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'08.03.19 (水)

教皇パウロ六世 「替え玉」 説 (4)

 

ある方から、
"彼方よりの警告"... このようなものを載せると誤解されますよ
というご指摘を頂きました。
その方は私を非難しているのではなく、心配して下さっているのです。でも、私は正直、「またか... 」 と思いました... f( - - ;)
ああしかし、その方のお心には素直に感謝します。おっしゃっておられることはよく分かります。ありがとうございます。あなたにも、そしてあなたのご指摘に 「またか... 」 とつい思ってしまう私にも、基本的に悪意はありません。ですから、お願いですから、どうか悪く思わないで下さい。しかし同時に、私は言わねばなりません。言いたいのです。

私は時々 "アブナイ情報" を掲示します。以前も一度 "教皇位空位論者" からの情報を載せて、「しかしその情報の引用元は教皇位空位論者のサイトですよ」 と指摘されたことがあります。
でも、このようなことに関して私の考えは、その時も、そして今も、同じです。それは 昨年の11月21日今月の7日 に書いたようなことです。
つまり、私達は 「情報それ自体」 というものを見ることができる、と思うのです。もちろん十分に慎重にしなればなりませんが、それでも私達は、共産主義者達からの情報自体、教皇位空位論者達からの情報自体、LP教団からの情報自体、鬼塚五十一氏からの情報自体、あるいはオカルト研究家からの情報自体を、確かに検討できるのです (え? これがそんなに恐ろしいことですか?)。偏見、恐れ (臆病) を排除しつつ、検討できます。慎重さと偏見・恐れのなさが、両方なければなりません

この 「恐れ」 ということに関して言えば、私はこう考えています。
ある事柄がかなり濃い疑惑の影を宿している場合 (私は今回の写真類がそれに当たると思います)、私達は決して 「それはまだ "可能性" の段階です」 とか言って、それだけで立ち去ってはならない、そしてもし疑惑の色が事実濃いなら、調べなさい、と。

あくまでそうです。私達は探偵でも何でもないけれど、しかし信仰を護らなければならない立場にあるので、濃い疑惑に関してはもう少し積極的な関心を持つべきだと思います。私達が 「恐れ」 を持たなければならない時があるとしたら、それは一つは、そのような濃い疑惑を 「ただ放置する」、あるいは 「ただその前を通り過ぎる」 ことに関してだと思います。

もちろん今回の場合、「調べる」 ことをもって全てが客観的な形で証明されることは、どうもありそうにありません。私もその写真が本当のパウロ六世教皇様であるかどうか、バチカン電話局に 「調べて下さい」 と手紙を出すことは、今回するつもりはありません。
何故なら、それによってたとえバチカン電話局が晴天の霹靂のごとくそれがパウロ六世 「ではない」 ことに気づいたとしても、その後の処理においておそらく "逃げ" が出るだろうからです。人間の心理というものはそれほどに 「安全」 「安定」 に関して防衛的に働くものです。しかしそれでも、私達の一人一人の心においては、もう少し積極的に-----皆さんにおいてもそのような防衛的な心理がほとんど本能的に働くだろうから、申し上げています-----その疑惑を確かめようとした方が良い。私はそう思います。人間の心理の防衛的な働きについては、とても、「要注意」 です。

何故なら、もしその写真類が暗示しているように、あるいは教会の正式なエクソシズムの場で聖母の権威をもって語ることを強いられた*悪魔達がはっきりと言っているように、「パウロ六世教皇は偽物 (替え玉、詐称者) の教皇と置き換えられた」 ということが本当なのだとしたら、それはこれ以上ないほどの重大なこと、天主への完全な犯罪、ほとんど殺人者による犯罪ですし、またこれは決して 「過去」 のこと、「それはもう過ぎました。そして今は少なくともそれよりはマシな状態にあります。ああ、良かったね」 などと言って済ますべきことなどではなく、私達の現在の教会にも必ず大きな影を落としているだろうところのもの、その濁水がこの時代の教会にも必ず流れ込んでいるだろうところのものであるからです。

( * 「強いられる」 ことが全くないとしたら、霊の世界における天主の権威、聖母の権威、そして教会の権威とはいったい何なのでしょうか? また、カトリック教会のエクソシズムの伝統とその力とはいったい何なのでしょうか?)

だから、少なくとももう少し、あなたの個人的な心の中で、その疑惑について 「特定」 し、「同定」 して (素人の言葉使いです) 欲しいのです。少なくとももう少し、引き続き目を注ぎ続けて欲しいのです。
だって、あなた。あなたは実際、バチカン電話局のあのテレカの写真をどう解釈するのですか? あれが教皇パウロ六世だというのですか? そうなのですか? 違うのですか?
もう少しあなた自身の中で 「特定」 「同定」 して下さい。少なくともその試みをして下さい。

そして、もし 「それは確かに教皇パウロ六世ではないだろう」 というのならば、次にはどのようなことが考えられるでしょうか? バチカンが他の枢機卿か誰かの写真を教皇様のものだと 「単なるその場その時だけの勘違い」 をして、テレフォン・カードにしてしまったと? しかし、どうやったらそのような勘違いが起こり得るだろう。その顔はわれらが 「教皇様」 のお顔であるのに。
教皇様の写真のテレフォン・カードを作る時に、バチカンはどんなカメラマンに委託するのでしょうか? 誰かテキト〜な人に、すこぶるテキト〜に頼むのでしょうか? それとも 「お抱えのカメラマン」 がいるものでしょうか? あるいは懇意にしている報道陣がたまたま撮った写真を 「良いから」 というので採用したのでしょうか?
しかしまた誰がどのように撮ったにせよ、とにかくバチカンは提出されたその写真を 「然り。教皇様だ」 と思ったわけでしょうか? あの写真を? 「単なるその場その時だけの勘違い」 で? つまり、もしその当時教皇様に親しい人が見たら、「何やってるの。これは教皇様ではないよ。○○枢機卿じゃないか(笑)」 というほどのことだったのでしょうか? しかしもし仮にそうだったとしても、バチカンは今に至るまで (何十年経ってます?)、その 「単なるその場その時だけの勘違い」 を続けているわけですか?
私には、ちょっと 「考えられない」 ことのように思えます。
どなたか説明 (類推) をして下さい

とにかく、私は思います。
"カトリック教徒よ。いい加減、その臆病さはやめなさい。その臆病さで、その慎重さで、その良心で、今迄どれほど悪魔達が助かっていることでしょうか?"

そして私は、私のこのサイトの 「評判」 を気にしません。私は最初から-----本当はあなたも最初から----- 「玉石混淆」 そのもの の世界に生きています。極度に必要とされているのは、「見分ける」 ということです。少なくともそれを 「試みる」 ことです。
ですから、あんまり安直な偏見をもってこの種の情報を敬遠する人達のことは、私の視界の中にはありません(傲慢気味な言い方だけれども)。私はこのサイトの一番右下の隅に 「Qui habet aures audiendi audiat」 と書きました。私はラテン語は少しもわかりません。しかしこの言葉はマタイ11章15節などにある 「聞く耳のある者は聞きなさい」 という意味です。この言葉を私が誰かに直接言うなら、私は少なくとも傲慢気味であるでしょう(確かにその危険は実際あります... )。しかしこれは本来天主様が私達全てに向かって、私達の霊魂ひとつひとつに向かって、おおせられていることです。私達一人一人は本来的にそのような "厳しい" とも言える立場に置かれています。これは事実であり、そしてまた決して大袈裟な話ではありません。

私は先月2日の日記でこう書きました。
「たとえば旧約の時代では人々はいわゆる預言者に関して教会からの保証書などを受け取ることはできなかったのです。第一、主イエズスの時がそうでした。人は自分の僅かな知識と心の目をもってイエズスがメシアであるかどうかを見分けなければならない状況に置かれたのです。そして主はこう言われるだけでした、『心の鈍い者たち(民は心が鈍くなり)』、あるいは『聞く耳のある者は聞くがよい』。そこにはそれ以上のものはありませんでした。」
自画自賛になりますが、私は 「本当にその通りだ」 と思います... (・・;ゞ
私達は、限度はあるとしても、もう少しは 「宗教の原初的なところ」 に帰らなければならないのではないでしょうか。そこには論理や字面を越えたものがあります。私達はそれを忘れるわけにはいきません。すなわち、主の次のようなお言葉 (呼びかけ) があります。

「聞く耳のある者は聞きなさい。」 マタイ11:15

「この民の心は鈍くなり」 マタイ 13:15

「天地の主である父、あなたはこれらのことを知恵のある人や賢い人には隠し、小さい者に現わしてくださいました。」 マタイ11:25

あなたはこれらの主のお言葉を、その "リアリティー" を、ご自分の心の中でどのように持っていらっしゃいますか?

本の中に頭を埋めているだけで、あるいは市民的な安全感覚の中で息をしているだけで、真実を捕捉することができるのならば、ある意味これほど楽なことはないのですが...

大聖グレゴリオ教皇様が 「真理を裏切るより躓きが生じるのを許した方が良い」 とおっしゃったとあるように、教会にとって最も大事なものは 「安寧」 ではありません(もちろん 「危険」 でもありませんが)。真理に到達するために、その手前の段階である真実 (事実) の認識においてさえ及び腰になっていたのでは、私達にいったい何ができるというのでしょうか。


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