スカラベ人名辞典
〔あ行〕
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阿井 景子 あい・けいこ
1932(昭和7)年、長崎市の生まれ。
小説家。佐賀大学教育学部卒。上京し、出版社勤務をへて著作活動に入る。〈著書〉『信長の叔母』『龍馬の妻』『築山殿無残』『龍馬のもう一人の妻』『おもかげ―松本清張 北大路魯山人(文藝春秋、平7・2)
愛甲 勝矢 あいこう・かつや
1905(明治38)年3月11日、鹿児島県薩摩郡高城村麓(現・薩摩川内市)に生まれた。川内中学・第七高等学校造士館を経て九州帝国大学法文学部在学中、読書会に加わり、学連に参加、1925〜26年軍事教育反対、福岡連隊差別事件糾弾、京大学生事件批判などで演説会を開いたため、楠元芳武、日高正夫、原登らとともに退学処分を受けた。のち八幡にあった全日本無産青年同盟福岡支部書記となり、26年11月検束。翌12月日農の事務に携わったが、すぐ上京して広島定吉のもとに身を寄せ、27年2月評議会関東地方評議会書記となり、同年6月労働農民党東京府支部常任書記を経て、7月同党福岡県支部連合会書記長となった(鶴和夫、藤井哲夫につぐ3代目)。同年8月、藤井哲夫のすすめで日本共産党に入党、福岡細胞長に就く。28年2月の衆議院総選挙で福岡4区から立候補した徳田球一の選挙委員会のメンバーになり、労農党フラクションとして応援した。3・15事件で検挙され、第1審で懲役6年、2審で懲役4年を科され、鹿児島刑務所で服役。34年出獄後、満洲に渡り、「満洲国」実業部臨時産業調査局に入り、満洲農村実態調査などに従事し、39年にはドイツのドレスデンで開かれた第18回万国農業会議に「満洲国」代表として出席した。また43年には満洲国治安維持法事件で取調べを受けた。敗戦後46年帰国、農林省農業綜合研究所計画部長を経て61年以降、九州工業大学・鹿児島大学・鹿児島経済大学教授を歴任、74年から南日本短期大学学長となった。〈著書〉『満洲における小作関係』1938、ほか。〈参考〉『日本社会運動人名辞典』(青木書店、1979.3)『近代日本社会運動史人物大事典』(日外アソシエーツ、1997.1)
【坂口 博】

相星 雅子 あいぼし・まさこ
1937(昭和12)年、大連の生まれ。小説家。1946年、鹿児島に引き揚げ、36歳で「原色派」同人。鹿児島市在住。
〈著書〉『みなみのポプラ』(三笠出版、1989.5)
青木勇 あおき・いさむ
1904(明治37)年生まれ。詩人。旧制八女中学中退。福岡県久留米市日吉町明治通の酒問屋の長男であった。長く療養生活を送り、晩年はカトリック(隠れキリシタン)の里として知られる福岡県三井郡大刀洗町今村に住む。1990(平成2)年頃、死去。野田宇太郎によると、「ヨーロッパ文学なども当時としてはひろく読んでいた理論家で、シュール・レアリズムがかった詩を時々発表」(「ふるさと随筆・あの町この道」)していた。丸山豊は「『街路樹』に参加し、前衛的詩人青木勇を知る」(「自筆年譜」)と伝える。多少奇矯なふるまいをすることもあったようだが、文学青年の仲間からは尊敬されていて、久留米の文芸誌「街路樹」(昭5・6〜6・5、全11冊)の詩部門のリーダーであった。丸山と「日時計」(昭6)「流域」(昭8)と同人誌を出す。1934(昭和9)年、丸山豊・俣野衛・原田春海・野田宇太郎とともに「ボアイエル(母音)のクラブ」を結成する。日本語の5母音にちなんだもの。5名のなかでは、いちばんの年長であった。詩集に『酩酊』(私刊、1934・10、限定30部)、『どくじや』(私刊、昭11・9、限定50部)の2冊がある。牛島春子に「『街路樹』の頃と勇さんと」(『丸山豊と「母音」の詩人たちT』野田宇太郎文学資料館ブックレット4、1995・3)の回想文がある。【坂口 博】
 
「まあ お口の美味いこと/独りぽつちだなんて」(「接吻」)
 「誰に抱かれて 眠つてるの」(「抱擁」) 
以上2篇『どくじや』より
青木 健作 あおき・けんさく
1883(明治16)年11月27日、山口県新南陽市河内町の生まれ。小説家(帝国文学系)・俳人。1964年12月16日没。国文学者・井本農一の父。
〈著書〉『青木健作短篇集』(昭3)句集『落椎』(昭28)随筆集『ひとりあるき』(昭34)
青木 繁 あおき・しげる
1882(明治15)年7月13日、福岡県久留米の生まれ。画家。明治44年3月25日没。
青木 正児 あおき・まさる
1887(明治20)年2月14日、山口県の生まれ。中国文学者。第五高等学校をへて京都帝大支那文学科卒。京大教授。昭和39年12月2日没。
〈著書〉『江南春』(弘文堂書房、昭16・11)『青木正児全集』(春秋社、昭44―45)
青地 晨 あおち・しん
1909(明治42)年、佐賀県の生まれ。評論家。本名は青木滋。旧制佐賀高等学校中退。昭和19年1月、横浜事件(昭19)に連座し逮捕された。戦後、「世界評論」編集長をつとめ、評論家活動を展開。大宅壮一に師事。
〈著書〉『現代史の曲り角』(弘文堂、昭34・3)『冤罪の恐怖』(毎日新聞社、昭44・7)『野次馬列伝』(毎日新聞社、昭46・3)
青柳 喜久代 あおやぎ・きくえ
1913(大正2)年、福岡県生まれ。社会運動家。のち結婚して塚原姓となった。永末清作の回想「青柳喜久代のこと」(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟福岡県本部「福岡県版 不屈」第75号、平11・11)によると、青柳喜久代は喜兵衛の妹で、福岡県立高女に在学中にモップル(犠牲者援護会)の運動に参加し、昭和七年、父喜平の死を機に姉と一緒に上京。兄喜兵衛の家に寄食し、全協東京支部オルグとして活動した。浅草署の留置場で伊藤律の前妻新井静子と知り合い、ゾルゲ事件にかかわることになったという。戦後は東京中野区議に3期当選し、昭和43年4月8日、議員在職中に死去した。享年54歳。ちなみに永末清作は「青柳喜久代についての調査を(尾崎秀樹が)ないがしろにして、兄嫁の須磨子と同一人物としてもおかしくないような論法で、根拠もなしに、青柳喜久代が先に北林トモのことを供述し、それが伊藤律の供述によって総合的な判断をくだされたのだとするのでは、あまりに粗雑にすぎるのではないか」と述べている。
青柳 喜兵衛 あおやぎ・きひょうえ (きべえ)
1904(明治37)年1月1日、福岡市の生まれ。画家・詩人。詩誌「とらんしつと」同人。昭和13年8月28日没。
〈著書〉遺稿詩画集『牛乳の歌』(とらんしつと詩社、昭14・8)
このままに おまへを 死なして なるものか
暖かに なつたら 動物園に つれて行かふと 約束して あるのに、
これからの 旅は おまへと共に 旅しようと思つて ゐるのに、
俺達が なしとげ なかつた 様様の ことを 実現して もらはうと 願つてゐるのに、
どうして このまま 死なして なるものか、
命の つづく かぎり、 その はてまでも どうして このまま 死なして なるものか
(「牛乳の歌」最終連)
青柳 喜平 あおやぎ・きへい
 1871(明治4)年10月18日、博多の一商家の生まれ。武術家。幼にして力量群に秀で18年舌間の門に入りて修行を積みたり、巌丈なる体格は大磐石の如く一方商業に従事し日夜俗務に鞅掌せる傍ら心を教外烈伝不立文字の八字を練り一味清風道の為自力難業苦行せり。明治30年〔第13代舌間〕宗綱逝去するや師に代って指導教育せり、門下生二千余名あり。明治39年7月京都武徳会本部に於て柔道の形を制定せらるるに当り当時各流の師範20名と共にその制定委員に推薦せらる。
元福岡師範学校柔道教師。元福岡商業学校柔道教師。大正15年5月7日柔道範士の称号を授与さる。昭和4年8月25日逝去59歳。(*隻流館由来書による)
青柳 緑 あおやぎ・みどり
1914(大正3)年3月10日、朝鮮京城(現・ソウル)の生まれ。作家。青柳綱太郎(佐賀県佐賀郡鍋島村出身・大正3年創刊の「京城新聞」社主)の娘。京城第一高等女学校をへて、京都女子高等専門学校卒。毎日新聞社に入社し、社会部に配属となり、「サンデー毎日」編集部の記者として勤務。昭和37年、小説「鉛の壁」で中央公論新人賞佳作に入選。昭和62年12月14日没。
〈著書〉『癩に捧げた八十年』(新潮社、昭40*光田健輔の評伝)『李王の刺客』(潮出版社、昭46)『女心』(双葉社、昭48・9) 【花田俊典&松崎悦郎】
赤江 瀑 あかえ・ばく
1933(昭和8)年4月22日、山口県下関市の生まれ。小説家。本名は長谷川敬。小説家の長谷川修とは、二人の母同士がいとこなのでいとこ半にあたる。日本大学芸術学部を中退し、放送作家として活躍したあと、昭和45年、短篇「ニジンスキーの手」で第15回小説現代新人賞を獲得し、文壇デビュー。長篇『オイディプスの刃』(角川書店、昭49・10)で第1回角川小説賞、『海峡』(白水社、昭58・8)および『八雲が殺した』(文芸春秋、昭59・6)で第十二回泉鏡花文学賞を受賞した。エッセイ集『オルフェの水鏡』(文芸春秋、昭63・1)がある。75年直木賞候補。
赤川 次郎 あかがわ・じろう
1948(昭和23())年2月29日、福岡市の生まれ。小説家。父親の赴任地の福岡市東中洲で生まれ、大濠公園の近くで育った。中学時代から創作を志し、桐朋高校時代には千枚以上の長篇小説を書こうとしたというが、卒業後はサラリーマンとなった。10年近くたって会社の同人誌に小説を発表し、これをきっかけにさまざまな小説新人賞に応募。「幽霊列車」でデビューした。軽快なタッチの作風で、ユーモア・ミステリーの新分野を開拓した『悪妻に捧げるレクイエム』で第7回角川賞を受賞。
赤木 健介 あかぎ・けんすけ
1908(明治41)年、青森市(佐賀県?)の生まれ。詩人・歌人。本名は赤羽寿。別名は伊豆公夫。
旧制姫路高。九大法文学部聴講生(中退?)。「文芸戦線」「銅鑼」「紀元」「文化組織」同人。「歴程」に寄稿。〈著書〉第1詩集『明日』(●)歌集『意慾』(文化再出発の会、昭17・3)詩集『交響曲第九番』(昭18)長篇『路程標』(昭17)『在りし日の東洋詩人たち』(白揚社、昭15・5)『叙事詩集』(正旗社、昭24・3) ※回想記「戦争と酒」(「詩人会議」昭51.8)
赤瀬川 隼 あかせがわ・しゅん
1931(昭和6)年11月5日、四日市市の生まれ。小説家。四日市は、三井系の倉庫会社(東神倉庫)のサラリーマンだった父親の任地。本名は隼彦。父祖の地は鹿児島県。「父の任地は、私が三歳のときに名古屋へ、五歳のときに横浜へ、小学校二年生のとき芦屋へ、三年生のときに門司へ、そして四年生のときに大分へと、東京以西の港湾都市を転々とすることになる。そして私が小学校四年生の年の十二月に太平洋戦争が始まり、以後は父の転勤はなくなった」(『映画館を出ると焼跡だった』草思社、昭57・6)「球は転々宇宙間」で昭和58年吉川英治文学新人賞。「捕手はまだか」「潮もかないぬ」で直木賞候補。『白球残映』(文芸春秋、平7・5)で第一一三回直木賞を受賞した。
〈著書〉短篇集『消えた外套』(講談社、昭59.4、※自伝的小説)
赤沼 三郎 あかぬま・さぶろう
1909(明治42)年5月17日、福岡県の生まれ。探偵小説作家。本名は権藤実。九州帝大農学部卒。昭和8年、「解剖された花嫁」が「サンデー毎日」の大衆文芸作品で選外佳作、翌年、「地獄絵」で同入選。12年、春秋社の「書き下ろし長篇募集」に「悪魔黙示録」が入選したが、単行本としては刊行されず、半分近く短くして探偵小説雑誌「新青年」(昭13・4)に発表された。戦後は福岡大学教授、同図書館長、同大理事を歴任。福岡市在住。
〈著書〉『怒濤時代』(日本文学社、昭13)伝記小説『菅沼貞風』(博文館、昭16・10)『カラチン抄』(博文館、昭18)『兵営の記録』(講談社、昭19)『抑留日記―蘭印濠洲三百日』(春陽堂、昭19)『悪魔の黙示録』(奈良県郡山町・かもめ書房、昭22・5)『夢法師』(近代文芸社、平6・4)
阿川 弘之 あがわ・ひろゆき
1920(大正9)年12月24日、広島市の生まれ。小説家。父親の阿川甲一は当時51歳、山口県の出身で、満洲阿川組や長春倉庫_鰍フ社長だったが、すでになかば一線を退いていた。母親のきみは41歳。弘之は戸籍上は長男だが、養子の兄・姉がいた。昭和2年、広島市の偕行社立済美小学校に入学(「こをろ」同人の吉岡達一と同級生)。8年、広島高等師範学校附属中学に入学。12年、広島高等学校文科乙類に入学し、文芸部に所属。高校生活の終わり頃、幼なじみで福岡高等学校生だった吉岡達一の紹介で同人誌「こをろ」に参加し、矢山哲治、島尾敏雄、眞鍋呉夫らと知った。15年、東京帝大文学部国文科に入学。17年9月25日、繰り上げ卒業となり、同月30日、海軍予備学生を志願して佐世保海兵団に入団。台湾の高雄州東港海軍基地で基礎教育を受け、18年4月、帰国。横須賀海軍通信学校で特務班要員の訓練を受け、8月、少尉任官。翌年7月、中尉に進級。8月、支那方面艦隊司令部附となり、中国の漢口で通信諜報作業に従事した。20年8月、敗戦。ポツダム大尉に進級。俘虜となり、21年3月、復員帰国。「郷里は原子爆弾にやられ、七十年間生物の生存不可能などと聞かされていたので、両親とも死んだものと思って広島に帰ってみたら、父母は生きており、麦が青々と育っていて、まことに救われたような気持ちになった。しかし家産は皆広島と満洲とにあったので、一家は敗戦一夜にして大貧窮状態に陥っていた」
(自筆「阿川弘之年譜」、『新日本文学全集第一巻 阿川弘之集/庄野潤三集』集英社、昭38・11)。4月、上京。志賀直哉を訪ね、定職につかずに執筆に専念することを決意し、「年年歳歳」(「世界」昭21・9)「八月六日」(「新潮」昭22・12)と発表。24年、結婚し、翌年、第一創作集『年年歳歳』(京橋書院、昭25・9)を上梓。長篇『春の城』(新潮社、昭27・7)で第4回読売文学賞を受賞。30年、「新潮」1―12月号に雲の墓標」を連載し(翌年1月、単行本化)、また『志賀直哉全集』(岩波書店)の編集を担当。11月から翌年12月までロックフェラー財団の留学生(フェロウ)としてアメリカに滞在した。以後、『夜の波音』(創元社、昭32・7)『坂の多い道』(新潮社、昭35・9)『山本五十六』(新潮社、昭40・11、第13回新潮文学賞)『暗い波濤』(新潮社、昭49・3)『井上成美』(新潮社、昭61・9、第19回日本文学大賞)などと書きついだ。54年、恩賜賞・日本芸術院賞。平成5年、文化功労者表彰。11年、文化勲章を受賞した。『阿川弘之自選作品』全10巻(新潮社)がある。
秋川 ゆみ あきかわ・ゆみ
1930(昭和5)年、長崎県の生まれ。児童文学作家。長崎源之助主宰「枝の会」会員。
〈著書〉童話集『金魚のタマと玉三郎』(学研)詩集『茱萸(ぐみ)のようにそまって』(らくだ出版、1990)エッセイ集『屋根のない家』(有精堂)『あさってからのスパゲティ』
阿木津 英 あきつ・えい
1950(昭和25)年1月17日、福岡県行橋市の生まれ。歌人。昭和47年、九州大学を卒業し、福武書店(岡山)に就職したが8ヶ月で辞め、帰郷して大分県中津児童相談所に心理判定員として就職。昭和49年、歌誌「牙」を主宰する石田比呂志を訪ねて師事。昭和50年5月、石田比呂志と熊本市に行き、秋津新町の借家に同棲。このときペン・ネームを「阿木津」とする。昭和54年、「紫木蓮まで」三十首で第22回短歌研究新人賞を受賞。第1歌集『紫木蓮まで・風舌』(短歌研究社、昭55・10)で現代歌人集会賞。第2歌集『天の鴉片
(てんのあへん)』(不識書院、昭58・12)で現代歌人協会賞。昭和60年4月、石田比呂志と別れて上京し、第3歌集『昭和歌人集成38 白微光(はくびこう)』(短歌新聞社、昭62・1)を上梓。 ⇒作品抄
秋永 芳郎
1904(明治37)年1月8日、長崎市の生まれ。小説家。本名は義男。関西学院高等科商科(のち英文科)中退。昭和5年、大阪毎日新聞社の記者となり、14年退職。昭和12年、「おおむら殉愛記」が「サンデー毎日」の大衆文芸に入選。14年、「朝日新聞」の1万円懸賞長篇小説に「世紀の旗」が次席入選し、単行本化(十字屋書店、昭15・4)された。『翼の人々』(博文館、昭16・12)で第1回航空文学賞を受賞した。
〈著書〉『世紀の旗』『翼の人々』『異人館の女』(若潮社、昭29)『魔風剣風』(北辰堂、昭29)『柔道開眼』(東京文芸社、昭30)『黒い落日』(東都書房、昭40・4) 『赤い夕陽の満州で』(芸文社、昭40)『まぼろしの満州国』(国土社、昭51・6)
秋原 秀夫 あきはら・ひでお
1924(大正13)年6月18日、台湾の生まれ。少年詩人。熊本県三加和町で少年時代を過ごし、旧制熊本商業学校卒。「裸人」同人。千葉県在住。
〈著書〉詩集『樹』(黄土社)『秋原秀夫詩集』(芸風書院)少年詩集『おなご先生』(かど創房、昭54)同『地球のうた』(教育出版センター)『風の記憶』(教育出版センター、昭60)『ちいさなともだち』(同、昭62)エッセイ集『現代川柳を読む』(銀の鈴社) 参考=『資料・現代の詩』(角川書店、2001.4.30)
秋山 清 あきやま・きよし
1905年、福岡県企救郡松ケ江村(現・北九州市)の生まれ。アナキスト詩人・評論家。大正13年、詩誌「詩戦行」創刊。昭和7年、岡本潤と詩誌「解放文化」創刊。昭和21年4月、金子光晴・小野十三郎・岡本潤と詩誌「コスモス」創刊。1988年11月14日没。享年84。
〈詩集〉『象のはなし』(コスモス社、1959.7)『白い花』(コスモス社、1966.11)『ある孤独』(コスモス社、1967.10)『秋山清詩集』(思潮社、1968.11、同増補版、1973.10)『恋愛詩集』(冬樹社、1977.4)『秋山清自選詩集』(秋山清・八十の会/パル出版、1984.9)〈評論集〉『文学の自己批判』『日本の反逆思想』(昭35)『ニヒルとテロル』(川島書店、昭43.6)『アナキストの文学』(昭45)『詩入門』(昭46)〔参考〕岡田孝一『詩人沖山清の孤独』(土曜美術社出版販売、1996.10、※巻末に「秋山清略年譜」「著書目録」あり)
秋山 六郎兵衛 あきやま・ろくろうべえ
1900(明治33)年4月11日、香川県三豊郡三野村(現・三野町)の生まれ。ドイツ文学者・小説家・評論家。旧制三豊中学、一高理科乙類を経て、東京帝国大学(現・東京大学)文学部在学中に、同じくドイツ文学専攻の手塚富雄等と第八次、第九次「新思潮」に参加した。大正15年4月、二五歳で福高にドイツ語教師として赴任。生徒とは2、3歳しか違わない若い教員であった。昭和11年10月に、福高の同僚である浦瀬白雨・大塚幸男らと文芸同人誌「九州文壇」を創刊。昭和12年8月、「九州文壇」を廃刊し、「九州文学」(第1期)を創刊した。「九州文学」は13年9月に福岡を中心に活動する「九州芸術」「文学会議」「とらんしつと」などと合同し、「九州文学」(第2期)となった。教育活動以外に文学者としても活躍する秋山を慕って、その家には文学好きの生徒がよく集まったという。これらの学生のことを秋山は後年、「学生で文学を愛好するものと言えば当時は大抵相場がきまっていて、怠けものでだらしなく、従って学校当局からは甚だ受けがよくなかったのである。かてて加えて、当時の左翼系の学生の多くが文学研究にことよせてさまざまな秘密集会をやっていた」というが、「わたし自身怠けものでだらしなく文学が好きで、かつどちらかと言えば、左翼的な考えをいだいていたのだから、こうなるのは自然の成り行きではあった」(青陵会秋山六郎兵衛謝恩記念事業会編『不知火の記』白水社、昭43・1)と回想している。第8回文乙卒業の檀一雄もこうした学生の一人であったし、詩人の矢山哲治もまた、同様の生徒であった。福高閉校後は新制九州大学へ移籍した。32年4月末まで福岡市内に住まい、のちに中央大学・学習院大学の教授を歴任した。昭和46年8月23日没。
〈著書〉長編小説『薄明』(考へ方研究社、昭3・3)評論集『概観ドイツ史』(白水社、昭13・11)短編集『魔園』(白水社、昭14・5)長篇小説『故園』(三笠書房、昭15・4)評論集『現代と文学精神』(三笠書房、昭16・9)同『独逸文学史』(三笠書房、昭18・2、現代叢書42)同『回想と自覚』(輝文堂書房、昭18・4)同『白刃の想念』(明光堂書房、昭18・12)同『文学と真実』(晃文社、昭23・10)、翻訳書にホフマン『牡猫ムルの人生観』上下(岩波文庫、昭10・11―11・4)、ヘルマン・ヘッセ『孤独な魂(ゲルトルート)』(三笠書房、昭17・3)、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』(三笠書房、昭17・10)などがある。【長野秀樹】)
秋吉 久紀夫 あきよし・くきお
1930(昭和5)年1月7日、福岡県北九州市の生まれ。詩人・近代中国文学研究者。九州大学文学部卒。「地殻」「潮流詩派」「天山牧歌」同人。詩集に『南方ふぐのうた』(飯塚書店)『天敵』(光風社)など、エッセイ集に『未来への浮彫』(地殻社)『交流と異郷』(土曜美術社出版販売)、研究書に『近代中国文学運動の研究』(九州大学出版会)があるほか、『陳千武詩集』など現代中国詩人訳詩集全●冊がある。 
参考=『資料・現代の詩』(角川書店、2001.4.30)
秋吉 茂 あきよし・しげる
●『ニッポン女傑伝』(謙光社、昭44)
阿久根 星斗 あくね・せいと
1919年、鹿児島の生まれ。小説家。鹿児島市在住。海音寺潮五郎に師事。
〈著書〉『永遠に消えず』
阿坂 卯一郎
1910年、鹿児島県の生まれ。劇作家。戦後、東京で高校演劇に挺身。『風変りな景色』(未来社、昭37)で芸術祭奨励賞。
〈著書〉『阿坂卯一郎一幕劇集』(未来社)
麻田 春太 あさだ・はるた
●詩人。
詩誌「異神」同人。福岡県糟屋郡粕屋町在住。詩集『甦る』(昭45・10)『美しきものへの挑戦』(現代詩グループゼロの会、昭50・11)『アポリアの歌』(現代詩グループゼロの会、昭57・10)『白の時代』(異神の会、平9・4)などがある。62年、筆名を「本間芥南」に変更(「福岡県詩人会会報」80)。
あしみね えいいち
1924(大正13)年3月24日、沖縄県の生まれ。詩人。ニューメキシコ大学に留学。現在は鰍s&T鑑査役。「詩人会議」「泥水」同人。詩集に『光の筏』、詩文集に『美意識のいそぎんちゃく』(オリジナル企画・脈発行所)がある。 
参考=『資料・現代の詩』(角川書店、2001.4.30)
飛鳥 高
1922年、防府市の生まれ。小説家。昭和22年、「犯罪の場」で「宝石」懸賞小説入選。『細い赤い糸』(昭36)で第15回探偵作家クラブ賞受賞。
〈著書〉『疑惑の夜』(昭33)
麻生 久 あそう・ひさし
1891年5月24日、大分県玖珠郡東飯田村の生まれ。社会運動家・小説家。三高―東大卒。194.年9月7日没。
〈著書〉『濁流に泳ぐ』(大12.1)『生きんとする群』(大12.9)『黎明』(大13.3)〔参考〕『麻生久伝』(其刊行委員会、昭33.8) 長男は政治家・社会運動家の麻生良方()
麻生 久 あそう・ひさし
1919(大正8)年3月15日、大分市勢家町の生まれ。詩人。昭和13年、県立大分工業学校機械科を卒業し、安川電機製作所(八幡市、現・北九州市)に入社。
15年、詩誌「裸群像」創刊。16年、詩誌「朱幃」(京都)同人。18年、統合詩誌「岸壁」同人。20年、詩誌「FOU(鵬)」創刊に参加。21年、詩誌「磁針」を創刊主宰。28年、詩誌「沙漠」(小倉)に参加。昭和30年、日本電機機器労働組合連合組合会中央執行委員になり上京(2期在職)。昭和四十九年、安川電機(北九州市)を定年退職し、福岡県行橋市にて機械設計事務所を自営。平成11年、沙漠詩人集団代表を辞任。福岡県詩人会より先達詩顕彰を受ける。福岡県行橋市南大橋4−9−8在住。〈詩集〉『生きる日に』(青巧社、昭25・8)『濁流』(九州光文社、昭39・5)『売りに出された雲』(北九州・沙漠詩人集団、昭56・9)『時とたたかう』(沙漠詩人集団、昭59・7)『迷走』(沙漠詩人集団、昭63・1)『麻生久詩集(日本現代詩人叢書U第28集)』(芸風書院、昭64・9)『風紋』(沙漠詩人集団、平5・6)(芸風書院、1989.9)詩画集『旅の詩帳』(平3)
麻生 豊 あそう・ゆたか
1898年8月9日、大分県の生まれ。漫画家。北沢楽天主宰の好楽会に入会し、大正12年から「報知新聞」に「ノンキナトウサン」連載。1938年没。『只野凡児』(昭9〜)
麻生 良方 あそう・よしたか
1923年8月22日、東京市本郷(現・文京区)吉祥寺の仮居の生まれ無産運動家の麻生久の長男。政治家・評論家。
〈著書〉『革命への挽歌―自伝的戦後政治秘史』(講談社、1977.9)
麻生 義輝 あそう・よしてる
1901年7月10日、大分県の生まれ。美学・哲学史家。東大美学卒。在学中は「麻生義」の筆名でアナーキズム理論を展開。1938年10月11日没。
〈著書〉『近世日本哲学史』
安達 征一郎 あだち・せいいちろう
1926(大正15)年7月20日、鹿児島県奄美大島の生まれ。小説家。本名は森永勝己。敗戦後、密航して宮崎県の港に着いたという。昭和26年、「悲しみの海」を執筆し、同人誌「龍舌蘭」(宮崎市)に発表。以後、新聞記者などの仕事をしながら創作活動を持続し、創作集『怨の儀式』(三交社、昭49・12)を上梓。第70回(昭48下半期)直木賞候補になった。他の著書に『日出づる海 日沈む海』(光風社書店、昭53・9)『祭りの海』(大阪・海風社、昭57・8)『(2冊本)祭りの海』(海風社、昭62・8、『日出づる海 日沈む海』を前編、『祭りの海』を後編として総題を「祭りの海」と統一)などのほか、〈少年探偵ハヤトとケン〉シリーズ(偕成社)の児童文学作品がある。埼玉県在住。
足立 北鴎 あだち・ほくおう
1869年、山口県岩国の生まれ。新聞人。読売新聞勤務。1945年没。
熱田 猛 あつた・たけし
昭和6(1931)年1月28日、熊本県上益城群浜町(現矢部町)の生まれ。小説家。昭和12(1937)年、高千穂小学校に入学。昭和22(1947)年、日向中学校(現日向学院)入学。昭和25(1950)年、高千穂高校入学、演劇部員として演出も行う。昭和28(1953)年、文芸サークル誌「わだち」「くすのき」に参加。その後、谷川雁の批判に応えた「対立する二点」(「新熊本文学」昭和31)や「朝霧の中から」(「新日本文学」昭和32年)等を発表。昭和32(1957)年10月2日、病没。享年26歳。『朝霧の中から 熱田猛遺作集』(2003年1月、発行者・熱田美憲)がある。【中野和典】
穴井 太 あない・ふとし
1926年12月28日、大分県玖珠郡東飯田村(現・九重町)の生まれ。俳人。2歳のとき、福岡県戸畑市(現・北九州市)に引っ越し、同14年、沢見小学校を卒業。戸畑工業学校機械科に入学したが、同18年12月、繰り上げ卒業。戦後、21年、戸畑工業時代の教師の西田春作らと詩誌「詩座」を創刊(第4号まで発行)。翌22年晩秋、郷里の飯田高原に帰郷し、炭焼きをしながら萩原朔太郎や宮澤賢治の詩に親しんだという。翌年、新設の飯田中学の教師となり、詩誌「揺籃」(のち「新地帯」と改題、佐賀県基山)に参加。昭和24年、中央大学専門部二年編入のため上京し、2年後、卒業して帰省。肺浸潤のため療養生活を送り、昭和26年、戸畑市(現・北九州市)で就職。昭和27年、中野君子(平7・2・5没)と結婚。昭和29年、増田清の勧めで横山白虹主宰の俳誌「自鳴鐘」に入会(同35年、同人となる)。昭和31年、同人誌「未来派」創刊に参加。昭和38年2月、第一句集『鶏と鳩と夕焼と』を上梓。昭和40年、天籟句会主催。句会案内のハガキ版「天籟通信」第1号を発行し、翌年1月から月刊俳誌として刊行。昭和49年、現代俳句協会賞を受賞。北九州市戸畑区在住。1997年12月29日没。
〈句集〉『鶏と鳩と夕焼と』『私版・短詩型文学全書 穴井太集』(八幡船社、昭42・11)『土語』(昭46・10)『ゆうひ頌』(牧羊社、昭49・8)『天籟雑唱』(現代俳句協会、昭58・4)『原郷樹林』(牧羊社、平3・10)『現代俳句文庫 穴井太句集』(ふらんす堂、平6・8)〈随筆評論集〉『山頭火の世界』(本多企画、平2・1)『俳句往還』(本多企画、平7・3)『吉良常の孤独』(葦書房、平9・5)〔参考〕「天籟通信」398号(1998.4)に特集「追悼・穴井太」(略年譜あり)
 吉良常と名づけし鶏は孤独らし
 土に還るボタいっぽんの鬼あざみ
 けぶる母郷いくたび芹の匂いたつ
 ゆうやけこやけだれもかからぬ草の罠
阿奈井 文彦 あない・ふみひこ
1938(昭和13)年10月19日、朝鮮全羅南道宝城郡筏橋邑の生まれ。ルポライター。昭和18年に母親を亡くし、敗戦の年の12月2日、小学1年生のとき、一家で父親の郷里の大分県玖珠郡北山田村(現・玖珠町)に引き揚げた。地元の戸畑小学校、北山田中学、大分県立森高校を卒業し、同志社大学文学部哲学科に入学したが、中退して上京。41年、戦時下のヴェトナムに取材旅行し、メコンデルタのバナナ園などで生活した。帰国後、ルポライターの生活をしながら、「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の反戦平和運動に参加し、また51年からは韓国の「定着村」(ハンセン病回復者共同体)のワークキャンプにも参加した。
〈著書〉『アホウドリにあいにいった』(晶文社、昭50・8)『アホウドリ、葬式にゆく』(晶文社、昭51・1)『喫茶店まで歩いて3分20秒』(PHP研究所、昭53・3)『からだとの対話』(現代書館、昭53・9)『アホウドリの人生不案内』(新宿書房、昭56・7)『アホウドリの仕事大全』(現代書館、昭60・5)『アホウドリのにっぽん不案内』(力富書房、昭60・6)『アホウドリの女性不案内』(百人社、昭60・8)『アホウドリの青春不案内』(力富書房、昭60・8)『アホウドリの朝鮮料理入門』(新潮社、昭62・8)『アホウドリの韓国ノート』(現代書館、昭62・12)『現代事物起源』(平凡社、昭63・5)『ベ平連と脱走米兵』(文芸春秋、平2・9)。また小学生時代を回想した自伝連載エッセイ「きのうの手帖」(「西日本新聞」平7・1・12―3・10)がある。
阿南 哲朗 あなん・てつろう
1903(明治36)年1月10日、大分県直入郡豊岡村(現・竹田市)の生まれ。作家・詩人。本名は竹千代。祖父は竹田藩の侍医で漢学者、母方の松永家は軍臣広瀬武夫家の遠戚にあたるという。明治40年、一家で小倉市馬借町に引っ越し、天神島尋常小学校、小倉高等小学校、小倉高等簿記学校(のち九州経理専門学校)を卒業。大正9年、九州電気軌道梶i現・西日本鉄道梶jに入社。同13年から昭和6年まで詩誌「揺籃」(小倉・みはぎの詩社)を編集主宰。野口雨情に私淑し、全国民謡童謡復興運動に参加した。28歳のとき加藤介春の序文と野口雨情の跋文を付した第一詩集『石に響く』(小倉・啓明会出版部、昭3・11)を上梓。昭和7年、到津遊園設立に際して企画運営を担当。以後、同園の運営に挺身し、25年2月、園長職を最後に退社。一方、「北九州小唄」(奥平志津雄作曲、赤坂小梅・若山彰歌、コロムビア・レコード、昭和6年発売)などレコード発売された作品も多く、また校歌も多く作詞した。田川出身の赤坂小梅を野口雨情に紹介して彼女のデビューを助けたエピソードも残されている。
〈著書〉詩集『石に響く』以下、『あのうたこのうた―阿南哲朗童謡民謡集』(私刊、昭38・8)『よるの動物園―ほんとうにあった話』(北九州・九州童話連盟、昭44・1)『詩と笛―阿南哲朗回想詩集』(私刊、昭46・11)『阿南哲朗自選詩集 寄せてかえして―詩・民謡・童謡・校歌集』(北九州・あらき書店、昭54・1)『阿南哲朗遺稿集 わらべごころ』(北九州・あらき書店、平4・8)絵本版『よるの動物園』全4冊(北九州・あらき書店、昭54・11―58・5)がある。図録「北九州が生んだわらべごころの世界 阿南哲朗とみずかみかずよ展」(北九州教育委員会、平10・11)は詳細な年譜を付載する。 ※『九州詩集』第3輯=小倉市西原町283
阿波根 昌鴻 あはごんしょうこう
1903(明治36)年3月3日、沖縄県本部(もとぶ)の生まれ。平和運動家。貧しい農家に育った。幼い頃より向学心が厚かった。沖縄県立嘉手納農林学校に合格するも、入学の際、馬車賃がなく、父と二人、机や寝具を担いで40キロの山道を歩いたという。ところが、そのためか神経痛を患い、わずか三ヶ月で休学。別府の教会の世話になりながら、治療と療養の生活が続く。17歳で、キリスト教に入信する。1922年、喜代と結婚して伊江島に移住、長男も生まれる。翌年、先生になるための学費を稼ぐため、キューバへ移民、さらに五年後にはペルーへ。この十年間に社会科学の学習会に参加。資本主義社会の構造と矛盾に行き当たったという。帰国後、西田天香を京都「一燈園」に尋ねる。「私欲のためでなく、社会のために働けば成功する」と教えられ、内村鑑三等が開設した沼津・興農学園に入学。デンマークの国民高等学校運動を知り、沖縄でその精神を引き継ぐことを決意する。1934年卒業。伊江島でデンマーク式農民学校の建設に取りかかる。1945年島中が激戦地になり、島民の三分の一が殺され、兵役年齢に達していないにもかかわらず現地徴集された長男昌健は戦死。農民学校も廃虚に。終戦から十年。農民学校を再建。ところが、米軍が島の爆撃演習予定地に上陸、農家を破壊。中止を嘆願する人々に暴行を加え、連行。住民は抗議のハンストを始めるが、米軍は爆撃演習地の建設を始めた。以来住民は非暴力の抵抗運動を開始、「乞食行進」を行って、土地闘争を沖縄全体の島ぐるみ闘争に発展させた。1966年ベトナム戦争のために伊江島に設置しようとしたミサイル基地建設を阻止。この闘いを機に、国を越えたベトナムの民衆との連帯を意識した平和運動を続けてゆくようになる。1966年63歳で、中央労働学院に入学。また、翌年、米軍基地ゲート前に「団結道場」建設に着手。1984年 伊江島反戦平和資料館「ヌチドウタカラの家」開設 。「やすらぎの家」と「わびあいの里」完成。1994年、沖縄県功労賞受賞 。1998年「教えられなかった戦争・沖縄編 阿波根昌鴻・伊江島のたたかい」(企画・製作映画文化協会)完成。キネマ旬報1998年度文化映画部門第一位受賞。平成14(2002)年3月21日、永眠、享年101歳。 
〈著書〉『米軍と農民―沖縄県伊江島』(岩波新書、昭48・8)『写真記録 人間の住んでいる島』(私刊、昭57)『命こそ宝―沖縄反戦の心』(岩波新書、平4・10) 【山田まゆみ&坂口博】
我孫子 毅  あびこ・つよし
1915(大正4)年11月17日、福岡県小倉市堺町(現・北九州市小倉北区)の旧蓮門教本部の家に生まれる。詩人・小説家。本名は島村泰喜。「九州文学」同人。実父は蓮門教分裂後の扶桑教神道統一教副教長の島村藤助だが、戸籍上は教祖・島村ミツの夫・音吉の養子とされるなど、複雑な家庭環境に育つ。昭和5年8月に北海道・小樽にいた生母のもとに渡り、翌年3月神戸の実姉宅に身を寄せ、8年3月の中学卒業後、「K学院」(関西学院か?)に進学する。この時期に左翼運動に関わり「種々の筆名を用ひて数篇の創作をプロレタリア的な雑誌に発表した」(『九州詩集3』「略歴」)とされるが、詳細は不明。その後、小倉市紺屋町の実父のもとで文学活動を続ける。吉野信夫主宰の「詩人時代」(未確認。「詩人」も?)や、「九州文化」「九州芸術」にも同人として参加、昭和12年4月、詩誌「倭寇船」を夢野文代・安田満・吉村草三・榊原耿哉とともに創刊する。第3冊(昭12・10)を出した後、第2期「九州文学」創刊に、夢野・安田・吉村や、「対馬詩人」の洲河千里などとともに合流する。13年9月、小倉歩兵第14聯隊に補充兵として召集される。満r洲へ送られるが、脊髄カリエスを患い小倉陸軍病院に入院、除隊となる。「九州文学」には、「晩夏」(昭15・2)を始め、主に蓮門教を背景にした私小説を、数多く書き続けた。「新田誌―犬甘兵庫伝」(昭19・12―20・1)で、第20回直木賞候補となる。敗戦後は家族で東京に住み、第4期「九州文学」に「青春片影」(昭29・5)、第5期「九州文学」に「うつせみの季節」(昭32・7)を本名で、長篇「神と人の座―金蓮教始末記」(昭35・10―37・7、全11回連載)を島村欣吾の筆名で発表するなど、生活苦のなかで創作活動を続けた。昭和42年7月1日、横浜にて死去。その死は事故死とも自殺ともされる。墓所は、北九州市小倉北区寿山町・広寿山福聚寺。単独の詩集・小説集は1冊も刊行されていない。
〈共著〉『九州詩集 第三輯』(九州芸術家聯盟、37・6*「海港の旗」収録)『九州詩集 第四輯』(九州芸術家聯盟、39・5*「彗星」収録)『九州小説選 1』(九州書房、46・6*「巷塵抄」収録)。 【坂口 博】
十六歳の夏より家を離れて北海道、神戸等の学校に学ぶ。その間、種々の筆名を用ひて数篇の創作をプロレタリア的な雑誌に発表したり、薄命なる同人雑誌に関係したりしてゐたが、当時の進歩的青年の誰もがそうであつた如く、政治主義の俘虜となつて芸術を失ふ。其後、故郷に帰つて自己の道を求めて昏迷すること二歳、然し性来のマルデクソール(書く病気)は全治する可くもなく、猛然と芸術への再出発を決意した。そして現在の自分は詩に於ける「象徴的リアリズム」の手法を宣言して、無気力な詩壇へ捨身の突撃を行はふとしてゐる。「詩人時代」「九州文化」の同人を経て、現在「九州芸術家聯盟」に加盟。昭和十二年三月、「倭寇船」詩社を起す。現住所小倉市紺屋町二一一島村方」1937年版『九州詩集3』付載自筆「略歴」)
阿武 天風 あぶ・てんぷう
1882(明治15)年9月、山口県阿武郡三見村(現・萩市)の生まれ。編集者・小説家。「冒険世界」(博文館)の編集兼発行人。1928年6月22日没。
〈著書〉『怒濤譚』(博文館)
安部 龍太郎 あべ・りゅうたろう
1955(昭和30)年6月20日、福岡県八女郡黒木町――女優の黒木瞳の出身地――の生まれ。小説家。本名は安部良法。久留米高専機械科を卒業し、作家を志して上京。『血の日本史』(新潮社、平2・12)でデビュー。『彷徨える帝』(新潮社、平6・3)で第111回直木賞候補になった。
天野 淡翠 あまの・たんすい
新聞記者。本名は寿太郎。「天野淡翠(寿太郎)は、明治四十年七月三十一日、与謝野鉄幹、吉井勇、木下杢太郎、平野万里、北原白秋ら、いわゆる「五足の靴」が九州入りの第一歩を博多に印した時にそのタベ、西公園の「吉原亭」で、「明星」の読者による福岡県文学同好会主催の歓迎会が催されたが、その世話をした人と考えられる。天野淡翠は、明治三十七年十一月一日に福日に入社した人だが、熊本高工に学び、早大文科を卒業している。偶然のことながら、大正五年八月一日発行の「郷土芸術」八月号が手に入った。発行人は、山田篤、発行所は、筑紫郡堅粕六八九郷土芸術社となっている。その「郷土芸術」に、「天野淡翠を悼む」という特輯があり、田中紫江、堀十二絃、玉井精、小野健治、山田篤、木三の六人が淡翠の才能を惜しんだ文章をよせている。/淡翠は、性情淡、酒を嗜み、文をよくし、詩を楽しんだ。社命で東海道五十三次旅行をし、大正四年七月十日―九十二回、その旅行記を連載した。かつて、田山花袋と英詩を共訳出版したこともあり、四十四年ごろは地方欄主任。大正五年六月二十四日、チフスで病死した。享年三十六歳であった。」
(原田種夫『黎明期の人びと―西日本文壇前史』西日本新聞社、昭49・12)
あまん きみこ  あまん・きみこ
1931年8月13日、旧満洲(現・中国東北部)撫順の生まれ。児童文学作家。旧姓は阿萬、本名は紀美子。両親とも宮崎県の出身。父親の転勤のため中国・新京をへて大連で育った。昭和22年、日本に引き揚げ、大阪府立豊中女学校(のち学制改革のため校名が桜塚高校と変更)4年生に編入し、同校を卒業。昭和25年4月、21歳で三重野英昭と結婚し、翌年、長女を出産、東京都三鷹市に転居。34年、28歳のとき日本女子大家政学部児童学科(通信制)に入学し、与田凖一に出会って童話の創作を勉強した。40年、日本児童文学者協会主催の新日本童話教室を知り、受講。坪田譲治主催の童話雑誌「びわの実学校」に投稿。43年、最初の作品集『車のいろは空のいろ』(ポプラ社)を上梓し、日本児童文学者協会賞・野間児童文芸賞推奨作品賞を受賞。43年、夫の転勤により仙台に転居。46年、夫の転勤により福岡市に転居(5年間在住)。49年、「びわの実学校」同人。51年、夫の転勤により長岡京市に転居。54年、『ひつじぐものむこうに』(文研出版、昭53)でサンケイ児童文学賞。56年、『こがねの舟』(ポプラ社、昭55)で旺文社児童文学賞。58年、『ちいちゃんのかげおくり』(あかね書房、昭57)で小学館文学賞・サンケイ児童文学賞。平成1年、『ぽんぽん山の月』(福音館書店)で野間児童文芸賞。平成2年、『だあれもいない?』(講談社)でひろすけ童話賞。
[参考]「あまんきみこ年譜(自筆)」(『現代児童文学作家対談9』偕成社、平4.10)
阿万 鯱人 あまん・しゃちと
1918年1月24日、宮崎県高岡町の生まれ。小説家。本名・為人。専修大卒。「遍歴」編集人。
〈著書〉『四季構図』(昭33)『くまんばちまつり』(昭41)『てびら台地』(昭48、第6回九州文学賞)『アンデルセン盆地』(昭53、第29回宮崎県文化賞・芸術部門)『一人でもやっぱり村である―杉山正雄と日向新しき村』(昭60)『あなたへの書簡』(平1)『蟹島―阿万鯱人作品集』(本多企画、1995.8)
新井 英一 あらい・えいいち
1950年、福岡市の生まれ。歌手。在日韓国人。父親は韓国・清河(チョンハー)出身。家を出て米軍キャンプで働き、ブルースに心酔した。21歳のときアメリカに行き、歌手を志した。帰国後の1970年、「馬耳東風」でデビュー。95年、自分史ブルース「清河への道」(演奏時間50分、歌詞は48番まで)でヒット。レコード大賞アルバム賞を受賞した。東京都在住。
新井 鉱一郎 あらい・こういちろう
1911年3月4日、福岡県の生まれ。小説家・評論家。本名・組坂若松。「(第2期)九州文学」「作家」同人。新日本文学会員。
〈著書〉『花のない墓標』(理論社)『白い季節』(三一書房、昭35.2)『物語日本近代文学史』(「あとがきに代えて」に少年時代の回顧文あり)
1911年3月4日福岡県に生まれた。筑豊の炭礦事務員時代に抵抗運動に参加、追われて阪神地方及び東京を転々、この間《九州日報》《いのち》《若草》《国民新聞》等に作品発表、戦時より戦後へかけて桜井書店編集部勤務、すでに《裸人》《九州文学》《新作家》等の同人誌を経ていたが、戦後《文芸塔》を興し《文壇》《文学世界》その他に作品発表、病を得て闘病に入り九州へかえつて佐賀で《文学解放》を興し《作家》同人となる。少康を得て帰京、近代生活社編集部に一年半勤務。白根譲、菊童梨夏又は梨朔、本名又は組坂松史その他の旧筆名を新井鉱一郎に統一して執筆[生]活に入る。本名組坂若松。/現在《作家》同人、新日本文学会員、日本文芸家協会員。/著書《花のない墓標》その他。/現住所 東京都杉並区天沼1〜240。」(新井鉱一郎『物語日本近代文学史』(新読書社出版部、昭34.10)巻末「著者略歴」)
新井 徹 あらい・てつ
1899年2月、長崎県対馬の生まれ。詩人。本名は内野健児。1920年3月広島師範学校卒、福岡県立鞍手中学校に教諭赴任。翌年朝鮮総督府へ出向を命じられ、忠清南道大田市大田中学校教諭となる。1922年「耕人者」を創立し「耕人」を創刊、主宰する。ペンネームに乾児、津島生人などを使用。1923年10月第一詩集『土墻に描く』(朝鮮詩輯30篇 附輯19篇収録 耕人社)を発行。まもなく発売禁止になり、翌年総督府と交渉し、「一部抹殺」の条件つきで発禁処置が解かれた。1925年8月後藤郁子と結婚、9月京城公立中学校へ転勤、同年12月「耕人」終刊。1926年2月「京城詩話会」を創立、同年5月朝鮮芸術雑誌「朝」の文芸部を担当。同年10月「京城詩話会」を「亜細亜詩脈協会」と改称し、機関誌「亜細亜詩脈」を創刊、編集人、発行人となる。1927年6月警察高等科により「亜細亜詩脈」六月号が発売禁止となり、同年11月「亜細亜詩脈」終刊。1928年1月夫人と二人で「鋲」を創刊。同年7月朝鮮追放を宣告され、日本に戻る。1929年8月「宣言」を創刊。夫人と編集と発行に携わる。1930年4月、第二詩集『カチ』(序詩、46篇収録 宣言社 )を刊行。9月プロレタリア詩人会が結成され、新井徹の名で書記となる。(1931年からはすべてこのペンネームを使用)1931年8月日本プロレタリア作家同盟に加盟。プロレタリア作家として活動。1933年検挙され、肉体的な打撃を受け、後の発病・死を早める原因となった。1934年2月「詩精神」を創刊。同年「1934年詩集」(前奏社刊)の編纂員となる。1936年1月「詩精神」は「詩人」と発展的な解消を遂げることとなる。1937年6月、再度検挙され、二ヶ月間拘留された。同年11月第三詩集『南京虫』(第一部9篇、第二部9篇、第三部10篇、第四部・詩劇算盤学校収録 文泉閣)を刊行。1938年結核と診断され、療養を勧められたが、生計のため勤務を継続、文筆活動も継続。1941年倒れ、療養に入る。この間最後の作品と見られる詩「狂ふと狂はぬと」を創作。1944年4月永眠。1965年11月合著詩集『新井徹 詩人が歌わねばならぬとき 後藤郁子 貝殻墓地』が夫人後藤郁子の手により思潮社から刊行された。1983年5月『新井徹の全仕事 内野健児時代を含む抵抗の詩と評論』を創樹社から刊行された。
〔参考〕『新井徹の全仕事―内野健児時代を含む抵抗の詩と評論』所収の任展恵作成年譜参照)
新川 明 あらかわ・あきら
1931(昭和6)年11月23日、沖縄県中頭郡嘉手納村(現・嘉手納町)の生まれ。新聞記者・評論家。3歳のとき父を亡くし、母が八重山農学校の教員になったため、14歳まで石垣島で暮らした。琉球大学国文科中退。在学中、「琉大文学」を中心になって創刊した。30年、沖縄タイムス社に入社。復帰運動のさなか、天皇制国家への同化に反対し、独立論を唱えた。53年、『新南島風土記』で毎日出版文化賞を受賞。平成4年、沖縄タイムス社の社長に就任し、6年に会長、7年に退任した。
〈著書〉『異族と天皇の国家沖縄民衆史への試み』(二月社、昭48・12)『新南島風土記』(大和書房、昭53・6)『琉球処分以後』(朝日選書、昭56・2―3、『異族と天皇の国家』の増補改訂版)『反国家の兇区』(現代評論社、昭46・11)
荒木 栄 あらき・さかえ
1924(大正13)年10月15日、福岡県大牟田市三池炭鉱社宅で誕生。作曲家。姉4人・兄2人・妹1人の8人きょうだいの3男。昭和14年三川尋常高等小学校卒業、三井三池製作所養成工を経て機械組立職場で働く。ビルマで戦病死した兄・安夫の妻・ヒサエと、22年3月結婚。同年5月バプテスト教会で受洗。合唱団活動を経て、東京芸術大学音楽部同声会の通信教育などによって、24年ころから作曲活動に取り組む。「うたごえ運動」に参加、28年以降毎年の「九州のうたごえ」の主軸を務める。34年2月日本共産党に入党する。35年の三井三池闘争の中で、「うたごえ行動隊」とともに活躍する。37年10月26日、大牟田米の山病院にて肝臓癌にて死去。享年38歳。代表作に「沖縄を返せ」(昭31、作詞・全司法福岡高裁支部)、「がんばろう」(昭35、作詞・森田ヤエ子)、「この勝利ひびけとどろけ」(昭37、作詞・荒木栄)ほか。〈著作〉『荒木栄創作曲集』(昭31・10)、『わが母の歌―荒木栄遺作集』(昭37・12)、『荒木栄作品全集』(昭44・12)、LPレコード『荒木栄作品集“不知火”』(昭47・11)など。〈参考〉森田ヤエ子『この勝利ひびけとどろけ―荒木栄の生涯』(大月書店、昭58・12)、神谷国善『労働者作曲家 荒木栄の歌と生涯』(新日本出版社、昭60・10) 【坂口 博】
荒木 精之 あらき・せいじ
1907(明治40)年、熊本県長陽村の生まれ。小説家・歌人・評論家。文化誌「日本談義」主宰。昭和56年没。「荒木精之著作版目録」(熊本出版文化会館、平6・1)、自伝エッセイに「いとけなき日々」(熊本日日新聞社編『日本列島縦断随筆〈九州編1〉』昭和書院、昭48・9)がある。
〈著書〉『阿蘇の伝説』(日本談義社、昭28)小説集『放浪の果て』(日本談義社、昭41)『私の地方文化論』(日本談義社、昭45)評論『神風連実記』(新人物往来社、昭46)『俳人 木村桑雨』(日本談義社、昭52・10)『宗不旱の人間像』(古川書房、昭52・10) 『荒木精之遺歌集』(日本談義社、昭61・12)『荒木精之著作集』
荒木 茅生 あらき・ちせい
1919(大正8)年11月7日、熊本生まれ。本名、正治。昭和23年「杉」入会、黒木伝松に師事。昭和36年に同誌廃刊後「炎歴」を創刊、編集発行人をつとめる。昭和38年「原型」入会、運営委員。平成8年3月15日、肝臓病のため逝去、享年76歳。埋葬地、熊本市八島納骨堂。歌集『海恋』(炎歴短歌会 昭52・11)これにより熊日文学賞受賞。『風に聴く』(昭59)『瀝瀝』(平3) 【恒成美代子】
躓けばおのづ昼月ゆれにつつ枯草原に茫たりけふも
うつつなき夜も日もあらぬ十日余のかなしみいまも夢のきれぎれ

荒津 寛子 あらつ・ひろこ
1928(昭和3)年11月8日、福岡市唐人町の生まれ。大名小学校、市立福岡女学校(現・福岡女学院)をへて昭和23年3月、福岡女子専門学校文科(現・福岡女子大学)を卒業。22年5月3日、内本光と婿養子縁組。23年9月、母校の福岡女学院の教員となったが、24年3月退職。翌月、長女秀佳を出産。26年8月、(有)荒津商事代表取締役(金融業)。29年、財団法人徳風会を設立し理事に就任。詩作は十代から開始し、同人誌「椅子」・「九州文学」(小島直記編集)・「九州作家」・「詩科」・「九州詩人」・「幹」・「ALMEE」に同人参加。32年3月24日、28歳で喘息発作のため急逝。没後、『荒津寛子遺稿集』(其刊行会、昭32・12)が編まれた。
〈著書〉『荒津寛子遺稿集』(荒津寛子遺稿集刊行会、1957.12、※「年譜」、火野葦平の序文、柿添元・原田種夫らの跋文あり)
有島 武郎 ありしま・たけお
1878(明治11)年3月4日、東京府の生まれ。小説家。父・武は薩摩国平佐郷の出身。大正12年6月9日自殺。
有田 一寿 ありた・かずひさ
1916(大正5)年1月1日、旧朝鮮新義州の生まれ。政治家・実業家・小説家。小学5年生のとき父が死に、母と関釜連絡船で帰国。福岡県立小倉師範学校、」旧制福岡高等学校をへて東大文学部を卒業。大東亜戦争に出征し、敗戦で復員帰国。青葉ケ丘女子高校の校長となり、昭和27年、実業界に転じて若築建設(北九州市若松区)に入社し、33年、社長。
〈著書〉『愛はほとばしる泉の如く』(百泉社、昭37・6)
有田 忠郎 ありた・ただお
1928(昭和3)年6月19日、長崎県佐世保市矢岳町の生まれ。詩人・フランス文学者。海軍主計将校の父親の転勤にともない鎌倉、台湾、ふたたび佐世保に転居をかさねた。昭和16年、佐世保中学(旧制)に入学。22年、第五高等学校文科乙類に入学25五年、五高を卒業し、九州大学文学部に入学。フランス文学を専攻。また詩作も試み、詩誌「母音」に参加した。以後、詩誌「詩科」「ALMEE
(アルメ)」にも参加。38年、北九州大学(現・北九州市立大学)に赴任し、50年、西南学院大学に転出。フランス語・フランス文学を講じる。〈詩集〉『セヴラックの夏』(書肆山田、昭58・5)『』(書肆山田、昭58・10)『夢と秘儀』(書肆山田、昭58・6)『髪と舟』(書肆山田、平1・10)『日本現代詩文庫52 有田忠郎集』(土曜美術社、平4・1)『一顆明珠』(書肆山田、平6・2)『子午線の火』(書肆山田、平11・11)〈エッセイ集〉『異質のもの感性の接点を求めて』(牧神社、昭50・7)〈翻訳書〉多数
有馬 頼義 ありま・よりちか
1918(大正7)年2月14日、東京の生まれ。小説家。久留米有馬藩主の子孫(有馬頼寧の3男)。
〈著書〉『崩壊』(昭12)『経堂日記』(昭21)『少女娼婦』(新書、昭30)『三十六人の乗客』(新書、昭32)『殺意の構成』(新書、昭36)『少年の孤独』(昭38)『夕映えの中にいた』(昭41)『宰相近衛文麿の生涯』(昭45)
安斎 あざみ あんざい・あざみ
1964年、東京の生まれ。熊本市在住。「樹木内侵入臨床士」で第74回(平4)文学界新人賞受賞・芥川賞候補。
安西 均 あんざい・ひとし
1919(大正8)年3月15日、福岡県筑紫郡筑紫村(現・筑紫野市)の生まれ。詩人。本姓は安西
(やすにし)。福岡師範学校に入学したが病弱のため中退。昭和10年前後、久留米の丸山豊、野田宇太郎らと交わり、詩作を試みた。その後、上京して、伊藤桂一や前田純敬らと詩誌「山河」を創刊。18年、朝日新聞西部本社に入社し、福岡市に戻った。戦後は「午前」「九州詩人」に作品を発表し、25年、上京。学芸部記者を勤めるかたわら、詩集『花の店』(学風書院、昭30・11)などの詩集を上梓した。平成6年2月8日没。同年11月、郷里の福岡県筑紫野市民図書館前庭に詩碑「天拝古松」が建立された。『安西均全詩集』(花神社、平9・8)がある。
安野 光雅 あんの・みつまさ
1926(大正15)年、島根県津和野の生まれ。画家・エッツセイスト。山口師範学校を卒業し、同研究科を修了。10年間ほど山口・東京で教師生活を送る。1968年、絵本『ふしぎなえ』を上梓。以後、絵本・ポスター・装幀などを手がける。絵本『ABCの本』で芸術選奨文部大臣新人賞。『あいうえおの本』『旅の絵本』『歌の絵本』など著書多数。国際アンデルセン賞・紫綬褒章。

 INDEX

伊井 直行 いい・なおゆき
1953(昭和28)年9月1日、宮崎県延岡市の生まれ。
小説家。慶応大学文学部卒。著書に『草のかんむり』(講談社、昭58・7)『さして重要でない一日』(講談社、平1・12)『湯微島訪問記』(新潮社、平2・8)『本当の名前を捜しつづける彫刻の話』(筑摩書房、平3・6)『雷山からの下山』(新潮社、平3・7)『悲しみの航海』(朝日新聞社、平5・1)『ジャンナ』(朝日新聞社、平7・8)などがある。神奈川県川崎市在住。
年、宮崎県延岡市の生まれ。小説家。慶応大学文学部卒。1983年、「草のかんむり」で群像新人賞。1983年、「さして重要でない一日」で野間文芸新人賞。
〈著書〉『草のかんむり』(講談社、1983)『さして重要でない一日』(講談社、1989)『湯微島訪問記』(新潮社、1990)『本当の名前を捜しつづける彫刻の話』(筑摩書房、1991)『雷山からの下山』(新潮社、1991)『星の見えない夜』(講談社、1991)『悲しみの航海』(朝日新聞社、1993.1)
飯尾 憲士 いいお・けんじ
1926(大正15)年8月21日、大分県竹田町の生まれ。
小説家。陸軍士官学校(第60期)卒。復員後、昭和24年、旧制五高文科卒。文芸同人誌「詩と真実」(熊本市)同人。「海の向うの血」で第2回すばる文学賞、「ソウルの位牌」「炎」「隻眼の人」でそれぞれ芥川賞候補、「自決」で直木賞候補に。47年から文筆業に専念。〈著書〉短篇集『ソウルの位牌』『隻眼の人』のほか、『自決―森近衛師団長斬殺事件』(集英社、昭57・8)『艦と人―海軍造船官八百名の死闘』(集英社、昭58・7)『開聞岳―爆音とアリランの歌が消えてゆく』(集英社、昭60・6)『五高生殺人―思いや狂う』(集英社、昭61・10)『静かな自裁』(文芸春秋、平2・8)『●擡●(さむはら)』(集英社、平6・11)『一九四〇年釜山』(文芸春秋、平7・8)る。
飯田 栄彦 いいだ・よしひこ
1944(昭和19)年7月13日、福岡県朝倉郡甘木町(現・甘木市)の生まれ。児童文学作家。朝倉高校をへて早稲田大学教育学部国文科卒。在学中は早大童話会に所属。卒業後、帰郷して朝倉農業高校の教員をつとめた経験がある。甘木市在住。『飛べよ、トミー!』(講談社、昭49・11 第13回野間児童文芸賞推奨作品賞)『おじいちゃんはとんちんかん』(講談社、昭54・6)『燃えながら飛んだよ』(講談社、昭56・1 講談社児童文学新人賞)『ぼくのとんちんかん』(講談社、昭55・11)『昔、そこに森があった』(理論社、昭60・9 第26回日本児童文学者協会賞)『真夏のランナー』(あかね書房、昭62・7)『ひとりぼっちのロビンフッド』(理論社、平3・1)など著書多数。
碇 登志雄 いかり・としお
1908(明治41)年8月12日、佐賀県の生まれ。歌人・詩人。1930年代から歌誌「姫由理」を主宰する。昭和25年、同誌を復刊。佐賀県文化館長を勤める。平成6年8月29日死去。享年86歳。
〈詩集〉『疎林の若鳥』(棕梠の葉社、昭6・11)『十七条憲法断章』(昭16) 詩と随筆『五月の花』(佐賀・日本青年館佐賀県支部、昭22・5)〈歌集〉『朝光(あさかげ)(佐賀県鳥栖町・春日堂、昭9・7、中島哀浪・橋本康以の「序」あり)『夕光』(文信堂、昭25)『神幸』(短歌文学会、昭27)『杵島』(短歌文学会、昭29)『松浦』(短歌文学会、昭36・11)『メナムの民』(短歌研究社、昭45)『ルソンの民』(短歌研究社、昭46)『ロシヤの民』(短歌研究社、昭52)『カタールの民』(短歌研究社、昭56)『ビルマの竪琴』(市井社、昭60・8)〈その他〉『佐賀の歌』(昭31・3)『歌人大島病葉』(柏葉書院、昭47・7)【坂口 博&恒成美代子】
梅林寺の梅は香りてその花の美しきさまたたへて歩む
川風に吹かれながらに白梅の花の香りを思ひつつをり

猪城 博之 いき・ひろゆき
1921(大正10)年9月21日、福岡市上新川端町六一番地の生まれ。哲学者。父・猪城秀夫、母・久の第4子(出産は九大附属病院産婦人科)。生家は明治23年創業の博多活版所(太平洋戦争中に児玉印刷所と合併し、戦後に廃業)。冷泉尋常小学校、福岡中学(第四学年修了)をへて昭和13年4月、福岡高等学校文科乙類に入学。2年生のとき留年し、17年3月卒業。同年4月、九大法文学部文科(哲学)に入学。在学中は湯川達典らと聖書研究会を組織し、アサ会(現・アメンの友)の河野博範師から指導を受け、18年11月、湯川達典らと4人で田中遵聖師(小説家の田中小実昌の父親)からバプテスマを受ける。また伊達得夫・福田正次郎(那珂太郎)・湯川達典らとのクラス雑誌「青々」に参加。同年12月、九大を仮卒業し、陸軍歩兵第24連隊(福岡市)に入隊。肺結核に罹患。19年4月、久留米市の陸軍予備士官学校に入学。卒業後、同年8月、肺結核のため久留米陸軍病院に入院。部隊は南方戦線に向かい壊滅。20年3月末、除隊。敗戦の翌年、小倉歯科医専および西南女学院短大で半年間ほど講師をつとめ、21年10月、九大大学院に入学。特別研究生となり月75円の官費支給を受け、26年秋、西南学院大学に助教授として奉職。36年、教授。43年、九大教養部に助教授として移り、45年、教授昇格。60年3月定年退職。福岡市在住。
〈著書〉『善と存在』(九州出版文化研究会、昭40・3)『歴史感覚』(九州出版社、昭42・10)『道の学び―人間学入門』(梓書院、昭51・4)『ヨーロッパ、秋の旅』(ヨルダン社、昭58・8)『比較哲学』(華琳舎、昭63・2)『日本文化とキリスト教』(華琳舎、平2・ 10 )『感恩記』(西日本文化協会、平11・11)翻訳・デカルト『魂の諸情念』(三陽社、昭34・4)
生島 治郎 いくしま・じろう
1933(昭和8)年1月25日、上海生まれ。
小説家。本名、小泉太郎。昭和30年、早稲田大学文学部英文科卒。大学時代は青木雨彦や高井有一らと文芸同人誌「文学奔流」を創刊した。翌年、早川書房に入社し、「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」(EQMM)誌の編集をつとめたあと、38年退社。作家生活に専念し、『傷痕の街』で「日本初の本格的ハードボイルド小説を確立」(『女の寸法男の寸法』付載・作家紹介)。『追いつめる』で第57回直木賞を受賞した。59年、韓国出身の風俗嬢と結婚(再婚)し、『片翼だけの天使』シリーズを出版。ベストセラーとなり映画化された(10年、離婚)。平成元年、日本推理作家協会理事長に就任(5年まで)。〈著書〉『傷痕の街』(講談社、昭39・3)『追いつめる』(光文社、昭42・4)『鉄の棺』(文芸春秋、昭42・10)『運命を蹴る』(毎日新聞社、昭46・4)『薄倖の街』(中央公論社、昭46・7)『恐喝者』(双葉社、昭48・9)『女の寸法男の寸法』(サンケイ出版、昭56・12)『片翼だけの天使』(集英社、昭59・8)『続・片翼だけの天使』(集英社、昭60・5、のち「片翼だけの恋人」と改題し集英社文庫)『片翼だけの結婚』(文芸春秋、昭60・11)。『浪漫疾風録』(講談社、平5・10)は早川書房編集者時代の回想記的小説。
生田 蝶介 いくた・ちょうすけ
1889(明治22)年5月26日、山口県長府の生まれ。歌人・小説家。本名は調介。早大英文科中退。編集者の傍ら、短歌や大衆小説を創作する。大正13年「吾妹」創刊・主宰。墓所は東京青山墓地(乙種イー11−4−16)。山形県山寺立石寺、長崎県雲仙岳大地獄などに歌碑あり。昭和51年5月3日没。歌碑は、山形市山寺・山口県覚苑寺など10箇所ほどあり。
〈著書〉『長旅』(須原啓興社 大5・11)『寳玉』(金星堂 大8・11) 『凝視』(金星堂、大10・6) 『渦潮』(博文館、大11・1) 『旅人』(博文館、大12・5) 『山帰来』(猟人荘、大14・12) 『洋玉蘭』(猟人荘、昭10・7) 『白鳥座』(長谷川書房 昭34・11)『白鳥座以後』(長谷川書房 昭59・5)『白鳥補遺』(生田友也編) 『作歌入門』(立命館大學出版部、昭3・7)『旅に歌ふ』(立命館大學出版部、昭3・9) 『百人一首講義』(立命館大學出版部、昭6・1)『日本和歌史』(立命館大學出版部、昭7・6)小説『聖火燃ゆ』 【恒成美代子】
断崖の底にひびける深渓は全山の雪にただ黒く見ゆ
湯を出でて部屋まで戻る廊下にて硝子の如くなりし手拭長旅

井口 民樹 いぐち・たみき
1934(昭和9)年、大分の生まれ。浦安市。「外科病棟の陰謀」「三冠騎手吉永正人」
池上 永一 いけがみ・えいいち
1970(昭和45)年、那覇市の生まれ。小説家。早稲田大学人間科学部(卒)。1994年、第6回ファンタジーノベル大賞−。
〈著書〉『バガージマヌパナス』(新潮社、1994.12)
池上 三重子 いけがみ・みえこ
1924(大正13)年1月4日、福岡県三潴郡大木町奥牟田253番地の生まれ。歌人。父・池上広吉、母・キクの次女。昭和13年3月、三潴郡大莞尋常高等小学校卒。
15年3月、福岡県山門高等女学校卒。17年3月、福岡女子師範学校本科第二部卒。20年3月、三潴郡蒲池国民学校の教師となり、21年、大莞国民学校に転任。25年11月、北島敬之と結婚。26年、柳川市両開小学校に転任。29年10月、多発性リウマチ様関節炎を発病し、不治の宣告を受ける。30年9月、両開小学校を休職。31年9月、退職。32年6月、国立別府病院に入院し、33年12月、退院。自宅療養生活をつづけ、35年6月、歌集『亜麻色の髪』を上梓。同年10月、NETテレビが「夫と妻の記録」シリーズの1つとして「いのちある限り」と題して夫妻のことを紹介し全国的に反響をよんだ。37年11月、福岡市の日赤病院に入院し、翌年5月退院。39年3月、夫を説得して強引に離婚。歌集『妻の日の愛のかたみに』上梓。40年7月、NETテレビが「妻なれば吾も粧わん」(原作は『妻の日の愛のかたみに』、高橋玄洋脚本)を製作。同年、大映が『妻の日の愛のかたみに』を映画化。45年4月、熊本県天草郡五和町の特別養護老人ホーム「紫明寮」に母キクと一緒に入所。現在は福岡県内に在住。〈歌集〉『亜麻色の髪』(昭35・7)〈手記〉『妻の日の愛のかたみに』(サンケイ新聞出版局、昭40・7、のち三笠書房、昭47・2、すずらん書房、昭51、講談社文庫、昭57・8)『わが母の命のかたみ』(鎌倉書房、平3・2) 〔参考=『郷土の文学』杉森女子高等学校国語科、昭56・5〕
池澤 夏樹 いけざわ・なつき
1945(昭和20)年、北海道の生まれ。小説家。芥川賞。沖縄在住。福永武彦の子息。
池田 岬 いけだ・みさき
1914(大正3)年4月6日、福岡県久留米の生まれ。小説家・評論家。文化学院卒。「文学会議」「九州文学(第2期)」「文学生活」「下界」「宴」「卍」といった文芸雑誌の編集同人。東京ペン集団、新日本文学会員。昭和50年11月28日『俗聖の文学』出版記念会開催を予定するも、「交通スト」などの理由により直前に中止する。1977(昭和52)年1月29日没。
〈著書〉長篇小説『その旗のこちらで』(朱雀社、昭34・8)、評論集『俗聖の文学』(講談社、昭50・7)〔参考〕「卍」第5号(昭53・5)追悼号 【坂口 博】
池袋 清風 いけぶくろ・きよかぜ
1847
(弘化4)年4月、宮崎県都城市の生まれ。歌人。案山子廼舎、松濤窟と号す。門下に大西祝、安部磯雄、徳富健次郎らがいる。祖父は歌人、父・逸民は漢学者で島津公の学問指南役だったという。清風は鹿児島医学校を卒業し、鹿児島女子師範で教壇に立ったが、伝道のため鹿児島を訪れた新島襄に感化を受け、30歳をすぎて同志社に入学し、神学を学んだ。1900(明治33)年7月20日、郷里にて没。享年54歳。没後、歌集『かかしのや歌集』(明36・7)が出版された。同志社社史資料室編・発行『池袋清風日記』(1985)がある。〔参考〕小島吉雄「池袋清風の訳詩」(「文学研究」35、九州帝大文学会編『豊田博士還暦記念文学論文集』惇信堂、昭21.12)某独身氏曰く、「ちなみに彼は晩婚で,48歳で結婚してます。相手は31歳だったそうです。女の子にも恵まれました。親近感をもちます。」原田種夫『黎明期の人びと―西日本文壇前史』(西日本新聞社、49・12昭)
古郷の雲なつかしき夕暮に鳴こそわたれ天つかりかね
池辺 三山 いけべ・さんざん
1864(元治1)年2月5日、肥後国(熊本京町宇土小路)の生まれ。新聞記者。本名は吉太郎。明治45年2月28日没。
伊佐 千尋 いさ・ちひろ
1926(大正15)年、東京の生まれ。ノンフィクション作家。沖縄在住体験あり。
〈著書〉『逆転』
石井 南橋 いしい・なんきょう
1831(天保2)年8月2日、筑後国の生まれ。狂詩人。本名は隆ジョウ。通称は滝治。廣瀬淡窓に漢学を学び、明治5年、上京。成島柳北の「花月新誌」に狂詩を投稿して掲載された。「団団珍聞」の編集顧問となり、一方、狂詩の個人誌「東京竹枝」を創刊主宰。
石川 淳 いしかわ・じゅん
1899(明治32)年3月7日、東京市浅草区福吉町一番地の生まれ。小説家。新堀小学校、京華中学をへて1920(大正9)年3月、東京外国語学校仏語科卒。翌年7月から10月まで横須賀海軍砲術学校講師となり、22年7月から翌年3月まで海軍軍令部に勤務。23年9月から翌年3月まで、慶応義塾仏語科講師となり、24年4月、福岡高等学校の仏語講師として赴任した(年俸1600円!)。芥川賞受賞後のエッセイ「福岡の思出」(「福岡日日新聞」昭12.5.24)には、「わたしは二十六の年、即ち大正十三年の春高等学校の語学教師として福岡へ行き、十五年の春までその職に留つた。但、十五年の春と云ふのは辞令の上だけのことで、実際は或る事情に依りその前年の大晦日に突然慌ただしく博多駅を立ち、おかげで元旦の雑煮を汽車の中で食ふ初めての経験を持つことができた。(略)わたしはその二年間ずつと養巴町に住んでゐた」とある。ここで彼が「或る事情」と言っているのは、いわゆる蜷川事件のことである。1925(大正15)年11月21日、文部省から思想善導のため派遣されて来た法学博士の蜷川新の講演会が福高講堂に全生徒を集めて開催された。このとき場内の左翼学生が怒号を浴びせ、これに右翼学生が反撥し、この騒動をおさめようとする学校職員をまきこんで大混乱になった。この不祥事に対して学校当局は、放校2名、退学2名、無期停学6名、謹慎20数名の処分を断行。この処分に抗議して生徒総会が催され、福高出身の九大生らも学校当局に対する弾劾声明を発表するなど、学校内は混乱をきわめた。石川淳はこれらの左翼生徒にシンパ行為をしたとの理由で退職を慫慂されたようで、1926年3月末日付で依願退職する形式をとり、彼は急遽、この土地を去ったのである。その後、昭和10年代になって小説の創作を試み、「普賢」(「作品」昭11・6―9)で第4回芥川賞を受賞。以後、独自の作風で高い評価を受け、最晩年までユニークな創作活動を持続した。1987(昭和62)年12月29日没。
石川 信 いしかわ・しん
●     小説家。「基隆港」で文学界新人賞。
石川 武美 いしかわ・たけみ
1887(明治20)年、大分県安心院町の生まれ。実業家・評論家。「主婦之友」創刊。昭和32年、第1回印刷文化賞。同33年、第6回菊池寛賞。
石川 道雄 いしかわ・みちお
1900(明治33)年、山口県萩の生まれ。独文学者・詩人。東大独文科卒。山梨大教授。日夏耿之介に師事。ドイツ・ロマン派小説家ホフマンの翻訳など。1959年2月25日没。
石川 利光 いしかわ・としみつ
1914(大正3)年2月3日、大分県日田郡豆田川原町(現・日田市丸山町)の生まれ。小説家。郷里の小中学校をへて、昭和7年、早稲田第一高等学院に入学。昭和12年、早稲田大学を中退して法政大学国文科に入学し、同人誌活動をはじめる。昭和16年、全国同人誌の合併統合により創刊された「文芸主潮」の編集委員となり、昭和18年8月末には宮崎の連隊に召集されたが即日帰郷となった。戦後の昭和21年、出版社「九州書院」を設立したが、2年後に「モダン日本」の新太陽社と合併したが昭和25年に倒産した。昭和23年、丹羽文雄を中心に結成された「十五日会」に参加。「夜の貌」「手の抄」(「新潮」昭25.12)で芥川賞候補。昭和26年7月、「春の草」その他で第25回芥川賞を受賞し、10月、最初の短篇集『春の草』(文芸春秋新社)を上梓。ちなみに、故郷の思い出など回想した五十回連載エッセイ「右往左往」を「西日本新聞」に昭和56年10月3日から12月10日まで発表。また、『芥川賞全集』第四巻(文藝春秋、昭57・5)に自筆年譜がある。
〈著書〉『春の草』(文芸春秋新社、昭26.10)『火蛾』(小説朝日社、昭28.2)『女だけの旅』(山田書店、昭29.12)『半未亡人』(鱒書房、昭30.12)『忘れ扇』(小壷天書房、昭32.2)『女の緑地』(小壷天書房、昭32.10)『女性の美と悪徳』(東京書房、昭33.12)『爪あと』(小壷天書房、昭33.3)『十二の結婚』(小壷天書房、昭34.12)『女人彩色』(昭和書館、昭36.8)『女触』(七曜社、昭37.8)『プレイガール』(毎日新聞社、昭43.7)
石沢 英太郎 いしざわ・えいたろう
1916(大正5)年5月17日、中国・大連生まれ。ミステリー作家。本名は沢井寛。19歳のとき大A商業を卒業。昭和9年、満州電業(満鉄の子会社)に入社し、大連支社に勤務。22二年、帰国。大阪の関西配電に就職し、労働運動にも携わった。その後、東京に移って結婚。28年、九州経済調査協会(福岡市)に就職。定年2年前の53歳のとき職を辞し、創作に専念した。創作は若い頃から試みたが、本格的に取り組んだのは46歳頃からで、昭和37年、初の推理小説「脅迫旅行」で第1回オール読物推理小説新人賞に応募し、次席入選(受賞作は福岡県直方市在住の高原弘吉「あるスカウトの死」)。40年、「羊歯行」で第一回双葉推理賞に応募し、翌年、受賞した。53年、「視線」(「小説宝石」昭51・4)で第30回日本推理作家協会賞(短篇部門)を受賞。福岡県太宰府市在住。昭和63年6月16日夕刻、脳梗塞の後遺症を苦に自宅玄関で縊死した。『石沢英太郎追悼文集』(編集・発行=中村光至、昭63・10、非売品)がある。
〈著書〉『橋は死の匂い』(双葉社、昭49・3)『やきもの推理行』(新人物往来社、昭51・8)『五島・福江行』(集英社、昭52・8)『ブルー・フィルム殺人事件』(立風書房、昭52・8)『視線』(文芸春秋、昭52・9)『噂を集め過ぎた男』(新評社、昭52・12)『羊歯行・乱蝶ほか』(講談社文庫、昭53・8)『秘画殺人事件』(集英社、昭54・3)『謀鬼』(講談社文庫、昭54・4)『殺人日記』(集英社文庫、昭54・7)『死の輪舞』(双葉社、昭55・11)『空間密室』(講談社、昭56・6)『ヒッチコック殺人事件』(廣済堂出版、昭57・8)『九州殺人行』(光文社、昭57・11)『南海幻想』(光文社文庫、昭59・9)『福岡・博多殺人模様』(廣済堂文庫、昭61・5)『中州ネオン街殺人事件』(廣済堂文庫、昭61・8)『小数派』(講談社、昭62・4)『博多歓楽街殺人事件』(廣済堂文庫、昭62・5)『秘画・写楽の謎』(ケイブンシャ文庫、昭62・10)『推理作家の裏側の裏』(廣済堂文庫、平1・2)
石田 比呂志 いしだ・ひろし
1930(昭和5)年10月27日、福岡県京都郡苅田町与原の生まれ。歌人。本名は裕志。旧制豊津中学に入学したが、不良生徒だったといい、昭和19年、2年生の1学期で放校処分。徴用で筑豊の日炭高松炭鉱に行き、予科練を志望して20年8月15日付の入隊通知を受け取ったが敗戦を迎えたという。21年、熊本の鉄道学校に入学。石川啄木の短歌に出会い、歌人になることを決意。23年の夏、単身上京したが、2年余で挫折して帰郷。29年、山口県宇部市に行き、労務者生活を送っていた時、新聞歌壇に特選入選。翌年、故郷に戻り、歌誌「青濤」を創刊し、また角川短歌賞に応募して入選。33年、山埜井喜美枝と結婚。34年6月、「未来」に入会し、近藤芳美に師事。37年1月、牙短歌会を結成し、会誌「牙」を創刊。同年3月、「牙」創刊同人の山本詞
(やまもと・つぐる)の坑内事故死に遭う。まもなく単身上京し、遅れて山埜井喜美枝も追い、二人してキャバレーに勤めたりしながら生活した。40年、単身帰郷。49年、「牙」を復刊。同年夏、阿木津英と知り合い、やがて熊本市秋津町の借家(夢違庵)で同棲生活に入ったが、10年後、阿木津英は単身上京し、同居生活を解いた。この間、未来賞、第20回熊日文化賞、第22回短歌研究賞を受賞(『シリーズ・私を語る 片雲の風』熊本日日新聞社、平9・4)〈歌集〉『無用の歌』(白玉書房、昭40・7)『怨歌集』(中津・牙短歌会、昭48・3)『聲集』(短歌新聞社、昭51・2)『狼』(短歌新聞社、昭53・8)『長酣集』(牙短歌会、昭56・7)『鶏肋』(松下書林牙短歌会、昭56・7)『滴滴』(昭現代書房新社、昭61・5)『九州の傘』(妙子屋書房、平1・1)『現代短歌文庫8 石田比呂志歌集』(砂子屋書房、平2・2)『孑孑』(砂子屋書房、平4・1)〈評論集〉『夢違庵雑記』(短歌新聞社、昭52・9)『続・夢違庵雑記』(短歌研究社、昭55・1)『短歌の中心と周辺』(短歌新聞社、昭60・6)『食物のある風景』(砂子屋書房、昭63・1)『一蓑一笠―ある異端歌人の囈語』(大阪・斉藤編集事務所、平4・4)『歌の乾坤―簡素の歌学』(砂子屋書房、平6・7)など。『石田比呂志全歌集』(砂子書房、平13・5)
石中 象治 いしなか・しょうじ
1900(明治33)年4月28日、熊本県天草の生まれ。ドイツ文学者。大正15年3月、福岡高等学校文科乙類卒。東京帝国大学文学部独文科に進学し、昭和4年3月卒業。文部省嘱託、徳島高工、山口高校、六高の各校教師を経て、戦後は新制九州大学(久留米市の第三分校)にドイツ語教師として着任した。九大を退官後は千葉商科大学教授。昭和10年の春、東大独文科関係者が中心となって創刊した文芸誌「アカイエル」に参加。11年春、同人雑誌の大同団結により文芸誌「日本浪曼派」と合併して同人となり、以後、同誌に詩や小説、ゲーテの翻訳などを発表した(石中象治「二誌合併の前後」、『日本浪曼派とは何か』雄松堂書店、72・2)。昭和56年11月12日没。
〈著書〉詩集『海の歌』(昭14)『ドイツ戦争文学』(弘文堂書房、昭14・9)『芸術家の精神』(圭文社、昭23・2)『私の文芸ノート』(同学社、昭39・10)〈翻訳〉ハイネ『浪漫派』(春陽堂、昭9・8、世界名作文庫)『ゲーテ箴言集』(冨山房、昭13・6、冨山房百科文庫)カロッサ『幼年時代』(冨山房、昭13・11、冨山房百科文庫)リルケ『ロダン』(弘文堂書房、昭15・8、世界文庫)ヘッセ『郷愁』(三笠書房、昭17・2)などがある。【坂口博】)
石野 径一郎 いしの・けいいちろう
1909(明治42)年3月28日、沖縄県首里区(現・那覇市)寒川町の生まれ。小説家。本名は朝和、径一郎は筆名。大正10年、沖縄県立第一中学に入学し、同15年、上京。東京市教員講習所に入学し、翌年、東京府小学校検定試験に合格し、日本橋区で教員となる。昭和3年、児童劇に夢中になり、坪内逍遙に師事し、築地小劇場に通う。同4年、法政大学高等師範科に入学、同7年、同大師範科を卒業し、国文科に入学手続きをする。昭和11年、結婚し、同17年10月、勤務先の帝国教育会出版部から長篇小説『南島経営』を上梓。昭和16年10月から翌年10月まで「九州文学」の同人。昭和20年3月、空襲により自宅が全焼し、妻の実家のある石川県小松市に疎開。10月、単身帰京し、編集者などをしながら創作を発表。平成2年8月3日没。
〈著書〉『南島経営』(帝国教育会出版部、昭17・10)『ひめゆりの塔』(山雅房、昭25・6)『沖縄の民』(昭31)『火の花の島』(昭31)『夜の沼』(昭33)『守礼の国』(昭●)『琉歌つれづれ』(昭●)『実説・ひめゆりの塔』(現代出版社、昭48・5)
昭和二十六年の夏、私は石井みどり舞踊団といっしょに沖縄へわたった。塔の前でバレー『ひめゆりの塔』を演じて、舞踊による慰霊祭をするためであった。そして祭の後、私はひめゆり隊の人たちにあって沖縄戦の苦しかった状態をいろいろときき、怒りと涙に胸を熱くした。(石野径一郎「『実説』ひめゆりの塔」、『ひめゆりの国』わせだ書房新社、昭44・9)
石橋 忍月 いしばし・にんげつ
1865(慶応元)年9月1日
※要確認11月2日?(現・10月20日)、筑後国(福岡県)上妻郡豊岡村の生まれ。文芸評論家。本名は友吉。 別号は筑水魚夫、萩の門、局外生、福洲学人、忍岡穏士の他多数。東京帝大独法科卒。一高在学中に書いた『妹と背鏡を読む』(明20)が最初の評論。その後、評論雑誌「国民之友」に主に評論を発表。明治20年代、鴎外と舞姫論争を交わす。明治24年、大学卒業し、内務省に就職して文筆活動を停止。明治32年、長崎地方裁判所判事となり、のち長崎市で弁護士を開業。市会議員・県会議員にもなった。1926年2月1日、同地にて没。文芸評論家の山本健吉の父。〈著書〉山本健吉編『石橋忍月評論集』(昭14)
石橋 秀野 いしばし・ひでの
1909(明治42)年2月19日、奈良県の生まれ。俳人。山本健吉の妻(昭和4年結婚)。文化学院在学中に与謝野晶子に短歌を、高浜虚子に俳句を学び、昭和13年から横光利一主宰の句会「十日会」に参加。俳誌「鶴」同人。1947年9月26日没。
〈句文集〉山本健吉編『櫻濃く』(創元社、昭24・3※茅舎賞)
 蝉時雨児は担送車に追ひつけず
石松 豊彦 いしまつ・とよひこ
1930(昭和5)年4月23日生まれ。詩人。昭和24年、福岡県立宗像高校(男子・第1回)卒業。25年以後は地元の青年団活動、演劇サークルの組織と2回の公演、うたごえ運動と自由奔放の時代を過ごす。28年11月のロシア革命記念日に日本共産党に入党。主として宗像における非公然および公然活動に従事。42年、正式に日本共産党籍を離脱。43年現在、福岡県宗像郡宗像町(現・宗像市)須恵の自宅で農業を経営。日本ベトナム友好協会福岡支部会員。その後、不動産業に転じる。
〈著書〉詩集『怒りの出産―ベトナム反戦詩集』(私刊、昭43・11)〔参考=詩集『怒りの出産』付載「著者略歴」) 【坂口 博】
石光 真清 いしみつ・まきよ
1868(慶応4)年7月14日(現・8月31日)、肥後国(熊本県)の生まれ。軍人・諜報活動家。陸軍士官学校卒。日清戦争後、ロシア研究のためシベリアに渡り、日露戦争をはさんで諜報活動に従事。大正8年、帰国。晩年は失意の日々を過ごした。1942年5月15日没。嗣子石光真人が手記を整理して出版し、昭和33年、毎日出版文化賞受賞。
〈著書〉『城下の人』(二松堂、昭18・7、のち再刊、龍星閣、昭33・6)『曠野の花』(龍星閣、昭33・7)『望郷の歌』(龍星閣、昭33・10)『誰のために』(龍星閣、昭34・11)
石村 通泰 いしむら・みちやす
1925(大正14)年6月9日、福岡県の生まれ。詩人。旧制大分高商卒。「母音」「回帰」「木立」「木守」「ALMEE」同人。詩集に『冬相聞』(ALMEEの会)『しずめうた』(ALMEEの会)『水晶』(葦書房)『空の花』(石風社)がある。 
参考=『資料・現代の詩』(角川書店、2001.4.30)
石牟礼 道子 いしむれ・みちこ
1927(昭和2)年3月11日、熊本県天草郡宮河内の生まれ。作家。父親の白石亀太郎の仕事は石工で、彼が宮河内の建設現場で働いているときに出生し、数箇月後には水俣町に帰ったという。昭和9年、水俣町第二小学校に入学。15年、水俣第一小学校を卒業し、水俣実務学校(現・県立水俣高校)に入学。18年、同校を卒業後、佐敷町の代用教員練成所に入り、二学期から田浦小学校で教鞭をとった。21年春、水俣市の葛渡小学校に転任したが結核を発病し、秋まで自宅療養。翌年3月、退職し、石牟礼弘と結婚した。28年1月、歌友の志賀(男沢)狂太に誘われて歌誌「南風」(昭27・10創刊、熊本市)に入会した――この時期の彼女については井上洋子「石牟礼道子 初期短歌のころ」(「ガイア」3―7、平2・4―5・2)に詳しい――。29年、谷川雁からハガキをもらい、秋、彼と知る。33年9月、「サークル村」結成に参加。34年5月、日本共産党に入党(翌年9月まで)。同月、はじめて水俣病患者を見舞い、35年1月、「サークル村」にルポ「奇病」を発表。43年1月、水俣病対策市民会議を結成し、翌44年、提訴。同年、『苦海浄土』を上梓し、熊日文学賞および第1回大宅壮一ノンフィクション賞を授与されたが、いずれも辞退した。49年、水俣病関係の著作に対してマグサイサイ賞を受賞し、また『十六夜橋』(径書房、平4・5)で第3回紫式部文学賞を受賞した。渡辺京二編「著作年譜」(『潮の日録』、福岡・葦書房、昭49・12)がある。
〈著書〉『苦海浄土』(講談社、昭44.1)『流民の都』(大和書房、昭48.3)『花帽子―坂本しのぶちゃんのこと』(創樹社、昭48.4)『天の魚』(筑摩書房、昭49.10)『潮の目録』(葦書房、昭49.12)『椿の海の記』(朝日新聞社、昭51.11)『草のことづて』(筑摩書房、昭52.12)『石牟礼道子歳時記』(日本エディタースクール出版部、昭53.12)『西南役伝説』(朝日新聞社、昭55.9)『みなまた 海のこえ』(小峰書店、昭57.7)『常世の樹』(葦書房、昭57.10)『あやとりの記』(福音館書店、昭58.11)『おえん遊行』(筑摩書房、昭59.6)句集『天』(天籟俳句会、昭61.5)『陽のかなしみ』(朝日新聞社、昭61.12)『乳の潮』(筑摩書房、昭63.4)歌集『海と空のあいだに』(葦書房、昭64.10)『不知火ひかり凪』(筑摩書房、昭64.11)『花をたてまつる』(葦書房、平2.3)『十六夜橋』(径書房、平4.5)『天湖』(平●)
石山 滋夫 いしやま・しげお
1917(大正6)年9月11日、長崎県の生まれ。小説家。本名は小峰昇。県立長崎中学、広島高等師範学校をへて昭和16年、広島文理科大学英語英文学専攻修了。26年、「遥かなる彼方」で横光利一賞候補。同人誌「黄金部落」「九州作家」同人。北九州市小倉北区在住。
〈著書〉『遥かなる彼方(五月書房、昭45・3)』『吹雪のなかの炎たち』(五月書房、昭47・11)『評伝高島秋帆』(福岡・葦書房、昭61・8)
伊集院 静 いじゅういん・しずか
1950(昭和25)年2月9日、山口県防府市の生まれ。小説家。本名は西山忠来。防府高校をへて、47年、立教大学文学部日本文学科卒。小学校から大学2年まで野球に熱中した。大学卒業後は広告代理店に勤務したのち、フリーのテレビCMプロデューサーや作詞家として活躍し、「皐月」(「小説現代」昭56・6)で小説家デビュー。「乳房」(「小説現代」平2・6)で第12回吉川英治文学新人賞。「受け月」(「オール読物」平4・1)で第107回芥川賞を受賞し、同題の短編集(文芸春秋、平4・5)を上梓。以後、小説やエッセイを旺盛に執筆し、『機関車先生』(講談社、平6・6)で第7回柴田錬三郎賞を受賞。「乳房」「クレープ」(「小説現代」平2・5)「機関車先生」の3作は映画化された。幼年期を描いた小説『海峡』(新潮社、平3・10)についで、少年期の『春雷』(新潮社、平11・10)、および青年期の『岬へ』(新潮社、平12・10)があり、〈自伝三部作〉をなす。女優の夏目雅子の夫で、彼女亡きあとは女優の篠ひろ子の夫。松任谷由美、阿川泰子、松田聖子らのコンサートの演出を手がけ、近藤真彦のヒット曲「ギンギラギンにさりげなく」は彼の作詞によるもの。在日韓国人二世だが、昭和49年に日本国に帰化した。
伊集院 斉 いじゅういん・ひとし
1895(明治28)年8月21日、鹿児島県の生まれ。美学者・小説家・評論家。本名は相良徳蔵
(さがら・とくぞう)。昭和51年8月21日没。〈著書〉『展望車の窓から』(昭9)『大衆文学論』(桜華社出版部、昭17)
泉 淳夫 いずみ・あつお
1909(明治42)年2月25日、●の生まれ。川柳人。本名は太郎。昭和23年、ふあうすと川柳社同人。40年、藍グループ創立。福岡市在住。
〈句集〉『平日』(昭40・3)『風話』(藍グループ・発行所、昭47・4)
出海 渓也 いずみ・けいや
1928(昭和3)年10月8日、福岡県大牟田市の生まれ。詩人。詩作を試み、ランボオに心酔。昭和22年、詩誌「詩郷」を創刊。翌年、上京し、新日本文学会の書記局に勤める。23年、詩誌「Pionner(ピオネ)」創刊同人。24年、詩誌「芸術前衛」創刊同人。25年、「レアリテ」創刊同人。
同年、『日本前衛詩集』(十二月書房)編集、26年、『世界解放詩集』(飯塚書店)『世界前衛詩集』(知加書房)編集。27年、井手則雄・関根弘らと詩誌「列島」を創刊し、編集委員。同年4月、大牟田に帰郷。当地で、「らんぼお」という名前の酒場を開き、三池争議の渦中、サークル誌「文学ひろば」などを発行。49年、「詩と思想」発行。横浜市在住。〈著書〉詩集『アンダルシアの犬』(詩学社、平1・11 ※関根弘「序」)詩集『黒いマリア―旅の詩』(土曜美術社出版販売、平12・10)評論集 『アレゴリーの卵』(潮流出版社、平12・10)詩集『水の遠景』(新・現代詩の会、平14・4*新・現代詩叢書1)評論集『戦後詩の方法論―出海渓也詩論集』(知加書房、平14・10*新・現代詩論集シリーズ1)詩集『〈新・日本現代詩文庫9〉出海渓也詩集』(土曜美術出版販売、平14・11)
泉 甲二 いずみ・こうじ
1894(明治27)年8月31日、福岡市の生まれ。歌人。本名、山田邦祐。早大英文科卒。大正6年、北原白秋に師事し、昭和10年、「多磨」創刊に参加。戦後は昭和23年から25年まで「多磨」編集を担当し、昭和28年、歌誌「中央線」相創刊に参加した。1980年11月10日没。
〈著書〉歌集『白き秋』(研究社、昭22.11)『世界名画物語』『世界名画巡礼』編著『名歌鑑賞二十人集』編著『日本伝承童謡集成』
泉 大八 いずみ・だいはち
1928(昭和3)年8月25日、鹿児島県出水市の生まれ。小説家。本名は百武平八郎。熊本の陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進学したが、敗戦となり、鹿児島の旧制第七高等学校造士館に編入。退学して上京し、職を転々としたあと昭和27年、電電公社に就職(43年退職)。昭和34年、「空想党員」が共産党機関紙「アカハタ」に入選。35年、「ブレーメン分会」(「新日本文学」昭35・7)で芥川賞候補。以後、「珍細胞」、「ブレーメン分会」(「新日本文学」昭35.7)、「メカニズムの女」(同12)、「アクチュアルな女」(「別冊新日本文学」昭36.7)などの小説を発表し、評論「日常的文学との訣別」(「新日本文学」昭36.9)もある。1970年代から80年代にかけて、スポーツ新聞の情痴小説欄で人気を集めた
〈著書〉『アクチュアルな女』(三一書房、昭36・11)『欲望のラッシュ』(講談社、昭42・7、のち講談社ロマン・ブックス、昭43・1)『陽気な痴女たち』(講談社、昭44・6)『狩猟の歌がきこえる』(講談社、昭45・2)『愛好航路』(青樹社、昭47・4)『ヘンな体験』(ベストセラーズ、昭47・8)『体験ざかり』(サンケイ新聞社出版局、昭50・11)『せっくす個人教授』(廣済堂出版、昭55・1)『いま、いい?』(青樹社、昭56・2)
泉 芳朗 いずみ・よしろう
1905(明治38)年3月18日、鹿児島県大島郡伊仙村(徳之島)面縄の生まれ。詩人・教育者・政治家。一時、泉与史朗の筆名を使う。また「ほうろう」の呼称で親しまれた。面縄尋常小学校、伊仙尋常高等小学校高等科を卒業して、大正9(1920)年に鹿児島県立第二師範学校(現・鹿児島大学)第一回生として入学。大正13年3月、同校を卒業し、大島郡赤木名小学校訓導となり、いくつかを転任。大正15年6月、白鳥省吾主宰の「地上楽園」(大地舎)創刊を知り、同人となる。昭和3(1928)年4月、上京して千駄ヶ谷小学校訓導となり、日本大学専門部国文科に入学するが、昭和6年4月に中退する。昭和9年11月詩誌「詩律」(昭和11年7月に「モラル」と改題し、さらに昭和13年1月に「詩生活」と改題。昭和14年4月、通巻50冊にて廃刊)を創刊、主宰する。伊波南哲・内田博・板橋謙吉・上林猷夫・池田克己・渋谷周堂らが同人となる。昇曙夢・佐藤惣之助・小熊秀雄らと交遊する。昭和14年6月「詩と詩人」を浅井十三郎・田村昌由・久須耕造・小笠原啓介と創刊する。この年の夏に健康を害して帰郷する。昭和16年に伊仙国民学校教頭に就任し、のち神之嶺国民学校校長から鹿児島県視学に任命され、名瀬に住む。昭和22年2月の「分離」以後は、奄美文芸家協会創立(会長)、月刊雑誌「自由」社社長、奄美大島社会民主党結成(書記長から中央執行委員長)、奄美大島日本復帰協議会結成(議長)など、奄美の文化活動と復帰運動を推進する。昭和26年8月には120時間の復帰祈願の断食もおこなう。昭和27年9月、名瀬市長に当選。昭和28年12月25日、奄美群島の日本復帰を実現する。昭和29年1月、衆議院議員選挙に日本社会党から立候補のため名瀬市長を辞任する。詩集刊行の準備で上京中に、風邪から急性肺炎をおこし、昭和34(1959)年4月9日東京警察病院で死去。11日東京にて東京奄美会の告別式・火葬。22日鹿児島市にて鹿児島奄美会の告別式。26日名瀬市にて大島郡民葬。30日面縄小学校にて村民告別式・納骨。
〈詩集〉『光は濡れてゐる』(大地舎、昭2・6)『赭土にうたふ』(大地舎、昭3・9)『オ天道様ハ逃ゲテユク』(黎明社、昭9・4)、『泉芳朗詩集』(泉芳朗詩集刊行会、昭34・12)〔参考〕水野修『炎の航跡―奄美復帰の父・泉芳朗の半生』(潮風出版社、1993.4)『泉芳朗詩集』付載「年譜」 【坂口 博】
泉本 三樹 いずもと・みき
1904(明治37)年6月15日、長崎市外高浜村の生まれ。小説家・児童文学者。本名、三樹男。大正15年、長崎県立師範学校卒。昭和9年、「少女の空気銃」が「改造」懸賞小説で佳作一席となり上京。1970年没。
〈著書〉児童文学集『少年歳時記―花ある雑草』(厚生閣、昭10.3 ※「少女の空気銃」「火宅曼陀羅」少年歳時記」所収。 「花ある雑草」は松竹大船で映画化されたときの題名)『金魚と時計』(ささき書房、昭17)
磯崎 藻i二 いそざき・そうじ(?)
1901(明治34)年、大分市の生まれ。俳人。「天の川」幹部同人。昭和26年没。
礒永 秀雄 いそなが・ひでお
1921(大正10)年1月17日、旧朝鮮仁川の生まれ。詩人・小説家。京城中学、姫路高校をへて東京帝大文学部美学科に進学。昭和18年、学徒動員で南方へ行き、敗戦の翌年6月に復員。山口県光市に居住。やがて詩作を試み、23年、小詩集『天路への誘い』『聖玻璃彷徨』『夜の聖歌隊』を刊行。同年、結婚。25年、詩誌「駱駝」創刊。26年、詩集『浮灯台』で第1回山口県芸術文化振興奨励賞を受賞。昭和47年、山口県文学者訪中団の一員として中国訪問。これを機に翌48年4月、冨松博、名和文彦、古川薫、太田静一、中田潤一郎らと文芸同人誌「流域」を創刊。昭和51年7月27日没。が刊行された。
〈著書〉『浮灯台』(書肆ユリイカ、昭26・11)『別れの時』(書肆ユリイカ、昭34・1)『降る星の歌』(扉同人会、昭39・6)『海がわたしをつつむ時』(鳳鳴出版、昭46・5)『燃える海』(下関・長周新聞社、昭48・11)〈詩劇集〉『夢の塔』(光・駱駝詩社、昭31・11)『渇いた宿』(駱駝詩社、昭32・1)〈童話集〉『四角い窓とまるい窓』(下関・扉同人会、昭39・1)〈童話集〉『夢の柩』(潮出版社、46・6)、没後に『礒永秀雄選集』(長周新聞社、昭52・10)『礒永秀雄詩集』(長周新聞社、平1・3)がある。〔参考〕「流域」第11号(昭51・9、特集「詩人・礒永秀雄の急逝を悼む」)
磯野 徳三郎 いその・とくさぶろう
1857(安政四)年2月24日、筑後国の生まれ。翻訳家。号、依緑軒主人・無腸道人。東大医学部卒。文部省に勤務したのち新聞「日本」の記者となり、ユゴー紹介に努力した。1904年8月11日没。
〈著書〉『依緑軒漫筆』(日本新聞社、明26.9)翻訳『社会主義新小説 文明の大破壊』(博文館、明36.6)
井田 敏 いだ・びん
●年、大牟田市の生まれ。放送脚本作家。福岡市在住。1999年秋、68歳。懸賞ドラマに入選。沖縄復帰の年、昭和47年から執筆活動を開始した。九州・沖縄を舞台とする作品が多い。
板橋 謙吉 いたばし・けんきち
1911(明治44)年12月23日、岡山県笠岡市の生まれ。詩人。松浦亀太郎・タミの4男。大正12年、父親が亡くなり、福岡の異父姉夫婦の板橋武雄・雪枝に引き取られた。13年、福岡中学に入学したが、15年、大阪・京都へ家出し、福岡中学は退学。昭和3年、立命館中学に編入し、この頃から文学に親炙。5年、再度異父姉夫婦の援助を得て、福岡高等学校に入学。翌年、異父姉夫婦の養子となり板橋姓を名のる。7年、同人誌「カイム」創刊。8年4月、京都帝大に入学し、同年5月滝川事件、治安維持法違反で検挙された。9年、第1詩集『第一紀層』上梓。11年、京大を卒業し、福岡日日新聞社に入社、熊本支局に勤務したが、上司と衝突し数箇月で退社。上京し、資生堂に就職。15年、病気のため資生堂を退社し、翌年日本ステンレスに就職。17年以降、職を転々とし、22年帰福。福岡県福岡地方労働委員会事務局に勤務し、24年、小島直記らの第三期「九州文学」に参加。
28年、「九州作家」創刊同人。「詩科」創刊同人。37年、北川晃二・中村光至・牛島春子らと文芸誌「現代作家」創刊。40年、福岡県総務部県史編纂室長。45年、県庁退職。49年、福岡県須恵町立歴史民俗資料館館長に就任(翌年退任)。56年7月10日、脳内出血のため急逝。『秒のなかの全て』(南風書房、昭58・3)巻末に板橋旺爾編年譜がある。
市川 森一 いちかわ・しんいち
1941(昭和16)年4月17日、長崎県諫早市の生まれ。放送脚本作家。日大芸術学部卒。昭和41年、「怪獣ブースカ」(日本テレビ)で脚本家としてデビュー。「ウルトラセブン」「コメットさん」「刑事くん」(いずれもTBS)などの脚本を執筆。
〈著書〉『太陽にほえろ』(大和書房、1984.3)『親戚たち』(大和書房、1985.9、※舞台は諫早)『〈市川森一ファンタスティックドラマ集〉夢回路』(株式会社柿の葉会、1989.10、※「市川森一全作品年譜」付載)『萬暦長崎奉行秋冬篇』(光文社、1996.4)
伊地知 進 いぢち・すすむ
1904(明治37)年4月30日、福岡県生まれ。小説家。陸軍士官学校卒業。混成第24旅団(旅団長・下元熊彌少将)歩兵第24聯隊第1大隊(大隊長・碇善夫少佐)第4中隊(中隊長・柴田二郎大尉)小隊長(中尉)として、上海事変に従軍(昭和7年2月6日佐世保出港〜3月23日門司帰港)。この時の戦記を『火線に散る―上海実戦記』(欽英閣、昭7・11)として発表。支那事変後は、馬淵逸雄中佐・火野葦平らとともに上海の陸軍報道部に勤める(大尉)。昭和15年6月、「将軍と参謀そして兵」を「講談倶楽部」に発表し、日活多摩川でも映画化(「将軍と参謀と兵」昭17・3、田口哲監督・阪東妻三郎主演)され注目された。また「廟行鎮再び」(「オール読物」昭15年10月号)で、第12回(昭和15年下半期)直木賞候補作となる。敗戦後は筆を折り、新東産業東京支店長などを勤めたという。1966(昭和41)年11月26日死去。なお、『日本近代文学大事典』では「本名秋葉三郎」とあるが、『兵旅の賦』でも伊地知進だ。『火線に散る』も、「陸軍歩兵中尉伊地知進著」となっている。伊地知進はほんとうに筆名か? 〈著書〉『火線に散る―上海実戦記』(欽英閣、昭7・11※初版発行は11・1だが、検閲で「修正」版を11・30発行。修正12版(昭7・12・5)には、「3334頁全部及35頁弐行削除『乞御諒恕』」と、32頁の次の35頁に記載されている)『追撃』(改造社、昭14)『大地の意志』(昭14)など。【坂口博】
三月二十三日、門司へ上る。/駅頭官民の歓呼は、いま更云ふ要はない。小倉八幡は、生々営々として、黒煙高く天を衝いてゐた。彼方の工場、此方の石炭の上に立ち並ぶ青菜葉服の狂舞する手、手拭が、どんなに嬉しかつたか。/門司より博多へ、余は、頑強に沈黙を守つて来た。(『火線に散る』)
一丸 章 いちまる・あきら
1920(大正9)年7月27日、福岡市の生まれ。詩人。生家は市内の新柳町の遊郭であったといい、幼くして両親と生き別れ、同じく花街に住む伯母のもとで育った。昭和12年、福岡中学(旧制)卒。「こをろ」「母音」「九州文学」「ALMEE(アルメ)」などに参加。生来病弱な体質で、戦後は NHK福岡やKBC九州朝日放送などに脚本などを書き、また研究所員や短大・文化サークルの講師をつとめた。昭和41年、福岡県詩人会の創立に加わり、48年から平成1年まで代表幹事をつとめた。第1詩集『天鼓』(思潮社、昭47・6)は、詩誌「ALMEE」に昭和39年から41年まで発表した散文詩計11篇(「血涙記」「幻住庵」「山姥」「筑紫野抄」など)を収録したもの。昭和48年3月、この詩集で第23回H氏賞を受賞した。九州在住者初の受賞だった。「詩学」同年3月号はH氏賞特集。崎村久邦と黒田達也が一丸章論を寄稿している。第2詩集『呪いの木』(福岡・葦書房、昭54・4)がある。
昭和59年、福岡市文化賞受賞。平成2年、福岡県教育文化功労賞表彰。平成7年、地域文化功労者文部大臣表彰。平成13年、先達詩人顕彰(日本現代詩人会)。福岡市早良区高取在住。平成14年(2002)6月2日死去。享年81歳。未完の長詩「美濃道行魂胆咄(みのへのみちゆきこんたんばなし)」がある。【花田俊典&恒成美代子】
筑紫路の火まつり大宰府天満宮の鬼すべを二人して見た翌朝 なすこともなくひとり茶の間に居れば火が水を呼ぶとの例えどおり窓も破らんばかりに霙まじりの風が吹いてくる ゆうべは早春を思わせるような空に朧な三日月さえ浮び すさまじい火柱の怪しい照り返しのなかに夢うつつ 汗ばむやわらかいあの手をとっていたものを 何ともはや後朝(きぬぎぬ)の歌にもならぬけさの飛沫(しぶき)のこの冷たさ……(『天鼓』冒頭部分)
五木 寛之 いつき・ひろゆき
1932(昭和7)年9月30日、福岡県の生まれ。小説家。本姓・松延。戦後、朝鮮半島から引き揚げ、早稲田大学露文科中退。「さらばモスクワ愚連隊」(昭41)でデビューし、「蒼ざめた馬を見よ」(昭42)で第56回直木賞を受賞した。
〈著書〉『青年は荒野をめざす』『風に吹かれて』『青春の門』
一色 次郎 いっしき・じろう
1916(大正5)年5月1日、鹿児島県沖永良部島の生まれ。小説家。本名・大屋典一。幼くして父を亡くし(無実の罪で獄中で結核死)、また母とも生別。大正12年、鹿児島尋常高等小学校に入学。複雑な家庭事情のため、転出入をくり返し、小学5年生の夏頃、母親と一緒に帰郷。母の死後、鹿児島市へ戻された。昭和12年4月、上京し、文芸春秋社の佐々木茂索を訪ね、以後、師事する。敗戦前後は西日本新聞社東京支社に勤務。「冬の旅」(「三田文学」昭24・8)で三田文学賞候補。昭和41年12月、佐々木茂索が死去。心機一点するため、本名の「大屋典一」から「一色次郎」という筆名にし、昭和42年、「青幻記」(「展望」昭42.8)で第3回太宰治賞。上京以来、じつに苦節30年の成果であった。「沖永良部島知名の生まれの彼は38年3月、36年ぶりに帰郷。ふるさとで昭和2年、36歳で死んだ母・大屋ムメ(旧姓黒木)の遺骨を、鹿児島市城山墓地にある父・元翠の遺骨とともに東京に持帰って埋葬する。ムメの死は病死だが、小説ではサンゴ礁の海で波に洗われながら死んでいく」(河谷日出男『おんな風土記―西日本の群像をさぐる』下関・赤間関書房、昭和45・8)。ドキュメント『日本空襲記』(文和書房、昭47・6)や、共同編集の『東京大空襲・戦災誌』全5巻があり、後者は菊池寛賞を受賞した。昭和63年5月25日没。
〈著書〉『太陽と鎖』(河出書房新社、昭39)『小魚の心』(家の光協会、昭52)『運河通り』(三一書房、昭44)『影絵集団』(文和書房、昭49)『海の聖童女』(筑摩書房、昭42)『日本空襲記』(昭47)『魔性』(三一書房、昭54)
井出 俊朗
1910(明治43)年、佐賀県の生まれ。シナリオ作家。第一作「青い山脈」(昭24)。
伊藤 一彦 いとう・かずひこ
1943(昭和18)年9月12日、宮崎市の生まれ。歌人。宮崎市生まれ。宮崎大宮高校をへて、昭和41年、早稲田大学文学部哲学科卒。在学中に、福島泰樹のすすめで早稲田短歌会に入部。卒業後、帰郷し、宮崎県内の高校に勤務しながら歌作および評論活動を続け、平成元年、宮崎県文化賞(芸術部門)を受賞した。
〈歌集〉『瞑鳥記』(反措定叢書、昭49・5)『月語抄』(国文社、昭52・9)『火の橘』(雁書館、昭57・5)『青の風土記』(雁書館、昭62・9)『現代短歌文庫6 伊藤一彦集』(砂子屋書房、平1・6)『海号の歌』(雁書館、平7・9)〈評論随筆集〉『定型の自画像』(砂子屋書房、昭61・11)〔参考〕季刊「現代短歌雁」第14号(雁書館、平2・4)=「特集*伊藤一彦」
人類の五十度死なむ核爆弾もちて世界はあかるさの降る
啄木をころしし東京いまもなほヘリオトロープの花よりくらき
死のにほふ愛のエスキス描きゐて橘橋にいつか来たりぬ
学徒出陣はじまりし年にわが生れて親しまず来つ 死 日本
伊東 静雄 いとう・しずお
1906(明治39)年12月10日、長崎県北高来郡諫早町(現・諫早市)の生まれ。詩人。長崎県立大村中学から旧制佐賀高等学校をへて京都帝大国文科に進学。大村中学の1学年上に福田清人(作家・国文学者)がおり、2学年下に川副國基(国文学者)がいた。京大卒業後、大阪府立住吉中学で教師をしながら詩作をつづけ、第1詩集『わがひとに与ふる哀歌』(コギト発行所、昭10・10)を上梓し、第2回文芸汎論詩集賞を受賞。第2詩集『夏花』(子文書房、昭15・3)で第5回北村透谷賞を受賞。第3詩集『春のいそぎ』(弘文堂書房、昭18・9)、第4詩集『反響』(創元社、昭22・11)を刊行。戦後は病気療養の日々がつづき、昭和28年3月12日、死去。享年48。墓所は諫早市内の広福寺。翌年秋、諫早城趾内に詩碑が建立され、近年は毎年三月最終の日曜日に、碑前で「菜の花忌」が催されている。この詩碑建立に尽力し、また「菜の花忌」の世話を中心的に続けてきたのは、諫早市内の古書店「紀元書房」の店主で詩人の上村肇。
伊藤 春畝 いとう・しゅんぽ
1841(天保12)年9月2日、山口県熊毛郡束荷(つかり)村の生まれ。漢詩人・政治家。伊藤博文。初代内閣総理大臣。明治42年10月26日没。
伊藤 保 いとう・たもつ
1913(大正2)年、大分県生まれ。歌人。20歳の時ハンセン病発病、昭和8年に熊本の菊池恵楓園に入園。恵楓園に入ると同時に内田守人医師らの指導で作歌を試み、昭和9年2月、「アララギ」に入会。斎藤茂吉に師事する。昭和14年より園発行の歌誌「檜の影」にて土屋文明の選を受ける。戦後「未来」にも参加している。恵楓園にて同病の井手とき子と結婚、法律により子を生すことは出来なかった。第1歌集『仰日』(戸畑市・九州アララギ発行所、昭25・5、全467首、にぎたま叢書第1篇)は斎藤茂吉の「序歌」(うつせみにこの世
(よ)にありて不思議なる光(ひかり)を放つ歌のかずかず)、土屋文明の「序」、宮崎松記(菊池恵楓園長)の「序」、藤原哲夫の「跋」、内田守人の「跋」、および伊藤保の「仰日巻末記」をそなえる。昭和38年、50歳にて死去。〈歌集〉『仰日』(戸畑市・九州アララギ発行所、昭25・5)『白き檜の山』(白玉書房、昭33・11)『定本伊藤保歌集』(白玉書房、昭39・11)『定本伊藤保歌集』(石川書房、平10・12)〔参考〕松下竜一『桧の山のうたびと』  【恒成美代子&花田俊典】
見る目なく崩(く)えつつ病める吾と妻地虫の鳴ける夜(よは)に抱きぬ
病む身契りて看護
(みと)りあひつつ睦(むつ)めれば主イエスも許し給ふべし
戦争に力かさざりしとは何を言ふ木の葉を繃帯に巻き堪へて来にしを
仰臥しつつ口を開けば妻が匙にてとぼしき飯を掬ひ食はする 
(以上4首は『仰日』より)
伊藤 野枝 いとう・のえ
1895(明治28)年1月21日、福岡県糸島郡今宿村(現・福岡市西区今宿)の生まれ。評論家・小説家・社会運動家。瓦職人の伊藤亀吉の長女。明治36年、福岡県今宿尋常小学校に入学。その後、長崎県に転居したが、今宿村に戻り、明治40年4月、周船寺高等小学校に入学。42年3月、同校を卒業し、地元の郵便局に就職。43年4月、上京して上野高等女学校に入学。明治44年8月、地元に戻り福岡県周船寺村の末松福太郎と祝言する。45年3月、上野高等女学校を卒業し、いったん帰郷したが、翌月家出して上京(末松福太郎とは大正2年2月11日正式離婚)。女学校時代の教師だった辻潤と同棲する。明治45年11月、女性文芸誌「青鞜」の編集を手伝いはじめた。辻潤との間の子どもに、一(まこと)・流二がある。大正4年、「青鞜」の編集の主力となる。大正5年9月、大杉栄と同棲生活をはじめる。同年11月9日未明、神近市子との三角関係によって「日蔭茶屋事件」をおこす。大杉栄との子ども、魔子・幸子・エマ・ルイズ・ネストル。関東大震災の際に検挙され、大正12年9月16日、大杉・野枝・甥の橘宗一とともに虐殺される。
〈著書〉翻訳(エンマ・ゴルドマン/エレン・ケイ著)『婦人解放の悲劇』(東雲堂書店、大3・3)大杉栄/伊藤野枝『〈社会文藝叢書3〉乞食の名誉』(聚英閣、大9・5)大杉栄/伊藤野枝『二人の革命家』(アルス、大11・12)大杉栄/伊藤野枝共訳(アンリイ・ファブル著)『〈アルス科学知識叢書〉科学の不思議』(アルス、大12・8)伊藤野枝『伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会*同全集の別巻、大14・12)『伊藤野枝全集』(学芸書林、昭45) 【恒成美代子&花田俊典】
伊藤 比呂美 いとう・ひろみ
1955(昭和30)年9月13日、東京都板橋区の生まれ。詩人・小説家。青山学院大学文学部日本文学科卒。詩作は大学時代に開始し、新日本文学会の文学学校で詩人の阿部岩夫に師事。52年、岩崎迪子らと詩誌「らんだむ」を創刊。翌年、第1詩集『草木の空xを上梓し、女性のフィジカルな感覚を生かした詩風で注目を浴びた。また近年は小説の創作を試み、芥川賞候補にもノミネート。
53年、第16回現代詩手帖賞。平成11年、第21回野間文芸新人賞。〈著書〉詩集『草木の空』(アトリエ出版企画、昭53・7)『姫』(紫陽社、昭54・8)『新鋭詩人シリーズ10 伊藤比呂美詩集』(思潮社、昭55・9)『青梅』(思潮社、昭57・7)『テリトリー論』(思潮社、昭60・4)、エッセイ集『感情線 のびた』(弓立社、昭59・7)『良いおっぱい悪いおっぱい』(冬樹社、昭60・11)『おなか ほっぺ おしり』(婦人生活社、昭62・10)『おなかほっぺおしり そして ふともも』(婦人生活社、平1・3)『のろとさにわ』(上野千鶴子との共著、平凡社、平3・12)『わたしはあんじゅひめ子である』(思潮社、平5・8)『コドモより親が大事』(集英社、平9・6)小説集に『ラニーニャ』(新潮社、平12・9)
伊藤 通明 いとう・みちあき
1935(昭和10)年11月16日、福岡県宗像郡福間町の生まれ。俳人。昭和33年、西南学院大学卒。在学中、安住敦に親炙し、昭和37年、俳誌「裸足」創刊。
昭和51年、第22回角川俳句賞。福岡市在住。歌誌「白桃」主宰。〈歌集〉〈現代俳句俊英集29〉白桃』(東京美術、1980・8) 『西国』
玄海の白波ひろげ鏡餅
ももいろをはなれて桃の花雫
なりたくてなりし鮟鱇の貌なりし
伊藤 ルイ いとう・るい
1922(大正11)年6月7日、神奈川県逗子町(現・逗子市)の生まれ。人形彩色師・作家。父親は大杉栄、母親は伊藤野枝。大正12年9月、関東大震災の折に両親が官憲の手によって逮捕虐殺されたため、母親の実家(福岡県糸島郡今宿村=現・福岡市西区今宿)に引き取られ、祖父母のもとで育った。その後、王丸和吉と結婚して2男1女をもうけたが、「夫の両親が逝き、祖母を見送った」(『海の歌う日』)後、離婚。「別れ話は五分とはかからなかった」(同)。博多人形彩色職人として自活し、平成8年6月28日、癌のため死去。享年74歳。
〈著書〉『海の歌う日 大杉栄・伊藤野枝へ―ルイズより』(講談社、昭60・10)『虹を翔ける―草の根を紡ぐ旅』(八月書館、平3・2)『必然の出会い―時代、ひとをみつめて』(記録社、平3・9)『海を翔ける』(八月書館、平10・11)があり、また松下竜一の評伝『ルイズ―父に貰いし名は』(講談社、昭57・3)がある。
井上 荒野 いのうえ・あれの
1961(昭和36)年2月4日、東京生まれ。小説家。井上光晴の娘(長女)。成蹊大学文学部英米文学科卒業。1989年、「わたしのヌレエフ」(「季刊フェミナ」創刊号)で第1回フェミナ賞受賞。〈著書〉『もう切るわ』(恒文社21)『グラジオラスの耳』(福武書店、1991)『ひどい感じ―父・井上光晴』(新潮社、2002・8)翻訳に『海へさがしに』(福音館書店)『エロイーズ』(メディアファクトリー)『あなたがうまれたひ』(福音館書店)他 【坂口 博】
井上 岩夫 いのうえ・いわお
1917(大正6)年、鹿児島県揖宿
(いぶすき)郡頴娃(えい)町の生まれ。詩人・小説家。1934年、郷里の青年学校電気科を卒業し、九州電力に入社。昭和15年、「日本詩壇」に同人参加。応召し、中国の戦地を転戦。同19年、第一詩集『野の楽団』を上梓。戦後は、古本屋、看板描き、ガリバン書きなどをしたといい、また市内に印刷所「やじろべえ工房」を開業した。詩誌「詩稿」を主宰し、昭和28(29?)年、第二詩集『素描』を上梓した。1993年1月3日没。〈著書〉詩集『野の集団』同『素描』(昭29)『いたましいあかりんこたち』『ことばでパチリ』同『荒天用意』(詩稿社、昭49.11、島尾敏雄の帯文)小説集『カキサウルスの髭』(弓立社、昭54・4)詩集『しょぼくれ熊襲』(弓立社、昭54・12)『井上岩夫著作集』(海鳥社、1998.7−)
井上 剣花坊 いのうえ・けんかぼう
1870(明治3)年6月3日、山口県萩町(現・萩市)の生まれ。川柳人。本名・井上幸一。柳樽寺川柳会を創立し、川柳の近代化に挺身。1934年9月11日没。萩市民会館前庭に妻・信子との夫婦句碑がある。
〈句集〉『井上剣花坊句集』(昭10.8) 〔参考〕坂本幸四郎『〈シリーズ民間日本学者〉井上剣花坊・鶴彬』(リブロポート、1990.1、※評伝・年譜)
 
飛びついて手を握りたい人ばかり
井上 健次 いのうえ・けんじ
1908(明治41)年、佐賀県の生まれ。
「文芸戦線」同人。
井上 荒野
     小説家。井上光晴の娘。「わたしのヌレエフ」(「季刊フェミナ」創刊号)でフェミナ賞。「楽天ちゃん追悼」(「中央公論文芸特集」平1夏季号)
井上 巽軒 いのうえ・そんけん
1855(●)年12月25日、福岡県太宰府の生まれ。漢詩人・哲学者。本名・哲次郎。東大卒。明治15年、『新体詩抄』を共編。漢詩「孝女白菊」は、のち落合直文が新体詩「孝女白菊の歌」に訳して有名になった。1944年12月7日没。
井上 孝 いのうえ・たかし
1915(大正4)年8月2日、山口県の生まれ。小説家。早稲田大学仏文科卒。戦後、復員して「早稲田文学」の編集を手伝い、短篇集『苔の花』(昭24)を上梓。以後、『東京〇番地』(昭30)、明治10年前後の九州を舞台とする三部作『筑紫飄風記』(昭32)『火の民』(昭33)『不知火ものがたり』を刊行。
井上為次郎 いのうえ・ためじろう
1898(明治31)年、福岡県宗像市の生まれ。炭坑画家。少年時代から全国の炭坑を渡り歩き、戦後、記録画を先駆的に残す。1970年、鞍手郡宮田町にて没。
井上 哲次郎 いのうえ・てつじろう
 ⇒井上巽軒
井上 微笑
    俳人。熊本県。高田素次編『井上微笑句集』(昭56)
井上 信子 いのうえ・のぶこ
    川柳人。剣花坊の妻。「国境を知らぬ草の実こぼれ合ひ」。
〔参考〕谷口絹枝『蒼穹の人・井上信子』
井上 光晴 いのうえ・みつはる
1926(大正15)年5月15日、中国旅順(ただし本人の自己紹介による。じっさいは、福岡県久留米市らしい)の生まれ。小説家。7歳のとき佐世保に移り、昭和13年、崎戸炭鉱(長崎県西彼杵郡崎戸町)に住んだ。崎戸尋常高等小学校を高等科1年で中退し、大阪に出て製鋼所の見習い工となったが、昭和16年、15歳のとき崎戸に帰り、坑内炭札係となった。その後、中学卒業検定試験に合格し、上京して電波技術養成所に入り、卒業後は多摩陸軍技術研究所に配属されたが、空襲で罹災したため佐世保に帰り、同地で炭鉱技術者養成所の教師をつとめ、敗戦を迎えた。戦後は左傾し、昭和21年1月、日本共産党に入党。また、九州評論社(佐世保)の創立にかかわるなどし、ガリ版詩集『むぎ』(ねじくぎ社、昭22・10)を上梓。昭和23年、九州評論社を辞し、日本共産党九州地方委員会常任となり、ここで同じく常任の谷川雁や大西巨人らを知った。昭和25年、「書かれざる一章」発表後に日共所感派から除名処分を受けたが拒否。同28年、日共を離党した。以後、多くの作品を書き継ぎ、また晩年は各地に文学伝習所を設けて後進の創作の指導にあたるなどした。平成4年5月30日、癌のため死去。2年後、映画監督の原一男(昭和20年6月8日、山口市生まれ)が最晩年の井上光晴を追ったドキュメンタリー映画「全身小説家」(疾走プロダクション)を発表。製作ノート・採録シナリオ集『全身小説家―もうひとつの井上光晴像』(キネマ旬報社、平6・10)も刊行された。〔参考〕平野謙「職業革命家の問題」(「群像」昭25.12)
井上 夢人 いのうえ・ゆめひと
1950(昭和25)年、福岡県の生まれ。小説家。1982年、徳山諄一とコンビを組んで「岡嶋二人」のペンネームでデビュー。1992年、コンビ解消。『ダレカガナカニイル…』 
伊波 南哲 いば・なんてつ
1902(明治35)年9月8日、沖縄県八重山郡大浜間切登野城(現・石垣市)の生まれ。小説家・詩人。本名は伊波興英。登野城尋常高等小学校を卒業後、地元で働きながら文化活動をし、大正11年、徴兵検査後、上京を目的に近衛歩兵を志願。12年、近衛歩兵第三連隊に入営するため上京した。2年後に除隊となり帰郷したが、再度上京し、警視庁丸ノ内警察署に勤務(十六年まで)。佐藤惣之助に師事し、詩誌「詩之家」に参加。昭和20年5月、東京を去って小倉市(現・北九州市)に住む実弟のもとに身を寄せた。同年7月、西部軍管区報道部に白紙徴用となり、敗戦後は小倉市に戻ったあと、21年9月、郷里の石垣島に引き揚げた。22・28年、石垣市教育厚生課長。八重山童話協会を設立し、雑誌「八重山文化」に詩を発表。その後、再度上京し、「虹」を主宰。51年12月28日没。没後、『南島の情熱―伊波南哲の人と文学』(伊波南哲詩碑建立期成会、昭53・2)が刊行された。
〈詩集〉『南国の白百合』(詩之家出版部、昭2・10)『銅鑼の憂鬱』(詩之家出版部、昭5・10)『オヤケアカハチ』(東京図書、昭11・9、のち未来社から改訂版、昭39・11)『伊波南哲詩集』(未来社、昭35・11)『沖縄風物詩集』(三栄社、昭47・9)〈小説〉『交番日記』(河出書房、昭16・4)『ふるさと物語 南島の情熱』(日本公論社、昭17・2)『南の島の少年たち』(田中宋栄堂、昭17・10)『麗しき国土』(ぐろりあ・そさえて、昭17・11)『荒潮の若人』(講談社、昭18・3)『人魚のうた』(興亜文化協会、昭18・4)『金色の鷲』(田中宋栄堂、昭19・1)『竹を取る少年たち』(泰光堂、昭19・10)『天皇兵物語』(日本週報社、昭34・3)〈民俗誌〉『琉球風土記』(泰光堂、昭19・11)『沖縄の民話』(未来社、昭33・8)『沖縄風土記』(未来社、昭34・4)
伊波 普猷 いは・ふゆう
1876(明治9)年2月20日、琉球藩首里の生まれ。民俗学者。沖縄学の父と称さる。『古琉球』(明44)『沖縄考』(昭17)『伊波普猷全集』
茨木 憲
1912(明治45・大正1)年、那覇市生。演劇評論家。
伊馬 春部(鵜平) いま・はるべ(うへい)
1908(明治41)年5月30日、福岡県の生まれ。劇作家・小説家。本名・高崎英雄。國學院大学国文科卒。軽演劇で有名な「ムーラン・ルージュ」に入り、伊馬鵜平の名でユーモラスな哀愁のある戯曲を執筆。戦後はNHKラジオの連続ドラマ「向う三軒両隣り」(昭22-28)がヒット。昭和40年、毎日芸術賞。「伊馬春部」というペン・ネームは「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」に由来する。
〈著書〉『桐の木横町』(西東書林、昭11.6)『義歯の行列』(昭14?13?)『青空教室』(金の星社、昭17)『東京テレビィ娘』『屏風の女』(昭27)『〈ラジオ・ドラマ新書〉天の川』(宝文館、昭30.4)『〈ラジオ・ドラマ新書〉まぼろし』(宝文館、昭30.8)
今井 白揚 いまい・はくよう
1889(明治22)年12月3日、鹿児島県川内市の生まれ。詩人。本名・国三。別号・夏明。別名・太原冬夜。早稲田大学英文科卒。明治42年、自由詩社に参加し、詩を発表。1917年8月2日、27歳のとき、大学時代からの友人・三富朽葉と犬吠埼で遊泳中に溺死。
今井 美沙子 いまい・みさこ
1946(昭和21)年8月30日、長崎県五島(福江市)に生まれる。作家。長崎県立五島高校を卒業し、大阪で就職。その後、結婚し、美術家の夫である今井祝雄と共に児童画のアトリエを主宰し、女性論・子ども論を発表。昭和52年、『めだかの学校』でデビューし、以後、『めだかの唄』(筑摩書房、昭56・1)『少女ミンコの日記』(ポプラ社、昭57・11)『きょうも一日ありがとう』(中央出版社、昭59・11)『彼岸花』(筑摩書房、昭61・8)など著書多数。平成四年、第三十九回産経児童出版文化賞、JR賞を受賞した。
〈著書〉『めだかの列島』(筑摩書房、1977.10)『遙かなる約束』(サンケイ出版、1979)『子供が生きている現場』(ナツメ社、1979)『阿波椿の唄』(ナツメ社、1980)『めだかの唄』(筑摩書房、1981.1)『少女ミンコの日記』(ポプラ社、1982.11)『きょうも一日ありがとう』(中央出版社、1984.11)
今里 勝雄 いまざと・かつお
●「長崎県佐世保市に生る、早高中退明大卒、高橋亀吉先生に師事し経済問題研究、農村団体その他に関係、従軍記者、国策研究会幹事を経て現在大政翼賛会会史編纂主任、翼賛壮年団帝都団参事。/著書 都市社会進化史その他」(今里勝雄『三代思想録』新紀元社、昭19・4巻末「著者略歴」)
今辻和典 いまつじ・かずのり
1929(昭和4)年1月19日、鹿児島県の生まれ。詩人。「解纜」「青い花」「海潮」「quel」同人。詩集に『鳥葬の子どもたち』(黄土社)『欠けた語らい』(黄土社)『品詞考』(黄土社)『非』(石文館)『影』(横浜詩人会)『西夏文字』(書肆青樹社)などがあり、翻訳詩集『愛する人は火焼島に』(張香華著、書肆青樹社)がある。 
参考=※『資料・現代の詩』(角川書店、2001.4.30)
今村外園 いまむら・がいえん
1858(安政5).12〜1931(昭和6).6.25 新聞記者・作家。本名為雄(白水為雄)。高場塾出身。明治中期の福岡における文化人で、矢倉門(福岡市博多区祇園町)の今村啓八の長男。西南の役(福岡の変)には薩軍に投じて各地に転戦し、帰郷後は玄洋社に入り、のち頭山満らと協力して、福陵新報をおこす。1898(明治31)九州日報と改題したのちも、記者として30年間活動するとともに、作家として小説・随筆などで九州日報の紙面を飾る(九州日報社庶務主任)。筑前琵琶の普及にも尽くし、琵琶の名曲「小督」「扇の的」「谷村計介」「赤垣源蔵」などを作詞した。福岡市春吉三軒屋で没(1928(昭和3)年6月25日没説もあり)。『国守忠平』(磊落堂、1897(明治30)年3月)という小説も刊行されている。【坂口 博】

今村保 いまむら・たもつ
●昭和30年、「食糧管理法違反」で国鉄労組年度賞。平成9年3月14日没。享年75。
〈著書〉創作集『冬終る日』(九州作家社、昭52・4)
今村 冬三 いまむら・とうぞう
1928(昭和3)年、熊本県の生まれ。詩人。
〈著書〉詩集『鈍行』(昭52)『ヘルスメーターの上のもの思い』(昭62)評論『幻影解大東亜戦争』(葦書房、昭64.8)
岩井 護 いわい・まもる
1929(昭和4)年11月7日、福岡県嘉穂郡飯塚町(現・飯塚市)の生まれ。小説家。旧制嘉穂中学をへて、昭和28年、西南学院大学卒業。翌年、九州大学附属図書館に勤務(49年退職)。大学在学中に「九州文学」同人に参加し、以後、「九州作家」「午前」などに創作を発表。昭和43年、「雪の日のおりん」で第10回小説現代新人賞に入選。福岡市在住。
〈著書〉『雪の日のおりん』のほか、『花隠密』(講談社、昭47・10)『まぼろしの南方録』(講談社、昭51・5)『踏絵奉行』(講談社、昭57・1)『二羽鴉』(光風社出版、昭61・7)『西南戦争』(成美堂出版、昭62・12)『江戸密偵帖』(光風社出版、昭63・10)
岩上 順一 いわがみ・じゅんいち
1907(明治40)年1月2日、山口県の生まれ。評論家。本姓は野村。東京外国語学校(現・東京外大)卒。戦後は新日本文学会の初代書記長をつとめ、のち「人民文学」に参加。1958年8月14日没。
〈著書〉『文学の饗宴』(昭16)『歴史文学論』(昭17)『作家論』(昭23)『階級芸術論』(昭23)
岩下 俊作 いわした・しゅんさく
1906(明治39)年11月16日、小倉市の生まれ。小説家・詩人。本名・八田秀吉。福岡県立小倉工業学校卒。八幡製鉄に勤務し、同人誌「第二期九州文学」に参加。同誌に発表した「富島松五郎伝」(昭14・10)が第10回、第11回直木賞の候補となり、また演劇化・映画化された。昭和55年1月30日没。
〈著書〉『富島松五郎伝』(小山書店、昭16・1)『岩下俊作選集』全5巻。 ⇒単著一覧
明治三十九年、小倉市に生る。小倉工業学校を卒へ八幡製鉄所に勤務す。/吉田三平と戯名し、劉寒吉、新井浩介と共に〈公孫樹〉を創刊せしは大正十年頃なり。ひたむきに読み、ひたむきに書きたるは余の最も楽しき〈公孫樹〉時代なり。昭和四年頃草木原触目と二人にて〈感触〉を創刊す。九号にて廃し、次で〈稜体発光〉を始む。同人は劉寒吉、草木原触目、芥屋碌比古と共に四人なり。五号にて止み、昭和八年〈とらんしつと〉を創刊し現在に至る。昭和十二年三月〈とらんしつと〉は解体し詩誌〈婆羅門〉創刊さる。種子の生長せるは種子の死滅を意味する。敢て〈とらんしつと〉の形骸を破壊して新に発展せんがためなり。九州芸術家聯盟同人。現住所、小倉市江南町一0四0、八田方」1937年版『九州詩集3』掲載の自筆「略歴」)
岩瀬 成子 いわせ・じょうこ
1950(昭和25)年、山口県玖珂郡玖珂町の生まれ。児童文学作家。本名は原田成子。今江祥智に師事し、1978年、『朝はだんだん見えてくる』(理論社、昭52・1)で日本児童文学者協会新人賞を受賞。『「うそじゃないよ」と谷川くんはいった』(PHP研究所、平3・12)で産経児童出版文化賞・小学館文学賞・IBBYオナーリスト賞を受賞。『ステゴザウルス』(マガジンハウス、平6・3)『迷い鳥とぶ』(理論社)で路傍の石文学賞を受賞。山口県岩国市在住。
〈著書〉『朝はだんだん見えてくる』『わたしねこ』(理論社、昭54・9)『小さな獣たちの冬』(小学館、昭55・6)『アトリエの馬』(学校図書、昭56・11)『額の中の街』(理論社、昭59・3)『あたしをさがして』(理論社、昭62・9)『ポケットのなかの〈エーエン〉』(理論社、昭63・11)『日曜日の手品師』(教育画劇、平1・6)『アイスクリーム・ドリーム』(理論社、平3・2)『「うそじゃないよ」と谷川くんはいった』(PHP研究所、平3・12)『もうちょっとだけ子どもでいよう』(理論社、平4・7)『子どもたちの森』(あかね書房、平5・6)『ステゴザウルス』(マガジンハウス、平6・3)『イタチ帽子』(文渓堂、平7・2)『やわらかい扉』(ベネッセコーポレーション、平8・1)『どうぶつふうせん』(ほるぷ出版、平8・7)『夜くる鳥』(PHP研究所、平9・10)『アルマジロのしっぽ』(あかね書房、平9・10)『イタチ帽子』(文渓堂、平7・2)『大きい家 小さい足』(理論社、平9・11)『金色の象』(偕成社、平13・7)
岩田 紫雲郎 いわた・しうんろう
1885(明治18)年7月3日、東京下谷の生まれ。俳人。東大法科卒。昭和11年、三井銀行福岡支店長となり、吉岡禅寺洞の門下として「天の川」に拠り、新興俳句運動を携わる。1957年7月24日没。
岩田 礼 いわた・れい
1921(大正10)年、山口の生まれ。小説家。本名は戸嶋和郎。昭和51年、毎日新聞西部本社を定年退職。定年前後から小説の創作を試み、「聖馬昇天―坂本繁二郎と私」で第1回北九州自分史文学賞を受賞。平成14年5月10日没。享年81歳。「九州作家」第118号(平14・11)は岩田礼追悼号。
〈著書〉『坂本繁二郎』(新人物往来社、昭48)『劉生の死』(日動出版、昭50)『香月泰男』(日動出版、昭51)『事務局長斬殺』(図書出版社、昭53)『天皇暗殺―虎ノ門事件と難波大助』(図書出版社、昭53)『無法松一代―岩下俊作と祇園太鼓』(あらき書店、昭57)『聖馬昇天―坂本繁二郎と私』(学習研究社、平3・5)『煉獄―女たちの虎ノ門事件』(三一書房)
岩森 道子 いわもり・みちこ
1935(昭和10)年、下関市の生まれ。小説家。結婚後、八幡市に移住。昭和50年、文芸同人誌「海峡派」に入会。1988年「雪迎え」で第18回九州芸術祭文学賞(第1回三島賞候補・第99回芥川賞候補)、「香水蘭」(「文学界」)で第100回芥川賞候補。「噴水の向こうの風景」で第1回草枕文学賞入賞。北九州市八幡区在住。「カランコロン山」(「文学界」平3.6)創作集『野佛の瞽女
(ごぜ)』(近代文芸社、1984)
岩谷 莫哀 いわや・ばくあい
1888(明治21)年4月18日、鹿児島県の生まれ。歌人。本名は禎次。七高をへて東京帝大経済科卒。中学卒業のころから「秀才文壇」に投稿し、大学在学中に尾上芝舟に師事。明治44年、「車前草」に参加。大正3年、歌誌「水甕」創刊に参加。大正4年、出版社「莫哀社」を創業したが、まもなく廃業し、6年、明治製糖会社に入社して台湾に渡った。翌年、帰国。昭和2年11月20日没。
〈歌集〉『春の反逆』(莫哀社、大4・8)『仰望』(水甕発行所、大14・1)『岩谷莫哀短歌全集』(水甕社、昭5・12)[参考]山本健吉『現代文学風土記』
堪へて来しこれの月日のわびしさも馴れてはうれし松風の音
犬童 進一 いんどう・しんいち
1929(昭和4)年11月7日、熊本県水俣市の生まれ。詩人・小説家。生家は詩人の淵上毛銭(喬)宅の向かいにあった(この縁で後年、国文社版『淵上毛銭全集』を編集)。1954年、早稲田大学英文科卒。東西南北社に入社し、雑誌「ロマンス」編集部に勤務。1955年、帰郷し、水俣高校英語教師となる。「宴」「風」同人。
〈著書〉『たゆたい』(近代文芸社)『モッコスの山阿蘇』(碧楽出版)短編集『須磨子という女』(私家版、1957.11)詩集『犬童進一詩集』(俳句研究社、昭36.11 ※巻末に自筆年譜あり)
犬童 球渓 いんどう・きゅうけい
1880(明治12年)3月20日、球磨郡藍田村(現・人吉市西間下町)の生まれ。作詞家。農家の次男。ペンネームは球磨川の渓谷の意。 1894年(明治27年)3月 東間小学校を卒業し、農業に従事。1895年(明治28年)4月、球磨郡渡小学校に代用教員として就職。教育検定試験に合格後、1897年(明治30年)1月、船場小学校(現・人吉東小学校)に転任。4月、熊本師範学校に入学し、4年後の1901年3月、同校を卒業した。4月 宇土郡網田小学校に就職したが、1902(明治35年)5月、東京音楽学校(現・東京芸術大学)甲種師範科入学。卒業後の1905年4月、兵庫県立柏原中学校(現・柏原高校)に初代音楽教師として赴任したが、音楽など軟弱だと生徒がボイコットし、八ヶ月後に「神経衰弱兼右肺尖浸潤」のため辞職。新潟高等女学校(現・新潟中央高校)に転任し、ここで「旅愁」(作曲者=オードウェイ)や「故郷の廃家」(アメリカ・ケンタッキー州出身の作曲家ウィリアム=ヘイス(W.S.Hays 1837-1907)作曲の「My dear old Sunny Home」)を作詞した。これが『中等教育唱歌集』に採録されて、以後ながく愛唱された。 1907年、結婚し、翌年帰郷。熊本県立第一高等女学校、熊本県立人吉高等女学校に勤め、1935年(昭和10年)3月、退職。村会議員などをつとめ、1943年(昭和18年)10月19日、死去した。

 INDEX

上田 孝志 うえだ・たかし
1919(大正8)年11月30日、福岡県宗像郡福間町に生まれる。歌人。日本歌人クラブ会員、コスモス短歌会同人。筆名・小波塔七。1937(昭和12)年、独学で鍼灸師の免許を取得する。38年、洗礼をうけてクリスチャンになる。44年、藤本名月と結婚、対馬に渡り、雉知から比田勝で開業する。1956(昭和31)年、「対馬文芸」を発刊し、対馬の文化運動に貢献する。74年12月に妻が死去し、それを機に郷里の福間に移り、鍼灸院「サマリヤ院」を開く。1979(昭和54)年1月17日、自宅にて殺害される。
〈著書〉歌集『波の塔』(1968)観光誌『北対馬観光』(1972)追悼録『みそばはなれず』(1974)小説『対馬今里こんたん』(長崎県厳原町・対馬新聞社、1979・8)歌集『対馬』 〔坂口 博〕
上田 敏雄 うえだ・としお
1900(明治33)年7月21日、山口県の生まれ。ネオ・ダダイスト詩人。慶応大学英文科卒。昭和3年、詩誌「薔薇魔術学説」に日本最初のシュールレアリスム宣言を発表し、「詩と試論」「文学」誌に詩を掲載。戦後はマルクス主義に接近した。1982年3月30日没。
〈詩集〉『仮説の運動』(昭4)『薔薇物語』(昭41)
うえだ ひろし
1933(昭和8)年、熊本県球磨郡湯前町の生まれ。版画家。1952年、福岡県の日炭高松鉱で上野英信・千田梅二と知り、版画を志す。春陽会会員。福岡県遠賀郡水巻町在住。
上田 幸法 うえだ・ゆきのり
1916(大正5)年8月3日、熊本県八代郡太田郷村上井上(現・八代市井上町)の生まれ。詩人。『日本現代詩文庫92 上田幸法詩集』(土曜美術社出版販売、平6・6)付載の自筆年譜によると、昭和13年、太田郷尋常小学校を卒業し、旧制八代中学を受験したが不合格となり、文学に接近。翌年、八代商業学校に入学したがほとんど登校せず。12年1月、台湾歩兵第二連隊に入隊。事変勃発後の同年9月、揚子江に上陸。中支戦線を転戦し、翌13年8月、左足に貫通銃創を負った。15年5月、除隊。17年1月、2度目の召集を受け、宇品・釜山・高雄に勤務し、19年1月、復員。戦後は詩誌「無門」「地球船」などを発行し、第1詩集『鉛の船』(四葉書房、昭23・7)を上梓。27年、中央新報を辞めて産業経済新聞社八代通信部記者となり、32年、熊本支局に転勤。35年、熊本県庁に転職し、広報課に勤務した(50年6月末に退職)。第2詩集『太平橋』(昭38・9)以下、『椿の章』(昭52・1)『湖の章』(昭52・9)『柿提灯』(昭58・11)『湯の里の章』(昭59・6)『冬の神さま』(昭60・10)『戦争・笑った』(八代知性と感性詩社、昭62・4)『八代・碑(いしぶみ)詩集』(知性と感性詩社、昭63・7)『ある戦争の話』(知性と感性詩社、平1・7)など。
上野 英信 うえの・えいしん
1923(大正12)年8月7日、山口県吉敷郡井関村(現・阿知須町)の生まれ。記録作家。本名、鋭之進。7歳のとき父親が若松築港会社に就職したため一家で八幡市黒崎(現・北九州市)に転居。黒崎尋常小学校、旧制八幡中学をへて、昭和16年4月、満洲建国大学前期(予科)新二年生に入学し、18年1月、同大後期(学部)文教学科一年に進学したが、同年12月、学徒召集により現地部隊に入隊。19年、広島の陸軍船舶練習部砲兵教導隊に転属となり、広島原爆の際は被災者の救護活動にあたった。敗戦後の9月、復員し、21年4月、京都大学文学科支那文学科に編入。翌年9月、大学を中退し、福岡県に住み、23年から海老津炭鉱(福岡県岡垣町)、日本炭鉱会社高松一坑(福岡県水巻町)、三菱鉱業会社崎戸鉱業所(長崎県崎戸町)、日本炭鉱会社高松第三坑(福岡県若松市)で働いた。昭和28年5月、高松三坑を退職。「筑豊労働者工作集団」を結成。機関誌「地下戦線」を発行(第5号で終刊)。29年、日炭高松炭鉱時代に知り合った千田梅二との共著『えばなし集 せんぷりせんじが笑った!』(千田の手摺り版画と上野のガリ版の文章)を出版。30年、千田梅二と『ひとくわぼり』を出版。31年、畑晴子(福岡市)と結婚。32年1月、中間町本町の長屋に引っ越し、33年6月、隣に谷川雁と森崎和江が入居。一緒に九州サークル研究会を結成し、同年9月、機関誌「サークル村」創刊。以後、一貫して筑豊の炭坑労働者の記録に取り組み、39年2月、福岡県鞍手郡鞍手町新延にあった旧室井鉱業新目尾炭鉱の廃屋を国税局より買い取り、転居。自宅一画を「筑豊文庫」と名づけて同志の拠点とした。昭和62年11月21日、癌のため死去。享年64歳。『上野英信集』全5巻(径書房)があり、『追悼 上野英信』(上野英信追悼録刊行会、平1・11)巻末には年譜が付載されている。なお、上野英信の没後、晴子夫人(故人)にエッセイ集『キジバトの記』(北九州市・裏山書房、平10・1)、一人息子の朱氏に『厥の家―上野英信と晴子』(福岡市・海鳥社、平12・6)がある。 ⇒〈著書〉
上野 哲也 うえの・てつや
1954(昭和29)年、福岡県赤池町の生まれ。小説家。県立田川高校卒。1999年、「海の空空の舟」(「小説現代」1999.5)で第67回小説現代新人賞。東京都杉並区在住。
上野 晴子 うえの・はるこ
1926(大正15)年、福岡県久留米市の生まれ。歌人・随筆家。畑威・トモの長女。6人きょうだい。福岡市天神町に育つ。東京で高等女学校時代を過ごし、敗戦で疎開先から福岡市に戻った。結核療養中に短歌に親しみ、誘われて歌誌「多磨」に入会。持田勝穂の指導を受け、「多磨」解散後は木俣修創刊主宰の歌誌「形成」に参加。昭和31年、上野英信と結婚。結婚後は夫の上野英信から歌作を禁じられたという。同年、一子(長男)・朱(あかし)を出産。平成9年8月27日没。享年70歳。
〈著書〉遺稿集『キジバトの記』(裏山書房、発売=海鳥社、平10・1)
上間 正諭 うえま・せいゆ
●年、沖縄の生まれ。ジャーナリスト。1939年、朝日新聞那覇通信局に入社し、沖縄戦を取材。戦後、戦意昂揚記事を書いたことを反省し、1948年、「沖縄タイムス」の設立に参加。沖縄の復帰・反戦平和問題に積極的に取り組み、1964年同紙編集局長、1979年、同紙社長、1981年3月、同取締役会長、同6月相談役に就任。1997年、米軍占領下にあってジヤーナリズムの発展と言論の自由の確保に尽力したとして沖縄県功労者(文化部門)表彰を受けた。那覇市首里石嶺町在住。2000年1月1日没。享年84。
上村 占魚 うえむら・せんぎょ
1920(大正9)年9月5日、熊本県人吉市紺屋町の商家の生まれ。俳人。本名は武喜。人吉尋常小学校、熊本市立商工学校をへて昭和19年、東京美術学校工芸部漆芸科を卒業。群馬県立富岡高等女学校に図画教師として赴任(20年4月、退職)。句作は17歳のとき俳誌「かはがらし」(熊本市)主宰の後藤是山の手ほどきを受け、上京後は松本たかし、高浜虚子に師事。24年1月、俳誌「みそさざい」創刊主宰。6月、「ホトトギス」同人。
〈著書〉句集『鮎』『球磨』『霧積』(的場書房、昭30・2)『一火』(竹頭社、昭37・4)『萩山』(笛発行所、昭42・3)『橡の木』(みそさざい社、昭47・5)『石の犬』(現デザイン社、昭50・1)『天上の宴』(東門書屋、昭55・2)『占魚三百六十五日』(五月書房、昭55・4)『占魚抄六百句』(舷燈社、昭56・8)など、随筆集に『壷中の殿堂』(近藤書店、昭33・4)『愚の一念』(笛発行所、昭40・6)『占魚十二ケ月』(みそさざい社、昭46・9)『遠い島はるかな岬』(浪曼社、昭48・9)『沖縄の海を歩く』(牧羊社、昭51・9)『枯木に習う』(蝸牛社、昭55・7)『上村占魚全句集』(沖積舎、平3・8) 〔参考〕「俳句研究」第49巻第11号(昭57・11)「特集・上村占魚」
潮田 武雄 うしおだ・たけお
1905(明治38)年3月17日、東京都荏原郡羽田村の生まれ。詩人。大正11年、高輪中学(旧制)を卒業。この頃から詩作を試み、幼馴染の佐藤惣之助に師事。14年、「詩之家」創刊と同時に同人となり、昭和3年、第1詩集『Q氏の世界』を詩之家出版部から上梓した。昭和4年、「詩之家」同人の竹中久七、渡辺修三らと詩誌「リアン」を創刊。戦後の昭和21年、妻の縁故先の鹿児島県加世田市に移住し、58年8月22日没。享年78歳(数えどし)。没後、未発表詩篇を含む全詩・散文集『潮田武雄詩集』(宮崎・鉱脈社、昭61・6)が刊行された。東京生。詩人。詩誌「リアン」同人。戦後に鹿児島へ移住。昭和58年没。『潮田武雄詩集』(鉱脈社)。
牛島 憲之 うしじま・のりゆき
        画家。
牛島 春子 うしじま・はるこ
1913(大正2)年2月25日、福岡県久留米市の生まれ。小説家。「祝
(しゅく)といふ男」(昭15)で第12回芥川賞候補。戦後は「九州文学」同人。福岡文学会機関誌「文学発言」代表。新日本文学会会員。福岡市早良区在住。平成141226日没。享年89歳。〈著書〉『菅生事件・霧雨の夜の男』(鏡浦書房、昭35.11)『ある微笑―わたしのヴァリエテ』〔参考〕坂本正博編「牛島春子年譜」(「朱夏」10号、1998.3)改訂版年譜
牛島 秀彦 うしじま・ひでひこ
1935(昭和10)年、中国山東省青島の生まれ。ノンフィクション作家。佐賀高校―早稲田大学卒。卒業後、旺文社雑誌編集部に入社し、1965年、ハワイ大学に留学(2年間)。
〈著書〉『アメリカの白い墓標』(虎見書房、昭43.9)
氏原 大作 うじはら・だいさく
1905(明治38)年3月20日、山口県阿武郡阿東町の生まれ。児童文学者。1956年12月31日没。『氏原大作全集』全4巻(山口県教育会、昭52)
内田 博 うちだ・ひろし
1909(明治42)年10月19日、福岡県三池郡大牟田町(現・大牟田市)の生まれ。詩人。本名・弘喜智。1930年、日本プロ作家同盟大牟田支部を設立。1931年、プロレタリア文学同人誌「街の文学」創刊(2号で廃刊)。1936年6月、第一詩歌集『夜の踏切で』(九州文学社、新井徹・渡辺順三の序文、西田正春・山崎斎の跋文)を上梓。1982年2月25日没。
〈著書〉『内田博全詩集』(青磁社、昭53)
内田 守人 うちだ・もりと
1900(明治33)年6月10日、熊本県の生まれ。歌人・医者。昭和2年、「水甕」入社。ハンセン病医師として長島愛生園に勤務し、明石海人・島田尺草などを育成した。療養所医師を経て開業医。昭和30年、「人間的」を創刊。『津田治子全歌集』の刊行委員長をつとめた。昭和57年1月17日没。81歳。墓所は熊本県菊池郡泗水町大字永。熊本市川鶴公園に歌碑あり。
〈歌集〉『一本の道』(日本文芸社、昭36・3)『続一本の道』(短歌研究社、昭45・9)『わが実存』(短歌研究社、昭49・9)『生れざりせば』(春秋社 昭51・5)〈自伝〉『珠を掘りつつ』(熊本金龍堂)〈評伝〉『日の本の癩者に生れて―『白描』の歌人 明石海人』(第二書房、昭31・7) 『歌人岩谷莫哀研究』(短歌新聞社 昭44・8) 【恒成美代子&花田俊典】
ハンセンが日毎認(ひごとしる)せし診療簿百年を経しペン字いまだ読まるる
囚どちに吾がおもねらず二十年真実の吐露を説き続けたり
百歳を願ひし健康も一本の歯のゆるみより崩れそめむか (以上3首『わが実存』より) 
中学二年にて読み始めたる小説の金色夜叉に溺れたりしか
医療福祉の真髄説けば開業医の商業主義の揶揄に墜ちゆく

内野 健児 うちの・けんじ
 ⇒新井徹
宇津木正夫 うつぎ・まさお

 1904(明治37)年、福岡県直方市に生まれる。本名・寺尾章。詩人・教育者。福岡県立東筑中学校を経て、1927(昭和2)年3月早稲田大学高等師範部英語科を卒業。同時に一年志願兵として小倉歩兵第14連隊に入隊。翌28年4月除隊。同月福岡県立鞍手中学校に奉職。31年任陸軍歩兵少尉。32年7月鞍手中学福岡県野球大会にて優勝。37年9月応召。同年11月5日杭州湾敵前上陸。中支転戦。左足背負傷後、38年2月内地送還後、福岡陸軍病院療養中、秋自宅療養の許可を得て、久留米市・臨済宗梅林寺僧堂にて香夢室東海東達老師の鉗鎚指導を受け旬日ならずして省あり。以後参禅に勉む。39年12月召集解除。鞍手中学校復職。41年7月5日福岡市・臨済宗崇福寺僧堂吟松庵大畑忠峰老師より撫松居士の号を授与せらる。同月再び応召。満洲派遣。43年12月召集解除、鞍手中学校復職。44年1月三たび応召。同日鞍手中学校退職。44年9月任陸軍大尉。45年11月対馬要塞独立歩兵第5大隊長より復員。46年9月福岡県立豊津高等女学校に奉職。47年4月追放、48年3月追放解除(『秋刀魚』「著者略歴」より)。早稲田の学生時代は、「黒嵐時代」「文芸戦線」「詩文学」にも詩を投稿。個人雑誌「獣人」(1925.12-26.1)を2冊出している。詩集『秋刀魚―わが青春の記録―』(自家版、1969.8)は、この時代の詩作品をまとめたもの。【坂口 博】

宇能 鴻一郎 うの・こういちろう
1934(昭和9)年7月25日、札幌市の生まれ。小説家。父は東京府士族の鵜野二弥、母は佐賀県士族の徳久綾。生後、東京・山口・福岡・旧満洲国撫順・長野県坂城・旧満洲国奉天と転々とし、敗戦で引き揚げ。まもなく「父母は福岡市西部の炭鉱と漁師の町に移転して商売をはじめた」(自筆年譜)。昭和30年、福岡県立修猷館高校を卒業して東大教養学部文科二類に入学。34年、同大文学部国文学科を卒業後、同大大学院人文系修士課程に進学。同人誌「半世界」に参加し、水上勉や北杜夫らと知る。36年1月、同人誌「螺旋」を創刊し、同誌に発表した短篇「光の飢え」が「文学界」誌に同人誌優秀作として再掲され、芥川賞候補となった。同年、学位(文学修士)論文「原始古代日本文化の研究」を提出し、同大学院博士課程に進学。翌37年1月、「鯨神」(「文学界」昭36・7)で第46回芥川賞受賞。
〈著書〉『鯨神』(文芸春秋新社、昭37・3)『芥川賞シリーズ 完全な女』(学習研究社、昭39・5)『密戯・不倫』(新潮社、昭40・2)『楽欲』(新潮社、昭40・12)『本能のモラル』(青春出版社、昭41・10)『血の聖壇』(講談社、昭42・9)『魔楽』(講談社、昭44・2)『金髪』(徳間書店、昭47・12、のち徳間文庫)『恋ざかり』(双葉社、昭48・9、のち双葉文庫)『肌じめり』(サンケイ出版、昭49・3)『男あそび』(光文社、昭49・12)『交換旅行』(青樹社、昭53・12)『視姦―ジェイムズ・ジョイス風に』(青樹社、昭61・10、のち改訂版、平2・4)。なお、「嵯峨島昭」(「捜しましょう」のもじり)という覆面ペン・ネームを用いてミステリー作家としてデビュー。『踊り子殺人事件』(光文社、昭47・9)『軽井沢夫人』(光文社、昭54・6)『デリシャス殺人事件』(光文社、昭57・4)などを上梓した。
宇野 浩二 うの・こうじ
1891(明治24)年7月26日、福岡市の生まれ。小説家。本名・格次郎。早稲田大学英文科中退。3歳のとき、福岡師範学校教員の父親が死去し、以後、大阪市の母方の伯父に育てられた。1961年9月21日没。
宇野 千代 うの・ちよ
1897(明治30)年11月28日、山口県玖珂郡横山村(現・岩国市川西町)の生まれ。小説家。宇野俊次・トモの長女。明治43年、岩国高等女学校に入学。44年、父の命により従兄弟の藤村亮一のもとに嫁入りするが、10日で戻る。大正2年、文学に興味を持ち始め、変名で「女子文壇」に投稿。文学サークルを始める。3年、女学校を卒業、川下村小学校の代用教員となる。4年、同人誌「海鳥」を発行するが、3号で廃刊。同僚との恋愛を理由に教職を追われ、韓国ソウル、当時の京城に渡る。5年、京城から帰国。従兄弟の藤村忠(亮一の弟)を頼って京都へ。同棲生活を始める。6年、東京帝国大学に入学した忠とともに上京。数日間勤めたレストラン・燕楽軒で多くの作家の知遇を得る。8年、忠と結婚。翌年、忠が北海道拓殖銀行に就職したのを機に札幌へ移住。10年、「時事新報」の懸賞小説に応募「脂粉の顔」1等当選、賞金200円を得る。11年、上京し尾崎士郎と出会う。尾崎が止宿していた菊富士ホテルに移住。13年、忠との協議離婚成立、尾崎士郎と結婚。「中央公論」に「或る女の生活」を発表するなど、作家としての地位を固める。昭和5年、東郷青児と取材を通して会い、同棲を始める。9年、東郷が情死未遂事件を起した女性とよりを戻し完全別居。同年、東郷はその女性と結婚。11年、スタイル社を設立し、雑誌「スタイル」を発行。日本初のファッション雑誌として人気を博す。12年、「スタイル」の編集に参画し誌面を一新した北原武夫と急接近。13年、スタイル社から三好達治編集による文藝誌「文體」を創刊。14年4月1日、北原と結婚。19年、スタイル社を解散し、熱海へ疎開。21年、北原を社長、千代を副社長としてスタイル社を再興。「スタイル」を復刊、記録的な売上を見せた。24年、「宇野千代きもの研究所」を設立。25年、中央区木挽町に家を新築。スタイル社の1階に「スタイルの店」を開店。32年、『おはん』が、第5回野間文芸賞受賞。33年、第9回女流文学賞受賞。34年、スタイル社倒産。39年、「天風会」に入会。北原武夫と離婚。42年、きものの仕事をまとめ「株式会社宇野千代」を設立。47年、第28回芸術院賞受賞。49年、郷里岩国の生家の復元が完成。勲三等瑞宝章をうける。57年、第30回菊池寛賞受賞。58年、『生きてゆく私』がベストセラーになる。平成2年、岩国市名誉市民となる。文化功労者として顕彰される。4年、日本橋京屋で「宇野千代展」開催。平成8年6月10日逝去、享年98歳。10年、三越美術館(東京・新宿)にて「生誕百年 宇野千代の世界展」を開催。以後、全国主要都市にて開催。
〈著書〉『脂粉の顔』(改造社、大12 短篇集)『幸福』(金星堂、大13 作品集)『新選宇野千代集』(改造社、昭4 名作短篇集)『罌粟はなぜ紅い』(中央公論社、昭5)『大人の絵本』(白水社、昭6 豪華限定本)『色ざんげ』(中央公論社、昭10)『別れも愉し』(第一書房、昭11)『人形師天狗屋久吉』(文體社、昭18)『日露の戦聞書』(文體社、昭18)『おはん』(中央公論社、昭32)『女の日記』(講談社、昭35)『刺す』(新潮社、昭41)『或る一人の女の話』(文藝春秋、昭47)『幸福』(文藝春秋、昭47)『私の文学的回想記』(中央公論、昭47)『薄墨の桜』(新潮社、昭50)『八重山の雪』(文藝春秋、昭50)『宇野千代全集』(中央公論社、昭52)『青山二郎の話』(中央公論社、昭55)『生きてゆく私』(毎日新聞社、昭58)『幸福の言葉』(海竜社、平13・3) 【恒成美代子】
 私には年齢という意識がなかった。若いとか、年をとっているとかいう意識がなかった。鏡の中に見る現在が現在であった。その現在に見合う行動、というものさえ、私にはなかった。私のいまいるところが、現在であった。(『幸福の言葉』「命の力」より)
梅崎 春生 うめざき・はるお
1915(大正4)年2月15日、福岡市簣子町の生まれ。小説家。生後まもなく市内の荒戸町に転居。6人兄弟の次男。「父建吉郎は陸軍士官学校十六期出身の歩兵少佐。母貞子は裕福な町家の出。家庭はしつけのきびしい中産階級の雰囲気だったという。兄弟は男ばかりの六人。兄光生は作家・哲学者。三男忠生は「狂い凧」のモデルといい、応召中に蒙古で終戦直前に自殺。四男栄幸は新聞記者。五男信義は観世流の能楽師。六男健は運送業に従事」(『梅崎春生全集』別巻、沖積舎、昭63・11付載「年譜」)。生家はまもなく市内荒戸町に引っ越した。父親は大正13年、歩兵少佐で退職し、昭和13年没。母親は夫の死後、謡と仕舞の師匠をして下の子3人を育てた。戦争中は謡の生徒だった福岡市近郊の津屋崎町宮地嶽神社の宮司・浄見家の離れに疎開。春生も敗戦後、桜島からこの疎開先の仮寓に復員した。昭和20年9月、上京。その後、「桜島」でデビュー。昭和30年、「ボロ家の春秋」で第32回直木賞を受賞。40年7月19日、肝硬変のため東大病院で死去。享年50歳(満年齢)。遺作『幻化』(昭40)で毎日出版文化賞受賞。
〈著書〉『梅崎春生全集』全7巻(新潮社、昭41.10-42.11)『梅崎春生全集』全7巻別巻1(沖積舎、昭59.4-63-10) ⇒自筆略歴
梅崎 光生 うめざき・みつお
1912(大正1)年11月25日、福岡市の生まれ。小説家。市立簀子小学校、県立中学修館をへて上京し、東京高等師範学校数学科に入学。卒業後、しばらく山梨県内で教師をつとめたが、東京文理科大学哲学科に入学。2度応召し、昭和21年6月、フィリピンの俘虜収容所から復員帰国。佐世保港に上陸し、博多駅に降りた。この体験を核にして後年、創作を試みる。平成12年9月23日没。
〈著書〉『暗い渓流』(講談社、昭46・8)『春の旋風』(新樹社、昭49・8)『幽鬼庵雑話』(永立出版、昭52・7)
父の家は佐賀の貧乏士族で、結婚当時は福岡の連隊に中尉としてつとめており、母の家は同じく佐賀の町家であった。/私が生まれたのも、物心ついたのも、福岡市の舞鶴城つまり連隊の近く簀子町という所であった。(「柱時計」)
宇山 翠 うやま・みどり
1923(大正12)年、福岡県小倉の生まれ。小説家。1975年、「基地の中の青春」で朝日ジャーナルの記録文学賞に当選。1985年、「いちじく」で第9回神戸女流文学賞。「今様ごよみ」(昭61)で第10回歴史文学賞。
〈著書〉『もうひとつの小倉』(小倉郷土会、昭57・7)創作集『いちじく』(沖積舎、昭63・6)『富子繚乱』(講談社、平5・11、ペンネーム=内村幹子)
浦瀬 白雨 うらせ・はくう
1880(明治13)年7月8日、長崎県佐々の生まれ。英文学者・詩人。士族浦瀬忠次郎の長男。本名は浦瀬七太郎。明治40年、東京帝国大学文科大学英文科卒業。柏崎中学校、愛知県立第五中学校教諭を経て、大正11年12月4日、長崎高等商業学校教授となる。13年3月10日、旧制福岡高等学校教授として着任。東京帝大在学中に、英文科の講師だった夏目漱石から指導を受け、師の序文を付して訳詩集『ウォルヅヲォスの詩』(書梓隆文館、明38・7)を上梓。以後、詩の翻訳を多く手がけ、詩雑誌「日本詩人」(新潮社)に訳詩を発表するなどして、欧米の前衛芸術運動の紹介につとめた。「九州文学」、「ポエチカ」などには自作の詩や随筆を発表。三〇(昭和5)、三一年の二年間は福岡高等学校の文芸部顧問を務めている。浦瀬の人柄は、「縹渺としてこだわらず、ときに講義時間を忘れるほどであったが、風格があり、高校先生らしい最たるものといわれた。一献を酌めばまた楽しく、エピソードの多い人であった」(『あゝ玄海の浪の華│旧制高等学校物語(福岡高校編)』財界評論新社、69・6)と伝えられている。三二(昭和7)年三月三一日付で福高教授を依頼免職し、同年四月六日からは同校の嘱託講師として教壇に立った(42・10まで)。なお、四一(昭和16)年四月の「九州文学」に発表した評論「私の中の私」は、同年の九州文学賞を受賞している。昭和21年12月9日没。
〈詩集〉『白日夢』(三笠書房、昭11・1)があり、〈翻訳〉『ウォルヅヲォスの詩』(書梓隆文館、明38・7)ジロゥム『ボートの三人男』(岩波文庫、昭16・7)『現代英米詩選』 【石川巧】
梅本 竹馬太 うめもと・たけまた
1906年(明治39年) 9月27日、奈良県五条町に材木関連の事業家の三男として生まれる。写真家。別名・梅本左馬次(さまじ)。父・梅本松治郎、母・青木まさ(後妻で入籍せず)との間に兄一人、妹三人。父の事業の失敗後は、異母兄・保司の世話を受け、樺太に渡る。大連一中卒業後、旅順工科大学予科に進学。中途退学し、27年、大阪外国語学校(現大阪外大)英語科に進学、30年卒業。東京のドイツ系商社アーレンス商会に入社するも、失業。「職業的革命労働者」として非合法活動に入る。アジトを兼ねて本郷・駒込に写真材料商および商業写真撮影業を開業。出版社勤務だった次兄・忠雄とともに写真家としても自立する。また、雑誌用原稿のリライトなども手がける。34年1月治安維持法違反で逮捕、2年余を獄中で過ごす。転向出獄後、同盟通信社にカメラマンとして入社。38年、中国戦線に陸軍報道部員として従軍。火野葦平とともに行動し「麦と兵隊」の写真を撮影する。戦後は占領軍通訳を経て、49年に日本専売公社に広報関係で入社。1973年(昭和48年)12月8日死去。没後、『壊滅』を養子・建によって刊行。翌74年7月、『壊滅――「赤旗」地下配布部員の記録』(白石書店)として、廣瀬東の長文の解説(「梅本君と「壊滅」と――その頃のことなど」)を付して公刊される。 【坂口博】
瓜生 敏一 うりゅう・としかず
1911(明治44)年2月20日、福岡県の生まれ。
俳人。昭和10年、早稲田大学文学部国文学部卒。俳句は、初期には定型俳句を作ったが、昭和7年、河東碧悟桐に師事し、自由律に転じ「三昧」「紀元」に投句のち新傾向自由律俳人。俳誌の史的研究、考証には定評があった。句集『稚心』(昭49)その他『妙好俳人黒スさん』(昭47)。『田川の文学とその人生』(昭57)。『荻原井泉水研究ー゛層雲゛・創刊以前の井泉水』(昭57)。『中塚ー碧楼ー俳句と恋に賭けた前半生』(昭61)。『思い出す人びと』(昭62)。平成6年8月23日死去、享年83歳。 【恒成美代子】
伊吹はいま雪ながら菜の花ざかり
瓜生 正美 うりゅう・まさみ
1924(大正13)年11月30日、福岡県生まれ。演劇人。第五高校卒。昭和39年、秋田雨雀・土方与志記念「青年劇場」に入団し、のち代表、主席演出家。
日本演劇者協会理事、日本劇団協議会常務理事。弟に、演出家・評論家の瓜生良介がいる。良介は昭和十年三月三日、福岡県若松市(現・北九州市若松区)生まれ。兄正美の自立劇団「鴎座」の第一回公演に子役として出演し、昭和31年、舞台芸術学院に入学。土方与志の舞芸座で演劇を続け、39年から「発見の会」を主催。小劇場運動の先駆となった。新日本文学会所属。また鍼灸治療医院「ウリウ治療室」院長。
瓜生 良介 うりゅう・りょうすけ
1935(昭和10)年3月3日、福岡県若松市の生まれ。演劇人。兄正美の自立劇団「座」の第一回公演に子役として出演し、昭和31年、舞台芸術学院に入学。土方与志の舞芸座で演劇を続け、39年から「発見の会」を主催。小劇場運動の先駆となった。新日本文学会所属。鍼灸治療の医院「ウリウ治療室」院長。

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永来 重明 えいらい・じゅうめい

江頭 光 えがしら・こう
1925(大正14)年11月、台湾台南市の生まれ。郷土史家。1937年、母の郷里大分県日田市に帰国。
國學院卒。元西日本新聞記者。平成5年、第18回福岡市文化賞。〈著書〉『博多おやまあ―新聞100年』『ふくおか100年』『博多川上音二郎』(西日本新聞社、平8.7)
江頭 彦造 えがしら・ひこぞう
1913(大正2)年10月4日、佐賀県白石町の生まれ。詩人・評論家。一高‐東大国文科卒。「コギト」「時間」「山の樹」同人。
〈著書〉詩集『早春』(雄鶏社、昭25.5)小説集『リボンのついた氷島』(雄鶏社、昭27.4、※解説=田宮虎彦)『江頭彦造著作集』(双文社出版)
江上 トミ えがみ・とみ
1899(明治32)年11月19日、熊本県葦北郡田浦町の生まれ。料理研究家。戦後、福岡市新店町で料理店を開き、その後、上京。1980(昭和55)年7月21日没。
江上 波夫 えがみ・なみお
1906(明治39)年、山口県下関市の生まれ。歴史学者・詩人。騎馬民族渡来説を主張。『江上波夫著作集』全13巻別巻1(平凡社)。別巻『幻人詩抄 わが生い立ちの記』 ⇒詩抄
江川 英親 えがわ・ひでちか
1931(昭和6)年10月4日、福岡県の生まれ生。詩人。日田林工高土木科卒。「ALMEE」同人。
〈詩集〉『交感反応』『偽証』『狼の嘘』『ひもじい鬼』(ALMEEの会)『雁』『雀万匹』(思潮社)などがある。
江口 章子 えぐち・あやこ
1888(明治21)年4月1日、大分県西国東郡岬村(現・香々地町)の生まれ。詩人・歌人。明治39年、弁護士と結婚するが、大正4年に離婚。大正5年、北原白秋と同棲、大正8年、婚姻届出(白秋の2度目の妻)。翌9年、白秋と離婚。その後、数奇な運命を辿ることになる。43歳で再々婚するが、翌年精神の変調をきたし京大精神科に一時入院。50歳で脳溢血のため半身不随。昭和13年4月、吉祥寺で剃髪・尼僧となる。この年に離婚。晩年は香々地の実家に帰る。昭和21年12月29日、座敷牢で永眠。享年59歳。法名・妙章尼。大分県西国東郡香々地の長崎鼻に「ふるさとの香々地にかへり泣かむものか生れし砂に顔はあてつつ」の歌碑が建っている。〈著書〉詩文集『女人山居』(交蘭社、昭3・5※武者小路実篤「序」・生田花世「跋」)『追分の心』(海図社、昭9・9、序文・生田春月、平成7年9月復刊=原達郎発行。)【恒成美代子】
人の世のつヽしみといふかりぎぬも君死にたれば敷きてなげかむ
なき人のおもかげうつせ秋の水澄みゆく心きみと相見む
その夜より酒こそ吾れや救ひけむ狂院の秋の風しろうして
  
(以上3首は『追分の心』所収「春月居士の墓前にささぐ」より)
江口 榛一 えぐち・しんいち
1914(大正3)年3月24日、大分県耶馬渓の生まれ。詩人・歌人・評論家。明治大学文芸科卒(昭12)。新聞記者・映画会社脚本部員・移動演劇連盟職員・出版社編集長・学校教師などをへて著述業。キリスト教の立場から慈善団体〈地の塩運動〉を推進し、季刊誌「地の塩」発行。船橋市在住。1979年4月18日没。
〈著書〉歌集『故山の雪』ローマ字童謡集『しっぽのゆくえ』詩集『荒野への招待』自伝『背徳者』(昭32)『地の塩の箱』(昭34)ルポルタージュ『地の塩の箱―ある幸福論』(新潮社、昭49・10)自叙伝『背徳者』(実業之日本社、昭32・1)『地の塩の箱』(くろしお出版、昭34・7)
江口 季好 えぐち・すえよし
1925(大正14)年10月9日、佐賀県諸富町の生まれ。少年詩人。早稲田大学卒。在学中、服部嘉香に師事。
〈著書〉詩集『風、風、吹くな』(百合出版、昭52)『チューリップのうた』(同、昭61)『生きるちからに』(同、平4)論集『児童詩の授業』(明治図書、昭39)
江崎 伝 えざき・
1913(大正2)年、福岡県八女郡福島町の生まれ。俳人。ホトトギス参加。筆名・袴著長兵衛。福岡市在住。
〈著書〉第1句集『寒ざらひ』(あけぼの社、昭21・3*題字は河野静雲) 『新歳時記 四季の菓子』(東京・西南書房、昭22・2*山路閑古の「四季の菓子序」あり。題字は河野静雲)
江崎 誠致 えざき・まさのり
1922(大正11)年1月21日、福岡県久留米市の生まれ。小説家。昭和9年4月、県立中学明善校(現・明善高校)に入学し、14年3月卒業。卒業式をまたずに上京し、図書館講習所に一時籍を置いたあと、同郷の野田宇太郎を頼って小山書店に入社。昭和18年3月、応召。久留米歩兵第四八連隊に入営したあと第四航空軍に転属となり、フィリピンのルソン島に上陸。同地で敗戦を迎えた。昭和21年2月下旬、復員帰国。いったん郷里に戻ったあと、小山書店に復職したが、昭和24年、出版社「冬芽書房」を設立。昭和25年、朝鮮戦争勃発とともに解散し、日本共産党の地下活動の資金調達に専念した。昭和30年12月末、喀血。翌年、肺の切除手術を受けた。『ルソンの谷間』(筑摩書房、昭32.4)で第37回直木賞を受賞した。
〈著書〉『ルソンの谷間』(筑摩書房、昭32.4)『肺外科』(筑摩書房、昭32・7)『爆弾三勇士―死児の齢・第一部』(筑摩書房、昭33・6)『笹りんどう―死児の齢・第二部』(筑摩書房、昭33・7)『裏通りの紳士』(筑摩書房、昭33・12)『花の魔術師』(光文社、昭34・8)『ルバング島』(光文社、昭34・10)『雑婚時代』(文芸春秋新社、昭35・11)『女の鋳型』(講談社、昭37・8)『抱擁記』(講談社、昭39・3)『死児の齢』(筑摩書房、昭39・9、完結集成版)『十字路』(文芸春秋新社、昭39・11)『やどかり』(毎日新聞社、昭48・4)『石の鼓動』(双葉社、昭48・4)『らんか帖―ヘソ曲りで生きよう』(新潮社、昭58・8)『ルソンの挽歌』(光文社、昭60・2)『江崎誠致 戦争と青春文学選』全3巻(光人社)
江崎 利一  えざき・りいち
●年、佐賀県三養基郡北茂安村(現・●)の生まれ。実業家。江崎グリコ社長。
榎島 沙丘 えじま・さきゅう
1907(明治41)年6月12日、鹿児島の生まれ。俳人。七高―京大卒。神戸市役所に勤務し、日野草城に師事。以前の筆名は指宿沙丘。
〈著書〉句集『港都』(俳句評論社、昭48.4)。
江藤 淳 えとう・じゅん
1933(昭和8)年12月25日、東京の生まれ。評論家・小説家。本名・江頭淳夫。父祖の地は佐賀県。慶応大学文学部卒。「三田文学」発表の「夏目漱石論」で評論家デビュー。1999年7月21日自死。
〈著書〉『夏目漱石』『作家は行動する』『成熟と喪失』『一族再会』
潁原 退蔵 えばら・たいぞう
1894(明治27)年、長崎県上五島の生まれ。近世文学研究家。

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邑楽 慎一 おうら・しんいち
1908(明治41)年4月30日、福岡県浮羽郡水縄村(現・田主丸町)の生まれ。医師・作家。本名・池尻慎一。医師池尻久四郎の二男。大正10年、久留米の中学明善に入学。昭和2年、熊本の鎮西中学を卒業。3年、九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)入学、日本福音ルーテル久留米教会で受洗。7年、同校を卒業(第1回生)。8年、梯トミ子と結婚。9年、熊本回春病院の主任医となる(11年辞任)。11年より邑楽慎一の筆名を用いる。11年、多磨の全生病院医員となる。12年、軍医予備員として応召、華北を転戦。14年、「中央公論」に「白衣邂逅」掲載。15年、軍医中尉となる。召集解除。16年、再応召、ビルマ転戦。18年、召集解除。19年4月、ジャカルタ医科大学付属熱帯医学研究所癩研究所(所長は九大医学部卒の樋口謙太郎)の軍属技師として赴任。昭和20年1月4日、中部ジャワのアンバラワにて殉職(俘虜収容所勤務の朝鮮出身軍属警備員の反乱による)。
〈著書〉『軍医転戦覚書』(中央公論社、昭15・2)、『傷める葦』(山雅房、昭15・3)『子不語―近代支那伝説集(訳)』(長崎書店、昭16・8)『続軍医転戦覚書―ビルマ編』(長崎書店、昭19・1)*1964年4月に、熊本市の池尻慎一顕彰会より池尻慎一追悼記念文集『傷める葦を憶う』刊行。 【坂口 博】
大井 広介 おおい・ひろすけ
1912(大正1)年12月16日、福岡県の生まれ。評論家。本名、麻生賀一郎。筑豊の炭鉱主の麻生一族の家系。嘉穂中学(現・嘉穂高校)を卒業し、昭和5年2月、上京。文芸誌「槐」「現代文学」に参加し、第一評論集『芸術の構想』(竹村書房、昭15・11)を上梓。昭和20年、東京大空襲で罹災し、郷里に疎開。「私の親類が九州で炭坑をやっているが、家業を捨てて東京でくらしている私はいわば異端者だ。焼けだされたから戻って来たというのはどうもいまいましい。そこで、みたことも行ったこともない地点、佐賀県も長崎県に近接した海辺のちっちゃい炭坑を選んで頼み、其処へ出掛けた」(「朝鮮戦争と日本共産党」)。この「ちっちゃい炭坑」とは、佐賀県西松浦郡山代町(現・伊万里市)にあった久原鉱業所と推定されるが、彼はここで労務係などをつとめ、敗戦を迎えた。昭和23年、上京。
〈著書〉『文学者の革命実行力』(青木書店、昭31・4)『左翼天皇制』(拓文館、昭31・10)『バカの一つおぼえ』(近代生活社、昭32・4)『革命家失格』(拓文館、昭32・5)『ちゃんばら芸術史』(実業之日本社、昭34・3)などがある。昭和51年12月4日没。
大石 英司 おおいし・えいじ
1961(昭和36)年4月8日、鹿児島県鹿屋市の生まれ。小説家。1986年、『B-1爆撃機を追え』(講談社)でデビュー。日本冒険作家クラブ所属。
〈著書〉『環太平洋戦争』(中公文庫)
大石 千代子 おおいし・ちよこ
1907(明治40)年2月7日、福岡県の生まれ。本名・有山千代子。作家。1979(昭和54)年1月5日没。〈著書〉『ベンゲツト移民』(岡倉書房、1939)『山に生きる人びと』(洛陽書院、1940)『交換船』(金星堂、1943・7)『人柱』(新流社、1960・8)『底のない沼』(三一書房、1962・4)『ベンゲット道路』(日本週報社、1963【坂口 博】
大泉 黒石 おおいずみ・こくせき
1893(明治26)年10月21日、長崎の生まれ。小説家。長崎鎮西学院中学卒。俳優大泉晃の父。本名は清
(きよし)だが、父方の血を意識する時は、キヨスキーと名乗る。父はロシア人アレキサンドル・ステパノヴィッチ・ヤホーヴィッチ、農家の家系の出自でペテルブルク大学出の法学博士、母は日本人で本山恵子、ロシア文学の熱心な研究者だった。父アレキサンドルがロシア皇族の侍従として長崎に来た時、日本側の接待役をした恵子と知り合い、周囲の反対を押しきって結婚した。母恵子は、黒石を産んで一週間目に亡くなる。祖母に引き取られた黒石は、小学校3年までは長崎で、ついで漢口で領事をしていた父を頼って行くが、間もなく父とも死別。父方の叔母につれられモスクワに行き小学校に入る。その頃、父方の本家の近所に住むレオフ・トルストイにも会う。パリのリセに数年在学したが、停学。スイス、イタリアをへて長崎に戻り、長崎鎮西学院中学を卒業。再び、ペテログラードの学校に在学するが、ロシア革命で帰国。京都三高に入学するが、退学して、東京に出、一高にも一時在籍したが退学。石川島造船所書記から番頭にいたる雑業のかたわら、小説家を志した。大正8年から10年にかけて「中央公論」に連載した「俺の自叙伝」が脚光を浴び、虚無的な老子像を書いた『老子』(新光社、大正11.6)などで名を知られる。多種多様な文筆活動があり、ゴーリキーの翻訳『どん底』(東亜堂、大正10.9)、『露西亜文学史』(大鐙閣、大正11.2)などのロシア文学関係の仕事や、怪奇小説、ユーモア小説、紀行文など広く手がけた。晩年は、横須賀で通訳をし、大正期の多才な一奇人とされる。1957(昭和32)年10月26日没。〈著書〉『大泉黒石全集』 
大江田 貢 おおえだ・みつぐ
1926(大正15)年10月25日、熊本県の生まれ。少年詩人。熊本師範学校卒。1951年上京し、巽聖歌らの少年詩運動に参加。1974年「子どもと詩文学会」参加。詩誌「ぎんやんま」同人。
仰木 実 おおぎ・みのる
1899(明治32)年11月8日、福岡県生まれ。歌人。少年期の投書時代(仰木朱鳥)を経て、大正10年内藤銀策の知遇を得、「抒情詩」に拠る。同誌廃刊のため、同系の「林鐘」「青杉」「短歌巡礼」を経て、昭和6年「歌と観照」創刊と同時に入社、岡山巌に師事する。その間少年期に「文積少年」、青年期に「街歌」、敗戦後「群炎」を編集発行する。北九州歌人協会顧問、日本歌人クラブ福岡県委員にも就く。八幡製鉄所に技術者として勤務。昭和14年10月、北朝鮮の清津製鉄所に転勤。20年8月13日のソ連軍参戦に遭遇する。21年6月10日、博多港に引き揚げ帰国。昭和52年3月7日、福岡県宗像郡宗像町石丸348の赤間病院で心不全のため死去。墓所は、北九州市八幡東区枝光八幡大学下墓地。北九州市小倉北区八坂神社に歌碑あり。
〈著書〉歌集『流民のうた』(北九州・群炎短歌会、昭44・10  群炎叢書第11集)。【坂口 博&恒成美代子】
 
手に提げし重き荷物を捨ててゆくわれのみならず避難民どち
 男装の娘らを気にしつつそれとなく目くばせしつつ検問所に入る
 武装解きし玲子を加え九人のわが一家族ひたすら生きむ
 女らの凌辱さるるを聞くに堪えず敗北日本のゆくえを歎く
 いけにえに小羊ならぬ女をとこの米兵らに吾が血たぎりく

「私たちは避難民として流離の淋しい旅を続けますが、二男二女の吾子たちと老齢の母と病弱な妻、それに姪を加えて八人の一群が、母国への帰還を一途に、異国を漂い歩きました。老母の手を引き、三歳の末っ子を背負い、リュックに鍋釜を結び、幾度か野宿をいたしました。家族の内、次女の玲子は、女学校卒業と同時に羅南師団に軍属として応召し女兵のもっとも重要な任務に従事しておりましたので、羅南師団被爆の報にもはや戦死したものとばかり思っていました……好運にも、日本人会日の出町民に救われ、五月十二日の夜、ひそかに同地九竜の浜に待機した闇船、漁船に便乗して海路待望の三十八度線を突破したのであります。これより帰還の途に着きますが、釜山より日本の引揚者輸送船泰正丸に乗り込み、博多港に運ばれ、昭和二十一年六月十日博多に上陸、無事家族揃って日本の地を踏むことが、出来たのであります。」(『流民のうた』あとがき)
大串 章 おおぐし・あきら
1937(昭和12)年11月6日、佐賀の生まれ。俳人。京都大学経済学部卒。昭和36年、大野林火に師事。昭和53年、俳人協会新人賞受賞。
〈著書〉句集『朝の舟』『山童記』評論集『現代俳句の山河』(本阿弥書店 平6・11*第9回俳人協会評論賞) 【恒成美代子】
マフラーのあたたかければ海を見よ
木を植ゑて夕日を呼びに出かけたる
雪吊の木をくすぐつてゐる子かな
大隈 秀夫 おおくま・ひでお
1922(大正11)年1月17日、佐賀県の生まれ。ジャーナリスト・作家。昭和19年9月、福高文科3組を仮卒業。第1次学徒出陣で従軍し、終戦を宮崎市郊外の幹部候補生教育隊の区隊長でむかえた。昭和20年12月初旬、東大文学部に復学。その後、九州大学に移り、22年、同大学法文学部を卒業し、社会学教室の副手をつとめた後、西日本新聞社に入社した。36年2月、東京支社文化・社会次長を最後に退社。ジャーナリストの大宅壮一に師事し、人物論・ルポルタージュを中心に活躍。『もとより生還を期せず』(日本文芸社、平5・7)では、久留米第一陸軍予備士官学校時代の同期生からの聞き書きと調査にもとづき、学徒兵たちの戦争体験を描いている。『大宅壮一における人間の研究』(山手書房、昭51・11)『大宅壮一を読む』(時事通信社、昭59・4)など大宅壮一に関する著作もある。また、文章講座の講師などもつとめ、『新・文章の書き方一〇一の法則』(日本実業出版社、昭58・12)等の文章作法関係の著作も数多くあり、文章研究グループ「初心の会」を組織。同会から檀一雄の評伝『モガリ笛いく夜』(初心の会、昭61・11)も出版している。麻雀の強豪としても知られ、公式戦における青天井ルール最高得点記録(緑一色・四暗刻・ハイテイ・ツモ・ドラ3、二一兆四七五八億八三六四万八千点)を持ち、第二期麻雀名人。また、〇二年第一回麻雀世界大会日本組織委員長もつとめた。【長野秀樹】
大隈 三好 おおくま・みよし
1906(明治39)年、佐賀県の生まれ。小説家。佐賀師範卒。日本大学中退。サンデー毎日大衆文学賞・第5回小説新潮賞受賞。小平市在住。
〈著書〉『高山彦九郎』『真木和泉守』『神風連』『江藤新平』『現代訳 葉隠』『神風連蹶起』(新人物往来社、昭50.12)
大河内 昭爾 おおこうち・しょうじ
1928(昭和3)年3月7日、宮崎県都城の生まれ。文芸評論家。武蔵野女子大学長。
大沢 幹夫 おおさわ・みきお
1911(明治44)年、熊本の生まれ。劇作家。昭和初頭、東京左翼劇場所属。「忘られぬ五月一日」(「テアトロ」昭27)
大島 寿二 おおしま・としじ
1929(昭和4)年1月1日、山口県萩市浜崎町の生まれ。
詩人。昭和26年、早稲田大学露文科中退。昭和30年、北九州大学米英科中退。詩歴は、昭和24年、詩誌「道程」(小倉)同人。26年、「肩を組む人」(秋田県能代市)同人。28年、詩誌「沙漠」同人。31年、文芸誌「紅石」(山口県)参加。「長周新聞社」(下関市)に勤務した。
大島 病葉 おおしま・わくらば
1886(明治19)年1月30日、佐賀県佐賀郡神野村(現・佐賀市)の生まれ。歌人。本名・豊義。父は大島源六、母はソノ(園子)。姉1人、弟4人、妹3人の9人兄弟の長男。1889(明治22)年、佐賀市大字西田代町に転住。92(明治25)年、勧興小学校へ入学するも、94年、破傷風に罹り、小学校3年にて退学。以来母が教育にあたる。1903(明治36)年、この頃から文芸詩歌に親しむ。05年、「野の花文芸会」発足、06年、文芸雑誌「九州文学社」*発足、いずれにも同人として参加する。07年8月4日「五足の靴」一行(与謝野鉄幹・北原白秋・平野万里・木下杢太郎・吉井勇)を迎え、唐津市近松寺にて「野の花文芸会」が開催。その会に出席し、博多屋旅館に宿泊。翌朝の記念撮影にも連なる。1916(大正5)年9月、「涼炎詩社」創設。同人として参加。22(大正11)年1月23日、京都の一燈園(西田天香)を訪ねる。23年6月10日から7月21日まで上京し、与謝野鉄幹も訪ねる。25(大正14)年3月22日死去。(碇登志雄『歌人大島病葉』所収「年譜」より)*後年の「九州文学」(福岡市)とは全く関係ない。佐賀県立図書館には、「九州文学」3年4号(明治41年7月10日発行)を1冊架蔵。佐賀市唐人町156番地、九州文学社発行。【坂口 博】
よよよよとよよよよよよとよよよよといしくも泣ける君を見て足る(明治四十二年)
ぼけの花触れればこぼるぼろぼろとこぼるるこぼるる快さかな
(大正九年)
蒼ざめし肌に汗ばみ紙袋一つ一つの桃の実に掛く
(大正十年)
大城 貞俊 おおしろ・さだとし
  沖縄県の生まれ。詩人・小説家。小説『椎の川』(朝日文庫)で具志川市文学賞。
大城 立裕 おおしろ・たつひろ
1925(大正14)年9月19日、沖縄県の生まれ。小説家。1967年、「カクテル・パーティ」で芥川賞。小説集『カクテル・パーティ』評論集『同化と異化のはざまで』 ⇒自筆年譜
太田 千鶴夫 おおた・ちづお
1906(明治39)年、鹿児島県の生まれ。小説家。本名は肥後栄吉。千葉医大卒。昭和15年、谷口吉郎・木下杢太郎(太田正雄)らと花の書の会」をつくり、同年9月、機関誌「花の書」を創刊。野田宇太郎もこれに参加した。「
〈著書〉『警察医の日記』(昭和書房、昭9・11)『ブロードウェイの旅人』(昭32)
太田 博子 おおた・ひろこ
     小説家。
〈著書〉『激しい夏』(朝日新聞社、昭50・11、NETテレビ開局十五周年記念懸賞小説優秀作)
大田 昌秀 おおた・まさひで
1926(大正15)年6月12日、沖縄県久米島具志川村に生まれた。歴史学者・政治家。昭和20年3月、沖縄師範学校本科3年生のとき、学徒隊「鉄血勤王隊」の情報宣伝隊「千早隊」に配属された。21年、沖縄文教学校を卒業。23年、沖縄外国語学校本科卒業。名護英語学校の教員となったが、上京して29年、早稲田大学を卒業後、さらに渡米し、米国シラキュース大学大学院修士課程を修了(ジャーナリズム修士)。帰国後、31年、琉球大学財団に勤務し、2年後、琉球大学文理学部(のち法文学部)社会学科講師、その後、助教授から教授(社会学専攻)となり、評議員・法文学部長も兼務したあと、平成2年12月から10年12月まで沖縄県知事を2期8年間つとめた。12年1月、大田平和総合研究所・在米日本政策研究所を設立し、沖縄および世界の平和問題に関心を寄せている。
〈著書〉『沖縄の民衆意識』(弘文堂新社、昭42・8)『醜い日本人』(サイマル出版会、昭44・1)『拒絶する沖縄・日本復帰と沖縄の心』(サイマル出版会、昭46・11)『沖縄のこころ』(岩波新書、昭47・8)
太田黒 克彦 おおたぐろ・かつひこ
1895(明治28)年、熊本市の生まれ。児童文学者。動物読物で有名。
〈著書〉『マスの大旅行』(昭31)『山ばとクル』(昭37)
王塚 跣 おおつか・せん
1917(大正6)年3月4日、福岡県田川郡川崎町の生まれ。小説家。七人きょうだいの末弟。本名・大塚正。戦時中は軍隊体験あり(1938年、下関重砲連隊に入隊し、41年から終戦まで南西諸島に勤務)。戦後の1946年、八幡製鉄所労働課に入職。1948年、職場内に創作研究会が発足し、入会。「黄金部落」をへて「九州作家」「九州文学」同人。1966年、朝日新聞一千万円懸賞小説に「四季なき山河」が佳作入選して、同社より『筑豊一代』として刊行される。1968年、第1回北九州市民文化賞を受賞。宗像郡福間町(現・福津市)太郎丸に在住していた。1995(平成7)年1月8日没。
〈著書〉『筑豊一代』(朝日新聞社、1966・9)『火焔樹』(九州人文化の会、1969・11)『性と死のバラード』(自家版(製作・文芸春秋)1979・1)『七枚半の人生―掌編小説選集』(自家版(製作・講談社出版サービスセンター)、1982・9) 【花田俊典&坂口博】
大塚 幸男 おおつか・ゆきお
1909(明治42)年2月18日、佐賀市赤松町の生まれ。仏文学者・歌人。大正15年、佐賀県立佐賀中学校卒業。昭和5年、大阪外国語学校(仏語部)卒業。8年、九州帝国大学法文学部卒業(仏文学・比較文学専攻)。9年4月、旧制福岡高校のフランス語の講師となり、12年11月24日付で教授に昇格(19年7月まで)。「九州文学」(第1期)同人。浦瀬白雨、秋山六郎兵衛らとともに「第二期 九州文学」にも参加した。19年7月より25年まで西日本新聞論説委員をつとめる。25年、福岡商科大学(現・福岡大学)の教授に就任。以後、福岡大学教養部人文学部で教壇に立った。44年、福岡大学人文学部教授、同部長。49年、福岡大学理事。59年、福岡大学名誉教授。日本フランス語・フランス文学会幹事。日本比較文学会理事。51年3月、フランス政府(文化省)よりアカデミー勲章を贈られる。
54年、福岡市文化賞受賞。57年、西日本文化賞(学術文化部門)受賞。平成4年9月9日没。〈著書〉『恋愛・結婚・女性―フランスの箴言』(角川書店、昭25・7、角川新書)『仏文学入門』(養徳社、昭26・7)『女は生きる』(河出書房、昭32・1、河出新書)『フランス文学風物誌』(白水社、昭33・8)『ヨーロッパ文学主潮史』(白水社、昭38・10)『フランスのモラリストたち』(白水社、昭42・5)『花咲く桃李の蔭に―モラリスト・島崎藤村』(潮出版社、昭47・8)『近代フランス文学論攷』(朝日出版社、昭48・3)『流星の人モーパッサン―生涯と芸術』(白水社、昭49・10)『フランス文学随縁録』(第三書房、昭51・9)『比較文学原論』(白水社、昭52・6)『花のある窓』(第三書房、昭53・3)『モラリスト渉猟』(第三書房、昭54・11)〈翻訳書〉コンスタン『アドルフ』(岩波書店、昭10・4)ボナール『友情論』(白水社、昭15・10)サン・シモン『ジュネーブ人の手紙』(日本評論社、昭23・3、世界古典文庫)アナトール・フランス『フォンテーヌ詩抄 初雪』(第三書房、昭42・10)『神々は渇く』(岩波書店、昭52・5)ボナール『恋愛論』(白水社、昭53・8)〈歌集〉『白きやまかひ』(心遠書屋、昭41・6)、『ひと日われ海を旅して』(心遠書屋/福岡大学研究所、昭42・12) 【和泉僚子&花田俊典&坂口博】  →著書一覧
大坪 草二郎 おおつぼ・そうじろう
1900(明治33)年2月11日、福岡県の生まれ。歌人・小説家。本名は竹下市助。21歳のとき上京し、大正10年、島木赤彦主宰の歌誌「アララギ」に入会。昭和5年、「つばさ」創刊。昭和12年、「あさひこ」創刊。昭和29年11月25日没。
〈著書〉戯曲『大海人皇子』(聚英閣、大13・1)小説『運命の秋』(改造社、大14.2)評論『短歌初学』(第一書房、昭14・5)伝記評論『良寛の生涯とその歌』(古今書院、昭14・7)『人間西行』(時代社、昭15・7)
大西 巨人 おおにし・きょじん
1919(大正8)年8月20日、福岡市の生まれ。小説家。本名は巨人
(のりと)。父は大西宇治恵、母はすがの。「大正末期(一九二五年前後)、一年ばかり、私(の一家三人)は、福岡市大円寺町に住んでいた」(大西巨人「遼東の豕」、『巨人雑筆』講談社、80・12)。1929(昭和4)年、旧制小倉中学に入学。図画は俳人の杉田久女の夫・杉田宇内に習った。1年後、旧制福岡中学に転校し、33(昭和8)年3月、同校を准卒業(第4学年修了)。「私は、私の父(亡)の勤め先の異動に伴って、小学時代に三度、中学時代に一度、転校した」(「遼東の豕」)。この頃の住まいは糟屋郡新宮村(現・新宮町)。33(昭和8)年4月、福岡高校文科甲類に入学。同校を36年3月に卒業し、同年4月、九州帝大法文学部に進学たが、39年、中退。大阪毎日新聞西部支社(現・毎日新聞西部本社)に就職した。42年、応召し、対馬要塞重砲兵連隊に入営中に敗戦を迎えた。「敗戦後二、三年間、私は、友泉亭に住み、柳橋東南袂の三帆書房で、雑誌『文化展望』の編集にたずさわっていた。週日の私は、午前に友泉亭の家を出かけて、夜分に帰宅した。(略)私の家は、友泉亭南端の路傍にあった」(「遼東の豕」)。この頃、日本共産党に入党。1947年、「近代文学」同人。52年7月、上京し、新日本文学会常任中央委員となる。短篇「黄金伝説」(「新日本文学」昭29・1)で差別問題を扱い、また評論「俗情との結託」(「新日本文学」昭27・10)では今日出海の著作『三木清における人間の研究』および野間宏の小説『真空地帯』を批判。1961年、日本共産党と疎遠になる。72年、新日本文学会を退会。〈著書〉小説集『精神の氷点』(改造社、1949・4)批評集『戦争と性と革命』(三省堂、1969・10) 編著『兵士の物語』(立風書房、1971・3)批評集『巨人批評集』(秀山社、1975・8)長篇小説『神聖喜劇』全五巻(光文社、1978・7月―1980・4、文春文庫版、1982・1―1981・5月、ちくま文庫版、1991・10―1992・3)批評集『巨人雑筆』(講談社、1980・12)編著『日本掌編小説秀作選』全二巻(光文社、1981・4)『大西巨人文藝論叢(上巻)俗情との結託』(立風書房、1982・9)長篇小説『天路の奈落』(講談社、1984・10)『大西巨人文藝論叢(下巻)観念的発想の陥穽』( 立風書房、1985・5)批評集『運命の賭け』(晩聲社、1985・10)批評集『遼東の豕(いのこ)』(晩聲社、1986・11)批評集『巨人の未来風考察』(朝日新聞社、1987・3)長篇小説『地獄変相奏鳴曲』(講談社、1988・4)長篇小説『三位一体の神話』全2巻(光文社、1992・6)小説集『五里霧』( 講談社、1994・10) 長篇小説『迷宮』(光文社、1995・5) 編著『春秋の花』(光文社、1996・4) 批評集『大西巨人文選』全四巻(みすず書房、1996・6―1996・8)
大野 洒竹 おおの・しゃちく
1872(明治5)年11月19日、熊本県玉名郡弥富村岩崎(現・玉名市岩崎)の生まれ。俳人。本名は豊太。東大医学部卒。俳諧の研究に関心を寄せ、俳書を蒐集。明治27年、田岡嶺雲・佐々醒雪・水野酔香・笹川臨風と「筑波会」を結成。「帝国文学」を舞台に俳諧の研究を推進した。旧蔵書は東大図書館に「洒竹文庫」として保存されている
大庭 柯公 おおば・かこう
1872(明治5)年7月27日、山口県長府の生まれ。新聞記者・評論家。本名は景秋。山口県士族の大庭景明、とき子の3男。5歳のとき一家は大阪に引っ越し、ついで東京に移住。明治17年、四谷小学校を卒業。父親が亡くなったため苦学し、昼間は給仕をしながら夜は神田の英語学校に通った。20代のころ古川常一郎がロシア語を学び、二葉亭四迷とも交際。29年、ウラジオストックのロシア商館につとめ、2年後に帰国。四国の第11師団(善通寺)のロシア語教師となり、34年、参謀本部通訳官に。35年春、ロシアに行き、39年、帰国。大阪毎日新聞社に入社し、海外特派員としてオーストラリア・フィリピン・ヨーロッパ各地を巡り、紀行文を多く発表した。以後、東京日日新聞社、東京朝日新聞社、読売新聞社の記者を転々とした。明治44年、「外交時評」創刊主宰。大正8年、著作家組合を組織し、翌年、「著作評論」創刊主宰。秋には社会主義同盟に参加した。10年、革命後のロシアに行き、モスクワでスパイ容疑の嫌疑を受けて投獄。13年春、帰国の途上、死去。銃殺されたと伝えられる。
〈著書〉『世を拗ねて』(止善堂書店、大8・10)『ペンの踊』(大阪屋号書店、大10・1)『柯公全集』全5巻(柯公全集刊行会、大14)
大橋 松平 おおはし・まつへい
1893(明治26)年9月5日、大分県日田町(現・日田市)の生まれ。編集者・歌人。1父は岩崎仁市。11歳のとき長崎の大橋家(理髪業)に養子に入った。23歳のころ中村三郎を知り、歌作を開始。大正5年、前田夕暮の白日社に入会。1年半後、若山牧水の創作社に入会。長崎医専時代の斎藤茂吉にも歌作の指導を受けた。昭和6年、上京。改造社に勤務し、「短歌研究」の編集長、また『「短歌講座』『新万葉集』などの編集業務に携わった。戦後は歌誌「都麻手」を創刊主宰。船橋高校に勤務し、後進の指導に力をそそいだ。1952年4月28日没。
〈歌集〉『門川』(創作社、昭11・11) 『幼学』(墨水書房、昭15・11)『漆黒』(長谷川書房、昭26・8)『夕雲』(創作社、昭32・4)
岡井 隆 おかい・たかし
1928(昭和3)年1月5日、名古屋市の生まれ。歌人・評論家。父・弘は「アララギ」歌人、齋藤茂吉の弟子。昭和20年、旧制八高入学。終戦後、疎開先の三重県高角の農家で家族と暮らし、ここではじめて短歌を作った。25年、慶応大学医学部に入学。26年、「未来」が創刊され、中心的存在として編集に携わる。30年、大学卒業と前後して塚本邦雄との交遊がはじまり、作風は一変する。45年、実生活と一切の短歌活動を放擲し読者の視界から消えた。この45年は、九州各地を転々とし、辿り着いた先は、福岡県遠賀郡岡垣町であった。福岡県立遠賀病院の内科医長として49年4月まで勤めた。5月、九州を去り、郷里の愛知県豊橋市に移住、国立豊橋病院に勤務。平成元年〜10年、京都精華大学教授、日本詩歌論を講じた。平成2年から再び東京に移り住み、武蔵野市在住。歌誌「未来」発行・編集人。【恒成美代子】 ⇒著書一覧
優しさははづかしさかな捲きあがる水の裾から言葉を起こし
玄海の春の潮(うしほ)のはぐくみしいろくづを売る声はさすらふ
生きがたき此の生(よ)のはてに桃植(う)ゑて死も明(あ)かうせむそのはなざかり
原子炉の火ともしごろを魔女ひとり膝に抑へてたのしむわれは
口中に満ちし乳房もおぼろなる記憶となりて 過ぐれ諫早(いさはや)
しらぬひ筑紫の国の私生活死のかげの射すま昼と思ふ
歌はただ此の世の外の五位の声端的(たんてき)にいま結語を言へば (以上『鵞卵亭』より)
魚返 義雄 おがえり・よしお
1910(明治43)年、大分県の生まれ。言語学者・評論家。大正15年、中国に留学し、東亜同文書院卒。昭和14年、東大文学部講師。
岡口 茂子 おかぐち・しげこ
1925(大正14)年10月4日、佐賀県松浦郡鐘村虹町(現・唐津市)の生まれ。歌人。昭和22年、「九州短歌」に入会。「西日本歌人」「群萌」をへて「群炎」に入会。その後、仲間と北九州短歌研究会を結成。「新風土」に入会。55年、季刊歌誌「暗」を創刊。同年、第13回北九州市民文化賞を受賞。「月光」「薔薇都市」所属。現在は北九州在住。
〈著書〉歌集『地階』(群炎短歌会 昭41・4)『風塵の中』(群炎短歌会 昭45・6)『木を挽く牛』(雁書館 昭55・4)『かんむりの黄金(きん)』(雁書館 昭60・11)エッセイ集『底辺よりの発言者として』(北九州通信「暗」、平10・5)同『父と母の季』(北九州通信「暗」平14・8)【恒成美代子】
劣れども素直さひとつが取柄なり吾子の前髪切りそろへやる
座り込みの赤旗たるる公園を遠まはりして組織なきわれら
風落ちていよいよ昏るる野に匂ふスズシロ小さく花保ちゐる 
(以上『地階』より)
岡沢 秀虎 おかざわ・ひでとら
1902(明治35)年5月13日、山口県の生まれ。ロシア文学者。早大露文科卒。片上伸に師事し、昭和2年、早大講師となり、ロシア・ソビエトの文学理論の紹介に貢献した。1973年3月8日没。
小笠原 貴雄 おがさわら・たかお
1917年10月8日、山口県の生まれ。小説家。本名、好彦。早大国史科卒。十五日会に参加し、。「色欲」(「文学季刊」昭22.10)「オリンパス物語」(「文学行動」昭24.9)など、戦後の風俗小説に才能を発揮した。1974年2月1日没。
〈著書〉『ゴーゴリ喫茶店』(風雪社、昭23.10)
緒方 功 おがた・いさお
1925(大正14)年、●生。
「九州詩人」「母音」「城」同人。鳥栖市在住。〈著書〉第一詩集『恥の譜』(葦書房、1983.9)
緒方 句狂 おがた・くきょう
1903(明治36)年9月26日、田川郡赤池町の生まれ。俳人。本名は稔。高等小学校卒業後、父親の古物商の手伝いをし、その後、明治鉱業赤池炭鉱の坑内夫として働く。昭和9年5月、坑内で作業中、ダイナマイト事故に遭い、両眼摘出。療養中に友人の奥本黙星にさそわれて句作を開始。「ホトトギス」に投稿。昭和12年、俳誌「無花果」創刊一周年記念俳句大会で河野静雲と出会い師事。昭和20年10月、ホトトギス同人。23年11月21日、食道ガンのため死去。福岡県田川郡赤池町上野の興国寺境内に句碑「行く吾を囚へ落葉はかけ巡る」がある。大分県別府市(?)在住。
〈句集〉『由布』(東京・菁柿堂、昭24・7 ※高浜虚子の題字・序あり、跋に「静雲先生」に師事と見える) 『続由布』(刊年不明)
長き夜とも短き日ともわきまへず
万両の雪に埋れて灯りしとか
耶馬渓もたゞの田舎や麦の秋
香春岳据ゑて庭あり梅の宿
緒方 隆士 おがた・たかし
1905(明治38)年3月29日、福岡県朝倉郡福田村の生まれ。小説家。豊島与志雄と同郷。朝倉中学をへて昭和4年、日本大学卒。昭和6年、中谷孝雄・小田嶽夫らと同人誌「雄鶏」創刊。「世紀」「日本浪曼派」同人。結核のため昭和13年4月28日没。死亡届は小田武夫(嶽夫)が出した。「日本浪曼派」昭和13年8月号(終刊号)は緒方隆士追悼特集。太宰治・木山捷平・中村地平らが追悼文を寄せている。
〈著書〉『緒方隆士小説集』(梓書院、昭49・7)
岡田 武雄 おかだ・たけお
1914(大正3)年1月11日、福岡県三瀦郡三瀦村の生まれ。
詩人。1935年、詩誌「八幡船」創刊同人。詩誌「ALMEE」「花」「九州文学」同人。北九州市在住。〈著書〉詩集『土の輪』(昭21)『婦命伝承』(葦書房)『風花幻想』(葦書房)『詩、そして旅』(文栄出版)『岡田武雄詩集』(土曜美術出版販売、1991.6)『さすらいびとの日暦抄』(梓書院)『はらっば詩談』(梓書院)
岡田 哲也 おかだ・てつや
1947(昭和22)年12月3日、鹿児島県出水市の生まれ。詩人・評論家。私立ラサール高校(鹿児島市)をへて東京大学に進学したが、6年間在籍し、昭和46年、中退。帰郷して、マルイ農協グループ広報誌「Q」編集(2002年まで)。建築設計、作詞なども手がけ、また詩の朗読会も催している。
〈詩集〉『白南風』(七月堂、昭53・3)『海の陽山の陰』(七月堂、昭55・7)『神子夜話』(砂子屋書房、57・7)『夕空はれて』(七月堂、昭58・12)『にっぽん子守唄』(出水・碧楽出版、平7・11)〈エッセイ集〉『不知火紀行』(砂子屋書房、平2・6)『薩摩ひな草紙』(出水・碧楽出版、平4・7)『南九州―文学ぶらり旅』(鹿児島・文化ジャーナル鹿児島社、平10・12)『夢のつづき』(鹿児島・南西日本新聞社、平13・7)などがある。
緒方 昇 おがた・のぼる
1907(明治40)年10月3日、熊本市の生まれ。詩人。早大専門部政経学科卒。アナキストで、大杉栄の労働運動社に参加、また黒色青年同盟にも加入し、昭和4年、毎日新聞社に入社。昭和10年、詩誌「歴程」に参加。戦後は毎日新聞論説委員などをつとめ、また昭和22年、菊岡久利・高見順らと詩誌「日本未来派」を創刊した。また釣りをよく趣味とする。
〈詩集〉『天下(テンシヤー)』(日本未来派、昭31.8)『日子(リーズ)』(風社、昭37.11)『魚仏詩集』(明啓社、昭45.5 ※第22回読売文学賞)『八海山』(八海文庫、昭48.5)〈著書〉『魚ごころ釣ごころ』(創思社、昭37.8)『魚との対話』(昭42)『釣魚歳時記』(昭47)
岡田 芳彦 おかだ・よしひこ
1921(大正10)年1月3日、福岡県八幡市(現・北九州市)の生まれ。詩人。旧制八幡中学を卒業し、八幡製鉄所に就職。詩作は中学3年生の頃から試み、「若草」「人形」「文芸汎論」などに投稿。戦時下は「新領土」同人。戦後は詩誌「鵬」「芸術前衛」に関係し、自治労の福岡県委員長をつとめたあと、北九州市役所に勤務した。平成3年4月21日没。
〈詩集〉『海へつづく道』(北九州詩人協会、昭18・7)『日曜時計』(FOUクラブ、昭22・5)『お祭りの広場にて』(私刊、昭26・9)などがある。
緒方 流水 おがた・りゅうすい
1873(明治6)年9月14日、熊本県の生まれ。評論家。維岳・風雨楼主人と号す。明治26年、同志社普通学校卒。キリスト教ヒューマニズムの立場から立論し、明治30年代に活躍した。
〈著書〉伝記『シルレル』(民友社、明29.5)評論集『塵影録』(新声社、明34.4)評論集『青眼白眼』(星光社、明35.6)
岡部 耕大 おかべ・こうだい
1945(昭和20)年4月8日、長崎県北松浦郡星鹿村(現・松浦市星鹿町)の生まれ。劇作家・演出家。昭和39年、伊万里高校卒。映画監督を志して上京し、東海大学文学部広報学科中退。風間杜夫らの「劇団三十人会」をへて、昭和45年、劇団「空間演技」を結成主宰し、「トンテントン」を公演。昭和54年、「肥前松浦兄弟心中」で第23回岸田國士戯曲賞、昭和63年、「亜也子」で第23回紀伊國屋演劇賞を受賞した。
〈著書〉戯曲集『肥前松浦兄妹心中』(白水社、昭54・12)『精霊流し』(而立書房、昭56・5)『日輪』(深夜叢書社、昭58・4)『日輪』(深夜叢書社、昭58.4)
岡部 隆介 おかべ・りゅうすけ
1912(明治45)年6月30日、福岡県筑紫郡筑紫村(現・筑紫野市大字永岡)の生まれ。詩人。本名は隆助。昭和7年、福岡師範学校本科一部卒。同郷の安西均と親交。また丸山豊や野田宇太郎らと交遊し、昭和10年、三潴で詩誌「洞」を創刊主宰。その後、「糧」「抒情詩」「文学会議」「第二期九州文学」などに参加。15年、伊藤桂一・安西均らの詩誌「山河」に参加。戦後は21年、詩誌「母音」に参加。以後、「九州文学」「九州詩人」「内在」「山の樹」に参加。48年、直方市で詩誌「匈奴」創刊(52年第25号まで)。52年12月、詩誌「木守」創刊(61年まで全24冊)。安西均のエッセイ『詩への招待』(新日本出版社、昭52・10)に、「当時、福岡には火野葦平・原田種夫らを中心にした『九州文学』が、地方同人誌の雄を誇っていた。わたくしと同村出身であり学校の先輩にあたる岡部隆介という人の紹介で、この『九州文学』に加えてもらったことがあった。/岡部隆介さんはいま福岡県直方市に住んでいるが、二年まえ(一九七五年)にようやく『雉の眼』という処女詩集を編んだくらい、寡作というより自己の作品に対する厳格主義(リゴリズム)を貫く詩人だ。」とある。平成13年5月14日没。
〈詩集〉『雉の眼』(直方・匈奴の会、昭49・12)『ナムビクワラのたき火』(直方・木守詩社、昭55・1)『冬木立』(花神社、昭62・1) 『〈木の葉叢書第1集〉樫のざわめき』(本多企画、平1・7)『〈木の葉叢書第2集〉青空市場で』(本多企画、平2・5)『〈木の葉叢書第3集〉風の谷』(本多企画、平3・6)『〈木の葉叢書第4集〉緑釉の壺』(本多企画、平4・4)『魔笛』(本多企画、平7・5)
岡部 六弥太 おかべ・ろくやた
1926(大正15)年、福岡県朝倉郡夜須町の生まれ。俳人。本名は喜幸。福岡県庁に長く勤務した。
俳誌「円」主宰。福岡文化連盟会員。福岡市在住。〈句集〉『道化師』『土漠』『神の竪琴』〈編著〉『福岡吟行歳時記』(平田羨魚と共編、福岡・りーぶる出版企画、昭54・7)
岡松 和夫 おかまつ・かずお
1931(昭和6)年6月23日、福岡市妙楽寺町一三番地の生まれ。小説家。父は岡松實、母はハツ。兄3人、姉2人の第6子。5歳のとき、父親が喉頭結核で亡くなり、以後は母が付き添い看護婦として生活を支えた。奈良屋尋常小学校から、1944(昭和19)年、旧制福岡中学に入学。勤労動員で席田飛行場(現・福岡空港)の整備作業などに行った。1945年6月19日夜間の福岡市大空襲により、自宅が焼失。このため母親は精神的に不安定となり、翌年1月、49歳で死去した。48年、福岡中学第4学年修了で、旧制福岡高校文科に入学、同校の最後の入学生の一人となる。同級生に、のちにシェイクスピア研究家となる小田島雄志らがいた。連載自伝エッセイ「こぞの雪」(「西日本新聞」、85・4・12―6・25)によると、「私の僅か一年間の高校生活を支配したのは青春の感傷性だった」といい、「ドイツ語の歌を覚え」たり、「女の子のことをメッチェンと言ったり、金のことをゲルと言ったりすることを覚えた」。クラスメートの小田島雄志は「九州育ちではなかったので、なまりのない綺麗な言葉を話した」という。翌年6月、学制改革により東京大学文科二類を受験したが、失敗。親戚を頼って上京した。翌年合格し、文学部仏文科に進学。1954年、「スタンダールのリアリズム」を卒論として提出して卒業。就職せずに同大国文科に学士入学した。同大学院に進学したあと、57(昭和32)年4月、横浜学園高等学校に就職。同年2月に瀬山梅子と結婚。59年9月、短篇「壁」で第9回文学界新人賞を受賞。64年11月、同人誌「犀」創刊に参加。同人に佐江衆一や、加賀乙彦、立原正秋らがいた。66年、関東学院短大国文科専任講師(のち教授)。福岡市近郊の篠栗を思わせる舞台で、戦後の混乱期、肺結核のため、村の観音堂で暮らす女を主人公にした「小蟹のいる村」(「文学界」昭49・12)などで芥川賞候補。76年1月、福岡市を舞台に戦中戦後の少年たちの姿を描いた短篇「志賀島」(「文学界」昭50・11)で第74回芥川賞を受賞。他の著作に『深く目覚めよ』(講談社、昭49・1)『詩の季節』(新潮社、昭55・1)など多数ある。【長野秀樹】
小川 和久 おがわ・かずひさ
1945(昭和20)年、熊本の生まれ。軍事評論家。中学卒業後、第七期自衛隊生徒として陸上自衛隊生徒教育隊に入隊。陸上自衛隊航空学校、同霞ケ浦分校をへて同志社大学神学部に入学したが、70年安保の渦中にあって中退。日本海新聞に入社し、昭和50年からフリージャーナリストとして自立。59年からは民間初の軍事アナリストとして活躍。最初の著書『原潜回廊』(講談社)で話題をあつめた。
〈著書〉『原潜回廊』(講談社、昭59・3)『在日米軍』(講談社、昭60.3) 『戦艦ミズーリの長い影』(文芸春秋、昭62・9)
小川 素光 おがわ・そこう
1900(明治33)年2月18日、福岡県豊前市大字吉木の生まれ。俳人。父は武次郎、母はヨシの4男。大正後半頃から「ホトトギス」「天の川」に投句し、やがて革新色をつよめた俳誌「天の川」同人として活躍。昭和29年、俳誌「新墾」創刊。昭和43年、東筑紫短大付属高校を退職。
〈句集〉『郷(さと)』(天の川社、昭14)『谺(こだま)』(東筑紫短大、昭44)
沖田 活美 おきた・かつみ
1925(大正14)年8月19日、広島県尾道市生まれ。歌人・労働運動家。旧制尾道中学卒業。兵隊体験を経て、昭和26年、福岡県遠賀郡中間町の大正鉱業中鶴炭鉱に採炭夫として入社、のち仕繰夫となる。26年、青炎短歌会に入会。31年1月、大正文芸サークル(34年2月より「大正中鶴文学サークル」)結成、「青春基地(第3号より「裸像」と改題)」(昭31・2〜35・10 全26冊)を創刊し、上野英信・真鍋呉夫・杉浦明平の影響・指導を受ける。歌集『斜坑』(鳥取・青炎短歌会、昭32・11 青炎叢書第3篇)を刊行。33年9月、「サークル村」創刊に参加、短歌などを発表し、のち編集にも携わる。35年7月、大正鉱業の労働運動、合理化反対闘争の渦中で谷川雁らとともに日本共産党を除名される。大正行動隊・大正鉱業退職者同盟の指導部中枢として関わり、同盟の第3代執行委員長に就く。同盟結成10周年記念『筑豊争史』(昭47・6)を刊行。福岡市西区在住。 【坂口博】
搾岩機重きをかかへ踏みしめぬ足許脆く炭の崩るる
裸体にて鉄柱を背に飯を噛む入気冷たく流れゐる地下
こもごもの事情あるらし同僚ら前歴につき多く語らず
流民の果てに選びし斜坑にて鑿岩機押すのしかかる過去

小倉 龍男 おぐら・たつお
1915(大正4)年11月10日、福岡県小倉市(現・北九州市)の生まれ。小説家。1944年5(4?)月没。⇒小評伝
奥村 五百子 おくむら・いほこ
1845(●)年、肥前唐津の生まれ。1901年、愛国婦人会創立。1906年帰郷し、1907年2月5日没。
〔参考〕小野賢一郎『奥村五百子』(愛国婦人会、1934.3)加納実紀代『女たちの〈銃後〉』(筑摩書房、1987.1)
小郷 穆子 おごう・しずこ
1926(大正15)年、京都生。
小説家。別府市栄光園乳児院長。 2003(平成15)年7月(末頃)日没。
織坂 幸治 おざか・こうじ
1930(昭和5)年1月1日、●の生まれ。詩人。昭和17年、福岡中学に入学。20年、海軍甲種飛行予科練習生に入隊し、敗戦を迎える。福岡中学4年生に復学し卒業。23年、西南学院英文科2年中退。26年、詩誌「三半器管」を創刊し、翌年、「海図」と改題。29年5月、板橋謙吉・各務章・野田寿子・鈴木召平らと詩誌「詩科」創刊。49年、詩誌「パルナシウス」を高松文樹と創刊。能古島に移住した檀一雄と交遊し、「能古島通信」を発行。当時は市内に喫茶店「ぼんくら」を経営していた。62年、文芸誌「海」を創刊。「季刊午前」同人。平成7年、「言語風景論」で第25回福岡市文学賞を受賞。福岡市在住。
〈詩集〉『十字街』(詩科の会、昭32・5)『石』(福岡県筑紫野町・薔薇の会、昭40・3)『天景』(福岡・花書院、平9・4)
尾崎 秀樹 おざき・ほつき
1927(昭和3)年11月29日、台湾台北市の生まれ。評論家。父親は台湾日日新聞社に勤務後、台湾総督府の資料編纂の仕事をしていた。兄の秀実がゾルゲ事件に連座したため、戦争中は国賊の弟といわれて白眼視されたといい、昭和20年2月、台北帝大付属医学専門部に在学中、学徒動員で沿岸警備にたずさわり、そのまま敗戦を迎えた。21年4月、医専を中退し、内地に引き揚げた。上京後は中部民報、文房具店、職工見習など職を転々としながらゾルゲ事件の真相調査を持続した。さらに植民地文学の研究を手がけ、また福岡県出身の評論家の武蔵野次郎らと大衆文学研究会を設立し、昭和三十六年七月、機関誌「大衆文学研究」を創刊した。平成11年9月21日没。
〈著書〉『近代文学の傷痕』(普通社、昭38・2、のち増補改訂して『旧植民地文学の研究』と改題再刊、勁草書房、昭46・6)『大衆文学論』(勁草書房、昭40・6、第十六回芸術選奨)『大衆芸能の神々』(九芸出版、昭53・9)『海音寺潮五郎・人と文学』(朝日新聞社、昭和53・12)『ゾルゲ事件と現代』(勁草書房、昭57・8)『大衆文学の歴史』(講談社、平1・3、吉川英治文学賞)などがある。また、『ぼく、はみだし少年?―兄からの遺書』(ポプラ社、昭57・12)は「『生きているユダ』の前史をなすだけでなく、自分史(ぼくの昭和史)の第一部にもあたる」(同書あとがき)
尾崎 迷堂 おざき・めいどう
1891(明治24)年8月198日、山口県萩の生まれ。俳人。本籍地は横須賀市。本名は光三郎
(こうざぶろう)。明治44年頃から「国民新聞」紙上の松根東洋城選「国民俳壇」にしばしば入選し、俳誌「渋柿」に入会。野村喜舟・小杉余子と並んで東洋城門下の三羽がらすと称された。仏道に入り、大正14年ね鎌倉二階堂の杉本寺住職。昭和17年、逗子の神武寺住職。戦後は大磯町の慶覚院(高麗寺)の住職をつとめた。〈句集〉『孤輪』(泰文堂、昭16・9)
小田 健也 おだ・けんや
1930(昭和5)年9月1日、台湾台北市の生まれ。演出家。旧制福岡高校時代に演劇を始め、九州大学経済学部を卒業し、上京して劇団「民芸」に入団。俳優として昭和29年、「幽霊やしき」で初舞台。のち演出家に転じ、劇団三期会(東京演劇アンサンブル)に参加した。47年からフリーの演出家。「夕鶴」「ちゅんちき」など日本の創作オペラの演出を続ける。「オニの子・ブン」で児童演劇優秀賞。
〈著書〉『オペラはこうして演出される・オペラ『夕鶴』演出ノート』(芸術現代社、平3・7)
小田 小石 おだ・しょうせき
1899(明治32)年6月26火、福岡県朝倉郡三奈木村の生まれ。俳人。本名は●。父・手島重太郎、母・タカの次男。俳人。荷原尋常小学校を卒業後、大正2年2月、筑紫郡住吉町大字春吉に住む叔母(母の妹)の小田家の養子となり、住吉高等尋常小学校高等科に入学。3年4月、県立中学修猷館に入学。8年春、東京歯科医学専門学校に入学。12年3月卒業し、国民新聞社に入社。12年12月、1年志願兵として福岡連隊に入隊し、、さらに見習士官、歩兵少尉に任官。除隊後、福岡市春吉で歯科医院を開業。12年10月1日、小倉第114連隊に入隊。同連隊に玉井勝則(火野葦平)がいた。ビルマで敗戦を迎え、21年8月13日浦賀に復員上陸。帰福後、31年に福岡市馬出西堂町に歯科医院を開業。句作は戦後、斎藤滴萃・河野静雲に入門し、のち野見山朱鳥に師事。「菜殻火」同人。著書に句文集『多々良』(●、昭37・6)以下、随筆集『続多々良』(●、昭44・6)『多々良 第三部』(●、昭48・6)『多々良 第四部』(菜殻火社、昭51・6)『多々良 第五部』(菜殻火社、昭●)がある。
小田 雅彦 おだ・まさひこ
1918(大正7)年9月1日、北九州市若松区の生まれ。詩人。戦後は詩誌「鵬(のち「FOU」と改題)」に参加。火野葦平の若松宅の秘書(東京秘書は小堺昭三)をつとめた。平成2年4月12日没。妻は詩人の吉木幸子。
〈著書〉『昔の絵』(小倉・北九州詩人協会、昭18・5)『虹の門』(小倉・燎原社、昭21・9)『小田雅彦詩集』(小壺天書房、昭34・1)
小田島 雄志 おだしま・ゆうじ
1930(昭和5)年12月18日、旧満洲の生まれ。英文学者・翻訳家・東大名誉教授・東京芸術劇場館長。父祖の地は秋田県花輪町。1948(昭和23)年4月、旧制福岡高等学校に入学したが、学制改革のため翌年度から大学受験が可能になり、東大を受験して入学し、同大を卒業。『シェイクスピア全集』(白水社)など数多くの翻訳を手がけ、また洒脱なシェークスピア研究エッセイでも有名になった。
〈著書〉エッセイ集『シェイクスピアより愛をこめて』(晶文社、昭51・2)『珈琲店のシェイクスピア』(晶文社、昭53・9)『詩とユーモア』(白水社、平7・1)『半自伝このままでいいのか、いけないのか』(白水社、平11・6)などがある。 ⇒自伝抄
小田原 直知 おだわら・なおとも
1963(昭和38)年、鹿児島市の生まれ。小説家。「ヤンのいた場所」(昭58)で第2回海燕新人文学賞。
越智 弾政 おち・ただまさ
1908(明治41)年2月25日、福岡県遠賀郡八幡町(現・北九州市八幡東区)の生まれ。詩人。別名ダン・越智。父は薪炭商越智徳三郎。旧制八幡中学大正15年3月卒業後、東洋大学国文学科に進学。同校を卒業後、郷里の小学校、門司高等女学校などで教壇に立った。川崎・佐藤惣之助主宰の「誌之家」同人(昭和4年7月から)。昭和5年7月、東京にて「詩人倶楽部」、10年「季節の肌着」、13年3月八幡にて「八幡船(ばばんせん)」をそれぞれ創刊。「北九州詩人」「九州文学」(第1期)にも寄稿する。支那事変(日中戦争)に出征・帰還。19年8月に再召集され、フィリピン・ルソン島にて昭和20年5月10日戦死。妻・ミツヱと遺児4人が残された。〈詩集〉『波止場での殺意』(詩之家出版部、昭5・5)『盗まれた市街図』(黎明社、昭6・●)『玄海灘』(詩人倶楽部社、昭7・10)『薄れゆく瞑想』(真砂書店、昭8・9)『蝙蝠の群れる街』(●、昭10・●)『応召前後』(筑紫書房、昭16・7) 【坂口 博】
落合 東郭 おちあい・とうかく
1866(慶応2)年11月19日、肥後国の生まれ。漢詩人。名は為誠(ためのぶ)。東大選科卒。宮内省に出仕し、やがて帰郷して第五高等学校、第七高等学校の教授を歴任。明治43年、上京し、皇太子(大正天皇)の侍従となり、大正天皇崩御後は図書寮で伝記を執筆した。漢詩は森槐南に師事し、清の王漁洋の詩風に学んだ。昭和11年、郷里の熊本に隠棲。昭和17年1月19日没。
音成 京子
大正3年、福岡市の生まれ。京城公立第一高等女学校卒。昭和26年、ポトナム短歌会会員。28年、女人短歌会会員。29年、日本歌人クラブ会員。〈著書〉句集『博多抄』(短歌研究社、昭44・9)『彩る季節』(短歌新聞社、昭56・5)
小野 静枝 おの・しずえ
1925(大正14)年1月3日、山口県の生まれ。詩人。下松高女卒。
〈詩集〉『待つとし聞かば』(駱駝詩社)『それから・それから』(らくだ詩社)『花野』(本多企画)がある。
小野 浩 おの・ひろし
1894(明治27)年6月29日、鹿児島県加茂郡竹原町の生まれ。児童文学者。大正6年、早稲田大学英文科卒。木内高音と「赤い鳥」の編集に携わり、また「金のくびかざり」などの自作も発表した。探偵雑誌「新青年」にもブラックウッド「意外つゞき」などを翻訳した。
小野 浩 おの・ひろし
1953(昭和28)年3月20日、宮崎県小林市の生まれ。少年詩人。埼玉県立教員養成所卒。
〈詩集〉『草幻郷の貘』(椋の木社、平1)
小野 蕪子 おの・ぶし
1888(明治21)年7月2日、福岡県遠賀郡芦屋町の生まれ。俳人。本名は賢一郎。高等小学校卒。独学で小学校准教員検定試験に合格。明治39年春、旧朝鮮に渡り、「朝鮮日報」「朝鮮タイムス」などの記者となった。明治41年、東京に戻り、毎日電報社(東京日日新聞社)に入社。事業部長、社会部長を歴任し、昭和9年、日本放送協会文芸部長。句作は少年時代から開始し、原石鼎の句風に学び、大正8年、「草汁」創刊。昭和2年、俳誌「虎杖」の選者となり、翌年、「虎杖」を「鶏頭陣」と改題主宰した。大東亜戦下の俳句弾圧事件の「黒幕」との噂がある。陶芸にも造詣が深く、『陶器大辞典』全6巻を編集。昭和18年2月1日没。
〈句集〉『松籟集』(私刊、昭10・8)『雲煙供養』(宝雲舎、昭16・3)
小野 美智子 おの・みちこ
1890(明治23)年9月8日、山口県玖珂郡師木野村の生まれ。小説家。明治40年前後、「秀才文壇」「文庫」に投稿。結婚後、家計の糧に創作を試みた。「破れた心」(「新潮」大5・5)「悪夢のあと」(「文章世界」大7・5)「海暗き夜」(「大阪朝日新聞」大9)などの短篇小説がある。没年不明。
小田 不二夫 おだ・ふじお
1908(明治41)年11月30日生まれ。福岡県遠賀郡芦屋町船頭町にて呉服商「松尾屋」を営む小田綱吉の五男。本名・藤男。昭和12年8月11日没。墓碑は芦屋町の浜口町鶴松墓地にあるという。不二夫・ハツヱ遺稿集『遠賀川』(五月書房、1985.7.15)に、小説・歌を収録。【坂口博】
 
ふるさとの三里松原娘らと小松を植し思ひかなしも
 朝鮮よりつめたき風の吹来たるわが冬籠る河口の家

小原 菁々子 おはら・せいせいし
1907(明治40)年12月15日、福岡市の生まれ。俳人。本名は小原
(こはら)宗太郎。18歳で俳句に親しみ、昭和2年、河野静雲に師事。静雲没後、俳誌「冬野」を継承主宰。ホトトギス同人・伝統俳句協会評議員。福岡市文化賞(1980)福岡県文化功労賞(1983)西日本文化賞(1984)。〈著書〉句集『海女』 編著『西日本歳時記』(昭47)
小宅 圭介 おやけ・けいすけ
1904(明治37)年3月23日、大分県津久見の生まれ。
歌人。昭和5年、早稲田大学高等師範部国漢科卒。在学中より窪田空穂に師事し、歌誌「槻の木」に参加。東京で教員生活を送り、戦後の一時期は横浜で進駐軍の基地で働いたともいう。PL教団の短歌芸術社発行の歌誌「短歌芸術」の編集に携わった。昭和45年3月5日没。〈歌集〉『黄土』(長谷川書房、昭27・2)『青江』(芸術生活社、昭45・11)
小山 俊一 おやま・しゅんいち
1919(大正8)年3月13日、福岡県門司市の生まれ。評論家。2男3女の第2子。直方市に育ち、1935(昭和10)年4月、福岡高等学校理科乙類に入学。1年留年して、39年3月に卒業。矢山哲治とともに九州帝国大学農学部に進学した。同年10月、文芸同人誌「こおろ」(第4号より「こをろ」)創刊に参加し、「非論理の素描」を発表。以下、「感想」(第2号、昭15・3)「思想以前のこと」(第4号、昭15・9)「『人生論ノート』を廻って」(第10号、昭17・3)「省みて他をいふ説」「一つの註」(第11号、昭17・4)「現代の賢者」(第12号、昭17・12)などを寄稿し、同誌の中軸を担った。41年12月、大学を繰り上げ卒業。43年の矢山の死去の直後、5月、ボルネオ行き陸軍雇員募集に応募し、6月、軍属として東京を出発。45年8月、ボルネオ山中のジャングルで敗戦を迎えた。マラリヤに罹ったまま、捕虜収容所に。1946年春、福岡に復員し、秋には福岡県庁農地部に就職したが、半年後に辞職。以後、中学・高校の教師などをしながら茨城・東京・福島・福岡・鹿児島・東京・千葉・東京・和歌山・愛媛と、全国各地を転々とする。引越し回数は、戦後だけでも軽く25回を越えるといい、72年7月の紀州隠遁後も10回近く引っ越している。この間、1948年には「こをろ」同人の小宮山敦子と結婚。ともに長い闘病生活を送った時期もあった。52年、日本共産党に入党。「現在の会」など文学関係者のなかで、指導的立場から活発な活動を繰り広げたが、60年、脱党。この頃からの作品に、「一つの部屋」(「午前」昭21・11)、「続一つの部屋」(「午前」昭22・4)、「パスカルとテスト氏」(「人間」昭25・2)、「虜囚とその所有」(「文芸」昭26・5)、「友への手紙」(「現在」創刊号、昭27・6)、「サルトル「墓場なき死者」について」(「現在」第3号、昭27・10)、「戦争とある文学グループの歴史」(「思想の科学」昭34・12)、「カウラの死臭」(「試行」第11号、昭38・6)、「中野重治ノート(上)」(「試行」第13号、昭40・3)、「中野重治ノート(下)」(「試行」第14号、昭40・6)、「〈生存感覚〉について」(「同時代」第25号、昭44・10)、「〈教育現象〉について」(「教育労働研究」第2号、昭48)などがある。1968年3月、ガリ版刷の個人誌「Ex―Post通信」を創刊し、それが内村剛介編集の「初原」などに転載され(「EX―POST通信(1)(2)」(「初原」創刊号、昭45・12)、「EX―POST通信(3)(4)」(「初原」第2号、昭46・5))、1970年代の文学・思想界の一部に強い衝撃を与えた。71年11月、「Ex―Post通信」全17号号外2号にて終刊し、紀州に隠遁。翌72年10月、「オシャカ通信」創刊、74年1月全8号にて終刊。75年3月、「プソイド通信」創刊、77年1月、第12号にて終刊。78年7月、「アイゲン通信」創刊、81年12月、全12号・号外4号を発行して終刊。82年10月、「Da通信」創刊、84年9月、全6号にて終刊。このあとは、86年3月の「Daノート」(12月第3号まで)や、90年(平成2)9月の「Daメモ」(翌年7月第2号まで)が遺されている。1991(平成3)年9月18日、仮寓先の松山市・日赤病院にて膵臓ガンで死去。著書に、『EX―POST通信 付オシャカ通信』(弓立社、昭49・6)、『プソイド通信』(伝統と現代社、昭52・9)、『私家版 アイゲン通信』(松山・小山俊一、昭57・3)、『Da通信』(松山・高松源一郎、平4・3)がある。【坂口博】

織井 青吾 おりい・せいご

1931(昭和6)3月4日、広島市生まれ。本名・浜井隆治。広島高等師範附属中学3年生のとき原爆被災。早稲田大学中退、明治大学卒業。以後、シナリオ・詩・評論・小説・ルポルタージュなどを執筆。元マツダ(東洋工業)秘書課の嘱託として勤務。東京都国立市在住。〈著書〉『地図のない山―遠賀たんこんもん節』(光風社書店,1976.12)『方城大非常』(朝日新聞社, 1979.11)『流民の果て―三菱方城炭坑』(大月書店,1980.12)『なぞの方城炭坑大爆発』(国土社, 1981.2)『さよなら、先生』(ポプラ社, 1982.7.ポプラ・ブックス)『いつか綿毛の帰り道』(筑摩書房, 1987.11)『落日の舞』(木耳社, 1990.3)『最後の特派員』(筑摩書房, 1991.4)『詩集・砂の宿』(木耳社, 1994.10)『韓国のヒロシマ村・陜川―忘れえぬ被爆韓国人の友へ』(社会評論社, 2004.3【坂口博】
織久 順作 おりひさ・じゅんさく
明治35年3月15日、鳥取市の生まれ。詩人。本名は正男。志賀直哉「大津順吉」の「順」を借りて筆名とした。別名は李文叔。2歳のときから各地を転々とし、舞鶴・敦賀・岐阜・津・静岡・岐阜・広島・山口をへて福岡市に居住。大正5年、15歳のとき西南学院中学部に入学。吃音で孤独癖あり、文学と思索に沈潜。同級生に原田種夫がおり、愛唱するハイネ詩集が縁で親交を結んだ。大正10年中学部を卒業し、翌年高等部文科に進学。文芸部に所属し部誌「西南」に詩を発表。「大正十四年/当時悲痛なる運命的破綻より、激越の厭世者たりし原田種夫を、強ひてその書斎にて説伏し、共にカフエー・パウリスターに於ける福岡詩人の会合に列席し、次でその会合の成果として「福岡詩歌社」の生誕するや、原田と共に準同人となり、その機関誌「心象」に、ポーの「詩の原理」の訳、及び自らの作品を発表」。15年春、西南学院高等部文科を卒業し、単身上京。同年7月、徴兵検査のため帰郷し、尋常小学校の代用教員となるが翌年3月までで失職し、以後「貧乏と孤独と寂寞の中に歯がみつゝ、病臥せる胃癌の父を看護し、且つ家業(*福岡市勝立寺新町の飲食店)を手伝ひて労働す」。昭和3年8月、「瘋癲病院」創刊に参加。11月11日父親が死去。4年5月、肺患に罹り、8月、「信友、原田種夫と思想的背馳より訣別」。10月病臥し、翌5年6月24日没。遺骨は福岡市安国寺に埋葬。数年後、母親・るいも自宅寝室でガス自殺した。詩誌「瘋癲病院」第19輯(昭5・8)は「織久順作追悼号―遙か詩人順作が霊に捧ぐ」。織久順作の詩(山田牙城選「夢。竹。猫。集」・「抒情篇」・「幼年追憶篇」・「小曲集」)・論文(「平和なる激文―公式的な基督への未熟なる発掘」)・日記(1928年―1929年)・年譜・山田牙城「詩人織久順作の死を凝視しつゝ」・星野胤弘「織久順作君の印象」・原田種夫「孤独の行者織久順作に就いて―今は亡き詩人順作が霊に」。
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