小川雄三『済南事件を中心として』より
四、邦人虐殺死体の発見
決死救助隊の勇敢なる活動によつて、普利門方面の危険区域に、死を待つばかりの状態であった邦人二十六名は、辛くも救出するを得たが、同じく危険区域と見らるる舘駅街、鉄道北等の消息は、頓んと分らない、
各避難所を調へて見ると、三日朝まで顔を見せた連中で、行方不明のものも段々ある事が分つて来た、呪はしい噂は次ぎから次へ風の如く伝はつて来た、四日も引続き強行捜索ば行はれたが、殆んど何の手掛りもない、
五日になると捜索隊は、津浦線ガードの東北の畑地に、新らしく盛られた土饅頭の、何となく恠しげなのを発見した、早速掘り返して見ると、果せる哉、鮮血生々しい邦人の虐殺死体が現はれた、宮本直八、藤井小次郎、高熊うめ三名の死体である、
高熊うめ女は裸体にせられ、咽喉を突き刺され、全身黒焦げの二た目と見られぬ死にざまである、藤井と宮本の両人も、腹部其他を滅多斬りに斬りさいなまれ、膾の様な残酷な死を遂げて居る、
少し隔てた膠済線亜細亜タンク附近の畑地からは、多比良真市、井上国太郎、東條弥太郎、同妻キヌ、中里十太郎、山下孫右衛門等六名の死体が発見されたが、東條キヌ女の如きは、裸体の上両耳を斬り殺がれ、陰部には九寸余りの木片を突き刺してある、多比良真市は頭部と腹部に幾個所かの刀傷を負ひ、其他の四名も顔面から腹部にかけての重軽傷から、腕脚其他満足な部分のない程、無数な刀剣又は打撲傷を受けて居る、
何れも三日午後から四日午前までに演ぜられた兇行らしく見受けられる、死体は済南医院に運び、我軍隊、警察側と支那側の立会の上検死を遂げたが、済南医院の検視の結果は左の如くである。
(以下、死体の状況の記述が延々と続きますが、略します)
(P85〜P86) |