<社会の中へ>
第1部「科学と非科学」では、科学的な雰囲気をまとう「ニセ科学」の実態などを描きながら、信じてしまうからくりや、科学との違い、見極め方について考えてきた。社会はどう向き合えばいいのだろうか。識者に聞く。
◇「中立」踏み越え警告を
今の社会には「科学がすべてを解明してくれる」と誤認している人が多い。確かに科学は生活の役に立ってきたし、寿命も延ばしてくれた。ここに誤認のもとがあるようだ。科学にも解決できないことはたくさんある。にもかかわらず、科学が答えを出してくれるに違いないと考えている。
ダイエットにしても健康にしても、1日で手に入るわけはない。だが「手っ取り早く結果がほしい」との気持ちはあるし、時間に追われる現代人はコツコツ努力するという考えが希薄になっているようだ。科学的な装いで人々の気を引こうとする疑似科学ビジネスは、ここにつけ込んでいる。
人は生きていれば「山」もあれば「谷」もある。谷のときには「このまま不幸が続くのではないか」と不安になり、先行きを照らしてくれるものに頼りたがる。それは占いだったり、幸運グッズだったり、疑似科学ビジネスだったりする。
占いやおみくじは個人の楽しみの側面もあるが、疑似科学ビジネスは科学的な効能をうたうだけに悪質だ。証明されていなくても、「まだ研究中であり、害はない」と言い訳する。
被害は、だまされて金銭的に損をしたというだけにとどまらない。明確でない科学的効能を人々がどんどん信じていくことにより、いろいろなことを吟味せずに受け入れ、無条件で信じることに慣れてしまう。疑うことを知らない人は政治的な主張も無条件で受け入れるようになるのではないか。悪くするとファシズムを生む土壌になりかねない。
「疑う」ことにはエネルギーがいる。信じて受け入れる方が楽だ。だが、この「しんどさ」が一番大切だと思う。与えられた情報に簡単に同意せず、批判的に考えてみることが、正しい判断や選択につながる。
私は科学者たちに「社会のカナリア」になってもらいたい。昔、炭坑にはカナリアを入れた鳥かごを持って入った。カナリアは微量な有毒物質にも反応し鳴き声を上げ、人を危険から救った。科学者は少なくともある程度、疑似科学が持つ「いかがわしさ」を見抜く目を持っている。科学者は炭坑のカナリアのように、いち早く鳴き声を上げ、社会に警告を発してほしい。
私は、親類から新商品について「買っても大丈夫か」と相談を受けることがある。「やめた方がいい」とか、「効果があるかどうか分かる数年後に支持されているようだったら、検討してはどうか」と話し再考を勧める。多くの科学者は、いかがわしさを証明することを面倒がり、声を出してこなかったが、全国の科学者が身近な人々に語りかけることから始めてほしい。
科学は本来、「価値中立」と言われる。科学者が生み出す成果に善悪はなく、使い方によって良くも悪くも働くという意味だ。科学者は、その使われ方を見ればどんな方向へ進むのか判断できる。誤った方向へ進もうとしていることに気付いたなら、「中立」の立場を踏み越えてでも問題を指摘し、危険性を社会に警告すべきだ。【聞き手・永山悦子】
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■人物略歴
◇いけうち・さとる
44年生まれ。72年京都大大学院理学研究科博士課程修了。国立天文台教授、名古屋大大学院教授など経て、06年から現職。専門は観測的宇宙論、科学・技術・社会論。
毎日新聞 2007年3月14日 東京朝刊