船の科学館           品川区/東八潮

 

45口径三年式40センチ砲2型
戦艦「陸奥」の主砲、厳密には41センチ(16インチ)、全長18.8メートル。
「陸奥」は、昭和18年6月8日、柱島泊地に繋留中であったが、午後12時10分頃、三番砲塔の下の弾火薬庫爆発事故により艦体を分断、瞬時に沈没した。
昭和45年から始まった引き揚げ作業で収容されたもの。

陸奥の主砲は長野県の聖高原、呉の海事博物館、津山の日植記念館にもある。

関連→陸奥記念館
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特務艦「宗谷」
戦闘艦ではないが帝国海軍の艦艇だった。
ソ連からの受注で中型貨物船(耐氷艦)として起工されたが、建造途中でソ連が契約を破棄したので民間会社が買い取り、昭和13年に竣工、「地鎮丸」と命名された。

昭和15年、海軍に買い取られ「宗谷」と命名された。終戦まではサイパン方面の洋上気象観測や、要地間の軍需品輸送の任につく。

敗戦直後は復員輸送のためヤップ、トラック、上海、基隆、高雄、サイゴン、胡蘆島などへ向かう。昭和24年からは海上保安庁に移管され灯台補給船となる。
そして昭和31年から37年まで6次にわたる南極観測船。「富士」と交代後は海上保安庁の巡視船となる。
昭和53年に解役、ここに永久保存となった。

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海をまもる 「日本海軍と海上自衛隊」

明治2年、大日本帝国海軍は軍艦3隻、輸送船4隻で発足した。
明治38年の日本海海戦では戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を中心とする「六六艦隊」を完成、バルチック艦隊を撃滅した。
昭和16年、対米英戦開始時には戦艦11隻、巡洋艦41隻、空母10隻を中心とする大艦隊に成長、その後の建造を加えると1600隻にまで達した。
しかし戦場でそのほとんどを失い、惜しくも帝国海軍は消滅した。

▲「大和」は昭和16年12月16日竣工した。これは沖縄特攻時の最終状態の模型。

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装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒーモフ」の主砲

35口径ウゴコフ式20センチ砲 全長7メートル
第2太平洋艦隊(バルチック艦隊)第2戦艦戦隊に編入され、明治38年5月28日、日本海海戦で魚雷を受け対馬沖で自沈。
昭和55年に金塊とともに引き揚げられた。当初、調査隊が大量のプラチナ発見と発表し、すかさずソ連は返還を要求、これに対して笹川良一氏は「なら、北方領土を返せ」と言い返した。
ただし、実際はバラスト用の鉛の塊であったらしい。

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長漁3705

北朝鮮工作船

平成13年12月22日、九州南西海域において海上保安庁の巡視船が追尾。停船命令を無視し逃走を続行、威嚇射撃に対して工作船から自動小銃、ロケットランチャーによる攻撃を受けた。
巡視船は20ミリ機関砲で射撃、工作船は自爆と思われる爆発で沈没した。

平成10年の覚せい剤密輸事件で日本の暴力団に覚せい剤を受け渡した「第十二松神丸」は、まさしくこの船と同一であった。

引き揚げに際しては了承を求めるなど中共政府に気を使ったりもしたのだが、この船の最後の給油地は上海南方の横沙島であった。
中共は北朝鮮の工作船を支援し、北朝鮮の日本人拉致や覚醒剤の密輸の片棒を担いでいたのである。

当初、日本政府はこの船を北朝鮮のものと断定するのにやたら及び腰であった。
「国籍不明」の「不審船」などと呼んでいたのだが、回収した多くの証拠から北朝鮮の工作船と特定した。
日本人拉致問題とからめ、北に対する日本の態度が大きく変わった瞬間であった。

工作船には2連装機銃をはじめ、携帯型地対空ミサイル、ロケットランチャー、軽機関銃、自動小銃、手榴弾など尋常ではない武器が装備されていた。
4基のプロペラが各々4基のエンジンに連結され、一般的な漁船の約10倍の馬力であるという。船尾には観音開きの扉があり小型舟艇が格納されていた。

平成16年2月15日でここでの展示は終了。
秋ごろから横浜市の海上防災基地で展示が再開される予定。
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二式大艇
平成15年12月7日、防衛庁への譲渡式が行われた。
平成16年1月現在まだここにあるが近日中に鹿屋に移される。

川西 二式飛行艇一二型[H8K2]
水上性能、航続力、速度と、飛行艇としては世界水準を超える優秀なものであった。
その高性能に注目した米軍は戦後、この機を空母で米国に運んだ。
バージニア州ノーフォーク海軍基地で調査されたあと、同基地内で手厚く保存された。昭和54年、盛大な返還式が催され、ここに展示されることになった。機体内は空調設備で保存状態を良好に保っているため、誰も入れないそうだ。
現存する二式大艇は世界中でこの1機のみである。

 

H16.1.18

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