軽いものですから」
いい加減なことを言い、俺にレフ板の|残骸《ざんがい》を見せつけた。起きあがったハルヒがそれを|奪《うば》い取る。
「どうしたの? 割れちゃったの? ふーん、安物だったのね。ま、うちの写真部だからそんなもんよね。古泉くん、裏からガムテープでも|貼《は》っといてちょうだい」
こともなげに言って、ぽかんとした表情をして涙を止めた朝比奈さんに、ワニみたいな目を向けた。
「カラーコンタクトがないと映像が|繋《つな》がんないなあ。どうしようかな」
考えているらしい。やがて頭に豆電球くらいの光が走ったのか、ハルヒは指を鳴らした。
「そだ。目の色が変わるのは変身後にしましょう!」
「へ、へんしん?」と朝比奈さん。
「そうよー、ふだんからそんなコスチューム着てるのはどうやってもリアリティがないもんね。その衣装は変身後の|扮装《ふんそう》で、いつもはもっとまともな恰好をしてるのよ」
フィクションにリアリティを求める奴のほうがどうかしていると思うが、ハルヒの意見をその通りに聞くと、コスプレウェイトレスがマトモでないことを自ら|露呈《ろてい》したも同じである。朝比奈さんも大きくうんうんと首を前後に振った。
「い、いいですね、それ。まともな恰好をしたいです、すごく」
「というわけで、みくるちゃんの|普段着《ふだんぎ》はバニーガール!」
「ええっ!? ななななんでっ?」
「だってそれしか持ってきてないもん。本当の普段着じゃあ画面がちっとも|華《はな》やかでないわ。待って! 設定なら今考えたから。つまりね、みくるちゃんの通常形態は商店街の客引き。バニーガールなのよ。危機を感知するとすかさず変身! 戦うウェイトレスになるってわけ。どう、|完壁《かんぺき》でしょ」
さっきリアリティがどうとか言ってなかったか?
「じゃあ、さっそく」
ハルヒは口を三日月の形にして危険な|微笑《びしょう》、朝比奈さんの腕を背中に回して手首を固定すると、「あの、ちょっと、いたたた」と小さな悲鳴を上げ続けるウェイトレスを森の中に連れ込んでいった。
うーん。
……まあ、それはいいんだ。朝比奈さんには|合掌《がっしょう》するしかないが、ハルヒが消えてくれたのは好都合だ。あなたの|犠牲《ぎせい》は無駄にしません。バニーも楽しみです。
……まあ、それもいいんだ。俺は長門に問いたださねばならないことがある。
「それで、あれは何のアドリブだったんだ」
無感動に長門はちょんとトンガリ帽子の|鍔《つば》を左手で押さえた。顔の大部分を|影《かげ》の中に|仕舞《しま》い込みながら、ゆるりと右手を出してくる。制服の上からすっぽり|被《かぶ》っているだけなので、袖はセーラー服のものだ。長門は右手の人達し指だけを上向けていた。その指に青いコンタクトレンズが|載《の》っている。
やっぱりお前がスっていたか。
「これ」
長門はそう|呟《つぶや》き、
「レーザー」
と言って、口をつぐんだ。
………。
なあ、いつも思うんだがな、お前の説明は必要最小限にも達していないんだよ。せめて十秒くらいは話してくれ。
長門は自分の指先を見つめて、
「高い指向性を持つ不可視帯域のコヒーレント光」
非常にゆっくり|喋《しゃべ》ってくれた。なるほど、高いシコウセイを持つフカシタイ……。
すまないが、もっと|解《わか》らなくなった。
「レーザー?」と俺。
「そう」と長門。
「それは|驚《おどろ》きですね」と古泉。
古泉はコンタクトを指でつまみ上げ、光に|透《す》かすように観察して、
「|普通《ふつう》のレンズにしか見えませんが」
いかにも感心したみたいなことを言っている。俺は何を驚いていいのかが解らないから、当然感心もできない。
「どういうこったよ」
古泉はふっと|微笑《ほほえ》んで言った。
「右の|掌《てのひら》を見せてくれませんか。いえ、あなたではなく、長門さんですよ」
黒衣の少女は俺に視線を送り込み、まるで許可を待っているように見えたから俺はうなずいた。それを|確認《かくにん》してから、長門は人差し指以外|握《にぎ》りこんでいた|他《ほか》四本も広げ、そして俺は息を飲んだ。
「………」
俺たちの三人の間に|沈黙《ちんもく》の風が|一陣《いちじん》ほど舞った。俺は寒気を覚えて、やっと|悟《さと》った。そういうことか。
長門の簡単な手相の右掌、そこに黒く|焦《こ》げた小さな穴が何個か開いている。赤く|灼《や》けた|火箸《ひばし》を|突《つ》き|刺《さ》したならこんな感じの穴が開くんじゃないだろうか。五つほどあった。
「シールドしそこねた」
そんな|淡々《たんたん》と言うなよ。見るからに痛そうだぞ。
「とても強力。とっさのこと」
「レーザー光線が朝比奈さんの左目から放出されたんですね?」と古泉。
「そう」
そう、じゃねえだろ。古泉もだ。|状況把握《じょうきょうはあく》以外にすることがあるだろうが。
「すぐに修正する」
その言葉通り、俺たちが|覗《のぞ》き込んでいる間に、長門の手に開いた穴は|極《きわ》めて|迅速《じんそく》に|塞《ふさ》がれて元の白い|肌《はだ》に|戻《もど》った。
「なんてことだ」
俺は|呻《うめ》くしかない。
「朝比奈さんは、マジで目からビームを出したのか」
「|粒子《りゅうし》加速|砲《ほう》ではない。|凝集光《ぎょうしゅうこう》」
どっちでもいい。レーザーでもメーサーでもマーカライトファーブでも|素人目《しろうとめ》には似たようなもんだ。荷電粒子砲と反陽子砲の|違《ちが》いだって知るものか。|怪獣《かいじゅう》に効果があれば裏付けなんかいらん。
ここで問題とすべきは、怪獣も出てきてないのに朝比奈さんが熱線を出しちまったということだろう。
「熱線ではない。フォトンレーザー」
だからどっちでもいいんだよ、そんな科学考証は。
長門は|黙《だま》り込み、右手を|仕舞《しま》った。俺は頭を|抱《かか》え、古泉はコンタクトを指で|弾《はじ》きつつ、
「これは朝比奈さんに元から備わっていた機能なのでしょうか?」
「ない」長門はあっさり否定、「現在の朝比奈みくるは通常人類であり、それ単体では|一般人《いっぱんじん》と何ら変化はない」
「このカラーコンタクトに何か|仕掛《しか》けがあるのでは?」古泉が食い下がるが、
「ない。ただの|装飾《そうしょく》品」
そうだろうな。コンタクトを持ってきたのはハルヒなわけだしな。と言うか、それが最大の問題なんだよな。|誰《だれ》でもない、あいつが持ってきた、というこの事実が。
極めつけなこともある。もし長門が防いでくれなかったら、朝比奈さんの目から出たレーザー光線はビデオカメラのレンズを通過して、俺の目玉も|貫通《かんつう》し、その他色んなものを焼いたあげく後頭部から出て行ったことだろう。特に|脳味噌《のうみそ》が焦げ|臭《くさ》くなったであろうことは間違いない。やばいだろそれは。
にしても俺は長門に命を救われてばかりだな。立つ|瀬《せ》がない。
「となると」
古泉は|顎《あご》を|撫《な》でながら|笑《え》みを苦み走らせる。
「これは涼宮さんの|仕業《しわざ》ですね。彼女がミクルビームがあって欲しいと思ったから、現実がそのように変化したと、そういうことです」
「そう」
保証する長門はあくまで感情無しだ。俺はそう落ち着いてはいられない。
「待てって。そのコンタクトには何の|魔法《まほう》もかかっていないんだろ? ハルヒがそう願ったとして、なんで殺人光線が出るんだよ」
「魔法や未知の科学技術などを涼宮さんは必要としませんよ。彼女が『在る』と思えば、それは『在る』ことになるのですから」
そんなクソ|理屈《りくつ》で俺が|納得《なっとく》すると思うなよ。
「ハルヒは本気でビーム|撃《う》てとか言ってるわけじゃねえだろ。それは|奴《やつ》の映画の中での設定だ。あいつだって言ったじゃねえか、|冗談《じょうだん》だってさ」
「そうですね」
古泉もうなずいた。そんな簡単に反論を受け入れるな。俺の言葉が続かんだろ。
「涼宮さんが常識人なのは我々も知るところです。ですが彼女にこの世の常識が通用しないのもまた事実です。今回も何か特異な現象が働いているのでしょう。それは……おっと、戻って来られましたよ。この話はまた後ほどに」
さり気なく、古泉はコンタクトをシャツの胸ボケットに|滑《すべ》り込ませた。
困ったもんだった。
世界の|破滅《はめつ》を何かと戦ってトンチと機転で防ぐとか、問答無用でとにかく悪い奴を|叩《たた》きのめすとか、こぢんまりした世界観の中で制限付き|超能力《ちょうのうりょく》合戦を|真面目《まじめ》にするとか、その合間に適当な感情ドラマが|挿入《そうにゅう》されるとか――。
実のところ、そんなののほうが俺は好みなのだ。どうせならそういうハナっから|嘘《うそ》くさい設定の物語に巻き込まれていたい。現実から|乖離《かいり》していればいるほどいい。
なのに今の俺といったらどうだ。一人の同級生に声をかけてしまったことが|災《わざわ》いし、なんだか全然設定の|解《わか》らない奴らに囲まれて、なんだか全然意味の解らないことばかりをやっている。目からビーム? なんだそりゃ、何の意味がある?
考えてみれば、だいたい朝比奈長門古泉の|謎《なぞ》設定トリオからして今一つ正体が明らかでない。全員が全員、好き勝手な自己|紹介《しょうかい》をしてくれたが、あんなものを信じるには俺の頭はまともすぎる。いくら信じざるを得ないような体験を|伴《ともな》っていたとしてもだ。物事には程度ってものかあり、俺はちゃんと自分の物差しを持っている。目盛りは少々あやしくなってきたが。
本人たちの主張によれば、まず朝比奈さんは未来から来た未来人である。|西暦《せいれき》何年から来たのか教えてもらっていないが、来た理由だけは知ってる。涼宮ハルヒの観察だ。
長門は地球外生命体に作られたヒューマノイド・インターフェースである。「何それ?」と言われても困る。俺だってそう思うのだからフィフティフィフティだろ。何でまたそんなのが地球にいるのかというと、情報統合思念体とかいう長門の親玉がどうも涼宮ハルヒに興味があるからのようだ。
そんで古泉は『機関』という謎組織から|派遣《はけん》された超能力者である。こいつが転校してきたのはその任務の一つであって、役割は涼宮ハルヒの|監視《かんし》である。
そして|肝心《かんじん》のハルヒだが、これだけ異様なプロフィールを持つ三人がかりでも、|未《いま》だに存在自体がなんだかよく解らない奴なのである。朝比奈さんによると『時空の|歪《ゆが》みの原因』で、長門は『自律進化の可能性』と言い、古泉はシンプルかつ|大仰《おおぎょう》にも『神』と呼んでいた。
ホントもう、みんなご苦労さんと言いたい。
苦労ついでに早くハルヒをどうにかしてやってくれ。でないとこの女団長はいつまで|経《た》っても謎のまま、中性子星みたいな引力で俺を重力|圏《けん》に|搦《から》め|捕《と》ったままだろうからな。今はまだいいさ、でもな、十年後くらいを考えてみろよ。その時になってもハルヒがこのハルヒのままだったらどうするんだ? かなリイタイことになるぜ。部室を不法|占拠《せんきょ》したり、街中を|鵜《う》の目|鷹《たか》の目で練り歩いたり、無意味に|騒《さわ》いだり|怒《おこ》ったり|情緒《じょうちょ》不安定になったりが許されるのはギリギリ十代までだ。いい|歳《とし》こいてまでやるもんじゃない。そんなのただの社会不適合者だ。そうなっても朝比奈さんや古泉や長門はハルヒに付き合って何かしてやるつもりなのか?
俺なら先に謝っておこう。すまん、そんなつもりは毛頭ない。なぜなら時間が許さないからさ。人生のリセットボタンは手軽に落ちてたりはしないし、セーブポイントがどこかの路地裏にマーキングされているわけもないんだぜ。
ハルヒが時間を歪めてたり情報を|爆発《ばくはつ》させていたり世界を壊したり創ったりしているのかどうかなんて関係ない。俺は俺で、こいつはこいつだ。いつまでも子供のママゴト遊びに付き合ってはいられない。たとえそうしていたくても帰宅時間は確実に来るんだ。それが何年、何十年先のことだろうと、確実にな。
「いつまでゴネてるのよ! もうとっくに見られ慣れしてるでしょ?」
木々の間から、ハルヒが朝比奈さんを運んでくるのが見えた。
「女優らしくしなさい。|潔《いさぎよ》い|脱《ぬ》ぎっぷりはブルーリボン新人賞への早道なのよ! 今回の|撮影《さつえい》では脱いでもらうことはないけどね。出し|惜《お》しみはしとかないと」
仕留めたウサギを持ってくる|猟犬《りょうけん》みたいな勢いだ。ハルヒは土の地面を歩きにくそうにしているハイヒールのバニー朝比奈さんを伴って、くしゃみが出そうなくらいに明るい|笑顔《えがお》で|戻《もど》ってくる。
「この映画が成功を収めたら、その収益でみんなを温泉に連れて行ってあげるわ。|慰安《いあん》旅行よ、慰安旅行。みくるちゃんも行きたいでしょ」
だが……、まあ、そうだな。それまでは俺も付き合っていてやるよ。俺が混ざりたかったのは、お前が|撮《と》っている映画の設定みたいな話の中だったんだけどな。古泉イツキ的ポジションだったらなお|万全《ばんぜん》なのだが、俺にはどうやら|秘《ひ》められた力はないみたいだしさ。
ここでおとなしく、お前のツッコミ役をやらせてもらうさ。
あと何年かしたら「そう言えばあんときはそんなこともあったなあ」なんて、笑って|誰《だれ》かに話したり出来るようになるだろう。
たぶん。
バニーガール朝比奈さんは、ウェイトレス以上に|恥《は》ずかしそうに歩いていた。ハルヒだけが得意満面だ。お前が得意がってどうするんだ。
俺はビデオカメラのピントを調整するふりをして、朝比奈さんの|胸元《むなもと》をアップにした。ほらアレだ、一応|確認《かくにん》しとかないと。
朝比奈さんの白い左の胸元には、小さなホクロがあって、それはよーく見ると星の形をしている。確認|終了《しゅうりょう》、この人は確かに俺の朝比奈さんだ。ニセモノじゃない。
「何してんの?」
レンズの前に、ぬうと現れたのはハルヒの顔だ。
「あたしの指示以外のものは撮っちゃだめよ。これはあんたのホームビデオじゃないんだからねっ」
|解《わか》ってるさ。それを|証拠《しょうこ》に録画ボタンは押していない。|眺《なが》めてただけだ。
「はいはいはいみんな注目! そして用意して! これからみくるちゃんの日常風景を撮るからね。みくるちゃんは自然な感じでそこらを歩いてて。それをカメラが追うわけ」
日常でバニーガールやっててこんな森林公園に|出没《しゅつぼつ》する少女ってのはいったい何なんだ。
「いいのよ、そんなの。この映画の中ではそれが|普通《ふつう》なの。フィクションに現実の尺度を当てはめるほうがおかしいの!」
それは俺がお前にこそ言いたいセリフだぞ。お前の場合は現実にフィクションの尺度を持ち込んでいるから逆ではあるが。
その後、朝比奈さんは自分が目から殺人レーザーを放ったとは知らず、ハルヒの演技指導のもと、公園の花を|摘《つ》んだり、|枯葉《かれは》をつまんで|吐息《といき》で飛ばしたり、|芝生《しばふ》の上で|跳《と》んだり|跳《は》ねたりを繰り返しては、どんどんへロへロになっていった。
トドメはハルヒの、
「うーん。山を背景にするとどうしても|浮《う》いちゃうわね。バニーガールで山歩きしたりは、さすがにしないわよね。街に行きましょう!」
自分が|先《せん》だって言ったセリフをあっさり|覆《くつがえ》した一言で、これで再びのバス移動が決定した。
今のところ照明係しかしていない主演男優古泉は、ガムテ補強したレフ板と俺が押しつけた荷物半分を|脇《わき》に|抱《かか》えて|吊革《つりかわ》につかまっていた。
俺もその横に立っていて、さらにその横に長門が黒い|影《かげ》となっている。ガラすきの座席に座っているのはハルヒと朝比奈さんだけだ。俺からカメラを|奪《うば》い取ったハルヒは、二人|掛《が》けの|椅子《いす》に|腰掛《こしか》けて真横から朝比奈さんを撮っていた。
朝比奈さんはずっとうつむいて、ハルヒの問いかけにボソボソと何か答えている。どうやら|監督《かんとく》による主演女優インタビューの|体《てい》らしかった。
バスは山道をうねくりながら住宅地へと降りていき、俺は運転手がルームミラーばかりを見ていることがないように心の中で手を合わせる。ちゃんと前を向いて運転しててくれよな。
その祈りが通じたか、バスは無事に終点の駅前まで辿り着いた。その頃には車内にも乗客がわんさといて、ほぼ全員の視線がハルヒと朝比奈さんと長門に向いていた。ぴょこぴょこするウサ耳と、背後からは白い|肩《かた》しか見えないお姿が|凶悪《きょうあく》だ。どうも朝比奈バニーバージョンは北高のみならず全市内にその|噂《うわさ》を広めそうな気配だった。
ハルヒの|狙《ねら》いがそれかもな。「昨日、バスに|別嬪《ぺっぴん》のバニーガールが乗っててさ」「あ、俺も見たよ」「なんだい、あれ?」「なんか北高にあるSOS団とかにいるらしい」「SOS団?」「そうSOS団」「SOS団ね、覚えておこう」とか、そんな展開になることを期待しているんじゃなかろうな。朝比奈さんはSOS団の|広告塔《こうこくとう》じゃないんだぜ。では何かと言えば決まってる、お茶くみ|及《およ》び俺の精神安定担当だ。本人だってそう望んでいると思う。きっと。
無論、ハルヒにとっては誰かの望みなんか馬耳東風以前に届きもしないのである。自分に不都合な他人の言葉は、ハルヒ|驚異《きょうい》のメカニズムによって|鼓膜《こまく》の外で|弾《はじ》かれるからだ。|浸透圧《しんとうあつ》の関係かもしれないな。この仕組みを解明できたらノーベル賞|審査《しんさ》委員会が生物学賞の審査対象くらいにはしてくれるかもしれん。誰かやってみないか?(なげやりに言うのがコツだ)
この日は|陽《ひ》が落ちるまで、朝比奈さんはバニーガールであり続けた。やったことと言えば、そこら中をこの姿で歩き回っただけである。これではいつもの不思議|探索《たんさく》パトロールと変わりがないが、人目を気にするぶん余計に|疲《つか》れるし、いつ警察を呼ばれるかとヒヤヒヤもんだ。ハルヒに|撮影《さつえい》許可とかいう|概念《がいねん》はないようで、どこで何を|撮《と》ろうがそれはハルヒの自由であり、その自由はインノケンティウス三世時代のローマ教皇権のように|侵《おか》しがたいものなのである――のだそうだ。自由の意味をはき|違《ちが》えている。
「今日はこんなもんね」
ようやくハルヒが仕事を終えた顔をしてくれて、長門を除く俺たちは|安堵《あんど》の表情を作った。長い一日だった。日曜の明日はゆっくり休みたいね。
「じゃあ、また明日ね。集合時間と場所は今日と同じでいいわ」
あっけらと言う|奴《やつ》だ。|振《ふ》り|替《か》え休日を用意してくれるんだろうな。
「何それ。撮影が押しているのよ? |悠長《ゆうちょう》に休んでいるヒマはないの! 文化祭が終わってから思う存分休めばいいじゃないの。それまではカレンダーに赤い日付はないと思いなさい!」
撮影二日目で早くも時間配分を間違えているのも何とかならないのか。押しだって? つーことは、今日俺が撮った何時間もの映像はほとんど使われないのか? それともハルヒは大河ドラマを撮ってるつもりででもいるのか? 帯番組じゃないんだぜ。一発ネタの文化祭自主映画なのによ。
しかしハルヒは何一つ気に|病《や》むことはないようであった。俺にすべての荷物を押しつけると、自分は|腕章《わんしょう》を|携帯《けいたい》するだけの|極上《ごくじょう》の|笑《え》みを振りまき、
「それじゃあ明日ね! この映画は絶対成功させるのよ。いいえ、あたしが監督やってる以上、成功はもう約束されてるの。後はあなたたちのがんばりにかかってるのね。時間通りに来るのよ。来ない人は|私刑《しけい》の上に|死刑《しけい》だからねっ!」
そんなことを宣告し、マリリン・マンソンの『ロック・イズ・デッド』を口ずさみながら歩き去った。
「朝比奈さんには僕から伝えておきますよ」
帰り|際《ぎわ》、古泉が耳元で|囁《ささや》いた。朝比奈さんは古泉のブレザーを頭から|被《かぶ》っている。これが冬ならコートでも持参していたのに、残念ながら季節は晩夏あたりで|停滞《ていたい》していた。俺は足元に積まれた荷物の数々をうんざりと|眺《なが》めて、
「何を伝えるって?」
「例のレーザーのことをですよ。目の色さえ変えなければ変な光線も出ません。涼宮さんの法則ではそうなっているようですから、カラーコンタクトを入れなけれぱいいのです」
レフ板持ちの主役|野郎《やろう》は、俺に保険の外交員みたいな業務用スマイルを見せた。
「念のため、一つ保険を作っておくとしましょうか。彼女なら協力してくれるでしょう。何にせよ、ビームは危険ですので」
古泉が歩み寄ったのは、カラスを|擬人《ぎじん》化したような黒衣姿の長門へだった。
大荷物を|抱《かか》えて自宅に|戻《もど》った俺を、妹が変な生き物を見る目で|出迎《でむか》えてくれた。キョンとかいうマヌケな俺のニックネームを周囲に広める|元凶《げんきょう》となったこの小学生は、「それビデオカメラ? わあ撮って撮って」などとほざいたが、俺は「ドアホ」と答えて自室に引っ込んだ。
何にせよ、俺は疲れ果てていて、これ以上似合わないカメラマン|行為《こうい》をする意欲はとっくに蒸散している。朝比奈さんならともかく、何が悲しくて妹なんぞをビデオ映像として記録に残さねばならんのだ。ちっとも楽しかねえ。
俺は部屋にバッグやらリュックやら|紙袋《かみぶくろ》を置くと、ベッドに|倒《たお》れ込み、晩飯を食わせようとするオフクロの使命を受けた妹がエルボースマッシュで起こしに来るまで、つかの間の安らぎを得た。