電車で前の席の若い女性がカバーを裏返した大きな本を開いている。「やがて/彼女はまどろみ/手から離れた本は/開かれたまま、膝(ひざ)の上。/さかさに見える絵は/出産育児の手引。」--吉野弘さんの詩「白い表紙」だ▲「母親になる準備を/彼女に急がせているのは/おなかの中の小さな命令--愛らしい威嚇(いかく)/彼女は、その声に従う。/声の望みを理解するための知識をむさぼる。/おそらく/それまでのどんな試験のときよりも/真摯(しんし)な集中。」▲詩はこう結ばれる。「疲れているらしく/彼女はまどろみ/膝の上に開かれた本は/時折、風にめくられている。」--だが今、おなかの赤ちゃんの声に耳を澄まし、お母さんになる準備に懸命な女性の多くが、おちおちまどろんでもいられない不安に悩むことになってしまった▲産婦人科医不足で「お産難民」などという困った言葉がささやかれる昨今だ。厚生労働省の調査では分娩(ぶんべん)を休止したり、里帰り出産などを制限する施設が全国77カ所にのぼる。うち3施設では分娩休止後の対策も立てられない有り様という▲また日本産科婦人科学会の調査では33道府県の111施設が産科医の緊急派遣を求めている。「対応できそうにない数で、地域産科医療の維持は極めて困難な状況」とは同学会の分析である。母親が安心して赤ちゃんを産めるという人間社会の基本中の基本条件の底が抜けそうなのだ▲子供はこの世の未来を携えて生まれてくる。産科医療を再建し、赤ちゃんを手厚い祝福と共に迎えることのできないような世の未来は暗い。小さな命令、愛らしい威嚇に耳を澄まさねばならないのは母親ばかりではない。
毎日新聞 2008年3月27日 0時13分
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