(cache) 蒙古襲来絵詞と竹崎季長

蒙古襲来絵詞と竹崎季長

佐藤 鉄太郎 著

図書館 ホームページに戻る
中村学園大学・中村学園大学短期大学部 ホームページに戻る
PDFファイルはダウンロードしてお読みください。(PDF利用法参照)


はじめに

蒙古襲来絵詞は肥後国の御家人竹崎季長が製作した大変貴重な絵巻物である。蒙古襲来絵詞は蒙古が襲来した一二七四年の文永の役、一二八一年の弘安の役の両度の蒙古合戦に参加し、この両度の蒙古合戦で活躍した肥後国の御家人竹崎季長が、文永の役での自らの出陣の様子やその文永の役で、戦功を挙げた様子と、その文永の役で活躍したにもかかわらず恩賞をもらえなかったために鎌倉に参り、鎌倉幕府の御恩奉行安達泰盛に庭中したところ、安達泰盛は竹崎季長の要望をきき入れてくれ、竹崎季長を勇者と認めてくれ、海東郷の地頭職を賜ったこと、更にその後竹崎季長が弘安の役で挙げた戦功の様子等を絵巻物に仕立たものである。

蒙古襲来絵詞は同絵詞の終りの詞書に鎌倉時代の永仁元(一二九三)年二月九日に成立したと記されている。ところで永仁元年は八月九日に改元されたため、永仁元年二月九日は実際は正応六年二月九日である。このように永仁元年二月九日と記されている年月日は正しくは改元される前の正応六年二月九日でなけれぱならないにもかかわらず、永仁の年号が用いられていることから、蒙古襲来絵詞がこの年に成立したことについては疑問が投げられ、蒙古襲来絵詞はこの年の成立ではなく、遥か後世の成立ではないかとする論もある「蒙古襲來絵詞に就いての疑と其解釈 荻野三七彦」(歴史地理第五九巻第二号)。しかし、蒙古襲来絵詞がこの頃に成立したことは間違いないであろう。

蒙古襲来絵詞は十九世紀の初め頃の江戸時代の終りに現在のような形に調巻されたらしく、現在、前巻と後巻の二巻の形に調巻されている。現存する部分だけで、前巻二十三メートル、後巻二十メートルに及ぶ長大な絵巻物である。明治二十三(一八九〇)年、熊本県の大矢野十郎が明治天皇に献上して御物となり、現在に至っている。

蒙古襲来絵詞は大変有名な絵巻物であり、ほとんどの人々が同絵詞の一部を写真や絵等で目にされたことであろう。中学校の歴史の教科書には全て、高等学校の日本史の教科書にも全て、口絵や挿絵として同絵詞の写真が採用されている。また、小学校の社会の教科書に於いても教科書の半分が挿絵として同絵詞の写真を採用している。日本の人々のほとんどが一度や二度は目にした筈であり、また、ほとんどの人々が記憶にとどめられておられるであろう。大変有名な絵巻物である。こうしたことにみられるように蒙古襲来絵詞は大変有名であり、そのためにその製作者の肥後国の御家人竹崎季長とともに蒙古襲来絵詞は大変盛んに研究されてきた。しかし、その割りには製作者の竹崎季長についても、絵巻物の蒙古襲来絵詞についてもまだまだその実像、実態はよく判っていないようである。大変残念なことである。従って、改めて蒙古襲来絵詞とその製作者の竹崎季長についてできうる限り、その実像、実態にせまってみたい。

また、周知のとおり、蒙古襲来絵詞は肥後国の御家人竹崎季長が蒙古襲来に於ける自らの戦功や活躍を記したものであり、蒙古襲来の事件全般について記された絵巻物ではない。従って、蒙古襲来絵詞は、蒙古襲来絵詞という呼称は適当ではなく、竹崎季長個人の活躍を記したものであることから、竹崎季長絵詞とすべきであるとの江戸時代の屋代弘賢以来の論がある。学術的には確かにそのとおりであろう。しかし、蒙古襲来の文永の役では「しぬへかりしみなり」(詞四)と、九死に一生を得るような働きをし、弘安の役でも、本文で述べるように竹崎季長はその緒戦の志賀島の合戦で、負傷し、またこの弘安の役の全体をとおして活躍し、蒙古襲来の文永の役、弘安の役の両度の戦いに命を懸けて戦っているのである。このような竹崎季長の活躍ぶりをみると、竹崎季長は鎌倉御家人の代表的な人物である。このような竹崎季長の命を懸けた一所懸命な生き方をみれば、この絵巻を単に竹崎季長個人の活躍を描いたものであるとして竹崎季長絵詞とは称するには忍び難い思いがする。この絵巻物はやはり蒙古襲来絵詞と称するべきであろう。ために、この論では全篇敢えて竹崎季長絵詞ではなく、蒙古襲来に際して愚直に一所懸命に生きた鎌倉御家人の代表的な人物である竹崎季長の意気に感じて蒙古襲来絵詞の呼称を用いる。

尚、本論文に掲載した蒙古襲来絵詞の写真は「日本の絵巻上二蒙古襲来絵詞」(中央公論社)から引用転載した。

第一章  蒙古襲来絵詞総論


一 蒙古襲来絵詞の研究概観


蒙古襲来絵詞の研究状況については昭和五十年に出版された「新修日本繪巻物全集十 平治物語繪巻・蒙古襲来繪詞」(角川書店)の巻末にまとめられている。「『竹崎季長絵詞』の成立 石井進」(日本歴史二七三号)以下従来の蒙古襲来絵詞の研究業績が網羅されている。また、竹崎季長については、「竹崎季長おぼえがき 工藤敬一」(日本歴史第三一七号)がある。更に最近に至って、熊本県教育委員会が昭和四十八年から四十九年に竹崎季長と蒙古襲来絵詞について総合調査をおこない、昭和五十年その成果を「竹崎城」として発表された。報告書の「竹崎城」はかなり膨大な量のものである。ただ惜むらくは「竹崎城」の内容は概論的であり、従来の竹崎季長と蒙古襲来絵詞についての見解の枠を出ていない。また、新しい見解についても、従来、蒙古襲来絵詞は二種類存在したとされている見解について、三種類存在したとする見解等が論じられている。しかし、本論で述べるようにこのような論は存在しえない論である。また、「荘園公領制の成立と内乱 工藤敬一」(思文閣史学叢書 思文閣出版 平成四年)の「第十四章、竹崎季長ーその出自と領主支配」は同氏の前掲論文「竹崎季長おぼえがき」と、同氏の「竹崎城」に収録されている竹崎季長についての論を収められたものである。また、「蒙古襲来研究史論 川添昭二」(中世史選書 雄山閣 昭和五十二年)は蒙古襲来絵詞と竹崎季長の文献と研究を含めた蒙古襲来関係全般についての文献の蒐集と研究論をまとめられたものであり、また、それらのそれぞれについて見解を述べられたり、解説をされ、蒙古襲来関係の文献を細大洩らさず収録された大変精致な作業の労作である。

前記した「新修日本絵巻物全集十 平治物語絵巻・蒙古襲来絵詞」(角川書店)は御物本の蒙古襲来絵詞の大変鮮明な写真版、コロタイプ版の画像を収録しており、ついで、昭和六十三年に「日本の絵巻十三 蒙古襲来絵詞 編集・解説 小松茂美」(中央公論社)が出版された。御物本蒙古襲来絵詞の全篇にわたる鮮明なカラー写真版である。従来、蒙古襲来絵詞は御物であるが故に実物の蒙古襲来絵詞を一般の人々は直接見る機会が少なかった。「日本の絵巻十三 蒙古襲来絵詞 編集・解説小松茂美」(中央公論社)は御物本の蒙古襲来絵詞の全篇にわたる鮮明なカラー写真による出版であり、これはそのような障害を取り除いてくれ、蒙古襲来絵詞の研究への便宜の道を妬いてくれた。大変喜ばしいことである。その他「皇室の至宝-御物」(毎日新聞社平成三年)が出版され、その第一巻「絵画1」に蒙古襲来絵詞が全篇鮮明なカラー写真で収録されている。同書の蒙古襲来絵詞の解説は宮次男氏が担当されているが、内容的には前掲の「新修日本給巻物全集 十 平治物語絵巻・蒙古襲来給詞」に収められている同氏の解説の要約である。
蒙古襲来の文永の役の後、鎌倉幕府は蒙古軍の再来襲に備えて、西は今津から東は香椎に至るまで博多湾一帯に九州の御家人等に命じて石築地を築いた。石築地が築かれて間もない時期か、もしくは中世の時期にこの石築地を描いた絵として、或は石築地を描いたものと考えられる絵としては、現在二例が知られている。一つは蒙古襲来絵詞の後巻の絵十二であり、竹崎季長が生の松原の石築地を警固する菊池武房等肥後国の諸士の前の海汀を出陣している場面であり、生の松原の海岸の汀近くに築かれた石築地が海側から描かれている。弘安の役の始め頃の築かれて間もない石築地が描かれて、石築地の様子がよく判る。確実な中世の石築地の絵として現在知られているのはこの一例のみである。他の一つは博多の禅寺の聖福寺を描いている聖福寺古図に描かれている石塁である。石築地を描いたものであるかどうか今一つ断定されていないが、海岸に石塁が描かれ、これは石築地を描いているものであろうと推定されている絵である。聖福寺古図は永禄六(一五六三)年、博多に兵火が起きた時、紛失したが、同寺の住職の玄熊が後日捜し出し、修補したと同絵図に記されており、この記述からすれば少なくともこの記述以前の、即ち、十六世紀半ば
以前の作品である。現在、蒙古襲来の文永の役後築かれた石築地を描いた絵として、或は石築地を描いたものと推定される絵として知られている絵は以上の二点、二場面のみである。

石築地、所謂防塁については川添昭二氏の祥細な研究がある。川添昭二氏の「注解元寇防塁編年史料」(福岡市教育委員会 昭和四十六年)は石築地、異国警固番役や元寇防塁関係の史料を細大洩らさず収録された労作である。ところで同書の生の松原地域の石築地について述べられている箇所を少々長文になるが引用してみる。

「以下、文献史料から知られるこの地域の石築地に関して記そう。端的にいって、間接史料はともかく、この地域の石築地役・警固役に関する直接史料はほとんど無い。鎌倉末か南北朝ごろの製作にかかるといわれている竹崎季長絵詞は、わずかに直接史料といえるものであろう。絵詞の図は、弘安の役のおり、肥後国の御家人竹崎季長が志賀島海上付近の敵船を襲撃するため生の松原の石築地の前をとおっているところをえがいたものである。詞書を参照すれば、肥後国の御家人菊池武房が固めている役所(石築地築造・警固分担場所)の前を季長が武房に挨拶して、海汀を東へ向かっているのである。」(一〇三頁)

絵十二(部分)(これをクリックすると拡大される)

また、蒙古襲来絵詞の詞十と絵十二についての説明に、
「なかでもここにかかげた箇所は、生の松原の石築地の状況を画いたものとして唯一のものである。肥後国の御家人菊池二郎武房が警護している石築地の前を、武房に挨拶しながら季長が出障しようとしている詞と絵で、現状とほぼかわりない。」(一五六頁、一五七頁)

以上のように、生の松原地域の石築地について川添昭二氏は同書で先に述べた蒙古襲来絵詞の絵十二のみが石築地を描いた唯一の絵であるとされ、詞十の「たけふ口のかためし役所の石つい地のまへにうちむかて」について、生の松原の石築地の様子を記したものとしては唯一のものであると論じられている。

現在では、また当然のことであるが、博多湾沿岸に築かれた石築地全体についても、石築地を描いた絵としては生の松原地域に限らず、蒙古襲来絵詞の後巻の絵十二のこの場面が確実なものとしては唯一のものと考えられている。

絵十三(部分)(これをクリックすると拡大される)

ところで、蒙古襲来絵詞の後巻の絵十三に竹崎季長の兵船とその竹崎季長の兵船に生の松原よりのりける人々の絵が描かれている。その絵十三の十二紙の下方から十一紙の最下方にかけて右下りに屈曲した線が左下方に短い斜めの引き線をともなって描かれている。これはよく見ると、ぽぽ同じ大きさの平たい石が連なって並べられているのを描いている線である。海岸に連なって並べられている石が石築地であることはいう迄もない。即ち、陸地側から見た石築地の頂部の線、天端の線が描かれているのである。画面の注記に「季長かひやうせんにいきのまつはらよりのりける人々」とあり、勿論、場所は生の松原である。

先に石築地を描いた絵、或は石築地を描いた絵と考えられる絵として現在知られているのは二例のみであることを述べた。また、その二例のうち、鎌倉時代当時の石築地を描いた絵としては蒙古襲来絵詞の後巻の絵十二のみであるとされている。先の川添昭二氏の論にみたとおりである。しかし、蒙古襲来絵詞の後巻の絵十三には以上のように生の松原の石築地が描かれているのである。現在、石築地の海に面した側の様子は先の後巻の絵十二に描かれている様子、石築地の現状や石築地の機能等からよく知られている。しかし、石築地の陸地側の様子は余りよく判っていない。

このような石築地の陸地側の様子を明らかにしてくれる大変貴重な場面である。また、蒙古襲来絵詞の後巻の絵十二の画面の構図は、海上から見た生の松原の石築地の上で警固する菊池武房等肥後国の諸士とその石築地の前の海岸の汀を出陣して行く竹崎季長主従というように描かれているが、後巻の絵十三はこのような構図と対象的に陸地側から生の松原の石築地と海岸を描き、石築地の先に見える海上に浮かぶ竹崎季長の兵船を描いているのである。「丹鶴叢書」の収録する蒙古襲来絵詞は明瞭にこの石築地を描いている。その他、この画面の中に陸地側から見た石築地が描かれていることは既に桜井清香氏も同氏の著書「元寇と季長繪詞」(徳川美術館)でこの絵十三の画面の挿絵に「石塁」と注記して描かれている。

蒙古襲来絵詞の後巻の絵十三は当時の石築地を描いている絵としては二例目の大変貴重な映像である。また石築地を絵十二と対象的に陸地側から描き、石築地の従来余り明確でなかった陸地側の様子を明確に描写して石築地の研究上も大変貴重な画面である。以上の例にみられるように、蒙古襲来絵詞は大変貴重な当時の歴史的史料である。

蒙古襲来絵詞が作製された鎌倉時代の後期は多数の絵巻物が作製され、絵巻物の作製の全盛期であるが、蒙古襲来絵詞は他の絵巻物に比べても美術的にも大変優れた作品であり、また、蒙古襲来の文永の役、弘安の役の合戦の様子、蒙古軍の様子等を大変リアルに且写実的に伝え、また当時の武士の服装、武装等の風俗や景観等も正確に伝え、歴史的史料としても大変貴重な作品であることはいう迄もない。

今後、蒙古襲来絵詞を祥細に検討、研究していくことによって、明らかにすることができる事実や事象は大変多いであろう。しかし、蒙古襲来絵詞の現在での研究はまだまだ端緒についたばかりであるということがいえる。

二 蒙古襲来絵詞の伝承

竹崎季長が蒙古合戦の文永の役、弘安の役での自らの活躍の様子を絵巻物に仕立てたこの所謂蒙古襲来絵詞が竹崎季長以後どのように伝承されて来たのか大変謎が多い。現在、蒙古襲来絵詞の伝承については、同絵詞に添えられている大矢野十郎の添状と同絵詞を納めた箱の蓋裏の貼紙等によって知られるのみであり、それらによれば以下のように伝えられている。

竹崎季長は作成した蒙古襲来絵詞を甲佐社に奉納し、それが戦国時代も終わりの頃に、肥後国宇土の城主伯耆(名和)左兵衛尉顕孝に伝えられていた。そして伯耆顕孝の女が天草の大矢野城主大矢野民部大輔種基と結婚することになり、大矢野種基の先祖の大矢野十郎種保、同三郎種村の活躍の様子が蒙古襲来絵詞に描かれているので伯耆顕孝から大矢野種基に贈られたものという。大矢野種基は豊臣秀吉の朝鮮出兵に参戦してかの地で戦死したという。その後、肥後国は二分されて熊本を加藤清正、字土を小西行長が支配することとなったが、大矢野氏は加藤清正に仕えることになり、清正の死去後は細川家の家臣となった。以来、蒙古襲来絵詞は大矢野家に伝来してきたとされている。

大矢野氏は天草の大矢野島を本拠地とした鎌倉御家人であり、国人領主としても著名である。大矢野種基は豊臣秀吉が、島津氏討伐のために九州に下向してきた時、豊臣秀吉に従った。大矢野氏の由緒について少しみてみよう。大矢野家には「大矢野氏先祖付」が伝えられている。それによれば、既に原本は失われて写しであるが、大矢野氏の古文書が伝えられている。(1)

於肥後国天草郡内九十町之事、此度爲御恩地被仰付侯上者、全致領地、可與力羽柴陸奥守(佐々成政)、向後可抽奉公之忠勤者也、
  天正十五
      五月晦日           御朱印(豊臣秀吉)
     大矢野民部大輔(種基)とのへ

肥後国天草郡内千七百五十五(石税)之事、此度以御恩(検)地之上、爲被宛行之詑、全令領知、小西摂津守(行長)干致合宿、可抽忠節候也
天正十六 後五月十五日          御朱印(豊臣秀吉)
     大矢野民部大輔(種基)とのへ

若干疑問のある古文書であるが、大矢野氏の当時の領主としての在り様を物語っている古文書であることは間違いないであろう。以上のことからすれば大矢野民部大輔種基は最初、豊臣秀吉から天草郡内に九十町を朱印地として与えられ、佐々成政の与力となり、佐々成政が豊臣秀吉によって肥後国の国人一揆の責めを負わされて滅ぼされ、つづいてその後、加藤清正が肥後国の北半を領し、小西行長が肥後国の南半を領して、天草郡を領すると天草郡内に千七百五十五石の朱印地を与えられ、小西行長の与力となったようである。そして豊臣秀吉の朝鮮出兵が始まると、大矢野種基は小西行長に従い、朝鮮に出兵したが、文禄二(一五九三)年八月二日朝鮮の順天に於て戦没した。その後、大矢野種基。の子孫は小西行長が関ヶ原の戦いで西軍に属して滅び、加藤清正が肥後国一国を領すると、加藤清正に従った。そして加藤清正の子、忠広の頃に大矢野種基の子孫の大矢野嘉兵衛尉直重は玉名郡下長田村に領地を与えられ、その所領である玉名郡下長田村に移ったようである。

そして、大矢野氏は加藤忠広改易後は加藤氏の跡を襲った細川氏に仕えた。蒙古襲来絵詞は以上のような大矢野種基とその子孫に伝えられた。そして、文政八(一八二五)年大矢野門兵衛は蒙古襲来絵詞の保管を藩主の細川氏に願い出、以後蒙古襲来絵詞は藩主の細川家で管理されたという。尚、大矢野家より、藩主の細川家に管理が移された頃の十九世紀の初に肥後藩の福田太牽が現在の蒙古襲来絵詞の形の前、後、二巻に調巻したという。明治二(一八六九)年の廃藩置県によって、藩主の細川氏は大矢野家に蒙古襲来絵詞を返還した。そして、明治二十三二八九〇一年、大矢野十郎が明治天皇に献上して、以後、蒙古襲来絵詞は御物となって現在に至っている。

三 蒙古襲来絵詞の作製地

蒙古襲来絵詞は何処で作製されたのであろうか。蒙古襲来絵詞の製作者については「蒙古襲来絵巻物履歴ならびに軍旗之來」(天草郡史料 第弐輯 天草郡教育会編)は「土佐画工(長章長隆画工名鑑に有り)父子に嘱託して書かしめ、詞書自筆して其家蔵む」と、絵は京都の土佐派の絵師長章、長隆の父子の両人に描かせ、詞書は竹崎季長自らの自筆であるとしている。しかし、現在では蒙古襲来絵詞が京都の土佐長章、長隆の父子作であることをそのまま信じる人は誰もいないであろう。蒙古襲来絵詞の美術品としての価値について桜井清香氏は「この絵巻が非常に勝れた名品であると云うことは出来ない。『平治繪詞』に比して遥かに劣るもの…」とされ、蒙古襲来絵詞の美術的価値については余り高く評価されていない(2)。そして作製者は「肥後在住の画人であって、季長の住地と余り隔ってはいなかろうと思える。恐らく熊本辺に住んでいた画家であろう。而して其の二筆は師弟であろう。」と肥後国熊本辺に住んでいた絵師であろうと推定されている(3)。その他に大宰府画壇に連なる絵師によって描かれた等の考えも出されている。例えば阿蘇品保夫氏は「季長が行ったことは、大宰府あたりの絵師に依頼して合戦や訴訟の次第を絵巻物に描かせたことである。」と、蒙古襲来絵詞は竹崎季長が大宰府あたりの絵師に描かせたとされている(4)。そうした論のなかで小松茂美氏は肥後とも、大宰府とも、京都とも、その作製者の絵師を断定されてはいないが、蒙古襲来絵詞の描法は大和絵の本流に連なると指摘されている(5)。大変注目すべき見解であろう。

先に述べたように桜井清香氏は蒙古襲来絵詞の美術的価値、芸術的価値を評価されていない。確かに桜井清香氏が指摘されたように一見した蒙古襲来絵詞は平治物語絵詞に比べると平治物語絵詞のような大変洗練された美しさや華麗さはない。どちらかというと如何にも地方の武士の生き方を表わしている骨太い力強さが感じられる。平治物語絵詞は京都の華麗さをよく表しているが、武士の力強さは感じられない。しかし、蒙古襲来絵詞は実戦で闘ってきた武士の力強さがその人物像にもその他の風景にもよく描かれている。また、平治物語絵詞に比べると一見すると地味であるがよく見ると人物像も大変華麗に描かれている。また、何よりも人物の一人一人の表情が肖像画のように忠実に描かれ大変写実的に且丁寧に描かれているのである。

ただ惜しむらくは桜井清香氏は気づかれていなかったが、別項の第二章で指摘するように所々に後世の、多分に江戸時代大矢野家に伝世されるようになってからであろうと思われるのであるが、かなり稚拙な描き変えがおこなわれてしまって原画の本来の優秀さを損なってしまっているのである。こうした大変稚拙な描き変えを除いた本来の原画のみで鑑賞してみると大変優れた作品であることがわかる。人物の描き方も樹木の描き方も小松茂美氏が指適されたように大和絵の本流の描き方に従って忠実に描かれていることがわかる。蒙古襲来絵詞は決して同じ合戦絵である平治物語絵詞に勝るとも劣らない出来映えの作品である。また、蒙古襲来絵詞と平治物語絵詞とは同じ合戦絵であるといっても異なる性格の絵巻物であるとみるべきで、両者を同じパターンで比較すべきではないであろう。ともかくも蒙古襲来絵詞が美術的にも大変優れた作品であることは疑いえないことである。

ところで、十二世紀の後半に製作された応天門の変に題材をとった伴大納言絵詞がある。この伴大麹言絵詞は、後白河法皇の勅願によって平清盛が建てた蓮華王院の宝蔵に蔵せられ、後白河法皇が愛玩されたことで知られている。その伴大麹言絵詞の絵に応天門に放火した犯人が露顕する切掛となった伴大納言家の出納の子と右兵衛府の舎人の子の喧嘩の場面がある。この場面はそっくりそのま。・松崎天神縁起絵巻の子供の喧嘩の場面に使用されていることはよく知られていることである。松崎天神縁起絵巻は小松茂美氏によれば応長元(一三一一)年松崎天満宮を崇敬した周防国の国司土師信定が摂関家の鷹司宗嗣の援助をあおいで京都に注文して作製したものであるとされている(6)。絵師は不明であるが、京都の宮廷絵師であることは当然である。京都の宮廷絵師であるから当時連華王院の宝蔵に所蔵されていた伴大納言絵詞を見ることができ、その見たことのある伴大納言絵詞の絵の一部分である喧嘩の場面を松崎天神縁起絵巻の子供の喧嘩の一場面に使ったものである。

絵七(部分)(これをクリックすると拡大される)

蒙古襲来絵詞で最も有名な場面である竹崎季長が鳥飼潟の塩屋の松の下で自らも傷つき、馬も射られて馬が踊り狂っている状態で奮戦している蒙古襲来絵詞の前巻の絵七の場面がある。絵七のこの場面は江戸時代に稚拙な手が加えられて、本来の蒙古襲来絵詞の絵の感じが大変損なわれてしまっているようである。例えば竹崎季長は矢を三本背負っている於、これは後世、江戸時代の描き加えである。絵七のこの場面について平治物語絵詞の六波羅行幸巻の五紙の絵と比べてみよう。この絵のなかで武士の乗った馬が飛び跳ている場面があるが、蒙古襲来絵詞の絵七の竹崎季長が奮戦している絵と全く同じである。蒙古襲来絵詞の絵七の竹崎季長の奮戦している場面は平治物語絵詞のこの場面から借りた場面であるとすることはできないであろうか。その他にも平治物語絵詞に描かれた馬の様子は蒙古襲来絵詞に描かれた馬とそっくりである。

平治物語絵詞六波羅行幸より(これをクリックすると拡大される)

先に松崎天神縁起絵巻に描かれた子供の喧嘩の場面は伴大納言絵詞の子供の喧嘩の場面を借用していることをみた。こうした現象は松崎天神縁起絵巻を描いた絵師は京都の絵師で蓮華王院の宝蔵に所蔵された伴大麹言絵詞を見ることが出来る立場にある京都の宮廷絵師であるから出来たことである。同様に蒙古襲来絵詞の最も有名で代表的な場面である絵七の竹崎季長の奮戦している絵が平治物語絵詞の六波羅行幸巻に描かれている場面と同じであり、また、その他にも平治物語絵詞の絵と共通する絵が存在するとすると、蒙古襲来絵詞を描いた絵師は平治物語絵詞を見ることができた絵師であるとすることができるであろう。即ち、蒙古襲来絵詞を描いた絵師は平治物語絵詞を見ることができた絵師である。それでは平治物語絵詞は当時どこに所在していたのであろうか。後崇光院伏見宮貞成親王の日記である「看聞御記」の永享九年(一四三七)六月二三日の条に
廿三日。晴。法輪院参。対面雑談。平治繪ハ山門秘藏。綸旨。院宣。御教書ならてハ不出云云。内々以御奉書預承仕ニ申て。密々可申出之由申。万一令風聞者近日之儀如何之間。令斟酌之由令申。
とある。

平治物語絵詞は山門、延暦寺の秘蔵であって綸旨、院宣、御教書によってのみ見ることができたとあるのである。延暦寺の秘蔵であった平治物語絵詞を見ることができる人々は天皇、法皇等に限られ、そしてそれらの人々に近侍することができたごく限られた京都の宮廷絵師であったとすることができるであろう。従って、蒙古襲来絵詞を描いた絵師が平治物語絵詞を見ることができた絵師であるならば、以上のように京都の宮廷絵師であるとすることができるのである。

従来、蒙古襲来絵詞が製作された地については地元の肥後国の熊本であるとか、大宰府であるとかの考えが主流であった。しかし、平治物語絵詞の絵と蒙古襲来絵詞とには同じ場面があったり、大変よく似た描き方がなされている。

そしてその平治物語絵詞が以上のように延暦寺の秘蔵品であり、天皇、上皇級の人々しか見ることができない状態であったとすると、蒙古襲来絵詞を描いた絵師はそれらの人々に近侍していた京都の宮廷絵師であったと考えることができるであろう。蒙古襲来絵詞は大和絵の描き方に従って忠実に描かれておりそうした作風からしても肥後や大宰府で作製されたとはとても考えられないのである。絵一に描かれているへの字重ねの波は大変優れた描き方であり、非常に洗練された丁寧な描き方である。かなりの技術を有している京都の宮廷絵師によって描かれたものと思われる。

肥後や大宰府等の地方の絵師の手になるものではない。また、絵二に描かれている川の描き方についても同様であり、蒙古襲来絵詞と同じ頃の正安元(=一九九)年に描かれた歓喜光寺が所蔵する国宝の一編上人絵伝に描かれている海や川の描き方に良く似ており、また、それのみならず蒙古襲来絵詞は一編上人絵伝の絵よりも優るとも劣らない優れた描き方である。一編上人絵伝は当時の第一人者であった京都の絵師円伊が描いたことで知られているが、その京都の絵師円伊が描いた海、川の描き方が優れた描き方であるとすれば、その描き方に勝るとも劣らない描き方をしている蒙古襲来絵詞が京都の絵師によって描かれたことを裏付けるものである。また、絵十三に描かれている松の木は大和絵の当時の樹木の描き方の典型的な描き方であり、ここに描かれている松の姿体、樹形は当時の大和絵の典型的な描き方であり、このような松、樹木の姿体、樹形はこの頃の絵巻物に数多く描かれている。また、そしてこの松の木は大変優れた描き方である。こうしたことからも蒙古襲来絵詞が京都の宮廷絵師によって作成されたことを裏付けるものであろう。


(1) 熊本県史料 中世編第四大矢野文書 
(2) 桜井清香 元冠と季長絵詞 徳川美術館 一九二頁、一九三頁
(3) 桜井清香 前掲書 一一二頁
(4) 阿蘇品保夫 菊池一族 新人物往来社 四五頁
(5) 小松茂美 日本の絵巻十三 蒙古襲来絵詞 中央公論社 一四一頁
(6) 小松茂美 続日本の絵巻二十二 松崎天神縁起 中央公論社 七八頁、七九頁

第二章 蒙古襲来絵詞の絵の後世の改竄(略)
第三章 蒙古襲来絵詞の二種類の絵(略)
第四章 蒙古襲来絵詞の二種類の詞書(略)
第五章 蒙古襲来絵詞の弘安の役についての絵の配列(略)
第六章 蒙古襲来絵詞の遺存(略)
第七章 竹崎季長の生き方(略)
第八章 竹崎季長と霜月騒動、岩門合戦(略)

おわりに


同じことを繰り返し述べて恐縮であるが、今迄論じてきた蒙古襲来絵詞と竹崎季長についての主な要点をまとめて述べてみる。

蒙古襲来絵詞がどこで作製されたかについて、従来は竹崎季長の地元である肥後国の熊本であるとか、大宰府であるとか、或は京都であるとか種々論じられていた。しかし、蒙古襲来絵詞の描き方は技術的に大変優れた絵師の手になるものであり、蒙古襲来絵詞は同時期に作製された絵巻物の一遍上人絵伝等と比べても決して遜色がない優れた作品であり、また、絵七の文永の役で鳥飼潟の塩屋で竹崎季長が奮戦している場面は平治物語絵詞の場面と全く同じ絵である。また、平治物語絵詞と大変よく似た絵がしばしば存在する。平治物語絵詞は当時、延暦寺に秘蔵され、天皇、上皇級の人々しか見ることができなかった絵巻物である。これらのことから考えると天皇、上皇等に近侍していた絵師が蒙古襲来絵詞の作成にあだったことが考えられる。また、樹木の描き方等は当時の大和絵の主流の描き方であり、こうしたことから、従来考えられていたように肥後や大宰府といった地元で作製されたものではなく、京都の宮廷絵師である優れた絵師の手によるものであると考えることができることを明らかにした。

蒙古襲来絵詞は絵十一や絵十五にみられるように現在の形に調巻されるにあたって作為がなされているが、また、調巻にあたっての作為だけでなく、調巻の頃と思われるが、絵においても作為的な描き込みがおこなわれている。

絵七は文永の役で竹崎季長が鳥飼潟で蒙古兵と戦っている蒙古襲来絵詞の随一の見せ場として大変有名な場面であり、特にこの場面に描かれた三人の蒙古兵はこれを本来の絵として、これについて種々論じられているが、竹崎季長と対時している三人の蒙古兵は蒙古襲来絵詞の本来の絵ではなく、後世の描き込みであることを明らかにした。竹崎季長の周辺に描かれている矢、槍も後世の描き込みである。

また、絵二十一に竹崎季長が生の松原の肥後国守護代安達盛宗の仮屋形で安達盛宗の引付に付く場面で、竹崎季長の傍に控えている二引両の直垂を着た竹崎季長の従者らしい人物が描かれている。この人物は鎌倉時代の若党風に描かれているが、鎌倉時代の風俗とは全く似て非なる風俗であり、江戸時代の描き込みであることを明らかにした。これも多分に絵七の蒙古兵の描き込みをしたと同じ人物が描き加えたものであろう。

また、絵十六で竹崎季長が弘安の役の御厨の海上合戦でたかまさの船に懇願して乗せてもらい、蒙古の軍船を襲っている場面で詞十二に蒙古の軍船に乗り移るために少しでも身軽るくするために背負っていた征矢を捨てたとあるにもかかわらず、絵十六には竹崎季長の背に矢が描かれている。これについて桜井清香氏は絵師が間違えて描いたと誤解されている。しかし、これは桜井清香氏が考えられたように絵師が間違えたというようなことではなく、後世の描き込みであり、蒙古襲来絵詞の本来の絵にはなかったものである。

蒙古襲来絵詞には以上のような後世の描き込みや改竄がかなりおこなわれていることを明らかにした。蒙古襲来絵詞の絵の描き方は二種類に分けられることはよく知られている。そして蒙古襲来絵詞の絵がそれぞれどのような描き方をされているかについて宮次男氏と桜井清香氏等の分類をみてみた。両者の分類には共通性があり、描き方の分類は大筋として一致している。こうした宮次男氏や桜井清香氏等の分類にみられるような蒙古襲来絵詞の絵の描き方の分類は従来、感覚的、抽象的に分類されていた。一」うした分類方法に対して、改めてより確実な描き方の違いを明らかにするために、絵に描かれた建物及び建造物、岩、石、樹木、海波、船、人物等の具体的な対象別に絵の描き方の違いを明らかにし、それから画面の描き方の違いを明らかにした。そうした描き方の分類方法によって絵十を分類してみると、絵十を宮次男氏はB型に分類されている。宮次男氏の分類によるB型は本来の分類型に直すとA型となる。桜井清香氏はA筆とされ、両氏ともに同じ描き方に分類されているが、絵十の描き方を具体的に対象別に他の絵と比べると両氏の分類と違って、B型であることを明らかにした。

次に従来、絵十一や絵十五は全く同じ絵で描かれた同一の絵と把えられている。しかし、絵十一については絵十一の二紙と三紙とでは柱の描き方、縁束の描き方などから、明らかに描き方が異なる二種類の描き方で描かれており、描き方の異なる絵を継ぎ合わせた絵である。絵十五は描き方が違った、しかも全く違った場面を描いた絵を継ぎ合せた絵であることを明らかにした。絵十五は従来は一つの絵として把えられ、またそのために一つの絵であるからには当然描き方も一つというように把えられてしまったのであろうが、大宰少式経資手之物兵船、薩摩国守護下野守久親同舎弟久長手之物兵船の両兵船が描かれた部分とそれに連なる海岸部は全く別箇の絵であり、描き方も両兵船の部がA型、海岸部がB型で描かれており、描き方が全く異なり、また、全く別の絵を継ぎ合わせて合成した絵である。

更に蒙古襲来絵詞の絵には成立した当時に手直し、修正された絵がある。絵十四の関東御使合田遠俊の兵船の漕ぎ手や棚が描き直されたり、天草の大矢野十郎種保、三郎極村の兵船の漕ぎ手が描き直されている。また、絵二十の志賀島に上陸した葉古車の場面で志賀島神社の鳥居が描き直されたり、また蒙古軍の将軍と覚しき人物はこの場面の二度目の手直しで描き込まれたものであることを明らかにした。

従来、蒙古襲来絵詞が二種類存在していることについては考えられていたが、二種類存在したとされる蒙古襲来絵詞が、それぞれ相互にどういう関係にあるのかについては全く論及されたことはなかった。このことについて、手直し、修正がおこなわれている絵十四、絵二十は蒙古襲来絵詞の絵の描き方をA型、B型に分類した時、B型の描き方の絵である。このことから蒙古襲来絵詞が二種類作製されたとすると、A型の描き方をした絵には手直し、修正は全くみられず、B型の絵のみに手直し、修正がみられることから、B型の絵で描かれた蒙古襲来絵詞が先に成立したものであろうことを明らかにした。

そして更にこのことについて、B型で描かれた画面の絵十一、絵十九、絵二十一の画面にA型で描かれた絵が描き込れたり、A型の描き方で手直しがおこなわれていることを明らかにし、このことからB型で描かれた絵が先に成立し、A型で描かれた絵が後で成立したことを明らかにした。即ち、B型の描き方で描かれた蒙古襲来絵詞が先に成立したものであり、A型で描かれた葉古襲来絵詞が後で成立したものである。そして更に、A型で描かれた蒙古襲来絵詞の絵はB型で描かれた蒙古襲来絵詞の絵を手本として成立したものであることを明らかにした。

また、蒙古襲来絵詞の詞書は振仮名が付けられている詞書と振仮名が付けられていない詞書の二種類の詞書が存在することは知られていた。しかし、従来、このような二種類の詞書が存在することが何を意味しているかについて考察されたことは全くなかった。振仮名が付けられている詞書と振仮名が付けられていない詞書について、同文の振仮名が付けられている詞九と振仮名が付けられていない詞七とを比較すると、詞九で振仮名が付けられている漢字は全て、その他の漢字もほとんどが詞七では平仮名の表記となっているのである。そしてこのことから更に振仮名が付けられている詞九が先に成立し、これを手本として詞七が成立したことを明らかにした。

即ち、振仮名が付けられている詞書が先に成立した蒙古襲来絵詞の詞書であり、振仮名が付けられていない詞書が、それを手本として後で成立した蒙古襲来絵詞の詞畜であることを明らかにした。

そして、以上のことから蒙古襲来絵詞のB型で描かれた絵と振仮名が付けられた詞書が先に成立した蒙古襲来絵詞の絵と詞書であり、A型で描かれた絵と振仮名が付けられていない詞書とが先に成立した蒙古襲来絵詞の絵と詞書を手本として後で成立した家古製来絵詞の絵と詞書であることを明らかにした。

また、竹崎季長が蒙古襲来絵詞を作製した目的は詞十六に「神のめてたき御事を申さんためにこれをしるしまいらす」と、あることから、従来、竹崎季畏が甲佐大明神の神思に感謝して甲佐社に奉納するために作製したものであると単純に把えられてきた。しかし、竹崎季長の意図はそうしたことと違ったもっと別の意図があったと考えるべきである。竹崎季長は文永の役の恩賞として海東郷を賜ったが、このことについて竹崎季長は詞十六で甲佐大明神の神意であることを不自然なまでに強調しており、竹崎季長が甲佐大明神の神意によって海東郷の正統な領主となったことを強調しなければならないような状況、つまり、竹崎季長が文永の役の恩賞として賜った海東郷の支配に動揺をもたらすような何らかの状況が生じて、甲佐大明神の神意を借って海東郷の正統な領主であることを主張するために詞十六にそのことを記して既成事実化した蒙古襲来絵詞を甲佐社に奉納したものであることを明らかにした。

次に蒙古襲来絵詞の絵の配列の疑問について指摘すると、蒙古襲来絵詞の後巻は絵十一竹崎季長、弘安の役で負傷した河野道有を見舞う。絵十二竹崎季長、生の松原の石築地を警固する菊池武房等肥後国の諸士の前を出陣する。以上の順序となっており、この絵十一と絵十二の順序については現在そのまま信じられている。しかし、竹崎季長が蒙古襲来絵詞を作製した意図から考えればこのような順序はあり得ない順序である。現在の蒙古襲来絵詞の構成では後巻は竹崎季長の弘安の役での活躍について記しており、この後巻の趣旨からしても絵十二の竹崎季長が弘安の役で出陣していく場面が冒頭に配置されるべき場面であることを明らかにした。

また、本来の蒙古襲来絵詞は三巻からなり、第一巻は文永の役に於ける竹崎季長の活躍を記したものであり、第二巻は竹崎季長が鎌倉の安達泰盛に庭中して海東郷を賜ったことを記したものであり、第三巻は弘安の役に於ける竹崎季長の活躍を記したものである。絵十一と絵十二は本来の蒙古襲来絵詞に於いては第三巻の絵である。そしてこの本来の蒙古襲来絵詞に於いても絵十二の竹崎季長の出陣場面が第三巻の冒頭に描かれていた絵である。絵十一はその後に配されていた絵であることを明らかにした。

次に蒙古襲来絵詞の遺存について、現在、全ての研究者が現存している蒙古襲来絵詞はかなりの欠落があると論じている。しかし、蒙古襲来絵詞の詞書の遺存について検討してみると、現存している詞書の前と後に余白がある詞書がある。つまり、本来の詞書のまま完全に遺っている詞書である。これらの詞書は詞一、詞二、詞三、詞四、詞六、詞七、詞八、詞十一、詞十三、詞十五であり、合計して十の詞書である。また、詞書の内容やまとまりから成立当初の本来の詞書のままであると判断できるのは詞五、詞十の二つであり、現在遣っている十六の詞書のうち、十二の詞書が本来の詞書のまま遺っているのである。尚、蒙古襲来絵詞の現存している詞書は十六であるが、詞九は詞七と同文の詞書の一部であるので、現存している詞書の実数は十五である。従って、蒙古襲来絵詞の現存している詞書の実数十五のうち、十二が完全な詞書のまま遣っている。十五のうち十二という数はほとんどと考えていいであろう。つまり、現在遺っている詞書のうちほとんどの詞書が成立当初の本来の詞書のまま完全な形で遣っているのである。

個々の詞書のほとんどが成立当初の完全なまま遺っていることは詞書の全体についてもかなりの部分で当時のまま遺っていると考えることができるであろう。個々の詞書が-単独ではそれぞれほとんどが完全な形で遣っているのに詞書全体についてはほとんどが失くなっているとは考えられないからである。

また、蒙古襲来絵詞の絵についても絵の遺存の状態を検討してみると、蒙古襲来絵詞の遣っている二十一の絵のうち、従来完全な絵として遺っているのは絵一、絵九、絵十、絵十二、絵十三、絵二十、絵二十一の七つ程であるとされていたが、絵の遺存の状態を検討してみると、成立当初の本来の形のままの完全な形で遣っているのは絵一、絵六、絵九、絵十二、絵十三、絵十六、絵十九、絵二十、絵二十一の九つであり、現在の絵巻の形に調巻する際に端の極めて一部を切断してしまっているがほぼ完全な形で遺っている絵は絵二、絵十、絵十一、の三つであり、完全に遺っている絵、ほぼ完全に遺っている絵は合計すると十二が遺っているのである。従来考えられていた以上に多く遣っているのである。また、完全な形で遣っていないその他の絵についても絵巻の何処に配置すべきであるか全く不明で断簡として遺っている絵は絵十五の後巻十八紙の絵のみであり、その他はほぼ何処に配置すべきか判断できる絵である。

以上のような詞書と絵の遣り方から判断すると、蒙古襲来絵詞の詞書と絵とは、全ての研究者が論じていたようにかなりの欠落があるのではなく、本来の形をある程度遣した形で遣っていると考えることができることを明らかにした。

次に竹崎季長の御家人としての在り方について、蒙古合戦の文永の役、弘安の役の時の他の御家人の在り方から比べると竹崎季長主従はあまりにも小勢であるとされ、それは竹崎季長が所領をほとんど失くした状態、つまり、「ほんそにたつし候はぬ」状態にあったためであると論じられている。しかし、蒙古合戦の時の竹崎季長主従の兵力は当時の大多数の御家人の主従の兵力とはほほ同じ状態であり、特に少い主従の人数であったり、特に少い兵力ではない。また、竹崎季長の「ほんそにたつし候はぬ」状態とは所領を全て失ってしまっている状態ではなく、本領の一部が横領されたり、相論中であり、当知行の所領が本領に不足している状態を称するのであり、本領の全てを無くしてしまっている状態ではない。また、当時のかなりの御家人がこのような「ほんそにたつし候はぬ」状態にあった。また、竹崎季長が「ほんそにたつし候はぬ」と、本領に不足していた不知行の所領であったのは海東郷のことを指しているのであることを明らかにした。

次に蒙古襲来の弘安の役の後、有力御家人であり、鎌倉幕府の有力者であった安達泰盛が討滅された霜月騒動に運勅して九州に於いて少弐景資が討滅された岩門合戦が起きた。霜月騒動については内管領平頼綱によって引起された事件であり、この事件の結果、鎌倉幕府の得宗専制体制が確立した事件であると位置づけられている。岩門合戦についても同様な事件であると論じられているが、諭理的に明確に位置づけられていない。このような岩門合戦について、北条時定が長門探題であった北条實政の北条氏一族、後、鎮西探題が成立すると鎮西探題の引付衆となった北条氏と密接な関係にあった九州の御家人とともに、肥前国の守護の地位を利用し、警固の当番衆であった肥前国の御家人を少弐景資の討伐に当たらせた事件であり、九州に於いても北条氏が得宗専制体制を実現するために周到に計画して起こした事件であることを明らかにした。また、竹崎季長は霜月騒動で討滅された安達泰盛とも、岩門合戦で討滅された少弐景資とも旧知の間柄であり、竹崎季長が少弐景資の討伐についてどのように対処したのかについて、従来、竹崎季長は事件に直接関与しなかったものの、安達泰盛、少弐景資との行掛りから少弐景資の与党としての心情にあったと論じられているが、蒙古襲来絵詞の詞書に表されている竹崎季長の生き方や、岩門合戦に討伐軍として加わった九州の御家人の在り方から従来、論じられていた竹崎季長の生き方と逆であることを明らかにした。

以上、繰り返しになったが、まとめとして蒙古襲来絵詞と竹崎季長について明らかにすることができた主たる要点を記した。
(平成9年6月12日)