第二章
今はもう秋のはずなのに、なぜだかちっとも|涼《すず》しくない。地球はいよいよバカになったようで、秋という季節を日本に|到来《とうらい》させることを忘れてしまっているようだった。夏の暑さは無限の延長戦に入ったみたいにせっせと続き、|誰《だれ》かがサヨナラ打を打たない限り収まりそうもなかった。収まる|頃《ころ》には秋をすっ飛ばして冬になっているような気もするけど。
|遅《おそ》くなるかもしれないわね、とハルヒが言うので俺たちは鞄《かばん》を持って学校を後にした。長い坂道をずんずん降りていくハルヒの向かう所はどこだろう。高校の文化祭用自主映画に制作費を|拠出《きょしゅつ》してくれるようなスポンサーなんかいるとも思えない。映研ならまだしも、俺たちは何のために集まっているのか半年|経《た》ってもまだ誰にも解らない|零《れい》|細《さい》|謎《なぞ》団体なのだ。|門《もん》|前《ぜん》|払《ばら》いが相応だ。
山を下った俺たちは私鉄のローカル線に乗り、三駅ほど移動することになった。いつぞや、俺と朝比奈さんが二人きりの散策を|堪能《たんのう》した桜並木に近いあたり。でかいスーパーマーケットや商店街がある、割に人出のある地域である。
ハルヒは俺と朝比奈さんを背後に従え、まっすぐ商店街の中に入っていった。
「ここ」
ようやく立ち止まったハルヒの指差す先には、|一軒《いっけん》の電器店があった。
「なるほどね」と俺は言った。
この店から映画|撮影《さつえい》に使用するための機材をせしめるつもりらしい。
どうやってだ。
「ちょっと待ってて。あたしが話をつけてくるから」
鞄を俺に預けると、|躊躇《ちゅうちょ》なくハルヒはガラス張りの店内へ。
朝比奈さんは俺の後ろに隠れるようにして、照明器具のディスプレイ群で|眩《まばゆ》い店内を|恐《おそ》る恐るうかがっている。引っ込み思案な小学生の女の子が友達の家を初めて訪ねたみたいな|雰《ふん》|囲《い》|気《き》だ。俺は今度こそ朝比奈さんを守る気満々となり、店長らしきオッサンに|身振《みぶ》り手振りで話しかけているハルヒの背中を観察した。少しでもハルヒが|胡《う》|乱《ろん》なことをやろうとしたら、このまま朝比奈さんを|小《こ》|脇《わき》に|抱《かか》えて|遁《とん》|走《そう》しよう。
ガラスの向こうでは、ハルヒが何か|喋《しゃベ》りながら展示品を指したり自分を指したりオッサンを指したりしている。オッサンも、なんかふんふんうなずいているが、そんな|奴《やつ》の言うことに安易に首を縦に|振《ふ》らないほうがいいと忠告してやるべきだろうか。
やがてハルヒはパッと振り返り、ガラスドアの外でいつでも逃げ出せる態勢をとっている俺たちを人差し指で示し、ワライタケを|喰《く》ったみたいな|笑《え》|顔《がお》をつくり、また手を。バタバタさせつつ演説を続けた。
「何をしてるんでしょう……?」
朝比奈さんが俺の|斜《なな》め後ろで顔を出したり引っ込めたりしながら疑問の声を出す。
未来から来た朝比奈さんに|解《わか》らないものが俺に解るわけもない。
「さあ。どうせこの店で一番高性能なデジタルハンディビデオカメラを|無《む》|償《しょう》|貸《たい》|与《よ》せよ、とか言ってるんじゃないでしょうか」
それくらいのことを平然という女だ、アレは。ヘタすりゃ世界の中心に立って地球を回しているのは自分だと信じているような奴だからな。
「困ったもんだ」
ちょっと前のことだが、似たような疑問を長門に|訊《き》いてみたごとがある。
ハルヒは|己《おのれ》の価値基準や判断を絶対的なものだと信じ込んでいる。他人の意思や意識が自分のものとは|違《ちが》う場合もある、むしろ違ってばかりであるということが解っていないに違いない。|超《ちょう》光速航法を実現したいなら、ハルヒを宇宙船に乗せてやればいい。やすやすと相対性理諭を無視してくれるだろう。
そんなようなことを長門に言ったところ、あの無口な宇宙人モドキは、
「あなたの意見は、おそらく正しい」
と、長門にしては意味のある文章を喋った。|冗《じょう》|談《だん》がシャレにならない存在、それが涼宮ハルヒであった。
「あ、話終わったみたい」
朝比奈さんの|密《ひそ》やかな声で俺は回想シーンから|戻《もど》ってきた。果たして、ハルヒはご|満《まん》|悦《えつ》の表情で電器店から出てきた。両手で|小《こ》|振《ぶ》りの箱を抱えている。
有名電機メーカーのロゴがでっかく|踊《おど》る横にプリントされている商品写真、それは俺の見間違えでない限り、ビデオカメラの形状をしていた。
いったいどういう|脅《おど》し文句を使ったんだ?
よこさないと放火するとか、不買運動するとか、一晩中イタズラFAXを流し続けるとか、今すぐここで暴れ出すとか、予告なしで|自爆《じばく》するとか――。
「バカじゃない? そんな|脅迫《きょうはく》まがいのことをするわけないじゃないの」
ハルヒは|機嫌《きげん》良く、商店街の|天蓋《てんがい》の下を歩いている。
「これで初めの一歩は成功ね。順調だわ」
俺はビデオカメラの入った箱を持たされて後をついて行っている。ハルヒの背中で|揺《ゆ》れるストレートヘアを見ながら、
「だから、どうやったらタダでこんな高そうなもんをくれるんだよ。あの|親父《おやじ》はお前に何か弱みでも|握《にぎ》られていたのか?」
そう、店を出てきたハルヒは開口一番、「もらった」と宣言しやがったのだ。くれるんだったら俺だって欲しい。決めゼリフを教えてくれ。
振り返ったハルヒは、ニマアっと笑いつつ、
「べっつにー。映画|撮《と》りたいからちょうだいって言ったら、いいよってくれたのよ。何の問題もないわ」
今はなくとも後々問題になりそうな気がしているのだが、これは俺が心配|性《しょう》だからか。
「いちいち気にしないの。あんたは大らかにあたしの下僕として働いていればいいんだから」
あいにく俺は、今年の春から船体横にタイタニックと書いてある船にうっかり乗り込んでしまったような気分を今もって味わっている最中だ。どこかにSOSを打電したくもあったが残念ながらモールスを知らない。それ以前に、下僕とか言われて大らかになれるほど俺は|根《こん》|性《じょう》がすわってないぞ。
「さあ、次の店に行くわよ!」
買い物客の波の中で、ハルヒは元気よく手足を動かして歩き出す。俺は朝比奈さんと顔を見合わせ、競歩みたいなスピードで遠ざかるハルヒの後ろ姿を追った。
次にハルヒの訪問を受けたのは模型ショップだった。
またしても俺と朝比奈さんを外に置き去りにして、ハルヒは一人で|交渉《こうしょう》人をやっている。だんだん解ってきた。ガラス|越《ご》しに俺たちを指差すとき、ハルヒの人差し指は朝比奈さんを正確に示しているのだ。値段ぶんの働きをどういう形でか朝比奈さんがすることになりそうな具合だ。それに気付かず、朝比奈さんは店頭に展示してあるジオラマのケースを|物《もの》|珍《めずら》しそうに|覗《のぞ》き込んでいた。教えたほうがいいのかな?
待つこと数分、出てきたハルヒは、またまた|身体《からだ》の前にかさばりそうな箱を|抱《かか》えていた。今度は何だ。
「武器よ」
ハルヒは答えて俺に荷物を押しつける。よく見ればプラモデルか何かの箱だった。それもピストルだかの|銃《じゅう》|器《き》の|類《たぐい》である。何すんだ、こんなもん。
「アクションシーンに使うのよ。ガンアクションよ。|派手《はで》な|撃《う》ち合いはエンターテインメントの基本なの。できればビルを丸ごと爆破したいくらいなんだけど、ダイナマイトってどこで売ってるか知ってる? 雑貨店にあるかしら」
知るか。少なくともコンビニやネット|通販《つうはん》では売ってないだろうな。どっかの採石所に行けば置いてあるんじゃないか――と言いかけて、俺は|踏《ふ》みとどまった。こいつのことだ、夜中に信管とTNT火薬を|盗《ぬす》みに行きかねない。
ビデオカメラとモデルガンの箱を地面に置いて、俺はハルヒに向けて首を|振《ふ》った。
「それで、この大荷物をどうするんだ?」
「いっぺん家に持って帰って、明日また部室まで持ってきて。これから学校に|戻《もど》るのは|面《めん》|倒《どう》だから」
「俺が?」
「あんたが」
ハルヒは|腕組《うでぐ》みをして実にいい顔をした。教室では|滅《めっ》|多《た》に見られない、SOS団専用スマイルだ。そして、こんなふうにハルヒが笑うと、回り回って俺に災難を回収する役割が|巡《めぐ》ってくることになっている。逆|藁《わら》しべ長者か。
「あのう」
朝比奈さんが|控《ひか》えめに片手を挙げる。
「あたしは何をしたら……」
「みくるちゃんはいいのよ。もう帰っちゃっていいわ。今日は用済みだから」
ぱちくりと|瞳《ひとみ》を|瞬《まばた》かせ、朝比奈さんは|狐《きつね》に化かされた|仔《こ》|狸《だぬき》みたいな表情になった。朝比奈さんが今日したことと言ったら、俺と共にハルヒの後ろをビクビクしながら歩いていただけだったからな。何のためにハルヒが自分に同行を強制したのか理解不能だろう。俺にはなんとなく読めていたが。
ハルヒは今にもラジオ体操第二を|踊《おど》りそうな勢いで、|最寄《もよ》りの駅へと俺たちを|誘《さそ》った。本日のハルヒ的活動はこれで打ち止めらしい。|敏腕《びんわん》ネゴシエーターでも左側に寄りそうな手腕で入手したのはビデカメ一台と|小《しょう》|銃《じゅう》数丁。かかった費用は無料、つまリタダだ。
昔の人はよく言ったものだ。タダより|恐《こわ》い物はない。問題は、ハルヒがそれを全然|怖《こわ》がっていないことだった。と言うか、こいつの恐がりそうなものがあったら|是非《ぜひ》俺までご|連絡《れんらく》いただきたい。
翌日、俺が|鞄《かばん》以外の余計な荷物を抱えてえっちらおっちら坂を上っていると、
「よ、キョン。何背負ってんだ? どっかの良い子たちへのプレゼントか?」
俺の横に追いついてきたのは谷口だった。俺とハルヒのクラスメイトで単純|単《たん》|細胞《さいぼう》バカの、|間《ま》|違《ちが》いなくそこらに転がっている|普通《ふつう》の同級生の一人である。普通。いい言葉だ。今の俺の立場からすれば貴重ですらある。そこには現実的な|言霊《ことだま》が宿っているからな。
俺はしばらく迷ってから、二つのスーパーの|袋《ふくろ》のうち軽い方を谷口に押しつけた。
「なんだこりゃ、モデルガン? お前、こんな暗い|趣味《しゅみ》があったのか」
「俺じゃない。ハルヒの趣味だ」
それから一応フォローしておくが、暗い趣味と言い切るのは間違いだと思うぞ。
「涼宮が一人でグロックの分解|掃除《そうじ》してる姿なんざ想像できねえな」
俺もできないから、これを分解したり組み立てたりするのはハルヒ以外の|誰《だれ》かになるのだろう。ちなみに俺はガキのころ|某《ぼう》モビルスーツを組み立てようとしてどうしても|右《みぎ》|肩《かた》のジョイントが|嵌《はま》らず投げ出した過去を持つ男だ。
「お前も大変だな」
谷口はちっとも大変だとは思っていないような声で、
「涼宮のお|守《も》り役が勤まるのは古今東西探し回ってもお前くらいのもんだぜ。俺が保証してやる。だからさっさとくっついちまえ」
何て事を言いやがる。俺はいかなる意味でもハルヒと接着するつもりはない。俺がくっつきたいのは、むしろ朝比奈さんのほうだ。誰がどう考えてもそうだろ?
谷口は、ケケケと|妖怪《ようかい》じみた笑い声を上げた。
「ああ、そりゃダメだ。あの人は北高の天使様、男子学生の心の|拠《よ》り所だからな。全校生徒の半分からフクロにされたくなかったら|妙《みょう》な|真似《まね》はしないこった。お前だって逆上した俺に後ろから|刺《さ》されたくはないだろ?」
じゃあ次点の長門にしておくよ。
「それもまた無理だな。あれはあれで|隠《かく》れファンが多いんだ。なんで|眼鏡《めがね》やめたんだろうな。コンタクトにしたのか?」
「さあな。本人に|訊《き》いてくれ」
「聞いた話じゃ、いまだに何を話しかけても無視されるそうだぜ。なんでも長門のクラスでは、あいつが一言でも|喋《しゃべ》るとその日はいいことか悪いことかのどちらかが起こると信じられているらしい」
長門を竹の花みたいに言うな。いつの時代の|吉兆《きっちょう》|占《うらな》いだ。あいつは確かに普通ではないかもしれないが、それなりに普通であるところも――まあ、あんまりないな。
「つまりお前には涼宮が似合ってんのさ。あのアホとまともに話が出来るのはお前だけで、|被《ひ》|害《がい》者は少ないほうがいい。なんとかしてやってくれ。そういやそろそろ文化祭だが、今度は何をやってくれんだ?」
「だから俺に訊くな」
俺はSOS団|渉外《しょうがい》担当要員ではない。しかし谷口は平然と、
「涼宮に訊いてもわけの|解《わか》らんことを言うだけだろ。突っつき具合を間違えると暴れ出す|恐《おそ》れがあるしな。長門有希はどうせ何訊いても何も言わねえ。朝比奈さんは近寄りがたい。もう一人の男は話していると何かムカつく。だからお前に訊いてんのさ」
妙な|理屈《りくつ》をこねる|野郎《やろう》だ。それではまるで俺が単なるお|人好《ひとよ》しのようじゃないか。
「違うのか? そっちに歩いていけば|崖《がけ》に落ちると解ってんのに|一緒《いっしょ》になって歩いている付き合いのよすぎる男に見えるけどな、俺には」
校門が見えてくる。俺は|憮然《ぶぜん》たる面持ちで谷口からスーパー袋を|奪《うば》い返した。
ハルヒ的|獣《けもの》|道《みち》の行き着く先に何があるのかは知らないが、ロクでもないものが待ち受けているだろうなとは、そりゃ俺だって思っている。だが、一緒に歩いているのはハルヒと俺だけじゃなく、解っているだけで|他《ほか》に最低三人はいるのだ。そのうち二人は|放《ほう》っておいても|大《だい》|丈夫《じょうぶ》だろうが、朝比奈さんは危なっかしい。未来人とは思えないほど、自分の身に起こる何かを全然予測できていないのだ。ま、それがいいんだけど。
「だからな」と俺は言ってやる。「誰かが守ってやらんといかんのだ」
おお、我ながら主人公みたいなセリフだな。守ると言ってもハルヒの行き過ぎたセクハラの|魔手《ましゅ》からだけどさ。
俺はいい調子で、
「せっかくだから俺が守る。全学年の男連中が何を言おうと俺は知らん。勝手に|紳士《しんし》同盟でも作っていやがればいい」
谷口は、またコナキジジイのようにケケケと笑い、
「ほどほどにしとけよ。新月の夜が月に一回は必ずあるんだからな」
通り魔予告みたいなことを言って、門をくぐった。
俺が荷物とともに教室の前の|廊下《ろうか》を歩いていると、ハルヒが自前の荷物を自分のロッカーに押し込んでいるところに出くわした。
俺も電気機器とプラモの箱を俺の出席番号の書かれたスチールロッカーにしまい込む。
「キョン、今日からいそがしくなるわよ」
おはようも言わずにハルヒはロッカーのフタを音高く閉めると、俺に|小春《こはる》|日和《びより》のような|笑顔《えがお》を向けた。
「みくるちゃんも有希も古泉くんもね。ガタガタ言わせたりしないわ。映画のシナリオはあたしの頭の中でバッチリ|煮詰《につ》まっているのよね。ぐつぐつ言ってるくらいよ。後は形にするだけよ」
「あっそう」
俺は適当に答えて教室に入った。俺の机は数えて後ろから二番目にある。一学期から何度も|席替《せきが》えをしたが、|未《いま》だに一番後ろの席を引き当てたことがない。なぜなら、俺の後ろには毎回ハルヒが座っていたからだ。そろそろ|偶然《ぐうぜん》と考えるのは不自然だと思えるようになってきたが、それでも俺は偶然を信じている。俺が信じてやらないと偶然のほうが自信|喪失《そうしつ》するような気がするんでね。これでも俺は気配りの人なのだ。ハルヒなんかと付き合っていたら|誰《だれ》でもそうなるぜ。ルーズボールをチェックに行く守備的MFみたいなもんさ。なんせハルヒはオフサイドラインの|遥《はる》か向こうでひたすらボールを待っているだけのような|超《ちょう》|攻撃《こうげき》的FWだからな。敵キーパーより後ろにいるかもしれない。そこにパスしても|線審《せんしん》の旗が上がるのは確実なのだが、それはハルヒにすればひたすら|誤審《ごしん》に過ぎないのである。そんなルールがあるほうがおかしいとハルヒは|大《おお》まじめで言うだろう。そのうちボールを手に持ってゴールポストに飛び込んでもそれは一点なのだと主張しかねない|奴《やつ》なのだ。だったらラグビーをやれという提案は通用しない。
走る|傍若《ぼうじゃく》|無人《ぶじん》の対処法は、何もかも聞かなかったことにしてさり気なくその場を|離《はな》れるか、すべてをあきらめてこいつの言うとおりにするほかにない。俺以外の同級生はとっくにそうやっている。
だからその日の六限が終わるなりハルヒが教室から姿を消し、終わりのホームルーム時に俺の真後ろが空席になっていても、担任岡部教師も他の誰も何も言わなかった。気付いていないか、気付かなかったフリをしているのか、気付くだけ|無駄《むだ》だと思っているのか、まあ放っておくのが一番なのでどれだって同じなのさ。
俺は予感めいたものを感じながら部室|棟《とう》に向かい、何個もの箱が入った|袋《ふくろ》を両手にぶらさげたまま文芸部室の前で立ち止まった。
なんか聞こえてくる。きゃあとか言ってるのは朝比奈さんのいたいけな声で、ぎゃあとか|喚《わめ》いているのはハルヒのイタい声だ。またやってる。
ここでドアを開けると実に絵的によろしいシーンを見ることができそうだが、常識人たる俺はストイックにも|妄想《もうそう》を|堪《こら》えつつ、じっと待ちの態勢である。
五分ほどして、内部でのささやかな|闘争《とうそう》は収まった。どうせハルヒが勝ち|誇《ほこ》った顔で両手を|腰《こし》に当てているに|違《ちが》いない。ウサギが巨大アナコンダに勝てないのと同じ理屈で、朝比奈さんが勝つとは思えないからな。
俺のノックに、
「どーぞっ!」
ハルヒの勇ましい返答。俺は朝に見かけた紙袋の中身は何だったのかと思いつつ、|扉《とびら》を開けて部室に入った。まず目に入ったのはやはりハルヒの勝ち誇った顔だった。が、そんな顔なら俺はもう|見飽《みあ》きている。俺はハルヒの前のパイプ|椅子《いす》に座っている人物へと視線を向けて、|激烈《げきれつ》かつ熱烈に注目した。
ウェイトレスがそこにいて、俺に|涙《なみだ》|目《め》を向けてくれた。
「………」
やや|髪《かみ》を乱しているウェイトレスさんは長門の真似みたいに黙り込み、つつっとうつむいた。その背後では、ハルヒが彼女の豊かな|栗色《くりいろ》の髪をツインテールに|結《ゆ》っている。|珍《めずら》しくも長門の姿はない。
「どう?」
ハルヒはふふんと笑いながら俺に|訊《き》いた。どうしてお前が自分の|手柄《てがら》みたいな顔をするんだ? 朝比奈さんの|可愛《かわい》さは朝比奈さんのものだぞ。……とは言え。
まあね? 俺はいいと思うんだけどね? 朝比奈さんはどうなのだろうね? いやいや俺には異議はないよ? しかしこのスカート|丈《たけ》はちょっと短すぎるんじゃないかなあ?
完全無欠100%フルーツ|果汁《かじゅう》なまでにウェイトレスの|扮装《ふんそう》をした朝比奈さんは、ぴったり|揃《そろ》えた|膝《ひざ》|小僧《こぞう》に両手の|握《にぎ》り|拳《こぶし》を置いて固まっていた。
それがもうあなた、異様に似合っていた。カエアン製の|衣装《いしょう》かと思ったほどだ。おかげで三十秒くらい無言で朝比奈さんを見つめ続けていた俺は、後ろから|肩《かた》を|叩《たた》かれて飛び上がりかけることになった。
「やあどうも。昨日はすいませんでした。今日は今日とて|脚本《きゃくほん》でモメそうだったのですが、僕は早々に切り上げさせてもらったんですよ。|堂々《どうどう》|巡《めぐ》りには付き合い切れません」
古泉がニヤケハンサムな顔で俺の肩|越《ご》しに部室を|覗《のぞ》き込み、
「おや」
|愉快《ゆかい》そうに|微笑《ほほえ》んで、
「これはこれは」
古泉は俺の横を通り過ぎるとテーブルに|鞄《かばん》を置き、パイプ椅子に腰を落ち着け、
「よくお似合いですよ」
そのまんまな感想を述べた。そんなもん見りゃ|解《わか》る。解らないのは、なんで|喫茶《きっさ》|店《てん》でもファミレスでもないのにウェイトレスがこの|薄《うす》|汚《ぎたな》い小部屋にいるのかってことだ。
「それはね、キョン」とハルヒ。「みくるちゃんにはこのコスチュームで映画に出てもらうからよ」
メイドじゃ不都合なのか?
「メイドってのは大金持ちの|屋敷《やしき》とかにいて個人的|奉仕《ほうし》活動するのが仕事よ。ウェイトレスは違うわ。街角のどっかの店で時給七三〇円くらいで不特定多数にサービスを提供するのが目的なの」
それが高いのか安いのかは知らんけど、どっちにしろ朝比奈さんは屋敷|勤《づと》めやバイトをするために毎回こんな|恰好《かっこう》をしちゃいないだろう。ハルヒの金で|雇《やと》っているのなら別だが。
「細かいことは気にしないでいいの! こういうのは気分の問題なのね。あたしは気分いいわ」
お前はよくても朝比奈さんはどうなんだ。
「すす、涼宮さん……。これちょっとあたしには小さいような……」
朝比奈さんはよほど気になるのか、しきりにミニスカートの|裾《すそ》を押さえっぱなしだ。その|微《び》|妙《みょう》な動きがもどかしく、ついつい俺もそっちを見てしまうじゃないか。
「こんぐらいがちょうどいいのよ。ジャストフィットって感じだわ」
俺はムリヤリ視線を引きはがし、ハルヒの密林に|咲《さ》く|派手《はで》な花みたいな|笑顔《えがお》に固定した。ハルヒは|真《ま》っ直《す》ぐ前しか見ていない|瞳《ひとみ》を俺に照準、
「今回の映画のコンセプトが」
朝比奈さんの丸まった背中を指差す。
「これなのよ」
これ、と言われても。|茶店《さてん》でバイトする少女の日常ドキュメンタリーフィルムでも|撮《と》るつもりか。
「違うわよ。みくるちゃんの日常を|隠《かく》し撮りしたってちっとも|面白《おもしろ》くもなんともないわ。|普通《ふつう》の日常を記録するだけで楽しい物語になるなんてのはね、よっぽどエキセントリックな人生を送っている人だけよ。ただの高校生の一日を|撮影《さつえい》したって、そんなの自己満足にすぎないの」
別に朝比奈さんは満足しないと思うし、第三者的にはそれはそれで|需要《じゅよう》があるような気もするし、だいたい朝比奈さんの日常はけっこうエキセントリックなものである感じもするのだが、ここは黙っておこう。
「あたしはSOS団代表|監督《かんとく》として|娯楽《ごらく》に|徹《てっ》することに決めたの。見てなさい、観客を残らずスタンディングオベーションさせてみせるからね!」
よく見るとハルヒの|腕章《わんしょう》の文字は、いつの間にか「団長」から「監督」に変わっていた。用意|周到《しゅうとう》な|奴《やつ》である。
一人で盛り上がっている女監督と、盛り下がっている主演女優、|曖昧《あいまい》な笑みで見物人みたいに一歩|退《ひ》いている主演男優を見回したのち、俺がどうしたものかと考えていると、部室の|扉《とびら》が音もなく開いた。
「………」
何が登場したのかと思った。俺の長くもない人生に早くもお|迎《むか》えが来たのかと|一瞬《いっしゅん》ビビリが入る。モーツァルトにレクイエムを発注しに来たサリエリが出演する映画の楽屋を|間違《まちが》えたんじゃないかと疑ったくらいだ。
「………」と、得意の三点リーダを連続させながら足音もなく入ってきたのは、長門有希のいつもより白い顔だった。顔しか|露出《ろしゅつ》していない。後は真っ黒だ。
絶句しているのは俺だけでなく、ハルヒと朝比奈さんも同様で、古泉さえも微笑みに|驚《おどろ》きの色を消費税分くらい混ぜ込んでいる。さもありなん、長門は朝比奈さんもびっくりの|奇抜《きばつ》な衣装をまとっていた。
暗幕みたいな黒いマントで全身をすっぽり|覆《おお》い、頭に同色の|鍔広《つばひろ》なトンガリ|帽子《ぼうし》をかぶっていて、ほとんど寸足らずのバンパイアハンターである。
俺たちが見守る中、死神みたいな恰好をした長門は、|黙々《もくもく》と自分の定位置である|隅《すみ》っこの席に着き、マントの裾から鞄とハードカバー本を取り出してテーブルに置いた。
そして俺たち四人の|驚愕《きょうがく》をあっさりと無視し去ると、|淡々《たんたん》と読書を開始した。
文化祭でクラスがする|占《うらな》い大会の|衣装《いしょう》なんだそうだ。
絶句から最速で立ち直ったハルヒの|矢継《やつ》ぎ早な質問に答える長門の単語を|繋《つな》げていくと、そういう答えになる。長門にこんな愉快な恰好をさせるとは、こいつのクラスにはなかなか才能豊かなスタイリストがいそうじゃないか。
それにしても、この悪いてるてる|坊主《ぼうず》みたいな衣装で教室からここまで歩いてくるとは、長門は長門なりに朝比奈さんに|対抗《たいこう》意識を燃やしでもしているのか? ハルヒ以上に考えのつかめない女だな、こいつは。
そんな何とも言えない気まずい空気が|漂《ただよ》う中、ハルヒだけが大喜びしていた。
「有希、あなたも|解《わか》ってきたじゃない! そう、それよ!」
長門はゆっくりと目をハルヒに向け、またぺージに|戻《もど》した。
「あたしの考えていた配役にぴったりの衣装だわ! あなたにそれ着せた人を後で教えてちょうだい。この感謝の気持ちを電報にして打ったげたいわね」
やめてやってくれ。お前から祝電でも来た日には、何か裏があるんじゃないかと疑心|暗鬼《あんき》にかられるのが関の山だ。もう少し周囲の自分への評価を客観視してくれよ。
すっかりご|機嫌《きげん》さんになったハルヒは、鼻歌でトルコ行進曲を|奏《かな》でながら自分の|鞄《かばん》を開けて数枚のコピー用紙を取り出す。それを手早く俺たちに配布して、ツキノワグマを土俵|際《ぎわ》に転がした|金太郎《きんたろう》みたいな表情をした。
しょうがないので俺はその紙切れに目を落としてみる。
次のような文章が乱暴に書いてあった。
『戦うウェイトレス朝比奈ミクルの冒険《ぼうけん》(仮)』
☆登場人物
・朝比奈ミクル……未来から来た戦うウェイトレス。
・古泉イツキ……|超能力《ちょうのうりょく》少年。
・長門ユキ……悪い宇宙人。
・エキストラの人たち……通りすがり。
…………まあ、なんだ。あれだ。
|呆《あき》れ果てるのを|超越《ちょうえつ》して、こいつはいったい|勘《かん》がいいのかどうなのか、それとも当てずっぽうがなぜか的中するのか、もしやワザと知らんぷりしてんじゃないかと思わされるくらいである。何なんだ、この変なところで発揮される|奇怪《きかい》な|鋭《するど》さは。
|唖然《あぜん》としていた俺は、|脇《わき》から聞こえるクスクス笑いに我に返った。こんなふうに笑うのも、やはり決まって古泉である。
「いや、これは……」
楽しそうで|羨《うらや》ましいぜ。
「何と言いますか、さすがと言うべきでしょうね。本当に、涼宮さんらしい配役です。|素晴《すば》らしいですね」
俺に|微笑《ほほえ》みかけるな。気持ち悪い。
A4コピー紙を両手で|握《にぎ》って読んでいた朝比奈さんはぴくぴくと|華奢《きゃしゃ》な手首を|震《ふる》わせている。
「わ……」
小声を|漏《も》らして、俺に救いを求めるような顔を向ける。と思ったら、とても悲しそうな、非難するような|眼差《まなざ》しだった。まるで|歳《とし》の|離《はな》れた|親戚《しんせき》の|優《やさ》しいお姉さんがイタズラのすぎた幼児を|諭《さと》しているような……と、俺はやっと思い出した。そう言えば、半年前の事件後、俺がハルヒに三人の正体を教えてやったことを。
うげ。マズい。これは俺のせいか。
|慌《あわ》てふためいて長門を見ると、黒マントに黒帽子をコーディネイトした対人間用ヒューマノイド・インターフェースとやらは、
「………」
|黙《だま》って本を読んでいた。
「とりたてて問題はないでしょう」
古泉が楽観的に主張している。俺はもう一つ笑えない。
「笑うこともないでしょうが、悲観することでもありません」
「どうして解るんだ」
「なぜなら、たかが映画の配役だからです。涼宮さんは本気で僕が超能力少年だと思っているわけではありません。あくまで映画というフィクション内で、僕が演じる古泉イツキなる少年が超能力者だと設定しているだけですからね」
古泉は|記億《きおく》力の足りない生徒に向かう家庭教師のように、
「現実にこうして存在する僕、古泉一樹と、このイツキくんは別人も同然ですよ。|誰《だれ》だって映画の中の登場人物と演じている俳優を混同したりはしないでしょう? もし混同する人がいるんだとしても、それは涼宮さんには当てはまりません」
「なんだか、あんまり安心できないな。お前の言うことが正しいという保証はない」
「もし彼女が現実とフィクションをごっちゃにしているんだとしたら、この世の中はとっくにファンタジックな世界になっているでしょうからね。前にも言いましたが、涼宮さんはあれでも現実的な思考の持ち主なのです」
それは|解《わか》る。ハルヒの現実的思考なるものが|中途《ちゅうと》|半端《はんぱ》に|神懸《かみが》かっているせいで、俺はけったいな事件の数々に巻き込まれているのだからな。しかも|肝心《かんじん》のハルヒが全然無自覚なうちにだ。
「|証拠《しょうこ》を見せつけるわけにもいきませんから」
古泉はサラリと言う。
「もしかするとそんな事態にならざるを得ないときが来るのかもしれません。でもそれは今ではない。幸いなことに、朝比奈さんや長門さんの勢力も同意見のようです。僕は永遠にこのままでもいいと思いますけどね」
俺だってそう思うさ。世界がしっちゃかめっちゃかになるのは見たくない。来週発売のゲームソフトをとことんやり込んでからでないと未練を残しそうだ。
古泉は|微笑《ほほえ》みくんのまま、
「世界を心配するより、あなたは自分のことをもっと注意して見守るべきですね。僕や長門さんの代わりは|他《ほか》にもいるかもしれませんが、あなたにアンダースタディはいませんので」
俺は複雑化した胸の内を|気取《けど》られないように、手元の|銃《じゅう》のガス入れに熱中しているフリをした。
この日のハルヒは朝比奈さんに|衣装《いしょう》をあてがい、役名を発表しただけに終わっていた。本当はウェイトレスコスの朝比奈さんを引き連れて校内を練り歩いたあげく大々的に製作発表記者会見をしたかったらしいのだが、朝比奈さんが本気で泣きかけたため俺が断念させた。もともとこの高校には新聞部も報道部も宣伝部もない。そう言う俺を見てハルヒは|唇《くちびる》を水鳥状態にしながらも引き下がり、
「それもそうね」
|驚《おどろ》くべきことに、うなずいたりした。
「内容はギリギリまで秘密にしておいたほうがいいわね。キョン、あんたにしては気が|利《き》くじゃない。よそにパクられたら困るもんね」
ハリウッドや|香港《ホンコン》映画のアイデアじゃあるまいし、誰がそんなお前の頭ん中で|煮《に》えているだけのストーリーボードを欲しがると言うんだ。
「じゃあキョン、その銃、今日中に使えるようにしておいて。明日がクランクインなんだからね。それから、カメラの取り|扱《あつか》い方も覚えておかなきゃダメよ。あ、そうそう。映像データはパソコンに移して編集するから必要なソフトをどっかからかっぱらってきなさい。それから――」
という具合に散々宿題を押しつけ申しつけて、ハルヒは『|大《だい》|脱走《だっそう》』のテーマを口ずさみながら帰ってった。
|機嫌《きげん》がよくても悪くてもどっちにしろ|面倒《めんどう》|事《ごと》を生み出す|奴《やつ》だな、まったく。
そして今、俺と古泉は男二人で顔つき合わせモデルガンからBB|弾《だん》が出るように説明書と首っ引きで奮戦しているところだった。
|着替《きが》えの|終了《しゅうりょう》した朝比奈さんは|肩《かた》を落としてとぼとぼと帰宅、長門はサバトに招待された|魔《ま》|女《じょ》みたいな|恰好《かっこう》のまま|鞄《かばん》も持たずにどこかに行った。どうも長門は自分の|扮装《ふんそう》を俺たちに見せに来ただけのようだった。あいつのことだから何か意味があるのかもしれないし、単なる顔見せかもしれない。たぶん|今頃《いまごろ》は自分の教室で何かしてるんだろう。|水晶《すいしょう》|占《うらな》いの予行演習か、そんなのをな。
一日ごとに校内のざわつき加減が|微増《びぞう》している感覚はあった。放課後になるたび鳴り|響《ひび》く|吹《すい》|奏《そう》|楽《がく》部のヘタクソなラッパは徐々に間違い箇所が減っていってるし、校庭の陰でベニヤやバルサをギコギコ切っている奴もいるし、長門のように変な恰好をした生徒も少しずつだが増え始めた。
が、しょせんは地味な県立高校のお祭り行事、まったくハメを外しそうにないごくごくおとなしい文化祭になりそうだ。見た感じ、楽しむための努力を|放棄《ほうき》していないのは学校全体でもせいぜい半分と言ったところだな。ちなみに俺たち一年五組は楽しむこと自体を放棄している。文化系のクラブに所属していない奴らは当日、けっこうなヒマを持てあますに違いない。その帰宅部の代表格みたいなのが、谷口と|国木田《くにきだ》だ。
「文化祭と言えば」
谷口が言い出した。
昼休み、俺とこの|端役《はやく》二人は三人で弁当箱を囲んでいる。
「文化祭と言えば?」
国木田が|訊《き》き返す。谷口は古泉の上品なそれとは|比較《ひかく》するのも気の毒になるような無様な二ヤリ笑いを|浮《う》かべて、
「スーパーイベントだ」
ハルヒみたいなことを言うな。谷口は急激に表情から|笑《え》みをぬぐい去り、
「だが、俺には関係のないイベントだ。つか、腹立たしい」
「何で?」と国木田。
「俺が全然楽しくもないのに、楽しそうにしている奴らがめちゃめちゃ|目障《めざわ》りだ。特に男女二人組なんか、殺意を覚えるぜ。え? 何なんだ?」
|逆恨《さかうら》みという奴だろう。
「このクラスも何だ? アンケート? はっ! つまらん。どうせあなたの好きな色は何ですかとか、そんなだろ? そんなもん集計して何か楽しいんだ?」
だったらお前が名案を提案すればよかったじゃねえか。そしたらハルヒも映画がどうのとか言い出さなかったかもしれないのに。
谷口は弁当のウィンナーを一口で飲み込み、
「俺はそんな面倒なことを言い出したりはせん。いや、言うのはいいが、シキリをさせられるのはイヤだからな」
国木田は、そうだねえと言いつつ、だし巻き卵を刻む手を休めて、
「こんな時に手を挙げて発言するのは、よほどのお調子者か責任感の強い生徒くらいだもんね。朝倉さんがいればなあ」
カナダに引っ|越《こ》したことになっている元クラスメイトの名前を挙げた。その名を聞くたびに俺の心は|若干《じゃっかん》の冷や|汗《あせ》を生じさせる。朝倉を消したのは長門だが、その原因となったのは俺だったからだ。|放《ほう》っておけば消えていたのは俺のほうだったので、心を痛めていてもどうしようもないが。
「ああ、|惜《お》しいことをしたな」谷口が言った。「よりによってAAランクプラスがいなくなっちまうとはついてねえ。このクラスになってよかったと思った|唯《ゆい》一《いつ》のことだったのによう。くそ、今からクラス|替《が》えしてくんねえかなあ」
「どこのクラスがいい?」国木田が問いかける。「長門さんのクラスとか? あ、そういや昨日、|魔法《まほう》|使《つか》いみたいな恰好で歩いてるの見たけど、何あれ」
さあね。俺は知らん。
「長門ねえ……」
谷口は数学の|抜《ぬ》き打ち小テストを前にしたような顔を俺に向け、さも今思い出したみたいな口調で、
「いつだっけ? お前とあいつが教室で|絡《から》み合っていたのはよ。どうせあれだって、涼宮のシナリオだろ。俺をドッキリさせようって計画だったんだろ? そうはいかねえな」
勝手に|勘違《かんちが》いしてくれて俺は肩の荷が下りた気分だ。……待てよ、あんときお前は忘れ物を取りに来たんじゃなかったか? どうやったらあらかじめお前が|戻《もど》ってくることを俺たちが知れたのか――なんてことは当然、俺は言わんわけである。谷口はアホであり、アホな奴をアホと言っても何ら俺の心は痛まないわけである。よかったよ、こいつがアホで。感謝したいくらいだ。
「それにしてもつまんねえな」
谷口が|慨嘆《がいたん》し、国木田は弁当に集中し、俺は自分の背後を見た。ハルヒの机は空席。さて、|今頃《いまごろ》どこを練り歩いてるんだか。
「学校でロケができそうな所を探してたのよ」
と、ハルヒは言った。
「でも全然なかったわ。やっぱり近場ですまそうとしてたらダメね。外に行きましょう」
学内の|雰囲気《ふんいき》が気に入らないのかもしれない。しかし今ひとつ盛り上がりに欠けるからといってわざわざ外部に遠征して盛り上がるための場所を探さなくともいいのに。どうやっても|騒《さわ》ぎ|倒《たお》したいらしいな。
「えー……。あ、あたしも行くんですか?」
ヒキ気味の声で|訴《うった》えるのは朝比奈さんだった。
「当然でしょ。主役がいないと話にならないもの」
「こここの服で、ですかー?」
ハルヒがどこからか持ち寄った|扮装《ふんそう》、昨日に引き続きウェイトレスの制服を着せられて小さくなって|震《ふる》える朝比奈さんである。
「うん、そう」
ハルヒはあっさりうなずき、朝比奈さんは自分の|身体《からだ》を|抱《だ》きしめるようにしてイヤイヤをする。
「いちいち着替え直すのも|面倒《めんどう》でしょ? それに現場に着替えるとこないかもしれないしね。ならいっそ最初から着替えておけばいいんじゃない? でしょ? さ、出かけましょう! みんなでね!」
「せめて上から|羽織《はお》る物を……」
|懇願《こんがん》する朝比奈さんに、
「だめ」
「だって、|恥《は》ずかしいですよう」
「恥ずかしいと思うから変な照れが出るのよ! そんなのじゃゴールデングローブ賞は|狙《ねら》えないわよ!」
狙うのは文化祭イベント投票ベスト1ではなかったのか。
今日の部室には団員が全員|雁首《がんくび》|揃《そろ》えて集まっていた。|舞台《ぶたい》劇の台本問題が解決したらしい古泉もいて、ハルヒと朝比奈さんの一方的なやりとりをにこやかに眺めている。長門もいた。そして、その長門がちょっと問題だった。
「………」
|黙《だま》りこくっているのはいつもの通りでまことにけっこうだが|恰好《かっこう》が|怪《あや》しい。なぜか長門は、昨日見せに来たあの魔女的ルックを今日も身につけているのだ。そんなもんは文化祭当日に着ればいいだろうに何だって今からスタンバっているんだ。
ハルヒなんかすっかり長門の黒マントとトンガリ|帽子《ぼうし》が気に入ってしまったようで、
「あなたの役どごろは『悪い宇宙人の魔法使い』に|変更《へんこう》するわ!」
と、さっそく|脚本《きゃくほん》をねじ曲げてしまった。アンテナ型指し棒の先にクリスマスツリーのてっぺんにあるような星形を付け、長門に持たせて|悦《えつ》に|入《い》っているハルヒと、その棒を|握《にぎ》ってじっとしている長門を見ていたら、なんだか俺でさえ、この無口な読書マニアが宇宙人的魔法使いであることに異論がなくなりそうな|案配《あんばい》である。情報生命体の|端末《たんまつ》ってよりはそっちのほうが端的に長門の|特徴《とくちょう》を明示しているかもな。魔法みたいな力を持っているのは確かだ。この目で見たから間違いない。
長門は黒帽子の|縁《ふち》を不意に上げ、相変わらずの無機質な目で俺を見た。
「………」
他クラスの用意した|衣装《いしょう》を勝手に|撮影《さつえい》用コスチュームにしてしまっていいのか一抹の疑問は発生するが、ハルヒの眼中にはどんなクエスチョンマークも存在しないようだ。
「キョン! カメラの用意はいいわね! 古泉くんはそっちの荷物お願いね。みくるちゃん、なんで机にしがみついてんの? こら、さっさと立って歩きなさい!」
か弱き朝比奈さんの|抵抗《ていこう》は|儚《はかな》いものだった。ハルヒは非力なウェイトレス少女の首根っこをつかんで引きはがすと、ひええとか言ってる|小柄《こがら》な身体をずるずる引きずってドアへ向かった。その後を長門が黒マントの|裾《すそ》を引きずりながらついて行き、最後に古泉が俺にウインクをかまして|廊下《ろうか》へと消えた。
さて俺も行かないといけないのかなと考えていると、
「こらーっ! 撮影係がいないと映画になんないでしょうがっ!」
ハルヒが開いた|扉《とびら》の陰から上半身を見せて顔の半分を口にして|叫《さけ》び、俺はハルヒの|左腕《ひだりうで》にある|腕章《わんしょう》の文字が「|大《だい》|監督《かんとく》」になっているのを認めて、|暗澹《あんたん》たる思いに駆られた。
どうやら本気らしいぞ、この女。
まだ一つも映画を|撮《と》っていない|自称《じしょう》大監督を先頭に、美少女ウェイトレスが顔を地面に向けたまま続いて、その後を|闇色《やみいろ》の|魔法《まほう》少女が影のように歩き、古泉が|紙袋《かみぶくろ》を|抱《かか》えて爽やかに|微笑《びしょう》しつつ……という|奇怪《きかい》な一団と可能な限り|距離《きょり》を置いて俺は|最後尾《さいこうぴ》にいた。
校舎を移動していた時点ですでにもう注目度満点だったが、ハロウィンパーティみたいな一行は校門の外でも人目を集め、中でも視線独り|占《じ》め状態に置かれた朝比奈さんは二分くらい歩いたところでうつむき始め、三分で赤くなり、五分くらいした今では精気が|抜《ぬ》けたような|虚《うつ》ろな足取りでロボット歩きしている。
天変地異の前兆みたいな|機嫌《きげん》の良さで『天国と|地獄《じごく》』のサビをハミングしているのは先導を務めるハルヒである。いつの間に用意したのか右手に黄色のメガホン、左手にディレクターズチェアを|提《さ》げて意気|揚々《ようよう》、まるで草原を西進するモンゴル軍|騎兵《きへい》のような勢いだ。そのままどこに|突撃《とつげき》するのかと思ったら|辿《たど》り着いたのは駅だった。人数分の|切符《きっぷ》を買って来たハルヒは、俺たちに配り終えると、当然のような顔をして改札へ進軍する。
「待て」
言葉を失っている朝比奈さんに代わって俺が異議申し立てをおこなった。俺は通行人の|好奇《こうき》の|眼差《まなざ》しを|独占《どくせん》しているミニスカウェイトレスと、その横で付き人のように|控《ひか》えているチンチクリンの黒衣|娘《むすめ》を指してから、
「この恰好で電車に乗せるつもりなのか?」
「何か問題あるの?」とハルヒはしらばっくれる。「|素《す》っ|裸《ぱだか》なら|捕《つか》まるかもしれないけど、ちゃんと服着てるじゃん。それより何? バニーガールのほうがよかったの? なら先に言いなさいよ。『戦うバニーちゃん(仮)』でもあたしなら全然かまわないわよ」
わざわざウェイトレス衣装を持ってきた|奴《やつ》の言うセリフじゃねえ……ってより、今度のコンセプトはこれだとか言ってなかったか? よく知らないが、コンセプトってのはそう簡単に変更してしまってもいいものなのか。
俺がクリエイターの心情を|垣間《かいま》|見《み》るべく脳ミソを働かせていると、
「一番大切なのは臨機応変に対応することなの。地球の生き物はそうやって進化してきたんだからね。|環境《かんきょう》適合ってやつよ。ぼんやりしてたら|淘汰《とうた》されるだけなのよ! ちゃんと適合しないといけないのっ!」
何に適合すればいいんだろうな。環境に意思があるなら真っ先にハルヒを大気圏の外に放り出しそうだが。
古泉はニタニタ笑っているだけの荷物持ちと化し、長門は例の調子で無言続行、朝比奈さんは声を出す気力もないようで、つまり俺以外の全員が|沈黙《ちんもく》を守っている。
どうにかして欲しい。
ハルヒはその沈黙を自分の言葉があまりの|感銘《かんめい》を生んだからだと|解釈《かいしゃく》したようで、
「ほら、電車来たわ。きりきり歩くのよ、みくるちゃん。本番はこれからなんだからねっ」
同情すべき動機で人を殺してしまった女犯人を連行する|刑事《けいじ》のように、朝比奈さんの|肩《かた》を|抱《だ》いて改札へ歩き出すのだった。
で、だ。降りたところは|一昨日《おととい》と同じ駅で、向かった先も同じ商店街である。もしやと思っていたら訪問する店も同じだった。ハルヒが|交渉《こうしょう》の末にビデオカメラをゲットした電器屋さん。
「約束通り来ましたーっ!」
元気よく入店したハルヒが叫び、奥からオッサンがのっそり出てきて、朝比奈さんに目を留める。
「ほうほう」
オッサンはそれだけでセクハラになりそうな|笑《え》みを広げて我等が主演女優を見た。朝比奈さんは必殺|技《わざ》を出し終えた|格闘《かくとう》ゲームキャラみたいに|硬化《こうか》中である。オッサンはさらに、
「それ、一昨日の子? |見違《みちが》えたね。ほうほう。じゃあ、よろしく|頼《たの》むよ」
何を頼むつもりなんだ。俺は反射的にビクっとする朝比奈さんを背後にかばおうとして前進しかけたところをハルヒに押し|戻《もど》された。
「はいはい、打ち合わせるから、みんなちゃんと聞きなさい」
そしてハルヒは、体育祭のクラブ|対抗《たいこう》リレーで優勝した直後と同じような笑顔を|咲《さ》かせて宣告した。
「これからCM撮りを開始します!」
「こ、ここの店は、えーと、店長さんがとっても親切です。それにナイスガイです。現店主である|栄二郎《えいじろう》さんのお|爺《じい》さんの代からやってます。|乾《かん》電池《でんち》から冷蔵庫までなんでも|揃《そろ》います。えー、……あとは、えーと」
ウェイトレス朝比奈さんが引きつりまくった笑顔で必死の棒読みをしている。その横には「大森電器店」と書かれたプラカードを|掲《かか》げた長門が直立していて、その二人の姿は俺が|覗《のぞ》き込んでいるビデカメのファインダーに映っていた。
朝比奈さんは見事なギコチナイ作り笑いをして、どこにも|繋《つな》がっていないマイクを持っていた。
俺の横には古泉がいて、|微《び》|苦笑《くしょう》しながらカンペを掲げ持っている。カンペはついさっきハルヒが深く考えもせず|殴《なぐ》り書きしたスケッチブックだ。古泉は朝比奈さんのセリフ回しに応じてそれをめくってやっている。
電器店の店頭で、商店街のまっただ中である。
ハルヒはディレクターズチェアに|腰掛《こしか》けて足を組み、難しい顔をして朝比奈さんの演技を観察していたが、
「はいカット!」
|掌《てのひら》にメガホンを|叩《たた》きつけた。
「どうも感じが出ないわね。イマイチ伝わってこないのなぜかしら。なんかこう、グッと来るものがないのよ」
そんなことを言いながら|爪《つめ》を|噛《か》んでいる。
俺はやれやれとばかりにビデオカメラを停止させた。マイクを両手で|握《にぎ》りしめている朝比奈さんも停止している。長門は元から停止しっぱなしで、古泉は|微笑《ほほえ》みっぱなし。
背後、商店街を行く通行人たちは何事かと、ざわめきっぱなしだった。
「みくるちゃんの表情が|硬《かた》いのよね。もっと心から自然な感じで笑いなさい。なんか楽しいことを思い出すの。ってゆうか、いま楽しいでしょ? あなたは主役に抜擢《ばってき》されてるのよ? これ以上の喜びはあなたの人生でも二度とないくらいなのよ!」
いい加減にしろと言いたいね。
昨日のハルヒと店長の対話を二行で表現すると、以下のようになるようだ。
「映画の途中《とちゆう》にこの店のCM入れてあげるからビデオカメラちょうだい」
「いいとも」
そんなハルヒの口車に乗った店長もどうかしているが、CM入り白主映画を作って上映しようなどと考えたハルヒはどうかしすぎである。上映の真っ最中に主演女優がCMまでこなす映画なんて聞いたこともない。せめて映画の|舞台《ぶたい》としてさり気なく背景に映すならまだしも、これでは完全にコマーシャルフィルムだ。
「わかったわ!」
ハルヒが一人で大声を上げている。頼むからお前は何も|解《わか》るな。
「電器屋さんにウェイトレスがいるのが引っかかるのよ」
お前が持ってきた|衣装《いしょう》だろうが。
「古泉くん、その|袋《ふくろ》貸して。そっちの小さいやつ」
ハルヒは古泉から紙袋を受け取ると放心している朝比奈さんの手をつかんだ。そして店内にずかずか入っていき、
「店長ー、奥で|着替《きが》えできそうな部屋ある? うん、どこでもいいわ。なんならトイレでも。そう? じゃあ倉庫借りまーす」
そんなことを言いながら平気で上がり込み、店の奥へと朝比奈さんを連行して消えた。|可哀《かわい》|想《そう》な朝比奈さんはもはや|抵抗《ていこう》の気力も残っていないらしい。ハルヒのバカ力につんのめりながら、おとなしくついていく。この衣装が|脱《ぬ》げるのなら何でもいいと考えたのかもしれないな。
残された俺と古泉、長門はすることもなくただ立っていた。黒装束の長門は身じろぎもせずにプラカードを構えたまま、ハンディカメラを見つめている。よく手が|疲《つか》れないもんだ。
古泉が俺に微笑みかけた。
「このぶんでは僕の出番はなさそうですね。実はクラスの舞台劇でも僕は役者になることになってしまいましてね。多数決で。ですからセリフ覚えに四苦八苦しているのですよ。こちらでは出来るだけセリフの少ない役がいいのですが……。どうです? あなたが主演をしてみては」
キャスティング権を握っているのはどうせハルヒだ。そういう注文は|奴《やつ》につけてくれ。
「そんな|畏《おそ》れ多いことが僕に出来ると思いますか? プロデューサー|兼《けん》|監督《かんとく》に|一介《いっかい》の俳優が口出しするなんて、僕にはおよびもつきませんね。なにしろ涼宮さんの命令は絶対のようですし、|背《そむ》いた後にどんなしっぺ返しを|喰《く》らうかなんて想像したくありません」
俺だってしたくない。だからこうやってカメラマンなんかをやってるんじゃないか。しかも|撮《と》ってるのは映画じゃなくて個人営業|店舖《てんぽ》のローカルCFだ。地域密着にもほどがあるぜ。
|今頃《いまごろ》店の奥では、例のどたばたが|繰《く》り広げられているのだろうな。|嫌《いや》がる朝比奈さんを好きに|剥《む》いているハルヒの|絵面《えづら》。今度は何を着せているのかは知らないが、どうせならあいつが着ればいいんだ。ルックス的に朝比奈さんといい勝負ができるだろうに、自分が主演するという発想はあいつにはないのか?
「お待たせ!」
出てきた二人組のうち、当然のごとくハルヒは制服のままだった。もう一人の姿|恰好《かっこう》を見るや、俺の|脳裏《のうり》に|走馬燈《そうまとう》がよぎった。ああ、もうあれも半年前の出来事だったんだなあ。月日の|経《た》つのは早いもんだよなあ。この半年間いろんなことがあったんだよなあ。草野球とか|孤島《ことう》とかあれとかこれとか、今となってはいい思い出かもなあ。……な、わけねえだろ。
|懐《なつ》かしの朝比奈みくるコスプレ第一|弾《だん》、ハルヒとともに校門に|出没《しゅつぼつ》し、全校の話題をさらい朝比奈さんの精神に外傷を負わせた|露出《ろしゅつ》過多のコスチューム。
非の打ち所のない完全にして無欠のバニーガールが|頬《ほお》を染めつつ目を|潤《うる》ませつつ、よろりとしながらハルヒの横でウサ耳を|揺《ゆ》らしていた。
「うん、これでバッチリ。やっぱ商品の|紹介《しょうかい》にはバニーよね」
わけの解らないことを言いながらハルヒは朝比奈さんを上から下まで|眺《なが》め回し、満足げな|笑《え》|顔《がお》満開、朝比奈さんは|哀愁《あいしゅう》全開で半開きの口から|魂《たましい》が出かかっている。
「さ、みくるちゃん。最初からやり直しね。そろそろセリフも覚えたでしょ。キョン、初っぱなから巻き|戻《もど》して」
このぶんでは|誰《だれ》もセリフを聞くことはないだろう。上映の最中、朝比奈さんのバニー姿に|釘《くぎ》|付《づ》けになるに|違《ちが》いないね。スクリーンに穴が|空《あ》かなければいいのだが。
「じゃ、テイク2!」
ハルヒが高らかに|叫《さけ》び、メガホンをばっちんと|叩《たた》いた。
半泣き半笑いの朝比奈さんをハルヒが思うままに操作する電器店CMが何とか|終了《しゅうりょう》した。まるで悪徳マネージャーに|操《あやつ》られる外人レスラーのようなアングルだ。
しかし、ここで俺たちが|訪《おとず》れたスポンサーとやらはもう一|軒《けん》あったことを思い出さねばならない。思い出すまでもないか。ハルヒは最初からそのつもりだったんだな。
「ひぃ」とか「ぴぃ」とか可愛らしい悲鳴を|漏《も》らすバニー朝比奈さんを引きずって、ハルヒは商店街のど真ん中を歩いている。その|背後《はいご》|霊《れい》になっている長門はとことん無感動に|魔女《まじょ》ルックのまま、俺と古泉は並んでブラブラと。
せめてもの|慰《なぐさ》めとして、朝比奈さんの|肩《かた》には俺のブレザーがかかっている。かえって目立っているかもしれない。なんかもう、|特殊《とくしゅ》な|趣味《しゅみ》の世界である。断っておくが俺の趣味ではないぜ。
到着した二軒目の模型店でも似たようなことが繰り返された。|衆人《しゅうじん》|環視《かんし》の中、朝比奈さんは|涙目《なみだめ》を俺――つまリカメラ――に向けながら、
「こ、この模型店さんは、|山土《やまつち》|啓治《けいじ》さん(28)が周囲の反対を押し切り、去年|脱《だつ》サラして開店オープンしました。趣味がこうじたばっかりに……やっちゃったって感じです……。案の定、思うように売上げは|伸《の》びず、今年度前期は昨年対比で|伸長率《しんちょうりつ》八十%、折れ線グラフは|右肩《みぎかた》下がり……なのでえ! |皆《みな》さんどんどん買いに来てあげてくださぁい!」
朝比奈さんの|語尾《ごび》は完全に裏返っている。にしても、こんなナレーションに山土店主はオーケーを出したのか? どうもヤケになってるとしか思えないな。こんなこと高校生に思われたくもないだろうが。
バニーガールは|強引《ごういん》に持たされたアサルトライフルの|銃口《じゅうこう》を上に向け、
「人に向けて|撃《う》ってはいけませーん。空き|缶《かん》でも撃って|我慢《がまん》しましょうっ」
その後ろでは、長門がどこを見ているのか|解《わか》らない目で「ヤマツチモデルショップ」と書かれたプラカードを|捧《ささ》げている。シュールな光景だった。朝倉涼子は|普通《ふつう》に感情のある人間に見えたから宇宙人製人造人間が全員こんなロボットみたいな奴ばかりではないらしく、長門が無感情なのはそういう仕様なのだろう。
さらに朝比奈さんはライフル銃を地面に置いた空き缶に向けて乱射しつつ、
「ひええっ。当たったらとても痛いと思いますっ。ひょええっ」
|怯《おび》えながらアルミ缶を|蜂《はち》の|巣《す》にするという|模範《もはん》|射撃《しゃげき》までおこなって、|野次馬《やじうま》たちのどよめきを|誘《さそ》っていた。命中したのは一割くらいのもんだったが。
こんな映像をDVカセットに録画してると申しわけない気分になってくるね。朝比奈さんにも、このビデオカメラの開発設計者にも。こんなことをするために世に出てきたわけではあるまいに。
そんなこんなで、この日はマヌケなCM|撮《ど》りだけで終わった。
俺たちはいったん学校まで|舞《ま》い戻り、部室にて次の|撮影《さつえい》スケジュールをハルヒから聞いているところだ。
「明日は土曜日で休みだから、朝から全員集合ね。北口駅前に九時には来ていること。いいわねっ!」
ところで、コマーシャルシーンだけですでに十五分以上|費《つい》やしているわけだが、本編はどれくらいの長さになるんだ? 三時間もの大作を文化祭で流しても誰も最後まで|観《み》てくれそうにないぞ。回転率も悪そうだしさ。
それに、と俺はひしゃげた朝比奈さんを見ながら考えた。行きはウェイトレス、帰りはバニーガールで電車にまで乗った朝比奈さんはやっとのことで制服に|着替《きが》え終え、ぱたりと|倒《たお》れるようにうずくまった。このままの調子で撮影が進んだら主演女優が|途中《とちゅう》で|寝込《ねこ》んでしまう|恐《おそ》れがある。
俺はテーブルに額を当ててくったりしている朝比奈さんの代わりに古泉が|淹《い》れた|玄米《げんまい》茶を飲み干してから、
「なあハルヒ、朝比奈さんの|恰好《かっこう》だがもうちょっと何とかならないか? もっとこう、戦うんであれば戦いそうな|衣装《いしょう》があるだろうよ。|戦闘《せんとう》服とか|迷彩《めいさい》服とか」
ハルヒは星マーク付きアンテナ棒をちっちっと|振《ふ》った。
「そんなんで戦っても意外性がないじゃない。ウェイトレスが戦うから、おおっ――と思わすことができるのよ。ツカミが|肝心《かんじん》なの。コンセプトよ、コンセプト」
コンセプトの意味解って言ってるんだろうか。俺は|嘆息《たんそく》するしかない。
「まあ……。それはいいけどさ。なんでわざわざ未来から来たことにするんだ? 別に未来人じゃなくてもいいじゃねえか」
ぴく、と|突《つ》っ|伏《ぷ》す朝比奈さんの肩が|揺《ゆ》れ動いた。ハルヒは気付かずへこたれない。
「そんなもんはね、後から考えればいいのよ。ツッコマれたときに考えたらすむことだわ」
だから俺が今ツッコンでるんじゃねえか。答えろよ。
「考えても思いつかなかったら無視しときゃいいのよ! どうだっていいじゃないの。|面白《おもしろ》ければなんだっていいのよ!」
それは面白かった場合だけの話だろうが。お前の撮ろうとしている映画が面白くなる確率はどれほどのものなんだ? 面白がるのが|監督《かんとく》のみなんてのを撮っても仕方がないだろ。ゴールデンラズベリー賞シロウト部門ノミネートでも|狙《ねら》ってるのか?
「なにそれ。狙うのは一つよ。文化祭イベントベスト投票一位よ! それに、できたらゴールデングローブも。そのためにもみくるちゃんにはそれなりの恰好をしてもらわないと困るの!」
|誰《だれ》も困りはしないと思うのだが、どうやらハルヒが観て|激怒《げきど》した映画とやらはいつの年かは知らないがゴールデングローブ賞受賞作らしいな。
もう一度ため息をついて、ふと横を見る。黒装束の長門は部室に入るなり|隅《すみ》の方に引っ込んでお|馴染《なじ》みの読書にふけっていた。こいつはあれか、この部屋にいるときは本を読んでないと死ぬのか?
「待てよ」
本好き宇宙人を見ているうちに思いついた。
「おい、|脚本《きゃくほん》をまだもらってないぞ」
それどころかストーリーすら知らされていない。|解《わか》っているのは朝比奈さんが未来ウェイトレスで古泉がエスパー少年で長門が悪い宇宙人の|魔法《まほう》使《つか》いという設定だけだ。
「だいじょうぶ」
ハルヒは何のつもりだろう、いきなり目を閉じて、棒の星マークの先で自分のこめかみを突っついた。
「ぜーんぶ、こん中にあるから。脚本も絵コンテもバッチリドンドンよ。あんたは何も考えなくていいわ。あたしがカメラワークを考えてあげるから」
|随分《ずいぶん》な言いぐさだな。お前こそ何も考えずにぼんやり窓の外でも|眺《なが》めてりゃいいんだ。マシな表情さえしてれば、その様子だけで朝比奈さんとチェンジできるぜ。
「明日よ、明日! みんな、気合い入れていくわよ。栄光を勝ち取るにはまず精神諭からよ。それがお金をかけずに勝利する手っ取り早い方法なの。心のタガが外れたとき、自分でも知らなかった|潜在《せんざい》能力が|覚醒《かくせい》して思わぬパワーを生み出すわけよ。そうよね!」
そりゃバトルマンガの逆ギレ合戦的展開ではそうかもしれないが、いくら精神論とナショナリズムを振りかざしたところでサッカー日本代表が|W杯《ワールドカップ》で優勝するにはまだ時間がかかりそうだぞ。
「じゃ、今日は解散! 明日をお楽しみにっ! キョン、カメラとか小道具とか衣装とか、荷物忘れちゃダメよ。時間厳守!」
言い残し、ハルヒは勇ましく|鞄《かばん》を振り回して出て行った。|廊下《ろうか》を遠ざかる『ロッキー』のテーマを聞きながら、俺はうずたかく積まれた荷物とやらを|恨《うら》めしく眺めた。この監督の横暴をどこの組合に|訴《うった》え出ればいいのだろうか。
実際のところ、この日までの俺たちの学園ライフは、ハルヒが異常なまでの情熱を映画にかけて、かけたついでに段々|脱線《だっせん》していくというだけの、単なる|平凡《へいぼん》な日常が連続しているにすぎなかった。全国の学校をくまなく調査でもすれば、似たようなことをしている一団は俺たちの|他《ほか》にもいるだろう。早い話が、『|普通《ふつう》』なのだ。
俺は長門の親類に|襲《おそ》われたりしてないし、朝比奈さんと時を|駆《か》けてもいないし、発光性の青カビみたいな|巨人《きょじん》|野郎《やろう》も出てきていないし、バカみたいな真相が待ち受ける殺人事件も起こっていない。
めちゃ普通の学園生活だ。
|迫《せま》り来る文化祭という祭り事カウントダウンに|踊《おど》らされ、いささかハイになったハルヒがアドレナリンをせっせと|分泌《ぶんぴつ》して頭に飼っているハムスターを|鞭《むち》でシバきたて輪っかをマッハで回しているようなものだ。
要するに、いつものことなのだった。
――この日まではな。
思うに、これでもまだハルヒは自分なりにセーブしていたんだろう。よく考えたら、まだ映画なんて一コマも|撮《と》っていない。デジタルビデオテープに記録してあるのは、朝比奈さんがバニースタイルで地元商店街の電器店とプラモ店を|紹介《しょうかい》するというスポンサー対策にすぎない。ハルヒ総指揮総|監督《かんとく》によるSOS団プロデュース映画作品の|全貌《ぜんぼう》はまったく明らかになっておらず、|片鱗《へんりん》すら出てこず、ストーリーラインすら不明なのであった。
不明のままのほうがよかったな。
上映するのは朝比奈さんの商店街リボート映像集でかまやしない。と言うか、そっちの方が客を呼べるんじゃないか? 地域|振興《しんこう》策にもなって一石二鳥だろうさ。いやもう、いっそのこと朝比奈みくるプロモーションビデオクリップにしてしまえよ。俺はそのほうが|嬉《うれ》しいそ。|撮影《さつえい》担当としての、これは俺の本音だ。
しかしながら、ハルヒがそれで満足などしないのも解りきっていた。こいつは言い出したことは必ず|完遂《かんすい》する。やると言ったらやるのだ。|途中《とちゅう》で投げ出したりなんかはしないのだ。なんと|迷惑《めいわく》な有言実行だろうね。
てなわけで、この翌日からまたまたけったいな事態に俺たちは|陥《おちい》ることになったのだが、いやまったく、何と言うべきかな。ハルヒは何と言ってたっけ?
心のタガが外れたとき、自分でも知らなかった潜在能力が覚醒して思わぬパワーを生み出して――とかだったか。
なるほど。
でもなあ、ハルヒ。
よりにもよって、お前が覚醒することはないじゃないか。
それもお前の自覚なしにさ。