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第2部・科学技術は誰のもの/1 技術者集団「原子力ムラ」

服部拓也氏=木葉健二撮影
服部拓也氏=木葉健二撮影

 <社会の中へ>

 現代社会の便利な暮らしは科学技術に支えられている。しかし科学技術がもたらすのは恩恵ばかりではない。半世紀前、「夢のエネルギー」と歓迎された原子力発電はその典型だろう。今年3月、電力会社の総点検の結果、450件もの不正が隠ぺいされていたことが分かった。私たちは、今まで専門家に任せてきた科学技術の取り扱いを、見直す必要がある。第2部は、科学技術と社会との接点で起きている摩擦を見つめ、社会がどうかかわればいいかを考えたい。【西川拓、元村有希子】

 ◇「素人には分からぬ」--根強い閉鎖性、独善体質生む

 「原子力の技術者には、『素人の上司に相談しても理解できるはずがない』という意識があるようだ」

 北陸電力志賀原発1号機(石川県)で臨界事故が起きていたことが発覚した3月15日夕。東京・霞が関の経済産業省で、同社の永原功社長は記者に囲まれてこう語った。現場と経営陣の意思疎通の欠如を指摘されても「私は営業出身で……」と言葉を濁した。

 臨界事故は99年6月18日、定期点検中の作業員の操作ミスによって起きた。緊急炉心冷却装置は働かない状態で、原子炉暴走につながりかねない重大事故だったが、発電所側は身内で処理し、社内にも隠した。社長が事実を知らされたのは、公表の2日前だった。

 原子力技術者集団の閉鎖的な風土は長い間、「原子力ムラ」と呼ばれてきた。メーカー、電力会社、官庁、大学など「原子力開発の推進」を共通目標に掲げ、利害を共有する共同体である。

 ◇工程優先した組織

 NPO「環境エネルギー政策研究所」の飯田哲也所長(48)は80年代の6年間、メーカーと研究機関に勤める原子力ムラの「村民」だった。「世間と波風を立てず、予定通りに原子力施策を進めることが唯一の価値観。異論を許さない雰囲気があった」と振り返る。

 象徴的な経験がある。放射性廃棄物の運搬に関する国の安全審査を受けた時のことだ。官庁街の一室で「予備審査」があった。電力会社やメーカーの社員数十人がずらりと並ぶ前で、審査を担当する官僚が書類を一枚ずつ点検し、「この書き方だと(審査には通っても)反対派に突っ込まれるね」と修正を指示した。安全そのものの審査よりも反対派対策。「シナリオ通りに演じる茶番」と飯田さんはあきれる。

 米ゼネラル・エレクトリック社の関連会社の元技術者、菊地洋一さん(65)=宮崎県串間市=は「ムラの中に、国、電力会社、メーカーという3層構造があり、メーカーは自分に不都合な情報を電力会社に伝えない。こんなことは日常茶飯事だった」と証言する。

 菊地さんは70年代、東京電力福島第1原発6号機(79年運転開始)の建設で工程管理を任された際、原子炉格納容器内の配管に“欠陥”を見つけた。検査用の穴をふさぐ栓が長すぎ、配管内部に最大1・8センチも飛び出していた。高温高圧の水や蒸気が流れる配管に出っ張りがあると流れが乱れ、配管が傷みやすい。上司に報告したが、施工業者の判断で工事はそのまま進んだ。「業者は『危ないからやり直す』とは言えない。工程が遅れれば東電は怒って、次から契約できなくなるからです」。安全性より組織が優先される風土だった。

 東電は毎日新聞の取材に「指摘の配管は88年の定期点検で、別の理由で交換した。たとえ突起があっても安全上の問題はない」と回答した。

 閉鎖的な体質の背景を、班目(まだらめ)春樹・東京大教授(原子力社会工学)は「ちょっとしたトラブルで社会は騒ぎ、説明しても分かってもらえない。そんな経験が『素人にはどうせ分からない』という傲慢(ごうまん)につながった。『トラブルを公表して運転が止まると困るのは国民なんだから』という独善もあった」と分析する。

 ◇追い風、米で商機

 信頼が地に落ちた原子力だが、今追い風が吹いている。

 原油価格の高騰や地球温暖化への懸念。政府は05年に策定した原子力政策大綱で、2030年以降も発電量の30~40%以上を原子力でまかなうと宣言。06年には「原子力立国」を掲げた。米国も約30年ぶりに原発の新規建設に踏み出した。

 ある重電メーカーの原子力担当役員は「長年建設のなかった米国より今は日本の技術が上だ。このビジネスチャンスにムラ社会などと言っていられない」と、ムラ社会からの脱却に楽観的だ。

 しかし、原子力業界ではこれまで、高速増殖炉「もんじゅ」事故(95年)や東電のトラブル隠し(02年)など、ムラの体質が問われた事件が繰り返され、業界はそのつど、変革を訴えてきた。

 ムラは変わったのか。飯田さんは「変わったと言っても、封建時代が戦前に変わった程度。大綱の議論の過程に反対派も参加したがほんのわずか。ポーズにしか見えない」と冷ややかだ。

 ◇チェルノブイリ事故以降、積極推進派が激減--国調査

 日本では66年、商用原子炉が稼働した。平和利用を大原則として進められ、現在は発電量の3割を原発が占めている。

 過去の国の世論調査によると、「将来は原子力がエネルギー源の主力になる」と考える人は68年調査から90年調査まで毎回、ほぼ半数を占めてきた。しかし、76年調査では半数を超えた「原子力発電を積極的に進めるべきだ」という意見は、スリーマイル島原発事故(79年)、チェルノブイリ原発事故(86年)などを経て激減。87年以降は積極派が1割を切り、「慎重に推進すべきだ」という意見と「現状より増やさない・廃止」という意見に二分された。

 東電によるトラブル隠しが発覚した後の05年調査では、原子力発電に不安を感じる人が66%で「安心」の25%を大きく上回った。不安な理由は(1)事故の可能性80%(2)海外での事故44%(3)虚偽報告などの不祥事39%。「事業者の情報公開が不十分だから」も32%だった。

 こうしたイメージは原発の新規建設を難しくした。原子力業界が採用を絞った影響で、90年代には大学の原子力工学科や原子核工学科が次々と別の学科に改組され、原子力を担う人材の不足も懸念されている。

 ◇人類共有の財産だ--日本原子力産業協会副会長・服部拓也氏

 「原子力ムラ」の内部の人々は、社会をどのように眺めていたのだろうか。東京電力で35年以上にわたって原子力に携わり、昨年、原子力推進の業界団体「日本原子力産業協会」副会長に就任した服部拓也さん(62)に聞いた。

 --東電に入社した1970年当時、原子力は社会でどう受け止められていたか。

 高度経済成長の真っただ中で「夢のエネルギー」と言われ、協力的な雰囲気だった。ただ、国民が原子力についてあまり知らなかったからだったとも思う。

 --今は社会の見方もかなり変わったが。

 一番大きかったのはチェルノブイリ原発事故。原発反対派と対話する仕事もしたが、事業者の説明に大いに問題があった。原子力は「希望の星」だから、面倒なことにしたくないという気持ちもあっただろう。「絶対に安全」などと簡単に言い切ってしまい、疑問を入り口でシャットアウトしていた面がある。

 --いわゆる「原子力ムラ」か。

 高度な技術を任されているという自負の裏側に「自分たちが分かっていればいい」という意識があった。かつては社内にも専門家に任せる空気があった。しかし、東電では福島第2原発3号機のポンプ事故(89年)後、経営側がかなり原子力の現場に入ってくるようになり、「ムラ」意識は弱まったと思う。

 --でも改善されなかった。

 「結果的に安全だったからいいじゃないか」という独りよがりな考えになっていた。よそで起きた問題を自分の問題として考えられなかった。

 --原子力技術は誰のものだと思うか。

 人類共有の財産だと思っている。

 --そうなっていると思うか。

 本当に社会に受け入れられているかと言えば、今はまだ、何かあればすぐに崩れてしまうような段階。社会としっかり付き合って受け入れられた上で、世界で上手に扱っていく道を探るべきだ。【聞き手・西川拓】

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 ■人物略歴

 ◇はっとり・たくや

 44年生まれ。東京大大学院工学系研究科(機械工学専攻)修士課程修了、70年東京電力入社。一貫して原子力畑を歩み、原子力技術課長、原子力計画部長、福島第1原発所長、原子力副本部長、副社長を歴任し、昨年6月から現職。

毎日新聞 2007年5月30日 東京朝刊

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