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カトリック情報ハンドブック2007 巻頭特集

カトリック中央協議会では、毎年「カトリック情報ハンドブック」を発行しています。教会暦とその解説や教会、修道院をはじめカトリック関連約3500の施設の最新住所録などをまとめた内容になっています。 このページでは、「カトリック情報ハンドブック2007」に掲載された巻頭特集をご覧になれます。

現在、出版部では「カトリック教会情報ハンドブック2008」のご注文をお受けいたしております。
巻頭特集は「キリスト教界のカルト問題対応」と 「キリシタン史跡をめぐる」の続編です。


特集1 中国のカトリック教会―歴史、現状、展望  松隈康史

 「友人が転勤で中国に行くことになりましたが、中国のカトリックは教皇様とは無関係だと聞きました。ミサに行っても大丈夫でしょうか」
  「中国には愛国教会と地下教会の2つの教会があるそうですね」
  「そもそも中国にはカトリック教会があるのですか」

 このような疑問を持つ人は多い。最近もわたしたちを不安にさせる事件があったばかりだ。
  それは2006年4月30日に雲南(ユンナン)省昆明(クンミン)市で、続く5月3日に安徽(アンホイ)省蕪湖(ウーフー)市で行われた司教叙階である。この叙階は教皇庁が承認しないうちに行われたため、世界中のマスコミが大きく伝えた。中国とバチカンの国交樹立が近いのではないかと注目されている中で強行されたため、中国内外の教会関係者は落胆した。
  教皇庁広報局のホアキン・ナバロ=バルス局長も5月4日、強い口調で抗議する声明を発表した。
ところが、続く5月7日にも遼寧(リャオニン)省瀋陽(シェンヤン)市で司教叙階式があったが、こちらは教皇庁の許可を得ていたのである。

北京の繁華街「王府井(ワンフーチン)」にある聖ヨセフ教会(=東堂)
北京の繁華街「王府井(ワンフーチン)」にある聖ヨセフ教会(=東堂)
  司教叙階だけを取ってみても、教皇の許可がある場合とない場合がある。しかもこれら3カ所の叙階は、すべて中国政府が認める教会で行われたのだ。いったい中国の教会はどうなっているのか。
  陳日君(ゼン・ゼーキウン)司教(香港教区/現・枢機卿)の次の話は、わたしたちに大切なヒントを与えてくれるだろう。
  「中国の教会は表面上2つに分かれています。1つは(中国)政府承認の『公開』教会、他方はローマから離れることを拒む『地下』教会です。しかし実際は、1つの教会しかありません」(2005年10月12日、シノドス〔世界代表司教会議〕での発言より)

 
2つの教会共同体
  確かに中国では以前、教皇の許可がない司教叙階が頻繁に行われてきた。このような叙階を中国では「自選自聖」(中国独自で選び、叙階する。中国語で叙階は「祝聖」と書く)と表現するが、「自選自聖」は長い間、中国政府公認の教会の原則だった。
  しかしこの数年で事情は変わり、司教叙階は教皇の許可を得て行われるのが一般的となっていたし、中国当局も事実上、黙認してきた。その結果、中国の司教の大半は、教皇からも認められている。
  人々はかつて、中国のカトリック教会には愛国教会と地下教会があると言ってきた。官方教会と非官方教会などと呼ばれることもある。そして「中国政府公認の司教=教皇が認めない司教」「地下教会の司教=教皇が認めた司教」という公式を中国の教会に当てはめて判断していた。しかしこの公式は、もはや成り立たない。それゆえ前述した06年4月と5月の教皇が認めていない司教叙階は、世界のカトリック教会にとって驚きだった。
  なぜ強行したのか。報道によると2人の司教候補者は選挙によって選ばれ、教皇庁に許可を求めたが、返答が遅れていたため、中国側は叙階式を一度延期した。返答が遅れた理由は、昆明の新司教が後述する中国天主教(カトリック)愛国会の事務局長であり、選出方法にも疑問があったためらしい。しかも3月には、民主運動の先頭に立ち、中国政府非難の発言をたびたび繰り返している香港の陳日君司教が枢機卿になった。そこで中国側は教皇庁の事前の通告にもかかわらず、教会に強行を迫った。司式した司教たちも教皇の許可が得られると直前まで考えていたようだ。
  このような出来事が起こってしまったが、それでも近年、中国の教会にかかわる人たちは「教会が2つに分かれている」とは言わず、「2つの教会共同体が存在する」と表現するようになった。2つの共同体ともミサに違いがあるわけではない。双方とも台湾など中国語圏で使われているものと同じ典礼書を用いている。
  ただ政府が認めない教会(地下教会)の場合、ミサは個人宅で行われることが多い。しかし、地方によっては教会堂で堂々と行われるなど、事情はそれぞれ異なる。
  なお本書では、中国政府が認める教会共同体を表すことばとして、最近の中国語圏での表記そのままを用い、「公開教会」と呼ぶ。政府非承認教会共同体は「地下教会」と呼ぶ。
  また、中国語ではカトリックを天主教と書き、プロテスタントを基督教と書く。なお中国のプロテスタントは原則として各教派には分かれておらず、1つにまとめられている。 
教会統計
  中国のカトリック教会の信者数については、さまざまな理由により、正確な統計はない。国家宗教事務局によれば約400万人、中国国営の新華社通信によれば約500万人、香港教区によれば約1200万人だというが、どれも根拠がない。
  香港教区の聖霊研究センター(聖神研究中心)が発表した2005年の推計をみてみる。
   信者数 1200万
   教区  138
   司教  公開=64、地下=39
   司祭  公開=180(高齢)、1620(青年)、地下=200(高齢)、900(青年)
   修道女 公開=3600、地下=1200
   神学校 大=14、小=18、地下=10
   神学生 公開=640、地下=約800、公開の小神学生=500
   修練院 公開=40、地下=20
   養成中の修道女 公開=600、地下=600
  中国の教会には大きな特徴がある。それは、外国人が宣教師として働くことが認められていないため、事実上、完全に中国人だけで成り立っていることだ。司祭は基本的に教区司祭のみ、女子修道会は教区立だけである。海外の修道会や宣教会は、それぞれの方針で中国の司祭や修道女にかかわっているが、中国で公に活動することは難しい。 
若い司教、司祭たち
農村の教会で行われた吉林(チーリン)教区の司祭叙階式
農村の教会で行われた吉林(チーリン)教区の司祭叙階式
  中国で最近叙階される司教はほとんど、30歳代から40歳代である。50歳から60歳代の司教はほとんどいない。理由は、中国では1950年代から70年代後半まで神学校が閉鎖させられていたため、その年代の司祭がいないからだ。
  若い司教、司祭、神学生、そして修道女の中には、欧米、フィリピンなど海外に留学した人も少なくない。ローマで教会法を学ぶ司祭らもいる。
  中国の神学校は公開、地下それぞれあるが、公開教会の神学校で学ぶ地下の神学生も珍しくない。
  今は男女とも召し出しはあるが、あと数年すれば一人っ子政策の影響が現れてくると予想されている。 
二重の教区区分
  公開教会の司教団は1990年代、中国の最近の行政区分に合わせて、全国の教区を115に整理した。
  ところが教皇庁の区分では、中国の教区は130以上ある。これは中国で位階制(ヒエラルキー)が確立した1946年ごろの区分とほぼ同じだ。つまりある地域では、司祭や信徒らの所属教区がはっきりしないという問題が起こっており、司牧上、かなり深刻な影響を及ぼしている。中国とバチカンの間に外交関係がない今、この問題を解決する方法は見当たらない。  
バチカンとの国交問題
  2005年4月の教皇代替わり前後から今日まで、中国とバチカンの国交問題が世界から注目されている。バチカンは中華民国政府、つまり台湾と正式な外交関係を持つヨーロッパ唯一の国家だが、中華人民共和国との国交樹立に向けた対話も望んでいる。
  教皇庁の元国務長官、アンジェロ・ソダーノ枢機卿は、北京政府が同意すれば、台北にある教皇庁大使館をすぐにでも北京に移すと、たびたび発言している(99年2月、05年10月など)。
  中国政府もまた、バチカンとの外交関係樹立を望んでいるようだ。06年6月27日、中国外交部(外務省)の姜瑜(チャン・ユィ)報道官は、一部メディアがバチカンの元外交官、クラウディオ・チェッリ大司教が北京を訪問中だと伝えたことについて、「この方面の情報は聞いていない」と答えた上で、「中国政府はバチカンとの関係改善に対して終始、誠意を抱いている。わたしたちは2つの基本原則の基礎の上で、バチカンとの建設的な対話を進めることを願っている」と語った。なおチェッリ大司教の訪中は事実だった。
  2つの原則とは、(1)バチカンが台湾との国交を断絶すること(2)教皇による中国司教の任命を認めないこと――を指し、中国政府は一貫してこの原則を掲げている。
  中国とバチカンが互いに関係改善を望む発言を続ける中、カトリック台湾地区司教団の会長、鄭再発(チョン・ツァイファー)大司教(台北大司教区)は06年4月2日、台湾の信者に向けて司牧書簡を発表、バチカンと中国が国交樹立することがあっても、それは中国の信教の自由を守るためであり、台湾の信者数が大陸より少ないからではないと訴えている。
苦難の歴史
  1946年4月、中国に位階制が確立した。
  49年10月1日、中華人民共和国が建国。他国の使節が引き上げる中、教皇庁駐中国公使のアントニオ・リベリ大司教は南京に留まった。
  しかし、まもなく朝鮮戦争が始まると国内が混乱、外国人宣教師が次々と追放されるなどキリスト教への弾圧も強まった。そのころ中国各地では、リベリ大司教らがもたらした「聖母軍」(レジオ・マリエ)運動がかなりの広がりを見せていたが、この運動も弾圧の対象となった。
  リベリ大司教は51年9月、「反革命活動を行った」との理由で国外追放となり、香港を経て52年、台湾の台北に移った。
  当時、四川(スーチョアン)省や天津(ティエンチン)などのカトリック教会の一部では、「自治、自養、自伝」(三自)を掲げる運動も起こっていた。四川の運動はもともと、外国人宣教師追放後の司牧を考えるものだったらしいが、ちょうど大衆運動として反革命鎮圧運動が展開された時期と重なり、各方面での外国勢力の影響を絶とうとする共産党政権は「愛国運動」として大いに利用した。プロテスタント教会でも同様の運動が起こっている。
  教皇ピオ十二世は52年1月18日、使徒的書簡『CUPIMUS IMPRIMIS』を発表。54年10月7日には回勅『AD SINARUM GENTEM』を発表し、中国への憂慮を示した。
  55年9月には、コン品梅(コン・ピンメイ〔コンは龍の下に共〕)・上海教区司教らが「反革命活動」を理由に一斉逮捕されるなど、弾圧が強まっていった。
  そして57年7月15日から8月2日まで、全国から集まった司教、使徒座管理区長、司教総代理、教区事務局長、司祭、修道者、信徒の代表241人による第1回中国カトリック代表会議が、北京市内のホテルで開かれた。諸資料によると、代表会議の中心議題は「中国のカトリック教会とバチカンとの関係」だったようだ。会議では、バチカンとは純粋に宗教的な関係を保ち、信仰生活上の教義では教皇に従うが、政治的、経済的には「宗教を利用した内政干渉に反対する」という、政権の意向に沿った「独立自主自弁教会」(独立自主自営の教会)の方針が出された。
  会議の最終日、「中国天主教友愛国会」(62年に中国天主教愛国会と改称)が成立した。愛国会は聖職者、修道者、信徒からなる「愛国愛教」の組織だが、以後、教会を実質上コントロールしていくようになる。
  またこの時期、司教座空位の教区が多かったため、まず57年12月、四川省成都(チョントゥー)教区で、司教候補者が選挙によって選ばれた。58年に入ると、江蘇(チャンスー)省蘇州(スーチョウ)教区、四川省宜賓(イーピン)教区、雲南省昆明教区などでも選挙による司教候補者選びが行われた。3月には湖北(フーペイ)省の漢口(ハンコウ)教区と武昌(ウーチャン)教区でも選挙があった。結果は電報でローマに伝えられ、宣教聖省(現・福音宣教省)に許可を求めたが、同省は拒否した。
  そして同年4月、武漢(ウーハン)市で、漢口、武昌両教区の司教叙階式が、教皇庁の反対を押し切って行われた。これが「自選自聖」の司教叙階の始まりである。ピオ十二世は同年6月、再度、回勅『AD APOSTOLORUM PRINCIPIS』を出し、中国政府の宗教政策と愛国会を非難した。
  これらの叙階によって中国の教会と教皇庁との関係は絶たれた。58年から63年までの間に、50数人の司教がこの方法で叙階されることになる。  
地下教会の形成
  1958年から65年までの間に、多くの聖職者が獄中で亡くなった。そして66年、あの文化大革命が始まる。当時、世界のカトリック教会は第二バチカン公会議を経て大きく変わりかけていたころだったが、中国の教会は混乱のため、公会議の内容を知ることはできなかった。
  文化大革命は、カトリック教会に限らず宗教全般に対して深い傷を残した。教会は閉鎖され、聖職者らは辱めを受け、中には処刑された人もいた。迫害の苦しみに耐え切れず自ら命を絶つ人もいた。また司祭職を離れ、進んであるいは強制的に結婚を選ぶ聖職者も少なくなかった。これが後に地下教会を生み出す大きな要因になる。
  このような動乱の中でも、たとえば70年7月、最後の外国人宣教師だったジェームス・ウォルシュ司教(米国人=メリノール宣教会)が釈放されたり、71年11月、北京の無原罪の聖母教会(南堂)が外交官のために開放されるなど、宗教活動が回復する兆しが見え始めた。
  文化大革命が終わると、50年代に愛国会成立に反対した人たちも含め、聖職者らの釈放が始まり、各地の教会堂や神学校も再開されるなど、教会活動が回復していった。
  しかし政府は、政府に協力的だった司祭ら(結婚した司祭も含む)に小教区を管理させようとしたため、一部の信徒は教会に行くのを拒んだ。また釈放された司祭らの中にも、元の任地に戻らない人もいた。
  教皇庁宣教聖省(現・福音宣教省)のアンジェロ・ロッシ枢機卿は78年、中国の聖職者に対して幾つかの特権を与えた。それは司祭が自教区以外でも秘跡を授けることを認め、司教は正規の神学校教育を受けていない独身男性信徒を司祭として叙階してもよい、というものだった。これが政府と愛国会に協力しない教会共同体、すなわち地下教会が形成される前提となった。
  そして1981年、河北(ホーペイ)省保定(パオティン)教区の范学淹(ファン・シュエイエン)司教はさらに一歩踏み込み、ひそかに3人の司教を叙階した。これが地下教会による司教叙階の始まりだが、最初はやはり、教皇の許可を受けてはいなかった。
  地下教会は地域によって置かれた立場、活動の方法にかなりの違いがあるが、愛国会に協力せず、教皇に忠誠を誓うという姿勢を貫いている点で共通している。
  その性格上、つねに弾圧の危険にさらされ、今でも頻繁に司教、司祭が逮捕されている。とくにクリスマスや復活祭前後には、地下信者が集まれないように、教会指導者が逮捕されることがよくある。地下教会の司祭の中には、信徒が一部の公開教会で秘跡にあずかることは「大罪」であると繰り返し訴える人もいる。  
司教団の成立
  1980年5月、中国天主教愛国会第3回代表会議と中国天主教第1回代表会議が北京で開かれ、「中国天主教教務委員会」と「中国天主教主教団」(司教団)の成立が決まった。しかし当初の司教団には規約がなく、その活動や、教務委員会との区別はあいまいだった。
  司教団の役割が明確になるのは1992年である。同年9月、北京で中国天主教第5回代表会議が開かれ、教務委員会を司教団の一部にすることが決まった。司教団の規約もできた。規約によると司教団は、「中国カトリックの全国的な教務指導機構」であり「対外的に中国のカトリック教会を代表する」とある。だが、5年に1度開かれる「中国天主教代表会議」に責任を負うことになっており、司教団の重要な案件についてはこの代表会議が審議、決定することになっている。つまり中国のカトリック教会の最高権力機関は、この代表会議なのだ。
  また司教団規約には「司教の任命、叙階を審議し、決定する」という項目も含まれており、教皇庁とは無関係に司教候補者を選び、叙階することを明記していた。むろん教皇庁はこの司教団を認めていない。
  なお98年から同司教団の会長だった南京教区の劉元仁(リュウ・ユアンレン)司教は、ヨハネ・パウロ二世が逝去して間もない05年4月20日に、病気のため亡くなった。 
地下司教団
  1989年11月21日、地下教会の司教、司祭らそれぞれ数名が陝西(シャンシー)省高陵(カオリン)県のある村で会議を開いた。この場所は三原(サンユアン)教区に属するため、「三原会議」と呼ばれている。この会議で「中国大陸主教団」、つまり地下教会司教団が結成され、公開教会の司教団に対抗した。会長に選ばれたのは河北省保定教区の范学淹司教だったが、同司教はこの会議には出席していなかった。
  会議後、関係者らの逮捕が始まり、司教、司祭ら数十名が連行された。
  だが教皇庁は、この司教団も認めていない。 
ヨハネ・パウロ二世とバチカンの姿勢
  教皇ヨハネ・パウロ二世は就任直後から、中国の教会のために祈り、関係修復を望んでいた。
  79年、ヨハネ・パウロ二世は新しい枢機卿を任命したが、その中の一人は「イン・ペクトレ」(ラテン語で「胸の内に」=秘密裏にという意味)だった。その枢機卿こそ上海のコン品梅司教で、91年になってその事実が公表された。
  81年2月18日、フィリピン・マニラを訪問していたヨハネ・パウロ二世は、中国と対話を進めたいとの意向を示した。フィリピン訪問後、教皇は日本を訪問し、米アラスカに向かったが、国務長官(当時)のアゴスチノ・カザロリ枢機卿は日本から香港へ飛び、香港滞在中だった中国・広州(コワンチョウ)のケ以明(タン・イーミン)司教をはじめ関係者と会談している。
  同年5月13日、ヨハネ・パウロ二世はバチカンで狙撃された。その後間もない6月6日には、ケ以明司教を広州の大司教に任命している。
  また82年1月6日には、世界中の司教に向けて書簡を発表し、中国の教会のために祈るよう呼び掛けた。
  このようにヨハネ・パウロ二世は中国への関心を示し続けた。
  98年4月にはアジア特別シノドスに、四川省万県(ワンシエン)教区の段蔭明(トアン・インミン)司教と徐之玄(シュイ・チーシュアン)協働司教の2人を招請すると発表した。段司教はピオ十二世から司教叙階を受けた司教で、公開教会として働いていたため、公開・地下双方の教会共同体から尊敬を受けている人物だった。2人とも出席できなかったが、シノドスの期間中、2人の席は空席のまま用意されていた。
  99年2月、教皇庁国務長官(当時)のアンジェロ・ソダーノ枢機卿が、もし北京政府が認めれば、台北にある教皇庁大使館を明日にでも北京に移すと発言した、とマスコミが報じた。この年の夏以降、中国とバチカンの国交樹立が近いとのうわさが中国内外で流れた。
  ところが2000年1月6日(主の公現)、北京で、教皇の許可のない5人の司教叙階があった。香港の陳日君協働司教(当時/現・枢機卿)は北京の叙階式前の1月4日、滞在先だったタイ・バンコクで、この叙階は中国が「バチカンとの和解を意識していない」ことの表れだ、と非難した。
  さらに同年10月1日、バチカンで中国120殉教者が列聖され、中国の猛烈な反対を招いた。
  この日が中国の建国記念日にあたり、しかも殉教者の多くが義和団事件の起きた1900年前後に殉教していたからだ。中国の言い分を簡単にまとめれば、当時一部の宣教師は帝国主義の中国侵略に直接関与しており、その宣教師らを聖人にするとは許せない、というものだった。
  中国外交部(外務省)は同日、バチカンを強く非難する声明を発表。カトリックの公開教会、プロテスタント教会などもバチカン非難の声明を次々に発表したが、内容はどれも似たり寄ったりだった。
  00年の司教叙階と殉教者列聖で、中国とバチカンの関係改善の動きはほぼ途絶えてしまった。だが以後、中国もバチカンも、互いを刺激する動きは極力控えてきたように思える。
  ヨハネ・パウロ二世は01年10月24日、ローマのグレゴリアン大学で開かれていたマテオ・リッチ北京到着400周年記念国際シンポジウムにメッセージを送り、その中で、過去中国における宣教師らの活動の意義と限界を指摘し、彼らが犯した過ちについて中国人民にゆるしを求めた。中国外交部の孫玉璽(スン・ユイシー)報道官は10月30日、この発言に対して一定の評価はしたが、120殉教者で「中国人民の感情を害した」ことへの謝罪がないと述べ、両国関係の改善までは至らなかった。
  03年9月28日、ヨハネ・パウロ二世は濱尾文郎大司教を含む30人の新枢機卿を任命、さらに氏名を公表しない1人も任命した。この非公開の枢機卿は西安(シーアン)教区の李篤安(リ・トゥーアン)大司教だとのうわさが今でも絶えないが、ヨハネ・パウロ二世は氏名を明かすことなく逝去し、李大司教も06年5月、亡くなった。
  ヨハネ・パウロ二世が亡くなる直前の4月1日、中国外交部は、中国政府は教皇の病状を深く注視しており、「早期の回復を望む」との異例のコメントをした。また逝去後、中国外交部は哀悼の意を示した。
  中国天主教愛国会と司教団も連名で、教皇庁国務省に弔電を送っている。  
ベネディクト十六世の姿勢
  ベネディクト十六世は就任後の05年5月12日、駐バチカンの各国大使らへのあいさつの中で、まだバチカンと外交関係を持たない国家の政府に対しても、「早期に代表を派遣してくれることを望む」と語った。これは中国を念頭にした発言だと受け止められている。
  ベネディクト十六世は同年9月8日、中国の4人の司教を、通常シノドス(世界代表司教会議/10月)に招請した。4人とは(1)陝西省西安教区の李篤安大司教(78歳)(2)上海教区の金魯賢(チン・ルーシェン)司教(89歳)(3)陝西省鳳翔(フォンシャン)教区の李鏡峰(リ・チンフォン)司教(83歳)(4)黒竜江(ヘイロンチャン)省チチハル教区の魏景儀(ウェイ・チンイ)司教(47歳)――だった(年齢は当時)。チチハルの魏司教は地下教会の司教であり、鳳翔の李司教は地下から公開教会に移った司教だった。
  結局4人とも出国できなかったが、この招請はベネディクト十六世の中国の教会に対する配慮を示すものだった。
中国の宗教政策
  中国では少なくとも法律上、信教の自由が認められている。05年3月1日に施行された「宗教事務条例」には、「いかなる組織あるいは個人も、公民に宗教の信仰あるいは宗教の不信仰を強制してはならず、宗教を信仰する公民あるいは宗教を信仰しない公民を差別してはならない」とあり、同様の規定は中華人民共和国憲法第36条にも見られる。
  中国の宗教政策でもっとも重要な点のひとつは、「外国勢力の支配を受けない」ということである。「宗教事務条例」第4条でも、「各宗教は独立自主自営の原則を堅持し、宗教団体、宗教活動場所、宗教実務は外国勢力の支配を受けない」と明記されている。
  前述したように、中国はバチカンとの国交樹立の条件でも、(1)バチカンが台湾との国交を断絶すること(2)教皇による中国司教の任命を認めないこと――を掲げている。中国は教皇による司教任命を「内政干渉」だと見なしているからだ。
  よって中国には、外国人についても「中華人民共和国領内における外国人の宗教活動管理規定」(1994年発布)などの法律があり、中国内に持ち込める宗教書や道具の数、活動場所などを規定している。
  中国では、仏教、道教、イスラム、カトリック(天主教)、プロテスタント(基督教)の5つが公認の宗教であり、国務院(中国の最高行政機関)に属する国家宗教事務局が管轄している。
  中国共産党の場合は、宗教団体を「統一戦線」という考え方の中に位置付けている。統一戦線とは、共産党以外の政党や少数民族、宗教界、知識人らとともに愛国統一戦線を組み、中国独自の社会主義建設と祖国統一に努めるということだ。それを担当する部門として、中国共産党には中央統一戦線工作部(中央統戦部)がある。また、中国人民のもっとも広範な愛国統一戦線組織として、中国人民政治協商会議(人民政協)がある。
  よって中国の宗教団体は、(1)国家宗教事務局(2)中国共産党中央統戦部(3)中国人民政治協商会議――という3つの組織に影響されるのだ。
  中国共産党の宗教理解は、時代とともに変化してきた。
  ひとつの大きな転換点は、1982年3月に党中央が出した「わが国の社会主義時期における宗教問題の基本的観点と基本的政策に関して」という文書で、「19号文件」と呼ばれている。内容は(1)行政の力で宗教を消滅させることはできないし、発展させることもできない(2)信教は公民個人の私事である(3)無神論者も宗教信仰者も、政治経済上の根本的利益は一致している(4)積極的に宗教を社会主義社会に適応させなければばらない――などである。「19号文件」は建国以来30年の宗教政策を総括し、改革開放路線へと向かう上での宗教対策を方向付ける基礎になった。
  党中央は89年2月、カトリック教会対策だけに関する報告(3号文件)を出し、91年2月にも宗教政策に関する通達(6号文件)を出した。
  変化は意外なところからも起こった。
  たとえば2001年11月、国務院経済体制改革弁公室副主任の潘岳(パン・ユエ)氏が、「マルクス主義宗教観は時とともに進歩しなければならない(馬克思主義宗教觀必須與時倶進)」という論文を発表、宗教の積極面を評価し、共産党の宗教観見直しを訴えた。
  01年12月10日、江沢民(チャン・ツォーミン)前国家主席は全国宗教対策会議の席上、宗教管理強化を求める一方、「宗教の中の積極的な作用を発揮」すべきだと強調し、「現在の世界を理解するためには、宗教を理解しなければならない」と考えていると語った。江主席は02年2月21日、訪中していたブッシュ大統領と国内外の記者を前に、自分は宗教の問題にたいへん興味を持っており、聖書などを読んだことがあるとも話している。
社会の中のあかし
南京のカテドラルでミサをささげる谷大二司教と、さいたま・新潟両教区の司祭
南京のカテドラルでミサをささげる谷大二司教と、さいたま・新潟両教区の司祭
共産党内部から宗教の積極面を評価する動きが出てきている背景には、中国社会が宗教に対する理解を深めていることも大きな要因としてあるだろう。
  中国の大学では90年代以降、宗教研究、とくにキリスト教研究が盛んに行われるようになった。日本のキリシタン時代の研究をしている学者もいる。
  宗教団体自身が社会福祉などに積極的にかかわるようになったことも、人々の宗教理解につながっているだろう。04年7月現在、中国のカトリック教会は老人福祉施設38カ所、病院・診療所103カ所、幼稚園14カ所、障害児施設10カ所を持っている。また数十人の修道女が全国10カ所のハンセン病施設で働いている。
  いま中国の教会の主力となりつつある30歳代、40歳代の司教たちは、中国とバチカンの関係が絶たれた時代を直接には知らない世代だ。20歳代、30歳代前半の司祭や修道女、そして信徒たちは、文化大革命すら直接には知らない世代である。彼らに中国・バチカンの国交問題や、教会内部の対立の責任を負わせられるだろうか。
  それより、中国の教会の前には、貧富の格差の拡大、社会の高齢化、エイズの蔓延など、社会問題が山積している。人々はこれらの分野での宗教団体の活躍に期待している。教会もその期待に応えようとしている。
  一致を目指す動きも出てきている。03年7月、甘粛(カンスー)省蘭州(ランチョウ)教区の韓志海(ハン・チーハイ)司教(当時39歳)が、中国の一部の司教たち(公開・地下双方)に向けた公開書簡を発表した。韓司教自身は地下司教だが、彼は書簡の中で「大多数の司教、司祭、信徒は同じ信仰のうちに結ばれ、教皇と結ばれています。その一方で、わたし自身も体験している、教会にとって非常に不利な事実は、教会がいまだに『官方(公開)教会共同体』と『非官方(地下)教会共同体』に分かれていることです」と指摘、司教らの一致を呼び掛けた。
  また各地の教会では公開、地下双方の司祭たちが共同司式をしたり、ともに祈ったりするようになってきている。地下教会の司教の中には、公開教会との和解を望んでいる人もいるが、立場上、それを口にできない人もいる。

 中国の教会の諸問題を解決する最も有効な手段は、中国とバチカンの外交関係樹立以外に考えられない。教皇庁外務局長(当時)のジョバンニ・ラヨロ大司教は05年6月22日、バチカン放送のラジオ番組で中国との外交関係樹立の可能性に触れ、「私の見解では克服できない問題は何一つありません」と語っている。中国では08年に北京オリンピックが開かれる。10年には上海で万国博覧会が予定されている。それまでには何らかの希望が見えてくることを祈りたい。

(カトリック中央協議会中国教会関係担当部門秘書)


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