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共戦の旅路

3月15日

名誉会長とのきのう・きょう・あした
第10回 草木は萌ゆる 東京・創価学園

未来に羽ばたけ君と僕
 
 草木は萌ゆる 武蔵野の
 花の香かぎし 鳳雛の
 英知をみがくは 何のため
 次代の世界を 担わんと
 未来に羽ばたけ たくましく
  
 創立者とともに歌う「草木は萌ゆる」。2004年(平成16年)3月16日。
 創立者は、一節一節、大きく右手を振りながら指揮を。その手はまるで、一人一人と“握手”を交わしているようだった。
    ◇ 
 1968年(昭和43年)の春、東京・創価学園は開校。
 その際、中高生162人が「栄光寮」に入寮した。
 “親元を離れて暮らす寮生活に誇りを”と、寮長の提案で「寮歌」の作成が始まったのは、この直後のこと。歌詞は続々と集まった。
 「寮生の頭の回転の早いこと。創造性あふれる頭脳であることに驚いている」。教員が学寮日誌につづった一文である。
 約60編の案のうち、一人の高校生が考えた歌詞が、皆の賛同で選ばれた。
 「何のため」――武蔵野の四季とともに、学園生活と人生の意味が“問い”と“答え”で詠われていた。
 創立者は「名曲が完成したね」と。4番までだった歌詞に、「5番」をつくって贈ろうと考えた。
 9月6日のグラウンド開き。寮生は「5番」が加わった“師弟の共戦譜”を、全員で力の限り大合唱した。
 創立者は語った。
 ――かつては、旧制高校の寮歌を歌った人が、日本の社会をリードしてきた。今度は学園寮歌を歌った人が、次代の指導者になっていくことは間違いない、と。
 そして、こう続けた。
 「寮歌が、日本中、世界中の人から愛唱される日も、さほど遠くないと確信しております」
 なお「5番」は、その後も推敲が重ねられ、現在の歌詞になったのは、発表から約2年後のこと。「寮歌」は、のちに「校歌」になった。
    ◇ 
 1994年(平成6年)8月10日。夏の甲子園大会1回戦。接戦を制した創価高校は、3度目の甲子園出場で念願の初勝利を飾った。
 
 富士が見えるぞ 武蔵野の
 渓流清き 鳳雛の……
  
 スタンドで、テレビ、ラジオの向こうで、学園校歌が列島に轟きわたった瞬間である。翌95年夏も、昨年夏も、“われらの校歌”が甲子園を揺るがした。
 開校から40年。卒業生は1万3000人を超える。博士、弁護士、実業家、公認会計士、教員、医師、俳優、国会議員……。学園で培った「負けじ魂」を胸に、社会に貢献し、勝利の旗を打ち立てている。
 “創価教育の源流”である学園は、日本有数の名門校になった。一級の知性が次々と訪れる“世界の学園”になった。
 “栄光の学園生”たちは今、「5番」を高らかに歌い上げながら、使命の大空を舞う。
  
 平和をめざすは 何のため
 輝く友の 道拓く
 未来に羽ばたけ 君と僕
 未来に羽ばたけ 君と僕
高校2年生の授業を参観(1980年11月14日)。生徒の中に入って。「休み時間に創立者の姿が見え、窓から『先生!』と叫びました。創立者は上を向いて手を振り、しばらくして私たちの教室に。感動で胸がいっぱいになりました」
愛する学園生に勇気と励ましを贈り続ける創立者・池田名誉会長(2004年3月16日、東京・小平市の創価学園で)。創価同窓の我らは、永遠なる友情のスクラムで進もう! いつまでも友とともに! どこまでも創立者とともに!
第2回の栄光祭で、学園生に、真心のスイカの差し入れを(1969年7月17日)。「一人も使命のない人はいないのです。全員が自信を持って、のびのびと、自分の前にある山を登りきっていこう」――創立者の言葉に瞳を輝かせる学園生
おめでとう!――5度目の夏の甲子園出場を決めた硬式野球部を祝福する創立者。94年に選手として、初めての校歌を甲子園に響かせた片桐哲郎監督(中央)と選手たちを激励(昨年8月1日)
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