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蘇我入鹿邸、甘樫丘を要塞に 奈良・明日香村
このニュースのトピックス:歴史・考古学
奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で27日見つかった7世紀中ごろの大規模な倉庫群跡。権謀術数をめぐらせて政権のトップに上りつめながら暗殺された蘇我入鹿邸の武器庫ともみられるが、入鹿が政敵に備えて丘全体を要塞(ようさい)化したイメージが浮かび上がる。
「家の外に城柵(きかき)をめぐらせ、門の脇に武器庫を設けた。力のある者に武器をもたせて家を守らせた」。日本書紀は外敵に備えて鉄壁の守りを固めた入鹿邸の様子をこう伝えている。
「蘇我邸は要塞を思わせる構造で、今回の倉庫も武器庫の可能性が高い」と猪熊兼勝・京都橘大学教授(考古学)。「政敵から身を守ろうとした入鹿の姿が、発掘によってドラマチックに解明されていくようだ」と興奮を隠さない。河上邦彦・神戸山手大学教授(同)も「武器や穀物を納めた重要な倉庫だけに、敵から攻められないよう谷の奥に隠して建てたのだろう」と指摘する。日本書紀に「谷(はざま)の宮門(みかど)」と記された、入鹿が暮らした正殿にふさわしい宮殿クラスの大型建物跡は今回の調査でも見つかっていない。
和田萃(あつむ)・京都教育大学名誉教授(古代史)は「今回調査した谷の尾根を越えれば、さらに広い谷地があり、そこに入鹿の正殿があったのでは」と推測する。
日本書紀によると、蘇我氏滅亡後、都はいったん難波宮(大阪市)に移り、653年に中大兄皇子(後の天智天皇)らが再び飛鳥に戻ったとされる。和田名誉教授は「飛鳥の再整備にあたって、廃虚と化した蘇我邸を撤去して新たに建物を築き、中国の脅威から守る軍事拠点にしたのでは。東アジアの緊張状態をほうふつとさせる」と話した。