毎日1冊!日刊新書レビュー

烏賊から学ぶ平和〜『イカの哲学』
中沢新一・波多野一郎著(評:山本貴光)

集英社新書、680円(税別)

 もし人間が、こうしたエロティシズムに駆動されて戦争へと向かうのだとしたら、この次元から戦争に拮抗する平和を考える必要がある。掟や法による日常的な平和、すなわち「平常態の平和」では足りないのだ。人間を戦争へと向かわせるまさにそのエロティシズムの原理を、平和のほうへ、「エロティシズム態の平和」として作動させる必要がある。

 つまり、生物が異物である他の個体を体内に宿し育むこと、またそれを生物的な基盤としてわたしたちが抱く愛や慈悲に、エロティシズム態の平和の鍵がある。波多野が提示した実存に基づく平和の構想とは、まさにそのようなものであった。

 さらに中沢は、波多野の議論をパラフレーズする。神話では、しばしば動物と人間が意思疎通したり入れ替わったりすることがある。ここに示されているのは、人類がかつて、動物を単にモノ(食べ物)として見るだけでなく、人間と同じように実存していることを強く自覚していたということだ。そして、このために動物の乱獲が防がれていた。

 同様に近代以前の戦争においても、人は戦場において敵の中に実存を見ていた。しかし、社会が脱神話化し、動物や他者の実存を忘れ顧みなくなったとき、動物や人間を単なるモノとして殺す「超狩猟」「超戦争」状態が生じるようになる。

 これに抗う「超平和」を実現するためにも、人間のエロティシズム、連続性への志向を別の仕方で作動させねばならない。つまり、神話的思考がそうであったように、動物や他者の実存への共感をいかにして持てるかということがなによりも重要である。

 なるほど動物や他人の実存に誰もが共感を抱き、互いの心中を忖度するようになれば地球は平和になるかもしれない。だが、人間はそれができず、現に世界中で殺戮と報復の無限連鎖に陥っているのではないか。こうした反論が口先まで出かかる。

 しかし、その悲惨の極限を自ら潜り抜けた波多野がその困難を考えなかったはずはない。それをわきまえた上でなおも実存への共感を説いたことの意味を考えてみる必要がある。

日々を割り切らずに考えて生き抜け

 本書の価値はなにより、このような問いを読者に植え付けることにある。賛成するにせよ、反対するにせよ、「イカの哲学」に触れた読者の脳裏には、この単純だがクリティカルな問題が、波多野の特異な生涯とともに忘れがたい痕跡を残すにちがいない。そして、40年前の小さな哲学書が、いまなお有効な思考の源泉となることを読み解いてみせた中沢の企図もそこにあるはずだ。

 考えてみれば、わたしたちは日頃、どのような基準によってか、自分以外の人間や動物に対して、その実存を考える場合と考えない場合がある。

 卑近な例で言えば、或る動物(犬やクジラなど)に共感を抱く人からすると、その動物を殺して食べることには抵抗感があるかもしれない。豚の赤ちゃんを見て「かわいい」と言い、その肉を「おいしい」と言って食べるのも人間である。また、身近で親しい人と、見知らぬ人や他文化とでは、それぞれに抱く共感の度合は明らかに異なっている。

 わたしたちは、この共感の境界をどこまで広げることができるだろうか。本書は読者にこの問いをつきつける。

 これは、例えば、隣人ばかりか敵をも愛せと言ったイエスの思想や、他者を手段としてのみならず目的として扱えというカントの倫理思想、短期的な利潤を目指す「合理的」な追求が長期的には地球環境を破壊する「不合理」な行動になりかねないと指摘するエコロジー思想などにも呼応する、古くて常に新しい問題である。

 白黒の答えをズバリと出すというよりは、日々の現実に接しながら、この割り切れない問題を抱え、建設的に考えを展開すること。これこそまさしく哲学という営みに他ならない。そのような思考を経ることで、世界の見え方は変わる。ちょうど波多野が過酷な体験から戦争と平和という難問を抱えたがために、それまで彼にとって変哲もなかったはずの生き物の意味がガラリと変わって見えたように。

(文/山本貴光、企画・編集/須藤輝&連結社)

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このコラムについて

思わず手に取りたくなるタイトルと手軽なボリュームで大量に出版される「新書」。多忙な毎日の中で「読むべきか、読まざるべきか」のお悩みを、手練れの読み手たちが毎日1冊ずつ解消致します。

筆者プロフィール

山本 貴光(やまもと・たかみつ)

1971年生まれ。文筆、翻訳、ゲーム・デザイン。関心領域は、書物、映画、音楽、美術、ゲーム、カステラ、原節子など。ブログは「作品メモランダム」。共著=『心脳問題』(朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(筑摩書房)。共訳書=ジョン・サール『MiND』(朝日出版社)など。ウェブサイトは「哲学の劇場

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