雑感
(この投稿は予告なく削除する)
ところで、「なぜ宮崎氏が」と読者は疑問に感じることと思う。当然、筆者も不思議に思った。いや、率直に言えば、嬉しかったのである。
それで話を受けてから、筆者も慌てて宮崎氏の主要な著作(併せてサブキャスターの堤未果氏の『貧困大国アメリカ』)を買い求め、筆者なりに考えたのである。
その結果、あるいはこういうことではないか、と思い当たることが出てきた。
氏は仏教者である。いわゆる中観派である。ナーガールジュナの『中論』を精読している。
それとこれと一体何の関係があると言うのか。
筆者は仏教の研究者でもなければ、オウム信者でもない。『心理諜報戦』は仏教の本でも、思想書でもない。
ところが実を言うと、筆者は同書執筆時、19年振りに『豊饒の海』を全巻読み返していたのである。米軍のPSYOP文書に見られる「seeds(種子)」という表現に引っ掛けて、「しゅうじ」(ビージャ)について脚注を付けたりしたのもそのせいである。本当はそんな注釈を加えねばならない必然性はどこにもないのだけれども、何かそういう奇行を促されるような力が作品に宿っているのだと思う。
とはいえ、唯識論など一切理解しておらず、それどころか阿頼耶識なるものも、輪廻転生もとうてい信じることはできず、宮崎氏も当然それらを否定しているはずである。しかし、そういう形で氏の注意を惹くところがあったのかもしれないと想像するのである。
これは齋藤孝氏みたいになってしまうのだけれども、筆者も真剣に読む本は全部音読している。というのも、読むのが苦手で、そうでもしなければ注意力が持続しないからである。だから、四巻全文を読み上げていたのである(まさに奇行)。
『心理諜報戦』は単に平板な、切り張りだけのとりまとめで、独自の知見も洞察もない。無論、文学書ではない。何よりも筆者には何の才能もない。それでも言葉の力を受けて、ごくわずかでも、何某かの「薫習」が起こるのではないかしらん、などと空想してみたりもしている。さらに妄想を膨らませて言えば、しかるべき読み手には何かが伝染するのかもしれぬ。
もう一つ言えるのは、「認知操作」をテーマとする以上、筆者も拙いなりに「因果」について考えざるを得なかったことである。これが究極的には、仏教の「縁起」の思想と交錯し、図らずも宮崎氏の中心的な問題圏域に踏み込んだのかもしれない。より正確に言うと、筆者には「縁起」の何たるかが理解できないけれども、おそらく何か関係しているのだろうと想像できるということである。
それに直観的に、ひょっとすると氏と筆者は、或る同じ作品に大きな影響を受けているのではないか、という気もする。しかし、それについて説明し始めると、必要以上に筆者の内面を曝け出してしまうので省略する。
ともかく、氏の精神は、何らかの形で『心理諜報戦』に感応したのである(と筆者は勝手に推測している)。
なぜこんな妙なことを書いているかというと、これこそがまさに「認知操作」という現象の核心だと思うからである。もちろん、筆者は氏に対して「認知操作」を試みたりはしていない。今まで氏の著作を読んだこともなければ、仏教者であることすら知らず、そもそもBS朝日の番組の存在すら知らなかったからである。たとえば、氏に番組で本を取り上げてもらうために、以上のような小細工を弄することは不可能である。余りにも原因と結果が遠い。
しかしながら、である。
たとえば、仮に内外の国家機関が何らかの意図を持って、氏の発言を特定の方向に誘導しようとした場合はどうか? 氏のコメントは潜在的あるいは顕在的に影響力が大きいから(テレビで流れるコメントの影響の大きさは論壇誌記事の比ではない)、そういう工作の対象となる蓋然性も皆無とは言えない。その場合、工作者は宮崎氏の書いたこと、言ったこと、すべてを研究・分析するだろう。個人にはなかなかできない作業だけれども、国家機関はその気になれば、それに近い作業もできるだろう。現に内閣情報調査室でも、すべてのテレビ番組を録画し、論調分析を行っていると聞く。さらに氏に関する、普通には入手できない、あらゆる個人情報を調べ上げたとしたらどうだろう?
おそらくそれでも、認知操作の種々の技法を使ったからと言って、氏に何か具体的な発言・行動を促すことは難しいだろう。しかし同時に、ある曖昧な漠然とした方向付け程度なら、あながち不可能とも言い切れないだろう。
たとえば、実際の経緯は以上のとおりだとしても、宮崎氏が新書をすべてチェックしていることをあらかじめ知っていれば、新書という媒体に掲載したメッセージは、かなりの確度で氏に到達することが予想できる。そうすると“操作”に伴う不確実性は減少する(重ねて断っておくけれども、筆者はそんな認知操作など試みていない。もし考えていたとしたら、本当に神がかりである。読者も常識的に分かると思うけれども、念のため)。
かかる世迷言について、筆者は氏に確認していない。初対面で唐突にそんな妄想を披露するほど筆者も大胆ではないからである。「いや単にネタの一つとして取り上げただけだよ」と言われる見込みのほうが高いのである。
以上は勿論、筆者特有の思い込みである。
当然、番組でもそんな話には一切踏み込まず、正直言って当たり障りのない話になっている。打合せの際、宮崎氏が「この本はかなり高度だと私は思うので、番組ではごく入門的な話にとどめたい」旨方向性を示したからである。だから、公安警察と公安調査庁の区別もつかない人向けの話になっているのである。
ともかく、筆者のたどたどしい、しどろもどろな語りで、肝心なことは何も伝わらず、せっかくの機会を台無しにしてしまった気もする。筆者はどうも話すことと、考えることが絶えずズレてしまうようなのである。今後こういう形での出演は控えていこうと思う。「影恥づかしきわが姿」は晒さないのである。もっとも、呼ばれることもないとは思うけれども・・・。