2008.3.23
■ 日米戦争における経済力・生産力の格差 ■
◎ 山本五十六大将のことばの意味 ◎
【太平洋戦争における航空母艦の建造隻数】
〔1〕日米経済の実力-その生産力の格差-
本ブログ「2008.3.7」は,日本帝国海軍大将だった山本五十六は昭和15〔1940〕年の時点で,もし米英を相手とする戦争になれば,「初め半年や1年は随分暴れてご覧に入れます。しかしながら,2年,3年となればまったく確信はもてません」と,近衛文麿首相に話したことを紹介した。
実際に大東亜=太平洋戦争が始まると,緒戦における日本軍の勢いは半年で頂点に達していた。日米戦争開始以前のアメリカはまだ,経済生産を軍需物資のために全面的に活動させていなかったけれども,以後は,戦争を遂行するためにその生産力を発揮しだすことになる。
日米戦争の結末がどのようになるかは,日本がわの模擬演習でも事前に「必敗」という予測がなされていた。しかし,この必然的ともいうほかない「戦争展開の現実的な予見」が立てられたとしても,精神論の「大和魂」の昂揚をもってすれば克服できるものだと,日本の高級軍人は単純に信じていた。
さて,吉田 裕『アジア・太平洋戦争』(シリーズ日本近現代史⑥,岩波書店,2007年)は「日米の第一線空母・艦載機数の変遷(護衛空母・練習空母を含まない)」をかかげていた(92頁)。太平洋戦争中のその数値を参照したい。なお,各時期において「運用可能だった艦載機数」は省略する。
1941年12月 --日本〔現数8隻〕
(時点) 米国〔現数6隻〕 「日本対米国」の比率 75%
1942年 --日本〔就役4隻,喪失6隻,現数6隻〕
米国〔就役1隻,喪失4隻,現数3隻〕 同上比率 50%
1943年 --日本〔就役1隻,喪失なし,現数7隻〕
米国〔就役15隻,喪失なし,現数18隻〕 同上比率 257%
1944年 --日本〔就役6隻,喪失9隻,現数4隻〕
米国〔就役7隻,喪失1隻,現数24隻〕 同上比率 600%
1945年7月 --日本〔就役なし,喪失1隻,現数3隻〕
(まで) 米国〔就役3隻,喪失なし,現数27隻〕 同上比率 900%
戦争末期において日本海軍の空母は燃料が不足し,作戦行動に出動できなくなってもいた。軍艦は戦闘中のように高速・全力で走行するときの燃料消費料は,経済的な巡航速度の十数ノットで走行するときにくらべて3倍以上にもなる。
〔2〕ガダルカナル島の攻防
1) 昭和17〔1942〕年8月から昭和18〔1943〕年2月のガダルカナル島をめぐる日米軍の攻防は,日本陸軍の戦死者2万1千名,アメリカ陸海軍の戦死者1796名であり,地上戦の日本軍の完敗は明らかであった。
2) そして,海軍の艦艇の損失は,つぎのとおりであった。
日本 13万5千トン 戦艦2,軽空母1,重巡洋艦3,軽巡洋艦1,駆逐艦11,潜水艦6
米国 12万6千トン 空母2,重巡洋艦6,軽巡洋艦2,駆逐艦14
3) 航空機の損失は,日本 約620機,米国 614機であり,ほぼ互角であった。
--以上の損失は,戦争経済が本格的に稼働しはじめ,戦力を急速に充実させつつあったアメリカよりも,日本にとって決定的なダメージとなった。とくに,初期作戦の成功をささえてきた熟練した航空機搭乗員を多数失ったことは,致命的であった。また,ガダルカナル島への輸送作戦のため,多数の新鋭輸送船を失ったことも,日本の戦争経済に大きな打撃を与えた。
さらに,日本陸軍の戦死者2万1千名の内実をいえば,直接の戦闘による戦死者は5~6千名に過ぎず,残りは「栄養失調症・熱帯性マラリア・下痢および脚気」などによるもので,その原因は実に補給の不十分にもとづく体力の自然消耗によるものと推定されている。ガダルカナル島を「餓島」と称したわけも理解されよう。
こうして,ガダルカナル島をめぐる攻防は,アジア・太平洋戦争の最大の転換点となった。以後,連合軍は,質量ともに急速に戦力を拡充していく。その端的な表現が前掲「空母隻数の日米比較」である(吉田,前掲書,90-91頁)。
〔3〕アメリカ依存だった日本経済の戦争遂行力
山本五十六大将の予測「半年,1年なら大暴れしてみせるが,しかし,2年,3年とはつづかない・・・」は,みごとに的中してしまった。山本長官は,大東亜戦争開始後1年4カ月ほど過ぎていた昭和18年4月18日,前線指揮のために基地などを移動中,米軍機の待ちぶせ攻撃を受けて搭乗機が撃墜され戦死した。
1) 昭和12〔1937〕年7月に始めた日中戦争を日米戦争まで拡大していく日本帝国は,中国だけとの戦争をおこなっていた段階では,戦争に必要な基本資源である「石油」と「鉄(くず鉄)」を,もっぱらアメリカから調達することで,軍需物資の生産や供給をなんとか維持できていた。だから,中国との戦争を,はじめは「北支事変」のちに「支那事変」と称しておき,「正式の戦争」ではないと偽称していたのである。アメリカもこの日本の戦争態勢を曖昧に了解し,たがいの帝国主義路線を暗黙に認知しあってもいた。
2) 昭和14〔1939〕年8月23日「独ソ不可侵条約」が調印される。そして,ドイツが9月1日にポーランドに侵攻,第2次大戦を起こした。9月3日には,イギリス・フランスがドイツに宣戦を布告する。ワルシャワが陥落した9月27日の翌日,28日に「独ソ友好条約」が調印されている。
3) 昭和15〔1940〕年6月14日,ドイツ軍がフランスのパリに無血入城する。こうした世界の情勢進展をみた日本は,同年9月23日北部仏印へ武力進駐を開始する。これに対抗してアメリカは「対日屑鉄全面禁輸」を断行する。9月27日「日独伊三国同盟」が締結され,米・英・仏・蘭・支との対立が激化していく。
4) 昭和16〔1941〕年4月13日「日ソ中立条約」が調印されている。6月22日,ドイツ軍がソ連攻撃を開始,独ソ戦となる。7月28日,日本軍が南部仏印への武力進駐を開始する。9月6日の「御前会議」で日本は「帝国国策遂行要領」を決定し,実質的に日米戦を決定していた。10月18日東條英機内閣が成立する。11月26日,アメリカは日本に対して,日本軍の中国からの撤退を求めた「ハル・ノート」(最後通牒)を示し,日米交渉は決裂する。12月1日の「御前会議」は「開戦を正式に決定」。
5) 昭和16〔1941〕年12月8日,日本は,アメリカとの全面戦争(総力戦, 英語:total war,独語:totaler Krieg)に突入する。日本は,「瀬戸際作戦である真珠湾奇襲攻撃」をもって,アメリカへの宣戦を布告した。この昭和16年12月8日に大東亜戦争がはじまったさい,昭和20年3月10日東京下町大空襲を予測はできても,まだよく実感できていなかった。けれども,その予行はすでに,ゲルニカ・重慶への市民無差別爆撃において現実に済んでいたのである。
2008.3.22
■ 東京大空襲と在日外国人 ■
◎ 爆弾は差別なしで「地上の人びと」に降りそそぐ ◎
【東京大空襲と朝鮮人罹災の記録】
① 究明されていない朝鮮人の犠牲者
筆者は,2年まえにある出版社から直接購入したブックレットの著作,東京大空襲・朝鮮人罹災を記録する会・編『東京大空襲・朝鮮人罹災の記録』(2006年3月10日,綜合企画ウイル)をもっている。
本書は題名からすぐわかるように,東京下町大空襲に遭遇した朝鮮人たちの記録である。本書は,1983年と1985年の2度『祖国統一新報』紙が取材・掲載し,雑誌『統一評論』(1985年5月~10月号)に再整理・公表したものを,あらためて小冊子にまとめて刊行していたが,これをさらに増補した版である。
本書『東京大空襲・朝鮮人罹災を記録』の「小冊子の発行に際して」は,まず,こう記述している。
米軍による東京への空襲が本格化したのは,1944年11月からで,翌45年8月15日の日本敗戦まで,130回にものぼった。最も大きな被害を出したのが45年3月10日未明の大空襲である。2時間余りの無差別爆撃で東京の下町一帯は一夜にして焼け野原と化し,死傷者は10万名,罹災者は101万名に達した。
日本人の場合,死傷者など罹災者は官庁統計や戦災史,それに各市民団体の調査によって明らかにされつつあるが,当時9万7千名が居住していたとされる朝鮮人の場合,犠牲者の数はおろか,その罹災の実態すらいまだ闇に葬り去られたままである。
・・・ここに記した25名の罹災朝鮮人の証言は,不本意ながら希少価値の高いものとなってしまった。
数年前に韓国の市民団体が,東京大空襲による死亡が記述された「連行者名簿」を公表した。日本厚生省によるものである。これによると空襲当日,慶尚北道から連行された約120人が東京大空襲に犠牲となっている。身分には「軍属」とだけ記されていた。空爆による朝鮮人被害を記した公文書の公表は現在のところ,唯一これだけだ。
日本人の場合,死傷者など罹災者は官庁統計や戦災史,それに各市民団体の調査によって明らかにされつつあるが,当時9万7千名が居住していたとされる朝鮮人の場合,犠牲者の数はおろか,その罹災の実態すらいまだ闇に葬り去られたままである。
・・・ここに記した25名の罹災朝鮮人の証言は,不本意ながら希少価値の高いものとなってしまった。
数年前に韓国の市民団体が,東京大空襲による死亡が記述された「連行者名簿」を公表した。日本厚生省によるものである。これによると空襲当日,慶尚北道から連行された約120人が東京大空襲に犠牲となっている。身分には「軍属」とだけ記されていた。空爆による朝鮮人被害を記した公文書の公表は現在のところ,唯一これだけだ。
② 朝鮮人罹災の証言
日本全土において,空襲の被害を受けて不幸・不運にも死亡した人,負傷だけで済んだ人,無事であり無傷だった人など,いろいろであったけれども,その罹災の状況については,戦後に数多くの記録が公表されている。しかし,朝鮮人罹災者に関しては前述のように,その記録がほとんどなかった。ここでは,朝鮮人の代表的な空襲体験を,本書『東京大空襲・朝鮮人罹災を記録』からとりあげ,紹介することにしよう。「証言9 朴 泰洙〔当時27歳〕」の証言を,以下にくわしく引用してみる。
「罹災の場所」 大空襲当時,私は27歳,吾嬬町(現在の墨田区東墨田)に住んでいました。妻と1歳の娘,そして23歳と13歳の弟の5人家族でした。吾嬬町を中心に墨田町,寺島町には,当時少なくても1千人余りの同胞がいました。皮をなめし加工する工場が密集しており,多くの同胞がそこで働いていました。
「朝鮮人の気持」 当時,働き口も限られ,ぶらぶらしているものなら徴兵や徴用にひっぱられていく時勢です。徴用,徴兵やなどで犬死にすることもさることながら,日本の侵略戦争に手を貸すようなことはしてはならない-との素朴な考えがあったことも確かです。
「警防団への参加」 しかし,警防団には動員されました。日本人の若者は兵隊に行き,老人や病人しか残らず,それで同胞青年を空襲時の消火など,女にできないことを任せようとしたようです。2百人のうち16人が警防団に加わったのですが,私たちとしては,警防団の役職者たちが,何かにつけ朝鮮人を目の敵にして「朝鮮人はヤミばかりして,戦争に協力しようとしない」,「灯火管制も守ろうとしない」などの悪口を意識的に流していました。それで,2度とそんなことを言わせないためにも警防団に入り,“にらみ” をきかせようと思ったのです。
「3月10日空襲」 夕方になって,顔見知りの同胞の安否が気にかかり,隅田川の言問橋まで行ってみました。橋は死体から流れ出した真っ黒な油がにじみ,川は焼死体で山なりになっていました。なぜか皆,両手,両足をあげるような格好で死んでいました。町内でも多くの人が焼け出され,亡くなりました。
「遺体の始末」 道路に散乱した遺体は,軍人がまるで石ころでも扱うようにトラックに荷台に放り投げ,近所の空き地に大きな穴を掘り埋葬しました。私は,顔見知りの同胞が含まれていないかと,その遺体をひとつひとつ確かめました。しかし,ほとんどの遺体は手足がバラバラ,男女の区別すらできないほど焼け焦げ,あきらめざるをえませんでした。
「指導者たちの無責任」 それにしても腹立たしかったのは,町会や警防団の役員の身勝手さです。日頃,出征軍人らを前に「貴様らは生きて故郷の土地を踏むと思うな」,「本土に敵1匹入れてはならない」などと大口をたたいていた彼らが,空襲と同時に部下には消火を指示しておきながら,自分たちはいち早く荒川土手など,火の手の回らない安全な場所に逃げだしたのです。
私たち同胞は,日頃から防空某を “墓地” と呼び,空襲になっても絶対に入らず,荒川土手に逃げることを申し合わせていました。大空襲当日も,幸い荒川土手は延焼を逃れたこともありますが,それで,私の知る限り,友人は1人も死なずにすんだのではないかと思います。
空襲が一段落しますと,焼け残った町会長の家には多くの人びとが詰めかけていました。町内の7割の人が焼け出され,着の身着のままです。町会長の家に保管されている食糧,サラシ,手拭などの非常用物資の配給を受けようとしたからです。しかし,彼らをそれを分けようとしないのです。
私たち同胞は先頭に立って,「空襲のとき町会長はどこに行っていたのか」,「あなたは,他の人には消火せよ,と動員をかけておいて,自分は安全な場所に逃げていたのではないか・・・」,「非常用物資はみな出しなさい」と,詰めよりました。周囲の日本人も「独り占めする気か・・・」,「明日のことよりも今日生き残れるかが大切だ」などと,口々に町会役員をなじりました。それで,町会役員もしぶしぶですが,食糧,サラシなどの配給に同意せざるをえなかったのです。
日頃,盛んに吹聴していた「お国のため」も,何もかもが米軍の焼夷弾の “洗礼” を受け,その化けの皮が見事にはがされてしまった訳です。この大空襲の後にも,私たち家族は3回程,焼け出されましたが,どうにか命だけは失わずにすみました。
「日本の敗戦を確信した」 今でも忘れられないのは,3月9日の大空襲を機に,日本の敗戦を確信することができたということです。けっして廃墟と化した東京の街を見たからではありません。その日を機に,それまでわが物顔にふるまっていた憲兵や兵隊が,まるで魂でも抜けたようになったのを見てです。
それで,日頃,同胞を目の敵にし,手ぬぐい1本,ボタンひとつ持っていても「どこから盗んできたのか」などと,いちゃもんをつけ,いじめていた彼らが,なぜかわれわれから目をそらそうとする素振りさえみせ始めたからです。気のせいだけとはいい切れません。
「強制連行の記録」 私が渡日したのは,1940年12月末です。慶尚道と全羅道から4千人もの同胞と一緒に募集につられて,岩手県釜石の鉱山に入りました。故郷では,働き先が鉱山ということはまったく知らされていませんでした。当時,すでに炭鉱や鉱山での苛酷な動労状況が知れ渡り,募集に応じようとしませんので,ひた隠しにしたものと思います。
「逃亡の記憶」 このままではとても生きて故郷に帰れないと思い,半年後の6月初旬に逃げ出しました。4日間飲まず食わずで,土地勘のある訳でもなく,ただ山の頂を目印に,山道を歩き続けました。当時,多くの同胞が鉱山を逃げ出しました。しかし,1か月もしますと,再び連れ戻されました。
「ま と め」 募集にひっかかり,日本にだまされて連れて来られ,米軍機の無差別爆撃に九死に一生を得ました。解放から38年,私の心はいまだ平安だとはいえません。私の故郷は全羅道です。3年前(1980年)の光州事態のとき,故郷の兄嫁や甥の安否が気がかりで,一睡もできませんでした。
「朝鮮人の気持」 当時,働き口も限られ,ぶらぶらしているものなら徴兵や徴用にひっぱられていく時勢です。徴用,徴兵やなどで犬死にすることもさることながら,日本の侵略戦争に手を貸すようなことはしてはならない-との素朴な考えがあったことも確かです。
「警防団への参加」 しかし,警防団には動員されました。日本人の若者は兵隊に行き,老人や病人しか残らず,それで同胞青年を空襲時の消火など,女にできないことを任せようとしたようです。2百人のうち16人が警防団に加わったのですが,私たちとしては,警防団の役職者たちが,何かにつけ朝鮮人を目の敵にして「朝鮮人はヤミばかりして,戦争に協力しようとしない」,「灯火管制も守ろうとしない」などの悪口を意識的に流していました。それで,2度とそんなことを言わせないためにも警防団に入り,“にらみ” をきかせようと思ったのです。
「3月10日空襲」 夕方になって,顔見知りの同胞の安否が気にかかり,隅田川の言問橋まで行ってみました。橋は死体から流れ出した真っ黒な油がにじみ,川は焼死体で山なりになっていました。なぜか皆,両手,両足をあげるような格好で死んでいました。町内でも多くの人が焼け出され,亡くなりました。
「遺体の始末」 道路に散乱した遺体は,軍人がまるで石ころでも扱うようにトラックに荷台に放り投げ,近所の空き地に大きな穴を掘り埋葬しました。私は,顔見知りの同胞が含まれていないかと,その遺体をひとつひとつ確かめました。しかし,ほとんどの遺体は手足がバラバラ,男女の区別すらできないほど焼け焦げ,あきらめざるをえませんでした。
「指導者たちの無責任」 それにしても腹立たしかったのは,町会や警防団の役員の身勝手さです。日頃,出征軍人らを前に「貴様らは生きて故郷の土地を踏むと思うな」,「本土に敵1匹入れてはならない」などと大口をたたいていた彼らが,空襲と同時に部下には消火を指示しておきながら,自分たちはいち早く荒川土手など,火の手の回らない安全な場所に逃げだしたのです。
私たち同胞は,日頃から防空某を “墓地” と呼び,空襲になっても絶対に入らず,荒川土手に逃げることを申し合わせていました。大空襲当日も,幸い荒川土手は延焼を逃れたこともありますが,それで,私の知る限り,友人は1人も死なずにすんだのではないかと思います。
空襲が一段落しますと,焼け残った町会長の家には多くの人びとが詰めかけていました。町内の7割の人が焼け出され,着の身着のままです。町会長の家に保管されている食糧,サラシ,手拭などの非常用物資の配給を受けようとしたからです。しかし,彼らをそれを分けようとしないのです。
私たち同胞は先頭に立って,「空襲のとき町会長はどこに行っていたのか」,「あなたは,他の人には消火せよ,と動員をかけておいて,自分は安全な場所に逃げていたのではないか・・・」,「非常用物資はみな出しなさい」と,詰めよりました。周囲の日本人も「独り占めする気か・・・」,「明日のことよりも今日生き残れるかが大切だ」などと,口々に町会役員をなじりました。それで,町会役員もしぶしぶですが,食糧,サラシなどの配給に同意せざるをえなかったのです。
日頃,盛んに吹聴していた「お国のため」も,何もかもが米軍の焼夷弾の “洗礼” を受け,その化けの皮が見事にはがされてしまった訳です。この大空襲の後にも,私たち家族は3回程,焼け出されましたが,どうにか命だけは失わずにすみました。
「日本の敗戦を確信した」 今でも忘れられないのは,3月9日の大空襲を機に,日本の敗戦を確信することができたということです。けっして廃墟と化した東京の街を見たからではありません。その日を機に,それまでわが物顔にふるまっていた憲兵や兵隊が,まるで魂でも抜けたようになったのを見てです。
それで,日頃,同胞を目の敵にし,手ぬぐい1本,ボタンひとつ持っていても「どこから盗んできたのか」などと,いちゃもんをつけ,いじめていた彼らが,なぜかわれわれから目をそらそうとする素振りさえみせ始めたからです。気のせいだけとはいい切れません。
「強制連行の記録」 私が渡日したのは,1940年12月末です。慶尚道と全羅道から4千人もの同胞と一緒に募集につられて,岩手県釜石の鉱山に入りました。故郷では,働き先が鉱山ということはまったく知らされていませんでした。当時,すでに炭鉱や鉱山での苛酷な動労状況が知れ渡り,募集に応じようとしませんので,ひた隠しにしたものと思います。
「逃亡の記憶」 このままではとても生きて故郷に帰れないと思い,半年後の6月初旬に逃げ出しました。4日間飲まず食わずで,土地勘のある訳でもなく,ただ山の頂を目印に,山道を歩き続けました。当時,多くの同胞が鉱山を逃げ出しました。しかし,1か月もしますと,再び連れ戻されました。
「ま と め」 募集にひっかかり,日本にだまされて連れて来られ,米軍機の無差別爆撃に九死に一生を得ました。解放から38年,私の心はいまだ平安だとはいえません。私の故郷は全羅道です。3年前(1980年)の光州事態のとき,故郷の兄嫁や甥の安否が気がかりで,一睡もできませんでした。
③ 朝鮮人罹災者に学ぶべきは,なにか?
戦争末期,東京都やまた大阪市にあっては,非常に多くの朝鮮人が日本人とともに暮らすようになっていた。そうした社会状況がどうして生まれたかは,いうまでもないことでもあるが,とりわけ,銃後の生産活動においては絶対的な労働力不足=人的資源の枯渇に追いこまれていたからである。戦争後期にはとうとう朝鮮人も日本軍兵士として活用せざるをえなくなっていた。
②の証言者は27歳という若さであったから,当時の東京下町では「非常に目立つほかない生活者」だったと観察してよい。
ともかく,以上の②に長々と紹介した,東京下町大空襲における「在日朝鮮人の体験話」は,日本の庶民たちといっしょに罹災したものであって,そのかぎりで両民族に共通する中身がある。しかし,それとともに,植民地出身の人間たちにだけ加重されていた「差別の状況」も語られている。強制連行の歴史に関する一コマも指摘されている(この段落については,下記に参考文献)。
※ 参考文献 朴 慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社,1986年。
金 英達『朝鮮人強制連行の研究』明石書店,2003年。
日本人であっても「階層・役割のちがい」によっては,つまり身内同士のなかでも「差別的な関係」が内在していた事実が描かれていた。いざとなったときの,人間の見苦しさ・身勝手さ・エゴまるだしの行動が,戦争の時代であるからこそ露骨に,表面に出ざるをえなかったのである。
帝国日本と植民地朝鮮〔現在での「朝鮮」と「韓国」〕とのあいだでは「多種多様な歴史」が織りなされた「戦争の時代」があった。戦争末期に始まった日本への空襲をとおして,「苦楽」というよりは「苦」のみを共有せざるをえなかった日本人と朝鮮人同士だったのである。しかしながら,敗戦後の日本社会において両民族が暮らしていく過程にあっては,「戦後闇市」の歴史において誇張的に物語られるようにもなる「共生の複雑な社会関係」が発生していた(この段落については,下記に参考文献)。
※ 参考文献 猪野健治編『東京闇市興亡史』双葉社,1999年。
宮崎 学 『ヤクザと日本-近代の無頼-』筑摩書房,2008年。
2008.3.21
■ 昭和20年敗戦の惨状 ■
◎ 敗戦の年,日本の惨状 ◎
【長野県の実例からみた昭和20年】
本ブログ「2008.3.18」は,「■ 石原慎太郎問題〔続・1〕 & 東京空襲の記憶 など ■」と題し,前日の17日,日本テレビが午後9時から2時間番組の構成で「開局55年記念ドラマ東京大空襲~受難~」を放送していたが,これへの感想としてその【話題2,東京大空襲の時代考証】のなかで,こう批評した。
昭和20年3月時点の日本国内において,医師1名しかいない個人医院が,治療や手術のために必要な各種の医薬品を「なにひとつ不足することなく用意し,使っている」という描きかたに疑問を抱いた。
戦争末期における「医療の実態」に反するドラマ化の場面とみるほかない。
①「食糧不足」--昭和20年は犯罪,なかでも食糧の窃盗事件が多発した年であった。窃盗の対象は,現金より物,それも食糧〔米・いも類・りんご・野菜など〕の盗まれる事件が多かった。
②「伝染病」--昭和20年は,赤痢・腸チフス・パラチフス・ジフテリア・猩紅熱(しょうこうねつ),流行性脳髄膜炎・天然痘などの伝染病が,爆発的に発生した年でもあった。長野県だけで伝染病の発症者は 6849名,うち死亡者 724名,当時の患者数が 2222名だったという。発症者は,昭和18年 3249名,昭和19年 3982名と増加しつづけてきたが,昭和20年は「昭和元年統計始まって以来の悲しむべき記録」であった。
③「初発患者」--初発患者の6割は疎開者,罹災者であった。患者は農村に多く,死亡者は4~5歳までの乳幼児が全体の20%を占め,ついで老人である。農村に多数の疎開者が入りこみ,買い出しなどで感染機会が増したこと,農村の非衛生的生活習慣・医薬品不足・食糧不足による抵抗力低下などの要因が挙げられている。
④「伝染病を媒介する害虫」--長野県下に蚤・虱・蠅・蚊が大発生し,伝染病を媒介していた。
⑤「薬品不足」--栄養不足も深刻であり,また医師に配給された医薬品は,戦前における需要量の 5.5%に過ぎなかった。たとえば,上田市内の結核患者は,前年の3倍あまりに増加した。とりわけ,死亡率が上昇したのが乳幼児であった。母親の栄養不足による母乳の減少,それを補う牛乳を買おうにも,高すぎて手が出ない。この事情はどの家庭にも共通していた。
--戦争というものが普遍的に,社会的な「弱者である子供・老人」,そして「女性」「障害者」などの立場を窮地に追いつめる出来事であることは,歴史が重ねて実証しつづけてきた。
本日のブログがいいたかったのは,昭和20年の時点において,東京都内の個人医院に医薬品が一通りそろっていた事実をとりあげ,これに疑問を投じ,テレビ・ドラマであっても歴史的にみて非現実的な描写,当時の事実に即さない制作内容ではまずいのではないか,ということの再確認であった。
東京都ではなく長野県の実例だったけれども,筆者は,昭和20年という時代状況において「医師に配給された医薬品は,戦前需要量の5.5%」という記述をみつけた。これは,当時の日本全国どこでも,そうだった「医療関係の事情」だと考えてよいものである。テレビ・ドラマがとりあげた「当時の現実」における「個人病院の時代考証」に対して,筆者が提示した疑問が妥当であったことになる。
--ここではくわしく論じられないが,前述の①から⑤のような諸現象を惹起し,結果させる「反対側の原因〈系〉」がなにかといえば,それが国家の運営する軍隊という組織そのものであって,これが任務としておこなう戦争行為=殺戮と破壊の行動であった。しかも,戦争を「政治の延長」として認めるほかない戦時国際法の奇怪さ・・・。それも,あまり守られない戦争のルールを定めている・・・。しかし,ないよりはマシ・・・な法規。
◎ 戦争が破壊するもの ◎
【戦争と国民の健康・製本技術】
〔1〕戦争と健民健兵思想
昭和13〔1938〕年4月1日「国家総動員法」が公布され,5月1日に施行される。昭和12〔1937〕年7月7日に始まった日中戦争の拡大を踏まえて,戦時体制を強化するために,この法律が準備されたのである。
戦争目的のために「すべての物資」が優先的・集中的に動員されることを,国家が法律で日本経済社会に対して,命じたのである。人間〔主に若い元気な男性=「健民健兵」〕は兵員として徴兵される。重化学用の諸物資はもっぱら兵器や弾薬に利用・加工される。食糧は兵糧優先となる。馬匹はもちろん犬までが軍用として強制的に徴用された。ウサギも防寒用の毛皮として育てられ殺された。いわゆる銃後,一般庶民用の耐久財や消耗品は,どこまでもあとまわし・残りものである。
註記)「医療と薬の歴史」という題名のHPがあり,これをみると,戦時体制期における日本の医療保険・医療制度に関する,こういう記述があった。
1922〔大正11〕年 --健康保険法の公布,1927〔昭和2年〕に全面施行。その目的は,労働者の生活不安を除き,労働能率の向上,国家産業の健全な発達を図ることにあり,ドイツ型社会立法の性格を有するものであった。当時,医療政策は軍部が主導権,健民健兵政策・兵力確保が背景となっていた。
1938〔昭和13〕年 --国民健康保険法制定。農山漁村,中小企業を含め,一般国民も対象になり,被保険者・給付が拡大された。
1938〔昭和13〕年 --医療の国家統制を狙い,軍主導で厚生省が設置・新設された。当初の名称は「保健社会省」の予定だったが,“社会” はダメで「厚生省」になった。軍部が結核予防体系として,集団検査システムを開発した。これは,外国に例のない技術史上画期的なものであり,戦後の結核検診,現在のガン検診へ発展している。
1945〔昭和20〕年 --敗戦,連合軍総司令部(GHQ)が健康保険制度の再建を指示する。
1946〔昭和21〕年 --新憲法公布,第25条「国は社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上・増進に努める」が厚生省の基本方針にかかげられた。
出所)http://www003.upp.so-net.ne.jp/nozu/fourth.html
戦前・戦中期,国民の健康とはいってもあくまで,国家=軍部の最高目的の関連でしか考えられていなかった。すなわち,国家は戦争事態を常時予定する社会政策思想を有しており,これに則して国民の健康をも考慮する,という基本方針であった。したがって,国民の健康のためだという医療保険・制度も,もとより「根源的な矛盾」を内包するほかなかったのである。1938〔昭和13〕年 --国民健康保険法制定。農山漁村,中小企業を含め,一般国民も対象になり,被保険者・給付が拡大された。
1938〔昭和13〕年 --医療の国家統制を狙い,軍主導で厚生省が設置・新設された。当初の名称は「保健社会省」の予定だったが,“社会” はダメで「厚生省」になった。軍部が結核予防体系として,集団検査システムを開発した。これは,外国に例のない技術史上画期的なものであり,戦後の結核検診,現在のガン検診へ発展している。
1945〔昭和20〕年 --敗戦,連合軍総司令部(GHQ)が健康保険制度の再建を指示する。
1946〔昭和21〕年 --新憲法公布,第25条「国は社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上・増進に努める」が厚生省の基本方針にかかげられた。
出所)http://www003.upp.so-net.ne.jp/nozu/fourth.html
「健民健兵」なる思想は,若者が国家・軍事に役立つべき「健康で強 い兵士」になるべきだという。敵国と戦争が起きたばあい,その敵国の兵士を上手に倒す=殺せる「頑強な肉体」を有する人間になるべきだと主張する。この思想は,理の必然として「戦争に直接役立たない」「それ以外のすべての範疇の人びと」を,やっかい者あつかいすることになる。
ナチス政権は,第2次大戦中にユダヤ人を大量に殺しただけでなく,ジプシー〔ロマ〕をとらえて殺し,精神障害者もひそかに殺してきた。これには,つぎのような理由があった。戦争という作業に参画できないで「無駄飯」を食う〈連中〉は「用無し」どころか,その戦争の遂行において支障にしかならないのだから,軍事型社会から排除・抹殺してよいとされたのである。
人間性だとか人間の人格だとかを「健康な人間以外」には認めない恐ろしいその種の社会思想を,戦争というものは平然と主張させるのであった。しかも,戦争は健康な人間をどんどん殺し,障害者も大勢造りだす国家観の政治的な行為である。戦争と健康とは両立しない。「健康を破壊する」戦争がこの戦争のために「健康を要求する」のだから,これは絶対的な矛盾そのものでしかない。
この日本社会は現在,高齢化社会への途を一直線に突きすすんでいる。ナチス流の健康思想に忠実にしたがえばまさしく,容易に,「寝たきり老人」や「認知症」の人間は「殺してもかまわない」という結論に達するのである。戦時日本における「健民健兵」思想も,根本的に大同小異であった。この理解は,戦時を超えて平時にも妥当する要素をもちかねないその「健民健兵」思想の危険性を意味する。
〔2〕戦争と出版文化
--大学教員として,古い時代にかかわる歴史的な研究をしていると,戦前や戦中に発刊された文献を多く手にする。昭和14~15年あたりを頂点に「本の作り=装訂」の「状態=出来」がだんだんと悪くなっていき,製本の伎倆も低下していく様子が如実に伝わってくる。大東亜・太平洋戦争中に出版された本の装訂になると,さらに悪い状態となる。昭和18・19年に製作された本のなかには,本文の文章部分に裁断が入ってしまっているものさえある。
著者の蔵書には戦争時代の本がたくさんある。戦後60年以上も経過した現在,それらの本を手にするときは,要注意である。すでに「ボロボロに近い状態」になっているものも多い。酸性紙を使った本は,枯れ葉同然に紙が劣化しており,下手にさわると「壊れてしまう」状態なのである。
戦後になって,製本状態が昭和14~15年以前のそれに恢復するのは,昭和20年代も終り近くのことである。戦争は人間や自然・社会・経済を破壊するだけでなく,出版文化も一気に荒廃させてきたといえる。明治後期から大正時代・昭和初期にかけて製作されたすばらしい装訂の図書が,筆者の手元に何冊かある。まさに『ある種の「文化」』というにふさわしい芸術作品を産みだしてきた出版の時代が,戦前の日本においては長く定着していたのである。
ところが,戦争というものは,そうした諸文化をいとも簡単に破壊しつくすのである。1発の弾丸が人を殺す。戦車の大砲の1弾で,民家など木っ端みじんである。いまの価値でいえば1兆円〔以上〕もかけて作っただろう超大型戦艦が冷暖房完備,洋式トイレあったのに対して,一般庶民のわが家のほとんどは,野趣に富む「ポッチャン!! トイレ」であった。
--話がずれてきたので,今日はこれで擱筆(かくひつ)したい。最後にただ,なぜ人間は戦争が好きになるのかということを,今後もよく考えてみたいと思う。
2008.3.20
■ 日本空襲とB29搭乗員兵士 ■
◎ B29搭乗員の運命 ◎
【ルメイ将軍とB29に乗りこんだ兵士たち】
岩波書店の発行する雑誌『世界』2008年4月号に掲載された,グレゴリー・ハドリー,石井信平訳「戦争の記憶とトラウマ『竹槍の村』に墜ちたB29(上)」という題名の寄稿のなかに,興味ある叙述をいくつかみつけた。これを,以下に紹介する。
1945年7月19日から20日にかけておこなわれた,B29の新潟空襲とその墜落についての調査に関する話である。
① ジョーダン・クルーのB29搭乗員たち
新潟で撃墜されたそのB29のクルー(全搭乗員)は,戦争末期に日本爆撃へと送りこまれた典型的なアメリカ人であった。そのほとんどが労働者階級の白人男子で,保守的なアメリカ中西部に点在する農村や町の出身者で占められていた。将校だけは都市部の出身で,比較的高い教育を受けていた。
入隊後,B29のクルーに与えられた軍事訓練と教育は,ただひとつ「任務中は自分の仕事に専念せよ」ということにつきた。1人は燃料消費だけをみつづけ,1人は飛行ルートだ,機銃係は敵機を撃ち,爆撃手はひたすら目標を狙った。誰も,普通の市民を殺しているという事実など,考えもしなかった。
そのB29の搭乗員たちは,隊長の姓を付けてジョーダン・クルーといったが,東京大空襲に参加していた。彼らに刷りこまれていたのは,真珠湾への不意討ちと「バターン死の行進」への復讐心であった。教育も人生経験も足りない,地方出のクルーにとって,3月10日の東京大空襲は「東京全部が丸焼けだ! こんなゴキゲンな焚き火は初めてだ」といういいまわしになる。
それでも,ニューヨークで日本人外交官の娘といっしょの学校に通っていたミルトン・ガリンは,眼下の火をみおろしつつ祈った。「わが友よ,東京のどこかで生きのびてくれ」と。
② カーティス・ルメイ将軍にとってのジョーダン・クルー
東京空襲にさいして,ルメイは,B29作戦を高空爆撃から夜間の低空爆撃に切りかえた。これは,ジョーダン・クルーが空軍に参加するまえに期待していた作戦とはちがっていた。将校たちは不満を述べた。低空では,低速で動きの鈍いB29は危険きわまりないと。
しかし,ルメイはこう答えた。
「それなら,私は多くの飛行機をつぎこみはしない。爆撃目標には必らず命中させなければならない。そのための飛行機と人の補充はいくらでも可能だ」。このメッセージは明快である。地上の日本人と同じく,指揮官らにとってジョーダン・クルーもまた,同じく「消耗品」だったのである。
③ 欠陥を抱えていたB29
B29は日本軍の対空砲火にとって楽な射撃目標となった。多数のクルーが日本上空や太平洋上で墜落した。それは,日本軍の対空砲火が正確になったこともあるが,B29自身が危険を抱えていたことがほうが深刻であった。アメリカ軍は多数の欠陥を放置したまま,B29を飛ばしつづけた。
数回の遠征で,エンジン・トラブル,突然のガス欠,電気系統の欠陥で,なんども死にかけた。機体のトラブルと敵からの対空砲火で,ジョーダン・クルーは「2度と生還できないかもしれない」という恐怖に苛まれた。そして「もし日本上空で放りだされたら・・・」という想像ほど,彼らの心を凍らせるものはなかった。
ジョーダン・クルーの最後の遠征となる新潟への飛行のまえに,ミルトン・ガリンは対空砲火で負傷し,帰国していた。もう1人のクルーも,遠征のストレスで精神に異常をきたし,国に送りかえされた。睡眠薬を使いはじめたクルーもいた。飛行のまえ,ジョーダン機長は浴びるように酒を飲むようになった。彼は戦争に身を捧げる自分の役割に幻滅しはじめていた。その不満を,妻への手紙に書きつづっている。
--自分たちクルーは,欠陥機に乗せられ,チッポケな町にどんどん爆弾を落としている。上官たちは昇進し,ワシントンのお偉方らの覚えがよくなる。ただそれだけのために・・・。
④ 筆者のコメント
以上①から③までに参照したグレゴリー・ハドリーの記述は,戦争というものに特有・必至の矛盾・問題を,いくつも示唆している。
a)「分業の徹底」--軍隊組織はみなそうなのだろうが,B29の乗務員たちの機内における役割分担の徹底には感心する。人殺しをするための爆撃機B29に乗りこんだ兵士たちの役目は,経営学を生んだ国=アメリカのプラグマティズム(実用主義)を強く感じさせる。
b)「ガリンのように日本人の友だちがいた搭乗員は,日本の地上に爆弾を落とすという戦争での殺人行為の意味=残虐行為を,具体的に実感できた」。白兵戦で敵と戦い殺すのとはまったくわけがちがうから,その実感をえるためには「特定の強い想像力」が要求される。
c)「欠陥B29の問題」--通常旅客機として新しい型式がデビューするためには,たとえば,日本が戦後に国産機として開発され実用化したYS-11〔双発ターボプロップエンジン方式の旅客機〕が,実際に商用化されるまでの過程においては,どのくらい難関があったかを考えれば,ハドリーが指摘するような欠陥を抱えたままの状態でB29が日本空襲の任務に使われていたということは,やはり戦争がなさしめた不用意・無理と断定するほかない。
d)「搭乗員たちのPTSD」 -B29の搭乗員〔クルー〕たちは出撃を繰りかえすうちに,機長以下各種の精神的障害を被るようになっていた。ガリンのように負傷して帰国できた兵士は,かえって幸運だったかもしれない。
e)「兵士から妻への手紙」は,戦時日本であれば検閲に引っかかって届かなかったであろう。
f) 結局,B29に乗りこみ日本を空襲したクルーたちも,ルメイ将軍の立場からすれば「単なる消耗品」であった。戦争というものはいつもそのように,人間を「人的資源」として量的に,いいかえれば,作戦上の物理的な単位としてとりあつかうばかりである。将軍はけっしてB29に乗らないし,安全なところから指揮・命令をするだけである。
もう一度いおう。日本を空襲するB29とその搭乗員の補給はいくらでもできる,といったのはルメイ将軍であった。その「空襲の犠牲者 ⇔ B29のクルー ⇔ ルメイ将軍」という連鎖においては,敵と味方の差を超えた「人間の命」の理解に関する「密度の濃淡」があらわである。
2008.3.19
■ 戦争と政治〔続・1〕■
◎ イラク戦争から満5年 ◎
【ブッシュ大統領の能天気と無責任】
① 日本テレビ特番「東京大空襲」の2日目
昨晩午後9時から放送された,日本テレビ「開局55年記念ドラマ東京大空襲『邂逅~約束の橋は燃えつきた! 炎素の海に消えた恋…… 63年目永遠の絆! 3月10日から2ヶ月再び大爆撃計画が始まる-もう誰も殺さないで…… 今夜完結』」をみた。大爆撃計画とはやはり,昭和20年5月25日の東京山の手地区への大空襲のことであった。
同上番組の物語は,ともかく一生懸命観賞していないと,その筋書がもうひとつ読みとりにくい感じを受けた。というよりも,あの戦争の時代には非常に数多くの出来事,それも不幸・不安,悲劇・悲惨ばかりが,とてつもない数字・単位をもって起こされていた。日本全土に対する空襲,いや東京に対する空襲だけでもこれを,2日間の特番ドラマで描ききれるわけがなかった。その意味でも「むずかしい歴史ものの企画」だったのか,ということである。
② 3月19日『朝日新聞』天声人語
今日の朝日新聞「天声人語」は,2003年3月19日(日本時間では20日)に,アメリカ軍がイラクへの侵略戦争をしかけた事実に触れ,ブッシュ大統領が先日,記者団との夕食会で「思い出のグリーグラス」の替え歌を,能天気にも歌ったと書いている。
この天声人語は「イラク戦争の狙いは,やはり石油でしたかと,問いつめてみたくなった」といい,この戦争が「すぐに泥沼となり,イラク市民と米兵の犠牲が増え続けた。大義名分だった大量破壊兵器はどこにもなかった。『愚挙』と難じる声は時を追うごとに高い」とも断定したうえで,「世界が軋(きし)み,米の傷も深いイラク戦争の5年である」と総括している。
③ 戦争の犠牲者はいつも庶民ばかり
イラク戦争開始当初,アメリカではこの戦争に反対の意志をしめす国民を〈非国民呼ばわり〉し,アメリカの軍事行動に疑問を呈する他国とその人々を〈テロリスト〉と同列に置き,猛烈に非難・攻撃した。しかし,いまでは,大東亜・太平洋戦争よりも長期間になってしまったイラク侵略戦争が,アメリカ合衆国,それも一部のエスタブリッシュメント(支配階層)の政治経済的な利害のための道具であったことは,より明白になっている。
酷い目に遭わされたのは,まず,15万人もの犠牲者が出ていると推算される「イラクの庶民」,つぎに,4千人の戦死者を出している「イラク戦争に軍人として動員されたアメリカ兵」である。
④ 若き日における徴兵忌避者のブッシュ大統領
さて,現在のアメリカ軍は志願兵制度であるが,ベトナム戦争の時期,アメリカには徴兵制度があった。ベトナム戦争とブッシュ大統領の関係を想いだそう。当時,ベトナム行きを恐れた息子ブッシュは,パパ:ブッシュの政治的影響力の発揮によって,テキサス州の「国境警備に当たる航空部隊」に入隊し,パイロットとしてメキシコ国境警備の任務に就いていたのである。
ベトナム戦争の死者は,南北のベトナム人で百万人以上,米軍は5万8千人。この数字は1桁異なるけれども,イラク戦争における「イラク人の犠牲者」および「アメリカ兵の戦死者」の数値と比較してみるに,その構成が相似形であるのは,けっして単なる偶然ではない。
2008.3.18
■ 石原慎太郎問題〔続・1〕 & 東京空襲の記憶 など ■
◎ 小説家都知事の銀行経営破綻 ◎
【話題1,石原慎太郎の遁辞】
本ブログ,昨年「2007.12.2」は『朝日新聞』の2007年12月1日朝刊の記事を紹介しながら,「石原銀行」とも別称されるべき「新銀行東京」の危機的な経営状況を解説した。東京都知事として独裁的な地方行政をとりしきっている慎太郎君だが,いまや自分の責任は棚上げしたまま,新銀行東京の「どん底的な金融経営」を,他人事のような口ぶりで語る始末である。
2008年3月18日(今日)発売された『週刊朝日』2008年3月28日増大号は,実質的に「石原慎太郎が頭取」とみるほかない新銀行東京について,故人の石原「裕次郎も泣いている 元役員らが証言-石原絶対王政が招いたデタラメ経営-」という記事を書いている。
今日の朝日新聞朝刊に週刊朝日とともに広告を出していた『サンデー毎日』2008年3月30日号は,「『ゴーマン石原銀行』は即刻退場せよ!」「都議選向け『デタラメ口利き融資』が浮上」という記事を載せている。
都知事3期めの慎太郎君,もはや耐用年数を大幅に超過しており,金属〔勤続〕疲労も限界を超えている。即刻「退陣を勧告したい」! こんな「小説家出身の都知事」を3選までさせた東京「都民(ミー・ハー的な愚民?)の政治感覚」も問題なのでは?
すでに紹介してあったが,石原慎太郎「問題」に関しては再度,筆者のつぎのHPのご高覧を乞いたい。
http://bbgmgt-institute.org/paper01.html
◎ 昨夜みた東京大空襲関係のテレビ番組 ◎
【話題2,東京大空襲の時代考証】
昨日,日本テレビ系列,関東地方では4チャンネルが,午後9時から2時間番組の構成で「開局55年記念ドラマ東京大空襲~受難~『死者10万人以上史上最大の爆撃を完全に映像化 その炎は愛まで焼きつくした!! あの橋を渡れば・・・』」を放送した。
すでに数多くの関連する文献や資料が公表されてきている「東京下町大空襲の事実」を活かそうとしたドラマ番組であったけれども,若干気になった場面もいくつかあった。それは,いまからもう63年も昔になった「その空襲のあった時代」における「世相=衣食住などの描きかた」である。
① 岸谷五朗が演じる医師〔個人経営の病院長〕は,白衣を着用し,その下にいつも背広のような上着に「ネクタイをしていた」が,これには疑問がある。当時まですでに「国民服」という軍服に似た「立折襟仕立ての服(ネクタイも着用可だが)」が,昭和15年11月に「国民服令」によって制定されている。→その後,昭和18年6月に「国民服制式特例」,昭和20年6月には「大東亜戦争陸軍軍人服制特例」が公布されている。
大東亜=太平洋戦争期における「日本庶民の生活場面」を反映させ演出するうえでは,この国民服が不可欠の衣装小道具になる,といわれてもいる。それでも,その医師がいつも背広上下にネクタイをしていたとすれば,彼がよほどの変わり者か,あるいは個性豊かで自己主張の強い人間だった,ということになる。
註記)このブログを書いたあと,書棚にあった櫻本富雄『本が弾丸だったころ-戦時下の出版事情-』(青木書店,1996年)を手にとり,パラパラとめくっていたら,1941〔昭和16〕10月に財団法人大日本国民服協会が創刊したという生活文化総合雑誌『國民服』に関する記述をみつけた。以下に引用する。
--高度国防国家実現のために戦争資材の積極的生産から国民生産の消極的消費まで,合理的能率的に制度化しなければ必勝は期しがたい,として衣食住の衣に介入した当局は勅令第725号を発して「国民服」を制定した。1940〔昭和15〕年11月1日のことである。
時の内閣総理大臣は近衛文麿,厚生大臣は金光庸夫だった。この「国民服令」(全6条)によって大日本帝国男子は国民服という軍服のような服装を礼服とされた。男女の差別があった戦時下では,女子の服装について法令で定めることはなかったが「ゼイタクハ敵ダ」の合い言葉のもと,標準服という名のモンペ姿が定着した。
高良(こうら)富子の「大東亜と婦人国民服」(『國民服』昭和17年2月号)を読むと,「女子にも国民服の制定を」といった運動が展開されたことがわかる(268頁)。
時の内閣総理大臣は近衛文麿,厚生大臣は金光庸夫だった。この「国民服令」(全6条)によって大日本帝国男子は国民服という軍服のような服装を礼服とされた。男女の差別があった戦時下では,女子の服装について法令で定めることはなかったが「ゼイタクハ敵ダ」の合い言葉のもと,標準服という名のモンペ姿が定着した。
高良(こうら)富子の「大東亜と婦人国民服」(『國民服』昭和17年2月号)を読むと,「女子にも国民服の制定を」といった運動が展開されたことがわかる(268頁)。
② その医師が心臓疾患の患者の手術をする場面もあったが,この医師1名しかいない病院で,治療や手術のために必要な各種の医薬品が「なにひとつ不足することなく用意され使われる」という描きかたにも,疑問を抱いた。戦争末期の日本における「医療の実態」に反するドラマ化の場面とみるほかない。
まあ,あくまでテレビのドラマなのだから,そうムキになって指摘・批評することもあるまいといわれてしまうかもしれない。だが,「開局55年記念ドラマ」とか「死者10万人以上史上最大の爆撃」とか表題に出したからには,また「観るほうも真剣」であればあるほど,そうした時代考証的な齟齬は黙過できない気分・・・。
③ B29の搭乗員兵士らしいアメリカ人が,その病院に投げこまれるようにして自動車で搬入された場面があった。これにも疑問がある。撃墜され降下したB29の搭乗員兵士であれば,負傷しているばあい陸軍の指定病院に運びこまれるか,あるいはあえて生かさないように放置したのではないか。
④ 朝鮮人男性と日本人女性の恋愛関係が組みこまれているが,当時200万人もの朝鮮人が日本国内にいた事実からして,ごく自然な脚本の創作である。その女性の父親〔泉谷しげる扮する〕が「朝鮮人差別を謝る」シーンもあった。しかし,当時の時代状況のなかで,植民地出身の人間・集団の存在を総体的に描くことがむずかしいのと同様に,日本人全体の戦時生活そのものも,もうひとつ端的に描ききれていないように感じた。
⑤ 率直にいって筆者は,残念ながら平凡な「単なるドラマ」と受けとめた。これなら「空襲関係の写真集」をみていたほうが,よほど「歴史の勉強」になると感じた。もっとも,今日(18日午後9時)にも後編の放映があるから,これも全部みての感想も必要だろう。とりあえず,ここまで・・・。
--なお,今晩における番組タイトルは,「開局55年記念ドラマ東京大空襲『邂逅~約束の橋は燃えつきた! 炎素の海に消えた恋…… 63年目永遠の絆! 3月10日から2ヶ月再び大爆撃計画が始まる-もう誰も殺さないで…… 今夜完結』」。ここで,大爆撃計画とは,昭和20年5月25日の東京山の手地区への大空襲のことであろう。
◎ 戦争という転換期の商工経営論 ◎
【話題3,経営学者 室谷賢治郎の著作:昭和17年6月】
筆者が過去に勤務したことのある大学で,昭和43〔1968〕から4年間学長職に就いていた室谷賢治郎は,それまでは小樽商科大学に勤務してきた経営学者である。
この室谷賢治郎は,昭和17〔1942〕年6月に『転換期の商工経営』(同文舘出版部)という書物を公刊していた。本書の「序」は「対米・対英宣戦の詔書を拝して2日」後である昭和16〔1941〕年12月10日,だから,まだ「大東亜戦争」という名称が正式に決められる〔後述↓〕2日前に書かれていた。
その「序」の前半部分から紹介しよう(読みやすくするため改行を2箇所入れた)。
既に4箇年有半を閲した支那事変は,遂にその本格的段階として日米戦争及び日英戦争を招来するに至った。
宣戦の大詔渙発せられて3日,忠烈無比の皇軍は電撃風馳布哇列島に於ける米国艦隊の主力を撃沈せしめ,馬来半島に於ける英国極東艦隊の新鋭を撃滅し,比律賓群島に敵前上陸を敢行し,グアム島の完全占領に成功し,敵性国家群の心胆を寒からしめたと同時に,全世界の人々に畏敬と驚嘆の声を発せしめた。
所謂ABCDの対日包囲網は各個破摧を蒙って,大東亜共栄圏の確立は鉄壁微動だにしない。鳴呼,正にこれ世界歴史に於ける一大転換にあらずして何ぞ。
「大東亜戦争」という名称は,日本政府が昭和16年12月12日になって「支那事変を含めて呼称すること」に決定したものである。そして,大東亜共栄圏に対する「ABCDの対日包囲網」とは,「アメリカ・イギリス・中国・オランダ」を意味するアルファベットの頭文字を,うまい具合に順に並べていたわけである。宣戦の大詔渙発せられて3日,忠烈無比の皇軍は電撃風馳布哇列島に於ける米国艦隊の主力を撃沈せしめ,馬来半島に於ける英国極東艦隊の新鋭を撃滅し,比律賓群島に敵前上陸を敢行し,グアム島の完全占領に成功し,敵性国家群の心胆を寒からしめたと同時に,全世界の人々に畏敬と驚嘆の声を発せしめた。
所謂ABCDの対日包囲網は各個破摧を蒙って,大東亜共栄圏の確立は鉄壁微動だにしない。鳴呼,正にこれ世界歴史に於ける一大転換にあらずして何ぞ。
昭和16年12月8日の日本軍による真珠湾奇襲は「米国艦隊の主力戦艦8隻を撃沈せしめ」たのではない。ただ,吃水の浅い同湾において大破させ,沈没させえただけなのであった。つまり,撃破されて海底深くに沈められたのではなく,損害を受けても座礁させられた状態にあった戦艦6隻は,のちに引き揚げられて修理され,戦線に復帰できたのである。
しかも当日,アメリカ海軍の主力航空母艦は任務で出港していて,真珠湾には停泊しておらず無傷であった。その後における作戦活動においてこの航空母艦が,重要な役割を発揮することになった。そのため,緒戦でアメリカ軍が持ちこたえる原動力となり,日本軍の短期決戦戦略が頓挫する一 因ともなったのである。
一方,太平洋(大東亜)戦争が開戦した2日後の昭和16年12月10日〔この日に室谷賢治郎は自著の序を書いていた〕,日本軍のマレー侵攻部隊を攻撃するため出撃したイギリスの新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスの2隻は,日本海軍機の雷爆撃によるはげしい攻撃によって逆に,マレー沖で撃沈され,姿を消した。イギリス海軍の誇る主力戦艦2隻が撃沈され,当時のイギリスのチャーチル首相は,第2次大戦中で最大の衝撃を受けたといわれている。
しかしながら,経営学者室谷賢治郎が著作の「序」に記した開戦当初における「感激の文句」は,その後半年も経たないうちに,つまり,昭和17年4月18日「ドゥリトル指揮するB25爆撃機16機の日本空襲」を契機に,いっぺんに色褪せてしまい,一気に「大東亜戦争そのもの」を「惨めな転換期」に向かわせることになった。
その転換が実際にすすみ惹起された悲惨な結末が,東京大空襲など日本全土へのB29による戦略爆撃=「一般庶民:非戦闘員に対する大量殺戮作戦」の実行であり,広島・長崎への原爆投下による「一瞬の大量虐殺」であった。
--著作の題名に同じに「転換期」を付していた藤川 洋『転換期に立つ企業経営管理』(冨山房,昭和17年10月発行)は,これに昭和17年2月時点で序文を寄せてくれた杉 精三なる人物(昭和10年10月時点で内閣印刷局長との情報あり)が,こう延べていた。
その後勃発したる支那事変の戦局は益ヽ拡大して,終に世界戦争に変貌し,聖戦の目的を完遂するためには,是非とも国の総力を噶して戦はねばならぬ一大国難を招来するに至った。ここに於てか,この国難突破のため,国の政治経済機構は次から次へと改造を余儀なくせられ,我々の日常生活の上にも亦未だ曾て知らざる大なる変動が捲き起って来た。従って事業を経営管理する方法に於いても戦前の思慮構想を以ては到底律し難き新しき時代が到来したのである。
まさしくそのとおりになった。昭和20年2月以降の日本全土は敗戦の日の未明まで,そのニックネームを「超空の要塞(スーパー・フォートレス)」と呼ばれ,1機で9トンもの爆弾を搭載できたB29の,本格的な空襲攻撃を受けるという一大国難を招来し,また,事業の経営管理におけるまともな方法なども,とうてい成立しえないような産業経済の悪化状態に追いこまれたのである。
2008.3.17
■ 戦争と政治 ■
◎ 国際法違反の使いわけ ◎
【市民爆撃をたがいに実行も批判もした日米】
本ブログ「2008.3.14」の「都市空襲は戦争犯罪ではないのか」は, 都市爆撃の主な歴史,つまり,①ゲルニカ(1937年4月26日),②重慶(1938年12月~1943年8月),③ロンドン(1940年9月),④ドレスデン(1945年2月),⑤「東京=日本」(1945年3月~8月)に言及した。そのさい,重慶に対する日本の重爆撃隊による無差別殺戮は「B・C級戦犯」の罪に問われるのではないかと,戦後にその搭乗員が心配した事実にも触れた。
昨日の朝,新聞のスクラップをしていたら『朝日新聞』2008年3月10日夕刊に,東京大空襲・戦災資料センター館長の早乙女勝元の,「日米のどちらも(相手に抗議するさいは)国際法という錦に御旗を振りつつ,もう片方の手で国際法違反と知りながら都市爆撃をエスカレートさせる。一般の市民を巻きこむ構図は,いまのアフガンやイラクにもつながっている。悲惨な目に遭うのは,いつも弱者だ」,というコメントを付した記事があった。
その記事の見出しには「『国際法違反』使い分け 市民爆撃,互いに批判・実行 第2次大戦末期の日米 東京大空襲 日本『抗議』,米『黙殺』」という字句が並んでいる。その冒頭における記事は,こう記述している。
第2次世界大戦の末期,日本は都市などへ繰り返される爆撃を「国際法違反だ」と米国に抗議していた。だが米国は抗議を「黙殺」することを決定。約10万人が犠牲となる東京大空襲が始まったのは,その3日後の1945年3月10日未明だった。あれから63年。外交文書をひもとくと,自ら無差別攻撃をしながら,他国と同じ行為を批判する日米双方の姿が浮かび上がる。
その記事の本文は,日本の一般市民を標的とする本格的な爆撃の始まりは,東京空襲のちょうど5カ月まえにさかのぼり,昭和19年10月10日,延べ1千機を超える米艦載機が沖縄を襲い,約1千人が死傷。那覇市の90%が焼きはらわれた「那覇10・10空襲」であった事実を指摘してもいる。
この那覇空襲について当時の日本外務省は,外相名で起草された抗議文をもって,アメリカに対して「平和的人民の殺傷ならびに非軍事目標の攻撃は,今日,諸国家を規律する人道的原則ならびに国際法に違反せるものとして・・・」と抗議したけれども,黙殺されていた。アメリカがわも,昭和13年から中国・重慶などを日本軍が無差別に爆撃し,死者1万人以上を出した事実に対して「国際法上の問題」と批判していたけれども,単なる批判に終わっていた。
アメリカは,日本外務省の抗議を黙殺していたが,昭和20年3月6日にまとめた見解のなかで,「もし国際法違反であると認めれば,敵領内に不時着した兵士を危険に陥れ,戦犯扱いの目にあわせるかもしれない」という懸念を懐いていた。この懸念はまさに当たっており,その後において現実に発生する問題になっていた。
やはり,本ブログの「2008.3.14」で言及したように,昭和20年当時,第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官だった岡田 資(たすく)陸軍中将は,日本の都市を空襲し,撃墜されたB29から降下した搭乗員アメリカ兵を,「国際法違反であると認めて処刑を命じた」。岡田中将はその咎をもって敗戦後,B級戦犯として拘束され,横浜の連合軍軍事裁判所で絞首刑の判決を受けている。結局「勝てば官軍・負ければ賊軍」の理屈がまかりとおったに過ぎない。
「戦争は政治の延長」であり「政治は戦争の延長」であるとは,政治学のイロハ的な認識である。戦争に勝ったほうが政治において圧倒的に優勢な地位に立つことは,贅言をまたない。東京裁判(極東国際軍事裁判)が,遡及的にA級戦犯を指名・裁判・処刑したことは,戦争の延長戦上において〈軍事的な裁判〉を政治的に利用したことになる。
2008.3.16
■ 戦争は自然現象も否定する ■
◎ 国力なき戦争指導 ◎
【夜郎自大の帝国陸海軍-自然現象にも敗けた国-】
① 国体は護持された
昭和16年12月8日真珠湾攻撃によって開戦となった「大東亜戦争」(と命名されたのは12日のことだが)は当初,日本帝国の「自存自衛」と「大東亜共栄圏の建設」にこの戦争の目的があると表明していた。しかし,日本本土への空襲も激しくなっていた昭和20年6月8日,最高戦争指導会議が新しい「戦争指導大綱」案を御前会議に提出し,つぎのように決定をみている。
要するにその大綱は,戦争目的を「国体護持」と「皇土保衛」,すなわち,天皇制の擁護と本土の防衛のみに変更していた。日本敗戦後における実質的な政治状況は,たしかに連合軍の占領下に支配されるかたちではあっても,「天皇・天皇制そのもの」が護持され「日本の本土」も日本国民のものでありえたことになる(NHK取材班編,太平洋戦争 日本の敗因6『外交なき戦争の終末』角川書店,平成7年,156-160頁参照)。
皮肉なことに,本土決戦に勝利しようと作成されたその「戦争指導大綱」は,日本が太平洋=大東亜戦争において,アメリカを主勢力とする連合軍に「敗けた事実」によってこそ逆に,その目的を達成できたといえなくもない。これは,歴史の実に奇妙な展開である。もっとも,戦後日米政治関係史に関する最近の研究成果によれば,その歴史の展開が「皮肉でも逆説でもなんでもなかった事実」が解明されている。
昭和20年2~3月以降,日本全国主要都市への激しい都市空襲がつづくなか,4月1に始まった沖縄本島での戦いは,6月23日に日本軍が全滅するまで,そ の戦死者約12万人,一般県民の死者約17万人といわれる。2008年の現在,日本国の沖縄県にあるアメリカ軍基地をみるかぎり,いまもまるで,アメリカ合衆国の「自治領ないしは属地である」かのようである。
豊下楢彦『安保条約の成立-吉田外交と天皇外交-』(岩波書店,1996年)は,沖縄戦で守備隊が全滅する前日の昭和20年6月22日までにおいて,「天皇やその側近グループにあっては,沖縄は一貫して本土防衛あるいは『国体護持』のための “手段” であり,“捨て石” と見なされてきた」(225頁)と,論断している。
② 空襲に地震〔泣き面に蜂,踏んだり蹴ったり,弱り目に祟り目〕
ここでは,中原茂敏『国力なき戦争指導-夜郎自大の帝国陸海軍-』(原書房,1989年,271-272頁)に記述されている日本空襲に関する部分を紹介したい。
★ B29爆撃機の空襲激化す ★
昭和19年7,8月にわたって,マリアナ諸島(サイパン,テニアン,グアム)を占領したアメリカ軍は,この3島に5つの航空基地を建設して,B29爆撃機630機を配備し,日本本土への空襲に備えるにいたった。
11月1日にB29の1機が帝都を偵察し,24日京浜地帯,12月1日名古屋,同13日京阪地帯の航空機工場を爆撃。
昭和19年6月から9月に至る間は,中国奥地からのわが鉄生産工場の爆撃であったが,これからは急速に生産を伸ばしつつあったわが航空機工場の狙い打ちである。わが兵器生産は,京浜,名古屋,京阪神の3地帯で68%を占め,名古屋は航空機の40%を占めていた。
特に名古屋は1地区に集中配置していたのと,強度の地震が重なったので被害は甚大となり,航空機の生産量の低下を早めることとなった。
昭和19年7月の2900機を最高として,12月は1800機,昭和20年に入って2月は1500機,7月は900機,8月は87機(8月15日まで)へと,もはや戦争不可能の姿に突入していったのである。
ドイツも昭和19年7月の2475機を最高として,12月2000機,20年3月1000機へと生産は急降下し,日独全く同じ形で戦争終末の姿であった。
わが八丈島のレーダーが敵空襲機をとらえても東京への連絡に60分を要し,それによりわが戦闘機の迎撃がスタートして高度1万メートルに達するのに85分を要する一方,高射砲は大正11年生産開始の野戦高射砲主体で高度6000メートル限度と言う有様であった。
昭和20年3月以降はこの様子になめてかかったか,敵は侵入高度を下げて焼夷弾を使用する無差別爆撃となり,58都市が延8千機の爆撃機により大被害を蒙った。3月10日の東京大空襲によって26万戸が焼失,10万人が死亡している。
昭和19年11月以降敗戦までのB29の爆撃は計延17500機,爆弾16万トンであった。
ヒットラーの呼号した米英ソを相手とするベルリンでの決戦は,空襲により住宅の完全焼失171万戸,大破57万,中破218万計446万戸に達して総数の 実に48%であった。かくして20年5月8日の無条件降伏となったが,わが本土決戦が行なわれた場合はいかがであったかは想像を絶する。
--太平洋戦争末期において,空襲のこうした様相が出現することは,昭和8年にすでにジャーナリストの桐生悠々が警告していたし,渡辺銕蔵も必死になって昭和19年前半まで警告してきたことであった。しかし,桐生や渡辺のように事前に,生起するにちがいない「戦争の結果=諸事態」を,客観的かつ冷静に警告しようとした知識人の危惧は,戦前・戦中のファシズム国家体制のなかでは,いとも簡単に抑えこまれ,世間に広く伝播することにはならなかった。11月1日にB29の1機が帝都を偵察し,24日京浜地帯,12月1日名古屋,同13日京阪地帯の航空機工場を爆撃。
昭和19年6月から9月に至る間は,中国奥地からのわが鉄生産工場の爆撃であったが,これからは急速に生産を伸ばしつつあったわが航空機工場の狙い打ちである。わが兵器生産は,京浜,名古屋,京阪神の3地帯で68%を占め,名古屋は航空機の40%を占めていた。
特に名古屋は1地区に集中配置していたのと,強度の地震が重なったので被害は甚大となり,航空機の生産量の低下を早めることとなった。
昭和19年7月の2900機を最高として,12月は1800機,昭和20年に入って2月は1500機,7月は900機,8月は87機(8月15日まで)へと,もはや戦争不可能の姿に突入していったのである。
ドイツも昭和19年7月の2475機を最高として,12月2000機,20年3月1000機へと生産は急降下し,日独全く同じ形で戦争終末の姿であった。
わが八丈島のレーダーが敵空襲機をとらえても東京への連絡に60分を要し,それによりわが戦闘機の迎撃がスタートして高度1万メートルに達するのに85分を要する一方,高射砲は大正11年生産開始の野戦高射砲主体で高度6000メートル限度と言う有様であった。
昭和20年3月以降はこの様子になめてかかったか,敵は侵入高度を下げて焼夷弾を使用する無差別爆撃となり,58都市が延8千機の爆撃機により大被害を蒙った。3月10日の東京大空襲によって26万戸が焼失,10万人が死亡している。
昭和19年11月以降敗戦までのB29の爆撃は計延17500機,爆弾16万トンであった。
ヒットラーの呼号した米英ソを相手とするベルリンでの決戦は,空襲により住宅の完全焼失171万戸,大破57万,中破218万計446万戸に達して総数の 実に48%であった。かくして20年5月8日の無条件降伏となったが,わが本土決戦が行なわれた場合はいかがであったかは想像を絶する。
戦前の日本で「反軍政治家」といわれた斎藤隆夫(東京専門学校〔現早稲田大学〕出身,弁護士,エール大学法科大学院留学,衆議院議員,戦後は第1次吉田内閣・片山内閣で国務大臣)は,「昭和20〔1945〕年は国民不安のうちに迎えられたが,本年こそはわが日本にとりて,一大顚落の起こるべき年である」と断わったうえで,さらにこう回顧していた。
空襲警報は日夜を分たずしきりに発せられ,東京市〔都〕内
の各所には続々として空襲による火災が起こって,炎々天に漲るばかり。人心は兢々として今明日の運命も測り知ることができぬ。私の家族もいずれか安全の地
に疎開させたい。せめては家財,衣類等なりとも遠隔の地に送りたいと思えども,とても実行できず,ただただ運を天に委するの他なき有様であった(斎藤隆夫『回顧七十年』中央公論社,昭和62年,184頁。〔 〕内補正は筆者。昭和18年7月1日から東京市は東京都)。
さて,前述に指摘の「愛知県=名古屋」地区を襲った「強度の地震」=大地震は2回あった。昭和19〔1944〕年12月7日の「東南海大地震(M8・0)」〔→沿岸20キロ先で起きた「海洋型地震」〕と,昭和20〔1945〕年1月13日の「三河地震(M7・1)」〔→「直下(型)地震」〕である。これによって,中京地区における軍需生産体制が大きな損害を受けたことは,いうまでもない。
註記)ちなみに,地震の強さはマグニチュードで表わすが,8・0以上は巨大地震,7・0以上は大地震と定義されている。大正12〔1923〕年9月1日に起きた関東大震災は7・9であり,関東地方大都市の近くで発生したため,日本の災害史上最大の被害をもたらした。
山下文男『戦時報道管制下 隠された大地震・津波』(新日本出版社,1986年)は,上記2回の大地震をとりあげ究明している。本書は,「当時軍需工場に動員されていて地震に遭い,不慮の死を遂げたにもかかわらず,軍機保護法などによる報道管制のため,その事実を全く報道されなかった当時まだ十歳代の男女学徒たちの悲劇」を記録するために執筆された著作である(326頁)。
要は,戦争というものは,実際に発生し,多くの人びとに甚大な人的被害・物的損害を与えた「自然災害をなかったことにする」,そういう「理不尽さえ正当化し,絶対的に強要する」政治的な現象である点を,肝に銘じておく必要がある。
--「戦争中における地震の発生」が日本国内で事件として報道されなかったのは,「敵国を利する」ことを恐れたためであった。つまり「敵国に対して,我国で起きた自然災害発生による被害状況を知らしめてはならぬ」ということであり,「わが国の抗戦力への悪影響」を,敵国である「米・英・中など」に悟られてはならない,というわけであった。天気予報に関する情報も機密あつかいされ,報道していなかった。これも「戦争の時代」ゆえであった。
2008.3.15
■ 反骨の社会科学者-渡辺銕蔵 ■
◎ 社会科学者の戦争観 ◎
【戦争に反対した〈体制派の〉経営学者】
〔1〕気骨の社会科学者〈渡辺銕蔵〉
渡辺銕蔵『自滅の戦い』(中央公論社,昭和63年)という a)中公文庫がある。この本は解説の記述まで入れると,文庫本だが,448頁も分量がある。
渡辺銕蔵は別に,箱入り3冊セットで定価3万5千円もする自伝を,自由アジア社という出版社から発売していた。この自伝3著は,b)『激動の日本』昭和43年,c)『激動の日本(続編)』昭和51年,d)『自滅の戦い』昭和57年(昭和22年初版・修文館。前掲『同名』はこの再版)を収めている。
ここに参照・紹介する話は,昭和19年2月時点において渡辺が,太平洋=大東亜戦争に日本帝国が勝てるみこみがない事実を宴席で話題にしたところ,これが当局に密告されてしまい,逮捕・起訴・裁判の結果「有罪」判決を受けた事件である。
その戦争中における「渡辺の受難劇」においては,本ブログが「今日」まで盛んにとりあげてきた論点=「日本本土空襲」にかかわる話題が実質的な内容にもなっていた。ここに論及することにしたい。
〔2〕渡辺銕蔵の紹介
以下においては,渡辺の著作,a)『自滅の戦い』昭和63年から,中篇「反戦苦闘十余年」の,11「一茶寮舌禍事件-投獄」と12「最後のもがき」を参照・引用するが,b)『激動の日本』昭和43年の第1部「大陸発展より敗戦へ」の,5「一茶寮舌禍事件-投獄」と6「最後のもがき」も同文であること断わっておく。。
さきに,渡辺銕蔵(わたなべ・てつぞう)〔以前には渡邊鐵藏と表記〕の履歴を紹介しておく(写真は b)『激動の日本』昭和43年より)。
1885〔明治18〕年大阪に生まれ,1910〔明治43〕年東京帝国大学法科大学政治学科卒業,同年文部省の特派で英・独に留学,1914〔大正3〕年東京帝国大学法科大学助教授,1916〔大正5〕年 同教授,のちに経済学部の独立にともない,同学部教授。
1927 〔昭和2〕年東京帝大経済学部を辞し,東京商業会議所(翌年に東京商工会議所)の書記長(のちの専務理事)に就任。また,新設された日本商工会議所の専務 理事も兼任した。1936〔昭和11〕年から1937〔昭和12〕年まで衆議院議員,1938〔昭和13〕年,渡辺経済研究所を設立,「資料」「調査」を 次々と発行し,反戦活動を展開。
戦後,1946〔昭和21〕年東宝社長に就任,のちに会長となり,東宝争議の一方の当事者としてもしられる。1980〔昭和55〕年に94歳で没。
渡辺の著書は多数ある。ここでは,『欧州戦争と独逸の食料政策』有斐閣,大正5年,『英国の労働組合運動』岩波書店,大正13年,『反戦反共四十年』自由アジア社,昭和31年(前掲 b)『激動の日本』昭和43年は,この再版)などにくわえて,経営学・経済学の文献3冊,『商事經營論』修文館,大正11年,『工場經營論』清水書店,大正15年,および『産業合理化』日本評論社,昭和5年も挙げておくことにする。
渡辺は大正時代,東京帝大「法科大学商業学科→経済学部商業学科」で経営学の基礎講座を講義していた。筆者は,この渡辺銕蔵の経営学説をとりあげ論究したことがある。
〔3〕帝国自滅の戦いに対して渡辺銕蔵は自滅せず
昭和19(1944)年3月23日午前7時ころ,大阪憲兵隊准尉春木谷裕が東京憲兵隊の人に案内されて,突如青山の渡辺宅を訪問した(渡辺 a)『自滅の戦い』昭和63年,341頁)。
翌朝大阪に着き,取調べが開始された。
昭和19年2月19日午後,大阪北区の一茶寮という所で渡辺が,近畿地方の無尽会社を集めて貯蓄奨励の協議会を開き,その終了後午後5時ころからの晩餐会の席上で,酒杯のあいだに同席者の質問に答えて,いろいろ戦局に関して話したことが問題になったのである(342頁)。
何日もかかってできあがった調書は検事局に提出され,検事が憲兵隊にきて2日ほど私を尋問して,検事の聴取書ができあがった。検事がもっとも問題にしたのは,大本営の戦果発表に誤謬があることを,私がアメリカ海軍主力艦の撃沈数に例をとっていったことである(343頁)。
渡辺はこう指摘したのである。「米国巡洋艦の撃沈数に関する大本営発表に至っては滑稽というべきほど過大になっている。彼我の飛行機損害の発表も常識外れの宣伝的虚偽の発表である。これでは国民の士気を鼓舞するというよりは,むしろたんに一般国民のみならず,政治家も,軍部自体も戦果および戦局の判断を誤る虞れがある」(343-344頁)。
--なお,本ブログは「2008.3.12」に「■ 日本全土空襲中の国民の士気 ■」を論じていた。渡辺の記述にもどろう。つぎは,空襲に関係する話となる。
「それで私は日本を焦土となすことより救い,国家と国民の敗戦損害を最小限に止めたいと考えていた故に,独逸が屈伏した場合,または九州が爆撃を受け始めたならば,その時は国民中9千9百9十9万9千9百9十9人が,戦争を継続すると頑張っても,最後の百人が冷静に判断をして戦局を終結せねばならぬと言ったのである。これが最も検事の気に入らなかったのであると思われる」。
「検事はどんな場合でも一億決死で行かねばならぬと言う。私は否,少なくとも輔弼の責任のある者やその他少数の識者は冷静に判断せねばならぬと主張する」。
「翌日もまた検事が憲兵隊へ来て卓をたたいて一億決死を怒鳴る,私は頑として少なくとも百人が考えねばならぬと頑張る。この点がすなわち最も検事局が問題を重視した所以であることが後に感ぜられた」(344頁)。
「日本に於て期待されている英米の弱点と称するもの十数項目を挙げて,これらすべて日本人が独り定めの自己満足,もしくは自己欺瞞的条件に過ぎざることを説明し,したがって日本に勝算のまったくないことは言うまでもなく,もし米国のボーイングB29もしくはコンソリデーテッドB32〔筆者註記,太平洋戦争末期に登場したアメリカ軍最新鋭の爆撃機〕が適当の基地を得て,九州その他日本本土の爆撃を開始するか,あるいは日本本土より千五百キロ以内に米国が空軍基地を設定して爆撃を開始し,これらの基地を日本が覆滅すること能わざるときは,燃え草を並べた都市を有する日本はまったく戦争にならず,勝敗など問題外なることを明確に説明した」(346頁)。
さて,1944〔昭和19〕5月26日,渡辺の裁判に下された「判決」の主文のみを紹介する(351頁)。
被告人ヲ懲役1年ニ処ス
但本裁判確定ノ日ヨリ3年間右刑ノ執行ヲ猶予ス
但本裁判確定ノ日ヨリ3年間右刑ノ執行ヲ猶予ス
渡辺いわく,「この事件は日米戦争に際して如何に暴虐な言論弾圧が下されていたかの実情を知る好個の範例となるものと信ずる」(350頁)。
渡辺の理屈は,面白く,こうもいう。
「公判廷で裁判長から天皇の御名によって聞かれれば,真実の話をせねばならぬ。それではもはや一茶寮事件ではない,憲兵隊や裁判所で真実を流布することになるのだ。私は喜んでそれに応じたのだ。検事は戦果の真否や戦局の真相やことに交戦各国の戦力などについては,普通人以上に何事をも知るはずがない。わざわざ下阪した有数の専門家である私から直接詳しい真実の話を聞く機会を得たのであるから,検事は啓蒙されたことを喜ばねばならぬはずである。私は喜んで聞いているものだと信じていた。それを起訴するなどとはもっての外のことである」(355-356頁)。
「思想事件で累を蒙った或る大学教授が検事を『ひとでなし』と批評したが,私も全然感を同じうした」。
結局,「敗戦後の昭和20年10月17日,神嘗祭の日の特赦によって私も刑を赦免された。当日の新聞紙によれば,そのさい赦免されたものは百数十万人であるとのことである。私もこの百数十万分の1として赦免を受けたのであるが,私は自己の赦免について考えるよりは,よくもこれほど多数の国民が特赦され得る程度の罪に座していたものとまった吃驚した。それがすべて天皇の御名によって裁判され,投獄されていたことを考えて愕然とした」(360-361頁)。
〔4〕天皇の御名-その「マッチとポンプ」的なご都合主義-
--1944〔昭和19〕年2月の時点でそのように,戦争の推移に関する真相を宴席で語ってしまった渡辺銕蔵であった。けれども,「撃ちてし止まぬ」「戦争態勢の日本帝国」のなかで,あえて戦局に関する真実を披露したら必然的に自分の身におよぶだろう危険を,まったく予期していなかったわけではあるまい。
当時の状況であれば,自分の生活および自身の滅亡にもつながりかねない「危険な話」を,「有数の専門家として」自信をもって,ごく少数の人たちだけに内輪の話として語ったはずだったけれども,即刻密告されていたのである。
渡辺は1944〔昭和19〕5月26日,当該の裁判において「非国民としての有罪判決」を下された。しかし,それから10カ月も経ったころの日本全土には,B29による都市絨毯爆撃攻撃が本格的に開始され,彼の警告が現実のものになっていった。太平洋=大東亜戦争に対する渡辺の,あまりにも「当然な警告=空襲の恐ろしさ」が現実化したのである。
渡辺銕蔵は,なかんずく〈体制派の社会科学者〉であった。しかし,渡辺が「戦争の真相」を語り「日米戦争必敗論」を説いたのであるから,真実を語ってしまったこの「元東京帝大教授・東京商工会議社所専務理事」も,「天皇の御名によって」裁判にかけられ,「有罪の判決を下された」のである。
しかしながら,敗戦から約2カ月後の神嘗祭〔天皇家の祭祀のひとつ〕の日になると,渡辺が戦争中に犯して,罰せられた,罪は特赦されていた。昭和天皇は,渡辺を罪人にしたり,その罪を帳消しにしたりしたのである。一貫していなかった。
結局,渡辺は「日本帝国」という「政治体制の本質」を,完全に剔抉(てっけつ)することができていなかった。そこにこそ,渡辺銕蔵において回避不能だった《昭和思想史的な限界》がみてとれる。
Posted by ★ My name is BBG. I am a Scholar of Modern Management & Thought in Japan. ★ at 05:17:23
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2008.3.14
■ 都市空襲は戦争犯罪ではないのか ■
◎ 東京大空襲の歴史的意味 ◎
【戦時国際法と都市空襲】
① 戦時国際法と戦争犯罪
戦時国際法は「軍事的必要性」と「人道性」の原則・法的基盤を有する。
まず「軍事的必要性」とは,敵を撃滅するために必要な戦闘行動など,軍事的措置を正当化する原則である。つぎに「人道性」とは,適切な軍事活動として不必要な措置を禁止する原則である。有名なのは「ハーグ陸戦の法規慣例に関する条約」「ジュネーヴ条約」などである。
戦時国際法に定められる内容を具体的に挙げると,開戦・終戦,交戦者資格,捕虜条約の適用,許容される諜報活動,害敵手段の禁止・制限,死傷者の収容・保護,病院地帯,非武装地帯などがある。
A級とB・C級戦犯の区別には誤解がある。この区別は,戦争犯罪の軽重や程度を意味するのではなく,その種類・内容に関するものである。
A「平和に関する罪」 侵略戦争,あるいは国際条約・協定または保証に違反する戦争を計画し,準備し,開始または実行,あるいは前記のいずれかを遂行するための共同謀議に参加したことをなどを問うもの。
B「通例の戦争犯罪」 戦時国際法,または慣習法の違反。この違反は占領地においての一般市民の殺害・虐待または奴隷的労働・その他の目的ための国外移送などを指す。さらに,捕虜や海上船舶乗員の殺害または虐待,人質の殺害・虐待,公私財産の強奪,市町村の無差別破壊,その他軍事上の見地から正当と認められない破壊行為も含まれる。
C「人道に対する罪」 戦争前または戦争中,一般市民に対しておこなわれた殺害・絶滅・奴隷化・国外追放・その他非人道的行為または迫害をいう。そして,前記の各犯罪を実行するにあたり共同謀議に参加したか,または実行に参画した首魁・組織者・教唆者・共犯者は,これらの計画の実行にあたり,何人によりなされた行為に対しても責任を負うものとする。
② 都市爆撃の歴史とその戦争責任問題
第2次大戦勃発の1年半まえのゲルニカ(1937年4月26日)に始まり,重慶(1938年12月~1943年8月)につづく都市爆撃は,ロンドン(1940年9月)やドレスデン(1945年2月)などを経て「東京=日本」(1945年3月~8月)へと激化していった。重慶に対する日本の重爆撃隊による無差別殺戮は「B・C級戦犯」の罪に問われるのではないかと,その搭乗員たちは戦後になって覚悟していた。この日本軍操縦者の対応は,法解釈の見地からすればまったく正しい。
しかし,英米の大型爆撃機は1機で5~6トンの爆弾を搭載し,数百機規模で作戦をおこない,ドレスデンや東京のように1度に3万から10万の一般市民を爆死させ,広島・長崎に対する原爆では一瞬に数十万人を殺戮した。1機で1トンしか爆弾を積めず,1回の作戦に10機から20機ぐらいしか飛ばせない日本軍航空隊の無差別殺戮は,米英の数百分の1にもならなかった。
米英軍による対独絨毯爆撃,米軍による対日焼夷弾爆撃といったように,無差別殺戮の先例をすでに数かぎりなく残した米英両国は,さすがにこれを戦犯追及理由にしなかった。しかし,撃墜された自軍パイロットの虐待・虐殺に関する米軍の容疑者追及は過酷であった。航空隊が撃墜されたさいに,僚機が撮影した墜落現場の写真,その日時と場所,生存の可能性などの報告にもとづき,終戦とともに行方不明者について執拗に調査した。
米軍は,無差別爆撃により一般市民が殺戮されていも気にしない一方で,諸都市を抹殺した爆撃機が撃墜され,地上に降下したパイロットを怒り心頭に達した日本人が殺害した事案については,捕虜に関する国際法に違反するとして容疑者を追及した。無差別爆撃の正当性とパイロット虐殺の追及とは矛盾しているが,こうした独善のまかりとおったのが,とくにBC級戦犯の裁判であった(この②における引用は,別冊歴史読本95『東京裁判はなにを裁いたのか-判決から60年,戦犯裁判の全貌に迫る-』新人物往来社,2008年3月,127-128頁)。
③ アメリカ軍B29搭乗員を戦犯として処刑した
日本陸軍中将を,B級戦犯として処刑した実例
昭和23年5月,岡田 資(たすく)陸軍中将はB級戦犯として,横浜の連合軍軍事裁判所で絞首刑の判決を受けた。第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官を務めた岡田中将が問われた罪は,日本本土を爆撃し,東海地方に降下したB29の搭乗員38名を処刑したことである。
すべては自分の責任であるとしながらも,岡田中将は法廷で強く訴えたのは,アメリカ軍は国際法に違反して,軍事目標ではない都市爆撃をおこない,多くの非戦闘員を殺傷したことであり,降下したB29搭乗員を調べた結果,無差別爆撃をおこなった者のみを処刑したことであった。
日蓮宗信者だった岡田中将は,昭和23年3月8日から68日間に及ぶ裁判を「法戦」と称し,無差別爆撃をめぐる戦いに正面から挑んだのである(前掲書,160頁)。
--米英もドイツも日本も,戦争状態に入った敵国に対する無差別爆撃を相互にもおこなってきた経歴をもつ「国」同士であった。第2次大戦で勝った連合国軍が,日本帝国がわの軍人たちを,国際法にもとづき,あるいはもとづかないで,B・C級戦犯やA級戦犯などに分けたうえで,戦争犯罪人として裁いてきたわけである。
「東京裁判(極東国際軍事裁判)」はたしかに「勝者の裁き」であり,問答無用の審理を強行していた。かといって,日本軍のおこなってきた数多くの「国際法」違反の戦争行為がみのがされていいという理由もなく,問題は複雑にいりくんでいる。
岡田中将がB級戦犯として「通例の戦争犯罪」に問われ,絞首刑を判決された実例は,いわばA級7名の絞首刑判決とともに,日本敗戦史の表舞台における出来事であった。彼ら以外にも,数多いB・C級戦犯が,あまりしられずに処刑されている。前掲の,別冊歴史読本95『東京裁判はなにを裁いたのか-判決から60年,戦犯裁判の全貌に迫る-』は,巻末特別資料に「戦争裁判『刑死者911名』一覧」を付している。
その一覧のなかには,「○のなかにK」「○のなかにT」というマル印が備考欄に記入されている「朝鮮人」「台湾人」〔原表の一覧には「韓国籍」「台湾籍」と書かれているが正確な記述ではない〕も,相当の人数がいたことがわかる。BC級戦犯としての処遇についていえば,植民地出身の軍人・軍属に対する「一視同仁」「八紘一宇」の「大和魂」が,みごとにも,ひとしく体現されていたのである。
④ BC級戦犯に関する最近の文献
A級戦犯に関する文献はたくさん公表されており,議論も活発であるけれども,B・C級戦犯に関する文献はあっても相対的に少ない。ここでは以下に,入手しやすい関連の文献を3冊だけ紹介しておく。下方2冊は新書判である。
★ 加藤哲太郎『私は貝になりたい―あるBC級戦犯の叫び-(新装版)』春秋社,2005年。
〔初版は,現代社,1959年〕。
★ 田中宏巳『BC級戦犯』筑摩書房,2002年。
★ 林 博史『BC級戦犯裁判』岩波書店,2005年。
Posted by ★ My name is BBG. I am a Scholar of Modern Management & Thought in Japan. ★ at 11:05:34
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