<社会の中へ>
◇「社会秩序と板ばさみ」
今年4月、日本産科婦人科学会(日産婦)の指針で認められていない代理出産などの実現を求める不妊患者たちが会見を開いた。女性の涙声の訴えが続いた。
「健康な人と同じように、好きな主人の子どもをこの手に抱きたいのです。そう思うのはいけないことでしょうか」
この女性は、生まれつき子宮がない。代理出産や夫婦以外の卵子を使った体外受精など、日産婦に反する不妊治療を続けてきた根津八紘(ねつやひろ)・諏訪マタニティークリニック院長(長野県下諏訪町)を頼り、実の母による代理出産を試みたが、出産には至らなかった。
会見を設定した根津院長は、この場で代理出産に協力してくれる女性の公募を明らかにし、涙を流しながら声を振り絞った。「なぜ幸せになりたいという患者の希望がかなえられないのか。幸せをあきらめねばならない患者を私は作ることはできない」
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「あのころとちょっと似ている感じはあります」
1983年、国内初の体外受精を東北大で実施した鈴木雅洲(まさくに)同大名誉教授(86)=スズキ記念病院長=は、最近の生殖補助医療をめぐる混乱への感想を語った。
当時、国内初の体外受精を試みようとしていた鈴木名誉教授のチームは、研究仲間からも批判された。「100人に1人ぐらいしか妊娠できない技術は医療ではなく実験だ。患者に使うなんてとんでもない」
このころ、世界では既に300人にのぼる体外受精児が生まれ、日産婦も容認に向けた指針づくりに着手していた。不妊の苦しみを解消する技術があり、使えば子どもを持てる夫婦がいる。せめぎあいの中でチームは「必ず臨床で役立つようになる」と実施を決めた。
実施に先立ち、医療関係者以外の人の意見も取り入れて国内初となる倫理憲章を作った。医師の独断での実施と批判を浴びた国内初の心臓移植(68年)を意識、「だれもが納得するやり方」にこだわった。
実施後には、「倫理的に認められない」などの批判が寄せられたが、患者から卵子を取り出す担当だった星合昊(ほしあいひろし)・近畿大教授(61)は「希望する患者の多さに驚いた」と振り返る。当時、東北大病院の不妊外来の患者数は年約1000人だったが、3月に体外受精による初の妊娠確認を公表すると、翌月だけで600人もの新患が訪れた。
星合教授は「東北大は当初、対象を卵管閉塞(へいそく)による不妊だけに限定した。体外受精を過度に普及させたくなかったからだ。個人的には自然妊娠が良いと思ってきた」。今でも星合教授は、患者が本当に自然妊娠できないかどうかを見極め、そのうえで体外受精に踏み切る。だが、一日も早い妊娠を望む患者の中には、待ちきれずに不妊治療専門のクリニックに移る人もいる。
「生殖補助医療技術を使う際、個人の利益と社会通念が相反することもあることが分かってきた。生まれてくる子どもの人権や法的地位に関する視点も忘れられがちだ。医師は、患者の希望をかなえたいという思いと、社会秩序やルールとの板挟みに苦しんでいる」
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日産婦によると、国内で体外受精など生殖補助医療技術で生まれた子は計約13万5000人に達し、04年は全出生数の約60人に1人を占める。不妊に悩むカップルが10組に1組以上。生殖補助医療が「日常的な医療」になった今、代理出産のような学会で認められていない方法が社会を揺るがせている。
星合教授は今年4月、日産婦の倫理委員長に就任した。就任会見で「(技術を使うことに伴う)倫理問題は時代とともに変わる。社会がその技術をどう考えているか、社会と話し合いながら、学会指針も時代に合ったものに見直していきたい」と述べた。鈴木名誉教授も「新しい医療が社会に根付くには、宗教、法律、経済、安全性など社会のあらゆる側面からの了解が必要だ」と指摘する。
一方、この分野では、技術の進歩によって新たな治療法が生まれると、患者に実施された後、関係学会などが追認する「事実先行」が繰り返されてきた。不妊患者らの自助グループ「フィンレージの会」の鈴木良子さんは現状を危惧(きぐ)する。
「『治療をやめたいが周囲が許してくれない』と悩む不妊治療中の女性もいる。治療が自分のためではなく、夫のため、家のためという例もある。生殖補助医療がビジネスになり、患者につけこんでいる現状もあるようだ。技術は恩恵をもたらした一方で、利用する人の葛藤(かっとう)を増やした。生殖補助医療をどこまで拡大すべきか、法整備を含めて社会全体で議論すべきだ」【永山悦子、下桐実雅子】
◇第三者関与で問題複雑に
卵巣から卵子を取り出す腹腔(ふくくう)鏡技術、卵子と精子を受精させるための培養液の開発など、当時最先端の科学技術によって、英国で1978年、世界初の体外受精児が誕生した。その後、他人の子宮に受精卵を入れて出産してもらう代理出産や、夫婦以外の卵子や精子を使った体外受精も、技術的に可能になった。養子縁組でしか子どもを持つことは不可能と考えられてきた夫婦に新たな選択肢が生まれた。
これらは第三者が関与するため、社会的に複雑な問題が出てくる。日産婦は「人体の道具化につながる」「子どもの福祉に反する」などから、原則として認めていない。米国での代理出産で双子をもうけたタレント、向井亜紀さん夫妻の出生届について、最高裁は、遺伝的な親子でありながら民法の解釈から、母子関係を認めなかった。
米国の病院への紹介をしてきた「卵子提供・代理母出産情報センター」の鷲見侑紀(すみゆき)代表は「国内で臓器移植を受けられない人も海外へ行く。生殖補助医療技術は、子どもができない人のために生まれた技術であり、不妊患者が使うことは止められない」と話す。
毎日新聞 2007年6月6日 東京朝刊