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2008☆01☆02☆03☆
2008-02-25 家が燃えるかもしれません。不審火で
■ちなみに
沢渡氏も最近はめっきりとととたんの更新をなさらなくなった(というか皆無)
以前は毎日のように日記が更新されていたというのに。諸行無常である。
伺かというメディアは既にネット上では死んでしまった物として位置づけられているのか?
だとしたら諸兄らの家は基本条項第0条2項の履行違反によって燃える事だろう。恐らく。
■今日も今日とて古い文書のサルベージである
この二次創作は2004年6月にととたんの作者である沢渡慎二氏に寄贈させていただいた物である。
(いやはやなんとまぁ、こんな駄文を寄贈されたとこでどうしようもないだろうけども)
■ととたん(伺か)二次創作小説・春霞海
「あっ、おにいさんっ」
珍しい事もあるものだ。仕事の用事で普段はあまり来ないこの駅、つまり家から5駅という微妙な場所に位置するこの副都心に降りたった時。俺は、偶然にも少女と出会った。幸いにも今日は営業の出先から帰宅する許可を貰っている。思いの外商談が早くまとまった事から、どこかに寄り道して帰ろうとしていた矢先の事であった。
「おっ……。ととたんじゃないか、奇遇だね、こんなトコで会うなんて」
「うん。えへへ。お兄さんはお仕事?」
「ああ……でも、今日はもうおしまいなんだ。まぁ、とりあえず、立ち話も何だし……」
駅前の喫茶店に入って、窓際に席を取る。まだ春の半ばだというのに、随分と日差しが強い。
「そういえば、ととたんはなんでここに?」
「うん?えへへ」
ポケットから一枚の絵はがきを取り出した。
「これを見に来てたんだ」
絵はがきには後期印象派の絵が描かれている。美術館か。そういえば、今、印象派展とやらがこの近くの美術館でやっていると聞いた。記憶ではモネやらマネやらゴーギャンの遺作やらが来てたはずだが。そういえば、この子は絵が好きだった。ただ、可哀想な事に彼女には、なんとうか、立体物を把握する能力というものが根本的に欠けているらしく、好きではあるのだが絵を描く事は苦手のようだった。
「そうか美術館か。社会勉強とは偉いね、ととたんは」
ととたんは留学生である。恐らく、このような異文化理解というのも、その留学のカリキュラムには含まれるのだろう。彼女はそれを楽しみながらこなしている。なんと気丈な事だろうか。わざわざ、欧米に留学しながらも、同国民同志でグループを作り、あまり異文化というものを吸収しないで帰ってきがちである日本人とは大違いである。まぁ、それが哀しいかな国民性というものなのであろうが。それを考えると、ととたんの祖国、バードランドの人々というのは、異文化に対して深い興味と理解を持っているといえる。大変、素晴らしい事だ。
「ううん、そんな、勉強とかじゃないよ。ただ、ボクは絵が好きだから……」
「いや、それでも美術館に自主的に行こうと考える自体からして、まず偉いな。何事であっても自分の興味のある事を探求する事はいいことだよ」
注文を取りに来たウエイトレスにパフェを2つ頼む。少し怪訝な顔をされたが、別に男がパフェ食べても全く不思議ではないような気がするのは俺だけだろうか?まぁ、こういう場では、男は黙ってコーヒーという法則でもあるのだろうが。しかし、俺はそのような不条理な不文律には従わない。男が甘党で何が悪い。
「ゴーギャンの遺作って事は、あれかな。タヒチ島の生活を描いた絵。なんだっけかな、なんかやたら長ったらしいタイトルで」
「たしか、われわれはどこから来たのか……なんとかかんとかってな名前じゃなかったっけ?」
「そう、それだな。なんていうか、極めて人間的かつ哲学的な題名だな。俺にはあまりわからないけど……しかし、印象派っていうと、俺はヨーロッパの庭園画とかの方がよく思い浮かぶけどな」
「うん。ボクも今日美術館に行くまではそう思ってたんだ。バードランドで本を読んだ時は、綺麗な池の絵とかそういうのが載ってたから。でも、なんか落ち着く絵だったなぁ。ゴーギャンさんの描いた絵」
ととたんの絵はがきをじっくりと眺める。なんというか、やはり俺が抱いていた印象派のイメージとは違う気がする。だが、ととたんの言うように、その力強い絵が繊細なタッチ、そしてモデルとなったタヒチの島の民俗的光景からは、いいようの無い落ち着きという感情が生まれる。
二人共に、絵を無言でみつめてそれぞれに思考し始めた時。タイミングよく2つのパフェが運ばれてきた。
「……おにいさんって、そういえば甘い物好きだよね」
「基本的に美味ければなんでも食べるよ。俺は」
言うが早いか、喋っているうちに、もう既に3分の1の分量を平らげた。ととたんは、目を見張って、自分も遅れまいとスプーンをグラスに突き刺す。
「ああ〜、いいからいいから。ゆっくり食べなよ……そういえばからすさんは今日はどうしたの?」
「ほえ?あっ、からすさんはね。今日は、パチンコ行くんだって。なんだっけかな?『みんきーもも』?とか言ってたけど」
「マニアックだなぁ。しかし、からすさんなんでそんなアニメ知ってるんだろ?」
不可思議な事だった。まぁ、彼の見聞、動向に関しては色々と不可思議な事が絶えないので、既にあまり気にしないようになっていた。
ちなみに、からすさんというのは、ととたんの使い魔……いや、どちらかというと保護者という感じで、バードランドから一緒に来たペンギンである。もちろん、人語を操れたりするから、流石は魔法の国という感じか。しかし、何故か同郷のととたんよりも、異郷の俺と趣味が合致する事が多いのは、ととたんが女の子である事を差し引き除いても、また不可思議な事ではあった。
ただ、本当に不可思議なのは、俺自身とこの少女の出会いそのものではないだろうか。
少女は俺の家に居候している。所謂ホームステイというやつらしいが、彼女は厳密にいえば外国人ではない。異界の人。魔法使い。とにかく最初は、驚いた。急に家に女の子がやってきて、「自分が魔法使いだ」なんて言われても、瞬間は「シリウス八英雄の生まれ変わり云々」といったムーに傾倒してる連中を思い浮かべてしまう。目の前で、その魔法とやらを見せてもらうまでは、誰だってそうだろう。
全くもって、何故に俺の家がホームステイ先に選ばれたのかは分からなかった。が、少女と付き添いらしきペンギン(ペンギンにしては大分丸っこいが)の話す事を聞く限りは、とくに断る理由は特に無も思いつかない。それよりも、少女が語る端的な話を聞いただけで、俺は、その魔法の国とやらに大いに興味を持ってしまったらしい……幼い時に読んだ児童文学の一冊。児童文学に隠れた名著は多い。その中の一冊が今でも心に残っている。ちょうど、今の俺のように、魔法の国の住人と接点を偶然に持った人間の話だったような気がする。これは、言うまでもなく胸躍る状況である。おまけに、女の子は可愛かった。自分にはロリコンの性癖が無い……と自身では思っているが、しかし、とにかく純粋に女の子は可愛かったのである。
そんな経緯で、トトル=タンジェリン「ととたん」という魔法使いの少女は、俺と一つ屋根の下に暮らしている。
パーラーを出て、夕方近くの日差しがタイル貼りの小道を白く、ほのかに赤く反射させる。露光過剰の写真のような物だ。目が痛い。
時計は5時を回ってはいたが、季節が夏至に向かっている途上だけあって日はまだ仰角15度。つまり沈むまで1時間くらいの間があった。
少しだけ間延びした影。
「ととたん?どうしたの」
「おにいさん。ボク、ちょっとお願いがあるんだけども……ううん、無理ならば、別にいいんだけど」
「ん?とりあえず、言ってごらんよ」
「うん。あの……ボク」
電車に揺られて1時間ほど。日は既に赤く染まり、沈む間際。山合いと海の間を縫うようにして、二両編成の電車は走る。ととたんは、嬉しそうに窓からその景色を見ていた。
「ありがとう、おにいさん。でも……わがままいっちゃってごめんなさい」
「いいよ、別に。俺もどっか寄り道して帰ろうと思ってた所だったし」
ととたんは俺に、海が見たいと頼んだ。この子の方から何か頼み事をしてくるというのも、あまり無い事だったし、それに俺自身もこのかた3年ほど海というものを見ていない気がしたので、こうして電車を乗り継いで江ノ島までやってきたのである。菜の花の季節でもあるし、千葉・九十九里という手も無いことはなかったが、今の時刻からだと帰る頃には終電だ。必然的選択であろう。
「でも、またなんで海に?」
「う〜ん、実はボク自身もよく分からないんだ……でも、こっちの海はどういう物なんだろう、って思って。さっき、海とかの絵を見たせいかな」
「そうか……まぁ、バードランドの海と違って、そんなに綺麗じゃないと思うけどね。こっちの海は」
沈みかける夕日の弱々しい一抹が、ととたんを撫でる。
「しかし、二人きりで海なんて……なんか、恋人同士みたいだね」
「えっ……」
夕日に気を取られて、不意にバカな事を口にしてしまった。
「ああ、ごめんごめん。深い意味は無いんだ。ただ直感的にね。そう思っただけ」
「……えへへ、でもなんだか嬉しい……かも」
うれしさとさびしさを半々にしたような、切なげな笑顔。この少女が、俺に好意を示してくれている事は、その分かりやすい性格と態度から、ずっと前から自明だった。ただ、それに応えるべきなのかどうかという事については、自分の中では保留にしている。
駅からわずか3分ほどで、もう目の前には砂浜が広がっている。この海も、夏の時期にはサーファーだの海水浴客だので芋を洗うように込み合うのだが、季節と時間が、その情景からこの場所を切り離していた。既に日は海の向こうに落ち、赤い残光が水平線に残るのみ。
「あんまり綺麗な海じゃなくてごめんな」
「ううん……おにいさん、ホントにありがとう」
言葉少なげに、水平線を眺めるととたん。俺もそれにならって、太平洋の穏やかな波音を耳にしながら、紺色の濃度を秒ごとに増していく西空と海の接線を見つめた。海というのはこういう風に、人を言葉少なげに感慨に浸らせるような雰囲気を持っているのではないだろうか。そしてまた、海というのは人の心を落ち着かせる。そもそも、人間というのは、海に住んでいた頃の記憶を遺伝子の中に持っているという。
だからこそ、人は海に惹かれるのであろうか。不可思議な話だ。経度緯度気候風土こそ違えども、ゴーギャンが心惹かれたのも、フランスよりはるけき遠くの南太平洋の海なのではなかろうか。文明よりの逃避という概念に、彼は生涯支配されていたとういうが、それを助長し、遥か南洋のタヒチへと誘ったのは紛れもない海なのではあるまいか、という考えが一瞬、頭に浮かぶ。海に惹かれていって死んだ人間は、何も船乗りだけとは限らないという事か。いや、むしろパリという内陸の土地において、日常的に海に接していなかったからこそ、彼は強く強く南太平洋の海に惹かれたのかもしれない。
「そうか。だから……だから、海に来たかったんだね」
「……おにいさん?」
不意にこの少女が海に来たがった理由を悟った気がした……いや、気がしただけで、実際はどのような考えがあって、どのような経緯で?と求められると説明は不可能であるが。だが、何故か口をついて言葉が出る。
夕闇迫る中で、戸惑いげに微笑む少女。うすぼんやりとした春の闇の中、ただ浜辺の波音だけが、強弱をつけながら延々と繰り返される。日常の中ではあまり気が付かない事だが……というよりも、俺が敢えて気が付かないように気を付けて振る舞っているのだが、時折、この少女はとんでもなく自分の琴線に触れる振る舞いをする。例えば、今のように。預かっている子という手前、そして、相手がまだこちらの世界では小学校も卒業していない少女である、という2つの点が俺を抑えていた。さらに自分はロリ属性では無いという、実は半ば自分自身を納得させるために言い聞かせている言葉。その抑えているたがが外れそうになる事がある。実際に、俺はこの少女が好きなのだろう……。
そんな俺の胸中を知ってか知らずか、その姿を夕霞の中に消してしまう事なく、この眼の前の、腕の中におさめてしまう事ができるほどの距離にいる。
「……かわいいよ」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で何気なく呟く。海岸には他に人影もなく、波音がその声を消し去ってくれたとは思えない。ととたんは、少し顔を赤く染めて俯いた。こういう仕草が、本当にどうしようもなく愛らしいというか何というか……そんな風な何気ない素振りに、なにやら度し難い物を感じる。
「…………おにいさん」
気が付けば少女を後ろから、ぎゅっ、と抱きしめていた。結局、留め金が外れてしまった。
「かわいいよ……ととたん」
今度ははっきりと聞き取れるはずの声。
なんというか、この子はこういう事に不得手な所がなおもってかわいらしい。体を堅く緊張させて、真っ赤になって俯いて……。自身の記憶の中に残る、初めて出会った頃の少女のようである。
「……ごめんなさい。ボクなんて言ったらいいか……。でも、なんだか……うれしいよ」
実は俺もこういう展開に強いわけでは無い。不意に少女の前に回り込んで、或いは、少女の肩をそっと掴み、こちらを向かせて唇を奪いたいという衝動に駆られる。駆られるが……結局はととたんの髪をそっとなでてやる事しか出来なかった。
……今日は海に来てホントによかった。いつのまにやら、ととたんの喜ぶ顔を見るのが俺は楽しみになってきているようである。自分にロリコンの性癖は無いという事にしておきたいが……やはり、それとこれとはとりあえず別問題という事にしておきたい。
「……おにいさん」
「うん?」
少女は、せいいっぱい背伸びして、俺の頬に口づけした。
ちなみに、俺達は家でからすさんが腹を空かして待っている事をすっかりと忘れていた。思い出して、とにかく慌てて、急いで帰ってみると、すっかりと拗ねたからすさんが待っていたのは、これはまた、言うまでも無い事である。
了 初稿 04/06/15
ゲーム好き名無し
2008/03/19 13:39 感動した
2008-02-22 では評論とは何のためにあるのか。という事
■新海誠論・原本その1(社会学のレポート。07年7月末くらいに提出)
『新海誠作品と"距離"という概念についての論考』
新海誠の作品は基本的に"距離"という概念をテーマの中心に据えて作られている。『ほしのこえ』は授業を含めて今まで2回ほど視聴する機会があったが、そもそも『The voices of a distant star』という副題そのものが"distant"(遠い)という距離に関する単語を含んでいるし、その内容はSF要素の絡まった遠距離恋愛であり、男の子、女の子の物理的、精神的な隔絶="距離"を描いているのである。
この"距離"という概念は『彼女と彼女の猫』から最新作『秒速5センチメートル』まで一貫して描かれている物で、圧倒的な程に美麗な背景やレンズフレア、緻密な演出、天門の音楽と共に、新海誠作品における大きな特徴の一つになっている。
と同時に、この"距離"という概念はVCS(ビジュアルカルチュアルスタディーズ)にとって分析されるべき重要な課題の一つだと私は思う。実際、かの『エヴァンゲリオン』においても大きなテーマとして取り上げられており、「ヤマアラシのジレンマ」という言葉で端的に人対人の"距離"という物について語られている。新海誠の場合はエヴァとは違い「距離をどう取るのか」ではなく「距離が離れていく」男の子と女の子という点で大きく違いがあるが、一様に"距離"という物を取り扱っている点では変わらないのではなかろうか。そしてそれは多くのアニメにおいても言える事である。
さて、今回はその新海誠作品における"距離"という概念の意味を考えていきたいと思うが、その前にまずは新海誠の主立った作品とその作品に内包される"距離"そのものについて概略的に述べて行きたい。(ついでに個人的な総評に近い物も少しばかり入れさせていただくとして)
新海誠のデビュー作である『彼女と彼女の猫』は、物理的な距離こそは非常に近いものの、猫と人間の女性という決して交わる事の無い視点によって二者の距離の隔絶が描かれており、それが言いようの無い深い哀愁を誘う。ストーリー的な起伏こそ少ないが、映像の中に独特の雰囲気を造り出すという事においては、新海はこの当時からかなり才能を持っていたと言えるだろう。
(これは余談になるが新海誠は『彼女と彼女の猫』のような短編映像にも傑作が多い。授業の課題として提出するレポートに例として出すのは少し憚られるのだが、いわゆるアダルトゲームのデモムービーにおいても相当に質の高い作品を制作しており、中でもminoriの『はるのあしおと』のムービーは新海誠の諸作品の中でも白眉の出来と言っても過言では無いと個人的には思う。また、それらのデモムービーの中で使われたモチーフがそのまま長編映像に流用されている事も少なくは無い。『秒速5センチメートル』冒頭で女の子が桜吹雪の中で傘をさすシーンは、そのまま『はるのあしおと』のムービー内でクライマックスのシーンとして用いられている。今回は冗長になりかねないので割愛するが、新海誠を深く考察する上では、これらの諸々の短編映像を外す事は決してできないだろう)
さて次は既に冒頭で述べた『ほしのこえ』である。こちらは授業で観賞する事となったが、SF部分に関しては正直、ガイナックスの影響をかなり受けているなあと思いつつ、そこはあまり今回は関係無い部分なので、深く追求しない事にする。(黒地に明朝体という文字の出し方もそうであるし、演出的に間ショットを多用するのもその影響であろう。内容的には恐らく『トップを狙え!』の影響が強いと思うが)
しかし、前述した遠距離恋愛物、悲恋物としてはこれはまた素晴らしい出来だと個人的には思う。離別に際しての二人の気持ちの変化というのが鮮明に描かれていて、それが美麗な背景とともに作品全体に独特の物悲しい雰囲気を作りだしている。このアニメーション作品により新海誠が一躍脚光を浴びたというのは当然の事であろう。
『雲のむこう、約束の場所』に関しても変わりは無く、基本的スタンスとして男の子と女の子の間の物理的、精神的な"距離"という概念を強調してストーリーは展開される。ただ今度は二人の男の子と一人の女の子という半ば三角関係に近い感覚で話が展開する事となり、それぞれの物理的、精神的な"距離"もかなり複雑に絡み合う事になる。これは『彼女と彼女の猫』『ほしのこえ』には見られなかった傾向である。男の子が一人あぶれてしまう。ここは意外に大切な点だと私は思う。新海誠の男の子女の子による二人だけの閉じた世界という構図に変化が現れたからだ。
しかしその後、話はさも当然のように新海誠の得意としている男女一組の"距離"という部分に収束してしまうので、これならばわざわざ男の子二人の対立という構図にしなくてもよかったのでは無いか? と個人的には思わないでもない。だが、やはり1時間半というそれまでに無く長い尺のシナリオを書くにあたって、登場人物を複雑にしていく事は不可欠なのだろうし、ここにおける経験が確実に最新作の『秒速5センチメートル』の登場人物の出し方で生かされていると思うので、総局的に見れば良い判断だったと言えるのかもしれない。
『秒速5センチメートル』に関してはDVDが発売されていない現段階ではネタバレになる可能性があるので敢えて詳しくは述べないが、これは『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』において強かったSF色を一切排し、むしろ"距離"というテーマを強く印象付ける内容であった。私個人としては、この作品は新海誠が描く"距離"という概念のある種の到達点、的な作品と言えるのでは、と感じた。
(再び余談になるが、これらの諸作品で、男の子、女の子の別離を安易に"死"という形で描かない事についても私は新海誠に高い評価を持っている。確かに"死"という概念は確かに視聴者に最も共感と衝撃を与える事ができるが、それ故に漫画、アニメ業界に留まらず濫用される傾向がある。それが最も大衆に受け入れられたのが、ドラマ『世界の中心で愛を叫ぶ』であるわけだが、そこまで行くと少し安直過ぎやしないか? と私は思う。ただ、新海誠が多用する"距離"による別離も、それこそ歌謡曲『木綿のハンカチーフ』で歌われてる時代から頻繁に用いられているテーマではあるが……)
さて、これらの諸作品において"距離"という概念はどのような役割を与えられ、またどのように分析できるのだろうか? 多少、短いが以下の四つにまとめてみた。
まず一つ目に男の子、女の子の間にあり、その二人の別離を強制する物である。つまり物語の展開上に必要な要素として用いられている。これは当然といえば当然の話で、これが無ければそもそも物語として成立しないのだが。
(大塚英志が『キャラクター小説の作り方』で述べているように、ほぼ世の中の全ての物語は喪失からの回復を企図する、という意味では大筋のストーリーは一致する。つまり新海作品では総じて失われた"距離"を取り戻そうと男の子と女の子が葛藤するが、それは叶わない。という筋書きになってるわけだ)
二つ目、距離を造り出す事により、世界の奥行きを広げ、作品の雰囲気を新海誠独特な物へと変える。新海誠の作品には電車が頻繁にモチーフとして用いられているが、これは"距離"をつなぐ線としての役割が与えられているのではなかろうか。また『雲のむこう、約束の場所』でのヴェラシーラも、その果てしないと思われる"距離"(この作品の場合は劇中で言われる「叶えられない約束」と言い換える事ができる)を超越する存在として描かれている。
三つ目、新海誠は距離を強調する事によって、見ている人間にある種の郷愁という物を抱かせる事を期待しているのかもしれない。それは視聴者の出身地などには関係しない。例えば宮崎駿の『耳をすませば』で、主人公は自分が東京という都心で生まれ育ち、そのコンクリートに囲まれた住空間こそが自分の故郷だと考えているように、或いは、東浩紀、北田大の対談本である『東京から考える』で、都市圏で生まれ育った人間にとっては、都会的な、人工的な、テーマパーク的な空間こそが郷愁の対象になっていると雑談の中で述べられているように、郷愁という物は主観者のソーシャルリアリティに大きく影響される。しかし、物理的、精神的な距離という物は必然的に心細さ、寂寥感を伴う物であり、それが反射的に視聴者にそれぞれの持つ郷愁を、経験則に基づく郷愁を呼び起こすのではないか? と私は考える。
最後の四つ目、ポストモダン化した社会においては個人が大きな集団へと帰属できなくなり、その分、個人間の"距離"の持つ重みが増す。新海誠の諸作品で"距離"が重視されるのは、それを反映しているとも言えるのではないだろうか?
つまりここで私が言いたいのはいわゆる「セカイ系」と言われる作品の事なのだが、『ほしのこえ』『雲のむこう約束の場所』の二作品は男の子女の子の間の関係が閉鎖的、内向的であり、なおかつその恋愛感情、二人の間の距離が世界の危機、破滅という段階にまで一足飛びに影響を及ぼすという事(精神科医の斉藤環はこれをラカンの言葉を借りて、象徴界と現実界の短絡。想像界の欠如と称している)を基準とするならば、その種の作品に含まれる、とするべきであろう。そして、この「セカイ系」という特異なジャンルは、国家、宗教、思想といった「大きな物語」が社会のポストモダン化とともに崩壊する中、それを代替するべくして現れた数多の物の中の一つである。上記の二作品はその文化的潮流の影響を受けて、自ずからそのような形に収まった作品と言えるだろう。
それに対し、そのような想像界(平易に言い換えれば作品の主人公達が参加すべき一般社会の)の欠如をある意味、皮肉的に描いたとも言える最新作『秒速5センチメートル』は新海誠から「セカイ系」というジャンルに対する返答の一つの形なのではないか? と私は解釈している。
このように新海誠作品の中で"距離"という概念は実に効果的に、かつ深い意味性を持たせつつ用いられている。新海誠の作品だけでなく、現代におけるアニメーション・漫画の多くはこの"距離"という概念から見た分析というのを行う価値があると私は信じて止まない。前述したように、ポストモダン化が進み、個々の結びつきが実に多岐に渡る時代において、そのある種の代弁者たるアニメーション・漫画作品の登場人物個々の"距離"を分析する事は、VCSだけでなく社会学にとって決して無益では無いだろう。
以上で若干冗長になりましたが、課題レポートとさせていただきます。
*参考文献
東浩紀『動物化するポストモダン』
斉藤環『戦闘美少女の精神分析』
大塚英志『キャラクター小説の作り方』
東浩紀、北田大『東京から考える』
東浩紀『コンテンツの思想』(新海誠との対談)
■
以上は学校の社会学(実質オタク学だったが)の期末レポートとして提出した物である。(ちなみに卒論に転用予定。コピペ対策検索の際の証明として以下記しておく。私は近畿大学の経営学部で3年生を2回やりました。卒論のテーマは『ポストモダンとオタク産業の経済・経営史』です)
実質、このレポートを膨らませる形で卒論を形成していきたいと思っている。オタク産業史というよりもむしろ新海誠と東浩紀個人の研究になる可能性が極めて高いのだが。題名を変更した方がよろしいのだろうか?
■新海誠論・原本その2(上述の社会学レポートから省いた部分)
さてそんな中で気に掛かったのが、何故に新海誠はいくつもの作品の中で"都市と辺境"というモチーフを好んで用いるのであろうか? という事である。『ほしのこえ』においては埼玉(?)と宇宙空間、異星。『雲のむこう約束の場所』においては』青森と東京。『秒速5センチメートル』においては東京と栃木、種子島。そして、決まってそれらの作品の中で、頻繁に鉄道を出してきている事も同時に気に掛かる。
その解釈はいくつか思いつくが、これは都会的、人工的な物を懐かしいと感じてしまう現代人の錯覚を意図的に利用しているのではないか? という事である。東浩紀と北田大が対談本『東京から考える』で雑談的に述べているが、都市圏で生まれ育った人間にとっては、都会的な、人工的な、テーマパーク的な空間こそが郷愁の対象になっているという。では逆に辺境というイメージは、漠然とした寂寥感を植え付ける方向へ動くのではなかろうか? 本来は日本人は辺境における田畑や山林(これも人工的な物だが)に郷愁を感じると言われていたが、逆に現代人にとってはある種の憧れと同時に、前述の寂寥感をもたらすと思うのだ。秒速5センチメートルにおいて関東圏内の栃木ですら全くの異郷扱いされている事で分かるように、都市の現代人にとって辺境とは全くの異郷なのである。
都市は日常であるが、ふとした拍子に飛び出してしまえば、そこに郷愁が生じる。辺境というのは非日常であり、また男の子と女の子の別離の原因となる物である。この二者の温度差こそが、新海誠の圧倒的な背景描写力に裏打ちされた演出の原動力になっているのではないだろうか? これを意図的に利用する事によって、演出に温度差、緩急を付け、メリハリのある作品に仕上げているのかもしれない。
しかしながら『雲のむこう約束の場所』においては、この関係は逆転している。主人公たちは異郷へと達する事を目標としており、逆に東京のイメージは別離という概念を強調しているに過ぎない。むしろ彼らの郷愁は異郷である"塔"や彼らの関係性の象徴的存在であった"ヴェラシーラ"に対して向けられているわけである。また後述する『はるのあしおと』においても、主人公は都市より"放逐"される(或いは"逃亡"と言うべきか)という事件がその前提にあるために、日常と非日常の関係が都市と辺境とに対応するとは言い難い物がある。そのため『ほしのこえ』のみを見て"辺境における都市への郷愁こそが新海誠の本質である"と一概に論じてしまうのは危険かもしれない。
むしろこの場合"都市と辺境"という対比を"日常と非日常"という対比に置き換えてしまった方が当たり障りが少ないのかもしれない。(そもそも辺境という言葉自体がこのポストモダン化した社会の中では古い物になりつつあるので)或いは、"都市と辺境"という概念を取っ払い、単純にその主人公にとって日常的な景色に対する郷愁と、恋愛と離別に対する哀愁こそがコアなのだと論じてしまう事の方が、ロジカルな面では通りが良いようにも思える。
では、その中に頻繁に用いられる鉄道のモチーフとは一体何なのか? これは、端的に言ってしまえば"都市と辺境"を結びつける糸である。都市と辺境が郷愁という物によって心理的に結びつけられているのと同時に、鉄道は物理的にその二点を結んでいるそしてまた、鉄道は日常の象徴であり、また同時に出会いと別れの象徴でもあるように思える。。そのため、新海作品では頻繁に登場人物が鉄道を使うモチーフが使われるわけである。
さて、このような授業の課題として提出するレポートに例として出すのは少し憚られるのだが、新海誠はアダルトゲームのオープニングムービーにおいてもかなり質の高い物を作っている。むしろテーマが概略的に決まっている短編映像であるだけに、必然的に映像としての密度が高くなっており、とくに個人的にはminoriの『はるのあしおと』のOPムービーは新海誠の諸作品の中でかなり良い出来だと感じている。個人的にはそのちょうどクライマックスの、桜吹雪の中で女の子が傘をさすというシーン、このシーンは数ある新海作品の中でも白眉であると言っても過言では無い。(全くの余談になりますが、私はこのトレーラームービーがとらのあな店頭でデモで流れているのを30分ほど呆然自失で眺めていた事があります)minoriのその次の作品である『ef』のムービーもかなり良い出来で、『都市と辺境』というモチーフは出てこないのでここでは詳しくは取り上げないが、新海誠独特の色使い(とくに夕方から夜にかけての空の色は圧巻の一言に尽きる)と緻密な映像演出で視聴者を魅了して止まないのである。
この『はるのあしおと』のオープニングにおいても、都市と辺境を対比的に用い、その二者は結ぶ線として、またしても鉄道のモチーフを用いている。これに関しては前述した、都市における電車は日常の象徴であり、辺境における電車は出会いと別れの象徴である、という分析を裏付けているように感じる。また、途中でヒロインの1人が空に描かれた線路の上を走っているシーンがあり、これもまた興味深いモチーフと言えるだろう。
■距離という概念に対する憧憬
さて、私が先々週辺りから執事を勤めさせていただいております19姉妹の住まう豪邸には麗さんというお嬢さんがいらっしゃる。彼女は鉄オタである。そして私も(初歩的ながらも)鉄オタを自称していた。しかしながらどうにも話がかみ合わないのである。そこで私は上述の論述を読み直していてはたと気が付いたわけなのだが、私は鉄道が好きなのではなく、鉄道によって繋がれる距離に対して憧れを持っているのではないか? という事である。これでは電車そのものを愛し、通勤電車を乗り回す事に情熱を傾ける麗嬢と話がかみ合うはずがない。彼女(いや大多数の鉄道オタク)の目は車両に向かっているが、私の目はその鉄路が繋ぐ距離に向けられている。だからこそ自身は特急(とくに寝台特急)や貨物列車を愛して止まないのである。どうか麗嬢が車両という限られた範囲だけでなく、鉄道という物の持つ概念そのものに興味を持ってくれる事を私は願って止まない。(ちなみに私は残念ながら乗り鉄は苦手です。そもそも外に出ると体力を消耗する体質なのでw その点で横になってリラックスして休める寝台特急の大幅な廃止はやはり嘆きを以ってして迎えねばならない事態である)
2008-02-11 怠惰鋏、19人姉妹の軍門に下る、の事
■躁と鬱の間には
ここ1ヶ月ほど長い鬱が続いている。とかく無気力で怠惰である。怠惰なる鋏の話。
■はーまじぇすてぃっく
そんなある日、阪急梅田駅で鬱と貧血で突如として意識を失い、気がつけば長女・海晴嬢の膝の上。そして、いつのまにやら成り行きで19人姉妹の執事として働くことに。怠惰鋏です。イエス・マム。全て準備は出来ております。仰せの通りに。トゥルー家族? いえ私は下賎な身でございます。お気持ちだけ頂戴いたしますです。
■海軍と19姉妹の関係性
長女が海晴。末子があさひ。「天気晴朗ナレドモ」の故事と旭日旗が思い浮かぶ。以下17姉妹、気象天象の名前が続くので駆逐艦に該当艦名多し。けれどもそれはある意味当然である。長女がお天気お姉さんという事ならば、気象関係でまとめてきたのかな? という印象を与える事は容易である。しかしながら、何故に長女の名前が「海が晴れる」という海事と関連付ける物なのだろうか? ミスリーディングを誘うため? いやはや?
2008-01-21 勇気と蛮勇、狂気の事
■19人の姉妹
19人の姉妹というのは勇気なのか蛮勇なのか?
私は恐らくは蛮勇であると思う。というわけで巷で噂の「Baby Princess」です。
恐らくこの設定を考え出した人間は向精神薬を服用していたのではなかろうか?
もしそうならば蛮勇ですらなくただの狂気であるが……。
だがその狂気を敢えて世に出す勇気は認めざるを得ない。
■さて件のBaby Princessだが
ツマンネル氏が一人一人講評を書いてらっしゃったので私も二番を煎じようと思う。その前提として少し述しておきたいのだが私は基本的に電撃G’s Magazine系の企画に関してはシスプリしか関知していない。そのシスプリに至ってもまさきみどり先生のシステリック深海から得た情報を基本にしているという偏りぶりである。そういうわけなので私は電撃G’s Magazineのコンテクストという物をあまり深く理解はしていない。その事をご承知の上で以下講評をお読みいただけると幸いであります。
・長女 海晴
私のストライクゾーンは広い。年上だからといって何がどうという事は一切無い。またどうやらプロフィールを読む限りは一家の家長的役割を担っているようだ。となるとさしずめ私の役割は執事(バトラー)といったところか。イエスマム、何でもおっしゃってください。出来うる限りご希望に応えましょう(こういう副官的仕事ってけっこう嫌いではない)しかしながらお天気キャスター見習い? 気象大学校は気象庁直結だからちょっとニュアンスが違うし、といって大学を出て報道機関に勤めているようには見えない。この部分に関しては疑問符。
・次女 霙
ふむ。個人的には今のトコの一押しではあるかな。(長門さんに似てるので)もちろんしばらくは様子見ですが。しかし宇宙の塵ねえ。単純に聞くと少しださいフレーズだが「神の目の小さな塵」あたりのSFから引用してきたとすればまた別だ。(ただSFが好きそうには見えないが)占筮が趣味か。終末論者が占い好きというのはどうにも解せない。未来を垣間見る事が出来る人間が終末論に流れるという系譜はあまり考えにくいんだよねえ実際。恐らく安易にノストラダムス辺りのオカルト系のイメージをひっぱってきたか? まぁとりあえず様子見という事で。
・3女 春風
王子様。幸せなお嫁さんねえ。まぁ夢見がちな年頃ですからねえ。長女と同じく年齢が明記されてないのが気になるが。リボンが大好きというのは性的な意味で? ソフトSMは私も好物でありますよ。まぁ恐らくはメインヒロイン想定なんでしょうね姉妹の生まれ順や年齢、性格的に。つまるところ無難であるなあ、と。
・4女 ヒカル
ロングでボーイッシュというのはなかなか革新的ではあるわな。しかしボクシングというのはまたなかなか穏やかじゃないね。前述のシステリック深海じゃないんだから。私なんか下手するとボッコボコにされそうな悪寒が。なにせ最近の私は頼りにしていた動体視力にまでも裏切られる始末だし。これはあれだな、自分も何か格闘技を習う流れだな。銃剣道とかどうだろうか、塹壕戦で役に立ちそうだし。
・5女 蛍
レイヤーか。こいつぁヘビーだね。イベントに行くのは構わないが私はここ最近の傍若無人なカメコ(秋葉原に出現するような盗撮連中)が嫌いでね。そういう連中の晒し物にするというのはいかんせん気が進まない。会場での平和維持権行使の許可を要請す。まぁコミケットならば案内できますよ。お勧めのコスとしてはちょっと古いが友枝小の制服とかいかがですか?
・6女 氷柱
いやあ、これは辛いな。下等遊民である私が苦手とするタイプだ。彼女の存在は公権を彷彿とさせる。或いは日米安保。奴隷人生を考えさせる。しかし彼女は遊民を飼いならす事がいかほどに難しいのかという事を思い知る事になるであろうな。それでよいのでしたら喜んで僕となりましょう、フロイライン。はてさて。
・7女 立夏
ボンジョールノお嬢さん。小学六年生という事は明らかに生理が来てると思われるので結婚するという事がどういう事なのかはご存知ですよね? 私はそこらへんはけっこう容赦はしないですよ。とくにラテン娘は情熱的だという迷信があるので私はそれを確かめてみたいのだ。妊婦も好きだしね。では、ま、アリーデヴェルチ。
・8女 小雨
友達が人形だけか。本当に? それはちょっと情けない話だな。いや、何も言うまい。人は死ぬときは所詮一人なのだ。まぁ地味めの外見の子は私は好きですよ。けっこう。チェック柄のスカートも私は好きですし。しかし本人が言うまでもも無くやたらと地味だな。
・9女 麗
さて来ましたこの企画至上最大の問題児。鉄オタかあ。私も大概鉄分は取ってるんですが、彼女とは全く逆のベクトルである長距離列車(とくにブルートレインないし貨物列車)メインなんですよね。通勤系、近郊系はさっぱりと言っても過言ではない。これはこちらの攻性防壁で逆洗脳しても良いですかね? とりあえずは手始めに「浪漫鉄道」でも聞かせておくか。(http://www.nicovideo.jp/watch/sm7618)鉄道とは単なる移動手段では無い。ましてや単なる通勤手段でも無い。それは此処ではない何処かへと繋がる浪漫そのものなのである。
・10女 星花
篭城戦? ボクのウルバンも暴発しそうです(お前のはセーカー砲、良くてカルバリン砲だろうという突っ込みが怖い)三国志自体はあんまり良く知らないんだけどもね(光栄ゲーではいつも曹操でプレイするので。どうにも蜀はあまり好みじゃない)古代史と近・現代史を比較するというのは言語道断なのだが、篭城と聞くとマジノ線を思い出してしまっていかんね。不落の城なんて物はありゃあせんのです。いやもちろん非常手段としての篭城は選択肢として残しておくべきだが、それは出来うる限り避けるべきだと思う。少なくともそれを第一の選択肢に上げるのは上策では無い。
・11女 夕凪
あー。魔法使いなんですか。「デリケートに好きして」みたいな話っすね。恋愛と宿題に魔法を使うのですか。それは禁忌ではないのですか? おジャ魔女でそんなエピソードがあったような気が(宿題はどうか知らないが人の心を操るのは禁忌のはず)まぁ無論の事、魔法というのは比喩表現だと思うんですがね。
・12女 吹雪
次女に続いて長門さん型。確実に次女の影響を受けて育ってる。サヴァン気味の小学1年生か。私は数字の扱いが苦手なのではてさてどうした物かな。なにせセンター試験の数?Bで8点という快挙的点数をたたき出した男なので。実質的に数学知識はこの子に負ける気がする。
・13女 綿雪
病弱っ娘か。この歳で病弱だとあまり先行きは芳しくないように思われる。佐藤ケイの「LASTKISS」を思い出すねえ。まず名前からして縁起が悪い。綿雪はすぐに溶けて消えてしまう。儚さという点ではキャラ造形は成功しているのだが、しかしながらどう扱ったら良い物やら。なんといいますか美坂香里嬢の気持ちがよくわかる一例ですな。
・14女 真璃
ベルバラですか。個人的には栄光のナポレオンの方が好みなのだけども。まぁとりあえず博打や男遊びにはまらないように監視する必要はありそうですな。或いは12女辺りに確率と統計論をみっちりと教え込んで貰うか。あとギロチンという処刑方法について(とくにフランスではそれがつい近年まで行われていたという事を)事細かに教えて怖がらせたいものだ。薔薇は美しく散るのですよ。
・15女 観月
霊夢? いや巫女服の女の子を見ると全部霊夢に見える病気を患っておりまして。しかしこの子もオカルト寄りなのか。なんかオカルト比率高くないですか? この企画? ああ家系ですか。なるほどね。しかし守護霊ですか。いやこれは狐憑きといった方が適切では? まぁ根本的には私は霊感に関しては否定的だが、どうもこの子の守護霊が見えるという設定らしい。いやはや。
・16女 さくら
ほほう。私の守護聖人の名前が付いている、これは縁起が良い&私と相性がよさそうだ。頭に被ってるのはZUN帽?(東方厨の悪い癖だ)ここらへんくらいまでが私のストライクゾーン(年齢)のぎりぎりだけども。外角低めのストレートって感じですねえ。審判によってはボール判定出るでしょう。お風呂ですか。私でよろしければお供しますが。
・17女 虹子
いやはや。2歳だそうですよ。これは攻略キャラにはならないでしょ? さすがにビーンボールと言わざるを得ない。しかしまたこの子もお嫁さんとか言ってるし。さすがに幼児を孕ませるのは生命倫理的にやばいでしょう? いや穿った見方をしすぎたな。生理の来てない子供の言う戯言だ、本気に受け取ったらいかんだろうさすがに。あと2歳児にしてはえらく語彙が多い気がするのだけども。
・18女 青空
1歳ですか。ここまで来るとワイルドピッチの域に達してるな。男根に憧憬を持っている的言動が見られるが、まあこれはこの歳の子供では仕方が無い事ではあるか。ちなみに1歳でここまで語彙があれば普通に天才児レベルだと思うのですがいかがでしょうか? 少なくても私は1歳の頃にこんなに語彙があったとは考えにくいし、何よりも一人で外に遊びに行くなんてことは考えた事もなかったはずだ。
・19女 あさひ
審判に直球ストレート投げて退場食らうようなもんですね。いやはや困ったねえ。どう講評したらよい物か。いやもうこの際ノーコメントでいいか。私はもう疲れた。
■改めて見ると
やはり凄まじく狂った企画だと言わざるを得ない。とくに16女より下。それと、なんといいますか無難か色物しか居ないという印象が。と同時に良くも悪くも東浩紀のデータベース消費理論を忠実にトレースした企画だなあという印象を受ける。我々は物語を消費しているのではなく、その背景にあるデータベースを消費しているのだ、と(ある意味、大塚英志の「物語消費論」へのリプライなんだろうけども)まずデータベースがあり、そこへ断片的なヒントが与えられる。そして消費者がそれを解釈して消費する。と、まぁこういう仕組みになってるわけで。そういう意味で見ると東方と状況が似ていると言っても良い。下手をすると界隈の人口を奪われる危険性すらある。(良くも悪くも)それを考えるとこの企画はパンドラの箱と言っても過言では無いかもしれない。