わたしは、北京五輪をボイコットする
【金子達仁】2008年03月27日
柔道の山下が、メダルを期待されていた体操やレスリングの選手が、涙ながらに訴えていたことを思い出す。不参加を撤回してくれ。スポーツに政治を持ち込まないでくれ。メディアの報道も、選手に同情するスタンスのものがほとんどだったように記憶している。いまから28年前、モスクワ五輪の際の話である。
以来、わたし個人の中にはスポーツに政治が介入することに対する強烈なアレルギーがあったように思う。政治の介入は無条件で悪。それ以上のことを考えたことはなかった。
ならば、チベットでの暴動を機に世界的に高まってきた北京五輪ボイコットの動きも悪なのか。そもそもが中国の国威発揚という政治的な意味合いを色濃く持つイベントに、政治的な事件を理由にボイコットを考える発想は間違っているのか。「政治をスポーツに持ち込むな」という中国政府の反応が正しいのか。
サッカーはもちろんのこと、多くのスポーツ選手にとって、五輪は選手人生における一大ハイライトである。出場するために費やした時間や流した汗、涙を思えば、簡単に諦(あきら)められるものではない。それは十二分にわかるつもりだ。
だが、スポーツ選手、あるいは関係者であるという理由だけで、いま起きている政治的な事件にまったくの無関心でいいものなのだろうか。
ドイツでは、ある陸上競技の選手が中国政府に抗議の意を示すために、開会式にチベットの民族衣裳(いしょう)で参加することを考えているという。北京からはるかに1万キロ以上離れたドイツでチベットのいまを考える選手がいる一方で、日本のスポーツ界からはそうした声がまったく上がってきていない現状がある。
これは喜ぶべきことなのだろうか。日本のスポーツは政治と完全に無縁だと胸を張るべきことなのだろうか。
違う、気がする。
スポーツはわたしにとってきわめて大切なものだが、しかし、所詮(しょせん)はスポーツである。平和を象徴するはずの祭典が、カーテンの裏で行われている人権弾圧を覆い隠すためのものだとしたら、到底賛同することはできない。
実を言えば、つい最近までわたしも北京へいくのを楽しみにしていた。サッカーはメダルに届くのか。野球は悲願の金メダル獲得なるのか――。
でも、やめようと思う。
スポーツは、人命や人権ほどには重要ではない。わたしは、北京五輪をボイコットする。
(スポーツライター)