昨日の雨も上がり天気は上々です。6時起床7時にアラワを出発し長官機訪問の玄関口となるアクへ向かいます。これまた走行距離100km。三太郎峠を越え、革命軍のエリアを迂回して進むと言う行程自体難所です。また、襲撃が予測される日没までには必ずアラワの研修センターへ戻る必要があります。ブーゲンビル島の日没は5時40分。アク村への往復6時間、長官機探索4時間、8時出発とすると帰りは18時でギリギリです。 アラワを出て暫くたつと舗装道路は終わり、昨日と同じガタガタ道が続きます。1号車は昨日と同じく爆走を続けますが暫くすると2号車がついてこないことに気づきました。車を止め待っていると左後ろ側タイヤがパンクした状態で追いついてきました。2号車のスペアタイアは昨日使ってしまったので、1号車のスペアタイヤを使います。
10時頃ブインに到着。サイモン氏は車を降ると近くの建物にはいるとなにやら交渉しています。どうやら修理工場の様でスペアタイアを都合しているようでした。
10時50分。車はジャングルの小道で停車。草が切り開かれた車2台分ほどの空き地に乗り入れるとそこが有名なアク村の入り口でした。道路標識もなくジャングルに奥まった空き地・・としか見えないのですが良く分かるものだと感心します。しかし数分もするとどこからともなく住民が現れ結局30人ほどの人ごみとなりました。 これまた不思議なのですがジャングルで車が停車してもスグに人が現れます。 彼らの情報伝達はどのような方法が採られているのか?????。それとも常時相当数のフ人間がジャングルにいるのか???。謎です。
ここで昼食となりました。またサンドイッチですが、水はジャングルで絶対に必要なので節約するように・・とサイモン氏から指示が飛びます。
13時頃空き地を出発。10分ほど歩くと15m程の川がありザブザブと渡ります。川を渡るとアク村の中心らしく見渡すと10軒ほどの家、集会所が見えます。噂に聞いた高床式の住居で中には3階建てもあります。
村を抜け獣道にそって進むと途中、住民たちの畑があり、それをすぎると深いジャングルに囲まれます。道幅は狭いところで50cm程、広いところは3mほどありますが、概ね水がたまり泥沼と化しており足を突っ込むと靴が取られてしまう有様です。ジャングルブーツならブスブスと歩いていけそうですが普通の運動靴なので泥沼をよけ、滑りやすい路肩を枝や葉の堆積した場所を選んで進みます。 足場は悪く30分ほど進むと先頭と最後尾ではかなり引き離されてしまい疲労により歩けなくなったN氏(77歳)はもう立ち上がるのも難しい状態です。後続が来るはずなので暫く待ち、到着した後続のアク村住民にN氏を託して進む事にしました。
暫く行くと1人で歩くT氏(81歳)に追いつき細く獣道のようになった道を進みます。 ふと気づくと、いつのまにか数人の子供たちが周りにいて前に後ろについています。やがて2m程の溝に小川が流れる場所に出ました。子供たちは裸足でザブザブと渡っていきますが。右側を見ると太さ30cmほどの丸太が橋のようにかかっています。先行のT氏は丸太上を渡る事にしましたが、何たる事か!渡りきる間際で手にとった枝が倒れT氏は横になった状態で1M程下にある川に転落してしまったのです。 しかし不幸中の幸いできれいに川に落ちたので打撲も無く..ただカメラ等電子機器は壊れメガネを失いましたが...本当に不幸中の幸いでした。 あと後少しずれていたら土手に頭をぶつけて重大事故になりかねない状況です。
しかし川から上がった後は何事もなかったかの様に歩き墜落現場での慰霊祭の後、自力で戻ったのですから・・流石は元兵隊さんは筋金入りです・・・。
1時間もするとかなり疲れてきますが重大なことに気づきました。 あれほど水を節約する様言われていたのにボトルごと落としていたのです・・・。行きは特に節約せねばとガマンしていたのが裏目に出ました。途中、一緒に歩いていた現地の青年が道沿いになっていたカカオの実をくれました。チョコレートの原料となるタネの部分はマメみたいですが、タネの周りの部分は甘く(食べるところはあまりありませんが)ちょっと助かりました。
しばらくすると村民がが誰かをおんぶして猛烈なスピードで走ってきます。 見れば出発早々ダウンしてしまったN氏では無いですか!。N氏は村民の背中でニコニコしながらジャングルの奥へ消えていきました・・・・。そのあとも海軍旗を手に元水兵さんを肩車して猛烈なスピードで駆け抜けて行く村民がいました...全く持ってPNGの人々のパワーには驚かされます。 同行する子供たちの中にはどうみても4歳くらいのチビッコもいるのですが裸足でどんどん走っていきます。その後を10歳くらいの子供が我々から数メートル距離をおいて恥ずかしそうに見ながらついてきます。そう言えば、私の世代も小学生の頃は「外人」が珍しくて、観光地なんかであったりするとヤタラハシャイでたっけ???。
そして出発から1時間40分後。
村民の指さすところに翼の構造と思われる固まりが..そして左側には胴体外板と思われる2m程度のジュラルミン板が落ちています。見れば「三菱2656号」のステンシルがされていました。「三菱656号」は紛れも無く山本長官機です。さらに進むと広く泥沼と化しており足を取られながら進むとジャングルが開け、写真で良く見る潰れた胴体後部が姿を現しました。 現地にはすでにアク村村民が20人程いて機体に上ったり蔦を取り除いたりしています。
すかさず誰もいない尾部銃座に駆け寄ると回りこみ3mほど離れたところで・・・・我慢していたオシッコを放尿しました。 いや〜〜クツログゥ〜・・・・・と思いつつ英霊の怒りに触れチンコが腫れたりしたらどうしようなどとクダラナイ事を思いましたが〜出るもの所嫌わずです。
すると、おんぶ部隊で先に到着していたN氏が来て当時の模様を話してくれました。これはホントすごい事です。
幸いにして後続部隊が到着していなかったので胴体の進行方向前方のジャングルに入りました。こちらは道が無く地面は水で覆われていた為、倒木をつたって10mほど進みましたが木々の密度は高く視界は5m程で、結局それらしい物は発見できず引き返しました。
慰霊祭では写真家の板倉氏により、山本大将以下搭乗員を含む11名の名前と墜落経緯が説明された後、山本大将に縁の深い山口多聞少将のご子息宗敏氏が祭文を読み上げ、数十名の原住民の見守る中、拝礼が執り行われました。
終了後、大急ぎで機内の様子と周辺の部品を確認しました。胴体は後部ドアから1mほどの胴体結合部付近でちぎれており左右にエンジンが、前方に主翼の主桁と思われるパーツが落ちています。いずれも蔦に覆われ、引っ張った程度では取れない状態で歩く度にベコベコとジュラルミンの音がしていました。
機内は前から後ろに向かって床の波板がめくれ上がり、床の構造材も後ろに向かって壊れているなど墜落時の衝撃を物語っています。後部暖房扉は中央から右側にかけて大きく破損しており、投げ出された乗員が激突したのかもしれません。それに比べ後部機銃銃座は破損も少なく、特徴的なフレームを留めています。機体左側には細かな残骸が積み重ねられており、中に天蓋のフレームを見つけました。 また、「翼は還る」の写真によると機首のフレームもあるようで、墜落時に四散した以外にも意図的に分解された可能性もあります。
「山本五十六自決セリ」によれば埋められたと記されていますが根の張った地面に10mを越す機体を埋めるなど想像できません。実施したとしても相当な人手が要ると思われる為、N氏に「機体埋葬」の噂を聞いたことが無いかたずねたところ「機体を埋めた話は聞いたことが無く原住民が材料として使うのに分解したのでは?」との事で大がかりに組織だって「埋葬」されたとも思えません。 またN氏の語ったところによると、当時は盤根を持つ巨木が多くあったとの事でかなり現在とは印象が異なっていた・・との事で、なおさら木を取り除き機体を埋めるには相当の人工が必要な大工事となったはずです。 また、原住民に墜落したのが日本機であることを悟らせないようにしたとの記述も見られる事から原住民の手を借りて解体や「埋葬」をした可能性も低く思われます。だとすると「事後処理」は少数の日本兵によって行われ、尾部を残し胴体と機首部分を破壊した理由は山本大将が座っていたと思われる付近の弾痕を残したくなかった....つまり機上戦死の証拠隠滅と考えるのは映画ネタすぎるでしょうか????。
もう一つ長官機捜索に関する奇妙な出来事がありましオた。 長官機墜落の様子は、陸軍部隊の駐屯地であったアク村や道路工事現場から近かった事もあり多くの人々によって目撃され、概ね距離も分かっていたハズが、いざ捜索に出かけるとわずか4km先にもかかわらず何度も同じ場所に戻ったり、あげくに駐屯地に戻ってしまったりと誰も墜落当日、現場に到達できなかったのです。「山本五十六検死ノート」によると「南緯5度で日本製のコンパスが役に立たなかった」とありましたが、(情報の出何所は昭和42年に出版された蔵原惟和著”ブーゲンビル”)百戦錬磨の陸軍部隊が目的地に到達できないなどという事があるのでしょうか?。 ラバウルなどはさらに赤道に近いわけですがニューブリテン島の戦記でコンパスが効かなかった話も聞いたことがありません。
このミステリーを検証すべく、当時販売されたのコンパスで現地調査したところ....確かに針は南側に傾きますが「尻餅をつく」ほどではなく実用の範囲内でした。
よって、何故複数の陸海軍部隊が現場にたどり着けなかったのかはナゾです。
もし墜落当日長官機を発見し救出が成功していたら・・・おそらく歴史も変わっていたことでしょう。 「その時歴史が動いた」です。
そんな「歴史が動いた瞬間」に参加したN氏と61年後の同地nで遭遇するなどホントついてます。
慰霊祭が終わると早々に引き上げねばなりません。本当なら蔦をひっぺがして部品の部位を調べたりエンジンの焼け具合など確認したい事は沢山あったのですが...ともかく「日没までに帰る!」が重要課題ですのでモウレツに後ろ髪を引かれつつ現場を去る事になりました。
帰り道はGPSのトラッキングデータのおかげてアク村入り口までの距離が正確に分かっていたので精神的な疲労も少なく、途中の広場でアク村の方が採ってきてくれた椰子の実を飲んで休憩したりしつつも、行きと同じく1時間40分ほどでアク村に戻りました。
先に出発した先頭集団皆さんはもう余裕で村人と親交を深めており、青年社長にしてパイロットのカッコイイT氏などは村の女の子達にメチャメチャモテまくって「こんなにモテたの初めてですよ〜永住しちゃおかな〜」・・とニヤけておりました(またまたご謙遜を!)。
15分後、広場で休憩していた最後尾の集団もアク村の皆さんににサポートされ到着。 15時、村人総出と思われる観衆の中アク村を後にしました。
そして、本日のもう一つの目的であるブインでの慰霊祭(Aさんの父上の慰霊祭)を実施。バス停の近くだった事もあり100名を越えるブインの皆さん立会いのもと行われました。
16時ブインを出発。日没まで2時間を切り1号車2号車とも猛スピードでアラワへ向かいます。 途中時間があればキエタの三叉路にある零戦残骸を見たかったのですが・・・日没の18時頃キエタを猛スピードで通過。道沿いに展示してある零戦が夕闇にキエタいや消えていきました...残念。
・・・そして丁度日没と言う頃アラワへ無事帰着しました。 夕食後、ドロドロのクツを洗い下着を洗いお湯のでない冷たいシャワーを浴びていたら24時を回ってました。
ともあれ今回の旅行は本日 数十分滞在した長官機がメインで後は往復みたいなモノですから遠いところへ来たものです。
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