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 第五章

 週明け、そろそろ梅雨《つゆ》を感じさせる湿気《しっけ》を感じながら登校すると着いた頃《ころ》には今までにも増して汗《あせ》みずくになった。誰《だれ》かこの坂道にエスカレータを付けるという公約を掲《かか》げて選挙に出る奴《やつ》はいないものか。将来選挙権を得たときにそいつに投票してやってもいい。
 教室で下敷《しがじ》きを団扇《うちわ》代わりにして首元から風を送り込んでいたら、珍《めずら》しく始業の鐘《かね》ギリギリにハルヒが入ってきた。
 どすりと鞄《かばん》を机に投げ出し、
「あたしも扇《あお》いでよ」
「自分でやれ」
 ハルヒは二日前に駅前で別れたときとまったく変化のない仏頂面《ぶっちょうづら》で唇を突《つ》き出していた。最近マシな顔になったと思っていたのに、また元に戻《もど》っちまった。
「あのさ、涼宮。お前『しあわせの青い鳥』って話知ってるか?」
「それが何?」
「いや、まあ何でもないんだけどな」
「じゃあ訊《き》いてくんな」
 ハルヒは斜《なな》め上を睨み、俺は前を向き、岡部教師がやって来てホームルームが始まった。

 この日の授業中、不機嫌《ふきげん》オーラを八方に放射するハルヒのダウナーな気配がずっと俺の背中にプレッシャーを与《あた》えていて、いや、今日ほど終業のチャイムが福音《ふくいん》に聞こえた日はなかった。山火事をいち早く察知した野ネズミのように、俺は部室|棟《とう》へと退避《たいひ》する。
 部室で長門が読書する姿は今やデフォルトの風景であり、もはやこの部屋と切り離《はな》せない固定の置物のようでもあった。
 だから俺は、一足先に部室に来ていた古泉一樹にこのように言った。
「お前も俺に涼宮のことで何か話があるんじゃないのか?」
 この場には三人しかいない。ハルヒは今週が掃除《そうじ》当番だし朝比奈さんはまだ来ていない。
「おや、お前も、と言うからにはすでにお二方からアプローチを受けているようですね」
 古泉は、昨日図書館から借り出した本に顔を埋《うず》めている長門を一瞥《いちべつ》する。すべてを知っているみたいな訳知り口調が気に入らない。
「場所を変えましょう。涼宮さんに出くわすとマズイですから」
 古泉が俺を伴《ともな》って訪れた先は食堂の屋外テーブルだった。途中《とちゅう》で自販機《じはんき》のコーヒーを買って俺に手渡《てわた》し、丸いテーブルに男二人でつくのもアレだけども、この際仕方がない。
「どこまでご存じですか?」
「涼宮がただ者ではないってことくらいか」
「それなら話は簡単です。その通りなのでね」
 これは何かの冗談《じょうだん》なのか? SOS団に揃《そろ》った三人が三人とも涼宮を人間じゃないみたいなことを言い出すとは、地球温暖化のせいで熱気にあてられてるんじゃねえのか。
「まずお前の正体から聞こうか」
 宇宙人と未来人には心当たりがあるから、
「実は超能力《ちょうのうりょく》 者でして、などと言うんじゃないだろうな」
「先に言わないで欲しいな」
 古泉は紙コップをゆるゆると振って、
「ちょっと違《ちが》うような気もするんですが、そうですね、超能力者と呼ぶのが一番近いかな。そうです、実は僕は超能力者なんですよ」
 俺は黙《だま》ってコーヒーを飲んだ。減糖しておくべきだった。甘ったるい。
「本当はこんな急に転校してくるつもりはなかったんですが、状況《じょうきょう》が変わりましてね。よもやあの二人がこうも簡単に涼宮ハルヒと結託《けったく》するとは予定外でした。それまでは外部から観察しているだけだったんですけど」
 ハルヒを珍しい昆虫《こんちゅう》か何かみたいに言うな。
 俺の眉《まゆ》が寄ったのを見てとったか、
「どうか気を悪くしないで下さい。我々も必死なんですよ。涼宮さんに危害を加えたりはしませんし、むしろ我々は彼女を危機から守ろうとしているんですから」
「我々ってことは、お前の他《ほか》にもいっぱいいるのか。その超能力者とやらは」
「いっぱいってことはないですが、それなりには。僕は末端《まったん》なので正確には知りませんが、地球全土で十人くらいでしょう。その全員が『機関』に所属しているはずです」
『機関』と来たか。
「実体は不明です。構成員が何人いるのかも。トップにいる人たちがすべてを統括《とうかつ》しているそうですが」
「……それで、その『機関』なる秘密結社は何をする団体なんだ」
 古泉はぬるくなったコーヒーで唇《くちびる》を湿《しめ》らせ、
「あなたの想像通りですよ。『機関』は三年前の発足《ほっそく》以来、涼宮ハルヒの監視《かんし》を最重要|事項《じこう》にして存在しています。きっぱり言い切ってしまえば、涼宮さんを監視するためだけに発生した組織です。ここまで言えばそろそろお解《わか》りでしょうが、この学校にいる『機関』の手の者は僕だけではありません。何人ものエージェントがすでに潜入《せんにゅう》済みです。僕は追加要員としてここに来ました」
 だしぬけに俺は谷口の顔を思い出した。ハルヒとは中学からずっと同じクラスであるとか言っていた。まさか、あいつも古泉と同種類の人間なのか?
「さあ、それはどうでしょう」
 古泉はするりとしらばっくれ、
「しかしまあ、それなりの人員が涼宮さんの周りにいることは保証してもいいですよ」
 どうしてみんなそんなにハルヒが好きなんだ。エキセントリックで居丈高《いたけだか》で周囲の迷惑《めいわく》を顧《かえり》みない自己中女のどこにそんな大げさな組織から狙《ねら》われるような要因があると言うんだ。見てくれはいいのは認めてやっていいが。
「今から三年前に何があったのかは解りません。僕に解るのは、三年前のあの日、突然《とつぜん》僕の身に超能力としか思えない力が芽生えたことですね。最初はパニックでしたよ。怖《こわ》い思いもずいぶんしましたしね。すぐに『機関』からお迎《むか》えが来て救われましたが、あのままではてっきり自分の頭がおかしくなったと思って自殺してたかもしれません」
 その時から今までずっとお前の頭はおかしくなり続けなんじゃないか。
「ええ、その可能性もなくはない。しかし我々はもっと畏怖《いふ》すべき可能性を危惧《きぐ》しているのですよ」
 自嘲《じちょう》的な笑《え》みと一緒《いっしょ》にコーヒーを飲み込んだ古泉は不意に真顔になった。
「あなたは、世界がいつから存在していると思いますか?」
 えらくマクロな話に飛んだな。
「遥《はる》か昔にビックバンとかいう爆発《ばくはつ》が起きてからじゃないのか」
「そういうことになってますね。ですが我々は一つの可能性として、世界が三年前から始まったという仮説を捨てきれないのですよ」
 俺は古泉の顔を見返した。正気の沙汰《さた》とは思えんな。
「そんなわけがないだろ。俺は三年前より以前の記憶《きおく》だってちゃんとあるし、親だって健在だ。ガキの頃《ころ》にドブに落ちて三針|縫《ぬ》った傷跡《きずあと》だってちゃんと残ってる。日本史で必死こいて覚えている歴史はどうなるんだよ」
「もし、あなたを含《ふく》める全人類が、それまでの記憶を持ったまま、ある日突然世界に生まれてきたのではないということを、どうやって否定するんですか? 三年前にこだわることもない。いまからたった五分前に全宇宙があるべき姿をあらかじめ用意されて世界が生まれ、そしてすべてがそこから始まったのではない、と否定出来る論拠《ろんきょ》などこの世のどこにもありません」
「…………」
「例えば、仮想現実空間を考えてみて下さい。あなたが脳に電極を埋《う》め込まれ、見ている映像や空気の匂《にお》いやテーブルを触《さわ》った感覚などが、全部直接脳に与《あた》えられている情報なのだとしたら、あなたはそれが本当の現実でないと気付くことはないでしょう。現実とは、世界とは意外に脆《もろ》いものなんです」
「……それはそれでいいことにしておこう。世界が三年前か五分前に始まったってのもまあいい。そこから何をどう捻《ひね》ったらハルヒの名前が出てくるんだ?」
「『機関』のお偉《えら》方は、この世界をある存在が見ている夢のようなものだと考えています。我々は、いやこの世界そのものがその存在にとっての夢にすぎないのではないかとね。なにぶん夢ですから、その存在にとって我々が現実と呼ぶ世界を創造したり改変したりすることなどは児戯《じぎ》にも等しいはずです。そして我々はそんなことの出来る存在の名を知っています」
 丁寧《ていねい》語で落ち着いた喋《しゃべ》りのせいか古泉の顔つきは腹立たしいほど大人びて見えた。
「世界を自らの意思で創ったり壊《こわ》したり出来る存在――人間はそのような存在のことを、神、と定義しています」
 ……おい、ハルヒ。お前とうとう神様にまでされちまったぞ。どうすんだ。
「ですから『機関』の者は戦々恐々《せんせんきょうきょう》としているんですよ。万が一、この世界が神の不興を買ったら、神はあっさり世界を破壊《はかい》して一から創り直そうとするかもしれません。砂場に作った山の形が気に入らなかった子供のように。僕はいくら矛盾《むじゅん》に満ちた世の中だとは言え、この世界にそれなりに愛着を抱《いだ》いています。ですので、『機関』に協力しているというわけなんです」
「ハルヒに頼《たの》んでみたらどうだ、世界を壊すのはどうかやめて下さいってな。聞いてくれるかもしれないぞ」
「もちろん涼宮さんは自分がそのような存在であることには無自覚です。彼女はまだ本来の能力に気付いていない。我々は出来れば生涯《しょうがい》気付かないまま平穏《へいおん》無事な人生を送ってもらいたいと考えています」
 ここでやっと古泉は元の笑みを取り戻《もど》した。
「言うならば彼女は未完成の神ですよ。自在に世界を操《あやつ》るまでにはなっていない。ただし未発達ながら、片鱗《へんりん》を見せるようにはなっています」
「どうして解る?」
「あなたは何故《なぜ》我々みたいな超能力《ちょうのうりょく》 者や、あるいは朝比奈みくるや長門有希のような存在がこの世にいると思うんですか。涼宮さんがそう願ったからですよ」
 宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。
 最初に出会った教室の自己|紹介《しょうかい》でハルヒが述べたセリフが蘇《よみがえ》る。
「彼女はまだ自覚的に神のごとき力を発揮出来はしない。無意識のうちに偶然《ぐうぜん》その力を行使しているにすぎません。しかしこの数ヶ月ほど、明らかに人知を越《こ》えた力が涼宮さんから放たれたことは解《わか》っています。その結果は、もう言うまでもありませんね。涼宮さんは朝比奈みくると出会い、長門有希に出会い、そして僕を彼女の一団に加えてしまった」
 俺だけ除《の》け者かよ。
「そうではありません。それどころか、あなたが一番の謎《なぞ》なんです。失礼とは思いましたが、あなたについては色々調べさせてもらいました。保証します。あなたは特別何の力も持たない普通《ふつう》の人間です」
 ほっとしていいのか、悲しむべきなのか。
「解りませんね。ひょっとしたらあなたが世界の命運を握《にぎ》っているということも考えられます。これは我々からのお願いです。どうか涼宮さんがこの世界に絶望してしまわないように注意して下さい」
「ハルヒが神様だと言うのならな」と俺は提案した。「あいつを捕《つか》まえて解剖《かいぼう》でもして、頭の中の仕組みでも調べるなりなんなりしてみたらどうだ。手っ取り早く世界の仕組みが解るかもしれないぞ」
「そのように主張する強硬《きょうこう》派も、確かに『機関』には存在します」
 あっさり古泉はうなずいた。
「ですが、軽々しく手を出すべきではないという意見で大勢は占《し》められています。もしうっかりと神の機嫌《きげん》を損《そこ》ねてしまうようなことがあれば、高確率で取り返しのつかないことになるでしょう。我々が望んでいるのは世界の現状|維持《いじ》ですから、涼宮さんには平和な生活を送っていただけることを希望しています。ヘタを打てば、火鉢《ひばち》の中の焼《や》き栗《ぐり》を取ろうとして結果、火傷《やけど》をすることになるだけですよ」
「……いったいどうすりゃいいんだよ」
「それも解りません」
「もし、もしもだな、ハルヒがポックリ逝《い》っちまったら世界はどうなる?」
「さて、同時に世界も一瞬《いっしゅん》にして消滅《しょうめつ》するのか、神なき世界が続くのか、また新しい神が生まれるのか。誰《だれ》にも解りません。その時が来るまでね」
 紙コップのコーヒーはすっかり冷たくなっていた。飲む気が失《う》せて、俺はそれをテーブルの端《はし》に追いやると、
「超能力者とか言ったよな」
「ええ、我々はまた違《ちが》う名称《めいしょう》をつけていますが、簡単に言えばそれで間違いないでしょう」
「だったら何か力を使って見せてくれよ。そうしたらお前の言うことを信用してやる。例えばこのコーヒーを元の熱さに戻すとか」
 古泉は楽しそうに笑った。含《ふく》み笑い以外の笑《え》み見るのはこれが最初かもしれない。
「すいません無理です。そういう解りやすい能力とはちょっと違うんです。それに普段の僕には何の力もありません。力を使えるのはいくつかの条件が重なって初めて出来ることなんです。お見せする機会もあるでしょう」
 長々と話したりしてすみませんでした、今日はもう帰ります、と言って、古泉はにこやかにテーブルを離《はな》れた。
 俺は軽快に去りゆく古泉の背中が見えなくなるまで見送って、ふと思いついて紙コップを手に取った。
 言うまでもないかもしれないが。
 当然、中身は冷たいままだった。

 部室に戻ると朝比奈さんが下着姿で立っていた。
「……」
 朝比奈さんはフリフリのエプロンドレスを手に持って、ドアノブを握ったまま佇《たたず》む俺をびっくりした猫《ねこ》のように丸い目で見つめて、ゆっくりと口を悲鳴の形に開いていく。
「失礼しました」
 声を出される前に俺は踏《ふ》み出しかけていた足を元の位置に戻《もど》してドアを閉めた。幸いなことに悲鳴は聞かずにすんだ。
 しまったな、ノックすべきだった。いや待て、着替《きが》えるんなら鍵《かぎ》くらいかけておいてくれよなあ。
 網膜《もうまく》に映った白い裸身《らしん》を長期|記憶《きおく》に移行すべきかどうか考えていると、内側から控《ひか》えめなノックの音。「どうぞ……」声も控えめだ。
「すみません」
「いえ……」
 ドアを開けてくれた朝比奈さんの頭二つぶんくらい低いところにある旋毛《つむじ》を見つつ謝る俺に、朝比奈さんは目元をうっすらピンクに染めて、
「わたしこそ、いつも恥《は》ずかしいところばかり見せちゃって……」
 全然けっこうです。
 どうやらハルヒの注文を愚直《ぐちょく》に守っているらしい。朝比奈さんは例のメイド服を着込んでしきりと恥らっていた。
 やっぱり可愛《かわい》い。
 このまま朝比奈さんと見つめ合っていたら、さっきの映像やら何やらが脳内でこんがらがって究極的にダメになりそうだったので、俺は理性を総動員してリビドーを迎撃《げいげき》、団長席に座ってパソコンのスイッチを入れた。
 視線を感じて目を上げると長門有希が珍《めずら》しくこっちを眺《なが》めていて、眼鏡《めがね》のブリッジに手を添《そ》えてちょいと上げ、読書に戻る。奇妙《きみょう》なほど人間くさい仕草に見えた。
 HTMLエディタを起動してホームページファイルを呼び出す。いつまでも代わり映えしないSOS団サイトをどうにかしようと思ったのだが、何をどう発展させればいいのか見当もつかない。いつも無駄《むだ》に時間を浪費《ろうひ》して嘆息《たんそく》とともにファイルを閉じるだけであり、だったらせんでもいいじゃないかという気もしつつ、何せヒマだからな。オセロも飽《あ》きたし。
 腕《うで》を組んで呻吟《しんぎん》する俺の前に湯飲みが置かれた。メイド服の朝比奈さんが、にっこりして盆《ぼん》を掲《かか》げている。もうまるで本物のメイドさんに給仕されている気分。
「ども」
 さっき古泉にコーヒーを奢《おご》られたばかりだが、当たり前だ、ありがたく頂戴《ちょうだい》する。
 朝比奈さんはさらに長門にもお茶を配って、その隣《とな》りに座り、ふーふー冷ましながら煎茶《せんちゃ》を飲み始めた。

 結局その日、ハルヒは部室に姿を現さなかった。

「昨日はどうして来なかったんだよ。反省会をするんじゃなかったのか?」
 例によって例のごとし。朝のホームルーム前に後ろの席に話しかける俺である。
 机に顎《あご》をつけて突《つ》っ伏《ぷ》していたハルヒは面倒《めんどう》くさそうに口を開いた。
「うるさいわね。反省会なら一人でしたわよ」
 訊《き》けばハルヒは土曜日に三人で歩いたコースを、昨日学校が引けた後で一人で廻《めぐ》っていたのだと言う。
「見落としがあったんじゃないかと思って」
 犯行現場に何度も足を運ぶ習性のあるのは刑事《けいじ》だけかと思っていたが。
「暑いし疲《つか》れた。衣替《ころもが》えはいつからなのかしら。早く夏服に着替えたいわ」
 衣替えは六月からだ。後一週間ほど五月は残っている。
「涼宮、前にも言ったかもしれないけどさ、見つけることも出来ない謎《なぞ》探しはすっぱり止《や》めて、普通《ふつう》の高校生らしい遊びを開拓《かいたく》してみたらどうだ」
 ガバッと起きあがって睨《にら》みつけられる……ことを予想したのだが、あにはからんや、ハルヒはぐてっと頬《ほお》を机にくっつけたままだった。疲れているのは本当のようだ。
「高校生らしい遊びって何よ」
 声にも潤《うるお》いがない。
「だから、いい男でも見つけて市内の散策ならそいつとやれよ。デートにもなって一石二鳥だろうが」
 あの日の朝比奈さんとの語らいを思い出しながら俺はそう提案する。
「それにお前なら男には不自由しないぞ。その奇矯《ききょう》な性格を隠蔽《いんぺい》していればの話だが」
「ふんだ。男なんかどうでもいいわ。恋愛《れんあい》感情なんてのはね、一時の気の迷いよ、精神病の一種なのよ」
 机を枕《まくら》にして窓の外へぼんやり視線を固定したまま、ハルヒは無気力に言った。
「あたしだってねー、たまーにだけどそんな気分になったりするわよ。そりゃ健康な若い女なんだし身体《からだ》をもてあましたりもするわ。でもね、一時の気の迷いで面倒ごとを背負い込むほどバカじゃないのよ、わたしは。それにあたしが男|漁《あさ》りに精出すようになったらSOS団はどうなるの。まだ作ったばっかりなのに」
 ほんと言うとまだ出来てもいないんだがな。
「何か適当なお遊びサークルにすればいい。そうすりゃ人も集まるぞ」
「いやよ」
 一言で拒絶《きょぜつ》された。
「そんなのつまんないからSOS団を作ったのに。萌《も》えキャラと謎の転校生も入団させたのに。何も起こらないのは何故《なぜ》なのよ? あああ、そろそろ何かパアッと事件の一つでも発生しないかな」
 こんなに参っているハルヒを見るのも初めてだが、弱気になっている顔は割合可愛かった。笑わなくても普通の顔をしているだけで、こいつはけっこう見栄《みば》えがするんだ。つくづく、もったいない。
 その後、午前の授業中のほとんどを、ハルヒは熟睡《じゅくすい》して過ごした。一度も教師に発見されなかったのは奇跡《きせき》……いや偶然《ぐうぜん》だろう、やはり。

 だがこの時、奇《く》しくも事件はひそかに始まっていたのだ。パアッというほど派手じゃなかったからほとんど誰《だれ》も知らないうちに始まって、また終わった事件なのだが、少なくとも俺は朝のホームルームの時点で、そうだな、足首にまでその事件に浸《つ》かっていたんだ。
 実はハルヒに話しかけながら、俺は一つの懸案《けんあん》事項《じこう》を抱《かか》えていた。その懸案は朝、俺の下駄《げた》箱《ばこ》に入っていたノートの切れ端《はし》。
 そこには、
『放課後誰もいなくなったら、一年五組の教室まで来て』
 と、明らかな女の字で書いてあった。

 どう解釈《かいしゃく》するか、脳内人格を結集して会議を開く必要がある。まず一人目が「前にも同じようなことがあったよな」と言っている。しかしこれはあの栞《しおり》に書いてあった長門の字とは明らかに違《ちが》う。あの自称《じしょう》宇宙人モドキの字は機械のように綺麗《きれい》だったが、この紙切れの字はいかにも女子高生が書きそうな丸みを帯びている。それに長門なら下駄箱にメッセージを入れるなんて率直な手は使わないだろう。すると二人目が「朝比奈みくるってセンはないか」と言い出した。それもどうかと思う。千切ったノートの切れっ端にこんな時間指定もない伝言をよこすとは思えない。そうだな、朝比奈さんだったらちゃんとした封筒《ふうとう》と便箋《びんせん》で書いてくれるであろう。それに一年五組などと俺の教室を場所に指名しているのもおかしい。「ハルヒなら?」と三人目。ますますありえん。あいつならいつかのように階段の踊《おど》り場《ば》まで強引《ごういん》に引っ張って行って話をつけるだろう。似たような理由で古泉説も却下《きゃっか》。四人目がとうとう「じゃあ見も知らない第三の人物からのラブレター」。ラブレターかどうかはさておき、呼び出しを告げる連絡《れんらく》文書であることは確かだ。相手が女とは限らないが。「のぼせるなよ。谷口と国木田あたりのとびっきりジョークかもしれないぜ」。そうだな、その可能性が最も理解しやすい。いかにもアホの谷口がやりそうな頭の悪いギャグの匂《にお》いがプンプンする。が、だったらもっとディテールに凝《こ》るような気もするのだが。
 そんなことを考えながら俺はワケもなく校内を練り歩いた。ハルヒは体調不十分を理由に早々に帰宅しちまった。好都合と言えば好都合だ。
 俺はいったん部室に行くことにした。あまり早く五組に戻《もど》って、それこそ誰もいない教室で誰とも知れない奴《やつ》を待っているのも業腹《ごうはら》だし、待っている最中に谷口がやって来て、「よう、どんだけ待った? あんな紙切れ一枚でひょいひょいやって来るとは、お前も単純だなゲラゲラ」とか言われるともっとシャクに障《さわ》る。時間を潰《つぶ》してから教室をひょいと覗《のぞ》いて、誰もいないことを確認してさっさと帰ろう。うむ、完璧《かんぺき》な作戦だ。
 一人うなずきながら歩いている間に部室の前までたどり着いた。ノックを忘れない。
「はーい、どうぞ」
 朝比奈さんの返事を確認して俺はドアを開ける。朝比奈さんのメイド姿はいつ何回見ても可《か》憐《れん》だ。
「遅《おそ》かったんですね。涼宮さんは?」
 お茶を煎《い》れてくれる姿も様になっている。
「帰りました。何だか疲《つか》れ気味のようでしてね。逆襲《ぎゃくしゅう》するなら今ですよ、弱ってる最中みたいだから」
「そんなの、しませんよー」
 長門が読書に情熱を傾《かたむ》ける姿を背景に、俺たちは向かい合ってお茶を飲んだ。また元の無目的な同好会未満になっている感じ。
「古泉は来てないんですか?」
「古泉くんね、さっきちょっと顔を見せたんだけど、アルバイトがあるからって帰っちゃった」
 何のバイトなんだかな。ま、この様子ではここにいる二人が手紙の主ではなさそうだ。
 他《ほか》にすることもないので俺と朝比奈さんは途切《とぎ》れがちの会話の合間にオセロをして、三戦全勝を俺が飾《かざ》り、次いでネットに繋《つな》いで二人してニュースサイトをぐるぐる回っていると長門がパタリと本を閉じ、最近はそれを部活 |終了《しゅうりょう》の合図にしている俺たちは帰り支度《じたく》を始めた。もうまったく何を活動しているのか解《わか》らない。
 着替《きが》えるから先に帰ってて、という朝比奈さんのお言葉に甘えて俺は部室を飛び出した。
 時計は五時半あたりを指している。教室に残っている生徒など一人としていまい。
 谷口だって痺《しび》れを切らして帰っちまってる時間だろう。それでも俺は二段飛ばしで階段を駆《か》け上がり、校舎の最上階を目指した。何事にも万が一ということがある。だろ?
 人気《ひとけ》の絶《た》えた廊下《ろうか》で、俺は深呼吸一つ。窓は磨《す》りガラスなので中の様子はうかがえないが、西日でオレンジ色に染まっていることだけは解る。俺はことさら何でもなさそうに一年五組の引き戸を開けた。

 誰《だれ》がそこにいようと驚《おどろ》くことはなかったろうが、実際にそこにいた人物を目にして俺はかなり意表をつかれた。まるで予想だにしなかった奴が黒板の前に立っていたからだ。
「遅いよ」
 朝倉涼子が俺に笑いかけていた。
 清潔そうなまっすぐの髪《かみ》を揺《ゆ》らして、朝倉は教壇《きょうだん》から降りた。プリーツスカートから伸《の》びた細い脚《あし》と白いソックスがやけに目に付く。
 教室の中程《なかほど》に進んで歩みを止め、朝倉は笑顔《えがお》をそのままに誘《さそ》うように手を振《ふ》った。
「入ったら?」
 引き戸に手をかけた状態で止まっていた俺は、その動きに誘われるように朝倉に近寄る。
「お前か……」
「そ。意外でしょ」
 くったくなく笑う朝倉。その右半身が夕日に紅《あか》く染まっていた。
「何の用だ?」
 わざとぶっきらぼうに訊《き》く。くつくつと笑い声を立てながら朝倉は、
「用があることは確かなんだけどね。ちょっと訊きたいことがあるの」
 俺の真正面に朝倉の白い顔があった。
「人間はさあ、よく『やらなくて後悔《こうかい》するよりも、やって後悔したほうがいい』って言うよね。これ、どう思う?」
「よく言うかどうかは知らないが、言葉通りの意味だろうよ」
「じゃあさあ、たとえ話なんだけど、現状を維持《いじ》するままではジリ貧《ひん》になることは解ってるんだけど、どうすれば良い方向に向かうことが出来るのか解らないとき。あなたならどうする?」
「なんだそりゃ、日本の経済の話か?」
 俺の質問返しを朝倉は変わらない笑顔で無視した。
「とりあえず何でもいいから変えてみようと思うんじゃない? どうせ今のままでは何も変わらないんだし」
「まあ、そういうこともあるかもしれん」
「でしょう?」
 手を後ろで組んで、朝倉は身体《からだ》をわずかに傾けた。
「でもね、上の方にいる人は頭が固くて、急な変化にはついていけないの。でも現場はそうもしてられない。手をつかねていたらどんどん良くないことになりそうだから。だったらもう現場の独断で強硬《きょうこう》に変革を進めちゃってもいいわよね?」
 何を言おうとしているんだ? ドッキリか? 俺は掃除《そうじ》用具入れにでも谷口が隠《かく》れてるんじゃないかと思って教室を見渡《みわた》した。隠れやすそうな所は、あと教卓《きょうたく》の中とかか。
「何も変化しない観察対象に、あたしはもう飽《あ》き飽きしてるのね。だから……」
 キョロキョロするのに気を取られて、俺はあやうく朝倉の言うことを聞き漏《も》らすところだった。
「あなたを殺して涼宮ハルヒの出方を見る」
 惚《ほう》けているヒマはなかった。後ろ手に隠されていた朝倉の右手が一閃《いっせん》、さっきまで俺の首があった空間を鈍《にぶ》い金属光が薙《な》いだ。
 猫《ねこ》を膝《ひざ》に抱《だ》いて背中を撫《な》でているような笑顔で、朝倉は右手のナイフを振りかざした。軍隊に採用されていそうな恐《おそ》ろしげなナイフだ。
 俺が最初の一撃《いちげき》をかわせたのはほとんど僥倖《ぎょうこう》だ。その証拠《しょうこ》に俺は無様に尻餅《しりもち》をついて、しかもアホ面《づら》で朝倉の姿を見上げている。マウントポジションを取られたら逃《に》げようがない。慌《あわ》ててバッタみたいに跳《と》びすさる。
 なぜか朝倉は追ってこない。
 ……いや、待て。この状況《じょうきょう》は何だ? なんで俺が朝倉にナイフを突《つ》きつけられねばならんのか。待て待て、朝倉は何と言った。俺を殺す? ホワイ、なぜ?
「冗談《じょうだん》はやめろ」
 こういうときには常套句《じょうとうく》しか言えない。
「マジ危ないって! それが本物じゃなかったとしてもビビるって。だから、よせ!」
 もうまったくワケが解らない。解る奴《やつ》がいたらここに来い。そして俺に説明しろ。
「冗談だと思う?」
 朝倉はあくまで晴れやかに問いかける。それを見ているとまるで本気には見えない。笑顔でナイフを向けてくる女子高生がいたら、それはとても怖《こわ》いと思う。と言うか、確かに今俺はめっちゃ怖い。
「ふーん」
 朝倉はナイフの背で肩《かた》を叩《たた》いた。
「死ぬのっていや? 殺されたくない? わたしには有機生命体の死の概念《がいねん》がよく理解出来ないけど」
 俺はそろそろと立ち上がる。冗談、シャレだよな、これ。本気だったらシャレですまされんが。だいたい信じられるわけがないだろ。別に泥沼《どろぬま》化したあげくこっぴどく振った女でもなくクラスでもロクに喋《しゃべ》りゃしない真面目《まじめ》な委員長に刃物《はもの》で斬《き》りつけられるなんて、本気の出来事だと思えるわけがない。
 だが、もしあのナイフが本物だったなら、とっさに避《よ》けなければ俺は今頃《いまごろ》血だまりの中に沈《しず》んでいたに違《ちが》いないだろう。
「意味が解《わか》らないし、笑えない。いいからその危ないのをどこかに置いてくれ」
「うん、それ無理」
 無邪気《むじゃき》そのもので朝倉は教室で女子同士かたまっているときと同じ顔で微笑《ほほえ》んだ。
「だって、わたしは本当にあなたに死んで欲しいのだもの」
 ナイフを腰《こし》だめに構えた姿勢で突っ込んで来た。速い! が、今度は俺にも余裕《よゆう》があった。朝倉が動く前に脱兎《だっと》のごとく走り出し、教室から逃げ出そう――として、俺は壁《かべ》に激突《げきとつ》した。
 ?????
 ドアがない。窓もない。廊下《ろうか》側に面した教室の壁は、まったくの塗《ぬ》り壁さながらにネズミ色一色に染まっていた。
 ありえない。
「無駄《むだ》なの」
 背後から近づいてくる声。
「この空間は、わたしの情報|制御《せいぎょ》下にある。脱出《だっしゅつ》路《ろ》は封鎖《ふうさ》した。簡単なこと。この惑星《わくせい》の建造物なんて、ちょっと分子の結合情報をいじってやればすぐに改変出来る。今のこの教室は密室。出ることも入ることも出来ない」
 振《ふ》り返る。夕日すら消えている。校庭側の窓もすべてコンクリートの壁に置き換《か》わっていた。知らないうちに点灯していた蛍光灯《けいこうとう》が寒々しく並んだ机の表面を照らしている。
 嘘《うそ》だろ?
 薄《うす》い影《かげ》を床《ゆか》に落としながら朝倉がゆっくりと歩いてくる。
「ねえ、あきらめてよ。結果はどうせ同じことになるんだしさあ」
「……何者なんだ、お前は」
 何回見ても壁は壁でしかない。立て付けの悪かった引き戸も磨《す》りガラスの窓も何もない。それとも、どうしかしちまったのは俺の頭のほうなのか。
 俺はじりじりと机の間をぬって朝倉から少しでも離《はな》れようする[#離れようとする?]。しかし朝倉は一直線に俺に向かってきた。机が勝手に動いて朝倉の進路を妨害《ぼうがい》しないようにしているのに比べて、俺の下がる先には必ず机が一団になっている。
 おっかけっこは長く続かず、俺はたちまちのうちに教室の端《はし》に追いやられた。
 こうなったら。
 椅子《いす》を持ち上げて思い切り投げつけてやった。椅子は朝倉の手前で方向|転換《てんかん》すると横に飛んで、落ちた。そんなアホな。
「無駄。言ったでしょう。今のこの教室はすべてあたしの意のままに動くって」
 待て待て待て待て。
 何だこれは。何なんだこれは。冗談でもシャレでも俺か朝倉の頭が変になったわけでもないとしたら、いったいこれは何だ。
 あなたを殺して涼宮ハルヒの出方を見る。
 またハルヒか。人気者だな、ハルヒ。
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「最初からこうしておけばよかった」
 その言葉で俺は身体《からだ》を動かせなくなっているのを知る。アリかよ! 反則だ。
 足が床から生える木にでもなったみたいに微動《びどう》だにしない。手もパラフィンで固められたみたいに上がらない。それどころか指一本動かせない。下を向いた状態で固定された俺の視線に朝倉の上履《うわば》きが入ってきた。
「あなたが死ねば、必ず涼宮ハルヒは何らかのアクションを起こす。多分、大きな情報|爆発《ばくはつ》が観測できるはず。またとない機会だわ」
 知らねえよ。
「じゃあ死んで」
 朝倉がナイフを構える気配。どこを狙《ねら》ってるんだろう。頚動脈《けいどうみゃく》か、心臓か。解っていれば少しは心構えも出来るんだが。せめて目を閉じ……れない。なんつうこっちゃ。
 空気が動いた。ナイフが俺に降ってくる。
 その時。
 天井《てんじょう》をぶち破るような音とともに瓦礫《がれき》の山が降ってきた。コンクリートの破片が俺の頭にぶつかって痛えなこの野郎《やろう》! 降り注ぐ白い石の雨が俺の身体を粉まみれにして、このぶんじゃ朝倉も粉まみれだろう、しかし確認しようにも身体がピクリとも……あれ、動く。
 顔を上げた俺は見た。何を?
 俺の首筋に今にも触《ふ》れようとしているナイフの切っ先とナイフの柄《え》を逆手《さかて》に握《にぎ》って驚《おどろ》きの表情で静止する朝倉とナイフの刃《は》を素手《すで》で握りしめている――素手でだぜ――長門有希の小柄《こがら》な姿だった。
「一つ一つのプログラムが甘い」
 長門は平素と変わらない無感動な声で、
「天井部分の空間|閉鎖《へいさ》も、情報封鎖も甘い。だからわたしに気づかれる。侵入《しんにゅう》を許す」
「邪魔《じゃま》する気?」
 対する朝倉も平然たるものだった。
「この人間が殺されたら、間違《まちが》いなく涼宮ハルヒは動く。これ以上の情報を得るにはそれしかないのよ」
「あなたはわたしのバックアップのはず」
 長門は読経《どきょう》のような平坦《へいたん》な声で、
「独断専行は許可されていない。わたしに従うべき」
「いやだと言ったら?」
「情報結合を解除する」
「やってみる? ここでは、わたしのほうが有利よ。この教室はわたしの情報制御空間」
「情報結合の解除を申請《しんせい》する」
 言うが早いか、長門の握ったナイフの刃が煌《きら》めき出した。紅茶に入れた角砂糖のように、微《び》小《しょう》な結晶《けっしょう》となってサラサラとこぼれ落ちていく。
「!」
 ナイフを放して朝倉はいきなり五メートルくらい後ろにジャンプした。それを見て俺は、ああ、この二人本当に人間じゃないみたいだな、とか悠長《ゆうちょう》なことを思った。
 一気に距離《きょり》を稼《かせ》いだ朝倉は教室の後ろにふわりと着地。微笑《ほほえ》みは変わりない。
 空間がぐにゃりと歪《ゆが》んだ。としか言いようがない。朝倉も机も天井も床《ゆか》もまとめて揺《ゆ》らぎ、液体金属のように変化する様が見て取れたが、よくは見えない。
 ただその空間そのものが槍《やり》のように凝縮《ぎょうしゅく》する、と思った瞬間《しゅんかん》には長門のかざした掌《てのひら》の前で結晶が爆発したことだけが解《わか》った。
 間髪《かんぱつ》置かず、長門の周囲で次々と結晶の粉が炸裂《さくれつ》しては舞《ま》い落ちる。空間を凝《こご》めた槍状の武器が認識不可能な速度で俺たちを襲《おそ》い、長門の手が同様の速度でそのすべてを迎撃《げいげき》していることに気付いたのは、しばらくたってからのことだった。
「離れないで」
 長門は朝倉の攻撃《こうげき》を弾《はじ》きながら片手で俺のネクタイをつかんで引き下ろし、俺は屈《かが》み込んだ長門の背中に乗っかるような体勢で膝《ひざ》をついた。
「うわっ!」
 俺の頭を見えない何かがかすめて黒板を粉々に叩《たた》き潰《つぶ》した。
 長門がチラリと上を見上げる。その刹那《せつな》、天井から氷柱が生えて朝倉の頭上に降り注ぐ。残像だけを残す高速移動。天井色の氷柱が床に何十本ともなく突《つ》き立って林を作る。
「この空間ではわたしには勝てないわ」
 まったくの余裕《よゆう》の表情で朝倉は佇《たたず》んでいる。数メートルの間を挟《はさ》んで長門と対峙《たいじ》。俺はと言うと、情けないことに腰《こし》が立たず、床にへばりついていた。
 長門は俺の頭をまたいで立っていた。生真面目《きまじめ》にも上履きの横に小さく名前を書いているのがこいつらしい。小説の朗読をするような口調で長門は何かを呟《つぶや》いた。こう聞こえた。
「SELECT シリアルコード FROM データベース WHERE コードデータ ORDER BY 攻性情報|戦闘《せんとう》 HAVING ターミネートモード。パーソナルネーム朝倉涼子を敵性と判定。当該《とうがい》対象の有機情報連結を解除する」
 教室の中はもうまともな空間ではなくなっていた。何もかもが幾何《きか》学模様と化して湾曲《わんきょく》し、渦《うず》を巻いて躍《おど》っている。見ていると酔《よ》いそうだ。まるで遊園地のビックリハウスに乗っているような視覚効果。目が回る。
「あなたの機能停止のほうが早いわ」
 極彩色《ごくさいしき》の蜃気楼《しんきろう》の陰《かげ》に隠《かく》れた朝倉の声がどこから聞こえてくるのか全然解らない。
 ヒュン、と風切り音。
 長門のかかとが俺を思い切り蹴《け》飛ばした。
「なにす」
 る、と言いかけた俺の鼻先を見えない槍が通過、床がめくれ返る。
「そいつを守りながら、いつまで持つかしら。じゃあ、こんなのはどう?」
 次の瞬間、俺の前に立ちはだかった長門の身体《からだ》が一ダースほどの茶色の槍に貫《つらぬ》かれていた。
「…………」
 つまり、朝倉は俺と長門に向かって同時に多方向から攻撃を加え、そのうちのいくつかを結晶化して無効にしたものの、迎撃しきれなかった槍が俺を襲い、俺を守るために長門は自分の身体を使用した、ということだったのだが、この時の俺にはそんなこと知るよしもなかった。
 長門の顔から眼鏡《めがね》が落ちて、床で小さく跳《は》ねた。
「長門!」
「あなたは動かないでいい」
 胸から腹にかけてビッシリと突き刺《さ》さった槍を一瞥《いちべつ》して長門は平然と言った。
 鮮血《せんけつ》が長門の足元に小さな池を作り始めている。
「へいき」
 いや、ちっとも平気には見えねえって。
 長門は眉《まゆ》一つ動かさずに身体に生えた槍を引き抜《ぬ》いて床に落とした。乾《かわ》いた音を立てて転がった血まみれの槍は、数瞬ののちに生徒机へと姿を変える。槍の正体はそれか。
「それだけダメージを受けたら他の情報に干渉《かんしょう》する余裕はないでしょ? じゃ、とどめね」
 揺らぐ空間の向こうに、朝倉の姿が見え隠れする。笑っている。両手が静かに上がり――俺の見間違《みまちが》いでなければ、指先から二《に》の腕《うで》までがまばゆい光に包まれて二倍ほど伸《の》びた。いや、二倍どころか――。
「死になさい」
 朝倉の腕が、さらに伸び、触手《しょくしゅ》のようにのたくって突出《とっしゅつ》、左右からの同時攻撃、動けない長門の小柄《こがら》な体が揺れ……。俺の顔に赤くて温かい液体が飛び散った。
 右の脇腹《わきばら》に突き立った朝倉の左腕と、左胸を貫いた右腕が、背中を突き破《やぶ》って教室の壁《かべ》をもぶち抜いてようやく止まっていた。
 長門の体から吹《ふ》き出した血が白い足をつたって床の血溜《ちだま》りの幅《はば》を拡大させていく。
「終わった」
 ポツリと言って、長門は触手を握《にぎ》った。何も起こらない。
「終わったって、何のこと?」
 朝倉は勝ちを確信したかのような口調。
「あなたの三年あまりの人生が?」
「ちがう」
 これだけの重傷を負いながら長門は何もなかったように言った。
「情報連結解除、開始」
 いきなりだ。
 教室のすべてのものが輝《かがや》いたかと思うと、その一秒後にはキラキラした砂となって崩《くず》れ落ちていく。俺の横にあった机も細かい粒子《りゅうし》に変じて、崩壊《ほうかい》する。
「そんな……」
 天井《てんじょう》から降る結晶《けっしょう》の粒《つぶ》を浴びながら、今度こそ朝倉は驚愕《きょうがく》の様子だった。
「あなたはとても優秀《ゆうしゅう》」
 長門の体中に刺さった槍《やり》も砂になる。
「だからこの空間にプログラムを割り込ませるのに今までかかった。でももう終わり」
「……侵入《しんにゅう》する前に崩壊因子を仕込んでおいたのね。どうりで、あなたが弱すぎると思った。あらかじめ攻性《こうせい》情報を使い果たしていたわけね……」
 同じく結晶化していく両腕を眺《なが》めながら朝倉は観念したように言葉を吐《は》いた。
「あーあ、残念。しょせんわたしはバックアップだったかあ。膠着《こうちゃく》状態をどうにかするいいチャンスだと思ったのにな」
 朝倉は俺を見てクラスメイトの顔に戻《もど》った。
「わたしの負け。よかったね、延命出来て。でも気を付けてね。統合思念体は、この通り、一枚岩じゃない。相反する意識をいくつも持ってるの。ま、これは人間も同じだけど。いつかまた、わたしみたいな急進派が来るかもしれない。それか、長門さんの操《あやつ》り主が意見を変えるかもしれない」
 朝倉の胸から足はすでに光る結晶に覆《おお》われていた。
「それまで、涼宮さんとお幸せに。じゃあね」
 音もなく朝倉は小さな砂場となった。一粒《ひとつぶ》一粒の結晶はさらに細かく分解、やがて目に見えなくなるまでになる。
 さらさら流れ落ちる細かいガラスのような結晶が降る中、朝倉涼子という女子生徒はこの学校から存在ごと消滅《しょうめつ》した。
 とすん、と軽い音がして、俺はそっちへ首をねじ曲げ、長門が倒《たお》れているのを発見して慌《あわ》てて立ち上がった。
「おい! 長門、しっかりしろ、今救急車を、」
「いい」
 目を見開いて天井を見上げながら長門は、
「肉体の損傷はたいしたことない。正常化しないといけないのは、まずこの空間」
 砂の崩落《ほうらく》が止まっていた。
「不純物を取り除いて、教室を再構成する」
 見る間に一年五組が見慣れた一年五組へと、元通りに、そうだな、まるでビデオの逆回しだな、いつもの教室に戻っていく。
 白い砂から黒板が、教卓《きょうたく》が、机が生まれて、放課後教室を出た時と同じ場所に並んでいく光景は、何と言えばいいんだろうな。こうして生で見ていなければ良く出来たCGだと思ったろうな。
 壁だったところに窓枠《まどわく》が出来て、すうっと透明《とうめい》化した窓ガラスとなる。西日がオレンジ色に俺と長門を彩色《さいしょく》した。試しに自分の机の中を調べてみたら、ちゃんと入れたままにしておいたものがそのまま入っている。俺の体中に散った長門の血もいつしか消えている。たいしたもんだ。魔法《まほう》としか思えない。
 俺はまだ寝《ね》ている長門の脇《わき》に屈《かが》み込んだ。
「本当にだいじょうぶなのか?」
 確かにどこにもケガがあるように見えない。あれだけ突《つ》き刺《さ》さっていたら制服も穴だらけだと思ったが、そんなものは一つもなかった。
「処理能力を情報の操作と改変に回したから、このインターフェイスの再生は後回し。今やってる」
「手を貸そうか」
 俺の伸《の》ばした手に、案外素直にすがりついた。上体を起こしたところで、
「あ」
 わずかに唇《くちびる》を開いた。
「眼鏡《めがね》の再構成を忘れた」
「……してないほうが可愛《かわい》いと思うぞ。俺には眼鏡属性ないし」
「眼鏡属性って何?」
「何でもない。ただの妄言《もうげん》だ」
「そう」
 こんなどうでもいい会話をしている場合ではなかったのである。後々俺は、とことん悔《く》やむことになる。長門を置き去りにしてでも、さっさとこの場を立ち去るべきだったかと。
「ういーす」
 ガサツに戸を開けて誰《だれ》かが入ってきた。
「わっすれーもの、忘れ物ー」
 自作の歌を歌いながらやって来たそいうは、よりにもよって谷口だった。
 まさか谷口もこんな時間に教室に誰かがいるとは思わなかっただろう。俺たちがいるのに気づいてギクリと立ち止まり、しかるのちに口をアホみたいにパカンと開けた。
 この時、俺はまさに長門を抱《だ》き起こそうとするモーションに入ったばかりだった。その静止画をみたら、逆に押し倒そうとしているとも思えなくもない体勢なわけで。
「すまん」
 聞いたこともない真面目《まじめ》な声で谷口は言うとザリガニのように後ろへ下がり、戸も閉めないで走り去った。追うヒマもなかった。
「面白《おもしろ》い人」と長門。
 俺は盛大なため息をついた。
「どうすっかなー」
「まかせて」
 俺の手にもたれ掛《か》かったまま動くことなく長門は言った。
「情報操作は得意。朝倉涼子は転校したことにする」
 そっちかよ!
 などとツッコンでいる場合ではない。唐突《とうとつ》に俺は愕然《がくぜん》とした。よく考えたら俺はとんでもない体験をしてしまったんじゃないか? この前に長門が延々と語ったデンパ話、トンチキな妄想《もうそう》語りを信じるとか信じないとかいう問題ではない。半信半疑とも言ってられん。さっきの出来事は本気のヤバさとは何かを俺に実感させてくれた。マジで死ぬかと思った。長門が天井《てんじょう》から落ちてこなければ、確実に俺は朝倉によって強制|昇天《しょうてん》させられていただろう。ぐにゃぐにゃした教室の光景も、バケモノじみた姿になった朝倉も、それをどうやってか消滅《しょうめつ》させてしまった長門の無感動さも、それらはすべてリアルに俺の身へと降り注いだことだった。
 これじゃ、長門が本格的に宇宙人か何かの関係者であることを納得せざるを得ないではないか。
 おまけに、このままでは俺はこのイカレタ状況《じょうきょう》の当事者になってしまう。冒頭《ぼうとう》に言ったとおり、俺は巻き込まれ型の傍観《ぼうかん》者でいたいのだ。脇役《わきやく》で充分《じゅうぶん》なのだ。なのに、これではまるで俺が主人公みたいじゃねえか。確かに俺は宇宙人みたいな奴《やつ》が出てくる物語の登場人物になりたいとかつて思っていたが、本当に自分がそんなキャラになってしまうとなると話は別だ。
 はっきり言や、困る。
 何かしらの問題に直面して困っている奴に横から半笑いで適当なアドバイスをするような、そんな役割を俺は望んでいたのだ。こんな俺自身がクラスメイトに命を狙《ねら》われるような、不条理な展開は願い下げにした。本当の話、俺はまだ人生に執着《しゅうちゃく》があるのだ。
 オレンジ色に染められた教室で、俺はしばし唖然《あぜん》としたまま硬化《こうか》していた。長門の体重を感じさせない身体《からだ》を支えたままで。
 これは……いったいどうしたものだろう? 俺は何を思えばいいんだ? 呆《ぼ》けていたおかげで俺は、とっくに再生とやらが終了《しゅうりょう》した長門が無表情に見上げていることにも気付かずじまいだった。

 翌日、クラスに朝倉涼子の姿はなかった。
 当たり前と言えば当たり前のことなのだが、それを当たり前だと思っているのはどうやら俺だけであり、岡部担任が、
「あー、朝倉くんだがー、お父さんの仕事の都合で、急なことだと先生も思う、転校することになった。いや、先生も今朝聞いて驚《おどろ》いた。なんでも外国に行くらしく、昨日のうちに出立したそうだ」
 と、あまりにも嘘《うそ》くさいことをホームルームで言ったときも、「えーっ?」「何でーっ?」と主に女子どもが騒《さわ》ぎ立て、男子連中も、ザワ……ザワ……と顔を見合わせ、岡部教師も首をひねっていたわけなのだが、もちろんこの女も黙《だま》っていたりはしなかった。
 ごん、と俺の背中を拳《こぶし》で突《つ》いて、
「キョン。これは事件だわ」
 すっかり元気を取り戻《もど》した涼宮ハルヒが目を輝《かがや》かせていた。
 どうする? 本当のことを言うか?
 実は朝倉は情報統合思念体なる正体不明の存在に作られた長門の仲間で、なんか知らんが仲間割れして、その理由が俺を殺すか殺さないかで、なぜ俺かと言うとハルヒの情報がどうのこうので、あげくの果てに長門によって砂に変えられてしまいました、とさ。
 言えるわけねえ。つーか俺が言いたくない。あれはすべて俺の幻覚《げんかく》だったと思っていたいくらいなのだ。
「謎《なぞ》の転校生が来たと思ったら、今度は理由も告げずに転校していく女子までいたのよ。何かあるはずよ」
 勘《かん》の良さを誉《ほ》めてやるべきなのだろうか。
「だから親父《おやじ》の仕事の都合なんだろ」
「そんなベタな理由は認めらんない」
「認めるも認めないも、転校の理由で一番ポピュラーなのはそれだろうよ」
「でもおかしいでしょ。いくら何でも昨日の今日よ。転勤の辞令から引《ひ》っ越《こ》しまで一日もないって、どんな仕事よ、それ」
「娘《むすめ》に知らせてなかったとか……」
「あるわけないわよ、そんなの。これは調査の必要ありね」
 仕事の都合というのは言い訳で本当は夜逃《よに》げだったんじゃないかと言おうとしたがやめておいた。それが真実でないのは俺が一番よく知っている。
「SOS団として、学校の不思議を座視するわけにはいかないわ」
 やめてくれ。
 昨日の事件は俺に徹底《てってい》的な変革を要求せしめた。なにしろ、マジモノの超常《ちょうじょう》 現象を目《ま》の当たりにしてしまったのだから、それをなかったことにするには、俺の目か頭かのどちらかがどうにかしていたか、この世界そのものが実はおかしかったのか、実は俺は長々と夢を見続けているのかの、どれかを選ばなくてはならなくなってしまった。
 そして俺はこの世界が非現実のシロモノだとは、どうしても思うことが出来ないでいるのだ。
 まったく、人生の転機が訪れるには、十五年と数ヶ月は少々早すぎの気がしやしないか?
 なんで俺は高一にして、世界の在り方などという哲学《てつがく》的な命題に直面しなければならないのだろう。そんなもん、俺が考える事ではないはずだ。これ以上、余計な仕事を増やさないで欲しい。
 そうでなくとも、俺はまたまた懸案《けんあん》事項《じこう》を抱《かか》えているんだからな。

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