2008年03月03日

藤山雷太と江副廉蔵

今とても気になっている人物がいます。

それは藤山雷太です。佐賀伊万里の出身です。

江副廉蔵の葬儀の写真の中に、大隈重信からの献花と並んで、藤山雷太の献花がある事を指摘してくださる人がありました。彼は「佐賀県歴史人名事典」にも載っておらず、どう人かも知らずにいました。色々調べてみると、次のことがわかりました。

1863年(文久3)生まれの彼は、波乱万丈の実業家人生を切り開いた人でした。

藤山雷太は1878年(明治11)に長崎師範学校に入学し、成績優秀のため米国前大統領グラント将軍が訪れた時は生徒総代として歓迎の辞を述べているそうです。視卒業後は教壇に立った後、1884年(明治17)21歳で慶應義塾に入学し福沢諭吉に実業論を鼓舞された事が彼の人生の大きな転機になったようです。

卒業後は国事を論じ、長崎県会議員に当選し、県知事も触れることを嫌がった外国人居留地問題解決した後、実業界に身を転じ、三井に入ります。ポストは三井銀行の抵当係長。
この時、不良貸金の整理を推進し、その中の一つに桂太郎の弟である桂次郎への債権取立てで、担保である桂邸を取り上げて、不良貸金の回収に成功しています。ちなみに桂はこの時、四十六歳、後には首相になります。藤山は若干三十歳です。

抵当流れになった田中久重の田中工場を三井銀行が引き受け、同工場を「芝浦製作所」(後の東芝)として再スタートを切ることになった時、その主任に選ばれ、電機製作を開始するという大胆な方針を打ち出し、芝浦製作所が電機専門工場として世に立つ礎石を築くのも藤山雷太なのです。

その後の大転機は、1909年(明治42)の大日本精糖社長就任です。当時、大日本精糖は「明治の一大疑獄」と呼ばれる大事件に遭遇しており、これを再起させる事ができるのは藤山雷太以外にないと、渋沢栄一に担ぎ出されたのです。

藤山も失敗するようであれば藤山家の将来は無いと覚悟してこれを受けるのですが、事業再生に成功します。今風に言えばMBIの成功です。以降25年間大日本精糖社長を務めます。

また、東京商業会議所会頭、日本商業会議所連合会会頭にも就任して、幅広い財界活動に乗り出していくのです。

とても大きな働きをした人ではないですか!!

廉蔵さんと通ずるものを感じます。

しかし、佐賀であまり知られていないのは何故なのでしょうか・・・。これまた、廉蔵さんと似ています・・・。



bakumatusaga at 23:24 │Comments(1)TrackBack(0)clip!江副廉蔵  | 藤山雷太

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この記事へのコメント

1. Posted by やまめのたより    2008年03月04日 06:09
 お早うございます。
やっと、明治40年代に一区切りができました。

 明日から、明治30年代、9年間に取り掛かります。

 今度は、藤山雷太に挑戦ですか。
新聞にもよく登場します。

 師範学校の件ですが、当時師範の本科生は、授業料、寮費が官費支弁で、無料です。このため、家が貧乏で成績優秀な生徒がたくさん集まりました。

 おそらく、彼もそのひとりではないでしょうか。

 財政負担に苦しむ政府は、中学校からの卒業生を受け入れる選科制度をつくります。これは自己負担。

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