無罪への第1ラウンドは完敗に終わった。元プロボクサー、袴田巌死刑囚(72)の再審請求を退けた最高裁決定。同じボクサーとして世界王者もリングから支援を訴え、死刑判決を書いた元裁判官が自ら「無罪の心証」を公表するなど支援活動は異例の広がりを見せたが、司法には届かなかった。弁護団は25日の会見で第2次請求の方針を表明、闘いは第2ラウンドに向かう。
「弟はこんなに長く頑張っているのに……」。静岡市内で弁護団と共に会見した袴田死刑囚の姉秀子さん(75)は憤りをあらわにした。「元気で頑張れ、としか声をかけることができないが、どうか一日でも生き永らえてほしい」と話した。
弁護団の小川秀世事務局長は第2次請求について「袴田さんは高齢なので準備を急ぎたい」。日本弁護士連合会も平山正剛会長名で「極めて遺憾な決定。死刑判決の誤りを正すため支援を続ける」との声明を出した。
1月に内藤大助選手ら現・元世界王者と共に、東京都内で支援イベントを開いた東日本ボクシング協会再審支援委員会の新田渉世・実行委員長は「正直がっくり。今後も支援を続ける」と巻き返しを誓った。
静岡地裁裁判官として確定した死刑判決を書いた熊本典道さん(70)はテレビで決定を知り「本当によく検討したのか」と絶句。「無罪と考えていたが2対1で負けた」と評議の秘密さえ明かして判決の「誤り」を説いている。その最中に判決に誤りはないとした最高裁決定に「無罪から死刑に判決を書き換えた際に私がうまく書きすぎたのか。心中苦しい」と漏らした。
逮捕から42年、死刑確定から28年。東京拘置所の袴田死刑囚は精神的に不安定な状態が続き、最高裁の決定文が届いた25日は弁護団の面会も拒んだ。07年は比較的面会に応じたが、秀子さんらと会話が成り立たないことも。糖尿病も患っており、支援者は健康上の理由で一時釈放を求めている。【浜中慎哉、望月和美、高倉友彰】
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■解説
袴田事件の再審請求に対する最高裁決定は、弁護団の主張に丁寧に耳を傾けつつも、再審の開始は認めなかった。弁護団と最高裁の最大の相違点は、確定判決での「自白」の位置付けだ。
袴田巌死刑囚は「自白を強要された」と無罪を訴え、弁護団も逃走経路とされた裏木戸の再現実験までして「自白通りの逃走は不可能」などと主張した。主要な証拠の自白が覆れば、無罪判決につながるという発想だ。
これに対し最高裁は、再審開始の条件を緩和した75年の白鳥決定に従い、弁護団が提出した自白調書の分析結果など新証拠と、確定判決の根拠になった旧証拠を総合的に検討した。だが、確定判決は自白を主柱にしていないと指摘して、弁護団の主張を退けた。自白の「重み」を巡るすれ違いが、棄却決定の根底にうかがえる。
確定した1審判決自身は「自白獲得にきゅうきゅうとして物的証拠に関する捜査を怠った」と捜査手法を批判し、45通の自白調書のうち1通しか証拠採用していない。事件を振り返れば、自白偏重の捜査が判決への疑問を生んだ。
1審判決を書いた元裁判官が「無罪心証だったが合議で負けた」と告白し、注目を集めた中での最高裁決定。客観証拠をいかに集めるか、自白をどこまで重視して判決するか、死刑判決は全員一致であるべきか、といった点が改めてクローズアップされた。いずれも裁判員制度でも対応を迫られる課題だ。【高倉友彰】
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66年 6月 みそ製造会社専務宅が全焼し、焼け跡から一家4人の遺体発見
8月 住み込み従業員だった袴田巌容疑者を強盗殺人容疑などで逮捕
9月 袴田容疑者が県警の調べに対し「自供」。静岡地検が起訴
11月 静岡地裁の初公判で、袴田被告が「自白は強要された」と否認
67年 8月 工場のみそタンクから血まみれの着衣5点を発見
68年 9月 1審・静岡地裁が死刑判決
76年 5月 2審・東京高裁も死刑を支持し、控訴棄却の判決
80年11月 最高裁が上告棄却の判決、死刑が確定
81年 4月 弁護団が静岡地裁に再審請求
94年 8月 地裁が再審請求を棄却する決定
04年 8月 高裁が弁護側の即時抗告を棄却する決定
9月 弁護団が最高裁に特別抗告
07年 3月 1審の裁判官だった熊本典道氏が「無罪の心証だった」と公表
08年 3月 弁護団が最終意見書を提出。最高裁が抗告棄却の決定
毎日新聞 2008年3月26日 東京朝刊