島根県・奥出雲町
炎と戦い鋼生む 職人の技連綿と
日本刀を支える「たたら吹き」
松江からJR山陰線と木次線を乗り継いで約2時間、中国山地の山懐に抱かれ、鳥取県境に近い人口1万6000人余の奥出雲町に着いた。ここには、日本で唯一、本格的に操業している「日刀保たたら」がある。千数百年の歴史を持ち、独自の発達を遂げた「たたら吹き」。砂鉄と木炭を使って、鉄を精錬するという世界に類を見ない技術は、二度にわたり途絶えながらも、その都度復活、奇跡的に今日まで伝えられてきた。
不眠不休で砂鉄と対話
慎重に炉に砂鉄を注ぎ込む木原明村下(むらげ)(左端)。とぎすまされた感覚で炉の中の変化を読み取る
「やってごしなはーい(やってください)」――。出雲弁のかけ声が独特の抑揚で告げられた。操業の責任者・村下(むらげ)が、スキですくった砂鉄を慎重に炉の中に注ぐ。終わると、村下の「オーイ」という声にこたえて炭焚(すみた)きが、ざるの炭を入れる。30分ごとに繰り返される動作は、三昼夜続く。
縦2・75メートル、横0・95メートル、高さ1・25メートル。粘土製の炉には、ふいごから木呂管(きろかん)という40本の送風管を通し空気が吹き込まれる。人のうめき声のような音、炎が2メートル以上も上る。炉の中の温度は最高1400度。高殿と呼ばれる建物内で、炉を見つめていると、顔が焼けるように熱い。外に出てみた。窓にゆらめくオレンジ色の炎。単調なふいごの音だけが響き、満天の星が輝いていた。
たたら吹きは、表と裏の2人の村下によって行われる。最高責任者となる表村下の木原明(71)は、その技術を伝える第一人者。三日三晩、ほぼ不眠不休で炎と戦う。炎の色、勢い、不純物を含んだノロの色、粘り。五感を使い、炉の中での砂鉄の変化を読み取る。その昔、操業に失敗した村下は、職人としての生命を絶たれたというほど責任は重い。
4日目。午前4時、最後の砂鉄が投入されて最終段階に入る。「あとは残りの作業を手順通りにこなすだけ」。疲れ切った木原がホッとした表情を見せた。30分かけて炉が壊され、姿を見せた約2・5トンの鉄の塊、■(けら)を屋外に運び出す「■出し」で、たたら吹きは終了する。この■の内部に含まれる玉鋼(たまはがね)が、日本刀の原料として全国約200人の刀匠の元に届けられる。
危機を克服2度の復活
鍛刀の鎚(つち)を振るう三上貞直刀匠。たたらで生まれた玉鋼が美しい日本刀を作る
「日刀保たたら」は、日本刀の保存、鑑定を行う日本美術刀剣保存協会(日刀保)が運営することからそう呼ばれる。日本刀を作るための玉鋼の枯渇を憂えた人間国宝の刀匠・宮入昭平らが中心となり、「たたら吹きによる玉鋼生産を」と、同協会に要請。文化庁の許可が下りて1977年、奥出雲町で復活した。
太平洋戦争終戦で、たたら吹きが中止されてから32年がたっていた。存命していた2人の村下、安部由蔵、久村歓治とも70歳を超えていた。村下の技術は口伝。2人から技術を受け継ぐため、日立金属で銑鉄製造に携わっていた木原に白羽の矢が立った。「現代科学で不可能なものを、手作業で作り出す。うれしかった」。技術者の木原が、職人の道を歩み始めた。
安部の女婿で、木原に次ぐ村下となった渡部勝彦(67)は「あと10年遅れていたら、たたらの技術は残らなかったろう」と。安部は、93歳の天寿を全うするまでその技術を伝えた。現在、操業は厳冬期に2〜3回行われる。鉄の性質を極限まで追究した日本刀は、この玉鋼なくしては生まれない。
「ヒ出し」。ウインチで引っぱり出される2.5トンのヒ。高熱で生木のコロが燃え上がる
たたら吹きは、大正末期に一度消滅した。しかし、昭和の初めに良質な軍刀製造を企図した陸軍により1933年、鳥上村(現在の奥出雲町)で「靖国たたら」として復活。このときも村下は数人が生存しているのみで、かなりの困難を伴った。「日刀保たたら」は、この「靖国たたら」の遺構があったことで可能となった。
たたら吹きには、鋼を取るための「■押し法」と、銑鉄をとるための「銑(ずく)押し法」があり、日用雑器に加工される銑押し法が広く行われていた。江戸末期には、出雲は日本の全製鉄量の約7割をまかなう大生産地だった。木原は、多くの人に知ってもらうため、各地に出かけていく。町内の小中学生には、ミニたたらでの実演も行われ、1000年の神秘を伝える試みも続けられる。たたらの歴史を伝える絲原(いとはら)記念館常務理事の絲原安博(56)も「日本の歴史を1000年以上も支えてきた鉄の文化圏を世界遺産にしたい」と話す。
「日刀保たたら」の背後には、八岐大蛇(やまたのおろち)神話の舞台となった船通山がそびえている。製鉄の神である金屋子(かなやご)神が、シラサギに乗ってたたらを伝えたという伝説と、職人たちが1000年以上にわたって積み上げてきた神秘が生き続ける。神話の地には、「今」を寄せ付けない、不思議がある。
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(敬称略)
文・西村 純幸
写真・追野 浩一郎
亀嵩(かめだけ)
正式な町名は奥出雲町亀嵩。松本清張の「砂の器」で、殺人事件の謎を解く鍵となった地名だ。山間部の人口約1000人の集落だが、小説、映画、テレビなどで有名となり、湯野神社境内に記念碑も建立され、亀嵩駅には、ロケで使用された駅名板がある。映画でも登場する東北弁そっくりの出雲弁は、今でも老人の間で使われている。
たたら御三家
奥出雲町の絲原、桜井、雲南市の田部の3家。出雲の国を代表する豪農で、江戸時代には鉄師(てっし=製鉄業者)として、たたらによる製鉄を許されていた。絲原家は、たたら製鉄の様子を説明した模型や、代々の当主が集めた美術品を展示した記念館。桜井家は国指定重要文化財の屋敷と美術品。田部家は多くの土蔵群が見学できる。
出雲そば
たたら吹きに大量の木炭が必要だったため、木炭にする雑木を切った後を焼き畑にしてそばを植えるようになった。かつては奥出雲町一帯で栽培され、江戸時代には将軍家へ献上もされている。町内には多くのそば店があり「打ちたて、ゆがきたて」を味わえる。松江藩主松平不昧(ふまい)公が、野だてに持って行くために考案した「割り子そば」が有名。
ホッケーの町
1982年の「島根くにびき国体」のホッケー会場になったことから強化が進み、日本代表を輩出している。ほとんどの学校にホッケー部があり、人工芝のホッケー専用競技場も2面ある。競技人口は約400人。中学、高校は全国大会優勝の常連で、日本リーグ男子のセルリオ島根も奥出雲町にホームを置いている。
(2007年01月30日 読売新聞)