(cache) 済南事件 日本側の被害状況

                     

 

済南事件 日本側の被害状況

  

 1928年(昭和3年)の「済南事件」における日本側の被害状況の当時の記録を掲げます。

 なお、本稿「済南事件」に書いた通り、日本側の被害のみを取り上げることは、事件の経緯や背景を無視した、歴史的視点を欠いた一面的な見方である、と私は考えています。また、中国側の被害を無視することにも問題があるでしょう。 

参謀本部編 『昭和三年支那事変出兵史』より
 

 在済南約二千の居留民は多くは商埠地内に居住し(商埠地外に居住するもの約百を算す)其大部は自発的に守備地区内に避難しありしか五月三日朝其一部は状況を楽観して帰宅せり (商埠地外居留邦人の大部は特種営業者にして最初より避難するを欲せす 自家に留りありしもの少からさりしこと後に至りて判明せり) 

 然るに事件は此際に勃発し商埠地及隣接街区(城内を除く)悉く混乱の巷と化するや我守備線の外の居留民は忽ちにして南軍及窮民の掠奪竝暴行を受くるところなり

 其大部は之を避けつつ自ら守備線内に避難せしか機を失したるものは我軍に救援せらるるまて長時間彼等暴虐の手に委せらるるの已むなきに至れり

(P227〜P228)

 

 此戦闘間東西両地区警備隊は守備線の外に離散しありし我居住民約二百八十を弾雨を冒して収容せしか館駅街方面に在りし居留民十二(男十女二)は三日正午暴虐なる南軍の手に惨殺せられたるか如く其後五月五日膠済済南駅東方鉄道線路附近に隠匿埋没しありし死体九を、六日津浦駅附近に於て死体一を発見せり 男二の死体は遂に発見せられす

 其他南軍の爆弾に依り負傷入院後死亡せしもの男二、暴行侮辱を加へられたるもの三十余、婦女にして陵辱せられたるもの二、掠奪被害戸数百三十六、被害人員約四百、其中生活の根柢を覆されたるもの約二百八十、被害見積額三十五万九千円に達せり

 事件発生の動機を察するに南軍高級司令部の計画的暴挙にあらさることは南軍が其北伐完成に急なりし事情及総司令官其他高級将校の言動に徴するも明にして寧ろ当時次の如き状態に在りし南軍一般の空気が此暴挙を敢てせしめしものと判断せらる

(以下略)

(P276)


小川雄三『済南事件を中心として』より
 

 四、邦人虐殺死体の発見

 決死救助隊の勇敢なる活動によつて、普利門方面の危険区域に、死を待つばかりの状態であった邦人二十六名は、辛くも救出するを得たが、同じく危険区域と見らるる舘駅街、鉄道北等の消息は、頓んと分らない、

 各避難所を調へて見ると、三日朝まで顔を見せた連中で、行方不明のものも段々ある事が分つて来た、呪はしい噂は次ぎから次へ風の如く伝はつて来た、四日も引続き強行捜索ば行はれたが、殆んど何の手掛りもない、

 五日になると捜索隊は、津浦線ガードの東北の畑地に、新らしく盛られた土饅頭の、何となく恠しげなのを発見した、早速掘り返して見ると、果せる哉、鮮血生々しい邦人の虐殺死体が現はれた、宮本直八、藤井小次郎、高熊うめ三名の死体である、

 高熊うめ女は裸体にせられ、咽喉を突き刺され、全身黒焦げの二た目と見られぬ死にざまである、藤井と宮本の両人も、腹部其他を滅多斬りに斬りさいなまれ膾の様な残酷な死を遂げて居る、

 少し隔てた膠済線亜細亜タンク附近の畑地からは、多比良真市、井上国太郎、東條弥太郎、同妻キヌ、中里十太郎、山下孫右衛門等六名の死体が発見されたが、東條キヌ女の如きは、裸体の上両耳を斬り殺がれ、陰部には九寸余りの木片を突き刺してある、多比良真市は頭部と腹部に幾個所かの刀傷を負ひ、其他の四名も顔面から腹部にかけての重軽傷から、腕脚其他満足な部分のない程、無数な刀剣又は打撲傷を受けて居る、

 何れも三日午後から四日午前までに演ぜられた兇行らしく見受けられる、死体は済南医院に運び、我軍隊、警察側と支那側の立会の上検死を遂げたが、済南医院の検視の結果は左の如くである。

(以下、死体の状況の記述が延々と続きますが、略します)

(P85〜P86)

 

(2005.1.23記)


 
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