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和歌山毒カレー殺人事件

[ 和歌山地裁判決と判決要旨 ]

[ 最近の主な事件の判決要旨 index ]

1998年(平成10年)7月25日、和歌山市園部(そのべ)で、自治会の夏祭りが催された。会場で出されたカレーライスを食べた人々が激しい吐き気と腹痛に襲われた。これにより、67人が病院で手当てを受けたが、翌26日に自治会長の谷中孝寿(64歳)、副会長の田中孝昭(53歳)、私立開智高1年の鳥居幸(16歳)、市立有功小4年の林大貴君(10歳)の4人が死亡するという大惨事となった。原因は最初、集団食中毒と見られたが、次いで、青酸毒物混入の疑いがもたれ、最終的に砒素化合物の亜ヒ酸が検出された。

住民の調査を急ぐ途中で、元生命保険会社外務員の林真須美(当時37歳)をめぐる、多額の保険金詐欺疑惑が浮かんできた。県警は彼女を保険金目当てに知人の男を亜ヒ酸で殺害しようとしたとして、10月4日、殺人未遂と詐欺の容疑で逮捕した。同時に、夫で元白蟻駆除業者の林健治(当時53歳)も詐欺容疑で逮捕した。2人は厳しい取り調べに対し、否認と黙秘で応じた。県警は自白が取れないので、膨大な状況証拠を積み上げる以外になかった。現場検証を繰り返し、真須美以外の第三者が関与した可能性を次々と消していった。その結果、亜ヒ酸がカレー鍋に入れられた時間帯に、真須美一人が鍋の番をしていたことと、紙コップを手に料理場のガレージに入り、周囲を窺うような素振りをしていたことなど、目撃証言が収集できた。

物証についてはカレー鍋や林宅などから、8点の亜ヒ酸を採取し、兵庫県の大型放射光施設「スプリング8」という最先端装置によって分析、カレーと紙コップ、林宅のプラスチック容器の亜ヒ酸と、健治らが使っていた亜ヒ酸とが同一という鑑定結果を得た。真須美の前髪からも砒素を検出し、それが事件発生時に近い時期に付着したものと分かった。

12月9日、真須美がカレー鍋に亜ヒ酸を投入したとして殺人と殺人未遂容疑で再逮捕された。12月29日、真須美が和歌山地裁に起訴される。1999年(平成11年)5月13日、初公判が開かれた。保険金詐欺については認めたものの、殺人と殺人未遂容疑については、前面否認した。2000年(平成12年)10月20日、林健治に保険金詐欺で懲役6年の刑が下った。2002年(平成14年)12月11日、和歌山地裁は求刑通り死刑を言い渡した。弁護側は即日、控訴した。2003年(平成15年)12月25日、和歌山地裁で遺族や被害者ら計41人が総額約1億3700万円の損害賠償を求めた訴訟の判決があり、礒尾正裁判長は「被告がカレーにヒ素を混入した」と認定、約1億1800万円の賠償を命じた。

2002年(平成14年)12月11日、和歌山地裁での死刑判決の判決要旨は次の通り・・・

【 争点および証拠構造 】

▽審理の大枠

毒物カレー事件は、事件や証拠の規模から林真須美被告の自白や被告がヒ素をカレーに混入した場面の目撃供述など、被告の犯行であることを直接証明する証拠(直接証拠)が存在しないため、検察官は、被告の犯人性について種々の状況証拠を立証し、その状況証拠から推認する手法をとらざるを得なかった。

検察官は、論告で「被告が否認する五件の殺人、殺人未遂事件のうち、カレー毒物混入事件を除く四件の殺人未遂事件はいずれも、被告が多額の生命保険等を掛けた上、その死亡保険金等を詐取する目的でヒ素を混入した食べ物を提供したという極めて特殊な手口・態様で犯行を敢行しているという事実による犯人性の立証、すなわち、いわゆる類似事実による犯人性の立証が例外的に許される場合である」「各公訴事実の犯人性に係る証拠は、互いに他の公訴事実の犯人性立証のための証拠として補強し合う関係にある」「カレー事件は犯行態様を異にするが、これらの殺人未遂事件の敢行によってヒ素を使用することに対する抵抗感が薄れ、慣れきった被告が同様にヒ素を使用して犯行に及んでいること、かねて生命保険等を掛けていた林健治受刑者らがカレーを食べていれば、被告に多額の保険金を取得し得る可能性が存したことから、これらの犯行の延長線上で敢行された事件ともいえる」とする。

▽事実認定の組み立て

検察官は、被告と亜ヒ酸との近接性やカレー事件以外の事案の検討から論を始め、カレー事件に直接関係する証拠関係は、その後に検討するという組み立てをしている。

しかし、カレー事件以外の殺人未遂事案や多数の類似事実は、検察官の主張によっても、カレー事件に関する被告の主観的事情あるいは背景的事情であるから、そのような事実認定の組み立て方は、カレー事件に直接関係する証拠の状況よりも、被告の疑わしさをまず強調するような論の組み立て方であり、適当ではない。

そこで、本判決においては、カレー事件に直接関係する証拠関係から検討することとし、それ以外の殺人未遂事件や多数の類似事実については、カレー事件以前の状況証拠として検討することとする。

▽証拠関係の特徴

本件では、現代における最先端の科学技術を用いて得られた科学的知見が証拠となっており、証拠化のあり方や信用性の判断手法を検討する必要がある。

カレー調理に携わった関係住民や周辺の人物が証言しているが、証言の中には、捜査段階の供述から変遷しているものも少なくない。関係者が当時社会的に置かれた状況がどのように影響しているのかを検討する必要がある。

また、カレー事件以外では、被害者とされる人物から原因毒物が検出されている症例はごくわずかであり、原因物質が検出されていない症例では、症状や検査所見から、その症例が検察官の主張するヒ素もしくは睡眠薬により発症したものかどうかを検討しなければならない。このような場合には、他の疾患であることを否定して特定の中毒症状であることが鑑別されなければならない。

ところで、本件で問題になる症例のうち、カレー事件を除いて、発症当時、急性ヒ素中毒あるいは睡眠薬の作用と診断された症例はなく、そのような観点から検査や治療も行われていないから、症例によっては、医学的情報が十分でないものもあり、事実認定には困難さがつきまとうこととなる。

本件では、一九八五年ごろから八八年ごろにかけての症例も殺人未遂事件あるいは類似事実等として主張され、そのような事案に関して供述がなされている。このような事案では、多くの供述証拠となるべきものが、時間の経過とともに消失しており、もともとの証拠状況が薄くなりやすい傾向があるとともに、ごくわずかの記憶に基づく供述が、その事案において決定的意味を持つことがあり得る。

したがって、十年以上も前の出来事に関する事実認定に当たっては、そのような特徴を踏まえる必要があり、供述の信用性は、時間の経過による記憶の消失を強く念頭において検討する必要がある。

【 カレー事件の原因 】

▽被害の発生

夏祭りは、九八年七月二十五日午後六時ごろから、開催された。開催に先立ち、カレーの給仕係をした女性は、夏祭りが始まると忙しくなるであろうカラオケ担当の自治会役員らに午後五時五十分ごろからカレーを配るとともに、自分たちもそのカレーを食べ、その場にいた者も自宅に持ち帰るなどして、カレーの給仕が始まった。

カレーは午後六時から午後七時までの間に、トレーにして約六十皿が販売された。

午後五時五十分ごろ、カレーを食べていた二人が、食べ始めてから約十分して強い吐き気に襲われた。午後六時半を過ぎたころからは、カレーを食べた者が次々と嘔吐(おうと)するという異常な事態となり、また、自宅等に持ち帰って夏祭りカレーを食べた者が嘔吐しているという情報が、夏祭り会場にもたらされるに至った。

その後、夏祭りカレーを食べた者のうち、谷中孝寿、田中孝昭、林大貴、および鳥居幸は収容先の病院で死亡。そのほか六十三人が発症した。

▽ヒ素の検出

鍋のカレーや住民が持ち帰ったカレーからヒ素が検出され、死亡した四人の血液、肝臓、腎臓から通常値を大きく上回る濃度のヒ素が検出された。

夏祭り会場には、カレー鍋として、東鍋、西鍋など三つがあり、その各鍋から採取されたいずれのカレーからもヒ素が検出されている。東鍋には極めて高濃度のヒ素が混入されていた。西鍋などには、東鍋カレーが混じった可能性が高く、被害者六十七人に提供されたカレーはすべて東鍋カレーであると認めることができる。

▽本件被害の原因

死亡被害者からは通常値を大きく上回り、急性ヒ素中毒死亡例で報告されている範囲に入る高濃度のヒ素が検出され、また、胃内容物からもヒ素が検出されたばかりか、ヒ素中毒死亡者の解剖所見として報告されている胃粘膜の壊死(えし)などの所見が見られた。そして、死亡被害者は、いずれも高濃度のヒ素が混入された東鍋カレーを食べた直後から、嘔吐等の症状を発症し、約九時間から十六時間という短時間で死亡に至っている。

したがって、死亡被害者の死因が急性ヒ素中毒によることは明らかであって、原因毒物は東カレー鍋に混入された亜ヒ酸と認められる。

生存被害者の尿からは、安全基準値を大きく上回るヒ素が検出され、症状は急性ヒ素中毒の症状に合致するものであり、東鍋カレーを食べた直後から、嘔吐等の症状を発症している。したがって、生存被害者の症状は急性ヒ素中毒であって、原因毒物は東カレー鍋に混入された亜ヒ酸と認められる。

【 亜ヒ酸の同一性 】

被害者が食べたカレーの中から検出された亜ヒ酸、夏祭り会場に落ちていた青色紙コップに付着していた亜ヒ酸、被告宅の台所に収納されていたポリ容器内の亜ヒ酸などの同一性について検討する。

▽試料の発見と分析

七月二十五日夜、夏祭り会場の実況見分でゴミ袋から青色紙コップ一個が確認された。分析の結果、青色紙コップの付着物は亜ヒ酸であると判明した。

被告の実兄は九月三十日、以前被告夫婦から引き取った亜ヒ酸を警察に任意提出した。

十月四日からの被告宅の検証で、台所の流し台下の収納庫からビニール袋に入った半透明のポリ容器が発見された。容器の付着物から亜ヒ酸が検出された。

弁護人は、試料について保管状況などに疑問が残ると主張する。保管状況や搬送時に試料汚染の危険性がなかったか検討したが、保管に関する関係者の供述に不自然な点はなく青色紙コップ、ポリ容器、カレーの亜ヒ酸は汚染されることはなかったと認められる。

▽亜ヒ酸の異同識別鑑定

和歌山県警科学捜査研究所は高周波誘導結合プラズマ発光分光光度計による分析で、青色紙コップと旧宅ガレージの亜ヒ酸は同一のものに由来すると考えて矛盾しないと判断した。弁護人は試料が破壊され、その結果を検証できないと主張するが、追試は可能で、この指摘は当たらない。

和歌山地検は東京理科大の中井泉教授に放射光分析による鑑定を依頼。教授は長年にわたって放射光分析に携わり、第一線で活躍してきた研究者で、その分析能力は高い。また教授の手法は合理的といえる。

弁護人は、教授は鑑定受託者として中立性に欠けると主張するが、一連の経過からは教授の中立性を疑わせる点は見当たらない。

二○○一年七月、裁判所は大阪電気通信大工学部の谷口一雄教授と広島大の早川慎二郎助教授に異同識別鑑定を命じた。両鑑定人はいずれも放射光分析の専門家で、分析能力は高い。精度の高い定量分析が実現されていると認められる。

弁護人は、両鑑定人による再鑑定は違法と主張するが、作業はそれまでの鑑定作業の一環で、実質的な再鑑定ではない。

▽証拠の作為性

弁護人は、ミルク缶周辺の亜ヒ酸採取について「捜索終了後、何者かが故意に置いた可能性がある」と主張する。

しかし証拠のねつ造は容易ではなく、危険性も伴う。捜査機関に証拠をねつ造する必要性は見いだせず、捜査機関が故意に亜ヒ酸をまいたとは考えにくい。

また弁護人は「ミルク缶の底に付いていた亜ヒ酸の行方が分からず、それが鑑定試料(青色紙コップ)を汚染した疑いがある」と主張する。だが紙コップの亜ヒ酸は底部や紙の継ぎ目に付着しており、極めて微量の亜ヒ酸が外部から付着したとは考えられない。

弁護人は「中井教授がカレーから亜ヒ酸を発見した経緯は不自然」と主張するが、教授にほかの亜ヒ酸を混入してまで一定の結論を導く動機や必要性は認められず、主張に理由はない。

▽鑑定の総合的検討

弁護人は最先端の科学技術に基づく鑑定について、スプリング8による分析が刑事事件で初めてだったことや、状況が特殊で困難だったと指摘する。

放射光分析の分析結果の信用性は高い。だが極めて微量の試料の分析は一定の制約を伴い、一個の分析結果のみでは判断せず、複数の異なる手法による総合的な判断が相当と考える。

異同識別三鑑定を総合的に判断すると、緑色ドラム缶、ミルク缶、「重」と記載の缶、タッパーなど五点の亜ヒ酸と(被告宅で発見された)ポリ容器付着の亜ヒ酸、(夏祭り現場の)青色紙コップ付着の亜ヒ酸は、いずれも同一工場で同一原料を用いて同一機会に製造されたものであると認められる。

カレー鍋中の亜ヒ酸がこれらの亜ヒ酸と同一であることは結晶分析では判断できなかったが、同一であることを推認させる事情もいくつか判明した。

▽同一性の総合判断

亜ヒ酸自体が一般の社会生活に極めて希少であることに加え、青色紙コップが現場のゴミ袋に入っていた状況を考えると、紙コップ内の亜ヒ酸がカレー鍋に混入された可能性が高い。

以上の検討の通り、東カレー鍋に混入された亜ヒ酸は、青色紙コップを介して緑色ドラム缶、ミルク缶、重記載缶、タッパーやポリ容器に入っていた亜ヒ酸のいずれかが混入した蓋然(がいぜん)性が極めて高い。

【 亜ヒ酸混入の機会 】

▽午前中の調理状況

カレーやおでんが煮込み状態になるまでは、多くの主婦がガレージにおり、カレーやおでんが煮込み状態になった後も、主婦らはほとんどの時間ガレージ付近にいた。午前中はカレー鍋付近に絶えず複数の人がいたので、この間亜ヒ酸が混入されるような状況は一切目撃されていない。

▽午後一時から開始まで

午後一時以降、カレー鍋が夏祭り会場に運ばれるまでについては、主婦が一人で見張っていた四、五分程度を除き、絶えず複数の住民が鍋の周辺にいた。鍋が会場に運ばれてからは、人の出入りはあるものの複数の住民が鍋の周辺にいた。

午後五時ごろ、役員の主婦が各鍋に火をつけ、その場にいた主婦が交代でかき混ぜた。午後五時半すぎからは、近所の子供たちも会場に集まりだしていた。

午後六時前ごろから、東テントの販売コーナーでカレーの給仕が始まったが、テント内に人がいなくなる状況はなかった。

▽正午から午後一時すぎ

この時間帯は検察側、弁護側の主張が大きく異なり、証拠上も住民の供述に変遷が認められる。

関係者の証言は、相互にかなり整合性を持つ内容だが、発生から証言まで一年二カ月ないし一年半程度たっており、個別に供述経過を検討した場合、捜査段階から変遷しているものもある。そのような変遷は公判での供述の信用性の判断に影響する。

しかも、その変遷の背景には、本件が多くの犠牲者を生んだ事件であり、社会的に極めて強く耳目を浴びたことから、各供述者が精神的に極めて特殊な環境に置かれた事情も影響していると考えられる。カレーの調理等に多くの人が関与しているから、周囲の人からの影響という点も考慮する必要がある。

▽亜ヒ酸混入の機会

亜ヒ酸が混入される機会としては、午後零時前ごろから午後一時すぎごろまでの間で、被告や役員主婦、主婦らがそれぞれガレージに一人でいた時間帯の蓋然性が極めて高い。

役員、主婦については、その夫や息子が被害に遭っていることを考えると亜ヒ酸を混入したとは考えにくい。ほかの二人の主婦も、自らが被害に遭ったり、自らカレーをとりわけた家族が被害に遭っていることを考えると、亜ヒ酸を混入したとは考えにくい。

被告やその家族はカレーを食べておらず、鍋に混入された亜ヒ酸が被告の兄弟もしくは知人方で保管されていた蓋然性が高いことから、ほかの主婦と同様に考えることはできない。

被告がガレージで役員主婦と鍋の見張りを交代した時について、役員主婦は「被告はTシャツの肩の付近などで顔や首の汗をぬぐっており、タオルは持ってなかった」と証言。証言は具体的で信用性が高い。ところが、その後来た別の主婦の証言によれば、「被告は首にかけたタオルで汗をぬぐっていた」という。

以上を踏まえると、被告は午後零時二十分から午後一時ごろまでの間に少なくとも一度ガレージを留守にしてタオルを持ってきたと認められる。

これらを総合すると、被告が一人でいた時間帯や、被告がガレージを留守にしてだれもいなくなった時間帯があったこととなる。被告が一人でいた時間帯に鍋に亜ヒ酸を混入することが十分可能であった。

見張り中、被告は鍋のふたを外して中をのぞき込んだり、道路の方を気にするように何回も見ていた。

【 被告人や関係者の亜ヒ酸との関係 】

▽被告周辺での検出

被告宅の敷地の汚泥や被告宅に接する用水路の泥などから、周辺と比べて顕著に高濃度のヒ素が検出された。少なくとも台所シンクから汚泥中に顕著な差をもたらす量のヒ素が流されたことがあった。また、被告宅マージャン部屋のいすのほこりからヒ素が、マージャン部屋の棚の花瓶の外側のほこりから亜ヒ酸が検出された。

被告人の毛髪からは、通常は検出されない無機のヒ素が検出された。付着が局所的であることから、外部に由来するヒ素が付着したと認められる。

以上から、逮捕時期からそれほど離れていない時期まで、被告周辺に亜ヒ酸が存在していたといえる。

▽亜ヒ酸入手の可能性

健治が営んでいたシロアリ駆除にはヒ素を使用。亜ヒ酸などの薬品は、当時の被告旧宅ガレージや作業車などに保管されていた。

旧宅ガレージの亜ヒ酸が入っているミルク缶などシロアリ駆除の荷物は、(被告宅に越してきた)知人男性が、健治から言われてそのまま置いていた。被告が旧宅ガレージに立ち入ることは十分可能で、被告は九八年七月までの時点で、亜ヒ酸を入手することが十分可能な立場にあった。

健治は従業員らに、シロアリ駆除剤(重=おも)はヒ素であり危険であるから、十分気を付けるように話していた。健治は「耳かき一杯でも人が死ぬんや」「死んだ後も証拠が分からへんのや」などと話していた。知人男性は、被告が健治に冗談っぽく「『重』をちびちび入れて殺したろか」と言うのを二、三回聞いたことがある。

被告は、シロアリ駆除に使っていた重がヒ素であり、少量で人を死に至らす危険なものであるという認識を十分に有していた。

 ▽亜ヒ酸付着容器

 (亜ヒ酸が付着していた)ポリ容器の管理に被告がかかわっていた可能性は高い。

状況的に、本件青色紙コップ内の亜ヒ酸が東カレー鍋に投入された可能性が高いが、被告宅ではその紙コップと同様の色つき紙コップを使い、被告は持ち出すことが可能であった。

▽被告以外の亜ヒ酸混入の可能性

カレー鍋を一人で見張っていた近所の主婦や家族に、亜ヒ酸との接点をうかがわせる証拠はない。また、他の住民についても、この亜ヒ酸との接点をうかがわせる証拠はない。この亜ヒ酸との接点を持つ実兄や知人男性、マージャン仲間の男性は夏祭り当日、被告宅やガレージ、夏祭り会場の周辺に行っていない。

【 当日昼以降の言動 】

▽二女のカレーの味見

二女は、被告と一緒に鍋の見張りをしているときにカレーを味見した。被告はそれを止めるような言動をしたがそれほど強い態度ではなく、弁護人の指摘するように東カレー鍋に被告が亜ヒ酸を混入したこととは矛盾する事情と言える。

ヒ素の危険性を認識している被告が、自分の娘がカレーの味見をしているのを知っていて検査を受けさせようともしていないのは、通常の母親の行動としてはいかにも不自然だ。二女が味見した西カレー鍋にはヒ素が入っていないことを知っていたことと結びつきやすい事情と言える。

▽見張り交代時の言動

被告は鍋の見張りを交代した際「座っとっただけやで。ふたも取ってないし味も見てへんよ」と虚偽の発言をしている。何もしていないことを言う必要性は全くなく、被告の発言には何らかの意図があると推測できる。しかし、被告の犯人性を推認させる積極的な間接事実とはならず、検察官の主張は採用できない。

▽手伝いを断ったこと

夫が単にカラオケに行きたいというだけで、夏祭り本番の手伝いを欠席するのは常識に欠けた行動だ。

被告が最初にガレージに来たときの、被告を無視するような雰囲気や近所の主婦の多少きつい言い方での対応に立腹したとしても不思議ではない。現に被告はインタビューにおいて、ガレージに自分を疎外する雰囲気があったことを認める発言をしている。

被告が常識に欠けた行動をとり、手伝いを欠席したことは、最初にガレージに行った際に主婦らに嫌悪の情を抱いていたことの証左となる。被告がカレー鍋に亜ヒ酸を入れたことと矛盾しない間接事情とは言うことができる。しかし、被告がカレー鍋に亜ヒ酸を入れたことを積極的に推認させる間接事実ではない。

▽事情聴取への話

被告が捜査員に紙コップの話をしたことは明らかであるが、紙コップが犯人特定上重要な証拠になる資料であると評価した上で、秘密の暴露的に話したと解することはできない。

▽実兄に対する言動

被告は実兄に「捜査員にヒ素のことを聞かれ、見たことも聞いたこともないと答えた」と電話をかけてきた。これは話を合わせてほしいという依頼の電話であることは明らかだ。

以前ヒ素を使っていた者が、疑われるかもしれないので黙っていようとすることは、必ずしも不自然な行動とは言えない。しかし、捜査員に一切聞かれていないのに「捜査員から聞かれた」と虚偽の事実を言っている点など、ヒ素を使っていたことを隠そうという強い意欲が被告に認められる。そのような強い意欲は被告の犯人性を推測させる一つの間接事実となりうる。

【 被告周辺での急性ヒ素中毒の発生 】

▽急性ヒ素中毒の症状

最初に吐き気、嘔吐といった腹部症状が現れ、少し遅れて下痢、腹痛も起こる。重症例では手足にしびれを伴う末しょう神経障害(多発ニューロパチー)が起きてくる。造血作用障害、腎機能障害、肝機能障害、心電図異常などが認められることもある。

毒物カレー事件の生存被害者のうち、重症のヒ素中毒の場合に見られる末しょう神経障害は六十三人中三十一人に認められ、うち十五人は自覚症状のある末しょう神経障害。うち三人は日常生活に著しい障害をきたす程度に末しょう神経障害が重篤だった。

▽無職男性の中毒の有無

九八年八月の時点で、無職男性には多発ニューロパチーの症状が認められ、急性ヒ素中毒での症状と合致するものだった。つめや毛髪から健常者の濃度を大きく超える高濃度のヒ素が検出されており、無職男性の症状はヒ素の異常摂取によると認められる。

同年三月二十九日以降の無職男性は、身体の各所に異常が認められ、いずれも急性ヒ素中毒の症状と合致し、毒物カレー事件の被害者の症状とよく符合している。三月二十九日の嘔吐、下痢などの腹部症状は、ヒ素の異常摂取に基づく急性中毒と認められる。以上の際に摂取したヒ素の量は、いずれも致死量(一○○ミリグラムから三百ミリグラム)を超えていた。

▽シロアリ駆除会社の元従業員

元従業員の臓器から基準値を大きく超える高濃度のヒ素が検出され、元従業員にヒ素の異常摂取があったことが強く示唆される。カルテなどからうかがえる腹部症状や腎、肝機能障害などは、急性ヒ素中毒の所見と合致し、毒物カレー事件の被害者の症例とも符合する。元従業員は急性ヒ素中毒で死亡したと認められる。

▽八八年の林健治

健治が八八年四月初旬に発症した多発ニューロパチーは、急性ヒ素中毒と症状が合致すること、腹部症状はヒ素の異常摂取によると考えてもおかしくないこと、骨髄の低形成が認められること、腎機能や肝機能の低下が認められることなどから、健治は八八年三月中旬以降ヒ素を異常摂取したものと認められる。

▽九七年の林健治

九七年二月下旬ごろから出現した健治の神経症状は、急性ヒ素中毒の症状と合致する。健治には、二月六日に腹部症状が発症した際に、ヒ素の致死量を超える異常摂取があったと認められる。

▽知人男性

八八年五月十日に発症した腹部症状は、ヒ素の異常摂取によるものと認められ、摂取量は致死量を超えていた。

【被告夫婦の生活状況と保険契約の状況】

▽被告夫婦の生活状況

被告は和歌山県有田市に生まれ、八三年に健治と結婚した。九五年春ごろ、和歌山市園部に一戸建て住宅を購入し、転居した。

健治は八三年当時、シロアリ駆除業の仕事をしていたが、九二年廃業した。被告は九○年から九六年まで保険外交員をしていた。

被告夫婦は、シロアリ駆除会社の元従業員の死亡による死亡保険金として、八五年から八六年にかけ四千五百万円近い金額を取得。八七年には別の元従業員の高度障害保険金として約三千万円を、八八年には健治の高度障害保険金として約二億円を取得している。

被告は、八九年以降も年間約八百五十万円から五千万円余りという異常なまでに高額の保険料を支払いながら、種々の保険契約を締結して継続。九二年以降、被告夫婦の保険金収入が急激に増加し、九三年から九七年までは、保険料の支払額も、九五年を除き年間二千万円を超える異常に高額な支払いが続いている。

被告夫婦は定職に就かず定期的な収入がない状態だったにもかかわらず、異常に高額な保険料を、保険会社や消費者金融から借り入れて払い続け、ときおり高額の保険金を取得すると、借金の返済や保険料の支払いに充て、不動産など高額な購入もするという生活をしていた。

書類が整っている九五年以降、年間収支が一億円から二億円を超えるという普通の家庭では到底考えられない生活を、保険金収入を中心に成り立たせてきた。保険契約の管理は、もっぱら被告が行っていた。

被告にとって生命保険などの保険契約は、例えて言うならば、「預金機能のある宝くじ」のようなものであって、当たれば一度に高額の収入を得ることができ、当たらない時期が続いても、解約すれば、元本割れはするものの一定金額が必ず返ってくるという性格のものとして位置付けられ、運用されていたものと評価することができる。

そして、シロアリ駆除会社の元従業員の死亡などで高額の保険金を取得した八七年ごろから保険料の額が急増していることに照らすと、そのころから被告は保険契約を「預金機能のある宝くじ」として位置付けていくようになっていったものと考えられる。この位置付けは宝くじに当たることを前提にして初めて成り立つものだから、被告としては保険事故が発生することに強い期待を抱くとともに、保険事故が発生するように行動する、あるいは保険事故が発生したかのように行動する強い動機となっていった。

▽第三者を被保険者とする保険契約

九八年七月二十五日時点で、被告が実質的に管理していた家族以外の第三者と健治を被保険者とする保険契約の状況について概観すると、被保険者八人につき合計四十一口の保険契約(月額保険料合計約六十四万六千八百円)が締結されていた。

【死亡した元従業員のヒ素中毒】

八五年十一月二十日に急性ヒ素中毒で死亡した元従業員には、被告らが保険料を負担し、被告らに保険金が支払われた三つの生命保険がかけられていた。月額約三万九千円の保険料や普通死亡保険金四千五百万円は従業員に対するものとしては高額で、保険金不正取得の目的を疑わしめる。

しかし、飲食物に亜ヒ酸を混入して元従業員に摂取させたとまでは認定できず、被告が保険金取得目的で飲食物に亜ヒ酸を混入して元従業員に摂取させ、殺害したとは認められない。

【 高度障害になった別の元従業員 】

八七年二月十四日に被告宅でお好み焼きを食べ、急性ヒ素中毒になった別の元従業員には、健治を受取人とした三千万円の保険がかけられていた。被告が保険金を不正取得しようとしたことを強く疑わせる。

だが、お好み焼きにヒ素を入れた場面は目撃されておらず、お好み焼きの受け渡しの状況も不明で、被告がこの元従業員を狙って特定のお好み焼きを食べさせたとまでは認められない。

【 健治と知人男性のヒ素中毒 】

健治は八八年三月以降に急性ヒ素中毒になり、入院中の健治の病室で酢豚などを食べた知人男性が急性ヒ素中毒になった。検察官は被告が健治を殺害して保険金を得る目的でヒ素を摂取させた、あるいは健治に摂取させようとしたが知人男性が摂取してしまったと主張する。

個別の証拠の検討からは、「被告が、保険金取得目的で健治を殺害しようと企て、三月中旬ごろにヒ素を混入した飲食物を健治に食べさせた」と認めることには疑問が残る。

また、被告が持ち込んだ可能性の高い酢豚などにヒ素が混入されていたと認めるには疑問が残り、知人男性事件の犯人を被告と認めることはできない。

【 無職男性らと被告夫婦との関係 】

無職男性は九六年二月から被告方に住み込み、被告夫婦の召し使いのような存在だった。マージャン仲間の男性は九二年五月ごろ被告夫婦と知り合い、保険金不正取得に協力したこともある。

無職男性は十件の意識消失を起こした。被告夫婦どちらかが睡眠薬を摂取させたと認められ、被告が実行、もしくは首謀した犯行といえる。マージャン仲間の男性が同様に意識消失状態になったのは、被告の犯行とまでは断定できない。

【健治の急性中毒】

健治は九五年八月か九月、嘔吐などを訴えた。被告は、同僚らの供述では、健治の死を期待するような発言をしていた。被告は「だんだん弱って死んでいく」という薬を健治に飲ませたことがあると話した。これは、被告が亜ヒ酸を入手できる立場にあったことからヒ素と認められる。しかし、発言は殺害に直結するものではなく、被告の犯行と認めることはできない。

健治は、九七年にも嘔吐などの症状に襲われたが、急性ヒ素中毒によるものであるとか、それが被告の犯行であるとは言えない。

▽ヒ素入りくず湯事件

健治が九七年二月六日に発症した腹部症状は、急性ヒ素中毒と認められる。無職男性は、健治が自宅で被告が作ったくず湯を食べてから体調が悪くなったと証言。証言は具体的であり、信用性は高い。

健治はくず湯を食べた約二十分後に気分が悪くなり激しい嘔吐に襲われた。くず湯に亜ヒ酸が混入していた可能性が高い。被告は健治の死を強く期待する発言をしており、健治にヒ素を摂取させたと認められる。

健治が摂取したヒ素は致死量を超え、死亡保険金取得目的に加え、憎しみ的感情をも背景に持つ犯行ということができる。被告は確定的な殺意を持っていた。

【 無職男性ヒ素中毒 】

▽ヒ素入り牛丼事件

無職男性は九七年九月二十二日、被告が作った牛丼を食べ嘔吐した。被告がヒ素を混入した可能性が高い。保険金不正取得目的で、殺意は未必の故意。

男性は十月十二日にもマーボー豆腐を食べ嘔吐。これも被告がヒ素を混入させた。さらに十月十九日に中華丼を食べ嘔吐したが、急性ヒ素中毒とまでいえない。九八年三月二十八日にもうどんを食べたが、これもヒ素が混入していた。殺意は未必の故意といえる。

【 毒物カレー事件での被告の犯人性 】

▽類似事実の持つ意味

カレー事件以外の殺人未遂事件や類似事実のうちで、被告が保険金目的でヒ素を使ったと認められるのは、九七年ヒ素入りくず湯事件、同年牛丼事件、同年マーボー豆腐混入、九八年うどん事件の四件。

検察官が被告が犯人だと主張するヒ素使用十一症例のうち、被告が急性ヒ素中毒にり患させたと認められるものは四症例、急性ヒ素中毒のり患は認められるものの被告の犯人性が認められなかったものは四症例で、そのほかの三症例は、急性ヒ素中毒にり患したとまでは認められなかった。

検察官主張のヒ素使用事案や睡眠薬使用事案で、急性ヒ素中毒のり患や睡眠薬の薬理作用が否定された症例は、いずれも症状や検査所見は急性ヒ素中毒や睡眠薬の症状と矛盾はしないが、他の疾患の可能性を排除しきれないという観点で否定されたにすぎない。

したがって、検察官の主張は(1)多数の類似事実の中で証拠関係から被告の犯行だと認められる急性ヒ素中毒や睡眠薬の症例がある(2)いずれの類似事実も、不自然な生命保険を契約している(3)希少な症例であるはずの急性ヒ素中毒が被告の周辺で集中している(4)睡眠薬使用については、被告夫婦の支配下でのみ発生している(5)個別の証拠関係から認められない類似事実も、被告の犯行である可能性が極めて高い−などから、類似事実についても全体として被告による犯行であることを認めようとする手法と考えられる。

しかし、嘔吐や下痢の症状が急性ヒ素中毒と矛盾しないとはいっても、その可能性が高いとまでは必ずしもいえない。さらに、被告の犯人性が否定された四件の事案の当時、被告夫婦の身近なところにヒ素は客観的に存在し、そのことを知る人物も少なくなかった。被告の周辺で一定数の急性ヒ素中毒が発生したことが、それ以外の似た症状も急性ヒ素中毒であると強く推認させるものでないし、被告の犯行であることに強く結び付くものでもない。

従って、「個別の証拠関係からは認められないものの相当程度の疑わしい事実」が集積しても、検察官が主張する類似事実のすべてを、被告人が関与した急性ヒ素中毒や睡眠薬の症状であるとはいえない。

▽犯行の動機

検察官は、「被告がカレーに亜ヒ酸を混入した直接的な内心の原因は、鍋の見張りをするためにガレージに行った際、自分をあからさまに疎外していると受け取れる主婦らの対応ぶりに激高したことにあった。毒物カレー事件は、その激高に基づく主婦らへの意趣返しとして敢行された」と主張するので、激高の有無について検討する。

関係者のやりとりや気持ちの動きをみると、被告が午前中の手伝いをサボったと考えて気分を害していた自治会役員の主婦は、ガレージに来てからの被告の言動にも不快感を強くし、その不快感は主婦の言動に表れていた。その場にいた主婦の中には、気まずい雰囲気ややりとりにぎくしゃくしたものを感じた者もいた。ガレージ内には、自治会役員の主婦の気持ちに代表される、被告を疎外するような、被告にとって居づらい雰囲気があった。

被告がそれをどのように認識していたかについては黙秘していることから詳しくは明らかにならない。しかし、テレビ局による被告のインタビューからは、少なくとも、被告が自分を疎外するような雰囲気があることを認識していたことは認めることができる。

その後、被告は自宅に戻り、自転車で各家庭に氷を作っているかどうか確認に回り、できた氷を集めて回ったりしている。各証言によれば、氷作りを確認している被告の言動からは、特に興奮しているような様子はうかがえない。

また、自治会役員の主婦に氷の件を指摘されてガレージを出て行く際の被告の様子は、「『うん、聞いてくるわ』と言って、ちょっと慌てたように、三女と一緒にガレージを出ていった」(主婦証言)というもので、疎外されて激高したような様子には受け取れない。しかも、各家庭に氷の件の確認に回り、午後四時ごろには氷を集めに回っている。それは、むしろ被告が慌ててそれをやっているという様子であって、そこに主婦らの言動に激高している状況を見いだすことは難しい。

テレビ局のインタビューでの被告の供述の趣旨は、被告がガレージにいた時間がいかに短いものであったかを言うために、必要以上にガレージの雰囲気を悪く供述している可能性が十分にあり得る。この被告の供述から、ガレージの雰囲気の程度を推測することは危険で、被告を疎外しようというその場の雰囲気にはかなり厳しいものがあったというニュアンスでこの供述を理解すべきではない。

以上の検討から、夏祭り当日の正午ごろ被告が赴いた際、ガレージには被告を疎外するような雰囲気があったことは認められるものの、その程度は不明で、被告が激高したことを具体的にうかがわせる証拠はないから、被告が激高したと認めることはできない。

検察官は、ガレージにいた主婦らに対する激高が、意趣返しによるカレー事件にまで飛躍した原因の一つとして、健治のマージャン仲間の生命保険などの取得も考えていた可能性があると主張する。

確かに、これまでに被告が敢行した種々の保険金詐欺事件から明らかなように、被告は絶えず保険金取得目的を有していたということはいえる。

しかし、当日の正午ごろに具体的にマージャンをする予定があったとは認められないし、マージャンをしないことになった時期、被告がそれを知った時期についても、明確な事実関係は判明しなかった。検察官が主張するカレー事件の背景事情としての保険金取得目的も、抽象的な憶測にすぎず、背景事情の一つとすることはできない。

カレー事件の犯行の異常性を考えると、被告の性格的傾向が問題にならないわけではないが、被告が黙秘している事案で、仮に精神鑑定を含めた分析をしたとしても信用性の高い結果が得られるかは疑問。動機は未解明だが、被告の性格分析に立ち入ることは控えるべきだと考える。

▽総合的判断

毒物カレー事件では、夏祭りでカレーを食べた住民六十七人が急性ヒ素中毒になり、四人が死亡した。

東カレー鍋から極めて高濃度の亜ヒ酸が検出され、鑑定で、カレーから検出された亜ヒ酸と、被告宅台所のポリ容器などの亜ヒ酸などが製造段階において同一であることが明らかになった。

この亜ヒ酸を現実的に入手し得る立場にあり、カレーに混入し得る機会があったと認められるのは被告のみだ。

被告は、保険金取得目的でカレー事件発生前の約一年半の間に、四回も人に対してヒ素を使った。存在自体が極めて希少である猛毒のヒ素を、人を殺害する道具として使っていたという点で、被告以外の事件関係者には認められない特徴である。被告の犯人性を肯定する重要な間接事実といえる。

被告の四回のヒ素使用などは、人の命を奪ってはならないという規範意識や、人にヒ素を使うことへの抵抗感が薄らいでいたことの現れととらえることができる。

カレー事件の動機については解明することができなかった。しかし、被告が犯人であることと矛盾する事実関係が明らかになっているわけではない。被告が亜ヒ酸を青色紙コップに入れてガレージ内に持ち込み、東カレー鍋に混入した事実が、合理的な疑いを入れる余地がないほど認められる。

殺意の有無については、被告は、これまで一度に使用したことのないであろう四百五十−千三百五十人の致死量に当たる量の亜ヒ酸を混入しているから、カレーを食べた住民が死亡するとの認識があったと認められる。

被告が、カレーを食べた者がほぼ確実に死亡すると認識していたと認めるには、具体的な動機などの事情が必要である。

しかし、動機が判明していないので、被告には殺意が認められるが、証拠上認められる殺意は「死んでもかまわない」という未必的な殺意にとどまるものと解するべきだ。

【 結語 】

▽黙秘権について

被告が黙秘権を行使して供述をしなかったことは、一切、事実認定の資料とはなっていない。

刑事手続きは、国家権力が個人に対して強制力を使ってまで事案を解明することを求めている。訴追機関と被訴追者の力のアンバランスは明白で、それが種々の寃罪(えんざい)を生んできたことは、歴史上明らかだ。そのために設けられた制度が黙秘権だ。

社会的には、不利な事実に対して黙秘することは、それが真実で反論できないからであるという感覚かもしれない。黙秘を被告の不利益に扱ってはならないという制度が、一般に納得のいかない印象を与えるのは当然かもしれないが、黙秘に関する社会的な感覚を排斥し、証拠関係から冷静に判断することを要求していると解するべきだ。

被告が黙秘を貫いたことに対して強い反発が見受けられる。その心情も理解できるが、寃罪を防ぐために人類の理性に期待し、あえて社会的には相当と思える感覚を排斥することを要求した黙秘権の趣旨から考えると、やはり黙秘には冷静な理性で臨まなければならない。

▽最先端の科学的証拠の取り扱い

本件では、最先端の科学技術で得られた知見が重要な証拠となった。このような最先端の科学技術の知見の証拠化には、今後検討すべきものがある。知見が争点になる事案では、鑑定書が容易に理解できるよう詳細に記載されることが望ましい。

▽犯罪報道のあり方

毒物カレー事件は、事件の異常さ、被害の深刻さ、被告夫婦のパフォーマンスなどで、社会的に高い注目を浴びた。異常な報道取材が行われ、被疑者、被害者を問わず精神的に強いストレスを感じざるを得ない状況となった。被害者、遺族らが口をそろえて、報道取材に不満、不信感を述べたことは、そのような報道取材に問題があったことを表している。

そのような報道取材は住民や関係者を異常な環境に追い込み、精神的に疲弊させ、真相解明を遅らせ、捜査や審理にも影響を及ぼしかねない。

子供を亡くした親が、司法解剖を終えた子供の亡きがらと帰宅しようとする際、なぜ自然な形で帰宅できないのか。報道機関にはどのような情報を取材、提供すべきなのかのさらなる議論を待ちたい。

▽報道結果のとらえ方

本件では、報道機関が撮影した被告夫婦のインタビューを録画したビデオが検察官から証拠として請求され、供述録取書として証拠採用した。このことに報道分野から強い反発が寄せられた。

刑事裁判においては、捜査機関がその責任において一次情報から収集すべきであって、報道機関の取材結果に頼るようなことがあってはならず、報道結果を証拠とすることに慎重であるべきだ。

報道機関には国家に適切に権力を行使するよう報道で促す役割もあり、その映像が刑事裁判で証拠となることは報道のあり方と矛盾しない。報道機関が報道し、国民の多くが知っている情報を、なぜ真実の追求を目的とする刑事裁判で証拠としてはならないのか、理解に苦しむ。

公表目的で取材する以上、裁判で証拠となることもあり得るという壁を乗り越えられるほど被取材者に対して真摯(しんし)な取材をすることが求められるのではなかろうか。

【 量刑理由 】

▽毒物カレー事件

毒物カレー事件は、夏祭りが犯行の機会とされ、その対象が無差別的だった点で、極めて悪質かつ異常な犯行である。

死亡した四人や遺族が被った被害は重大かつ深刻で、死を免れた六十三人の生存被害者も、家族を含めて多大な精神的被害を被った。被害感情は、被告に死刑を求めるほど厳しい。

事件自体が悲劇的であるだけでなく、地域住民は外出することもはばかられるほどで地域は混乱した。本件は匿名性の高い犯行で、被告は自らの犯行であることがごまかしやすいことを十分認識した上で犯行に及んでいると認められ、極めて悪質な犯行である。

▽保険金目的の殺人未遂事件など

被告が一家の主婦として日常的に作り提供する食べ物の中に猛毒のヒ素を混入するという、匿名性が高く、極めて悪質な犯行。被告の犯行態様や反復性は、被告の犯罪性向が根深いものであることを示す。

一億円を超える死亡保険金や高度障害保険金という高額の保険金取得目的の犯行で、動機に酌量の余地はない。金銭的欲望を満たすために他人の生命を犠牲にしようとしたもので、極めて自己中心的な犯行だ。

▽死刑選択の当否

被告の犯行で命を奪われた四人は、人生の円熟期にふさわしい温かな幸せの中に、あるいは幼木が年々成長するように、またはこれから花開かんとするように、将来に夢をはせながら活気に満ちた日々を送っていた。それが被告の蛮行により、幸せの途上で突然に息を引き取らざるを得なかったことを思うと、死亡被害者の無念、悔しさは言葉に表しようがない。

最愛の家族を奪われた遺族の心の傷は埋めようのないほどに深く、被告に死刑を求める心情は、痛々しいものですらある。被告は、遺族のこの悲痛なまでの叫びを胸に刻むべきだ。

犯行が計画的でないことや殺意が未必的であること、動機が解明されていないことなどの主観的事情は、被告の責任を軽減する事情とはならない。

毒物カレー事件は犯行態様が極めて悪質、冷酷な上、結果があまりに重大で深刻。遺族の処罰感情は極めて厳しく、慰謝の措置が一切とられておらず、社会的影響が大きかったことなどを考えると、被告の刑事責任は極めて重大だ。罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも、極刑はやむを得ず、死刑を選択せざるを得ない。

(以上)

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