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蘇我氏の武器庫? 日本書紀を裏付け、入鹿邸とほぼ確定

2008年03月27日

 大化改新のきっかけとなったクーデター「乙巳(いっし)の変」(645年)で倒された蘇我入鹿(そがのいるか)(?〜645)の邸宅跡があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)東麓(とうろく)遺跡で、7世紀前半の建物(倉庫)跡が見つかった。奈良文化財研究所が27日発表した。日本書紀に記述のある蘇我邸の兵庫(つわものぐら)(武器庫)とみられ、7世紀半ばに無くなったことなども判明したため、一帯が入鹿の邸宅だったことがほぼ確定した。

写真甘樫丘東麓遺跡の発掘調査で見つかった蘇我入鹿邸の兵庫とみられる建物跡=27日、奈良県明日香村で
地図   
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 05年度調査で7世紀の掘っ立て柱建物や塀などが見つかっており、今回は時代や規模を特定するため調査範囲を周囲約950平方メートルに広げた。

 確認された7世紀前半の建物は三つ。二つは床全体に柱がある高床式の総柱建物(縦約9メートル、横約5メートル)で、兵庫だったらしい。中に重いものを置くため、柱を増やし床の強度を高めていたとみられる。北側の建物のそばには、建物を隠すための塀(長さ約10メートル)の跡もあった。

 もう一つは掘っ立て柱建物(縦約11メートル、横4メートル)。三つの建物とも、出土した土器や近くの溝から出た焼土と炭などから、7世紀半ばに無くなっていたことがわかった。

 日本書紀には、644年に蘇我蝦夷(えみし)、入鹿父子は甘樫丘に家を並べ建て、兵庫や柵(さく)をつくり、力の強い兵に守らせたとある。その後の乙巳の変で焼け落ちたとされる。

 猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)は「廃絶時期がはっきりしたことで、これまで推定の域を出なかった入鹿邸の可能性が極めて高くなったと言える。生活痕がないことから、今回の建物跡は武器庫とその関連施設だろう」とみている。

 現地見学会は29日午後1〜4時。小雨決行。

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