二〇世紀ひみつ基地

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「ひまわり」がアゴラ広場のシンボルだった



昭和59年(1984)4月、秋田駅前「金座街」跡地に「買物広場」(アゴラ広場)とバスターミナルが誕生。そのシンボル的な存在が、太陽光自動集光伝送装置「ひまわり」であった。

広場の中央に設置された「ひまわり」は、球体に覆われた複数の特殊レンズで太陽光を集め、光ファイバーを通して地下商店街のフラワーショップに送る装置。

植物のひまわりのように自動的に太陽を追尾するレンズが太陽光の有害要素をカットし、有用な可視光線だけを地下に送るという画期的なハイテク機器で、夜間は幻想的な光を広場に放っていた。

昭和54年(1979)、慶応義塾大学理工学部教授・森敬(森ビル創業者・森泰吉郎氏の長男)が、一眼レンズのプロトタイプを試作、「森ビル」の建造に伴って浮上していた、日照権問題の対策が当初の開発目的だったという。

秋田駅前に「ひまわり」が設置された翌60年(1985)、「つくば科学万博」会場の「三菱未来館」前と「政府テーマ館」に展示されて注目を浴び、同じ年に開催された「ユニバーシアード神戸大会」の聖火「科学の火」は、「ひまわり」で集められた太陽光で点火された。

「ひまわり」はその後、森敬が起業した会社で商品化、家庭用から法人向けまで幅広いラインアップのシステムが製造され、レンズの改良を施した電源不要の太陽電池駆動式「ひまわり」の開発など、現在も進化を続けている。

設置から数年後、アゴラ広場の「ひまわり」は故障のため動きを止め、やがて撤去されてしまう。


07.04 アゴラ広場

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関連リンク

ラフォーレエンジニアリング株式会社
太陽光採光システム「ひまわり」製造元(森ビルグループ)

神戸の街のこんな星・中央区
現在は「神戸海洋博物館」に展示されている、つくば博の「三菱未来館」あった「ひまわり」。アゴラ広場にあったものと同タイプ。

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アゴラ広場(ひみつ基地内タグ検索)

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秋田駅前「金座街」晩期


新聞広告 昭和55年(1980)2月

秋田駅前のアゴラ広場からバスターミナルにかけて存在した商店街「金座街」の全店舗が、イラストで紹介された全四段広告。

右側の囲みに以下の文章。
“心ふれあうストリート”  金座街。
現在工場中の南工区と別に金座街は具体化した駅前開発の元に、旧高裁跡地(現・市営バス駐車場)へ地下1階、地上7階の近代高層ビルを建設し、一大ショッピングセンターとなる予定です。その間は、従来の金座街で楽しく明るいショッピング街として営業いたしております。
「本金西武」(現・秋田西武)と「秋田ビューホテル」が入居する「秋田中央ビル」が竣工するのは、これから四年後のことで、「金座街」の店舗が入居すること以外、まだ具体的な内容は決まってはいない。「イトーヨーカドー」を核テナントにした、「秋田ショッピングセンター」は工事中、オープンはこの年の10月である。

「本金西武」には大町の「本金」に入っていた店と、「金座街」で営業していた店の一部が入居することになるが、「金座街」組で現在の「秋田西武」で営業をつづけているのは、「橋本仏具店」「アザミ」「コニシ」「モリタ」「佐々忠」「ワタナベ時計店」「森長」「モード馬里奈」ぐらいなものか。
西側、広小路側より
洋服「かめや」、食器「さかいだ」本店、「レモンの部屋」「マルサたばこ店」、「アベニュー」、「寿山堂」分店、「みどりや鞄店」、「モリタ鞄店」、洋品「スワン」2F「美容室スワン」、「橋本仏具店」、「喫茶シャルダン」、「金萬食堂」2F「喫茶・菊」−−−中小路−−−「おもちゃミウラ」、靴の「ニュー東京」、時計・宝石・メガネ「ワタナベ」、レディス「ササチュー」2F「喫茶タンタン」、「モード馬里奈」、「ふき食堂」、「カトレア」、シューズ「ヤング・カワキタ」、L・LLサイズ「ミセス」、「小原糸店」、「金鳥園」、「レアルたけや」2F「コーヒー・サボウ」

東側、広小路側より
「ヒロコージ薬局」、「金福寿し」、「安兵衛・銀寿し」、時計・宝石・メガネ「コニシ」、食器「さかいだ」支店、洋服「マルセン」、ブティック「メメ」、「鈴木印章堂」、「金萬食堂」本店、婦人用品「マルキン」、−−−中小路−−−洋服「森長」2F「喫茶カカシ」−−−道路−−−「第3紳士服」、「カワカミ靴店」、洋服「佐々忠」、銘菓「金月堂」、呉服・服地「○島小売部」、服飾・手芸「アザミ」、「カフェ・メルカード」2F「リーブル美容室」


北側(広小路側)クリックで拡大

中小路北側、今の「秋田西武」の一角に、当時大流行したインベーダーゲームの専門店「インベーダーハウス」。

よく行ったのは、VANコーナーがあった「かめや」、ジーパンの「アベニュー」、定食類が安くてうまい「金萬食堂」。この時代「金萬」では、駅正面の「金萬売店」の隣で、秋田初と思われる牛丼専門店も営業していた。

「金萬食堂本店」の場所にかつてあったのが「マルシメ鎌田駅前支店」。


新聞広告 昭和43年(1968)


新聞広告 昭和49年(1974)

「レモンの部屋」の場所に70年代の一時期営業していた、アンアンショップ「さっちゃん」。


南側(中央通り側)クリックで拡大

「森長」の二階が「喫茶カカシ」、その建物と「第3紳士服」のあいだを秋田駅方向に進むと「平和通り」。

中央通り角、「レアルたけや」の場所にあったのが、お菓子の「丸丹」。その裏のあたりが現在の公営駐車場で、「金鳥園」は今も「金座街」時代とほぼ同じ場所の駐車場一階で営業している。その隣に「たけや製パン」系のパン屋「る・ぼんぐ」があったが、昨年閉店。

東角にコーヒー挽き売りチェーン店「UCCカフェ・メルカード」、ここの前身が「協働社金座街店」で、「メルカード」も「協働社」が経営していた。


昭和40年代 中小路から中央通り方向を望む

左「森長」右おもちゃ「ミウラ」


昭和50年代 「金福」前から南を望む


最晩期

右手では「秋田中央ビル」(本金西武、現・秋田西武)の工事中

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秋田駅前界隈・昭和四十年代初頭
銀座街・消えた駅前小路
平和通り・消えた駅前小路
末広町・消えた駅前小路

金座街(ひみつ基地内タグ検索)

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覚醒剤「ヒロポン」の時代


昭和十八年 新聞広告

秋田魁新報に掲載された中枢神経刺激薬、いわゆる覚醒剤の広告である。今では考えられないことだが、当時の覚醒剤に対する認識は「効果抜群の栄養ドリンク」程度でのもので、薬局に行けば簡単に購入することができた。

広告の商品は大日本製薬から発売されていた「ヒロポン」錠剤、「倦怠感、憂鬱感を除去して爽快活溌となし、又眠気の防止あるいは除去に偉効があり、医界各方面に異常なる注目を喚起しております」とのこと。しかし「ヒロポン」の実態は、一時的に「疲労倦怠感を除き、活力が増大」したように脳に錯覚させるだけで、薬が切れたときは何倍もの疲労感に襲われる傾向がある。

日本人が合成したメタンフェタミン製剤「ヒロポン」が市販されたのは昭和十六年(1893)、同じ年に武田薬品工業からアンフェタミン製剤「ゼドリン」も販売されているが「ヒロポン」のほうが効果的でよく売れた。

はじめは医療従業者の疲労回復や学生の試験勉強の際に使われていた覚醒剤、それに目を付けたのは軍部であった。夜を徹して働く軍需工場の作業員の眠気防止・疲労回復に使われ、視力向上効果があることから夜間監視の戦闘員、夜間戦闘機搭乗員などに支給され、「突撃錠」「猫目錠」などと呼ばれていたという。

こうして覚醒剤は時局に沿って「国策薬」としての役割を追わされることになるが、これはなにも日本に限ったことではない。米英をはじめドイツも兵士たちに覚醒剤を支給し戦意の高揚を図った。米国では第二次世界大戦以後も、ベトナム戦争、湾岸戦争を通じて、デキストロ・アンフェタミン製剤「デキセドリン」(通称・スピード)を一部の兵士に処方し続けた。


「ヒロポン」500錠入り

覚醒剤の弊害が表面化するのは戦後の混乱期こと。敗戦の精神的虚脱にともなう刹那的享楽主義が蔓延するなか、軍部がストックしていた「ヒロポン」が大量に流出し闇で安価に販売された結果、乱用による中毒者が全国的に広がりはじめる。流出したのは純度の高いアンプル剤。ヒロポン中毒は「ポン中」と呼ばれ、「ヒロポン」は「国策薬」から一転「亡国への魔手」と称されるようになる。

一般市民のほかに芸能人、文筆家、芸術家などアーティストの多くが「ヒロポン」におぼれた。小説家では織田作之助、坂口安吾の常用が有名で、「ヒロポン」の登場する作品を残している。

‥‥前略‥‥ヒロポンを用いて仕事をすると、三日や四日の徹夜ぐらい平気の代りに、いざ仕事が終って眠りたいという時に、眠ることができない。眠るためには酒を飲む必要があり、ヒロポンの効果を消して眠るまでには多量の酒が必要で、ウイスキーを一本半か二本飲む必要がある。原稿料がウイスキーで消えてなくなり足がでるから、バカげた話で、私は要するに、全然お金をもうけていないのである。
坂口安吾『反スタイルの記』より(昭和22年「東京新聞」)

 役者も踊り子も食えない。二日ぐらいずつ御飯ぬきで、ヒロポンを打って舞台へでる。メシを食うより、ヒロポンが安いせいで、腹はいっぱいにならないが、舞台はつとまるからだという。‥‥後略‥‥
坂口安吾『安吾巷談 ストリップ罵倒』より 昭和25年「文藝春秋」

昭和二十六年、「覚醒剤取締法」が制定され、覚醒剤の輸入、製造、譲渡、所持及び使用が原則として禁止されたが、勢いは止まらず、ピークにあたる昭和二十九年の検挙者は五万五千人を超え、潜在的な乱用者は五十五万人、中毒による障害者は二百万人と推定されていた。同年の県内に於ける検挙者は八十三人、この年大館市では、ポン中の青年が母親に「ヒロポン」を買う金を執拗にせびり、暴力をふるうのを見かねた兄が、弟を絞殺するという悲惨な事件も発生した。

その後の取り締まりの強化と経済復興により、約十年にわたる国内のヒロポン禍もようやく下火になるが、昭和四十五年頃から、今度は朝鮮・韓国ルートによる覚醒剤密輸入が徐々に増加しはじめる。

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関連リンク

「青空文庫」より、ヒロポンが登場する随筆及び小説

坂口安吾『反スタイルの記』
坂口安吾『安吾巷談 麻薬・自殺・宗教』
坂口安吾『安吾巷談 ストリップ罵倒』

織田作之助『土曜夫人』
織田作之助『郷愁』

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(2006/05)
佐藤 哲彦

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勝平得之「蛇柳夜景」広小路


勝平得之『蛇柳夜景』昭和十年

夜空に咲く花火を見上げる人々、穴門の堀の向こうに千秋公園の丘、そのてっぺんに三角の旗がなびいているのは、本丸に掲揚されていた気象予報の旗。昼は旗の色、夜間はサーチライトの色で天気を予報していた。広小路に面した堀端の大きな柳の木が表題の「蛇柳」。

右手の古川堀端町に料理屋のような二階建ての建物。柳の木の向こうに小さく描かれた樹木は鷹匠町の「鷹の松」か。

「蛇柳」が存在したのは、「木内」の向かい、古川堀端町通りへの曲がり角、大正末期から戦後まで「佐々木靴店」のあった場所である。

この時代、「蛇柳」の姿は建物に隠れて、広小路からは頭頂部しか見えないはずで、「蛇柳夜景」は勝平が実景をもとに再配置した風景ではないだろうか。

周辺は現在、既報のように建物が解体され更地になったため、「蛇柳夜景」とほぼ同じ視点から撮影することがができる。


08.01

左手に古川堀端町通り、右端に千秋公園の丘。

前回の「広小路より古川堀端町通りを望む」に掲載した画像を拡大すると、矢印の下に「蛇柳」らしき樹木がぼんやりと写っている。その右手の平屋建てが「蛇柳夜景」に描かれた二階建ての前身だろう。


矢印の下に「蛇柳」らしき樹木


03.05 中土橋より古川堀反通りを望む

上の画像から約八十年後の同地点。増改築されてはいるが、その位置と特徴的な屋根の形状から、戦後は旅館になっていた正面の建物(現在は更地)が「蛇柳夜景」に描かれた二階建てと同一物件と推定される。

●伝説の蛇柳

『羽陰温故誌』の「蛇柳神社」によれば、・・・広小路の堀端に妖しい小祠があり、祭神は不詳。祈願する者は編笠と七種類の菓子を供えるという。子供の夜泣きにこの笠を借りてきて、頭にかぶせると必ず霊験があり、そのため編笠と穴明き石が多く納められている。・・・と記されている。

大正の頃までは随分と遠くから参詣があり、参拝者たちは向かいの「木内商店」に寄るのが常で、木内ではそんな人たちのために食事などでもてなしたという。

『羽陰温故誌』に記された蛇柳神社は戦後、古川堀端町の「雄柳大龍王尊神社」に合祀される。


蛇柳の祠

かつては「蛇柳」の樹下に鎮座していたという石の祠。屋根の部分に「三つ星に一」の家紋がみえる。

「蛇柳」には、旧藩時代、柳を切り払った人夫が、柳の霊の祟りで急病にかかった、という伝説があり、「蛇柳夜景」に描かれた柳は「木内商店」の主人・木内隆一氏があとから植えなおしたものという。隆一氏の俳号「柳陀」は「蛇柳」にあやかって命名された。


「蛇柳」跡

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勝平得之(ひみつ基地内タグ検索)

広小路堀端・定点観察

堀端から消えた龍神さま

県民会館の土手から西を望む・大正期

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