<社会の中へ>
◇リスク研究、やっと本格化--米から5年遅れて
■国策ゆえに
21世紀の夢の技術。こんな代名詞で語られる先端技術「ナノテクノロジー」推進は日本の国策だ。官民一体となった取り組みの端緒ともいえる04年5月の「ナノテクサミット」で、大会宣言をめぐる水面下の動きがあった。
サミットは東京都内のホテルで1500人を集めて開かれ、懇親会には小泉純一郎首相(当時)と閣僚4人も駆けつけた。大会宣言を作る過程で「ナノテクが社会に浸透した際に起きる安全性の問題を研究する」という内容を入れることが検討された。しかし、国策として盛り上げる時期に水を差すのはよくない、という意見が出て、その表現は見送られた。
ナノテクは、10億分の1メートルという微小な世界を操る技術。分子や原子の配列を自在に制御し、今までにない高性能な半導体や工業材料、革新的な治療を可能にする医療材料の実現が期待されている。
日本経団連の試算によれば、2010年の市場規模は27兆円。世界の競争も激しい。ある研究者は明かす。「省庁は政治家に配慮し、政治家は産業界の利害を背負う。国を挙げてナノテクで戦っていこうという時期に、安全性うんぬんという話はしづらい」
■二の足
リスク(危険性)研究で先鞭(せんべん)をつけたのは米国だった。00年、クリントン前大統領が発表した「国家ナノテクノロジー戦略」は、基礎から実用化まで研究を進めながら、健康や環境に及ぼす影響も研究することを重点課題に据えた。背景には、遺伝子組み換え作物での教訓がある。技術開発で成功しながら、社会がどう受け入れるかへの配慮を欠き欧州や日本で思うように普及しなかったのだ。
日本は00年度策定の「第2期科学技術基本計画」(01~05年度)で、ナノテクを重点4分野の一つに位置づけた。しかしその記述に「安全性への配慮」という言葉はない。経済産業省の研究会が「安全性の問題にも取り組む必要がある」という報告書をまとめたのは、05年3月になってからだ。
5年間の「時差」に、どういう思惑が働いたのか。ある官僚は「リスク研究を進めることが『ナノテクは危ない』という誤解を社会に広げるのではないかというためらいがあった。一方、リスク研究を米国に任せれば、ナノテク製品の安全基準を米国が決め、日本製品の参入を阻む展開になりかねない、という危機感もあった」と打ち明ける。
国が二の足を踏む間、リスク研究を細々と続けていた研究者もいる。直径1ナノメートルの新素材「カーボンナノチューブ」(CNT)の製法を発明した遠藤守信・信州大教授はその一人だ。「作ったモノが安全かどうかは、誰かが勝手に判断すればいいという姿勢では発展が遅れる。技術が社会に出てから毒性などのリスクが分かれば、人類に危害が及ぶ。税金を使って研究している社会的責任がある」と遠藤さんは言う。
遠藤さんは、CNTのリスク評価を、研究と並行して進めてきた。しかし、その研究費確保は容易ではない。遠藤さんのナノ材料を使い、動物実験を10年以上続けてきた小山省三・信州大教授(生理学)は、公的研究費をたびたび申請したが「連戦連敗」。「米国の研究投資を機関銃に例えるなら、日本は一発ずつ弾を込めないと使えない38式歩兵銃だ」と皮肉る。
日本のナノテク研究開発予算は年間約1000億円(05年度、内閣府調べ)。一方、リスク研究に充てている金額は1%に満たない10億円以下だ。
■向き合う
経済産業省は昨年度、5年間で20億円を投じるリスク研究プロジェクトを始めた。先端技術が社会に浸透する前からリスク研究を始めるのは、日本では例がない。
プロジェクトを率いる産業技術総合研究所(茨城県つくば市)の中西準子・化学物質リスク管理研究センター長(環境工学)は「リスクは管理できる」と言い切る。
「有害性情報があるからといって研究を中断すれば、新技術は生まれない。大事なことはリスクを知り、管理すること。安全なものを作るという点で日本企業の技術水準は高いが、これまではリスクを説明する姿勢に欠けていた。ナノテクのプラス面とリスク、その管理法まで提案して初めて、海外で認めてもらえる」
未知のリスクに誠実に向き合えるか。技術が社会に浸透するための試金石でもある。【下桐実雅子、元村有希子】
◇データ少なく、発がん性など未知
炭素原子でできたカゴ状の物質「フラーレン」は85年に発見され、発見者が96年にノーベル賞を受賞した。炭素原子が筒状に結合したカーボンナノチューブは強さが鉄の100倍という「スーパー素材」。いずれも半導体や燃料電池、医療への応用が期待されている。「ナノ」の効用をうたった化粧品も発売されている。
しかし、ナノ材料は人間の細胞より小さいため生体や環境に未知の影響を与える可能性が指摘されてきた。吸い込んだ場合に体内で分散しないか、どの組織に移動しやすいのかなど、正確なリスク評価につながるデータは不足している。
米国国立労働安全衛生研究所は05年12月、ナノサイズの酸化チタンについて、製造現場での作業環境基準値を従来のマイクロサイズより15倍厳しくすることを提案した。同研究所は「根拠は弱いが、職業性発がんの可能性がある」としている。
物質材料研究機構(茨城県つくば市)の竹村誠洋・国際室次長は「同じナノ材料でも有害、安全との主張があり、食い違いの原因が調べられていない。新たなデータの蓄積に加え、既存データの解析も必要だ」と話す。
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毎日新聞 2007年6月13日 東京朝刊