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二式飛行艇を求めて・・・「船の科学館つれづれ」

 

あれは東京が臨海都市を開発しはじめた時だった。何もない空間に、ただ忽然とビルが建ち、東京国際展示場、通称「ビックサイト」が出来たばかりの頃、あるイベントに参加するため初めて新交通「ゆりかもめ」に乗った。

無人で運行される車両に緊張し、「レインボーブリッジ」のループなどに感心し、海と近代的なビルを眺めていると、ふと見慣れない飛行機のようなものが下の方に見えてきた。私は「ゆりかもめ」の中からその異様な姿を凝視した。のちに調べてみるとそれこそが「二式大艇」と呼称される飛行艇であると知り、その時以来いつ日頃となく、間近で機影を眺めたいと思うようになっていた。

 

 

あの時から何年も過ぎ去った。あの時とは比べようにないほど私の海軍に関する知識は広がっていた。

よく晴れた青空の下で想う。「よし、彼女に会いに行こう」と。ただ「二式大艇」に会いたいがために、私は「お台場」の地へと向かうことにした。

 

ゆりかもめ「船の科学館駅」。念願かなって、慌てて駆け出る。潮風を浴びながら私は、ただ一目散に飛行艇に向かう。心が高揚してくる。

日本で唯一現存した飛行艇。世界に誇る飛行艇王国を物語るため、ただ鎮座し続ける飛行艇。

「彼女」の前に立つ。その姿を間近に垣間見る。ただただいとおしく、そして震えが体を襲う。自然と手を合わせ、頭を垂れ、こみ上げてくるものをこらえる。悲しかった。けど純粋にうれしかった。

歴史を物語る生き証人。そのたましいを感じる。この偉大な存在と対面する。しばし向かい合い、そして巡る。私という存在が、海軍の遺産と対座する。深く考えることはなにもなかった。

 

 

「二式飛行艇一二型」(H8K2)

川西航空機設計・製作の日本飛行艇の集大成。各型合計167機製造された。同時代の外国製飛行艇を遙かに上回る性能を発揮。海戦後の昭和17年3月から参戦し、哨戒、偵察、連絡業務、輸送、爆撃などの諸任務に使われた。

船の科学館展示の二式飛行艇は詫間空から亜米利加軍の手に渡り、約30年間亜米利加本土にて保管されてきたが、破棄されることとなったため、「船の科学館」初代館長笹川良一氏が英断し、昭和53年(1978年)にノーフォーク基地から引き取った、現存する世界唯一の機体。

笹川良一氏はいう。「次代を担う青少年に本機の雄大な構想と卓越した技術力を知っていただくため保存展示」したというが、残念ながらこの心意気がどこまで理解されているかはわからない。

幸いにして見物は無料で出来る。つまり、野外展示されている、ということ。展示場所は潮風がかなり強い場所であり、吹きさらしの野ざらしで、私としては忍びなく、できれば屋内展示をお願いしたいとは思うが・・・。

番外
二式大艇の風景」にも写真掲載してあります

*2004年3月。「鹿屋基地史料館」に展示保管場所が移転されました。いまはもうここにはいません。

二式大艇
二式飛行艇一二型

二式大艇
南国のような・・・

二式大艇
正面は、スリム

二式大艇
全影

二式大艇
二式飛行艇一二型
全長28.13M、全幅37.987M、自重18380キロ
隣の「US−1A」と比べるのも一興かと。

自衛隊機
飛行艇なおまけ・・・。「US−1A」
岩国所属。稼働機はわずか7機
全長33.5M、全幅33.15M、自重25495キロ
海自下総航空基地にて撮影(99年)

 

これだけのために私はここにいる。でも味気ないので「船の科学館」も見学しようかと思う。

 

 

戦艦「大和」の模型がある。なにかうれしい姿。

この模型は、1981年公開の映画「連合艦隊」の撮影のために作られた艦であり、れっきとした船である。最初は埼玉宮代の東武動物公園に展示してあったというがいつのころからか(苦笑)、「船の科学館」で展示されている。20分の1スケールで制作費9000万円。石川島播磨重工制作。全長13.15M、乗員3名を乗せて自力航行が可能であるという。

でも、こんな変な情報は「船の科学館」では紹介されていないのでご注意を。あくまで、「大和」として紹介されているが、「大和」程度は知っていて当然だろうと思うので省略・・・。

 

船
20分の1スケール。
制作費9000万円、石川島播磨重工制作

船
模型といっても迫力満点
見てのとおり、最終改装済み

 

戦艦「陸奥」の主砲がある。正式には45口径三年式40センチ砲U型という。(実は41センチだが。)昭和45年に呉柱島泊地から引き上げられた4番砲塔が展示してある。

戦艦「陸奥」は、あの「水爆実験の餌食」とされた悲劇の戦艦「長門」の2番艦ではあるが、竣工当初から米・英国から難癖をつけられ、最後は昭和18年6月8日に呉柱島泊地での「謎の爆沈」で幕を閉じてしまった「陸奥」も悲劇の戦艦である。

「陸奥」に関しては吉村昭著『陸奥爆沈』(新潮文庫)に詳細が描かれているので、詳述を避けるが、いずれにせよ「船の科学館」である。「船」の話題には事欠かない。

 

陸奥

陸奥主砲
射程距離37.9キロ(約東京−戸塚間)
70秒で高度6000Mまで飛ばすという


 

が、疲れる。船一般の話題に溢れる中で、ある一角だけ密度の濃い展示がされている。「海上自衛隊」「海上保安庁」に「帝国海軍」の話。初代館長が笹川良一氏であることを鑑みれば、なるほどとわかるような雰囲気がわずかに残っていた。

 

 

館内を見学し、事についでに初代「宗谷」を見学する。やはり、文句なしに「艦」は良いものがある。そしてこの「宗谷」は改造を受けているものの「海軍特務艦」としての経歴も持っている。海軍艦艇の現存が皆無の中、わずかでもこの「艦」の存在は見逃せない。

 

「宗谷」

昭和11年に起工され、15年に海軍特務艦に編入。横須賀で終戦を迎え、引き上げ作業に従事し、昭和24年に海上保安庁所属となる。南極観測船に決定され改造を受け、昭和31年から南極観測に従事。昭和37年に第6次観測を終え帰港。海上保安庁に復帰し北洋警備等に従事し昭和53年10月、40年に渡る歴史に終止符を打ち、翌年5月から「船の科学館」で一般公開が行われている。

笹川氏はいう。「宗谷の船歴は私の人生とよく似ている。宗谷を展示することで世界中の子どもたちが明日への勇気と希望を持ってくれれば・・・」

 

その宗谷の隣には、こちらも栄光の歴史を持つ、青函連絡船「羊蹄丸」が係留されているが、こちらは「船の科学館別館」として、大改造を受けており、当時の船内はとどめていない。

 

船
南極観測船「宗谷」
総トン数2736トン

船
青函連絡船「羊蹄丸」

 

「二式大艇」に接し、「大和」「陸奥」を感じ、「宗谷」を想う。船を知り、船を学び、船に親しむ。平日でもあり、誰も気にならない空間で、私はのんびりと潮風を感じ、ただ悠然と時を過ごす。

 

 

笹川氏はいう。「海運、造船その他の海事産業は、日本にとって欠くことのできない重要産業ではあるが、これに対する一般国民の認識は、残念ながらまだ十分とはいえない。船の科学館は、『世界は一家、人類は兄弟姉妹』の理念の下に、日本国民、とくに未来をになう青少年に対して、海事産業についての興味を呼びおこさせ、その科学知識を深め、未来に対する夢を与えようとするものである」と。あの「笹川良一」がいう。多くの人はこの「笹川良一」なる人物を知らないだろ。私はこの人物が「船の科学館」に関係していることを知らなかった。「近代史」を勉強したことがある人間なら、もしかしたら聞いたことがあるかもしれない、という程度の人物である。もっとも、水面下では「かなりの大物」ではあるが・・・。いずれにせよ、あの笹川氏が残してくれた「海軍の遺産たち」に接し、私は「船の科学館」を後にする。

 

 

「青海客船ターミナル」。船に乗りたくなった。幸いにして科学館前から船が出る。船に乗ってどこかに行きたい。しかし、到底かなわぬ夢物語。気持ちだけは「クルージング」の気分で「水上バス」に乗る。夕日をあび、潮風をあび、船に乗る。

『海舟号』540名乗り。わずか3名の乗客を乗せ出航。お台場で10名ほどを乗せるが、いずれにせよ無に近い気分で、船を楽しむ。

35分間の幻想とともに日の出桟橋に到着。現実世界へと、再び呑まれることとなった・・・。

 

 

船

水上バスから望んだ海保船
測量船HL01「昭洋」

総トン数1874トン

昭和47年竣工

 

 

〈あとがき〉

2時間少々で仕上がり。今回は大した内容ではなく、中身も薄い。でも、「船の科学館」自体は非常に面白かったです。飽きもなく、ときどき見物しても良いかと思います。

 

〈参考文献〉

『日本海軍総覧』 新人物往来社 1994年

 『歴史群像』bP9 1995年6月号 学習研究社

 他、各種パンフレット及び案内板

 

 

 

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