くしゃん。 自分のくしゃみで目を覚ます。 既に太陽はとっぷりと沈んでいる。 廊下は真っ暗で、しん、と静まりかえっていて、台所の冷蔵庫の低く唸る音だけが響いてくる。 僕はあわてて遠くの壁にかかっている時計を見た。 6時30分。もちろん夜の。 しばらく眠ってしまっていたようだ。 すこし鼻をすすって、首を回してみる。 くき、と小さく肩が鳴った。 いつの間にか手足も冷え切っている。布団を通り越してひんやりとした床の冷たさが感じられる。 明日は真冬並みの気温。朝は氷点下になります。氷が張るのでご出かけの際は滑らないようにお気をつけて・・・。って言ってたっけ、テレビの天気予報のお姉さん。 僕は目をこすって、視線を上げた。 優華さんの部屋のドアは、固く閉ざされたままだ。 あれから――優華さんが部屋に閉じこもってから、僕はドアを叩いたり、優華さんに呼びかけたりを繰り返したけど、優華さんはまったく反応してくれなかった。 10分くらい武力行使してたけど、だんだんドアを叩いていた手がすりむけて痛くなってきて、それにうるさくしていると近所の人がびっくりして怒鳴り込んできそうな気がしてきたから、僕は作戦を変えることにした。 自分の部屋の押入れから布団を引っ張り出してきて、廊下に敷布団、上に毛布と掛け布団。 そしてその間に潜り込む。 で、優華さんのドアの脇に陣取ってキャンプ。ファンヒーターを自分の部屋から持ってきて、廊下全体を少し暖める感じにする。優華さんのドアは外に開く形だから、ちょうどここは死角になる。 これでよし、優華さんが出てきたらすぐにわかる。鍵を開けたりしたら飛び込めるだろう。 ……。 …………。 ………………。 最初の頃は、少し遠足みたいな気分、というよりちょっとした張り込み中の刑事になった気分でいた。 だけど、時間が経つにつれて、少しずつ、そういううわついた気持ちが削れていって、すごく不安になっていく。 ファンヒーターを使っていても、敷布団を突き抜けて床から沁みこんでくる冷気で、おなかの辺りはすごく冷えてきてしまって、それがおなかのすく原因なのか、時々たよりなくぎゅるる、と鳴る。トランプとその後のてんやわんやでおやつを食べる暇もなかったから、昼から何も食べてない……と思ったけど、青汁を飲んでたや、と思い出して、かえってちょっと気分が悪くなる。 ち、ち、ち、ち……。 手元に置いている目覚まし時計の秒針の音だけがやけにうるさい。 ほどほどに暖かい環境になったせいで、むしろ眠らないように努力するほうが辛い。 ……しかたなしに、僕はいろいろ考えてみる。 頭の中にまっさきに思いつくのは、優華さんの振る舞いの謎。 なんでも僕としたいことをしてください、と命令したあと、……その、おち○ちん、舐めるのかな……普通。僕だって自分のやつ舐めろって言われたら、すごく困るし。 そう考えると、そもそも女の人って……なんで男の人のおち○ちんを体に入れられるんだろう。初めてだと痛いっていうし、気持ち悪くなくならないんだろうか? ふと、僕はずっと昔、――といってもまだ一ヶ月も経っていないんだけど――瑠美ちゃんのことで怒られた時、そして、優華さんを『催眠』にかけるきっかけになったときの優華さんの言葉を思い出す。
……うーん。 その時はそうかな、とも思ったけど、唇へのキスはまだしも、おち○ちんへのキスはどう考えればいいんだろう……。 ぐるぐる考えているうちに、おなかが減ってあったかくなったせいか頭がぼうっとなってくる。がんばってこらえて起きていようとしているのに、瞼はどんどん重くなって……。 そんなつまらないことをうだうだと考えている間に、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。 どれほどの時間が経ったんだろうか。 僕は目をこすりながら、慌てて前を向く。優華さんのドアは閉じたまま。でも、ひょっとしたら眠っている間に鍵があいているのかもしれない。 立ち上がってそっとノブに触れてみる。ひやり、とした固い感触が帰ってくる。 甘い期待を打ち砕かれて、溜息をつくと、背中の後ろから闇を切り裂くように、 ぴろろろろ、ぴろろろろ、ぴろろろろ……。 廊下の突き当たりに備え付けられたコードレスフォンが鳴り響く。 放っておいても優華さんは取ってはくれないだろう。少し迷った後、僕は毛布にくるまったまま廊下をそろそろと移動して、白い受話器を取った。なぜかすごく緊張する。 「……もしもし」 だけど、受話器からの声は、よく知ってる声だった。 『……もしもし、祥平君?唯だけれど……、優華は?』 携帯からだろうか。すこしノイズが入って聞き取りづらいけど、いつもの優しい唯さんの声だ。 僕は思わずぎゅっと受話器のコードを掴んだり離したりしながら、慌てて、だけど返事は慌てないように注意して、 「えっと……その……今、トイレで……」 なんとも芸の無い嘘だけど、唯さんは特段疑う様子もなく、 『そう。それじゃ、優華にも伝えておいて欲しいんだけど、ちょっと仕事の打ち合わせが長引きそうなの。早くて終電くらい、多分タクシーになるかな。だからね、夕御飯は、冷蔵庫のカレーとごはんがあるから、レンジでチンしてもらえるかな。ごめんね』 「あ……はい」 『あと、瑠美は早く寝かしておいてね。あの子、私がいないと夜更かししようとするからね。ずるっ子するの、メっ、って言ってあげてね。祥平君の言うことはきちんときくと思うから。お願いできる?』 「はい」 「それじゃあ、戸締りとガスの元栓だけはしっかりね。チェーンはかけないで鍵だけかけてくれればいいから」 唯さんはそういうと電話を切った。 唯さんが遅くなることはそれほど珍しくない。月に何回かは終電くらい、そして今までも1、2回はタクシーで帰ってくる、ということがあった。 すごいのは、そんな日の次の日でも、朝にはきちんとご飯が並んでいることだ。そして唯さんはちっとも疲れた気配がない。唯さんは見かけよりずっとずっとタフな人だ。 とりあえず、唯さんが帰ってくるまで少し間がある。これはなんにせよ、ありがたかった。 僕が少し息をつくと、すると、今度は廊下の奥から、まるで電話が終わるのを見計らうかのように、 ぎしり ぎしり ……ぎしり 廊下の奥の暗がりから伝わってくる妙な音。 いや、いや、今は冬だって。オバケはかき氷とスイカと風鈴とセットの夏メニューだから今は出ない、出ない出ない、……でないはず。 と、いくら言い聞かせても頭の中で「おばけなんてないさ」の歌が流れ始めて止まらなくなる。 3回はたっぷり歌がリピートする時間の後、僕はそぅっと後ろを見る。 もちろん、その暗がりには誰もいない。 だけど、暗いせいで見えないだけかもしれない。 僕は勇気を振り絞って、一歩、二歩、と進む。 そして廊下の角を曲がると、途端。 「ぎゃーーーーーーーーーー!」 「ふぎゃーーーーーーーーー!」 鉢合わせして、お互いが叫び声を上げる。 あわてて踵を返して逃げようとする僕に、祟り殺すためにか、押し倒すようしてその幽霊は乗っかってくる。そして、仰向けに廊下に倒れた僕を呪い殺すためにか、僕のほっぺたをぺろぺろと舐めまわして……。 ……って、あれ?舐めまわして? 僕がおそるおそる身体の上に乗っかってきた「幽霊」に触ってみると、妙にふにゅふにゅしてあったかい。 薄目を開けると、そこにあるのは瑠美ちゃんの顔。 「……って、瑠美ちゃん。寝てたんじゃないの?」 「ふにゃ?」 「いや、ふにゃじゃなくて……とにかく、降りてくれないと僕、動けないんだけど……」 でも、瑠美ちゃんはそんな僕の言葉を聞いてか聞かずか、ごろごろと僕のほっぺに自分のほっぺを擦り付けながら僕のおなかの上に乗っかって降りてくれない。 よくよく見ると、瑠美ちゃんの頭には、白いふさふさの毛のついた猫耳。 「あーーーーーーーーー!」 さっきの王様ゲームでつけたのが取れてないのか! 僕はあわてて瑠美ちゃんから耳をはずそうとすると、瑠美ちゃんはするりと僕の体から身をかわして「ふーーーーーーーー!」と毛を逆立てるかのようにして威嚇する。 「ちょ、ちょ、ちょ……ちがうちがう、僕は別に敵とかじゃなくて……」 「ふにゃーーーーーーーーーー!」 聞く耳持たない瑠美猫は、そのままとたとた、と四つ足で廊下を駆けていく。 僕が瑠美ちゃんをおっかけると、瑠美ちゃんは自分の部屋に入るところだった。といっても、瑠美ちゃんは唯さんと同じ部屋で寝ているから、唯さんの部屋に入ることになる。 「お、おじゃま……しまーす」 部屋に入ると唯さんの匂いがする。どうやら瑠美ちゃんは押入れの中にもぐりこんだらしく、ふすまが開いている。 僕は非常時用の備え付け懐中電灯をとってきて、押入れ探索を始める。 「瑠美ちゃん〜出てきてよ〜」 「ふみゃああああああーーーーーーー!」 ……。 …………。 ………………。 ……激しい捕り物の末、ようやく瑠美ちゃんをとっ捕まえて、なだめて、落ち着かせたときには、僕は顔やら腕やらに引っかき傷を山のように量産していた。 瑠美ちゃんにはキーワードを仕込んでおかなかったのが敗因だ。 ともかくも、瑠美ちゃんから猫耳をはずして、僕は瑠美ちゃんとカレーを食べる。 面倒ごとが起こるとややこしいので、瑠美ちゃんは催眠状態のままにしている。そのせいで、瑠美ちゃんはぼんやりとした表情のまま、カレーをはもはも食べている。 虚ろな目をしてスプーンを握りしめ、カレーを口に運んで呑み込んでいる瑠美ちゃんを見ていると、美味しくなさそうでなんだか申し訳なくなってくる。瑠美ちゃんはカレーが大好物なのに。 それから瑠美ちゃんに歯磨きをさせて、お風呂に入れて、寝かしつけた。これで後顧の憂いはない。 時計の針は20時を回った。 唯さんが帰ってくるまでの4時間、あるいは5時間……。それまでになんとかけりをつけないと。 再び優華さんのドアの前に立つ。やっぱりドアは開く気配がない。 また篭城戦をするべきか……それを思うだけで気疲れしそうになったその時、僕はふと思い出す。 さっき、瑠美ちゃんを追っかけて入った押入れの奥。 昔、かくれんぼを瑠美ちゃんとやった時――その時は押入れに隠れちゃいけません、って後で唯さんにすごーく怒られたけど――、確か、あの押入れの奥には引き戸みたいなのがあって、優華さんの部屋の押入れにつながっていたはずだ。 僕は再び唯さんと瑠美ちゃんの部屋の中に入って、手に懐中電灯を用意してさっき大捕物を演じた押入れにもぐりこむ。 茶箱や薄手の夏掛けを慎重によけて行くと、押入れの奥の壁に突き当たる。サーチライトのようにして探ると、引き戸はすぐに見つかった。 戸の静かに開くと、優華さんの部屋の押入れなんだろう、そこには山盛りの布団が姿を現している。でも、なんとか動かせそうだ。 僕は音を立てないように優華さん側の押入れの中で布団を動かすと、その奥の引き戸――優華さんの部屋への出入り口――をそっと開く。 そこから見える優華さんの部屋の中は、電気一つついてなくて、暗い。 僕は意を決してゆっくりと踏み込む。 部屋の中は暗いだけじゃない。暖房もついてない。廊下のほうがあったかいくらいで、僕は思わず震えて、廊下にほっぽりだした毛布を取ってきたくなる。 それでも、優華さんの部屋に入ると、少しだけ優華さんの匂いがする。 そんな暗い暗い部屋。明かりも無く、シャッターも締め切った部屋。 けれど、次第に目が慣れてくると、其処が真の闇でないことがわかる。磨りガラスの嵌め込まれた小さな窓枠が一つだけ僕の背の届かないような高いところにあって、その磨りガラス越しに外の明かりがぼんやりと漏れ入ってきているからだ。その青白い光に照らされて、優華さんの勉強机、椅子、学校のかばん……そういったものの輪郭がうっすらと白く浮かび上がっている。 僕はさらに足を進める。フローリングの床から染み出した冷気が靴下を通過して冷たい。 部屋の隅にあるのは……確かくまのぬいぐるみのコロスケ。その隣にあるのはカエルのケロヨン。このぬいぐるみは瑠美ちゃんのお気に入りで、優華さんの部屋に遊びに来るたびに、自分と胴体とおんなじくらいのぬいぐるみとごろごろ転がって遊んでるやつだ。 そして、そんなぬいぐるみを隅に追いやるようにして、ベッドの上に、……ふとんの塊。 「……ん……んぁ……」 なんだろ、優華さんの声がする。 「……あ……んん……んぁ……」 ぼくは音を立てないよう、匍匐前身のような状態で床にへばりつきながらゆっくりベッドに近づく。正直、床に触れているお腹が凍りつきそうだけど、ぐっと我慢。 そうやってあと数メートルのところまで近づいた瞬間。 「あ……や……しょうへい……くん……」 心臓がはじけそうなくらい大きな音を立てる。いやな汗が背筋の辺りを広がっていく。 ごめんなさい、勝手に入っちゃってごめんなさいー、と叫びそうになるのをじっとこらえて、数秒。 「ん……あぁ……ん……」 優華さんの声は続いている。けど、僕の方に優華さんが向かってくる様子も、起き上がる様子もない。 「ん……んん……ぁ……ぅ……」 くぐもった声が相変わらず優華さんのベッドの方向からしている。 こうなると、むしろなにかにうなされているんじゃないかと心配になってくる。 僕が少しあせって更に数メートル身体を前に進め、優華さんのベッドのすぐ脇にまで来たとき、 「ん……あ……ああ……しょうへい……くん……もっと……触って……ん……」 優華さんの悩ましげな声と吐息とともに、 ぱたん、とベッドの上で音。 と、 とかげみたいに匍匐前進中の僕と、寝返りを打ってその顔をベッドの下に向けた優華さんの目が合った。 「きゃあああああああ……も、もが……」 大声を上げて叫ぶ優華さんの口を僕はあわててふさぐ。ご近所に絶叫が聞こえたら大変な騒ぎだからだ。 「ゆ、優華さん、静かにして……瑠美ちゃん、起きちゃうよ?」 瑠美ちゃんの名前を出すと、優華さんもおとなしくなる。 僕は優華さんが落ち着いたのを見計らってようやく手を離した。 優華さんはあたふたと乱れた服を整える。薄暗いベッドライトだけが、優華さんの顔を照らす。優華さんは、いつの間にかチアガールの服から、白いセーターにグレーのプリーツスカートという出で立ちになっている。部屋に閉じこもってから着替えたのだろう。 そうやって、ようやく落ち着いたのか、深呼吸を一つすると、枕を胸元で抱きしめるようにしながら、僕の方をそぅっと伺うようにして、 「い、いつからいたの?」 「い、いつからって……えーと……………僕の名前を呼んでたころ……からかな?」 優華さんは、薄暗い部屋の中でもわかるくらいにかぁーーーーと耳まで真っ赤にしてうつむいてしまう。 「ご、ごめんなさい。わざとじゃなくて、でも、優華さん、いくらドア叩いても開けてくれなかったから、その、あの、あんなことあった後だし、心配で、謝りたくて、そしたら、隣の瑠美ちゃんの部屋の押入れからここが繋がってて、その……」 あぶくみたいに浮かび上がってくる言い訳を次から次にとりとめもなく口にしてみるけど、言えば言うほど、女の人の部屋にこっそり勝手に入り込んだ自分のいけなさがあからさまになっていく気がして、最後には、 「……ごめんなさい……」 と僕はうなだれた。 優華さんは、枕を抱きしめて、顔をうつむかせたまま。前髪が目を隠していて、表情はよくわからない。 でも、きっと、すごく怒ってるんだ。だってそうだ。部屋に勝手に入り込んで、そのあげく、ずっと優華さんの近くに忍びよっていったんだから。男らしくないに決まってる。 僕は汗だくになってる手のひらを一度、二度と開いたり握ったりしながら、 「……あ、唯さんから電話があって、今日、仕事で遅くなって、多分タクシーになるからって。瑠美ちゃんと僕はもうご飯も食べて、お風呂も入っちゃったから……。唯さんが作ってくれたカレー、冷蔵庫に優華さんの分、あるからね。それじゃ……おやすみなさい……」 最後は事務的な連絡だけして、僕は優華さんの部屋のドアの鍵を開けて廊下に出ようとしながら……僕は『キーワード』を発しようとした、その時。 「待って」 すごく細い、くぐもった小さな声だけれど、暖房のかかってないひんやりとした部屋の中では、僕の足を止めるには十分過ぎる大きさだった。 僕が動きを止めていると、優華さんは続けて、 「……話したいことがあるの」 優華さんを見る。優華さんは枕を抱えたまま、枕に顔を押し付けたままで、その表情は見えない。 「うん……」 僕は冷たいドアノブから手を離し、口にしかけていたキーワードを飲み込む。 優華さんは、何か、自分から話かけようとしてくれてる。だったら、『キーワード』は、まだ使わなくていい。 僕は、少しほっとした。 ちく、ちく、ちく、ちく……。 優華さんに「そこに座って」と言って指をさしたのは、優華さんのベッドの上だった。ちょっと躊躇したけど、フローリングの冷たい床に正座する気もしないから、言われるまま、優華さんのベッドの片隅にお尻を乗っける。 優華さんはそのベッドの対角線の向こうの隅に、お姉さん座りで、抱き枕を抱えたままだ。 ……ちく、ちく、ちく、ちく……。 空気を震わせるのは壁に掛かった丸い時計の針の音だけ。優華さんが僕にベッドの上に座るように指示してから、二人とも声を出さない。息をすることすら憚られるような沈黙がどんどん雪のように積み重なっていって、それに埋もれて体を動かすことすら禁じられている気分になってくる。 はぁ。思わず溜息をつくと、綿のような白い塊が目の前に広がって消える。 ……いや、実際この部屋は寒い。優華さんはこの部屋に閉じこもってからずっと暖房をつけてなかったんだ。僕は廊下にいた間もずっと毛布にくるまって暖房をつけてたけど、優華さんは寒くなかったんだろうか。 優華さんが口を開いたのは、壁掛け時計の秒針が3周はとうに回った後だった。 「……ごめんなさい……」 優華さんは顔を枕にうずめたまま、押し殺すような声でそう言った。 優華さんが何に対して謝っているのか、正確にはわからないけど……きっと僕のズボンをずり下げて、アレを舐めたことについてなのだろう。 僕は、廊下で何度もシミュレートしていた言葉を口にする。さっきは本当に慌ててしまったけど、今度は大丈夫。大丈夫。と言い聞かせて、僕はおなかに力を込めて、だけどなるべくやわらかい声になるようにして、 「……優華さんは、悪くないです。それより僕の方こそ、……あんな命令をして、ごめんなさい。…………あと、勝手に部屋に入ってごめんなさい」 そう。元はといえば、王様になって「優華さんが僕としたいことをしてください」だなんて命令しなければ、それで済んでた話。 でも、優華さんは、枕に顔をうずめたまま、首を振って、 「違う……私がいけないの。私が悪いの……。祥平君に恥ずかしいことをさせてしまって……ごめんなさい……」 これも想定済み。 「違うよ。優華さんは悪くない。だって……僕、……別にいやじゃなかったし……優華さんだったら、別に……裸を見せても……そんなに恥ずかしくないし……優華さんだったら、いいです」 これは少し嘘。実はとっても恥ずかしい。けど、そんなこと言ってたら今までだってたくさん僕は優華さんの前で裸になってるし、優華さんの裸も2回見てる。だからおあいこみたいなもの。 ……もっとも、優華さんの体を既に隅々まで閲覧済みなことは、催眠中のことなのでいえないけど。 「だから……」 「だめ!」 だけれど、優華さんが返した言葉は固く、冷え切った部屋の壁を跳ねる。 優華さんの体が震えてる。それは寒さのせいなんかじゃない。 「だめだよ、だって、私、私、祥平君のお姉ちゃんなんだよ?お姉ちゃんが、弟のズボン脱がせて……舐めちゃ……いけないんだよ。それに……私、キスしちゃった。……祥平君にキスして……舐めて………………飲んじゃった……」 「……ごめんなさい。僕のなんかで……」 「違うの!そうじゃないの!!」 優華さんは、僕の形ばっかりの謝罪を弾き飛ばすように、鋭く、小さく叫ぶ。 「……祥平君のが、いやだったんじゃないの……。逆。逆。全部逆……」 「……ゆうかさ……」 僕は出しかかった言葉を飲み込む。 優華さんの体が少し震えている。枕に指が食い込んでる。 ……もう言葉を挟まない。優華さんは、大事なことを、辛いことを、自分の身体を切り開くようにして言葉にしようとしている。 それから、また、壁にかけてある時計の秒針がぐるっと一回回るだけの時間が過ぎてから。 優華さんが、枕から顔を上げて、僕を見つめた。 僕もこの部屋に来て、初めて優華さんの顔をしっかりと観た。 少し目が充血している。涙が乾いた筋のようなものがうっすらと頬に浮かんでいるようにも見える。 もともと白い顔はさらに白く、そこに浮かぶ表情は何かを覚悟したかのように固く。 優華さんは乱れた髪を手櫛ですっと整えて、薄紅の唇を一文字に切り結ぶ。 そして、膝をきちんと正すと、膝の上に枕を置いて背筋を伸ばした。 その居ずまいに気押されるように、僕もお茶の席に招かれたように正座をする。 「………………ずっと、我慢してたの」 声が、少し震えて、そしてうわずっている。それが寒さによるものでないことは、鈍い僕にでもわかる。 「……最初は違った。祥平君が来るって聞いて。瑠美と一緒に、仲良くしていこうね、って言って。お母さんは違ってもみんな家族だからね、って。お姉ちゃんには弟で、瑠美にはお兄ちゃんができるんだ、って、唯姉は言って」 少しだけ優華さんは微笑みを浮かべる。この部屋に来てから初めての微笑み。 「カレンダーにマルなんかつけて。小さいころピアノを買ってもらった時以来だったの。こんなの」 「思ったとおり、優しい男の子で。私も弟が出来て、とても嬉しくて。いろんな友達にちょっと自慢なんかして」 「私ももうお母さんもお父さんもいないから……一緒にこれから家族になろうね、って」 「最初はなかなか心が通わないなあ、とか、うまくいかないな、とか、いろいろ思うことがあったけど、唯姉もいろいろ気を使ってくれて、瑠美なんか気をつかうとかなんとか、そんなことはぜーんぜん考え無しに祥平君になついちゃって……」 「……わたしなんかそれ見てあせっちゃって、でもって唯姉にたしなめられたりして……でもね、いつだからか、祥平君も私のこと、お姉ちゃんと思ってくれるようになって……」 「せっかく、せっかく……ぜんぶうまくいきかけてたのに……」 優華さんの声の震えは、いつの間にか、その手に移っている。 「……いつからか、わからない。祥平君が、私の手を握ってくれたときかもしれない。私の肩をマッサージしてくれたときかもしれない。……よくわからない……。だけど、いつのまにか、祥平君を抱きしめたくて、ずっと一緒にいたくなって、……キスしたくなって、祥平君の体からでてくるものは……何でも飲み干したくなって……」 優華さんの眼から、また涙がこぼれていく。 「祥平君の一番近くにいて、一番に守らなくちゃいけないのに、……私、一番近くにいて、……一番祥平君を汚してた……」 僕は慌てて、 「よ、よくわからない……けど、僕、別に汚されてなんか……」 でもそんな僕の薄っぺらい異議申し立てに、優華さんは僕を睨むようにして、 「さっき、私が何をしてたか知ってる?祥平君が、外で私のことを待ってくれている間、寒い廊下で私に呼びかけてくれている間!」 「え……いや……」 優華さんは、唇を少し歪めて哂うと、 「これ、なんだかわかる?」 そう言うと、優華さんは枕と枕カバーの裏から、白い布を取り出す。 「あ……」 それは、前に優華さんの部屋に入ったときにみたものと同じ、僕の下着だった。 「…………私、祥平君の下着使ってね、女の子の大事なところを、弄り回してたんだよ!オナニーっていうの、こういうの。知ってる?」 僕は声も出せず、間抜けに口をぽかんとあける。優華さんは、僕のその反応に、ほぅら、驚いたでしょ、と、何かいたずらが成功した子供のように、場違いな笑みを浮かべ、一気にまくしたてる。 「私ね、祥平君のパンツを自分のあそこに擦り付けて、それから口に入れて、匂いを嗅いで、舐めてたんだよ!……さっき口の中一杯に飲んだ祥平君の味を思い出しながら、祥平君に触られてると想像しながら、ずっとずっとずっと、ずっと、……ずっとだよ!!! ……何でこれがここにあるかって?少し前に、祥平くんがお風呂に入った後、こっそり盗ったの。私。……こんなの、お姉ちゃんのやること?違うよね。世の中のお姉ちゃんって、こんなこと絶対にしない。自分の弟に欲情なんかしない。……守ってあげるものだよ。お姉ちゃんは、弟のこと。 ……なのに、私ね、祥平君に欲情してるの!!祥平君を近くに置きたい、祥平君の体温を感じたい、祥平君の匂いを嗅ぎたい、祥平君を舐めたい、抱きしめたい、キスしたい、祥平君の全部を飲み干して食べつくしたい……そういう気持ちになっちゃってるの!私も何度も何度も、そんなのおかしい、女の子がそんな風にいやらしいことばっかり考えるのはおかしい、何より祥平君は私の弟なんだから、恋人や婚約者や旦那さんならともかく、絶対にそういうことをしちゃいけない相手なんだから、そう、何度も何度も、何度自分を止めようとしたかわからない。 …………けどね、駄目なの。止まらないの。この下着も、何度も返そうと思った。でも、返せなかった…………。……あははははは、おかしいよね、こんなの、ただの変態だよ。信じられる?今日だけじゃないんだよ?私、ここしばらくずっと毎晩毎晩祥平君を想って自分のいやらしいところをいじってたんだよ?それで何食わぬ顔して、次の朝祥平君におはよーだなんて声かけてたんだよ。お姉ちゃん、身内、って立場を悪用して、下着まで取っておいて……そして、時々祥平君の手を触ったり、身体を撫でては、その感触を思い出したりして……。 さっきの王様ゲームの最後だって、したいことをして、って祥平君に命令されて、……もう……自分が止められなくなって、……いつの間にか、祥平君の……その……あれを……舐めちゃって……飲んじゃってた……。信じられないでしょ?最低だよね。私、こんなに汚くていやらしい人間なんだよ。だから……」 激しい言葉の塊は、僕ではなく、ただひたすらに優華さん自身を抉っていく。 雨どいを伝うようにきらきらと光るものが白い頬を伝って、シーツに次々と吸い込まれ、膝小僧が、その手指が、横殴りの雨を受けているかのように濡れていく。 もう見てられなかった。僕は思わず、口を開きかける。が、 「優華さ……」 「近寄らないで!!!」 優華さんの方に膝こぞうで進もうとした瞬間、優華さんの言葉がぴしゃりと僕にぶつけられる。 もうそれだけで、僕は動けない。 「……今、近づかれたら……私、祥平くんに何をするか……わからないから………………お願いだから、近づかないで……」 時計の秒針だけが、かすかに空気を震わせる。 白い息を立てないように、僕はうつむいたまま、ネズミのように息を潜める。 頭がぐるぐると回っていて。だけど、何を言えばいいのかわからなくて。 僕はただ床のフローリングの板目を見つめる。 それからどれくらい時間を経ただろうか。 「あのね、わたし、家を出ようと思うんだ」 さっきまでの顔が嘘みたいに晴れやかな声がする方を見ると、いつのまにか枕から顔を上げた優華さんの顔がそこにあった。 もう涙は乾いていた。 顔も笑顔だった。 「うちの学校ね、いろいろなところから生徒が通ってくるから、学校の寮があるの。全員が入れるわけじゃないけど、私、部活とかで少し活躍してるから、多分手を上げたらは入れると思う。一人暮らしは大学に行ってからでもいいかな、と思ってたけど、せっかくだから早めに独立するのも悪くないよね。きっと」 「え?」 あまりに突然の話についていけない僕に、優華さんはそのまま続けて、 「結構ね、うち、門限とか厳しいからいい加減に出ようかなーと思ってたの。ちょうどいいタイミングだよね」 「ちょ、ちょっと……」 「唯姉には悪いけど、すこし大学に行くために溜めてたお金、取り崩してもらって……まあなんとかやっていけるかな、と思うの」 「………………」 努めて明るい声をしている優華さんに、僕は何も言えずに呆然とする。 「さ、体、冷えちゃったでしょ。お湯まだ残ってるかな?お茶入れようか。みかんもまだあったよね」 優華さんはぴょんとベッドから飛び起きると、ドアのノブに手をかける。 「優華さん」 「なに?」 優華さんがにっこりわらってこっちを振り向いた刹那。 「『優華さんは僕のお人形さん』」 小さな声だったけど、静かな部屋では十分だった。 そのまま、優華さんは笑顔を顔に張り付かせたまま、人形になる。 僕はゆっくりと優華さんに近づく。 優華さんが頑なに僕の侵入を拒んだ防衛線をあっさり越えて、僕は、この部屋に来てから初めて優華さんの手に触れる。 そのぞっとするような冷たさに、僕の心はずきりと痛む。 そのままその冷え切った手をゆっくりとさすって暖めながら、僕は優華さんの顔をおそるおそる見た。 優華さんはさっきまで僕のいたところに視線を向けたまま、そして笑顔のままでいる。でも、その笑顔は、……一生懸命「笑顔」にしなきゃ、としている笑顔だ。 僕は、その顔に手を伸ばしかけて、やめる。 優華さんは、自分のことを卑怯者だと、汚いと、いやらしいといった。 だとしたら、今まで催眠をさんざんかけて、そのことをずっと黙っていて、……今もこうやって催眠を使わなければ、優華さんに触れることもできない僕は、何なのだろう。 ほっとけばどこまでも沈みこんでしまうような息苦しさから逃げ出すために、壁にかかった時計を見た。 もうすぐ21時。 何をするとしても、その残り時間は、それほど多くなかった。 < 続く >
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